『将来之東北』という世界

大震災の下で

 つくばの地で3月11日の地震に遭遇し、その後の始末で手首を骨折したため、連載を中断しました。その間、東北とは何か、東北―東日本から列島の歴史を読み直すといかなる世界が描けるかに想いをいたしました。そのような問いかけは『講談日本通史』(同成社 2005年)でこころみましたが、ここにあらためて東北日本とはどのようにみなされていたのかを問うことにします。

 東日本大震災から早くも3カ月、未だ瓦礫の処理も終わらず、多くの人びとが避難所生活を余儀なくされ、福島原発事故による放射能汚染は拡大の一途をたどり、故郷を追われて暮さねばならない人びとに明日の展望は開けていません。復興再生への歩みは、阪神淡路大震災と比べ遅々たるもので、未だ何も見えてきません。そこには、震災の規模に加え未曾有の原発事故という人災が重なることで、明日を読み取る想像力を欠落したまま、その場しのぎの対処療法しか想い着かない国家指導者の姿のみが眼につきます。このような惨たる情況を問い質すために、日露戦争後の東北を襲った「天保の大飢饉」に比定される「東北の惨状」をみつめ、「将来の東北」像を提示しようとした半谷清寿(はんがいせいじゅ)が明治39年に刊行し、41年に増補再訂された『将来之東北』(丸山舎書籍部)が提示した東北像を紹介します。

半谷清寿の東北

 半谷清寿は、1858(安政5)年に相馬藩士半谷常清の長男として相馬郡小高に生まれ、養蚕による地域振興に尽力、1900年に不毛の原野といわれた夜の森開拓に取り組み、理想の村づくりに努め、その記念として染井吉野の桜樹300本を植えました。現在の福島県双葉郡富岡町の“夜の森公園”と“桜並木”はここに誕生します。現在、富岡町は原発10キロ圏にある原発の町として、その地の住民は故郷を追われています。この惨状は住民の自力更生による村創りをめざした半谷の想いもしなかったことでしょう。

 半谷は、福島県会議員を経て1912年から衆議院議員となり、そこで養った人脈で「将来の東北」を構想し、その実現に努めました。『将来之東北』は、冒頭の「総論」で「明治維新と東北との関係」を次のように提示しています。

 近く四十年間我東北の歴史は、何ぞ其の惨絶悽絶なる。嗚呼、是れ天か人か。看よ、磐梯の噴裂、三陸の海嘯(かいしょう)、三県の凶飢、何ぞ其の悲惨なる。更に遡りて戊辰の役に於ける創痍亦何ぞ深痛なる。斯くの如くにして東北は不振より衰退に入り。衰退より滅亡に赴かんとしつゝありしものなり。去れば今日の東北は独り東北人の昏睡酣眠を許さゞるのみならず、奮然蹶起以てあらゆる艱苦と格闘して、自家の新運命を開き来らざるべからずの時に遭遇せるものなり。

 世人の東北を見る動もすれば以為らく東北は初めより不振の状態に在るものなりと。東北以外の人にして是等の感想を抱くは怪しむに足るなしと謂ども、東北人にして尚ほ之れと同一感想を抱き、東北の常に人後に落つるを甘んぜんとするものあり。惑へるも亦甚しと謂ふべきなり。今専ら産業に就いて言はんに、戊辰以前に於ける東北の産業は、之れを西南に比して優れりと謂ふ能はずとするも亦大に劣れるものにあらず。古来東北には各藩政の下に諸種の産業発達し、各其の部内の需用を充たせしのみならず、他方に輸出の道を開きたるもの亦少なきにあらざりき。然るに王政維新と共に藩政は撤去せられ、日本全国画一の治下に統一せらるゝに至り、其の名は即ち一視同仁なれど、其の実東北の西南に於ける一は敗者一は勝者にして、敗者は不利の地位に落ち、勝者は有利の地歩を占め、茲に優勝劣敗の実を現はし彼は興り是は衰ふるに至れり。

