おじいさんと草原の小学校

cinema_vol64_01

(C)2010 British Broadcasting Corporation, UK Film Council and First Grader Productions Limited. All Rights Reserved.

 人間、死ぬまで勉強とか、生涯学習とか言われている。生きている限り、学ぶことには限界がない。学びたいと思う意欲があれば、それでよいのである。
 84歳、文字の読めない老人が、小学校に入学する。80歳近くも年下の子供たちに混じって、ABCから読み書きを習っていく。
 映画「おじいさんと草原の小学校」(クロックワークス配給)の舞台は、アフリカのケニア。ケニアは、イギリスの長年にわたる統治から、1957年に独立、2003年からすべての国民を対象に無償教育をスタートさせる。

cinema_vol64_02

(C)2010 British Broadcasting Corporation, UK Film Council and First Grader Productions Limited. All Rights Reserved.

 キマニ・マルゲ(オリヴァー・リンド)は84歳。読み書きが出来ない。ラジオのニュースを聞いて、勉強しようと、最寄りの小学校にやってくる。
 校長先生のジェーン(ナオミ・ハリス)に、勉強したいと頼むマルゲ。ある教師は、ノートと鉛筆2本が必要と、マルゲを冷たくあしらう。いくら断られても、何度も何度も、杖をつき、足を引きずりながら、入学を訴えるマルゲ。ズボンを子供たちのように半ズボンにしてまで、マルゲは入学を願う。
 狭い小学校である。3名くらいで机がひとつ、子供たちが優先と、周りが反対するなか、ジェーンは、何とか、マルゲの入学を許す。
 初めて文字を学ぶマルゲの表情がいい。喜ぶマルゲだが、時折、辛い過去が脳裏をよぎる。マルゲは、貧しい村の出身、教育を受けたことがない。かつて、ケニアが独立するための戦いに参加、イギリス軍によって、妻子は目前で殺害され、自身もひどい拷問を受ける。足が悪いのは、拷問のせいである。
 嬉しそうに勉強に励むマルゲだが、ことは順調にはいかない。マルゲのことがラジオで報道され、周囲の反対や干渉が露骨になっていく。ジェーン先生もまた、批判の対象となり、左遷話が持ち上がる。はたして、マルゲは、学び通すことができるのか。

cinema_vol64_03

(C)2010 British Broadcasting Corporation, UK Film Council and First Grader Productions Limited. All Rights Reserved.

 映画は、ドキュメンタリー・タッチ。じっさいにあった話に基づいているが劇映画である。マルゲに扮するオリヴァー・リンドが、過酷な過去にトラウマを持ちながら、学ぶ喜びに目覚める老人役を、リアルに演じる。
 世界じゅうのみんながみんな、なに不自由なく、教育を受けているわけではない。世界には、さまざまな事情で、小さいころからの教育を満足に受けられない人たちが、いまなお大勢いるのである。
 子供たちを前に「自由を!」と叫ぶマルゲ。勉強したいという思いを決してあきらめないマルゲ。過去の出来事は、マルゲにとって忘れることは出来ないはずである。マルゲは言う。「忘れてはならないが、前進しなくては」。
 マルゲは「私にとって自由は、学校に行き学ぶこと。私はもっと学びたい」という言葉を残し、獣医になる夢が成就しないまま、2009年に世を去る。
 マルゲの人生からは、学ぶべきことは多い。

2011年7月30日(土)より、岩波ホールico_linkほか全国順次公開

「おじいさんと草原の小学校」紹介Webサイトico_link

監督:ジャスティン・チャドウィック
出演:ナオミ・ハリス、オリヴァー・リトンド、トニー・キゴロギ 
2010/イギリス/カラー/シネスコ/ドルビーデジタル/103分
原題:THE FIRST GRADER
配給:クロックワークス


線と色の不思議

vol46_011

今月のPhoto:水位が下がった河原の石に笹の葉のような模様を発見。鮎が堅い口を横にして削ぎ取るように藻を食べた食痕です。姿は見えませんでしたが、豊かな自然を感じます。(会津美里町)

