「北方領土」といわれる世界 3

承前

金刀比羅神社(撮影:Toto-tarou)

金刀比羅神社(撮影:Toto-tarou)

 北海道庁は、総力戦体制下の昭和10年代に国家の意向をうけ、「海陸無限に包蔵せる資源を開発すべき処女地」千島列島の調査をします。そこでは、開拓精神を発揮させるうえで信心信仰がもたらす精神的活力が注目され、島々に祀られている神社や寺院教会の所在調査が実施されました。なかでも神社は、厳しい自然に対峙し、困苦にみちた日々を生きる開拓移住者にとり、開発に耐えさせる精神的な糧として、かつ住民の協同性を支える器になりうるものとみなされました。北海道神社庁は、昭和14年の調査報告等をふまえ、このような神社の所在と現況調査をサハリン州立郷土博物館との共同研究として実施し、『北方領土の神社-千島・北方領土社寺教会日露共同調査報告書-』を平成17年に刊行しております。この報告書が問い語る北方の島々に生きた人びとの精神の営みは、北海道開拓にみられたものであり、遠く日本列島における神社創成の物語に連なるものです。

島々の営み

 千島列島はアイヌの人びとが居住し、ラッコ猟などによる毛皮はロシアや日本との交易品として重宝されていました。18世紀後半の天明寛政期頃からは、アイヌを使役した場所請負の下で鮭鱒の〆粕生産が中心となります。この間、松前藩が直接扱った交易品である「軽物」といわれた毛皮や鷲羽のための猟もわずかながら営まれています。寛政11年(1799)に高田屋嘉兵衛が択捉航路を開き、北の島々が開拓されていきます。
 国後場所を経営した村山伝兵衛は国後島泊に弁財天を祀ったといわれています。高田屋嘉兵衛は、文化3年(1806)に金刀比羅神社を島々への拠点となる根室と択捉島振別と有萌に創祀した由。北の島々は、18世紀末から19世紀初頭にかけて「和人」といわれた日本人が進出して開拓していくなかで、漁場を中心に神社が誕生していきます。
 明治維新後は、歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島へと日本人の移住入植が展開していくなかで、先に述べたような行政組織が整えられ、官庁が整備されていきます。そこでの産業は、9割が漁業と水産加工業で、他には林産・農畜産・鉱産などが営まれていました。調査時の昭和14年の水産物漁獲高の81%は昆布を中心とした海藻類、魚類が9%、水産動物が7%、貝類が3%。
 各島の特色は、色丹島で捕鯨や海藻採取、国後島で農業と牧畜業が営まれ、森林資源がある国後島と択捉島では林業も行われていました。昭和期には、国後島で金銀・硫黄などの鉱物採掘も実施されています。
 北部中部千島は、明治初期にラッコやオットセイが乱獲された後、大型独航船による北洋漁業が盛んとなり、占守島などには水産加工工場が造られ、夏場の出稼ぎでにぎわいました。いわば北方の島々は、開拓定住するよりも、漁期における出稼ぎの場とみなされていたのです。それだけに千島開拓が叫ばれた昭和10年代の課題は移住者の心をまとめ困苦欠乏にたえる「不退転の精神」の育成にほかなりません。北海道庁社寺兵事課の中村貞吉は千島調査の「復命書」でこの思いを次のように吐露しています。

民心の融和統一を計る上に於て神社を中心とするは最も便宜なり又本島の如き未開僻陬の地にありて何等の慰安もなく困苦缺乏に耐へ開発事業に従事するには不退転の精神こそ宗教に依りて培はるべし(略)
開発は生産力の拡充にのみ重点を置くことは不可なり宜しく物心両方面より為さざるべからず。而して精神的開発を先きにする必要あるとし神社宗教を開発の先駆たらしむる

 中村は、千島開発を成功させる上で、神社や寺院説教所を公費で支える必要があるとみなしたものの、制度的に不可能であるから、住民が祀っている神社を活用して精神生活をうながしていくほかないと述べています。開拓移住者は、生活を支える祈りの場として、生業の守護神をはじめ郷土の産土祭祀をもちこんでいます。それらは国家の祭祀体系からみれば許されるものではありませでした。しかしこのような民の営みこそは日本列島の住民が守り伝えてきた祈りであり、精神の絆でした。このような祈りのシステムは、北海道開拓をささえ、北方の島々にも展開していました。それは日本人の原初的な信心の在り方にほかなりません。