 戊辰の改革は独り東北のみならず西南も等しく百般の事物皆其破壊を受けたりしと謂ども、彼は優者の地位に立ちしを以て威力を挟さんで忽ち旧に倍する建造物を新設し得たりしが、東北は破壊の創痍容易に癒えずして新築造に與かる能はざるのみならず、敗敵を以て遇し犠牲に供せらるゝは之れありとするも、引て以て新企画に参与せしめらるゝが如きは曾つて之れあらざりしなり。斯くの如くにして東北は旧事物は破壊せられ、新舞台には立つ能はざりしを以て、各藩政の治下に漸く発達せし産業の如きも、又破壊の波動に由りて大頓挫を蒙らざるを得ざりき。

内村鑑三が東北に寄せる想い

 戊辰敗者たる東北という眼こそは、政治経済的に国家から放置され、後進地東北という観念を生み育て、東北人を「野蛮粗野」視したといえましょう。内村鑑三は、このような東北像に対し、半谷の求めに応じて「序」に「東北伝道―『将来之東北』へ寄贈せんために稿せる一篇―」を草し、「人は肉と霊とである、肉ばかりではない、亦霊である、霊ばかりではない、亦肉である、故に彼を完全に救はんと欲せば彼の霊肉両つながらを救はなければならない。」と問いかけ、東北人こそが日本人に精神の覚醒をうながす存在であり、その起爆力となりうるとの期待を表明しています。

 東北の特産物は意志でなければならない、霊魂でなければならない、即ち地より得る所が薄いから天より獲る所が厚くなければならない、爾うして是れ決して空想ではない、世界何れの国に於ても我が東北地方の如き地位と境遇とに置かれし国に取ては霊を以て肉に勝つより他に勝を制する途はないのである。(略)

 東北は真理の浄土となるにあらざれば関西併に西南地方に対立することはできない、若し薩州の産は其軍人であり、長州の産は其政治家であり、江州の産は其商人であるとすれば、東北の産は其正直なる高潔なる神の人であるべきである、若し東北の山野が其預言者を以て日本の天下を制すことが出来ないならば東北は実に永久西南人の奴隷として存せざるを得ない。

 かく説く内村の言説は、経済至上主義で奔ってきた現在日本を鋭く告発したものであり、東日本大震災に喘ぐ東北人に依って立つべき精神の在りかを提示しているのではないでしょうか。「真理の浄土」たれとの問いかけこそは現在まさに震災の闇に沈み泣く人びとに、明日の光をともすものといえましょう。次回はこの問いが語りかける世界を読み解くこととします。

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『講談日本通史』
大濱徹也 著
2005年 同成社 刊


線で描くという表現力の不思議

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今月のPhoto:放射能汚染が心配される福島ですが、自然界では、しっかり生命の営みが行われていました。田植えが行われる直前の水田でオタマジャクシが誕生していました。(郡山市)

