プロジェクトは「夢」からはじまった

 私の海外での3つのプロジェクト(ピラミッド・ピナクルズ・ピサ)はPyramid・Pinnacles・PisaとPが3つ偶然重なったことで3P-PROJECTとして進めてきました。今回は前回掲載のトピックスVol.25「イメージ・あれ-これ」の中で「夢」からヒントを得て実現したピラミッドピナクルズのプロジェクトについて、綴(つづ)ってみたいと思います。
 その前に、私のイベントにおける「線」について。

「線」と「アート」

 地平線や水平線(ホリゾン)は地の彼方(かなた)や海の彼方に厳として天と地を分けています。「線」は又、実体ソノモノでないモノとモノとの間に現れることもあるでしょう。私は、空き地に、建造物に、外壁に、階段に、画廊に、シャッターに、池に、舗道に、私の赴くところに「線」を引いてきました。「線」からは所有・分割・時には立法の世界にも波及し、また「線」のおかれる状況によって、分離・接続・記号・感応・領域・占有・長さなどの概念が浮上してくるのを感じました。私のアートは、「線」を引くことによって、あらたな空間を演出する「補助線・ad-joint line」のようなものかも知れません。

1.ピラミッドへの線
 (1991年・ギザ市、第2カフラー王ピラミッド・エジプト)

ライン(白)はスコッチレーン、住友3M(ロール状の合金/幅60cm/粒状の反射材が塗布されたもの)

ライン(白)はスコッチレーン、住友3M(ロール状の合金/幅60cm/粒状の反射材が塗布されたもの)

 エジプトには、ピラミッドをはじめ、多くの古代遺跡(遺構)があり、数千年の歴史の時空間を超えて今も厳然として在ることに大変な感動を覚えます。ピラミッドは多くの謎解きと、神話世界を我々に与えつづけていますが、その形体が四角錐というミニマルでシンプルなところに私は関心をいだきます。太陽の陽射しの変化にともない現れるシルエットや稜線はピラミッドの形体や存在感をより強く、浮き彫りにし、私のコンセプトに刺激を与えるところです。そこでギザの第2ピラミッド(カフラー王)のー稜線(南西)に向けて砂漠から2kmのラインを引き、その線が天空へ至るという構想のプロジェクトを実施し、その記録をご紹介します。

「ドキュメント・メモ」から抜粋

 ナイル川の豊かな水域のオアシス。その中心都市カイロ。けん騒なハイスピード車の群れが流れ、その道の端には、馬車もロバもリズミックに歩く。これらの音の間にまにアラビックな音楽と、のびやかなるコーランが聴えてくる。この都市は、歴史の土がそのまま舞い上がり、時空間を超え、再び舞い降りてやがて人々だけが入れ替わっているような舞台に思えた。まさに混とん(カオス)の都市、カイロ。

1991年、夏
 カイロ市のナイル川の中洲にあるザマレック地区のー角のビル。早稲田ハウス(早稲田大学古代エジプト調査宿舎)のもとで我々スタッフー同はイベント開始を目前にしてしている。
だが、イベントにおける許可は大旨出ているものの、正式(最終)手続きのためにこの開始が予想に反して大幅に遅れている。このプロジェクトが考古省、情報省、観光省の3つの行政機関が絡んでいる事と、エジプト時間という事らしい。
 この間にスタッフ数人が、ピラミッドライン方向(南西)への地形、地質、障害物の確認チェックのためギザ市の現場に向かった。(7月21日~8月2日:現地準備期間)

測量ポイント割り出し

測量ポイント割り出し

 8月3日、ギザ市当局の砂漠にピンを打ち込むことは「発掘するのではないか」という見解や解釈に立ってきたため、「ラインを固定するのみ」と伝える。そのため、長官の計らいで考古省役人をピラミッドエリアの当局まで遣わし、そしてOKとなる。
 監督官立ち会いのもとで、作業を開始。「1991年8月3日、古代と現代を結ぶ線、ここにピラミッドへの線を開始いたします」と入魂の宣誓をする。測量によってライン設置方向のポイントが設定され、その直線上に基準点が打たれた。これらの基準点が砂漠に向かって、100m、…200m、…と伸びてゆく。炎天下で白熱の太陽が汗をも吸いとる。

ラインベース固定作業

ラインベース固定作業

 8月5日、朝5時起床。今日はライン設置の第1日目、朝6時出発。外はまだ薄暗い。カイロのWASEDA-ハウスからギザのピラミッドエリアまで車で約30分、明かりがともる町並みを疾走した。朝もやに包まれたピラミッドは、山水画のごとく、上部のみが悠然と空に突き出ている。ライン設置スタート地点(ピラミッドから2km)に到着して、驚いたことに前日の基準点のピンが消失していた。ラクダ隊(ベドウィン族の末裔)にとってピンは物珍しかったらしい。スタッフー同、気を取り戻して作業は続けられた…。現場からの帰り際、数10m先で竜巻が発生し、どこに潜んでいたのか知らないゴミを舞い上げ、すぐさまラインのー部も宙に浮いた。さあ、修理だ!補強だ!。自然現象に予想外の展開となる。

 8月6日、ラインは安全であった。現地人のラインの見張り番を二人つけ、番人のためのテントを張った。ラインは基準点をてがかりに次第に伸びて、着実にピラミッドに近づいている。ストレートに伸びたラインの白さもー段と冴えてきた。釘やピンやアルミベースの固定の効かない岩盤地帯にさしかかり、対応策に思案をめぐらす。スタッフー同炎天下のもとでは戦いの顔でもあった。ちょっとでも静止しようものなら、たちまちハエの標的となる。水分を求めて、抜け目なく人の目、鼻、口へとまとわりつく。ライン線上にかかる石や障害物を除去する作業も同時進行となる。思わず、幾分軽い石をつかんだかと思うと、それはラクダの糞(ふん)であった。灼熱の下では糞も石も等価値なのだ。

 8月7日、ピラミッドの足元まであと770mと迫った。急斜面にさしかかる強風地帯である。斜(のり)面の地表の向こうには悠然と第二ピラミッドが構えている。

夕日の中での作業

夕日の中での作業

 8月8日、あと540mと迫った。日中の気温は40度を超えている。作業開始から、情報省と考古省のインスペクター(政府役人)の監視のもとで、連日我々の作業が進められている。古代遺跡内のため、損傷のないようにアドバイスを兼ねながら立ち会っている。
 我々のアートイベントとは何なのか?といっていた情報省のインスペクターは、しだいに引かれてゆく線を遠く、近くを見ながら、「とてもすてきな線!」と言い出した。
 しかし、ピラミッドに近づくにつれ、固定用具(クギ、ピン、)や石の移動などの制限指示が多くなってきた。(世界遺産での現場であるゆえ)

ピラミッドへの線

ピラミッドへの線

 8月9日、ラインはピラミッドの南西りょう線の足元まで270mと迫った。考古省のインスペクターは、私にラムセス2世(新王国時代19王朝、強大な力でヒッタイト軍と戦い、世界初の国際的和平条約を結ぶ)の手づくり木製模型をプレゼントしてくれた。激励の意味深長なプレゼントで感激した。遠くにラクダがラインをまたいだ。ー瞬立ち止まってからの精いっぱいのステップであった。(砂漠でのラインは駱駝にとって、突如あらわれた見慣れないもの?)

