「唐松造砂磨棚」 氷見晃堂作

唐松/指物(技法?)棚(形状?)/59.3×33.9×69.8cm/1968 撮影=

カラマツ/高さ69.8㎝/1968

 唐松は古くから日本にあった木で、落葉松とも書き、秋に紅葉して葉が落ちる松です。木材としては他の木に比べて重くて堅く、木目が粗いため、美しさと正確さが大切な木工芸の作品に用いるのは難しいといわれています。しかし、作られたものは長い年月が経つと、木に含まれていた樹脂がしみ出て、木の肌は赤みがかった味わい深い美しい色になります。
 「唐松造砂磨棚(からまつづくりすなみがきだな)」は、江戸時代まで盛んに行われていた「砂磨き」という技法を用いた作品です。砂で木肌を磨くことで、柔らかい部分は削り取られてへこみ、硬い部分が浮き上がります。さらに、表面に半透明の漆を薄く塗っては拭き取る、という工程を何度も繰り返す「拭漆(ふきうるし)」によって仕上げています。
 これらの工程は時間と手間をかけて丁寧に行うことで、唐松が持つ粗い木目と色の美しさを引き出すことができます。また、生命力を感じさせる木目の曲線に合わせるように、棚の角をすべて丸く面取りしています。金具を黒色とし、引き出しなどのない観音開きのシンプルな形にしたことも、木目をよりよく見せるためでしょう。素材の持つ美しさを可能な限り引き出したいという、作者の思いが伝わってくるようです。
 この棚を作った氷見晃堂(ひみ・こうどう)は、昭和の時代に木工芸で人間国宝に認定された作家です。さまざまな木材に、その特性に合った技法を使い分け、たくさんのすばらしい作品を作りました。とりわけ、釘を使わずに木材を組み合わせて箱や棚などを作る「指物(さしもの)」を得意としていました。また晃堂は大変勉強熱心な作家であり、過去の優れた作品を研究し、生涯を通して技術を磨き続けました。この棚に用いられた「砂磨き」は、江戸時代が終わるころには行われなくなり、できる人もいなくなってしまった技法でした。しかし、これを惜しんだ晃堂は昔の作品を研究して何度も失敗を重ねた末、見事現代によみがえらせたのです。

(石川県立美術館 学芸員 寺川和子)

石川県立美術館ico_link

  • 所在地 石川県金沢市出羽町2-1
  • TEL 076-231-7580
  • 休館日展示替え期間中、年末年始

<展覧会情報>

  • 「加越能の美術 -縄文から江戸時代までの名宝-」
  • 2010年9月11日(土)~10月24日(日)

展覧会概要

  • 古来「加越能」と呼ばれた石川、富山ゆかりの、縄文時代から江戸時代までの、考古出土品や美術工芸品指定文化財約70点を含む150点を紹介し、その文化的な独自性を探ります。
    ※会期中、常設展(別途会場)で氷見晃堂の作品(桐造寄木象嵌之筥)が展示されます。

<次回展覧会予定>

  • 「加越能の美術 -明治から現代までの絵画・彫刻・工芸-」
    ※会期中、氷見晃堂の作品(大般若理趣分経之箱)が展示されます。
  • 2011年1月4日(火)~2月6日(日)

その他、詳細は石川県立美術館Webサイトico_linkでご覧ください。


ほんの30分。

生活&総合教室No.59 表紙

 8月のことでした。娘を保育園に送りに行く時、小学生の男の子に会いました。小学校2、3年生くらいでしょうか。ジーッとこちらを見ていたので
 「お、夏休みかあ、いいねえ」
 と声をかけると、こんな答えが。
「そうなんだよねー。でも、オレ、9時30分までヒマなの。だから飴なめることにしたんだ。飴だったらさ、長もちするし、甘いしね」
 時は9時ちょっと前。9時30分まで…ほぼ30分!いいねえ!