 図工・美術の指導や自らの表現活動を通して、常々、不思議に思っていることがいくつかあります。それは人間の能力についてであったり、子ども達の才能であったりしますが、折々に、納得することを見つけようとしながら、その不思議に突き当たるたびに、美術教育の奥深さを感じたりもしてきました。ただ、それらのことに深く悩みすぎると、私の教育実践や美術教育研究が停滞する可能性がありますから、直視しないようにしてきたことでもあります。すでに解決済みの方がいるかもしれないと思いながら、今回は、そのいくつかを吐露してみます。私と異質な納得の仕方をしている方がいましたら、情報をいただける機会があることを願います。
 まず、線に関する不思議です。
 私が生徒や学生に、黒(濃緑)板を使って絵を描いたり、図に示したりして説明する時に、描画材は白色や黄色のチョークです。当然、絵や文字は、明るい白や黄色で描かれます。ところが、生徒や学生がノートやスケッチブックに描く線の多くは、黒の鉛筆です。彼らは何の違和感もなく書き写したり、黒板の図を参考にしながら描画したりしています。特に、黒板の図形に陰影をつけるときなどは、私自身が描いていて、明暗の逆転に違和感を感じることがあるにもかかわらず、彼らには、白黒の逆転を瞬時に行い、還元して描画する能力があるようなのです。
 私が幼少の頃に廃屋の中で発見した石盤・石筆をノートに用いていた時代には、そういった違和が生じなかったと思われます。生徒も先生も黒地に白の字や絵を描きながら授業を進めた筈ですから。それ以前の時代には、白い和紙に毛筆を用いるのが基本であったように思うのですが、家紋や拓本には、白黒の図と地の逆転表現があります。京都の大文字焼き(五山送り火)や近年各所に見られる電光掲示板なども、一般的な文字媒体とは異なる図と地の逆転表示を私たちは認識していることになるのでしょう。これらを単なる図と地の逆転能力として誰もができることにしてしまえない不思議として考え続けていたのです。
 というのは、私たちが行う木炭デッサンは、白い木炭紙に黒の諧調を用いて、視覚と類似した明暗の配置を描き出すことと言えますが、それは明るい紙に暗い方向に色をつけるだけの行為とも考えられます。その逆表現である黒い画用紙に白のコンテや色鉛筆で表現した経験のある方は、白黒逆転の戸惑いが理解できるのではないでしょうか。この時の戸惑いは、10段階等で示され木炭の明暗諧調の白側から描き始めるか、その逆かの問題であるわけですが、慣れるまで容易なことではないことを考えると、ごく自然に白黒を逆転させてノートを執っている生徒や学生が不思議だったのです。
 もう一つの線の不思議は、線で描かれた形をモノとして、誰もが認識できる能力です。線は文字や図や絵を描くための基本要素です。そして、授業や日常生活で多用され、自然や環境にあふれています。とはいえ、線そのものは存在せず、3次元世界に生きる私たちには概念でしかないようなのですが、私たちの想像力と線の演出は、豊かな表現力を支えてくれています。

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図−①

 その線で黒板に円(輪)を描き、その形から想像できるものを学生に考えさせると、多くの学生は「月」、「ボール」、「大福」などと線で囲まれた形の内部に想像したモノを答えてくれます。円(輪)の本来の形であるかもしれない「輪ゴム」と答える学生はほとんどいません。「月」に見立てていたその円に、図−①のような絵を描き加えると、円が「輪ゴム」や「針金」に見えてきます。これは正六面体(立方体)を描いた場合も同様です。線を輪郭線と認識し、線で囲まれた部分をモノと見立て「サイコロ」や「豆腐」に見えるのです。本来は、線を実態と認識し、線を棒状のモノと捉えるのが普通であるように思うのですが、幼い頃からの描画体験によって線で描かれたモノを想像できる能力が備わると考えられるのです。
 おそらく、描画材を初めて用いる幼児は、画面上を走らせた描画材の軌跡である線を楽しむのでしょう。そのうちに、閉じられた線の内側に何かのモノの形を発見したり、想像したりする経験が積み重なり、線描の能力や伝達性を獲得すると思われます。

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図—②

 図—②は頭足人と呼ばれる描画の発達期を示す作品ですが、線で囲まれた頭部と線そのものが実態として足部を表した線描認識の過渡期と捉えることができます。成長とともに線描の認識がすすんでも、線と輪郭線を使い分けることはありますが、多くの場合は線で囲むものが形として認識され、やがて、面の濃淡や線の疎密で陰影や質感を表すようになるのです。この線の獲得の発達は、言語表現の獲得と同様に、ビジュアルコミュニケーションや描画認識の手段として欠かせない能力であると思われます。

