子どもの言葉をつなぐ授業展開を目指して 『命の種を植えたい ―緒方洪庵―』(第5学年)

※本実践は兵庫県伊丹市立鴻池小学校に在籍されていた際の実践です。

1.はじめに

 本実践は、日本文教出版主催の道徳セミナーに関連して行ったものである。教材の選定にあたり、これまでのセミナー参加者から「Dの視点が難しいので、取り上げてほしい」「偉人を扱う教材は苦手」といった声が寄せられていることを知った。私自身も、Dの視点や偉人を扱う教材に対して得意意識があるわけではなかったが、せっかくの機会なので、「生命の尊さ」というDの視点、そして偉人を扱う教材に挑戦することにした。
 Dの視点の難しさは、価値が抽象的であることに加え、子どもたちがすでに「命はかけがえのないもの」「自然は共に生きる存在」などとして理解しているため、改めて問いを立てたり、深く考えさせたりすることが難しい点にある。また、偉人教材は「すごい人の話」として受け止められがちで、児童が自分とのつながりを見いだしにくいという課題もある。
 そこで本授業では、子どもたちが洪庵の生き方に触れる中で、自分自身の命や他者の命、社会や未来とのつながりに気づき、命の価値を自分の言葉で捉え直すことができるような授業を目指した。導入では、抽象的な問いを避け、「命の価値って重い?」という語り口を用いることで、子どもたちが自分の感覚や経験をもとに語りやすくなるよう配慮した。また、言葉によるやり取りにとどまらず、視覚的にも命の重みを感じ取れるような工夫を行った。
 なお、私自身の授業スタイルとして、子どもたちの言葉や姿から授業を展開していくことを大切にしているため、担当学年の3学級分を撮影していただくようお願いした。道徳セミナーでは1学級の授業動画を紹介したが、他の学級では異なる展開も生まれ、非常に興味深い授業となった。これについても本稿で触れていきたい。

2.主題設定の理由

(1)ねらいや指導内容について
 生命が大切であるということは、子どもたちにとってすでに理解されている価値である。しかし、「なぜ命は大切なのか」と問われたとき、それを自分の言葉で語ることには戸惑いを見せることが多い。命の尊さが “当たり前” として受け止められているからこそ、深く考える機会が少ないのが現状である。
 そこで本授業では、「命の重み」という主題のもと、本教材を活用し、命の尊さについて多面的に考える機会を設けた。洪庵の行動や思いを通して、命が個人のものにとどまらず、他者との関わり、社会への貢献、未来への責任など、さまざまな視点から命の価値を捉えさせたい。子どもたちが教材内容やこれまでの経験をもとに、自分自身の言葉で命の重みを表現し、生命の大切さについて幅広い視点から考えることをねらいとする。

(2)子どもたちの学習状況や実態について
 対象学年の子どもたちは、日常生活やこれまでの道徳科の学習を通して、「命は大切なもの」という価値を自然に受け止めている。これまでの「家族愛」や「自然愛護」を扱った授業でも、命に関する話題が自然と挙がり、命が過去から現在、そして未来へと受け継がれていくという “縦の連続性” に着目した話し合いが行われてきた。その中で、祖父母から受け継いだ命や、自然の中で循環する命のつながりに関心を示し、命が時間を超えてつながっていることに気づきはじめている。
 一方で、「命は多くの人たちによって支えられている」という “横の連続性” については、子どもたちの中に漠然とした理解はあるものの、具体的なイメージをもつまでには至っていない。医師や看護師、家族、地域の人々など、命を支える存在がどのように関わっているのかを実感する機会が少なく、命が社会の中で守られているという視点はまだ十分ではないと考えられる。
 なお、この時期の子どもたちは、集団の中での自分の役割や他者との関係性を意識しはじめる時期にあり、抽象的な価値についても多面的に捉える力が育ちつつある。こうした発達の段階とこれまでの学びの蓄積を踏まえ、「命の重み」という主題に取り組むことで、子どもたち一人ひとりが命の尊さを個人・他者・社会・未来といった多様な視点から捉え、自分自身の命や他者の命に向き合いながら、命を大切にしようとする実践意欲と態度を育んでいくことが期待される。

3.教材について

 本教材「命の種を植えたい ―緒方洪庵―」は、江戸時代に実在した医師・緒方洪庵の生き方を通して、命の尊さや社会的使命感、未来への責任といった価値を児童に考えさせることができる優れた教材である。洪庵は、感染症の脅威に立ち向かいながら、人々の命を守るために尽力した人物であり、その姿は現代にも通じる普遍的な価値を含んでいる。
 子どもたちは、洪庵の行動に触れ、その思いや願いを交流していく中で、命とは単なる個人の営みではなく、他者や社会、未来とつながるかけがえのない存在であることに気付き、生命の大切さを多様な視点から考えることができる。特に、子どもたちが「命は多くの人たちによって支えられている」という価値を漠然と理解している現状を踏まえると、洪庵の姿はその理解を具体化する契機となり、命が社会の中で守られていることを実感するにあたって、子どもたちの考えを深める手がかりとなる教材だといえる。

4.実践事例

(1)教材名

「命の種を植えたい ―緒方洪庵―」(出典:日本文教出版 令和6年度版『小学道徳 生きる力 5』)

(2)主題名

命の重み D[生命の尊さ]

(3)本時のねらい

 緒方洪庵や弟子たちが、みんなの命を守るために種痘を広めようと困難に立ち向かった行動を通して、命とは一人ひとりだけのものではなく、人とのつながりや支え、社会や過去・未来へと受け継がれていくかけがえのない存在であることに気づき、その気づきをもとに家族や友人、苦しんでいる人など身近な人の命を思いやり、大切にしようとする実践意欲及び態度を育てる。

(4)展開例

学習活動
(○主なる発問 ・予測される児童の反応)

◇指導上の留意点
☆評価

導入
(3分)

テーマ発表

今日のテーマ 「命の重み」

○テーマについて、どのようなイメージを持っていますか
・なくなったらもう取り戻せないもの
・一人ひとりにもっているもの
・代々受け継げられてきたもの
・一生生きられないこと
・寿命がある…。
子どもたちの身近な経験から出てくることが予想される。

◇ねらいとする道徳的価値の方向づけを行う。
→ 命の大切さ・重み・関係性などのイメージを自由に言語化(板書)

展開
(35分)