 いつからでしょうか。過ぎていく時間が短く感じられるようになったのは。
 昔は学校の20分の休み時間で、友だち誘って、校庭に出て、ボール取ってきて、ドッジボールができていたのに。
 今では30分なんてあっという間です。
 飴をなめて30分、時間をつぶすなんて…小学生じゃないと思い付かない発想!でも、いくつなめたんだろうなあ!(笑)
 みなさん、今、ヒマな時間が30分できたら、何をしますか?
 本を読みますか?音楽を聴きましょうか。お茶をゆったり飲んでもいいかも知れません。普段メールで済ませている遠方の友人に、手紙を書くこともできるかも知れません。

 仕事や家事をしている時は、あっという間に過ぎる30分。
 でも、本当はいろんなことができる30分なのかも知れません。

 いつの間にか、日々時間に追いかけられているわたし。
 この、ほんのちょっとの朝の交流で、それにハッと気付いたりして…。

 …かといって、簡単には今のバタバタ生活を変えることも難しい。
 せめて寝る前にでも、30分、ストレッチでもしながら、ゆっくりできる時間をつくりたいものです。
 でも本当は、その30分、多めに寝たいかもなあ。(笑)

コンドウアキ氏作成のキャラクター リラックマ

コンドウアキ氏作成のキャラクター リラックマ

コンドウアキ
1997年文具メーカーへ入社。
「みかんぼうや」「リラックマ」「あまぐりちゃん」などのキャラクター・関連商品を作成。
2003年同社退社後は、フリーのキャラクターデザイナー・イラストレーターとして活躍中。
オフィシャルウェブサイト「コンドウアキのweb akibako」ico_link

※ コンドウアキ氏は弊社の平成23 年度版教科書「小学書写」の表紙イラストを担当されています。

※ コンドウアキ氏は弊社の平成23年度版教科書「小学書写」の表紙イラストを担当されています。


創造の種を育み「発見」を共有する

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 この夏、瀬戸内海の島々を舞台に開催中(10月31日まで)の瀬戸内国際芸術祭に「ファスナーの船」という作品を出展しました。全長11mのファスナーの形状をした船は、観客を乗せて海を走行します。船の描く航跡を海が「開く」ように見立てる試みです。
 この作品は、日常のふとした発見から始まりました。8年前、国内線の飛行機にはじめて乗った時のことです。窓から東京湾を眺めていると、突然、一隻の船が視界にとび込んできました。その瞬間、僕の目は船をファスナーに見間違えてしまったのです。
 これをきっかけに、いつか乗船できる「ファスナーの船」をみんなで眺めてみたいと思いました。しかし船をつくるなんて夢のような話。実現するにはどうしたら良いか見当もつかず、唯一考えられたのは、ラジコンの船を改造して公園の池を開いてみることでした。実験の当日、通りかかった人たちの顔から笑みがこぼれた瞬間、確かな手応えを感じました。その後、実験の映像をいろいろな人に見せたり、構想のスケッチを描いたりと、アイデアを人に伝える活動を日常的にくり返しました。
 そしてついに、瀬戸内国際芸術祭というチャンスに巡り会いました。しかし実現するためには、船の入手、制作費の工面、安全性の確保、運航するための船長さんの手配など数々な課題に直面しました。ちょうどその頃関わりのあった原美術館の方からの紹介で知り合った川崎の造船会社の社長さんがプロジェクトに賛同して下さり、漁船を一隻提供して下さいました。それをはずみに動きだし、その後も多くの人たちに支えられて、一つひとつ問題を解決していくことができました。
 「ファスナーの船」の実現によって僕があらためて感じたことは、アイデアは授かったものだということです。アイデアの神様は創造の種をみんなに配り、その種が育つチャンスを僕たちに委ねているのではないでしょうか。種をみんなと共有できるものに実らせられるかは僕たち次第。任務でもあると感じています。僕は「ファスナー」も「船」も双方が喜んでくれるようなものにしたいと思っていました。今後も見た人の記憶がいきいきとよみがえるような作品をつくっていきたいと思っています。

プロフィール
 1979年静岡県浜松市生まれ。2001年東京造形大学卒業後、映像インスタレーション「遊具の透視法」の発表をきっかけに国内外の多数の展覧会やアートフェスティバル、デザインイベントに参加。代表作「まばたきの葉」は、現在もパブリックスペースでの展開を続けている。昨年、羽田空港で開催された「空気の港」では展示全体のディレクションを担当。今夏、瀬戸内国際芸術祭に「ファスナーの船」を出展し話題を呼んだ。
鈴木康広 Webサイトico_link


