新渡戸稲造から学んだ世界

新渡戸稲造の遺産 ― societyへの眼

新渡戸稲造<国立国会図書館ホームページより転載>

 前田がcivicsを強調したのは、第一高等学校において、選ばれた者たるものが身につけるべき義務として、ソサエティーsocietyが必要なことを新渡戸稲造校長から学んだことによります。新渡戸から若き日に学んだ世界こそは、前田のみならず、当時の一高生の生涯を決定づけます。前田はその立志の原点を次のように問い語っています。

新渡戸先生が、当時一高校長としてのみならず、それこそ、当代随一の社会教育家として、機会ある毎に強調せられたのは、縦の関係の外に、横の関係の重視すべきこと、即ち、水平的に、各人が相寄り相携へて、善き社会を作らねばならぬ。日本人の教養にこれまで欠けて居り、こん後涵養の急務なるを感ずるのは、社会性(ソーシアリチイ)であり社会奉仕であるといふ点であった。(「道草の跡」)

 想うに日本の戦後改革は、教育改革をはじめ宮中改革等において、大きな役割を果たした人脈をみると、第一高等学校で新渡戸校長に出会い、新渡戸の導きで内村鑑三から聖書を学び、心の眼を開かれた人々が多くを担っています。
 これらの人びとは、日露戦争の勝利がもたらした強いナショナリズムの風潮を受けながらも、ある開かれたナショナリズムを身につけていました。そのナショナリズムこそは、敗戦に打ちひしがれた国民に向け、文部大臣前田多門が1945年9月2日の降伏文書調印を受けとめた「青年学徒に告ぐ」の全国放送に読みとれます。この問いかけには、日本がなぜこんな敗戦を迎えるような国家になってしまったのか、そこには人間というものを見る目の弱さがあったことへの自責と反省がこめられています。

敗戦日本に向き合い

 前田は、新生日本を担う青年に、「日本の往く道はただ一つ。武力を持たぬかはりに、文化で行く、教養で行く、ほんとうの道義日本として、世界の進運に寄与する」道をいかに歩むかと問いかけ、「若し今後、外に、武力を背景に吾等に無理押しをしようとする国があった場合、わが平和的な態度に、それらのものが、おのづから愧ぢざるを得ないといふやうになり度いもの」として、「哲学を欠いてゐる」日本人の弱さを指摘し、「皮相の米英追随主義に早変りするといふ如き軽薄なることでは、到底、立派な国民にはなれない」と日本人の姿を問い質し、「どうか、心の奥で、物を考へるやうにあり度い」と、己の頭で哲学する日本人でありたいと、語りかけています。

 いくら戦ひに負けても、捨てゝならないのは、自尊心であります。自ら信じて正しとするところに就いては、所謂威武も屈する能はざる底の毅然たる態度が、常になくてはなりません。従来、わが国に、個性の尊重といふ観念が足らず、この毅然たる態度が民衆になかったことが、軍国主義跋扈の大原因であったのであります。自己の人格を尊重するものは、同時に、他の人格を尊重せざるを得ないのであります。(略)
これからの国民は、一層、国際的常識を養はねばならぬ。国際の信義を重んぜねばならぬ。得意の日に於て、わが力を恃んで他を凌ぐのが悪いと同様に、負けたからといって、卑屈な無気力な態度を執るべきではない。吾々は、断じて、亡国の民となってはならぬ。
 科学は重んぜられねばならぬ。しかし、それは、目先きの功利的打算からではなく、悠遠の真理探究に根ざす純正な科学的思考力や、科学的常識の涵養を基盤とするものでなければならぬ。換言すれば、高い人間教養の一部分として、科学の分野を認めたい。また、自然科学も大切であるが、同時に、世界現在の悩みとして、人文科学の進歩が、自然科学の歩みに遅れて、跛行状態を呈してゐる点に於いても、学徒の向学心を喚起し度い。更に進んで言へば、君子は器ならずといふことがあるが、明治以来の教育の弊風は、その反対に、人間を、ただ物の役に立つ器にのみ教育して、却って、明治の初年迄は存して居た精神教育の根源を没却したのであり、この弊害を是正せねばならない。
 近来、日本精神の呼び声は高った。しかし、それが、余りに政治的に取扱はれ過ぎて、内容が、案外空虚であり、真に、心から溢れ出づる精神の躍動でなかったことが、今日の破綻を招く原因でなかったかに就いても、深い反省が行はれねばならぬ。宗教の自由確保と共に、敢へて一宗一派に偏せよとは言はぬが、眼に見えざるものを畏れ、謙虚な気持ちを以て、衷心より、已むに已まれず、大いなるものに憧れ、高きを仰ぐといったやうな宗教的情操は、大いに養はれねばならぬ。今回、戦争末期に現れた種々の道義頽廃の事実、戦争終結の際にまで持ち越された、忌むべき利己主義、我利々々主義の噂の高い昨今、学徒諸君の心に、何か深いもの、高いものを持って貰ふことに、熱心な要望が向けられる。(「青年学徒に告ぐ」)