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図—③

 線による表現力の不思議は、線の塊が面として認識される点にもあります。図—③は、数本の線によって認識される面の例です。このような線の多様な表現性を用いて私たちは表現し、また、表現されたものが何であるかを認識したり、鑑賞したりすることができるのです。他の多くの動物にはない、私たちの造形的な表現性を支える不思議な能力です。

【今回は、導入事例をお休みします】


がんばっています!東北 子どもたちは未来に生きる

こんなこと、あるはずがない。

gamba_tohoku_mark_w3001 3月11日金曜日、短縮日程で子どもたちを下校させ、職員室で一段落していたときだった。
「グラグラ…」
最近この程度の揺れはしょっちゅうきていた。
「ああ、また地震か。」
そのうちいつものように止むだろうと構わずテストの採点作業を続けた。しかしなかなか止まらない。それどころかだんだん揺れが強く、大きくなってきた。
「これはまずい。」
立ち上がって、職員室のガスコンロの元栓を閉じ、乗っていたやかんを下ろし、食器棚を押さえようとしたときだった。揺れはいきなり大きくなった。ものがガタガタと音を立てて動き始めた。30数年前に記憶された宮城県沖地震の恐怖がよみがえった。
「外に出よう。」
先生方と声を掛け合い、急いで外へ飛び出した。掲揚塔のポールがぶるぶる震え、プールの水が右に左にあふれている。校舎も地面も壊れそうな程動いていた。しかも弱まるどころか、私たちの不安と恐怖をあざ笑うかのようにさらに強く、止むことなく揺れ続けた。
「ああ、終わりだ。このまま校舎は崩れていく…。」
諦めかけた頃、揺れはやっと弱まってきた。周りを見ると、屋根瓦が落ち、石塀が倒れ、丘がずり落ちていた。道路にもプールにも亀裂がはしっていた。
「これは、夢だろうか。」
 幸い、停電にはならなかった。テレビをつけ、ニュースに目をやった。夢ではなかった。あちこちの同じような状況が映し出された。しばらくして津波警報が出された。警報の津波の高さがどんどん高くなっていく。やがてテレビの画面に上陸した津波の映像が映し出された。ヘリコプターで撮影していたのだろうか。墨汁のようなどろっとした液体が、田畑や家屋、道路を次々に飲み込んでいく。走っていた車もその液体に飲まれ、消えていった。シミュレーションとしてCGでつくった映像なのかと思った。現実だとしたら、あの家にも走っていた車にも生きている人間がいる。命がこんなに簡単に奪われるはずがない。
「これはつくり話だ。こんなこと、あるはずがない。」
 翌日、東京電力福島第一原子力発電所1号機の建家が水素爆発で吹き飛んだ。そして3号機も…。
「原発は絶対に壊れない。だから安全・安心なんだ。」
ずっと聞かされ続けてきた。しかしその原発が次々と壊れた。壊れるはずのないもの、決して壊れてはならないものが壊れた。今も壊れ続けている。いつまで壊れ続けるのか。この先どうなるのか。未来はあるのか。子どもたちに何を伝えればいいのか…。
「こんなこと、あっていいはずがない。許されるものではない。夢であってほしい。嘘であってほしい。」