 8月10日、あと150mに迫った。スタッフー同、再び緊張がみなぎった。ゴール手前30m地点は崖状の地形となるため、板を渡し、そこにロール(線)を張ってゆく作業となる。クギ、ピン、は一切使用できないためである。ふり返った砂漠の風景にー条の線が垂直に立った不動の構造に見えて、地を二分しているかのようでもあった。残すところ10数メートルとなり、最後の接続地点(稜線下)にはカフラ王の上部の化粧石と思われる落下石をフラットに敷きつめた。

 午後1時37分、ゴールのラインがピラミッドの南西稜線の足元にようやく到達した。スタッフー同、力を出し切った後の真空状態がー瞬、支配した。インスペクターたちは、土手から手を振ってくれて、またタイミング良く、この現場に今回のイベントの許可における政府交渉を含めて、全面的に協力をいただいた考古学者の吉村作治先生がわざわざ日本から駆けつけてくれました。私は関係者の皆さんに向かって感謝の意を表し、スタッフそれぞれの役割の結実がー条の線となったことをかみしめた。

 8月11日、空から見たギザのピラミッド。そこに第2ピラミッドの足元に接続された白線を確認できた。この線が天空に誘う道になることを願った。旋回するセスナ機の振動は、次第に私の感激の鼓動に変わっていくのを感じた。眼下に拡がるギザ市も美しき褐色のカオスの世界に見えた。

上空からの線

上空からの線

2.ピナクルズ(枯山水)プロジェクト イン オーストラリア
 (1995年・ナンブング国立公園・西オーストラリア)

 1995年8月、西オーストラリアのインド洋に隣接したナンブング国立公園内の砂漠地帯に、今から約8万年前に創成されたといわれるその砂漠に突出している奇岩群(ピナクルズ)があります。これらの岩を取り囲むように砂紋(サークルライン)を描くというものです。日本の伝統美学のーつである「枯山水」的世界をアートで表現するものであります。
 夜は人工照明によって、砂紋と岩を照らし、南十字星をはじめ天空の星座群と融合させ、更に水の音(水琴窟)を流して特異な幻想空間を砂漠に演出するというものです。
 国土保全庁(CALM)の許可のもとに、いよいよ開始されることになりました。

「ドキュメント・メモ」から抜粋

資材搬送

資材搬送

 8月7日、我々スタッフー行は成田を離陸、オーストラリアの州都(パース)へ向かった。
 翌日8月8日はピナクルズへの移動日である。まず、PICA(現代美術館)、CALM、日本国総領事へ挨拶と資材の調達のため二手に分かれて街中を駆け巡る。レンタカー3台のうち2台は発電機搭載のトレーラ車で雨の中の出発となった。次第に雨、風強く、時折すれ違う大型ロードトレイン車の風圧と強烈なしぶきを受けながら、深遠な大陸の闇(やみ)の世界へ突き進んだ。不安なスタッフの気持ちをよそに、ワイパーだけが左右に踊りつづけた。道中、ー瞬、月が垣間見えた。ピナクルズへの基点となるサーバンティスへ着いたのは夜9時を過ぎていた。

CALM(国土保全庁事務所)のホッキー氏と打ち合わせ

CALM(国土保全庁事務所)のホッキー氏と打ち合わせ

 8月9日、現地CALMのレンジャー事務所へスタッフー同、挨拶と打ち合わせのため立ち寄り、その後イベントエリアを確認をする。レンジャー・トップのホッキー氏が「砂の移動があって…」と告げた。確かに二年前の下見調査時と岩の雰囲気から砂の状態が違っているのが分かった。(自然は刻々と変化し、風雨のまえに砂の移動で砂漠も生きていると感じた。)

砂紋引きテスト/プロジェクトスタッフ一同

砂紋引きテスト/プロジェクトスタッフ一同

 8月10日、イベントエリアにテント設営。「ここは水惑星地球の天与の枯山水ピナクルズエリア。長い間の流動の果て、本体に復したかのようなピナクルズの沈黙の岩に生命の鼓動を呼び起こしたい。そしてわれわれはこの大自然の中でわずかに手を加えることによって宇宙生命の根源との対話を試みたい」との宣言で、CALMスタッフ立ち会いのもとでセレモニーを開始。この儀式の間、なぜか大雨であった。「枯山水」なのによくも「水」に縁があるものだ。岩の選定に、ネーミングを(岩の特徴をスタッフ同士の共通のサインとして)する。

 8月11日、砂紋を引く作業で、雨による水分多く含み過ぎた砂質は砂ダマの斑点が表出し、きれいな砂紋が引けないエリアがあった。そのため、スタッフー同「対応策」のミーティングが夜遅くまで続いた。ABC-TV局とチャンネル10TV局取材入る。夜間照明、光のレイアウト、砂中に埋め込む水琴窟の音響などをテストする。

砂紋引き

砂紋引き

 8月12日、CALMのオフィスを借り、グラインダーで熊手(砂紋用3種)の修正作業をする。終日、砂ダマの水分を抜くため、大掛かりな「砂を耕す作業」となった。(この作業は予想を越えた労力で、中でも直径38m余の砂紋エリアではスタッフ総出となった。)「耕す」作業は文化とほど遠いけれど、英語で「カルチヤー」だから「文化を耕すことになるだろう」と、自分に言い聞かせた。計画したほとんどの砂紋が完成してオープニングを待つばかりであった。しかし、午後から夜にかけて大雨止まず、危険なためライトショー中止。すでに観客が遠路パース方面から来ていたので申し訳なくも、大変に困った。(野外イベントの天候の怖さである)