範読

◇教材は教師が範読
◇あらすじは簡単に教師が説明する。
→ 洪庵自身の命に込めた思いにせまることで、主題「生命の重み」を考える。
◇洪庵がどのような思いや願いをもって行動していたのかについて共有していく。
◇苦しい状況にあったことを踏まえた上でそれでも負けずに訴え続けた心の深層部分に迫らせたい。
→命は一つひとつは小さいがそれぞれ大きく、重いものであり、それを多くの人々や生命あるものとの支え合いやつながりの中で存在することに気づかせたい。

内容確認

感じたこと・気づいたことを、簡単に近くの人と共有する。
その後、全体交流
→除痘館を開くも、なかなか理解されなかったことを押える。

発問

○洪庵があきらめずに訴え続けたのはどのような思いからだろう。

【洪庵自身の信念・使命など】
・自分のできる力を使って助けたい。
・医者として目の前の命を救いたい。
・自分は間違っていないという強い信念
・丁寧に説明したら必ず理解してくれるはず。
・新たな医療方法に挑戦し続けたい。
・自分や仲間とともに一つひとつの命に真摯に向き合いたい。

【患者への思い】
・病気をしている人がかわいそうと思ったから。
・救える命はすべて救いたい。
・苦しんだ顔は見たくない。
・死んでほしくない。

【弟子や支えてくれている人への思い】
・巻き込んだ弟子や仲間に対する責任感

【国の危機】
・天然痘から国民を守る。

【命の継承、後世への責任】
・自分がやっていることがたくさんの人の命を救うことにつながっている。
・過去から受け継いだ命を未来につなげたいという責任感
・自分の行動が患者やその周囲にも大きな影響を与えるという意識

主題にせまる
発問

→全体交流を通して救いたいという気持ちや、洪庵の心の中に迫る。
◎洪庵を支えていたものは何だろう

【個人】
・命の危機に対して救いたいという強い信念
・誰かの命を守る存在になるという決意
・自分の使命を果たそうとする責任感
・受け継がれた命をここで絶やさないという熱い思い
・医学への強い探究心と学び続ける姿勢

【他人】
・目の前の患者の命を救いたいという思い
・師や仲間から受けた教えや支え
・家族や周囲の人々の期待に応えたいという気持ち
・誰かの命が自分の行動で守られるという実感

【社会】
・日本を守るという強い意志
・多くの人の命を守るために医学を広めたいという思い
・社会の病や不安を減らしたいという願い
・医学の発展が社会全体の命を守ることにつながるという理解

【未来】
・未来へ命をつなぐという強い決心
・自分の行動が未来の人々の命を守ることにつながるという意識
・医学を次の世代に受け継ぎたいという思い

◇洪庵が困難の中でも諦めずに種痘の普及を訴え続けた、その原動力を児童とともに探る。

☆緒方洪庵の行動や思いをもとに、命の重みについて多様な視点(自分・他者・社会・未来)から考え、感じたことや気づきを自分の言葉で表そうとしているか。

終末
(7分)

今日のまとめ
振り返り

○改めて今日のテーマ「命の重さ」について、今日の学習を通してどのような気づきが得られましたか?

・今日の授業で感じたこと、考えたことを振り返りましょう。

◇導入の問いからどのような変容(発見と納得)があったのかを自覚させる。
☆今日の学習を通して考えた命の重みについて、自分自身の生き方や身近な人の命と結び付けて振り返ろうとしているか。

5.板書例

○5年1組(1時間目に実施)

○5年3組(3時間目に実施)

○5年2組(5時間目に実施)

6.まとめ

 本授業では、児童が緒方洪庵の生き方に触れる中で、「命とは何か。」「命の重みとはどこからくるのか。」といった問いに対して、自分なりの考えをもち、主体的に思考を深める姿が見られた。洪庵の行動に対して、「過去からつながってきた命を守りたかった。」や「今を生きる人達の苦しみを見たくない。」、「未来の人のことまで考えていた。」など、価値を自分の言葉で捉え直そうとする発言が多く聞かれた。
 1時間目に実施した5年1組では、教師の問いかけに対する反応が活発で、つぶやきも多く聞こえる学級であった。思ったことをすぐに言葉にする傾向があるため、発言内容は抽象的なものが多かった。教師はそれらの言葉を丁寧に受け止め、追発問を通して主題を深める時間を意識的に確保した。本授業では、一人の子どもがつぶやいた「幸せ」という言葉がきっかけとなり、患者を治すことでその家族や友人、医師や助手までもが幸せになること、さらにその連鎖が未来へとつながっていくという気づきへと展開していった。
 3時間目に実施した5年3組は、教師の問いに対して熟考する学級であり、発言数は1組に比べて少ないものの、その内容は本質に迫るものが多かった。教師は子どもたちの発言を意味づけたり、価値づけたりすることで、道徳的価値についてさらに深く考える機会をつくることを意識した。本実践では、指導案に記載していた「洪庵があきらめずに訴え続けたのはどのような思いからだろう。」という問いは用いず、一人の子どもが発した「苦労」というキーワードをもとに、「苦労してまで続けたのはどうしてだろう。」と問い直す展開となった。そこから、命を救う人と救われる人との比較、そして平和な世の中へのつながりといった広がりが生まれた。
 5時間目に実施した5年2組は、発表する子どもが限られる学級であったため、一人ひとりが自分の考えを言葉にする機会を意識的につくり、そこから全体で共有できるように工夫した。この学級では、命という視点に対して、人間だけでなく種痘にも注目した子どもがいた。種痘を発見した人、運んできた人、育てた人、さらにはウィルスや細菌の命にも着目する子どもも現れ、命の価値を技術や自然の営みまで含めて広く捉えようとする姿が見られた。授業終盤の気づきの交流では、「自分の知らない誰かのおかげで今の自分がある。」と発言する児童もおり、命のつながりを社会的・歴史的な文脈で捉える深まりが生まれていた。
 複数学級での実践を通して、子どもたちの発言内容や反応する姿には学級ごとの違いがあり、その背景にある人間関係や学級の雰囲気が、授業の展開に大きく影響することを改めて実感した。Dの視点である「生命の尊さ」は抽象的で扱いにくいとされがちである。しかし、子どもたち一人ひとりの言葉や感じ方を大切に受け止め、それらを丁寧につないでいくことで、価値を自分ごととして捉えようとする深まりが本実践を通して感じられた。今後も、子どもたちの言葉や姿を起点とした授業づくりのよさを大切にしながら、子どもたち一人ひとりが自分の生き方と結びつけて考えることのできる、豊かな道徳科の授業の在り方について考えていきたい。