 前回の線の不思議で書き残したことがあります。それは線の多様な表現性です。私たちの優れた想像力と認識力と言った方がいいかもしれません。子ども達は紙や鉛筆がなくても、棒切れや指で地面や砂浜に絵を描きます。落ち葉を線状に並べて遊んだり、紙の短冊を貼りつなげて線に見立てることもできます。また、規則的な点の列を線として認識したり、2点を結ぶ直線をイメージとして抱いたりすることもできます。

vol46_03

図−①

 図−①は、東日本大震災の支援を終え飛行中の米軍機に向けて、宮城県の被災者が砂浜に棒切れを並べて描いたお礼のメッセージ「ARIGATO」です。図−②は、「ナスカの地上絵」(日文教科書 中学「美術」1年)です。いずれも線によって描かれていますが、線として用いた棒切れや地面の溝は、作者が線状に見立てる発想が文字や描画として成立させたと考えられます。「ナスカの地上絵」は、表土を取り除いたところに現れる白い土と表土との明度・色相差が線となっているようです。それは砂浜に描く線や地面に水で描く線などでも体験することができます。

vol46_04

図−②

 普段はあたりまえのように行っている行為でも、条件の異なる多様な線状のものを「線」として認識し、文字や絵の表現に活用する私たちの能力には、多くの不思議が隠れています。
 次に、色彩に関する不思議です。
 多くの語彙を獲得している学生達に、知っている色名を問うと、おおよそ50ほどの色名が挙げられます。シルバーホワイトやチタニウムホワイトなどの油彩絵の具にある材料色名等を加えても70色程度でしょうか。子ども達の描画やデザイン表現では、色名を頼りに色を選び配色を考えている可能性があります。もしそうであるなら、発想される色数は限られたものになってしまうと思われるのです。
 1枚の絵の中に、緑系と思える色を2色以上使わなかったり、鮮やかな赤と鈍い赤を響き合わせることに気付かなかったりする可能性もあります。色名に頼る色彩指導の限界を感じます。
 パソコンのモニターは、1677万色の表示が可能だとされています。優れたヒトの視覚は、それほどの色を識別できるのでしょう。ただ、私は以前から、それらが誰も同じ色に見えているのかが疑問でした。私自身、左右の目で色味が少し違って見えた経験があります。人によって、生き物の属や種の違い、あるいは個体によって、色が違って見えているかもしれないという疑問を抱き続けていました。
 魚類は、赤や青の識別ができると言われています。そして、赤を怖がらないというので、わざわざ赤に着色した釣り針まであります。その魚類とヒトの色認識を比べるのはナンセンスかもしれません。ヒトの目では、水中と空気での色が同じように見えるとは限らないからです。水槽等では、ほぼ同じように色は見えますが、海の中では、魚屋さんで見るのとは異なり、実に巧みな擬態をしている水中生物達に出会います。
 ヒトの視覚が認識する色幅は、虹色(スペクトル)で示されます。赤色は見えず紫外線が見えるといわれる昆虫は、紫外線がどのような色に見えているかを確かめようがありません。ヒトも微妙に見ている色に個人差があるのではないかと思われます。例えば、教科書にある12色相環を見ながら、照明を暗くしていくと、色視力が低下していくのを感じます。相当薄暗くなっても明度差は分かりますが、赤色や青色など、明度差の近い色の認識が困難となります。この現象には微妙に個人差があると考えられますし、また、個人においても体調等の状況によって色認識に多少の変化があることを意味しているのではないでしょうか。自然界にある色や街にあふれる装飾の色であっても、見る人によって、必ずしも同じ色に見えていないのではないかという疑問が起こりそうです。
 ヒトには、光源の異なる条件下においても、トンネル内等の特殊な光源を除けば、色相を認識する能力があります。蛍光灯下であっても、電球灯下であっても、それらが反射する色を太陽光の下で見る色に調整しながら見ることのできる優れた能力です。それでも、微妙に色認識が個々に異なる特質があるのではないかと思えるのです。

