大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史

BC級戦争裁判とは 前編
その根拠・実態・処遇

裁判の根拠

 映画「明日への遺言」(学び!とシネマVol.24にて掲載)が静かな感動をよんでいます。主人公岡田資(たすく)中将はB級戦争犯罪者として裁かれました。この裁判は、アメリカ第8軍が管轄した横浜軍事法廷において、1945年6月に名古屋市の絨毯爆撃をして捕虜となったB29搭乗員を、国際法が禁止している、無差別爆撃によって非戦闘員である市民を殺戮した罪で処刑した事件を審理し、その責任者として東海軍司令官岡田資中将を死刑に処したものです。
画像:明日への遺言 (C)『明日への遺言』製作委員会 これらの裁判は、1945年8月15日に受け入れたポツダム宣言、9月2日の降伏文書調印で、連合国軍総司令官の占領下におかれた日本が「ポツダム宣言の条項を誠実に履行」するために、1946年1月19日に定めた極東国際軍事裁判所条例(極東軍事裁判所憲章)によっています。
 この条例の第5条(人並びに犯罪に関する管轄)は、1945年8月8日に米英仏ソが締結した「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処刑に関する協定」(ロンドン協定)により調印された、国際軍事裁判所条例第6条の戦争犯罪の三類型を一部変更したもので、次のように規定しています。

本裁判所は、平和に対する罪を包含せる犯罪に付き個人として又は団体員として訴追せられたる極東戦争犯罪人を審理し処罰するの権限を有す。
左にあぐる又は数個の行為は個人責任あるものとして本裁判所の管轄に属する犯罪とす。

  • (イ) 平和に対する罪 即ち、宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争、若しくは国際法、条約、協定又は誓約に違反せる戦争の計画、準備、開始、又は遂行、若しくは右諸行為の何れかを達成するための共通の計画又は共同謀議への参加
  • (ロ) 通例の戦争犯罪 即ち、戦争の法規又は慣例の違反
  • (ハ) 人道に対する罪 即ち、戦前又は戦時中為されたる殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、その他の非人道的行為若しくは犯行地の国内法違反たると否とを問わず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として又は之に関連して為されたる政治的又は人種的理由に基づく迫害行為

 上記の犯罪の何れかを犯さんとする共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に参加せる指導者、組織者、教唆者及び共犯者は、斯かる計画の遂行上為されたる一切の行為に付き、その何人によりて為されたるとを問わず、責任を有す

裁判の実態

 ここに「戦争犯罪者」は、A級「平和に対する罪」、B級「通例の戦争犯罪」、C級「人道に対する罪」の三類型にもとづき、裁かれたのです。
 A級、B級、C級は条例の(イ)が英文の(a)に該当したことによります。ちなみにA級戦犯は「戦争指導者」をさし、東京市谷の旧陸軍士官学校に設置された極東国際軍事裁判所で裁かれました。B級戦犯は軍の上級指揮官を対象に、残虐行為や捕虜虐待などを指揮、命令し、あるいは部下がこれらの行為を行うことを防止しなかったがために罪に問われており、C級戦犯はこれらの行為を直接行ったことについての罪が問われたのです。
 BC級の裁判は、その地域を占領した連合国各国の管轄下、それぞれ独自の裁判規定で実施されました。岡田中将を裁いた横浜軍事法廷のほかにアメリカ4ヶ所、イギリス11ヶ所、オランダ12ヶ所、オーストラリア9ヶ所、中国10ヶ所、フランス及びフィリピンが各1ヶ所の48ヶ所。ここに起訴された件数は2,244件で5,700人が起訴され、死刑判決が920人、終身刑判決が383人、有期刑判決が2,287人で、無罪判決が640名、合計4,830名と、法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判概史』が述べています。
 BC級裁判では、被告が恣意的に選定され、人違いで処罰された者が少なくありません。ずさんな伝聞調査、虚偽の証言、通訳の不備にくわえ、裁判執行者の報復感情もあり、かつ命令を下した上級指揮官の責任回避、検察側の証言の一方的採用など、ある種の「復讐劇」の観を呈した場面もみられました。そのため、いわれ無き無実の罪を負わせれて刑場に屍をさらさねばならなかった者も多くありました。

講和後の処遇

 日本は1951年9月8日のサンフランシスコ平和条約で独立します。条約第11条は、「戦争犯罪者」につき、「これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基づくの外、行使できない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基づくの外、行使できない。」と規定されています。ここに国内では、条約締結を受け、戦争犯罪の受刑者釈放に向けた動きが始まります。
画像:『東京裁判』 (C)講談社 講和の翌年1952年には、6月9日の参議院本会議で「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、衆議院本会議では12月9日に「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、ついで翌53年8月3日に「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」、55年に「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がおこなわれました。
 ここに日本国政府は、裁判に関係した11ヶ国の同意の下、1956年にA級戦犯を、1958年までにBC級戦犯の赦免・釈放をしました。すでに1952年5月木村篤太郎法務総裁は、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」と取り扱うとの通達を出しておりました。そのため1952年4月に施行された戦傷病者戦没者遺族等援護法の一部を改正し、戦犯としての拘留逮捕者を「被拘禁者」として取り扱い、拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給するようにしました。
 こうした処置は国内法上「戦犯」は存在しないということか、との質問に対する政府見解は「赦免、刑の軽減、仮出所等の事実はあるが、その刑は、わが国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」というものです。思うに国家は、このように「戦争犯罪者」を位置づけることで、「大東亜戦争」とは何であったのかを問い質す場に眼をつむり、戦争をめぐる記憶を遠い過去の帳に封じ込めていきます。

 それだけに現在問うべきは、国家を体現した存在であったA級戦犯の政治責任を論じる以上に、BC級戦犯とその家族が負わねばならなかった世界から日本と日本人のありかたを見つめ、国家に対する己の場を確かめることではないでしょうか。人間が人間でありうるとはどのようなことなのでしょうか。そのためにも刑場に亡びた人びとの声に耳を傾けたいものです。
 「明日への遺言」の原作である『ながい旅』(発行:角川書店)の作者大岡昇平は、『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』を書くことで、過酷な従軍体験を反芻(はんすう)し、人間としての私の場を問い質しています。戦争犯罪とは何なのでしょう。吉村 昭の『遠い日の戦争』も「戦犯」と断罪された男の逃亡の日々を描くことで、敗戦日本の荒涼たるすがた、現在を生きる人心の原風景をみせてくれます。

 そこで次回は、こうした「戦争犯罪者」処罰の構造をふまえ、BC級戦犯の呻きに耳を傾けることで、処刑を前に日本の明日に何を託そうとしたか、その声を聞きとりたいと想います。