日本の近代教育創始期における障害者包摂の萌芽 ―小西信八の貢献

1.はじめに

 日本の近代教育は明治時代から始まっていますが、日本の近代公教育における障害児教育の創始期に最も貢献した人物の一人に小西信八がいます。
 小西は、近代障害児教育の確立に多大な貢献をしているのですが、小西の業績について調査を進めていると、障害者包摂の意識をもって通常の教育への障害児教育の浸透を画策した人物でもあることがわかってきました。そこで、今回は近代教育草創期において通常の学校での障害がある子どもの教育に尽力した小西信八のこの方面での業績をたどってみたいと思います。

2.小西信八について

 小西信八は、江戸末期の1854年(嘉永7年)に現在の新潟県長岡市に生まれました。江戸幕府を中心とする旧体制と明治新政府を樹立しようとする勢力との間で起きた内戦、戊辰戦争で長岡が戦火にまみれ、小西は少年期に流浪の悲劇を味わうという体験をしています。このことは、後の小西の人間観、教育観に多大な影響を与えることになります。小西は、戊辰戦争後に復興した長岡で学び、地元の小学校等の教師となりますが、1878年(明治8年)に志をもって上京し、東京師範学校に進学します。師範学校卒業後は千葉県の中学校や女子師範学校の教師を経て東京女子師範学校附属幼稚園監事としてその運営にあたり、草創期の幼児教育の基礎固めに力を尽くしました。フレーベルの教育論を紹介し、フレーベルの恩物をわかりやすい和語の名称にしたのは、この時期の小西の功績の一つです。
 1886年(明治19年)に私立だった楽善会訓盲唖院(らくぜんかいくんもうあいん)(盲学校)が官立に移管されることになりますが、その再興の立役者として小西に白羽の矢が立ち、訓盲院の専任職員として経営を任されることになりました。楽善会訓盲唖院が官立に移管されて東京盲唖学校となると、小西は校長心得(代行)を経て正規の校長となり、視覚障害がある人や聴覚障害がある人への教育の充実に尽力します。
 1910年(明治43年)に東京盲唖学校は東京盲学校と東京聾唖学校に分離発展することになりますが、その立役者も小西信八でした。分離後、小西は東京聾唖学校校長となります。視覚障害がある人への教育に比べて聴覚障害がある人への教育にはコミュニケーション方法など、より多くの取り組むべき課題が残されていたからでした。
 1925年(大正14年)3月に校長職を辞するまで、聴覚障害がある人とのコミュニケーション方法の開発と教育の充実発展に多大な貢献をしました。

3.小西信八の障害がある子ども教育への貢献

 小西は聴覚障害がある子どもの指導で、東京盲唖学校時代に伊沢修二の指導を受けてグラハム・ベルが広めた「視話法」に取り組みました。小西の生徒の一人である吉川金造がそれを修得し、両親を大いに喜ばせたという逸話が残っています(*1)
 聴覚障害がある人とのコミュニケーション方法に唯一無二のものを見出すことは難しく、小西は筆談や手真似(手話)も取り混ぜて、生涯に渡って聴覚障害がある人とのコミュニケーション方法の開発に取り組みました。しかし、聾唖学校長の後期には、口話法が「国家に有為な日本人」を育成するという政治的な目標と結びついて台頭してきたことも影響してか小西は体調を崩し、失意のうちに聾唖学校校長を辞すことになりました。小西が退職した後の1933年(昭和8年)には、全国盲啞学校長会議に出席した鳩山一郎文部大臣が「全国聾唖学校では口話教育に奮励努力せよ」(*2)との訓示を述べたとされ、学校教育において純粋口話法が跋扈することとなり、教育の分野での小西の存在は埋没してしまいました。なお、現行の学習指導要領では、「児童の聴覚障害の状態等に応じて,音声,文字,手話,指文字等を適切に活用して,発表や児童同士の話し合いなどの学習活動を積極的に取り入れ,的確な意思の相互伝達が行われるよう指導方法を工夫すること。」といった方針が示され、手話の活用も認められています(*3)
 視覚障害がある人への指導では、フランスのルイ・ブライユが考案した点字を導入し、日本点字の開発に寄与しました。日本点字を翻案したのは石川倉次ですが、そのきっかけをつくり、翻案作業を支えたのは小西でした。海外では自国の盲人用文字を選定するにあたって「点字戦争」と称されるような開発者間での争いも起きました(*4)。しかし、日本では小西の思慮深さによって適切に合意形成がなされたため、関係者の総意として石川倉次案が日本点字として採択されることになりました。日本点字の体系は、1901年(明治34年)4月22日の官報において告示されました。 視覚障害教育の分野では、小西の周到なマネジメントによって禍根を残すことなく日本点字が成立したといえます。

4.障害児教育の通常教育での対応にも尽力した小西信八

 小西の教育観は、当事者の立場に立ち、社会的自立を支援しようとするものでした。東京盲唖学校在任中に1年9か月に渡ってアメリカやヨーロッパの教育事情も視察した小西は、障害がある人が社会の中で生活している姿に大いなる影響を受け、障害がある人も等しく「国民教育を受ける権利があり、保護者はその子女を就学させる義務があり、国はそれを補償する義務がある」という思いをより強く抱くようになります。小西は様々な方法を駆使して、その実現に向けて尽力しています。

(1)東京師範学校のネットワークの活用

 小西は、東京師範学校同窓会である「茗渓会」の発足当初からその運営に関わっています。東京師範学校は日本で最初の教員養成機関として設立され、全国の師範学校のモデルとしての役割を担いました。卒業生は全国各地の師範学校へ赴き、教員や校長として指導的役割を果たしていました。
 小西は茗渓会に積極的に関与したのですが、それは、全国各地で教育分野での指導的役割を担う人材を輩出しているこの組織の人脈を頼って、障害がある子どもへの理解・啓発の促進を企図したからです。
 茗渓会の会合や集会には積極的に参加しました。その際に妻のうめさん手製の布袋に煎り豆を詰めて持参しました。会議中に茶菓として出し、終了後には、空になった布袋を回して、盲唖教育のための義援を募ったのです。これは単に寄付を募るだけでなく、当時の小学校や中学校で核となって活躍している教育者に障害がある子どもの存在を知らしめ、それを通常の教育にも反映させるよい機会ともなっていました。同窓会員の中には地方の師範学校長の要職にある者も少なくなく、その影響は大きかったといえます。小西は、東京師範学校同窓会を公私問わず最大限に利用したのでした。