 この呼びかけは、敗戦にうちひしがれていた同時代人の心を激しく打ち打ち、「新しい黎明期の曙光に接した感激」をあたえました。まさに前田は、教育の本質が自分でものを考える力そのものを養うことにあるとの思いで、戦後の文教行政を担おうとし、civicsを根づかせようとしたのです。この「青年学徒に告ぐ」は、敗戦の秋に発せられたメッセージであるのみならず、現在への問いかけとしても通じるものです。
 現在まさに問われているのは、「伝統」を言挙げして日本精神とか文化への信奉を喧伝する声に唱和することではなく、「心の奥で、物を考へる」こと、哲学することであり、「眼に見えざるもの」「大いなるもの」を畏敬する心を身につけることではないでしょうか。昨今強調される「宗教的情操」の涵養は、宗教の歴史や教理を解説することではなく、この畏敬する心、見えざるものへの眼に気づかせ、人間である己の小ささに思いをいたすかではないでしょうか。

ブレイク・ビーターズ

 ベルリンの壁が崩壊したのは、1989年である。その結果、東西ドイツが再統一される。「ブレイク・ビーターズ」(アニモプロデュース配給)は、この少し前の1980年代、まだ東ドイツが社会主義政権だったころの実話に基づいた映画である。
 若者たちが、路上で、自由にダンスを踊る。東ドイツ政府は、西側の文化は、規制の対象と考えている。若者たちのダンス熱は、いっこうにさめない。ますます、若者たちの踊るブレイクダンスが熱気を帯びていく。政府は、どうしたか。路上で、好き勝手に踊ることを禁じ、代わりに、ダンス・チームにアーティストのライセンスを与え、テレビや舞台でのダンスを許可する。つまり、ブレイクダンスを、「社会主義化」するといった政策をとる。これは、個人個人が自由に踊るのではなく、チーム全員がおなじダンスを踊ることを意味する。

 舞台は1985年、ドイツの工業都市、デッサウ。フランクという19歳の若者は、西ドイツのテレビ番組で見た、ブレイクダンスに目が釘付けになる。そして、カリプソの大歌手、ハリー・ベラフォンテが製作した、1984年のアメリカ映画「ビート・ストリート」を見て、さらに驚く。ニューヨークのサウス・ブロンクスで、ブレイクダンスに打ち込む若者たちを描いた映画で、若者たちが、路上で、自由に、踊っている。フランクは、映画を見た仲間のアレックスともども、興奮がさめない。さらにダンス仲間が増える。元オリンピック・チームにいた体操の女子選手マティナ、やはりブレイクダンスに魅せられたミヒェル。4人は、路上でダンスを踊り続けるようになる。
 路上でのダンスが、国家警察の知るところとなり、フランクたちは拘束される。アメリカの、非社会主義的なブレイクダンスは禁止、とのこと。フランクたちは、言う。「ブレイクダンスは、もともと、アメリカの貧しい人や、虐げられた人たちの反抗から生まれたもの。反資本主義だ」と。
 なんとか釈放されたフランクだが、もともと、父親はダンスに大反対。ますます、親子の仲が悪くなる。若者たちの、ブレイクダンスの勢いがさらに増していく。とうとう、政府の「娯楽芸術委員会」が、「ブレイクダンスを社会主義化する」方針を打ち出す。フランクたちのグループ「ブレイク・ビーターズ」は、委員会のメンバーの前で、踊る。委員会は、フランクたちに、B級のライセンスを与え、テレビ出演や、東ドイツ内のダンス・ツアーを、国家予算で支援することになる。さて、どうなるか。
 崩壊寸前の東ドイツの事情が、背景にある。若者たちの自由への希求は、いろんな分野で、顕著になっていく。そのような時代の雰囲気が、うまく漂ってくる。若者は、国家の規制や縛りからも、自由であるべきと思う。自らの欲することをする自由がある。