おにいちゃんのハナビ(2010・日本)

おにいちゃんのはなび

(c)2010「おにいちゃんのハナビ」製作委員会

 いまから5年ほど前に、新潟中越地震のドキュメントがテレビで放映された。花火で有名な、新潟県小千谷市の片貝町で行われる片貝祭りを中心に、作られたものである。
 映画「おにいちゃんのハナビ」(ゴー・シネマ配給)は、このドキュメントのなかに出てくる兄妹のエピソードを描いたもの。重病で亡くなった妹のために、成人式を控えた兄が、花火を打ち上げる、という話である。
 片貝の町が、世界的に有名になったのは、この祭りで打ち上げられる数々の花火だ。企業スポンサーによる花火大会ではなく、主体は、町に住むみんなが、花火のお金を出し合う。そして、誕生、成人、結婚、還暦などなど、人生の節目節目に、それぞれの願いをこめて、打ち上げるのである。
 花火が効果的に使われた映画では、アルフレッド・ヒッチコックの「泥棒成金」をすぐ思い浮かべるが、本作での花火は、重要な役割で登場する。

 ハナ(谷村美月)は女子高校生。重病のため、半年の入院生活から、やっと退院する。その日は、ハナの大好きな花火祭りの日。家には、兄の太郎(高良健吾)がいるが、大学も受験せず、就職もせず、いわば、引きこもりである。
 明るく勝ち気なハナは、太郎を外へ連れだそうと努力する。そして、兄のいた高校の同窓会で、成人を記念して花火を奉納、打ち上げる会の事務所に、なかば強引に連れていく。
 さらにハナは、新聞配達のアルバイトを太郎に世話する。しかも、太郎といっしょに、配達まで手伝う。
 一見、なにもかもがうまくいくかと思われたが、ハナの病気が再発する。ハナを見舞い、「俺は、人見知りで、ダサくて、暗い」という太郎に、「人見知りは遠慮深い、ダサいは個性的、暗いはクール」と、太郎を逆に励ます。
 やがて、ハナは亡くなる。死んだあとに、太郎の携帯に、ハナからの成人式のメッセージが届く。
 太郎は、悲しみをこらえ、ハナのために花火を打ち上げる決心を固めるが…。

 要所要所に、ドラマの伏線があり、しかも泣かせる。親子、兄妹の関係が過不足なく描かれ、説得力がある。
 悲しい話ではあるが、愛する者の死は、避けがたいことである。その後に、ぼくたちはなにをすべきかを、深く考えさせてくれる。
 兄妹の父親役で、タクシーの運転手を演じる大杉漣が、渋くて、うまい。監督は、主にテレビドラマ演出で実績のある国本雅弘。やや登場人物が泣きすぎるシーンもあるが、これが、長編劇映画の監督第一作になる。

9月25日(土)より有楽町スバル座ico_linkほか全国公開中!

■おにいちゃんのハナビ

監督:国本雅広
脚本:西田征史
出演:高良健吾、谷村美月、宮崎美子、大杉 漣、早織、尾上寛之、岡本玲、佐藤隆太、佐々木蔵之介、塩見三省 他 
主題歌:藤井フミヤ「今、君に言っておこう」(Sony Music Associated Records Inc.)
2010/日本/119分/35mm/カラー/1:1.85/ドルビーSR


平安京の誕生

平安神宮の創建

 京都の平安神宮は、平安遷都を行った第50代桓武天皇を祭神となし、平安遷都1100年の1895(明治28)年(皇紀2555年3月15日)に創建されたものです。その建物は、遷都1100年を記念して京都で開催された第4回内国観業博覧会が企画した大内裏の一部を8分の5の規模で復元したものを用いたため、社殿が正庁である朝堂院、拝殿が大極殿、赤く光る朱色の正面の門が応天門をそれぞれ模したものです。1940(昭和15)年(皇紀2600年)には、平安京における最後の天皇である第121代孝明天皇を祭神に加えました。
 明治維新で誕生した近代国家は、南朝ゆかりの湊川神社(明治5年創建 祭神楠木正成)などのように、歴史上で功績のあった人物を神に祀る神社の造営を初期から手掛けていました。しかし天皇を祀る神社は、1890(明治23)年(皇紀2550年)に神武天皇を祭神とした橿原神宮や、前述の平安神宮などと、明治20年代になってからなのです。
 ここには、ある記念の営みに合わせて歴史を想起させ、天皇をめぐる記憶の創成をめざそうとの営みがみられます。