(2)積極的な学校見学の誘い

 小西は、師範学校の学生に対しても盲唖学校の参観を積極的に働きかけました。これはとても高尚で遠大な着想でした。師範学校卒業生は全国各地の学校に就職します。将来の教員が、障害がある子どもの存在を知り、その教育法の一端を知ることは大いに意義あることです。障害がある子どもに出会った際に、通常の学校で受け入れることができないにしても、的外れの指導や指示をすることから免れるためです。また障害がある子どもの教育に関心を持ってくれれば、将来中心となって活躍する教員の輩出も望めます。後に東京盲学校校長となった秋葉馬治はその典型ともいえます。
 秋葉馬治は次のように書き残しています(*5)

 私が小西先生を知ったのは、師範学校生徒時代東京に修学旅行にきて、東京盲唖学校を訪れた時である。今でこそ修学旅行団の視察箇所は他方面になり、またモタナイズ(著者注、mortornize 計画が自動的に進むようになっていること)してきたが、当時は必ず東京盲唖学校を訪問したものである。その時小西先生は自ら私共に会ってくだされ、親しく諄々と盲唖教育を説明された。人格崇高、温厚篤実、教育者というものはかくあらねばならぬと思わせられたものである。

(3)師範学校に学級の設置の着想

 小西が、障害がある子どもの教育を普及するために全国の師範学校付属小学校に障害がある子どものための特別学級を設置するよう働きかけたことも忘れてはならないことです。
 海外視察中に、欧米諸国の取り組みを見聞して大いに影響を受け、帰国後はこの面に特に力を注ぎ、講演や会合などの機会に唱道し、政府に対しては法規の改正に向けて強く働きかけました。
 1902年(明治35年)5月24日の卒業式における式辞では次のような一節が語られていますが、これはその一例です(*6)

 昨年三月来調文部省学事年報によれば学齢児童中四千六百八十名 亜人六千二百五名あり、之を三府四十四県に平均すれば、盲人九十九名余り、亜人百二十八名余り、毎県に本校現在生徒に近き数を有せり、然れども今〇に書く件に盲唖学校を特設するは経済の許さざるを以て、せめては各師範学校付属小学校に訓盲教の二室を付設し、師範生の授業法見習の便に供せられ、卒業の後赴任地に於て多数の盲唖生を見出すに臨み、校内に付設する方法を講究せしめられなば昨年より実施の新小学校令第十七条の活用を見て盲唖教育を普及せしむる一便法なること疑いなし。

 この式辞の中にあるように1900年(明治33年)の改正小学校令において、小学校に盲唖学級を附設することが認められています(*7)

第二章 設置
第十四条 市町村ハ市町村又ハ其ノ区ノ負担ヲ以テ高等小学校ヲ設置スルコトヲ得
町村ハ数町村ノ協議ニ依リ町村学校組合ヲ設ケ高等小学校ヲ設置スルコトヲ得
前項ノ町村学校組合ヲ設ケ又ハ之ヲ解カムトスルトキハ郡長ノ認可ヲ受クヘシ
郡長ハ前項ノ場合ニ於テハ府県知事ノ指揮ヲ受クヘシ
第十五条 市町村立高等小学校ノ設置及廃止ハ府県知事ノ認可ヲ受クヘシ
第十六条 私立小学校ノ設置ハ設立者ニ於テ府県知事ノ認可ヲ受ケ其ノ廃止ハ之ヲ府県知事ニ届出ツヘシ
第十七条 前三条ノ規定ハ幼稚園、盲唖学校其ノ他小学校ニ類スル各種学校ニ関シ之ヲ準用ス
幼稚園、盲唖学校其ノ他小学校ニ類スル各種学校ハ之ヲ小学校ニ附設スルコトヲ得

 この改正小学校令に続いて、1907年(明治40年)4月17日付文部省訓令第6号「師範学校規定、師範学校付属小学校の部」には、師範学校付属小学校に特別学級を設置することが加えられました(*8)

 付属小学校に於いては規定に示せる学級の外なるべく、盲人、唖人又は心身の発育不完全なる児童を教育せんがため、特別の学級を設け、之が教育の方法を攻究せんことを希望す
蓋し斯くの如き施設は従来多く見ざる処なりと雖も、教育の進歩と文化の発展に伴ひ、将来に於ては其の必要あるを認むるを以てなり。

 この結果、1907年初めには、全国各地の師範学校付属小学校に特別学級が設置されるようになります。 宮城(明治三十五年唖生部)、徳島(明治四十一年盲唖)、高知(明治四十一年盲唖部)、群馬(明治四十一年訓盲)、千葉(明治四十一年盲部)、和歌山(明治四十二年九月盲唖学級)、三重、奈良高等女子師範学校などに付設されていることが確認できています。
 これらの法規の改正には、小西信八の協力で粘り強い働きかけが寄与しているのです。なお、この「明治40年文部省訓令第6号」については、中村満紀男・岡典子(2016)に詳細な分析がなされています(*9)

5.おわりに

 障害がある子どもの教育は、近代教育の始まりと共にスタートしているのですが、一貫して分離教育が推進されてきたように外形的には受け止められるものの、通常の教育における理解啓発の重要性を認識し、その充実発展に向けての努力もあったことが小西信八の軌跡から知ることができます。現代流のインクルーシブ教育が意識されていたわけでは全くありませんが、通常の教育への障害児教育の浸透に柔軟な姿勢で尽力したことは、現在の「インクルーシブ教育システムの構築」にもつながるところがあるように思われます。
 残念ながら、師範学校付属小学校における特別学級の附設は広く浸透することなく、附属学校は実験学校としての性格を有しながらも、各地のエリート校として広く認識される存在になっていきました。しかし、国立教員養成大学の見直しの動きの中では、次のような文言も認められます。

 非教員養成系の大学に置かれている学校、あるいはいわゆるエリート校と呼ばれる学校についても同様に、すべての国立大学附属学校は、附属学校の本来の使命・役割に立ち返り、多様な入学者選考の方法を実施すべきである。(*10)

⑤特別支援教育への寄与
 教員養成系大学・学部のほぼ全てに特別支援学校がある特性を活かし、附属学校間のネットワークを構築しながら、発達障害のある児童生徒への対応、指導方法等についての調査研究を進める。
 さらに、附属学校を特別支援教育の理解と実践を深める場として位置付け、附属特別支援学校において附属小・中・高等学校等の児童生徒の体験活動、附属小・中・高等学校等教員の特別支援教育に関する研修などを実施するとともに、附属小・中・高等学校等での日常的な教育活動で特別支援教育の視点を重視した取組を進める。
 また、附属特別支援学校において、児童生徒の社会での人間関係の構築の仕方や職業観等を涵養する学習活動に関する調査研究を実施する。(*11)