あれから三カ月、子どもたちは未来に生きる。

 福島県郡山市の小中学校は4月11日に始業式・入学式を迎えた。地震の被害で校舎や体育館が壊れた。また原発の事故で避難する子どもたちの動向も定まらなかった。通常より5日程遅らせ、その対応にあたった。そのかいあって、笑顔で一カ月ぶりの再会を果たすことができた。でも、どこに向かって、何をがんばればいいのか。先は見えなかった。
 震災前に図工の授業で取り組んでいた作りかけの作品が残っていた。ビー玉のコースターだ。一カ月も間を空けて、子どもたちは意欲を持って取り組めるだろうか。不安はあったが、続きをつくることにした。
「明日もやりますか。」
「もっとやりたい。」
「友だちとつなげていいですか。」
始めてみると、手を使ってものを作ることが、友だちと関わり合いながらものを作ることが、ビー玉を転がして遊びながらものを作ることが楽しくてしかたがないようだった。
 5月になって、ある企業から絵画作品募集の案内がきた。いつもなら見向きもしなかったが、「夢をえがく」というその趣旨に心が動いた。出品者全員に参加賞があるのも嬉しかった。賞品も図書カードや旅行招待などで、子どもたちも心躍らされた。いろんな夢が出てきた。空を飛ぶ夢、宇宙旅行、大きなケーキやパフェをお腹いっぱい食べること、世界中、宇宙中のみんなと仲良くなることなど。そんな中、震災で困っている人たちに家や食べ物や水を届けたいという願いを描いた子がいた。自分たちも大変だというのに…。
 子どもたちはやさしかった。子どもたちは未来を信じていた。先のことはどうなるか分からない。今できることは子どもたちとともに歩んでいくことだ。それが私自身の勇気と希望になることを子どもたちから教えられた。東北は、福島はがんばっている。でもそれは、目には映らないかもしれない。だから見守ってほしい。求めることなく…。


「グレーの森」 浅井忠作

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水彩(透明水彩)/紙/34.8×24.4㎝/1901

 明治洋画界の草創期を考えると、高橋由一は第一世代、浅井忠は、黒田清輝とともに第二世代に位置づけることができます。また、浅井と黒田は、対照的な作風の展開を見せますが、教育面の指導では両者ともに優れ、後世に大きな影響を及ぼしています。
 浅井は、安政3年(1856)江戸に生まれ、最初日本画を学びますが、工部美術学校でアントニオ・フォンタネージから洋画を習得します。明治22年(1889)、わが国最初の洋風美術団体の明治美術会を創設し、同会主催の明治美術会展に「春畝」「収穫」(いずれも重要文化財)を出品。脂ぎった褐色を主とする重厚で写実的な画風―脂派(やには)と呼ばれることとなります―を確立しました。
 しかし、浅井は、その地点に留まることをせず、さらなる画境の深化を求めてフランスに留学し、そこで風光明媚な地、グレー=シュル=ロアン村に出逢うのです。浅井は、グレー風景を数多くの珠玉の油彩画、水彩画で残していますが、グレーは、日本人洋画家にとって聖地といってもよく、黒田やほかの画家たちも訪れています。
 浅井の水彩画技術はとても優れていますが、それは、技巧に走り過ぎるものではなく、対象の真の姿を自己の琴線に共鳴させ、水彩絵の具の持つ透明感を最高度に発揮させて表現できる技術でした。
 「グレーの森」は春浅い時期なのでしょう、樹々の多くはまだ芽吹いていません。しかしそれだけに、薄緑色の葉をつけた樹に眼が惹かれ、その緑色が古城のお濠の水面に反映し、たゆたっています。暖かな陽光も感じられますが、この透明感が浅井の水彩画の特質をよく物語っています。

(泉屋博古館分館 分館長 川口直宜)

■泉屋博古館(せんおくはくこかん)分館ico_link

  • 所在地 東京都港区六本木一丁目1-5-1
  • TEL 03-5777-8600(ハロ-ダイヤル)
  • 休館日 月曜日(ただし、月曜日が祝日の場合は開館し、翌平日休館)・展示替え期間・年末年始
    ※今夏の電力供給状況によっては、変更になる可能性があります。

<展覧会情報>

  • 書斎の美術 ―明清の玉・硝子・金工を中心に― 〈特別陳列〉内藤湖南博士旧蔵の中国書籍
  • 2011年7月16日(土)~9月25日(日)

展覧会概要

  • 洋の東西を問わず、書斎という言葉には、特別な思いが込められた感があります。特に中国においては、書斎=文人の概念と結びつき、その空間は、一種の聖域ともなっています。本展は、その書斎を彩った美術工芸品―玉器など―を展示します。

その他、詳細は泉屋博古館Webサイトico_linkでご覧ください。