夢/現実-砂漠に現れる1

夢/現実-砂漠に現れる1

 8月13日、晴天。昨日の風雨で、砂紋をー部修正する。水分を少し含んだ砂紋は、逆に固定し、クリアーなサークルラインとなった。雨が敵になったり、味方になったり。一般見学者・在パース日本総領事・PICA関係者が見学にあらわれた。夜、幻想的な月が出た。

夢/現実-砂漠に現れる2

夢/現実-砂漠に現れる2

 8月14日、イベントエリアの砂紋のまわりをペティキュアをつけたー人の女性が踊っていた。これは驚くことに「かつて夢にあらわれ、ペティキュアをつけたファションモデルの光景」の再現のようであり、このような偶然が不思議でならない。在パース日本人会ー行、日本からのツアー見学者ー行到着。西陽を受けたエリアはー面、黄金色となる。夕日が美しくインド洋に沈む。夜は満点の星。幻想空間の中に、水の音が響いた。遠くに設置したランタンの灯りが地上の星に見えた。イベント最終日の夜であった。

昼/上空から

昼/上空から

 8月15日、岩、砂紋、エリアを平板測量で記録する。描いた砂紋は全て自然に復す。夜、スタッフー同とCALMレンジャーとその家族を招いて完成慰労パーティを開いた。スタッフー同と多くの関係者に感謝しながら深夜まで話の花が咲く。

夜/ライティング

夜/ライティング

 8月16日、ピナクルズと別れの日。CALMオフィスへスタッフー同、お礼の挨拶。機材のー部を寄贈する。思い想いを胸に現場に別れを告げ、帰途パースへ向かった。

砂漠(ピナクルズ)で考えたこと

[初めての砂漠]

 砂漠では 自分が動かないと何もはじまらない そして動いても まわりは何も変わらない

[砂]

 ピナクルズの夜は 砂ー面乾いた雪のようだ 見上げた空は 星の砂群

[存在]

 私は 今ここにいる 100年後はどこにいるのか 1000年後はどこにいるのか

[見えていたはずの]

 ある岩を中心に砂紋を描く この砂紋の中に気づかなかった岩に出会う 見えていたはずなのだが 見ていないことになる

[敵=味方]

 雨の中でオープンセレモニー 終了すると止む 作業が始まると 又雨 やがて雨の水分で砂紋が明確に 雨が敵になったり 味方になったり

[穴]

 砂漠にピンホール大の穴 でも深さが分からない

[無数]

 私はピナクルズエリアにおいて 多くの岩と出会った 数えきれない程 多くなるのを日本語で「数がない」=「無数」という文字になる

[無時間]

 私は このエリアで「無時間」を感じた 「永遠の今」 いつでも「今」という時間である

[砂文字]

 イベントエリア内で スタッフによって発見された文字 WE LIKE YOUR WORK

本の紹介

「無ソノ フシギ ナ シクミ」唐木田 又三 著

topics_vol25-08哲学や禅で言う「無」に当たる独特な発想で「この現実は、実は何もないのだ」という。著者の長年あたためてきた思考によりまとめ上げ、現実世界をあらためて認識させる衝撃的な本。

発行:工房カラキダ(長野市篠ノ井山布施6350)
TEL:026-229-2433
定価:3,000円


様々な状況で算数・数学の学習内容を活用する力の育成

RooT No.05表紙

1.はじめに

 OECDが15歳児(高校1年生)を対象として2009年に実施した国際学力調査(PISA調査)の結果が、2010年12月7日に公表されました。日本の「数学的リテラシー」の平均得点は2006年の523点から529点へと上昇しましたが、統計的な有意差はありませんでした。さらに、参加国・地域のうちで日本は前回の10位から今回は9位とほぼ横ばいでした。この結果は、OECD平均よりも高得点グループを維持したとして概ね評価されているようです。
 「RooT」No.1『活用力をつける:PISA調査の問題から示唆される活用力育成のための指導のポイント』で山田篤史氏が指摘しているように、PISA調査の問題は、学校で学習した単純な知識・技能の習得状況を問うような問題ではなく、様々な状況で知識・技能を活用する能力を問う問題です。数学が用いられる状況については、「全国学力調査B問題に比して、かなり幅広い問題状況が想定されている」と山田氏も指摘しています。つまり、PISA調査では、ある問題状況で学習した知識・技能を、それとはかなり異なる状況の問題でも使える力が求められて、問われているといえます。

2.様々な状況で活用する力の育成の視点

 このような力は活用力の一側面にすぎませんが、PISA調査でも注目されているように、現在、学力の一部として重要視されています。このような活用力を育成するためには、次の2点が算数・数学科の授業づくりで留意すべき点だといえます。
 第一に、学習内容に対する様々な観点からのアプローチです。様々な状況で活用する力を身につけるためには、ある問題状況に直面した際にその問題の解決に必要な算数・数学の学習内容が想起できる力の育成が必要です。また、そのためには、学習内容を色々な問題状況で使えるような学習が重要となります。
 たとえば、線対称な図形の学習について、教科書では下記のように記述されています。

日本文教出版 「小学算数」6年上巻 P.6

日本文教出版 「小学算数」6年上巻 P.6

 ここでは、紙を折ったり紙面に作図したりする学習を想定していますが、それだけでなく、ブロックなどを使っての線対称な図形づくりや、身の回りから線対称な模様を探す活動を通して、線対称な図形という学習内容にアプローチすることも必要です。
 第二に、算数・数学の学習で学んだ内容を使ってみようとする態度の喚起です。どんなに学習内容についての理解が豊かになったとしても、それらの学習内容を活用しようとする態度が身についていなければ、子どもたちは主体的に学習内容を活用することはありません。ともすれば、学習における活用力の重要性や算数・数学学習の有用性を理解しているのは教師だけで、子どもたちは十分に理解していないことも考えられます。それでは、算数・数学の学習内容を他の問題状況で活用しようという態度はなかなか育ちません。したがって、まずは子どもたちの学習に対する考え方(学習観)を見つめ直し、子どもたちが活用力の重要性や算数・数学学習の有用性を感じるような指導を行いたいものです。
 算数・数学学習の有用性が分かっていることは、算数・数学の学習に対するメタ認知と呼ぶことができます。一般的にメタ認知とは「認知についての認知」と呼ばれる概念で、ここでは、算数・数学学習で学んだことは色々な状況で使うことができ、それによって、直面する問題を解決できるということが分かることを指します。このようなメタ認知を育てるためには、「算数・数学の学習内容を活用して、問題解決に成功した体験」が重要であると言われています。さらに、「算数・数学の学習内容を使ったから、問題解決に成功したんだ」という振り返りによって、「次も算数・数学の学習内容を使うと、問題解決ができるかもしれないぞ」という考え方を育てることが可能になってくるのです。