 小西信八は、強引かつ拙速に対応することに気を付けながらも、常に当事者の立場に立って物事を考え、主張すべきことは主張し、教育の改善に努めました。本稿で示したように、障害がある子どもの教育を発展させるためには、通常の学校や教員の理解が不可欠として、法規の改正への取り組みや関係者への働きかけを惜しみませんでした。
 小西の描いていた通常の教育への障害児教育の反映は一代限りで潰え、小西の評価は一部の研究者の間だけに留まっていたように思われますが、「インクルーシブ教育システムの構築」との関連において、改めて精査することは大いに意義深いことと受け止めています。

*1:愛知県立豊橋聾学校創立百周年記念事業実行委員会(1998)『聴覚障害教師の嚆矢吉川金造先生』
*2:一般財団法人全日本ろうあ連盟(2022)「文部科学省に「ろう教育について」の要望書を提出」
https://www.jfd.or.jp/info/2022/20220711-yobo05-monbu.html
「全国盲啞学校においては、聾児の日本人たる以上国語の理解は大切であり、国民思想涵養のためにも全聾唖学校では口話教育に奮励努力せよ」の記述が認められるという。
*3:文部科学省(2020)「特別支援学校幼稚部教育要領 小学部・中学部学習指導要領」
https://www.mext.go.jp/content/20200407-mxt_tokubetu01-100002983_1.pdf
*4:京都大学点訳サークル(2011)「点字以前の盲教育」
http://kyototenyaku.g1.xrea.com/nf/nf11_2.html
*5:秋葉馬治先生祝賀会編(1964)『秋葉馬治先生伝』
国会図書館デジタルコレクションで閲覧可
*6:官報第5667号(明治35年5月28日)
国会図書館デジタルコレクションで閲覧可
*7:文部科学省(1900)「小学校令改正(抄)(明治三十三年八月二十日勅令第三百四十四号)」
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318016.htm
*8:官報第7136号(1907)「文部省訓令第6号」
国会図書館デジタルコレクションで閲覧可
*9:中村満紀男・岡典子(2016)「師範学校附属小学校特別学級設置勧奨に関する明治40年文部省訓令第6号の政策的再評価」『福山市立大学教育学部研究紀要』4,pp.69-83
*10:文部科学省(2017)「教員需要の減少期における教員養成・研修機能の強化に向けて -国立教員養成大学・学部、大学院、附属学校の改革に関する有識者会議報告書-」
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/077/gaiyou/__icsFiles/afieldfile/2017/08/30/1394996_001_1.pdf
*11:文部科学省 国立大学附属学校の新たな活用方策等に関する検討のための有識者会議(2009)「国立大学附属学校の新たな活用方策等について」
https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/giji/__icsFiles/afieldfile/2009/04/02/1259551_15.pdf

『富士山理論』との出合い ~なぜ「社会科の道」を選んだのか?~

 社会科の教科調査官時代、次のようなご質問を度々いただいた。
 小学校ではすべての教科を受けもっている。中学校ならいざ知らず、小学校で特定の教科(私の場合は社会科)に絞って研究すると、ほかの教科が手薄になるのではないか。
 実は私も小学校の教員を17年ほど経験したが、若いころ同じような悩みを抱えていた。社会科の専門性を磨きたいがほかの教科も疎かにはできない。それどころか明日の授業も覚束ない。それが私のありのままの姿である。
 ところが…である。
 教員経験8年。2校目の学校で『富士山理論』に出合い、私の考えは大きく変化する。
 浦和市(現さいたま市)立大久保小学校から高砂小学校に異動。その学校で大先輩(元校長)から「高砂小パート研修の歴史と伝統」について講話をいただいた。そのときに『富士山理論』という耳慣れないこの言葉に出合ったのである。
 目から鱗が落ちる思いであった。
 高砂小では国語、社会、算数、理科、音楽、図工のいずれかの部会(パート)に所属し、授業研究を中核に据えた教育課程の研究を進めている。毎年2月に1年間の集大成として研究成果を子どもの姿(研究授業)で世に問う自主発表を継続して行っていた。私の所属はもちろん社会科パートである。
 この研究スタイルでは、高砂小に勤務している限り研究するのは社会科だけ。他の教科は授業を見て学ぶだけである。しかしこのままで大丈夫か。社会科以外の教科の指導力は身につくのだろうか。この素朴な問いが頭をよぎり、次第に大きくなっていった。そんな矢先に出合ったのが『富士山理論』である。その理論とは…こうだ。

 教科を通して人を育てる。それが教科教育の本質であり、学習塾との違いでもある。こうした実践的指導力を高めるには1つの研究教科を定め、実践的指導力を極めることが大切である。それはなぜか。
 平らな床に広げた布の一点をつまみ持ち上げたときの様子を思い浮かべてほしい。富士山のような姿が現れ、つまんだその一点が高くなればなるほど裾野は美しく広がり、結果的には撮んだその一点だけでなく相対的に高まるのである。これを小学校教員に求められている実践的指導力の研究・研修に置き替えてみよう。撮んだその一点が社会科であれば、社会科の実践的指導力を極めることが、その裾野となる他の教科の実践的指導力をも高めることにつながっていくのである。

 ところで、なぜ私が「社会科の道」を選び、それを極めることができたのか。いま改めてふり返ると小学校時代から教員時代まで、数々のエピソードが蘇ってくる。

◇中山道の一里塚と東海道五十三次
 私が生まれ育った埼玉県鴻巣市は中山道の宿場町。
 子どものころから探検と称し、まちを貫く旧中山道沿いの勝願寺(仁王門や伊奈忠次・忠治の墓など)やまちはずれの一里塚を訪れ、それらを歴史図鑑で調べるなど歴史にまつわる史跡や旧跡を巡るのが大好きだった。
 それがきっかけで歌川広重の東海道五十三次カード(ふりかけのおまけ)集めに凝り、日本橋から京都まですべての宿場を空で言えるようになっていた。

◇吉見の百穴(ひゃくあな)と行田の稲荷山古墳
 小学校時代には歴史クラブに所属し、探検は次第にエスカレートしていった。
 隣町の吉見にある百穴や行田の埼玉(さきたま)古墳などを仲間とともに巡検した。そのとき、偶然にも稲荷山古墳の発掘現場を目の当たりにする。ここで出土した鉄剣に刻まれた文字が後々歴史的な大発見となり脚光を浴びるのだが、それは後の話である。