 日本では、18歳から選挙権が与えられることになる。テレビで、若者のインタビューを見て、驚いた。まったく、無関心のようす。興味がない、誰に投票しても同じ、だから投票しない、と答える。選挙では、ぼくたちが、どのような社会を選ぶかが、問われている。勉強して、自らの生き方を選び、職に就く。そのために、どうすればいいか。どうすれば、自由でいられるか。
 映画「ブレイク・ビーターズ」は、どのような社会を選ぶかの、大きなヒントを与えてくれる。路上で、ダンスをする。他人に迷惑をかけない限り、ぼくたちは、何をしてもいいはず。
 若い、無名の俳優さんたちばかりのドイツ映画である。ダンス経験のある俳優さんたちが選ばれたらしい。何度かでてくるダンス・シーンは圧巻。ことに、ラストで踊られるダンスには、痛快な笑いと、ほろ苦い切なさがこみ上げ、心ふるえる。
 監督は、ヤン・マルティン・シャルフ。ドイツ生まれだが、アメリカで映画を学ぶ。テレビ・ドラマなどの監督作がいくつか。たぶん、日本公開の劇映画は、これがはじめてと思う。東ドイツの役人たちへの、風刺たっぷりの描写は、なかなかの力量を思わせる。

2016年6月25日(土)より、ヒューマントラストシネマ渋谷ico_linkほか全国順次ロードショー

『ブレイク・ビーターズ』公式Webサイトico_link

監督:ヤン・マルティン・シャルフ
脚本:ルート・トーマ
出演:ゴードン・ケメラー、ゾーニャ・ゲルハルト、オリバー・コニエツニー、セバスチャン・イェーガー
2014年/ドイツ/90分/ドイツ語/カラー/1:1.22/DCP/5.1ch/原題:DESSAU DANCERS/日本語字幕:金関いな/後援:ドイツ連邦共和国大使館 日本ストリートダンス協会
配給:アニモプロデュース
宣伝:アティカス
映倫:PG12

図画工作の授業(1)~教科書の使い方

 「図画工作の教科書は、作品が掲載されているだけで、よく分かりません」
 いえいえ、最近は、どの会社の教科書も、近年の教育課程改訂の流れを反映し、目標や学習方法などが見開き2ページの中に分かりやすく配置されているのです。資質や能力を発揮する子どもの写真も掲載されており、先生にとって「子どもをどのように見ればよいか」という点で参考にもなります。今回は、図画工作の教科書を読むコツを解説しましょう。

1.「どれどれ、来週は何だったっけ……」

 まず、教科書を開きましょう。目次やページ左上などで「造形遊び」「絵」「立体」「工作」「鑑賞」のどれに当たるかが確認できます。

2.「どんな題材なのかな……」

 左上に書いてあることを読みましょう。①題材名、②題材名の上の文章、③題材名の下の文章の三つを読めば授業の概要は分かります(※1)。例の場合、お話しをもとに、子ども一人一人の「すきなところ」から学習が始まることが分かります。

3.「この学習でどんな力が伸びるの?」

 ページの中で「意欲や態度」「発想や構想」「創造的な技能」「鑑賞」の4観点がおさえてあります。例の場合、まず子ども自身が「好きな場面を選ぶこと(発想)」、そこを「工夫して描く(構想や技能)」がポイントであることが分かります。「先生が選んだ場面を描かせる」「先生が何をどのように描くか決める」のではないようですね(※2)。

4.「さて、どうやって始めよう」

 題材にもよりますが、多くの場合、左上にスタートの場面が掲載されています。例の場合、まず、真っ白い画用紙を真っ黒に塗りつぶすことから始まるようです。そこから右下を見ていけば、おおむねのプロセスが分かります。工作のつくり方や仕組みを説明しているケース、用意すべき材料や用具が解説されているページなどもあります。

5.「作品例はどうやって取り扱うのかな」

 掲載されている作品例と同じ構図、同じ場面を描くのが学習ではありません。作品例は「こう描けばいい」というお手本ではなく、「その子が何を感じたか、何を考えたか」という結果です。例であれば、この子が「大根を抜く場面を選んだこと」「選んだ場面を表すために『何を』『どの位置に』『どのように』描くか工夫したこと」が分かります。おそらく、他の子は違う場面を選び、異なる工夫をしたと思います(※3)。

6.「活動中は何が大事なのかな」

 「活動中にどんな姿が現れるのが望ましいのか」「どんな様子に注目すればいいのか」などは案外先生方が迷うところです。これについては、教科書の子どもの写真やコメントがとても参考になります(※4)。
 例の場合、真っ黒にした画用紙を消しゴムで消した後に、お花のような色を加えています。でも、その上からまた消しゴムで消しています。自分の表したい形をはっきり浮き出させようとしているのでしょう。真っ黒になった手、集中する視線などから、発想したことを実現しようとして、自分なりに技能を発揮している様子が伝わってきます。