桓武の王朝

 平安京を新たな京とした桓武天皇は、第40代天武天皇の王統が「天平」の元号とともにある不滅と信じていた仏教に支えられていた平城京を否定し、天智天皇の王統につらなる王として長岡京に新都を造営し、旧王権に代わる政治をめざしました。山部(やまべ)親王である桓武が天皇になるには幾多の政争がありました。父白壁(しらかべ)王は、天智天皇の皇子施基(しき)親王(春日宮御宇天皇と追尊=亡父、亡祖に尊号を贈ること)の子であり、天武の王統が天皇となるという不文律(「不改常典」)から見れば傍流にすぎません。
 白壁が孝謙・称徳後に即位して第49代光仁天皇となりえたのは、天武-草壁-聖武-孝謙天皇の姉妹たる井上内親王を妻としていたことで、次に井上の子である聖武天皇の皇孫他戸(おさべ)親王を皇太子として天武王統に戻すことが想定されていました。しかし、この天武王統回帰への想いは、井上皇后・他戸皇太子を死に追いやることで断たれ、山部親王が皇太子となることで桓武天皇への道が開かれました。
 山部・桓武は、百済系の下級氏族にすぎない高野新笠(たかののにいがさ)を母となし、土師(はじ)氏につらなる低い出自で、皇位につける者ではありませんでした。それだけに血脈の低さは、血で血をあらう政争を経て天武系から天智系に王朝交代が成立しただけに、己の王権をいかに正統なものとなし、天皇として統治するかが問われていました。そこで天武系の平城京に代わる新しい京を、天智天皇の近江京に近い地である長岡京に設定しようとしたのです。
 長岡遷都は、天武系から天智天皇-施基-白壁・光仁天皇という天智系王統への交代が天命による王朝交代であるとなし、その世界を具体化しようとしたものです。桓武は、天武系王統の復活を謀った氷上川継らを処断し、聖武天皇系の皇親や前代からの重臣を一掃して専制君主たる権力の集中をはかります。そこでは天智-施基-光仁という桓武天皇直系の父祖を顕彰し、光仁・桓武の名前である白壁と山部の使用を制限し、大津宮の近くに梵釈寺(ぼんじゃくじ※現在は廃寺)を創建し、光仁天皇陵を平城京北郊から父施基皇子の眠る田原(現奈良市)に移しました。
 かつ785(延暦4)年11月と787年11月に河内国交野(かたの)で天神祭祀を営みます。この祭祀は、中国歴代皇帝が営む郊祀(こうし)に倣ったものです。郊祀は、毎年冬至に都城の南郊で天帝を祀る儀礼です。桓武はこの儀礼に倣い、円丘を築き、犠牲を捧げ、唐と同じような祭文を読み上げさせました。唐では天帝と太祖または高祖を祀りましたが、桓武の郊祀では光仁天皇が祀られていました。この営みには光仁天皇を新王朝の創始者とみなす想いが読みとれます。ちなみに交野の地は、長岡京の南方10キロメートルの地、桓武の出自にかかわる百済系氏族である百済王氏の本拠地です。まさに桓武天皇は、百済系などの渡来系氏族を権力の基盤にとりこみ、天武-聖武天皇の王統を否定し、新たに天智-光仁-桓武天皇の王統を宣言したのです。

※一連の皇室系譜については
Vol.38 古代、生死をかけた政争劇
Vol.39 古代、掟に縛られた政争劇 参照

王城の地・平安遷都

平安神宮

平安神宮(京都市)