◇大久保古墳と郷土学習室づくり
 初任校の大久保小で再び運命的な出合いが私を待ち受けていた。大久保古墳群との出合いである。
 家庭訪問の際、ある子どもの一言に思わず驚きの声を上げてしまった。
 「先生、うちの庭にあるお山は古墳だよ」
 それが大久保古墳群との出合いである。
 大久保古墳群とはさいたま市桜区大久保・白鍬地区の鴨川沿いに分布する5世紀後半から6世紀ころの遺跡である。
 これを機に土曜の午後など時間を見つけては学区内を巡検した。すると古墳だけでなく条里遺構や鎌倉街道など歴史学習の手掛かりとなる地域素材を発見した。さらには、農家の蔵の中に昔のくらしを知る手掛かりとなる農具や民具が眠っていることも発見した。それらを集めて郷土学習室づくりに着手し、足掛け3年で完成にまでこぎつけた。
 このとき集めた遺物や素材を教材として活用し、実物に触れる、現場に立ち想像を膨らませるなど “諸感覚を働かせリアルに学ぶ授業” を行ったことは言うまでもない。

 さて、3つのエピソードを紹介したが、いずれにも共通しているのは『もの(遺物や遺跡、文化財など)』との出合いや歴史の現場に立ち諸感覚を働かせてリアルに学ぶ体験的な学びである。
 多感な小学校時代にこそ必要不可欠なこの体験的な学びが年々失われつつある。本当にそれでいいのか。
 タブレット端末の活用を否定するわけではないが、長い人生の将来をも左右する小学校時代の学校教育に何が必要なのかをいま一度立ち止まりじっくりと考えてほしい。
 それが将来の教育を担う若い先生方への切なる願いである。

「ユネスコ教育勧告」のエッセンス(その5) 「ジェンダー」

ジェンダーって世間が考える「男らしさ」「女らしさ」のこと。男は強く、たくましく、女はやさしく、つつましくって、最初から男は主役、女は脇役、って決まっているみたい。
でも、いったいだれがいつ、どうやって、決めたの?そんな決まりに、産まれたときから運命みたいにしばられるなんて、ヘン。そんな決まりにワタシやボクが従わなければならない理由なんてどこにもない。
それにそんな決まりだって、産まれたときや住んでいるところやまわりの環境によってどんどん変わる。ワタシはワタシ、ボクはボク。人生の主役になって、「自分らしく」生きたらいい。

上野千鶴子
やまざきひろし他(2021)
『答えのない道徳の問題: どう解く? 正解のない時代を生きるキミへ』 ポプラ社, p.77.

図1
図2
出典:聖心女子大学グローバル共生研究所(https://kyosei.u-sacred-heart.ac.jp/unesco2023/

ジェンダーとは

 このシリーズも5回目となりました。今回のテーマは「ジェンダー」です。紙上でも使われるようになった「ジェンダー」ですが、一般的には生物学的性差(sex)とは異なる社会的性差(gender)として用いられます。近ごろは、単に性別を指すのに「ジェンダー」を用いることもあるようですが、このカードでは社会・文化的性差を問題にしています。
 カード表面のエッセンスの文章として「教育にジェンダー平等を それは女子・女性を 勇気づけることの鍵」と書かれています。これは、私たちの社会には男女の差異によって差別がまかり通っていて、特に女子・女性がその被害を被っており、その解決にはなによりもまして教育が重要であるというメッセージの「超訳」です。「勇気づける」は裏面にある原文の「エンパワー」を訳した表現です。
 このカードにも3つの問いが添えられています。

ジェンダーを理由に、辛い思いをしたことがありますか?あるいはそのような苦労をした人を知っていますか?
日本は世界的にみてジェンダー平等が達成されていないと評価されていますが、なぜだと思いますか?学びの場で改善できることはありますか?
学びの場で性的マイノリティの子どもたちも暮らしやすくするには、どのような工夫が必要だと思いますか?

 カード型教材を用いたワークショップでは①の質問をめぐり、次のような体験が共有されていました。「女の子は料理できるようにならないとね、とお父さんに言われたことがある。」「女子なんだからおしとやかにしないと、と母に言われた。」「女子生徒は理系には向いていない、と聞いたことがある。」……等々。こうしたジェンダーバイアス(性別をめぐる思い込み)の例は多くの人が苦なく挙げられるのではないでしょうか。
 一方、「男のくせにくよくよするな!」と言われ、辛かったという参加者もいました。こうした意見を踏まえて、教材作成時にカード表面の「女子・女性」を変えるべきか否かという検討もしましたが、勧告の原文に則り、そのままにすることに決めたという経緯があります。
 ②はカード裏面に情報源がある「ジェンダー・ギャップ指数」での日本の低さに由来する質問です。2025年の日本のジェンダーギャップ指数は148ヵ国中118位でした。これは先進国では非常に低い順位で、G7では最下位です。この総合指標を分野別に見ると、教育や健康は中位(50〜60位台)であるにもかかわらず、政治や経済の分野では100位台にとどまっています。この背景には女性の政治参加の低さや企業等における管理職の少なさがあります。また研究者の女性比率もOECD(経済協力開発機構)諸国の中で最低クラスです。ワークショップでは、育児や家事の負担を女性が担いがちな現状をめぐって、家父長制などの課題が議論されたり、女性の議員や管理職の比率を高めるために北欧諸国などで導入されてきた「クオーター制度」を例に社会制度的な課題が議論されたりしていました。(カードの裏面に掲載の二次元コード情報「ジェンダー・ギャップ指数」も参照してみてください。)
 ③の質問の背景には、性自認や性的指向などが多数派とは異なる人々、例えば、トランスジェンダーやバイセクシャル、ノンバイナリーなどの人々への理解や配慮が、特に学校では不十分であるという現状があります。性的マイノリティの子どもにとってストレスの原因となり得る制服の強制や更衣室の問題に対して、スラックスやスカートなどの選択制や更衣室として多目的ルームを活用する例が挙げられていました。

台湾社会を救ったオードリー・タン

 ユネスコ教育勧告のキーワードの1つは「変容的教育」です。この用語について勧告では次のように説明しています。

変容的教育は教育の場における学習者の尊厳と多様性を認め、尊重する。学習に対するあらゆる障壁を取り除き、学習者がクリティカルに省察し、変化をもたらす主体(agents of change)となる。自らの未来の主人公(protagonists of their own future)となるように動機づけ、エンパワーし、個人、コミュニティ、地域、国家、地域圏、グローバル、それぞれのレベルで十分な情報にもとづいた意思決定と行動を可能にさせる。(日本国際理解教育学会暫定訳(第3版))