3.おわりに

 活用力の育成に向けて、教科書の内容に応じた算数・数学的活動だけではなく、様々な算数・数学的活動を取り入れた授業づくりの必要性を指摘しましたが、全ての学習内容で様々な活動を行うことは、限られた授業時間を考えると無理な話です。したがって、子どもにとって理解が難しい学習内容やその後の学習で活用されるような学習内容について、重点的に様々な活動を取り入れることが有効でしょう。もちろん、教科書ではその学習内容の基礎的な算数・数学的活動を取り上げていると言えますから、それを疎かにすることは本末転倒です。まずはそれぞれの学習内容に対する基礎的な算数・数学的活動を丁寧に行った上で、目の前の子どもたちに応じてさらなる算数・数学的活動を検討すべきであると考えます。その際には、学習内容を身の回りの事象と結びつけ、その理解を一層深めることを意図した「いち・に・算活」の内容も有効に活用できると思います。

【参考資料】
加藤久恵、濱中裕明「研究成果報告(II)算数・数学教育チーム」『活用型学習の指導方法及び評価方法等の研究 兵庫教育大学(株)ベネッセコーポレーション共同研究プロジェクト報告書』P.48-106(2010年)


地域コミュニティの形成と学校の役割

■ 自立した地域社会

 学校が、その役割を十分に果たすには、地域社会との連携・協力が不可欠であることは理解され、かつ実践されてきている。
 一方、学校教育における諸問題の中には、地域社会の教育力の弱体化に起因する問題が指摘されていることも事実である。また、社会変動やアイデンティティの希薄化など地域社会の存在そのものが問われるようになってきている現状もある。
 ここに学校と地域社会との関係を、地域コミュニティという概念で整理する必要性があると考える。なお、地域コミュニティとは、「地域社会が自らの課題に対して自らの力を統合して解決していく」ことのできる「自立した地域社会」(平20・中教審答申)と定義する。
 旧来の自然発生的な地域共同体である地域社会と異なり、意図的に創造されるべき共同体としての地域コミュニティという概念を用いることによって、学校と地域社会との連携の在り方について、新たな視点が得られると考える。
 以下、宮崎市における学校と地域自治区が連携した二つの取組を紹介する。

■ 開かれた学校づくりと学校評価

 宮崎市における学校評価は、各学校での自己評価に加え、中学校区(地域自治区)ごとに10名程度で構成される学校関係者評価委員による学校関係者評価を行っている。
 学校関係者評価の目的は、「学校と保護者と地域住民が、学校運営の現状と課題について共通理解をもち、解決への建設的な協働作業を行うこと」(「宮崎市学校関係者評価委員設置要綱」)である。
 学校評価を契機として、それぞれの学校の教育的課題が保護者・地域住民にも共有され、その課題解決に向けて保護者・地域住民の協働作業を学校がコーディネートしていくことは、開かれた学校づくりとして重要である。
 また、学校評価を、学校のみならず学校関係者評価委員自らが保護者・地域住民への説明責任の担い手になることで、〈地域と学校〉から〈地域の中の学校〉という関係性に保護者・地域住民の意識が変化するものと考える。

■ 学校と地域自治区を結びつける学校支援地域本部事業

 学校支援地域本部事業は、学校と地域社会で双方向の相互補完的な支援関係を構築し、子ども達の人間関係を広げる機会を提供することによって、子ども達の多面的な発達を促進することができる。
 宮崎市では、地方自治法に基づく地域自治区が設置され、地域住民の意見を市政に反映させるためそれぞれに地域協議会が設けられ、その活動の実践組織として、まちづくり推進委員会が組織されている。
 学校支援地域本部事業では、この地域協議会・まちづくり推進委員会と学校が地域コーディネーターの調整のもとに連携・協力している。地域社会が学校の教育活動を支援する学校支援ボランティア活動や、学校が地域行事への参加など地域活動を支援する活動を双方向で推進している。
 双方向での支援活動によって子ども達は、地域社会に対してアイデンティティを獲得することができるものと考える。

■ 地域コミュニティの形成

 学校と地域社会の連携は、単に学校や地域社会の教育活動の充実という視点だけでなく、学校づくり、地域づくりというより大きな視点をもって推進されなければならない。
 紹介した二つの事例は、双方向で連携することで、教育環境を子どもの発達に有用なものにレベルアップする試みであり、地域住民を含めた学校づくりは地域づくりに、地域づくりに関わる学校は学校づくりになることを意図している。それは、開かれた学校づくりという理念の実現であり、「自立した地域社会」すなわち地域コミュニティの形成をめざすものである。

 アンケート調査(「市広報№794」平21.12)の結果、地域活動などが衰退したため住んでいる地域のつながりが10年前と比べて弱くなったと約半数の市民が感じている。また、安らぎや安心、子育てのためにも地域のつながりは必要とする市民は約9割である。
 そのような中で、地域社会の教育力のアップを視野に入れ地域コミュニティによる問題解決の取組を始めた学校は、過渡的な負担感を負っているのが現状である。地域社会のバックアップが欠かせない事を最後に指摘しておきたい。
日文の教育情報ロゴ

英国王のスピーチ

(C)2010 See-Saw Films. All rights reserved.

(C)2010 See-Saw Films. All rights reserved.

 今年のアメリカ・アカデミー賞に12部門にわたってノミネート、作品賞、監督賞(トム・フーパー)、主演男優賞(コリン・ファース)、オリジナル脚本賞(デビッド・サイドラー)の4部門を受賞した「英国王のスピーチ」(ギャガ配給)は、前評判通りの傑作である。
 吃音障害に悩む国王と、その矯正に務める言語矯正士の出会いと対立、和解を、英国らしいウィットとユーモアに満ちて描いている。それが、なんともほのぼのさわやかな感動を覚える。

(C)2010 See-Saw Films. All rights reserved.

(C)2010 See-Saw Films. All rights reserved.