vol46_02

図—③

 ところが、図—③のような昆虫の擬態をみると、ヒトも昆虫も、鳥類も、同じように色を認識している可能性があると思われる場合もあります。彼らは実に巧みに擬態をします。その昆虫の擬態は、見つからないための対象がヒトとは考えにくいからです。昆虫にとって多くの場合は、捕食者から身を守ろうとする対象がヒトではなく鳥類なのかもしれないのです。
 一方、同じ昆虫でも、ヒトが見ている翅の色から雌雄の差がわからないと思われていたモンシロチョウは、紫外線の見える同種間では、雌雄が全く異なって見えていたという調査研究があります。そのことが一層違って見えると思う一因でもあったのですが、種によって知覚できる波長の幅に差があっても、緑や青を私たちと同じように知覚し、認識していると考えられるのです。そうでなければ、昆虫や魚の体表が、何のためにそのような色なのかを私たちが理解できない色で自然界は溢れているはずです。草原に紛れるライオンの色も、鳥が見ると波間に同化してしまうサバの背の模様も、キャベツの葉脈に沿うモンシロチョウの幼虫さえも、私たちの視覚は、しっかりとその意味を理解し擬態マジックに感動できるのですから。

【今回は、導入事例をお休みします】


「伝える」ことと「伝わる」こと

seisou_61

 TBSに入社してすぐに女性初のスポーツキャスターになりました。その時すごく苦労したのは、いかに“深く”視聴者に伝えるかということでした。ある選手がホームランを打つ。そのことを伝えるにしても、彼がどういう気持ちで打ったのか、というバックグラウンドをわかっているのといないのとではまったく変わってくるのです。それをつかむのに1、2年かかりました。
 「伝える」と「伝わる」は、一文字しか違わないのですが、意味がまったく違います。ニュースは読めば終わりではありません。聞き手に伝わっていなければ、仕事をしたことにはならないのです。伝えるための努力というのは、際限なくあると思います。例えば、滑舌をよくすること、話の構成を工夫すること、最も大切なことを強調すること、などです。でも、無骨でもいいから、一生懸命伝えようとする気持ちや熱意、これがなければ本当の意味で「伝わる」ことにはならないと思います。
 現在、千葉大学で教員をめざす学生さんに講義をしているのですが、1回目の講義で必ず言うのは「東京タワーに上ってください」ということ。東京タワーは333mですが、それを単なるデータとして子どもに伝えるだけの教員にはなってほしくないからです。実際にそこから見える景色や感じたこと、例えば、そこから見えるスカイツリーは、上ってみたら怖かったのか、逆に面白かったのかなど、自分が体験したこと、感じたことをプラスして物事を教えられるようになってほしいと思います。
 今の先生方は多忙感をおもちだとよく聞きます。学力向上はもちろんのこと、防犯、防災などの責任も負って、本当に大変です。重責を担う先生方には、頭が下がります。しかし、先生というのは、子どもが社会生活を学ぶ第一歩のところに立ち会って物事を伝える立場にあり、子どもにとってとても重要な役割を担うことも事実です。そういった意味で、わたしは先生方には大きな期待をもっています。是非頑張ってください。(談)

木場弘子

木場 弘子

千葉大学教育学部を卒業後、87年 TBSにアナウンサーとして入社。
在局中はスポーツキャスターとして、『筑紫哲也ニュース23』など多数のスポーツ番組を担当。女性スポーツキャスターの草分けに。
92年 与田剛氏(NHKスポーツキャスター)との結婚を機にフリーランスに。
現在は妻、母、キャスターの三役をこなす存在として、テレビ出演、コーディネーター、講演や執筆活動など多方面で活動。最近は教育や環境・エネルギーにかかわる活動が多い。06年、千葉大学教育学部初の特命教授に。生活者と国の行政をつなぐ立場を常に意識しながら活動している。
著書 『子連れキャスター走る!』(中央公論新社)
木場弘子オフィシャルブログ「幅広通信」ico_link


何のために勉強するの?