 上記の引用文の「自らの未来の主人公」になるという表現に注目したいと思います。このくだりは「人生の主役になって、『自分らしく』生きたらいい。」という冒頭に引いた上野千鶴子の言葉と重なります。「主人公」の原文はプロタゴニスト(protagonist)。「protos(最初)」+「agonistes(戦う者)」から成るギリシャ語で「最初に戦う者」から「主役」という意味になった言葉です。
 カード型教材は勧告の原文に則り、「女子・女性」を取り上げていますが、前述のとおり、男性はもちろんのこと、それら以外の性を自認しているマイノリティの人々も社会の中で平等に「主人公」となる権利があることはいうまでもありません。ここで簡単にではありますが、教育によってその権利が守られ、ひいては社会全体にも恩恵をもたらした人物を取り上げることにします。
 皆さんは台湾初のデジタル担当大臣、オードリー・タンはご存知でしょうか。タンはまさに「変革の担い手となり、自らの未来の主体として行動」した人物です。台湾史上初のトランスジェンダーの大臣として日本でも話題になりましたが、コロナ禍においてITを駆使してマスクが全ての人々に行き渡るように「マスクマップ」のシステムを構築したことで世界的に注目されました。
 ただ、学校時代のタンは、当時の管理的でかたくなな台湾の公教育制度および性に関する偏見に非常に辛い思いをしたようです。そんな状況において独自の自主学習を続け、天才プログラマーとして活躍するほどにITの知識や技能を身に付け、コロナ禍では台湾全域の人々を守った救世主となったのでした。こうした活躍を可能にしたのは、心優しい先生との出会いやオルタナティブな教育であったことは母親の手記などを読むとよく分かります(参考文献2.および3.を参照)。性にまつわる偏見に悩まされた若者が自分のニーズに合った教育を通して「自らの未来の主人公」となり、その恩を社会全般に返したという話は、ジェンダーへの配慮がいかに社会全体にとっても重要なのかを示唆しているといえましょう。
 なお、「ジェンダー」に関するカード型教材をさらに発展させて学ぶ方法として、具体的な人物の調べ学習もおすすめです。特に、環境や平和の問題に取り組み成果を挙げてきた多くの活動家は女性です。2004年のノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイ、環境活動家のグレタ・トゥーンベリ、自然保護活動家でチンパンジー研究の世界的権威のジェーン・グドール、エコ・フェミニストであるヴァンダナ・シヴァ等々、枚挙にいとまがありません。これらの「変革の担い手となり、自らの未来の主体として行動」した人物についての学びは、きっと次世代をエンパワーすることにつながるでしょう。

「ジェンダー」イラスト解説

このカードのイラストは「虹」が
テーマとなっています。

この世界にはたくさんの色があり、様々な色の中で私たちは
「生きている」ということ。
そして、風を感じながら
「生きる」ということ。

そのような想いを巡らせる中で、
虹色のリボンが風にたなびく
イメージに辿り着きました。

©Kei Ikeda

【参考文献】

  1. やまざきひろし他(2021)『答えのない道徳の問題:どう解く? 正解のない時代を生きるキミへ』ポプラ社
  2. 近藤弥生子(2021)『オードリー・タンの思考 IQよりも大切なこと』ブックマン社
  3. 李雅卿・朱佳仁・唐宗浩(2025)(近藤弥生子訳)『オードリー・タンの母が語る「自主学習のすすめ」』集英社新書
  4. 加藤秀一(2017)『はじめてのジェンダー論』有斐閣
  5. 開発教育とジェンダー研究会(2024)『すべての人が生きやすい社会へ:教育をジェンダー視点で見直すヒント集』開発教育協会(DEAR)
  6. 「わたしたちがつくる平和・人権・持続可能な開発:日本のエデュケーターのための14のエッセンスと42の問いかけ(ユネスコ教育勧告カード型教材)」聖心女子大学グローバル共生研究所/日本国際理解教育学会
    https://kyosei.u-sacred-heart.ac.jp/unesco2023/

社会科で消費者教育を学ぶ意義

1.はじめに

 公民的分野の学習で馴染みの深い法教育、経済教育、消費者教育、主権者教育、租税教育。このうち一つだけ、他と異なる教育があります。それは何でしょうか。
 正解は消費者教育です。消費者教育のみ法律名になっており、他の教育は法律名には入っていません。正式名称は「消費者教育の推進に関する法律」(平成二十四年法律第六十一号)、略称が「消費者教育推進法」です。
 ただし誤解がないように。だからといって、他の教育より上位にある、と言いたいわけではありません。本稿では、社会科で消費者教育の「学び!」を深めることが要請されている、いやむしろ消費者教育のめざすところが社会科教育に近づいてきている点について、法律の変遷に沿って述べたいと思います。

2.消費者保護基本法―保護される対象としての消費者―

 日本で消費者教育という言葉が本格的に登場したのは高度経済成長期と言われています。森永ヒ素ミルク事件(1955)、カネミ油症事件(1968)などの消費者問題が多発する事態を受け、1968年に消費者保護の立場から消費者保護基本法が制定・施行されました。同時期には各地に消費生活センターが誕生し、1970年には国民生活センターが発足しました。このうち消費生活センターでは、消費者相談を受けるばかりではなく「騙されない消費者」になるための啓発事業、消費者教育が展開されたのです。
 消費者保護基本法では、国や地方公共団体に対して、消費者の保護に関する施策を策定・実施する責務が課されました。家庭科、社会科の学習指導要領(解説)に消費者保護の内容が入ってきたのはこの頃からです。ただし、1960年代から80年代にかけての消費者教育は、家庭科や技術・家庭科(家庭分野)での学習が中心でした。

3.消費者基本法―消費者の自立の支援をめざして―

 高度経済成長が終わりを迎えた後、無限連鎖講(ねずみ講)、連鎖販売取引(マルチ商法)、霊感商法、キャッチセールスなどの被害が相次ぐようになりました。そこで、国は割賦販売法を改正してクーリング・オフ条項を加えたり訪問販売法を制定したりして、消費者保護政策を推し進めました。しかし、1990年代後半からの規制緩和、金融システム改革(日本版金融ビッグバン)により、商品先物取引などのデリバティブ取引、仕組預金や仕組債などの複雑な金融商品など、元本保証のないハイリスク商品の売買が気軽にできるようになりました。そこで、新たな手口での消費者被害の発生を防ぐために、「自立した消費者/賢い消費者」を育てることが学校教育に強く期待されるようになってきたのです。
 こうした中、2004年に消費者保護基本法が消費者基本法へと全面改正され、消費者の権利の尊重と消費者の自立支援を消費者政策の基本とすることになりました。平成20(2008)年版学習指導要領で、社会科において法や金融、消費者に関する学習の充実が図られたのは、このような社会的要請によるものでした。ただし、まだ「消費者教育は社会科ではなく家庭科で実施を」といった感は否めませんでした。