 長岡京遷都は、皇太子早良(さわら)親王を擁立する平城廃都の反対勢力による藤原種継の暗殺、飢饉疫病の流行で頓挫しました。ここに793年正月に山背国葛野(かどの)郡宇太(うだ)が検分され、10月に遷都詔を発し、山背国を山城国に改称、平安京と命名します。この命名は、平城京や長岡京などいままでの都城が地名を冠したのと異なるもので、即位から遷都をめぐる政争がもたらした非業の死をめぐる怨霊と飢饉・疫病・天災の跋扈に怯える天皇の「平安」への祈念をこめたものといえましょう。この地は、太秦の地を中心に渡来系氏族である秦氏の拠点があり、「四神相応の地」にして「山河襟帯自然城」と形容されています。東の流水が青龍、南の沢畔が朱雀、北の山が玄武の諸徳を備えた北高南低の地勢が「黒龍水性の地」とみなされた理想的な王城の地とみなされたのです。
 理想的な京とみなされた平安京は、平城天皇の奈良への還都をめぐる藤原薬子の変を鎮圧した嵯峨天皇によって、己の王権を正当化すべく「万代の宮」と宣言されます。かくて平安京は、王城の地たる京都として、1869(明治2)年の東京遷都まで日本列島の都として君臨しました。京都は、明治維新後の国家においても、皇位継承の大嘗祭が京都御所で営むと皇室典範が規定しているように、王城の地でありつづけたのです。
 桓武天皇は、平安京を 1.条坊のマス目にあたる「町」を40条(約118メートル)四方に統一し、 2.羅城門の左右の東寺・西寺を置き、他の寺院建立を認めませんでした。この処置は、旧来の都城が官寺・私寺を不可欠な要件としたのに対し、旧来の仏教勢力との断絶を表明したものです。まさに平安京は、内裏-大極殿-朝堂院という中枢が集中した平安宮のもとに、新たな王城の地に相応し京として造営されていくのです。

 この、時空間で営まれた世界は、枕草子や源氏物語が描き、蜻蛉日記をはじめとする多様な日記等に読みとれましょう。その王朝の世界は、桓武天皇が自らの存在を誇示した天神の祭祀が物語るように、強く唐の世界に規定されたものでした。


『生徒指導提要』の活用

■ 生徒指導の課題と『生徒指導提要』

 子どもの意識と行動が大きな変化をみせている。平成21年12月1日付け朝日新聞は、「小中高生の暴力6万件」という見出しを掲げ、一面トップで問題行動の状況を取り上げている。
 ここでは、子どもの暴力行為について、「この数年の急増ぶりについては、学校現場も含めて答を見出せないでいる。」としている。改めて指導の見直しをすることが各学校の重要な課題になっている。
 これまで、学校における生徒指導の基本を示すものとしては、昭和40年発行『生徒指導の手引き』、昭和56年の『生徒指導の手引き(改訂版)』があった。このたび、内容を一新する形で(平成22年3月)、小学校段階から高等学校段階までの生徒指導の理論・考え方や具体的な指導方法等を示す基本書として、『生徒指導提要』(以下『提要』と略記)が作成された。そこには、これまでの実践、最新の情報・知見を踏まえる形で、いま求められる生徒指導の内容が網羅的に盛り込まれている。
 『提要』には生徒指導の意義と課題が明示されるとともに、児童生徒の発達に関する課題と対応、インターネット・携帯電話にかかわる課題、児童虐待への対応なども取り上げ、学校における実際の指導・対応に役立つものとして全体が構成されている。それはそのまま、すべての教職員にとって、生徒指導を進めていく上で必要とされる内容である。
 『提要』の「まえがき」では、同書が生徒指導を進める上での基本書として、児童生徒にかかわる全教職員、教育委員会を始め多くの関係者などに読まれ、具体的な指導や研修に活用されることで生徒指導の一層の充実が進められることへの期待が述べられている。
 いま、学校教育に対しては、すべての子どもの健全育成と同時に、いじめ、暴力行為等への指導・対応など個別の問題への効果的な対応が求められている。『提要』はそうした指導改善に役立てられ、指導充実が図られることが期待されている。