 1925年。のちのイギリス国王ジョージ6世(コリン・ファース)が国王になる前、まだヨーク公だったころ、大英帝国博覧会の閉会のスピーチをすることになる。ヨーク公は国王ジョージ5世の次男で、幼いころからの吃音障害、内気な性格である。父は厳しく、容赦なく、ヨーク公を人前に立たせる。
 ヨーク公は、たどたどしく、「私は…ここに…」、「国王の言葉を…」、「預かり…」としか言えない。緊張のあまりスピーチができない。
 見かねた妻のエリザベス(ヘレナ・ボナム・カーター)は、ヨーク公とともに言語矯正の専門家を訪ねるが、いい専門家にめぐりあえない。そして、オーストラリア人のライオネル(ジェフリー・ラッシュ)というスピーチ矯正の専門家にたどりつく。ライオネルは、シェイクスピア役者に憧れてロンドンに出てきたが、夢叶わず、いまはスピーチ矯正で生計を立てている。正式な免許や資格などは、ない。
 頑固でやや型破りな性格のライオネルは、ヨーク公といえども平等に扱う。患者は診察室に来ること、それぞれ愛称で呼び合うことを宣言する。また、ヨーク公の心を開かせるためにぶしつけな質問を繰り返し、ついにヨーク公は怒りだす始末。
 ちゃんとしゃべれるようにと、ライオネルはヘッドホンで音楽を聞かせながら、シェイクスピアの「ハムレット」のセリフをヨーク公に読ませる。効果なしと思ったヨーク公は、ふと、レコードに録音されたセリフを聞くと、そこには吃音がなく驚く。

(C)2010 See-Saw Films. All rights reserved.

(C)2010 See-Saw Films. All rights reserved.

 1936年ジョージ5世崩御、ヨーク公の兄が、エドワード8世として即位する。しかし、国王は離婚歴のあるアメリカのシンプソン夫人と恋に落ちる。国王エドワード8世は王の座よりも恋を選ぶ。ヨーク公はやむなくジョージ6世として国王を継ぐことになる。
 新国王はふつうに会話ができても、緊張するスピーチでの吃音はまだ治らない。戴冠式を控えて、国王はライオネルを臨席させ、なんとか無事にスピーチを終える。
 そのニュース映画を家族とともに見る国王。ヒトラーの演説もニュース映画に登場する。国王は、ドイツ国民を前にしたヒトラーの演説の巧みさに驚く。
 1939年9月。ヒトラーの率いるドイツはポーランドに侵攻、イギリスはドイツに宣戦布告、第2次世界大戦が始まる。ウィンストン・チャーチルをはじめ、政府要人の見守る中、英国国民に向けた国王の演説が始まる。
 国王に扮するコリン・ファースとスピーチ矯正役のジェフリー・ラッシュの身振り、表情、セリフが絶品。身分の相違を超えて育んでいく信頼関係が、ユーモアたっぷり、きめ細やかに描かれる。
 決して、なりたいとは思わなかったのに国王になったジョージ6世。シェイクスピア役者になりたかったのになれなかったライオネル。この二人の出会いと訣別、和解、ふれあいを通して育まれた信頼と友情のかたちに、心ふるえる。控えめながら、国王の妻エリザベスを演じたヘレナ・ボナム・カーターは、献身的に夫に尽くす役どころをさらりと演じていて、見事。
 ベートーベンの交響曲第7番の有名な第2楽章が挿入される中、自らを鼓舞し、国民の気持ちを奮いたたせようとする国王のスピーチには、だれしもが素直に感動するはずである。
 英国の王室のありようについては、いろいろな議論があると思う。映画はそれぞれの置かれた状況、立場で、いかに生きようとすればいいのかを伝え、多大の示唆に富む。

2011年2月26日(土)より、TOHOシネマズ シャンテico_linkBunkamuraル・シネマico_link 他にて全国公開

■「英国王のスピーチ」

監督:トム・フーパー
脚本:デヴィッド・サイドラー
2010年/イギリス×オーストラリア合作/カラー/ビスタ/ドルビーSR、ドルビーデジタル/118分 
原題:The King’s Speech/字幕翻訳:松浦美奈
配給:ギャガ


「校長先生」が少なくなりました

■小さな研究会で

 ある離島の研究会に招かれて講演に行った。海が荒れると島に渡れないこともあって前日に到着した。
 夕食は世話役の先生たちと一緒だった。
 私の前の席に、人柄の優しそうな、この先生は子どもに好かれてるだろうな、と思う40代の男の先生が座った。
 「この頃の学校はどうですか?」
と私は何となく質問した。するとその先生は「校長先生が少なくなりました。」と答えた。
 「エーッ、どういうこと?」
 「校長先生というと、子どもが大好きな教育者で、子どもの家庭環境も、地域の人たちのこともよく知っていて、授業のことも一緒に考えてくれる人が多かったですよね。」
 「今は?」
 「管理職が増えたんですよ。校長先生が少なくなって…。」
 「もうちょっと具体的に教えて?」
 「例えば、うちの小学校は全校児童が100人ほどの学校です。今の校長さんは3年目になります。未だに子どもの顔も名前もおぼえていません。すぐに対応しなければという問題が起きて、校長先生に相談すると、校長室にもどって文科省や県の通知文を見て、”ミスのないように”と言うんです。まず保険をかけて、自分の身を安全な場所に置いてから仕事をする人が増えました。」
 地方にはまだ、のんびりとした良い教育が残っていると思っていた私には、正直これはショックだった。

■ この頃の学校で

 もう一つ、「学力が低い!」と県教委からはっぱをかけられている学校の校長さんと食事を共にしている時、「昔は給料から毎月、積み立てをして、全教職員で一泊どまりの親睦旅行で温泉に行ったりしてましたよねえ」と私が言ったら、