※4月、5月掲載分は、休刊させていただきました。

■ “勉強なんか、せんでもエエ”

 あの大震災大津波が起こった3・11の1週間程前、ある県の中学校の教頭先生と話をしていた。いろいろと課題の多い学校である。
 「授業中、校舎の見廻りをしてたのですが、2年生の誰もいない教室に男子生徒が1人、席に座ってゲームをしていたんです。
先生 “皆はどこに行った?”
生徒 “音楽室”
先生 “音楽の時間か、君はどうして行かんの?”
生徒 “勉強せんでもエエもん”
先生 “そんなことないやろ、高校へ行くんやったら、音楽もちゃんと受けとかんと!”
生徒 “高校なんか行かん!”
先生 “高校ぐらい出とかんと、仕事さがす時こまるぞ!”
生徒 “先生、仕事なんかせんでも生活保護で生きていけるで……。”
と言うんですよ。親を見てるんですかね。言い返す言葉がありませんでした。」

■ “みんなの役に立ちたいから”

 その1週間後、東日本大震災が起こった。
 家族を亡くされて、家も津波で流された人たちが、水道も電気もガスも何もない避難所で生活する様子が連日テレビで報道されている。
 そこには想像を絶する惨状が映し出されていた。
 小学生の女の子が2人、背中にお弁当や水を入れたモッコを背負って山道を登っていた。一人住まいのお年寄りの家に救援物資を毎日運んでいるという。
 「学校が始まっても、続けたいです。私もみんなの役に立ちたいから…」
 野球部の高校生たちが、
 「町のみなさんに応援してもらって甲子園に行けた。今度は僕たちが頑張らないと。」と言って、一生懸命水を運んでいた。
 「避難所のみなさんを励ますことができたら。」と中学生たちが、水につかった楽譜をきれいに拭いて、送ってもらった楽器でブラスバンドの演奏をしていた。
 聴いている避難所の人たちは涙を浮かべながら中学生たちに拍手を送っていた。テレビでインタビューを受けている東北の子どもたちは「皆で力を合わせて、この町を復興させたい。」「これからは私たちが頑張らないと。」など、どの子もしっかりと語っている。

■ 勉強するのは自分のためだけですか

 「しっかり勉強せんと、いい高校に行かれへんよ。」「いい学校出て、立派な会社に就職して、よい生活ができるように、頑張って勉強せなあかんよ。」という動機づけは、もう通用しなくなった。
 「別に無理して、いい高校に行かんでもエエ。」と教育を受ける権利を放棄されたら、勉強することを利己的な自分の利益のためとしている限り指導の余地はなくなってしまう。
 “教育を受ける権利”を子どもにまる投げしてしまうのは間違っている。
 “義務教育は無償とする”とあるように国民の税金を使って保障されている“権利”には“義務”も伴っていることをもっと明確にすべきだろう。
 そのことを今回の東北地方の子どもたちは見事に証明してくれている。
 知力も心も体力もしっかりと鍛えて、自分自身の生きる力をつけるのは、自分のためでもあるけれど、その力を地域のため、社会のために役立てることと不可分の関係にある。
 「自分たちの若い力が、この町に必要とされている。」「私たちも地域のみんなの役に立ちたい。」そう思った子どもたちは元気を出して頑張ることができる。
 いまだに水道も使えない避難所で、被災された人たちが、不自由な生活を強いられている時、子どもたちが一生懸命、お手伝いをしている姿は、教育の原点を考えさせてくれる。
 きっと今まで以上に思いやりのある優しい子に育ってくれるだろう。社会に役立つ人に育つために体力もつけ、勉強もしっかり取り組んでくれるに違いない。
 強く教訓としたい。