■ 『提要』の特徴と活用の際の留意点

 『提要』には生徒指導の理論、基本的な考え方、実際の指導までが盛り込まれている。具体的な課題に関する対応なども視野に入れ、踏み込んだ記述がなされているところに、この『提要』の特徴がある。活用に当たっては、目的・内容に関して共通理解を図り、それぞれの学校の実態を踏まえ、自校の生徒指導の活性化に役立て、すべての教職員の生徒指導に関する指導力の向上に役立てるという点に留意したい。
 すべての教員に生徒指導の基本を身につけさせ、指導体制を確立させるためには、次の点に重点をおき、『提要』を活用することによって、生徒指導の基本、現実的な課題を押さえた教育活動を目指すことが重要である。
 ①生徒指導の重点と指導計画、その展開の見直し。
 ②個々の児童生徒の抱える課題、問題行動等の対応の見直し。
 ③指導体制及び家庭、地域、関係機関等との連携体制に関する見直し。
 ④最近特に課題になっている内容の実態把握とその対応に関する見直し。
 生徒指導を効果的に推進するためには、児童生徒の変化と自校実態の把握、いま求められる生徒指導の基本の理解に立ち、すべての児童生徒の人格のよりよき発達、個々の特性に応じた個別の指導・援助を目指して、全校指導体制を確立することが重要である。

■ 学校管理職として配慮したいこと

 学校管理職の立場からは、『提要』の趣旨・目的について全教職員の間で十分な共通理解を図ること、その活用によって、指導組織を通じ自校の実態を捉え直すこと、そこに示される趣旨を踏まえて指導の基本方針を策定し、次の点を中心に効果的な指導を展開することが重要な課題となっている。
 ①学校が現在当面している課題、克服に必要な取組、重視している内容などを明確にし共通理解を図る。
 ②各学年、各係ばらばらの取組では効果は上がらない。一貫性のある指導、組織的な指導を目指す。
 ③全教職員の間で、実際に指導を行う機会として、教科等、特別活動、道徳の時間など、その内容と特質について確認する。
 ④生徒指導の組織及び各担当の内容を確認する。それぞれが担当する役割の把握とあわせて、連絡・調整の機会、運営に関しても確認する。
 ⑤家庭、地域の関係団体、関係機関等との連携について、連携に関する基本的なことと同時に、担当者が留意すべきことについて確認する。
 ⑥生徒指導に関する研修の充実を図る。新しい事態への対応、校内指導体制の確立、連携体制の充実のために、指導力向上のための研修を重視する。

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国風文化とナショナリズム

清少納言 VS 紫式部

 清少納言は女房名で、父である歌人清原元輔の清原の姓から「清」と、親族の役職名から「少納言」にしたといわれています。一条天皇の993(正暦4)年冬頃から中宮定子に仕え、博学にして才気煥発な言動で定子をめぐる後宮をひきたて、主君定子の恩寵をこうむり、宮廷社会に名をなしました。その作品『枕草子』は、歌枕などの類集である「ものはづくし」、詩歌秀句、日頃の観察記、世間の噂、人物評をはじめとする宮中生活の記録ともいうべき回想で、作者清少納言の好奇心のおもむくままに見聞した世界が認められています。しかし、その才気煥発な言動を紫式部は『紫式部日記』で声高に批判しております。

 清少納言こそしたり顔にいみじうはべりける人さばかりさかしらだち、真名書き散らしてはべるほどもよく見れば、まだいと足らぬこと多かり、かく人に異ならむと思ひ好める人はかならず見劣りし行末うたてのみはべればえ心になりぬる人はいとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみをかしきことも見過ぐさぬほどにおのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし、そのあだになりぬる人の果ていかでかはよくはべらむ