この頃 学校で減っていること
~宴席(親睦会)と教育談議~
この頃 学校で増えていること
~ぐちと他力~

と校長さんが返してきた。
 「なるほど、そのネタ、どこかで使わせてもらおー、もう他にありませんか?」

この頃 学校で強くなっていること
~説明責任と成果主義~
この頃 学校で弱くなっていること
~つながりと情熱~

とその校長さんは続けた。
 苦笑いするしかなかった。

■ 競争と管理強化ではダメ

 二人の先生の言葉は、今日の教育改革がもたらした一つの断面を突いているのではないか。
 本当にこういう学校現場で良いのだろうか。
 子どもの時によく遊んだ「伝言ゲーム」を思い出した。最初の人が次の人へ伝言し、次々と伝えているうちに最後に聞いた人が発表すると全然違ったものになっていたというゲームである。
 文科省の言っている「学力向上」「教員の資質向上」「学校評価や教員評価」「学校支援地域本部」などなどは決しておかしなことではない。今の時代、当たり前のことである。
 しかし、県教委・市町村教委・学校長と順に伝言されていくと、学校現場では先生方の仕事が増え、教育談議をする時間もなくなり、飲む会も減り、成果を求めて競争が激しくなり、つながりが薄れ、ぐちだけが増える。
 やがて情熱もなくした教員を心配する校長がミスのないように管理を強める。
 こんな伝言ゲームはもうやめよう。
 「先生方、元気を出して下さいよ。」「子どもたちとよく遊び、よく学び、よく話を聞いてやって下さいよ。」「子どもたちの笑顔があふれ、活気ある学校をつくりましょう!」「保護者や地域の人たちと一緒に、子育てを楽しみましょう!」
 最初に伝言した人はこう言ったはずなのに、どこで間違ってきたのかなあ。
 今月の給料から積み立てをはじめ、全員でパァーッと親睦旅行にでも行きますか?

著者経歴
元 大阪府堺市教育長
元 大阪府教育委員会理事 兼教育センター所長
元 文部省教育課程審議会委員
日文の教育情報ロゴ

「つながり」から学ぶもの

生活&総合教室No.60 表紙

 娘の通っていた同仁美登里幼稚園(東京都文京区)は、都会の真ん中にありながら自然に溢れていました。ビオトープの池に、カエルのタマゴが溢れるようになると春の到来を、トンボが飛ぶようになると秋の訪れを知ることができました。
 そして、春には池の端に生えてきたヨモギを摘んでヨモギもちをつくって食べ、夏には園長先生手づくりのシソジュースで喉をうるおします。収穫の秋になると、落ち葉をかき集めてお芋を焼いたり、軒につるしてある干し柿を食べたり…。
 消費社会に育つ娘にとって、こうした体験は貴重なものでした。スーパーに並んでいるのは、季節を問わない「食材」であり、命の営みとは切り離された存在です。この頃は、そうした「食材」を料理するのさえ、家庭から工場へととって代わり、口に運ぶものは、冷凍庫から電子レンジという二つの魔法の箱へ移せばできてくるものになっています。
 それだけではありません。そうした「食材」を購入する「お金」もまた、電子マネーやクレジットカードの普及により、見えにくくなっています。お家の人の働く姿も、働いて手にしたお金も、使うお金も…すべてのつながりを、子どもが想像するのは、ますます困難になっています。
 つながりが見えないと、様々な感謝の気持ちが失われるような気がするのです。命をいただくことへの感謝、調理していただくことへの感謝、働いて収入を得させていただいていることへの感謝…。いろいろなことが「ありがたいなあ」と思える、しあわせな大人になるためには、見失われたつながりを、一つひとつ取り戻す体験を、大人が工夫して子どもに与えなくてはいけないのではないかと、このごろ強く感じます。
 今、娘は小学3年生になりました。毎年、秋風を感じる季節になると、甘い幼稚園の干し柿を、そしてその柿を根気強くつるしてくれたり、取ってくれたりした幼稚園の先生方の手を、恋しがっています。

あんびるえつこ

あんびるえつこ

1967年、神奈川県横須賀市生まれ。
新聞社で生活経済記事を担当しながら、日本FP協会認定ファイナンシャル・プランナーの資格を取得。退職後は、新聞や雑誌の家庭経済に関する記事の執筆、全国各地の小学校、中学校でワークショップや講演活動などを行っている。
一男一女の母。
神奈川県消費生活審議会委員、経済教育学会理事。
著書は『「お金」のしつけ 子どもの「困った行動」に親はどう対処すべきか?』(PHP文庫)ほか。
あんびるえつこオフィシャルブログico_link


 

ティーンエイジ・パパラッチ(2010・アメリカ)

c2009 RECKLESS PRODUCTIONS ALL RIGHTS RESERVED

(C)2009 RECKLESS PRODUCTIONS ALL RIGHTS RESERVED

 まだ10代のころから何かに夢中になれることは、いいことかもしれない。もちろん何でもいいという訳ではないけれども。
 ハリウッドに住む13歳の少年が、映画やミュージシャンなどのスターやセレブを追いかけて写真に撮る。もちろん肖像権は関係ない。時には隠し撮りもする。ゴシップ雑誌がその写真を買う。それが面白いテーマなら1枚1000ドル以上にもなる。撮る方はパパラッチと呼ばれる。
 フェデリコ・フェリーニ監督の50年ほど前の映画に「甘い生活」があり、その中にゴシップ記事を書く記者が出てくる。有名人にまとわりつく蚊のようなところから「パパラッチ」というのだそうだ。事故死したとされるダイアナ王妃を追いかけたのも、イギリスのパパラッチだった。
 そのパパラッチの少年、オースティン・ヴィスケダイクを描いたドキュメントが「ティーンエイジ・パパラッチ」(クロックワークス配給)だ。彼は日本でいうと中学生になったばかりの年齢だろう。この仕事は大人の世界で、まっとうなものとは思えない。
 そんなオースティンに興味を抱いたのがハリウッドのスター、エイドリアン・グレニアーである。彼は、映画「プラダを着た悪魔」でのチョイ役のあとテレビで大ブレイクした俳優だ。エイドリアンは、撮る側のオースティンにカメラを向けることで、そもそも、なぜパパラッチが存在するのかを考えようとする。
 なぜ彼が、大人に混じって夜中までこのような仕事をするのか。学校の勉強はどうなっているのか。両親はどう思っているのか。著名人とパパラッチの関係は、などなど。
 スターやセレブはパパラッチを毛嫌いするが、彼らの中には迷惑半分や売り込み半分で、心よく思ってはいないけれどやむを得ないと諦めている人もいる。もちろん、パパラッチのおかげでそこそこ有名になった人もいる。

c2009 RECKLESS PRODUCTIONS ALL RIGHTS RESERVED

(C)2009 RECKLESS PRODUCTIONS ALL RIGHTS RESERVED

 両親が離婚したオースティンは、学校に通いながら父親と母親の家を行き来している。パパラッチになるきっかけは、パリス・ヒルトンをカメラで撮ろうとする群れを見てときめいたことから。そして最初に撮影したのがエイドリアンだった。
 母親は息子オースティンを信頼している。学校の勉強はちゃんとする、酒やドラッグには手を出さない、というのが条件だ。レストランでパパラッチはお断りと言われた父親は、息子のパパラッチ稼業をよくは思っていないようだ。オースティンは、「ぼくは自由だがそこには責任がある」と考えている。
 映画スターのマット・デイモンや、ウーピー・ゴールドバーグたちはパパラッチを毛嫌いしている。ウーピー・ゴールドバーグは言う。「写真を撮るならアニー・リーボヴィッツくらいの写真を」と、手厳しい。パパラッチたちは反論する。「スターやセレブは、名前を売っての仕事。そこにプライバシーはない」と。
 エイドリアンは、パパラッチの視点からスターやセレブを見ようとする。そして自らオースティンに教えを乞い、取材に同行、パパラッチの仕事がたいへんな時間と労力のいることだと感じるようになっていく。