祈りの場

 島々に所在する神社の祭神で一番多いのは金刀比羅大神で、水晶島(1)、勇留島(1)、志発島(3)、多楽島(1)、色丹島(6)、国後島(13)、択捉島(8)の33社です。金刀比羅大神は、香川県の金刀比羅宮に連なるもので、漁業繁栄・航海安全への思いが託されたものです。ついで稲荷大神が7社で、択捉島に4社、水晶島、志発島、国後島が各1社。国家神である天照大神も7社で国後島3社、択捉島2社、色丹島と中・北千島に各1社となっています。ここには、千島列島における行政の拠点ともいうべき国後島に国家神の社があるように役場所在地にみられるものの、多くの島々は金刀比羅や稲荷を祀っており、漁業移住者からなる島の様相がうかがえます。
なお、敗戦時の昭和20年現在における神社一社あたりの住民人口をみると、最少が秋勇留島の神社で人口88人、最大が国後島で7,364人に対して30社、1社あたりの住民数242人です。国後島は、昭和14年の調査時における神社が14社であることからみて、国策による開発にうながされた移住者が官社にみられる国家の祭祀体系にかかわりなく己の社、民社を創祀していることがうかがえます。このような様相こそは、北海道開拓における村の形成と神社の創建にもみられたことで、日本人の心の在り様をものがたるものです。
 なお、北方の島々の名称はアイヌ語を和語に置き換えており、これらの地にはアイヌの人びとの世界が展開していたのです。
 歯舞 ハボマイ 流氷が漂着する海域
 水晶島 大きな波かぶりの岩
 勇留島 ユリトウ 鵜の島 秋勇留島 勇留島を兄と見立てて弟の鵜の島
 志発島 シボツトウ 鮭が群生する所
 多楽島 タラクトウ 鱈を取る小島
 色丹 シコタン 大きい村落
 国後 クナシリ 草の地

 島々に「和人」である日本人が刻した歩みはきわめて短く、1930年代に千島開発調査をしたように北の島々に向ける国家の目は弱かったようです。ここに読みとれる世界から「北方領土」とは日本にとって何かを考えたいものです。


「海鼠釉黒流描文大鉢」浜田庄司作

陶器/直径57㎝/1962

陶器/直径57㎝/1962

 陶芸の作品名は、長くて難しい漢字ばかりの名前でよくわからない?
 でもその名前には、形や素材、技法、描かれている文様など、作品を見る時の手がかりがたくさん隠されています。
 たとえばこの作品を見てみましょう。
 直径が60センチ近くもある大きな鉢です。作品名にある「海鼠釉(なまこゆう)」というのは、ナマコに似たまだらな色合いに仕上がる白く濁った釉薬(ゆうやく)のこと。その上には、柄杓(ひしゃく)を使って大胆に流し掛ける「流描(ながしがき)」という技法で、黒い釉薬が掛けられています。ゆっくり考えながら作ることができない一瞬の仕事ですが、浜田は大きな皿や鉢にこの技法を用いることを最も得意としていました。釉薬を掛けたときの勢いが、いきいきとした大らかな線になって器にそのまま表れていますね。
 「15秒プラス60年」、これは作家自身の有名な言葉です。15秒とは大きな器に釉薬を流し掛ける時間、そして60年は陶芸家としてのこれまでの経験や鍛錬のための長い歳月を意味しています。一見すると簡単にできそうに思えるかもしれませんが、釉薬を掛けるためのほんの短い15秒という時間は、そこにいたるまでの長い試行錯誤の積み重ねがあってこそ。「形は轆轤(ろくろ)に委(まか)せ、絵付けは筆に委せ、焼くのは窯に委せる」とも言った浜田の手には、頭で考えるよりももっと確かな無意識の経験が染みついているのです。
 ところで、このページを見た人はもう気づいているでしょう。そう、立体の陶芸作品は絵画などの平面作品に比べて、どんな形をしているかを写真から知ることがとても難しいのです。実物を見ると、写真で見るより複雑なデコボコがあったり、意外と平べったい作品だったり、写真では見えなかったところに面白い文様があったり、きっと新しい発見があります。ぜひ、美術館でいろいろな角度から作品とじっくり向き合ってみてください。

(京都国立近代美術館 研究員 中尾優衣)

■京都国立近代美術館ico_link

  • 所在地 京都市左京区岡崎円勝寺町
  • TEL 075-761-4111
  • 休館日 月曜日(祝日にあたる場合は翌火曜日)、コレクション展(常設展)展示替期間、年末年始

<展覧会情報>

  • 「パウル・クレー おわらないアトリエ」
  • 2011年3月12日(土)~5月15日(日)

展覧会概要

  • 油彩や水彩、糊絵具など、さまざまな素材を使って描かれたパウル・クレーの作品は、切って貼ったり、転写したり、裏に描いたりと、多彩な手法で創作されています。本展では、その制作プロセスに焦点をあててクレー芸術を紹介します。

<次回展覧会予定>

  • 「没後100年 青木繁展 よみがえる神話と芸術」
  • 2011年5月27日(金)~7月10日(日)

その他、詳細は京都国立近代美術館Webサイトico_linkでご覧ください。