 若い公達を手玉にとりしてやったりと得意顔する女清少納言、「したり顔」して「真名」たる漢字漢籍の知識をひけらかしているが、よくみるとまだ足らないことが多いとなし、こんな人の行く末にいいことがあるはずはないとまで述べるほどに、清少納言への敵愾心を燃やす『源氏物語』の作者紫式部の姿には、「女のいくさ」のすさまじさが読みとれます。
 紫式部は、「御堂関白」藤原道長に寵愛され、道長の長女である中宮彰子に仕えた女房でした。清少納言が仕えた定子は一条天皇より三歳年上で、父関白道隆によって中宮とされましたが、道隆の死後は三男の道長が権力を握り、その娘の彰子を中宮となし一人の帝王に二人の中宮という「一帝二后」という事態の中で苦しみ、その後宮も寂しくなります。
 「望月のかげあることなき」といわれるほどに権力をふるう道長の下にある紫式部は、このような敵対関係にある宮中にあって、中宮定子の女房清少納言に辛辣な眼を向けたのです。ちなみに紫式部は、藤原北家の出身である越後守藤原為時の娘、母は藤原為信女で、中宮定子が没後に中宮彰子に仕えます。その点では、清少納言が定子の後宮に奉仕していた時期とすれちがっていますが、彰子の権勢を一身に担う者として、中宮定子の高名を轟かせた清少納言の存在が許せなかったのではないでしょうか。

「真名」という漢籍をめぐる素養

 中宮定子の後宮風景は『枕草子』の「雪のいと高う降りたるを」にうかがえます。ある雪の朝、中宮定子が「香炉峰(こうろほう)の雪、いかならむ」と問われ、清少納言は御簾を巻き上げます。女房たちは、この清少納言の所作に、「さることは知り、歌などにさえ歌へど、思ひこそよらざりつれ」と言います。定子に仕える女房達は、清少納言が唐の詩人 白居易の「香炉峰雪撥簾看(香炉峰の雪はすだれをかかげてみる)」という詩をふまえたものであることを、すぐに理解したのです。ここには、後宮に奉仕する女が和歌のみならず詩文の知識、漢籍への素養をも身につけていたことがうかがえます。
 清少納言を論難した紫式部は、人前で「一」という文字すら書けないふりを『紫式部日記』に認めていますが、『源氏物語』に詩文の知識がちりばめられておりますように、詩文をささえる漢籍への造詣がありました。いわば真名は、男のもの、表の世界といわれていましたが、女にとっても身につけるべき素養だったのです。
 清少納言と紫式部という二人にみられる女のいくさは、平安朝の宮廷文化を支えている世界の奥深さ、真名という表層にある漢籍という唐様に対して、仮名という国ぶりをあらわす国風が深く根を張っていたことがうかがえましょう。
 平安朝の世界は、「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとてするなり」と書きはじめた紀貫之の『土佐日記』が先導することで、男が政務の記録を漢字で記した日記をして、仮名で和歌と同じように己の心情を吐露する日記を誕生させました。こうした風潮は、漢籍に象徴される唐風の世界に対し、国風-国ぶりへの眼を大きくさせます。
 この営みは、歴史の記述において、摂関政治の時代を「国風文化」なる呼称で位置づけさせることともなりました。いわば「国風文化」は、列島にもたらされた中華の文明-唐風の世界が倭-日本の大地にとりこまれ、新たな色づけで国ぶりに塗り替え、意味づけられていくことでした。しかしその眼は、大宰府交易への強い期待、唐物崇拝が根深いように、中華の国への憧憬が渦まいていました。清少納言と紫式部が体現している世界は、このような唐風と国風が渦巻くなかで、国ぶりを問う眼が大きく育とうとしていた気分を代弁していたのです。