(c)2009 RECKLESS PRODUCTIONS ALL RIGHTS RESERVED

(C)2009 RECKLESS PRODUCTIONS ALL RIGHTS RESERVED

 どのような写真が高く売れるのか、とのエイドリアンの問いにオースティンは答える。「セレブ同士が手をつないでデートしているところ」と。エイドリアンは、パリス・ヒルトンに頼んで疑似デートを敢行する。たちまちこれが話題となる。ゴシップの正体の一面だろう。
 若い人を対象にした、将来どのような職業につきたいかという調査では、上院議員や有名大学の学長になるよりも、セレブの荷物持ちになりたいという回答が上回ったという。
 オースティン自身も、子どものパパラッチという物珍しさでマスコミに出るようになる。オースティンの将来を心配した母親は、エイドリアンに言う。「こうなったのは、あなたのせいだ」と。そこでエイドリアンはあることを思いつく。 
 ドキュメントなのにいささか早熟の少年が自身の将来を見つめるという、まるで教養小説の趣。著名人が実名で現れるといった、虚実ないまぜのような展開はテンポが早くて軽快。監督したエイドリアンは、この作品でパパラッチ、セレブ、ゴシップ・マスコミという三者それぞれの立ち位置や関係を明かそうと試みる。
 オースティンはまだあどけない面持ちながらも14歳に成長し、自らの将来を夢見る。
 まだ十代で何かにのめり込むことは、本来の学業がおろそかにならない限りいいことだと思う。パパラッチよりも、たとえば報道写真家を目指すのならもっといいのだが。

2011年2月5日(土)より、新宿バルト9ico_link 他にて全国公開

■「ティーンエイジ・パパラッチ」

監督:エイドリアン・グレニアー
製作:エイドリアン・グレニアー/マシュー・クック
プロデューサー:バート・マーカス/ジョン・ロア/ロビン・ガーヴィック/リンダ・プリビル
編集:ジム・カーティス・モル
撮影:デヴィッド・セラフィン
2010年/アメリカ/95分/ビスタ/ステレオ 
原題:Teenage Paparazzo/字幕翻訳:島内哲朗
配給:クロックワークス


2011年から時空を旅すれば

大濱徹也

大濱徹也

 2011年は、2010年の政権交代が新しい時代の幕開けの予告とはなりませんでした。沖縄の基地撤去をめぐる日米関係の問い質しへの視点は失われ、北方領土をめぐる日露交渉もままならず、「平成の開国」なる言説が空虚に響いています。そんな中、日米、日露、日中関係だけではなく、国家が強く閉塞感にとらわれるなかでの幕開けのようです。
 そこで今回は、新年に際し2011年という年から、50年、100年、150年、200年と時代をさかのぼってどんな世界が展開しているかを読み取る作業をなし、歴史のミューズであるクレイオの相貌をかいま見ることで、歴史の闇や歴史が問いかける非情なる罠を、自分自身の眼で確認する旅をしてみませんか。

ロシアへの怯え―恐露病という世界 (200年、150年前)

 海に広く開かれていた日本は、中華帝国の枠組みに規定されるなかで己の位置をたしかめてきました。しかし18世紀以後の日本は、1873年に工藤平助が『赤蝦夷風説考』で描いたように、ロシア帝国がシベリアへ目をむけ、欧亜にまたがる大帝国への道を歩み始めるのと遭遇し、その力に怯え、恐露病といわれる病にとりつかれていきます。近代日本の外交はロシアとどのように距離をとるかで時に迷走していきます。まさに現在の政権はその迷路に佇んでいるかのようです。
 そこでまず200年前の世界から旅をして行くこととします。

 1811年5月26日千島諸島と満州沿岸測量の命を受けた海将ゴロヴニンは、ディアナ号で薪水・食糧補給のためラショアアイヌのオロキセの案内でクナシリ島トマリ沖に到来、6月4日にトマリ上陸、クナシリ会所で調役奈佐瀬左衛門と会見中に逃走、捕縛されます。7月2日ゴロヴニンら8人が南部藩士に護送されて箱館(現・函館市)に到着します。その後8月25日に福山へ到着します。
 ゴロヴニンは、1813年にロシアに戻ることができますが、幽閉中にロシア語を教え、その間の見聞を『日本幽囚記(にほんゆうしゅうき)』に認めています。そこでは、日本社会の様相や役人の気風などが紹介されており、表情のない婦人を死者の顔とも称しています。この言は、感情を現すことを未熟とみなす儒教の倫理がもたらした世界を、特に女性の厚化粧と口紅が「笹色紅」といわれるものであったことを端的に表現したものです。
 ちなみに1811年の箱館市中と付属村々6場所の戸口は、計2419軒・10622人。松前・江差と、同付属村々が計5263軒・19708人。東蝦夷地クナシリ・エトロフ共が12753人。西蝦夷地カラフト共が11014人、総計7682軒・54097人(「丙辰剰綴」「丙辰雑綴」)の由。
 1861年2月3日、ロシア艦ポサドニックが海軍根拠地設置を目的に対馬に来航し、停泊の許可を対馬藩に求めます(対馬事件)。6月3日、艦長ビリフレは芋崎付近の土地租借など12か条の要請書を対馬藩に提出しますが、藩はこれを拒絶します。7月9日、イギリス公使オールコックと英国東インドシナ艦隊司令長官ホープは、老中安藤信行と会談し、英国の力でロシア艦を退去させる旨を伝えます。同23日、ホープはイギリス艦2隻を率いて対馬に行き、ロシア艦に退去を要求します。同26日にロシア艦オプリニックが来航します。8月15日にはロシア艦ポサドニック、同25日にオプリニチックが対馬を去り、ひとまずことなきを得ました。この間、5月28日には、江戸東禪寺の英国公使館が水戸浪士の襲撃をうけています。
 北方の地では、3月に箱館奉行村垣範がロシア人の北蝦夷地南下で雑居のおそれがあるとして、国境画定が急がれると建議します。8月20日にロシア艦隊司令官リカチョフと領事ゴスケヴィッチは箱館奉行村垣範正と北蝦夷地国境画定を商議し、村垣はその急務を幕府に建言します。10月に幕府は、遣欧使節竹内保徳にカラフト国境を北緯50度として交渉するようにと訓令します。まさにロシアとの関係は、イギリスの軍事力に援護されながら、薄氷を踏むが如き歩みといえましょう。この対馬事件をはじめとする日露関係には、尖閣諸島への領有権を主張する中国への対応をめぐり、右往左往する現政府のうろたえぶりをどこか想起させる世界がうかがえるのではないでしょうか。
 なお、ロシア領事館付き司祭としてニコライが6月2日に来航します。ニコライは、後に戊辰内乱で敗残者となった東北諸藩士の心をとらえ、東北日本にロシアの国教であるハリストス正教を広げます。やがて東京のお茶ノ水に聖堂(ニコライ堂)を建て、全国に布教を展開します。