4.消費者教育推進法―消費者市民の育成をめざして―

 2012年に、消費者教育推進法が制定されました。同法では、消費者教育の目標を、個人の消費生活の向上のみならず公正で持続可能な社会の実現に向けたエシカル消費などを実践する「消費者市民」の育成とされました。法律に定められた「消費者市民」の概念は、社会科で育成をめざす「公民」に包含される部分が大きく、社会科は、家庭科に加えて消費者教育を担う中核的な教科になったと言えるかもしれません。
 このことに関連して、「中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 社会編」には、次のような記述があり、示唆に富みます。

消費者の保護…の意義を理解することについては,(中略)また,消費者も自らの利益の擁護及び増進のために自立した消費者になることとともに,個々の消費者の特性及び消費生活の多様性を相互に尊重しつつ,自らの消費生活に関する行動が現在及び将来の世代にわたって内外の社会経済情勢及び地球環境に影響を及ぼし得るものであることを自覚して,公正かつ持続可能な社会の形成に積極的に参画することが期待されていることや,どのような消費者行政が行われているのかということについて理解できるようにすることを意味している。

(筆者が付した下線部は、消費者教育推進法第2条2項「消費者市民社会の定義」が引用されたもの)

 公民的分野の授業では、教科書にも記載のある、商品選択のめやすとなるマークであるエコマーク、国際フェアトレード認証ラベルなどを事例として扱うことで、自ずと消費者市民としての自覚が涵養され、かつ社会科の目標の一つである「よりよい社会の実現を視野に課題を主体的に解決しようとする態度」が育まれることが期待されます。

【参考文献】

  • 拙稿「消費者問題の歴史と展開」日本消費者教育学会関東支部監修・神山久美他編『新しい消費者教育 第3版―これからの消費生活を考える―』慶應義塾大学出版会、2026年
  • 文部科学省『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 社会編』東洋館出版社、2018年

外部人材との協働はどのようにすれば上手くいくのかを考える

 新年度が始まるこの時期、学校では様々な関係づくりも始まります。教員と児童・生徒はもちろん、人事異動に伴う教員間、さらには保護者や地域住民など、学校に携わる様々なプレイヤー同士の関係構築は、学校運営上とても重要な要素であり、探究学習を進めていく上では、その重要性はさらに増すのではないでしょうか。

 近年、学校には実に多様な人たちが関わるようになっています。地域住民や企業人、NPO職員、大学関係者など、その背景も専門性も様々です。探究学習やPBLに焦点を当てるのであれば、こうした外部人材との協働の機会はものすごく増えてきていると思います。それは、実社会を題材に取り扱うことの多い学習の場合、当然ではある一方で、「授業において誰が何を担うのか」や「外部人材がどんな価値を学びにもたらしてくれるのか」といった悩みを教員から耳にすることは少なくありません。

 私はこれまで各地の学校で教員と外部人材の協働を軸にした探究学習を設計し、実践をしてきました。一つ具体的な事例を挙げると、福島県飯舘村立飯舘中学校(現いいたて希望の里学園)では、総合学習にガチャガチャやおもちゃを商品化するクリエイターや地方創生分野のコンサルタント、映像作家やラジオパーソナリティなど、多様な職業人が学びの伴走をしました。当時の飯舘中学校では、総合的な学習の時間を分野別で設定し、それぞれに教員と外部人材を配置して取り組みました。担当教員と外部人材は密に連携し、それぞれの役割を明確にして生徒たちと向き合っていました。この協働の文化はその後も続き、人事異動で教員が替わっても未だに飯舘村の学校の文化として残っています。特徴的だったのは、東京2020パラリンピックに向けて中学校のみならず小学校も巻き込んだ応援の取り組みの際に、学校現場から過去に連携した外部人材との協働の希望が上がり、全校児童・生徒でアートプロジェクトを実施したことでした。外部人材をその場限りの資源として捉えるのではなく、何かあれば頼れる存在として捉えることは、学びを豊かにする大切な姿勢でもあると感じました。


クリエイターと共に制作した村内の映えないものを集めたトランプ

 それでは、外部人材との協働はどのようにしたら上手く機能するのでしょうか。この答えは一つではなく、携わるプレイヤー同士がコミュニケーションを取りながら関係性を構築し協働を機能させる以外はないのですが、私は二つ重要なポイントがあると考えています。

 一つ目は、ビジョンの共有です。外部人材の活用は、学校の中だけの資源ではつくれない学びを、学校外との協働により共に創り出すことが目的になります。その際には、学校内では通じていた当然の表現や言語、さらには学校や教員が持っている文化を外部人材と共有する必要があります。授業のねらい、探究の問い、児童・生徒の実態、さらには外部人材に期待をすることなどを言語化することが不可欠です。これは、ビジネスの(あえて言うなら民間的)表現を使うのであれば、「プロジェクトマネジメント」に当たると思います。

 二つ目は、外部人材を「教員ではない人」としてではなく、「ひとりの職業人」として見ることです。教員は教育や指導のプロフェッショナルであるのは確かですが、外部人材もまたその分野のプロフェッショナルです。そこでは教員免許を持っているかどうかは本質ではなく、それぞれの現場で仕事をし、社会の中で役割を担っている職業人として理解をすることが重要です。その人がどんな仕事をし、その仕事が社会の中でどんな意味を持っているのかに関心を寄せることが、外部人材の活用と同時に探究を豊かにするのだと思います。


東京パラリンピック応援の全校児童生徒によるアート作品

 他方で、出会ったこともない、それまで知らなかった職業や職業人をどのように理解していくことができるのでしょうか。私は、その状態で一緒に児童・生徒と探究を進めていくこともとても探究学習的でよいと思いますし、生成AIなどを活用して予備調査をするなどすればより充実した連携が取れると考えています。一度の人生で複数の職業を経験し、多様な職業観を持つことが難しいのは当然です。しかし、そうした機会を教員自身が楽しめるかどうかが、外部人材を活用した学習の実践ではとても重要です。そのためには、頼れるものはAIも含めて大いに頼り、協働の相手に寄り添うことや、理解すること、リスペクトすることが大切です。業務も大変な新年度かもしれませんが、様々な資源やツールに頼りながら、クリエイティブな学びに挑戦してみてはいかがでしょうか。