著者経歴
元 大阪府堺市教育長
元 大阪府教育委員会理事 兼教育センター所長
元 文部省教育課程審議会委員
日文の教育情報ロゴ

ちいさな哲学者たち

cinema_vol63_01

(c) Ciel de Paris productions 2010

 なぜ、フランスでは、「教育」をめぐっての、優れたドキュメンタリー映画が多いのだろうか? 「ぼくの好きな先生」、「パリ20区、僕たちのクラス」に続いて、またまた、フランスの「教育」関連のすてきなドキュメンタリー映画がやってきた。
 「ちいさな哲学者たち」(ファントム・フィルム配給)は、パリの近郊、ジャック・プレヴェール幼稚園が舞台。ここでは、3歳からの2年間、月に何度か、哲学のクラスが開かれる。
 フランスのある調査では、子供たちがネットなどでゲームをする時間が、平均5時間半という。信じられないが、恐るべき長さと思う。そのような事実もあってか、幼少のころから、自らの頭で考えさせようとする試みのひとつが、この哲学の授業、というわけである。
 さすがフランス。ルネサンス以降、モンテーニュ、パスカル、デカルト、ルソー、モンテスキュー、ヴォルテール、ベルクソン、サルトル、ボーヴォワール、デリダ、ラカンといった、錚々たる哲学者を輩出した国である。

(c) Ciel de Paris productions 2010

(c) Ciel de Paris productions 2010

 幼児クラスの担当は、パスカリーヌ・ドリアニという女性の先生。子供たちは輪になって座り、先生は、輪の中央に置いたローソクに火を点ける。いろんな国からの移民の子供たちだろう、アフリカ各国の黒人が多く、アジア系も目立つ。肌の色は違うが、差別などは一切、ない。カメラは、幼児たちの素直な言動を、丹念に捉える。
 先生は子供たちに問いかける。大人と子供の違いは? 友だちと恋人の違いは? 友だちは喧嘩するか? 兄弟は友だちになれるか? 頭がいいとはどういうことか? リーダーとは? 死とは何か? 愛とは? 男と女の違いは? 金持と豊かさの関係は? 自由とは? 大人は何でもできるか? などなど。 
 子供たちの発言は、さまざまである。いかにも子供らしいものから、大人顔負けの鋭いもの、常に両親や兄弟などの身近な家族と比較したりで、多種多様である。すぐに反対の意見を口にしたり、逆に質問をする子供もいる。
 初めは無反応だった子供たちだが、先生の巧みなリードで、子供たちは考え、語りはじめる。いまでは先生は聞き役、議論が脱線し始めると、さりげなくもとに戻す。興味がなくて、うとうとする子供もいるが、そこそこの議論に発展させる子供もいる。「他の人の話も聞けよ」と言ったりする。暴力を振るう子供もいるが、先生は静かに諭す。
 授業の後、友だち同士で話し合うこともある。ある女の子は、親に言う。「砂場でお友だちと愛と死について話をしたの」と。
 このような授業が、2年間続く。少しずつ、子供たちの目の輝きが増してくる。そして、「考えるのが好きだから」と言うほどの成長を遂げる子供もいる。
 なによりの効果は、授業についての親子の会話である。授業での話が、家庭にまで持ち込まれるのだ。

(c) Ciel de Paris productions 2010

(c) Ciel de Paris productions 2010

 子供たちは、繊細で柔らかなガーゼのようなものだろう。接し方ひとつで、いかようにも変わりうる。大人は、子供たちの話し合いを見守り、子供たちの疑問に、丁寧に答えることが重要だ。映画からは、子供たちが確実に成長し、子供たちに無限の可能性のあることが、じわりと伝わってくる。
 ちなみに、幼稚園の名は、シャンソンの「バルバラ」や「枯葉」を作詞し、映画「霧の波止場」や「天井桟敷の人々」など、多くの映画の脚本を書いた詩人ジャック・プレヴェールの名前にちなんだものと思われる。他にも、「星の王子さま」のアントワーヌ・ド・サン=テグジュベリ、「レ・ミゼラブル」のヴィクトル・ユーゴー、「嘔吐」のジャン・ポール=サルトルなどの名が、公立の学校名に冠されている。
 フランスは、「自由、平等、博愛」を標榜する国である。また、大学の入学資格試験のバカロレアにも哲学が課せられる。学校の名でさえ、文化人の名前が付けられる。「教育」をめぐる優れた表現が多いのも、頷ける。
 これは、教育に携わる日本の大人に見て欲しい映画と思う。が、なによりも、親子で見て、映画で語られたさまざまなテーマについて、親子で話し合うことができれば、よりいいのでは。