日本の内と外(100年、50年前)

 1911年2月21日日米新通商航海条約・付属議定書が調印され、念願であった関税自主権を確立します。7月13日、第3回日英同盟協約は米国を対象から除きます。ここには、日露戦争の勝利で世界の大国たる地位を手にした日本が、太平洋の覇権をめぐり、米国と対立していく兆しが読みとれます。
 韓国を併合して朝鮮とした天皇は、10月24日に朝鮮総督府へ教育勅語を下付し、教育を天皇の下におきました。総督府は、翌12年1月19日に謄本を管内学校に頒布する旨の訓令を出して日本の教育を徹底し、朝鮮人を良き臣民とする道に邁進していきます。
 中国では、1911年10月10日に清朝の打倒を目指す辛亥革命が始まりました。12月25日に上海に帰着した孫文が、29日に中華民国臨時大総統に選出されます。ここに中国は新しい歴史の渦に身を投じ、日本はその奔流に抗いながら流されていくこととなります。
 日本国内では、3月29日に初の労働立法である工場法が成立しましたが、資本家の抵抗で1916年9月1日まで施行されませんでした。大日本帝国は、国民に過酷な労働を強いることで、一等国の体面を取り繕いながらアジアの覇者たる道を歩み、アジアの怨嗟に曝されていきます。まさに100年前の1911年は、日露戦争の勝利を背に韓国を併合しました。そして、関税自主権を回復した日本は、名実ともに欧米的帝国として自立した道を走りだした年であっといえましょう。

 50年前の1961年は、所得倍増を掲げた池田内閣の下で、6月12日に農業生産の選択的拡大・生産性の向上・構造改革・流通合理化を掲げた農業基本法が制定されました。そして農村が資本の渦にまきこまれ、旧き農村が大きく変質していく道を歩み始めた年でもあります。こうして現在の農村は、再生への方策も提示されることなく、「平成の開国」なる国際化の波涛に翻弄され、漂流していくのです。
 2011年の年頭に立ち、時空の旅でみえてきた世界は、200年、150年、100年、50年前の世界を輪切りにした時、そこから想起できる世界が現在にみられることに気づかされませんか。
 まさに歴史をどう読み解くかは一人ひとりに問われているのです。


上町祭屋台天井絵「男浪図」葛飾北斎作

板着色/118×118.5㎝/1840年代中期

板着色/118×118.5㎝/1840年代中期

※葛飾北斎の「葛」という字は、PCの性質上、教科書紙面と違う表示になっています。ご了承ください。

 葛飾北斎は1840年半ば頃、80歳代で小布施を訪れたときに、上町(かんまち)祭屋台の天井絵を制作しました。「男浪(おなみ)図」は「女浪(めなみ)図」と一対で、それぞれ縦横およそ118cmの桐の板に描かれています。
 紺碧(こんぺき)の波はしぶきをあげながら、激しく渦を巻いています。その様子はまさに北斎の代表作「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を思わせます。波の描線に力強さがあり、見る者を飲み込んでしまうような勢いさえ感じられます。
 「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」はヨーロッパから渡ってきた顔料のベロ藍(あい/プルシアン・ブルー)を本格的に用いた作品として有名です。「男浪図」の波の青色もこれと同じ顔料を、さらに細かなしぶきは胡粉(ごふん/貝殻から作られる白い顔料)を用いたと考えられています。
 波の周囲に金箔の地の縁絵(ふちえ)があり、獅子や孔雀などの動物や数種類の花が所狭しと描かれています。これらの花鳥や動物たちはどことなくエキゾチックな雰囲気を漂わせています。なお、「女浪図」縁絵は下絵が現存し、一ヶ所のみ実物と絵柄が異なるものの、ほぼ忠実に描かれています。
 小布施滞在中の北斎に、地元の豪農・豪商である高井鴻山(たかいこうざん)の多大な協力があったと伝えられます。これにより、北斎は「男浪図」「女浪図」の他にも、東町祭屋台天井絵「龍図(りゅうず)」「鳳凰図(ほうおうず)」や岩松院(がんしょういん)天井絵「鳳凰図」を制作することができたのかもしれません。現存する鴻山宛ての北斎の手紙からも、当時の二人の親密な交流をうかがい知ることができます。

(北斎館 学芸員 池田憲治)

北斎館ico_link

  • 所在地 長野県上高井郡小布施町大字小布施485
  • TEL 026-247-5206
  • 休館日 12月31日(大晦日)

<展覧会情報>

  • 「冬と新年の肉筆画・摺物(すりもの)名作選」
  • 現在開催中 ※2011年2月2日(水)まで

展覧会概要

  • 肉筆画では、雪の風景や新年のおめでたい作品を中心に紹介します。版画では、彫師(ほりし)・摺師(すりし)の技術の高さが見られる摺物とのどかな江戸の風景が描かれた狂歌絵本について紹介します。

<次回展覧会予定>

  • 「北斎と葛飾派の門人たち」
  • 開催期間 2011年2月3日(木)~平成23年4月18日(月)

その他、詳細は北斎館Webサイトico_linkでご覧ください。