学び!とPBL
学び!とPBL

本連載が始まってもうすぐ7年となります。この連載のサブタイトルは「未来を切り拓く教育をみんなでやってみる」です。理論を頭の中で組み立てるのではなく、まずは子どもたちと動き出すことの大切さを書き記してきたつもりです。しかし筆者自身が実践の現場から離れて久しく、「みんなでやってみる」になっていないと考え、一区切りをつけさせていただくこととなりました。今回と次回とで、ここまでのまとめを書かせていただきます。
1.PBLにこだわる意味
美術教育を専門とする私がPBLにこだわり続けたのは、子どもたちの「○○を実現させたい」「助けてやりたい」といった現実的な目的を達成する上で、PBLは手段に制約がないということが理由の一つです。学校で教える「教科」は大切です。教科の一つひとつは、現実の問題を解決するための「足場」「足がかり」になり得ます。しかし、たくさんの教科を教えれば、自動的に子どもたちの中でミックスされ、目的を達成するための手段が生まれるかというと、必ずしもそうではありません。英単語をたくさん覚えれば英語が話せるようになるのではないのと同じように、知識や技術の集まりが手段に変化するには次元の異なる変化が必要です。
図1 東日本大震災の避難所で その変化とは、「英語を話さざるを得ない状況に追い込むこと」、つまり「そうせざるを得ない状況に出会い、自ら何かしらの行動を起こそうとすること」です。若い教師が校内暴力に遭遇し「この学校をなんとかしたい」と思ったり(本連載 Vol.02 PBLのはじまり①)、東日本大震災で「目の前の子どもたちを助けてやりたい」と考えたりする(本連載 Vol.04 PBLのはじまり③)退っ引きならない現実との出会いが、人々との新たな連帯を生み、実践がつくられ、結果として新しい能力と方法が生み出されるのだと思います。
PBLは特別な状況にある特別な人だけが必要なのではありません。人類が今直面している環境問題や平和の問題、日本が直面する人口減少や少子高齢化、それらへの危機感を真摯に感じ、何とか行動を起こしたいという人は少なくありません。すべての現代人は退っ引きならない状況に追い込まれているのです。むしろそうした状況を見えなくしている「何か」を取り除き、問題意識を直接行動に移すことが必要な時代となっています。
2.エージェンシー──「世界への参画」
図2 大震災ボランティアに志願する学生たち 全体を貫くキーワードは「エージェンシー」でした(本連載 Vol.23 Education 2030と新しいコンピテンシーの定義②)。一般的には主体性や当事者意識などと解されますが、私は勝手に「世界への参画」と意訳しています。生徒一人ひとりの能力を指す概念ではなく、個人と個人、個人と世界との関係性を意味する概念だと考えています。自分が周りの世界にどれだけ関与しているかによって、問題意識のレベルは異なります。
図3 子どもたちを励ますワークショップ OECD東北スクール(本連載 Vol.05〜10)で得た最も大きな知見は、子どもたちは「異質との接触」を通して学び、成長していくということでした。他者の視点で住み慣れた「日常」を捉え直すことで、それまで気づかなかった強さや弱さを知り、同時に多様な価値観を会得し、「日常」をつくり変える糸口が見えてきます。その「異質」とは、異世代だったり、学校の外だったり、海外だったり、失敗体験だったり、自然災害だったりするかと思います。言い方を変えれば「生々しい現実」「抜き差しならない状況」「真正性(オーセンティシティ)」と言えるかも知れません。それらの気づきや出会いには、多くの場合「痛み」が伴います。自分がこれまで理解していた世界の、その真相は少し違っていた、全く異なるものだったと知ったとき、傷つくこともあればめまいを感じることがあるかも知れません。「アウシュビッツの悲劇」や「大震災時の救命活動」、「ウクライナの子どもたち」など、まさにこれに当たると思います。これらはエージェンシーを考える上で重要なヒントを含んでいるものと思います。
3.体験の「異質性」
総合学習や探究活動が活発になるにつれてこのような異質との接触を内容とする実践は増えているように思えますが、問題はそれらが本当に「異質」になっているのか、ということです。ややもすると、それらは学校の境界をただ広げている(同質の拡張)だけ、コンフォートゾーン(快適な場所)の拡張ということも少なくありません。子どもたちが総合学習で学校を離れ町歩きすることは認識の幅を広げる貴重な機会ではありますが、それがここでいう異質性との接触かと言えば、必ずしもそうではないと思います。町歩きの最中、何かイレギュラーなこと、例えば高齢者が転んで動けなくなったところに遭遇し、これが「異質性」となって、高齢者を助けつつ高齢者に優しいまちづくりを考える展開になるかも知れません。
図4 子ども支援のケーススタディ学習会 学校の教師は混乱を避け、整然とした時間と空間と、最近では人間関係まで整理した状態で教育活動を展開しようとします。ある小学校のサツマイモ掘り体験で、畑の前で6人ずつ一列に並ばせ、一人1個掘り出したら次の人に替わるというのですが、これが体験にすらなっているのかどうか疑問です。本来の活動では様々な想定外、つまり虫がいて騒いだり、子ども同士でいざこざが起きたりして、雑然とした整理しきれない様々な要素が生まれます。私たちが対峙している社会とは、このように整理されていない、混沌とした性質が主で、予め一つの答えが準備できている状況は希有です。教育の本質とは、時間軸に沿った整然とした物理的な変化ではなく、異質なものとの不可逆的な化学反応にあり、今は存在しない答えをつくることだと思います。