2011年7月9日(土)より、新宿武蔵野館ico_linkほか全国公開

「ちいさな哲学者たち」公式Webサイトico_link

監督:ジャン=ピエール・ポッツィ、ピエール・バルジエ
出演:ジャック・プレヴェール幼稚園の園児たち、パスカリーヌ・ドリアニ先生 
2010/フランス/97分/ヴィスタサイズ/ドルビーSRD
原題:just a beginning 
配給:ファントム・フィルム


「樹花鳥獣図屏風」 伊藤若冲作

紙本着色、六曲一双屏風より右隻/137.5×355.6cm/18世紀後半

紙本着色、六曲一双屏風より右隻/137.5×355.6cm/18世紀後半

 伊藤若冲(1716-1800)は、京の都の中心地に生を受け、文芸界が円熟期を迎えた江戸時代中期に独創性あふれる作品の数々を残した絵師です。近年とみに人気が高まり、時代を代表する絵師の一人として知られるようになりました。
 彼の作品の中でもとりわけ異彩を放つのが、この「樹花鳥獣図屏風」です。屏風の大画面を縦横約1cm四方のマス目で区画し、その一マスごとに色を塗り分けていくという途方もない描き方がなされています。方眼の数はおそらく10万個を超え、しかも小さなマス目の中に淡色から濃色への2~3色を重ねており、これだけの作品を仕上げるのにかかった手間ひま、根気を想像すると気が遠くなりそうです。無論これは伝統的な日本画の技法ではなく、若冲が独自に開発した描き方で、発想源として京都・西陣織の下絵である正絵(しょうえ)や、朝鮮の紙織画(ししょくが)などの存在が指摘されています。そこに描かれるのは、牡丹や果樹に囲まれた華やかかつ平和な異世界。身近な生き物から舶来のもの、空想上の霊獣(麒麟、唐獅子など)まで、多種多様な鳥獣が描き込まれ、当時の博物学的関心の高さをうかがわせます。
 最初は右隻の動物図が単独で発見され、縁あって静岡県立美術館のコレクションとなり、その11年後新たに左隻の鳥図が見出された際、本来ペアの屏風なのでは、との調査の末、いま見るような右隻左隻からなる一双屏風として扱われるようになったものです。
 伊藤若冲の、そして江戸時代の絵画の底知れぬ面白さ、豊かさを知らしめる特異な屏風絵。毎年ゴールデンウィークに展示しています。

(静岡県立美術館 主任学芸員 石上充代)

■静岡県立美術館ico_link

  • 所在地 静岡市駿河区谷田53-2
  • TEL 054-263-5755
  • 休館日 月曜日(ただし月曜日が祝日・振替休日の場合は開館し、翌日休館)、年末年始、その他展示替等のための休館日

<展覧会情報>

  • 「芸術の花開く都市展-パリ、ローマ、東京、京都。その都市でしか生まれない芸術-」
  • 2011年7月19日(火)~9月8日(木)

展覧会概要

  • すぐれた芸術を生み出した内外の都市や地域に注目。芸術家と地形や風土との関わりを探り出す。モネ、シスレー、マティスなど、ブリヂストン美術館から特別出品。

<次回展覧会予定>

  • 「京都国立博物館名品展 京都千年の美の系譜-祈りと風景」
  • 2011年10月22日(土)~12月4日(日)

その他、詳細は静岡県立美術館Webサイトico_linkでご覧ください。