ナショナリズムに呼応して

 現在の歴史の教科書では、10~11世紀を「国風文化」あるいは「国風の文化」といった言い方で、日本の風土や日本人の人情・嗜好に相応した「優雅」で「洗練」された文化、日本文化が生まれてきたという記述、仮名文字・古今和歌集に代表される和歌、土佐日記などの仮名の日記、その他様々なかな物語が紹介され、寝殿造などの国風美術等への言及をしています。また、浄土信仰がおき仏教の日本化を読むことができます。この「国風文化」なる記述は、1930年代の国体明徴の時代風潮をうけ、東京帝国大学教授川上多助『平安朝史』(『総合日本史大系』)で9世紀初頭を「唐風文化」となし、10世紀以降を「公家文化」と呼び、「国風」を「公家文化」の一要素としました。
 現在の「国風文化」論は、こうした位置づけを受け、日本敗戦と占領下の1950年代に民族独立を課題とした日本共産党の政治綱領と結びついて展開されたものなのです。大阪市立大学文学部名誉教授 河音能平(かわね よしやす)は、敗戦の1945年以後における「新しい『民族問題』、発達した資本主義国である日本がアメリカ帝国主義に対して従属的同盟におちいったという新しい事態に直面」したという認識をふまえ、「日本『民族』の形成過程を科学的に明らかにすることによって、そこから真に国民的=革命的な歴史意識をくみだそうと」する研究のなかから、「日本民族文化」形成の重要な契機として「国風文化」を把握したいとの課題を提示しました(『講座日本文化史2』より「『国風』的世界の開拓」 三一書房刊 1962年)。
 このような論調には、「国風文化」を問い質し、「国風」とあえて強調することで、民族独立へのロマンを奏でる想いが読みとれましょう。この強きナショナリズムへの眼が説き聞かせた「国風文化」にこめられた「国風」なる呪縛から自由になるには、清少納言や紫式部が垣間見せた後宮の暗闘を問い質すなかで、唐風への強き憧憬を凝視し、「国」に託された世界を解析することが問われているのではないでしょうか。


「聖なる手1」 池田満寿夫作

ドライポイントなど/36.5×34.5cm/1965

ドライポイントなど/36.5×34.5cm/1965

 この作品は池田満寿夫が1965年に制作した銅版画です。
 赤と黒に二分された画面にふたつの組みあわされた女性の手、太いベルトと留め具が描かれたシンプルな構図です。しかし、よくみると文字が判読不可能だったり、ベルトの模様が反転した数字だったり、下段のベルトだけが彩色されていたり、袖が背景と同化していたりと、興味深い表現がいくつもあらわれます。まったく同一に思えた手の輪郭線にも、恣意的に強弱がつけられていることがわかります。これらは池田満寿夫の卓越したデザイン感覚を示すものですが、ほかに何かを示唆しているのでしょうか。そして、なぜ“聖なる”手なのでしょう。
 実は、この作品にはモデルとなる名画があります。フランドルの画家ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンの「婦人の肖像」(1455年、ナショナル・ギャラリー<ワシントン>蔵)。池田満寿夫は婦人の手の部分を借用し、滑らかで精緻な絵肌を単色の線に置き換えました。ドライポイント技法特有の引っ掻いたような、また落書き風の線刻によって、“聖なる”はずの手が原画の高貴で優美な印象を連想しがたいものに変わっています。並んだ手のある空間から神秘的な広がりが感じられるかもしれませんが、崇高さよりも、どこか洒落た印刷物のイラストを思わせます。
 新聞や雑誌の広告、包装紙、看板など商業アートの通俗性を積極的に取り入れたのは、1960年代前半に美術界を席巻したポップ・アートです。池田満寿夫もポップ・アートの手法を「聖なる手1」に応用しました。この題名には、むしろ“通俗的”でもあるという皮肉が込められているのかもしれません。
 みればみるほど不可解ながら、すべてが絶妙なバランスで配置される作品世界の創り手、それが池田満寿夫という作家の尽きない魅力です。

(池田満寿夫美術館 学芸員 中尾美穂)

池田満寿夫美術館ico_link

  • 所在地 長野県長野市松代町殿町城跡10
  • TEL 026-278-1722
  • 休館日 木曜日(祝日開館、8月無休)、12/29~1/1、展示替期間 

<展覧会情報>

  • 特別企画展 組みあわせの達人 池田満寿夫
  • 6月26日(土)~11月24日(水)開催

展覧会概要

  • 池田満寿夫(1934-1997)は、生涯、コラージュ(寄せあつめ・貼りつけ)の手法に強い関心を抱き続けました。画家、小説家、映画監督など分野を越境した自身の幅広い創作活動にもなぞらえています。同展では版画やコラージュを中心に所蔵品約100点を展覧し、ユーモアに富む作品の数々を紹介しています。

<次回展覧会予定>

  • 池田満寿夫 平面を極める -80年代・90年代の新たな挑戦-(仮)
  • 11月末~2011年6月末開催予定

 その他、詳細は池田満寿夫美術館Webサイトico_linkでご覧ください。