7.「終わったら、どうまとめればいいのかな」

 学習を終えた時に、どのような姿になればよいのか考えることは大事です。例の場合、形という視点で面白さや楽しさを感じられるようになる、言い換えれば「自分の身の回りの世界を新しい視点で見ることができるようになる」ということがゴールのようです。

 子ども用の教科書であっても教師の読み方によっては深いところまで読み解くことができます(※5)。国語や算数でも「教材研究は、まず教科書から」です(※6)。図画工作科でもしっかりと教科書を研究したいものですね(※7)。

 

※1:それぞれの意味は教師用指導書に説明してあります。
※2:「場面」といっても、カメラで切り取ったような一瞬ではありません。低学年では、異なる時間や空間が一枚にまとめられることがあります。
※3:ある児童画展の審査で、何枚めくっても大根の向き、人や家の位置など同じ構図の絵が出てきたことがあります。「教科書の作品のように描きなさい」と言ってしまったのでしょうか……。
※4:図画工作科の教科書で「子どもを見る目」を鍛えることができます。
※5:教科書に解説が記入してあるいわゆる「赤本」や、指導案例が載っている教科書の参考資料などを活用すれば、他のアプローチの例、時間配分の例などを確かめることもできます。
※6:国語では教師が詩や物語文を全文試写することもあります。図画工作でいえば、教科書のような作品を教師がつくってみることに該当します。
※7:「ごんぎつね」を読まないまま、国語の授業に入ることがあり得ないように、図画工作でも教科書を研究して授業に入ることが大事です。

さとにきたらええやん

(C)ガーラフィルム/ノンデライコ

 生まれてから18年間、大阪の西成に住んでいた。有名な遊郭のあった飛田から、道路一本隔ててすぐだった。このほど公開されるドキュメンタリー映画「さとにきたらええやん」を見て、懐かしさでいっぱい。よく出かけた萩ノ茶屋の商店街や、今池の三角公園が、映画に出てくる。かなり昔から、あたり一帯を釜ヶ崎というが、正式な住所表示ではない。たぶん、阪堺線の今池と南海本線の萩ノ茶屋に挟まれた一帯、住居表示では、萩ノ茶屋の1丁目、2丁目界隈を指すと思う。
 小さいころからの遊び場である。あまり身なりのよくない人が多い。仕事がなかったのか、昼間から、日雇いの人たちが、あちこちにいる。いかがわしさのある、ゴミゴミしたところだが、ここにいる人たちは、なぜか、人なつっこく、ざっくばらんだ。
 ここに、「さと」と呼ぶ施設がある。正式には「こどもの里」という。もとは、1977年、地域のこどもたちに遊び場を提供したいということで設置された「子どもの広場」である。1980年、「こどもの里」として再スタートする。いまは、NPO法人だ。こどもは、おおむね20歳くらいまで。国籍や障がいの有無は、関係なし。ダメ、ノーといったことは、なにもない。誰でも利用できる。こどもたちの遊び場で、お母さん、お父さんの休息の場で、学習の場でもある。生活相談、教育相談に応じる。緊急時、いつでも宿泊できる。土・日・祝日もあいている。利用料はなし。

(C)ガーラフィルム/ノンデライコ

 仕事で遅くなる両親は、ここにこどもを預ける。放課後のこどもたちの遊び場になる。映画は、「こどもの里」の一コマ一コマを、丹念に追いかける。
 館長は、ここを創設した荘保共子(しょうほ・ともこ)さん。こどもたちから「デメキン」と慕われている。時には厳しいことを言うが、どんなことがあっても、こどもたちの味方である。こどもたちが、いきいき、元気である。ホームレスらしき人たちに、声をかけ、おにぎりやみそ汁を届ける。おとな顔負けで、バザーでは品物を販売する。
 やんちゃで、発達障がいのある5歳の男の子は、自転車が大好き。夢中で、あちこち、走り回る。ノイローゼ気味のお母さんともども、「さと」の職員がサポートし続けている。
 軽度の知的障がいを抱える中学生の男の子は、活発だ。ときどき、騒ぎすぎる。学校では友達とのつきあいが、うまくいかない。兄弟同士、ケンカすることもある。
 高校生の女の子は、優等生。お母さんは、遠く離れたところに住んでいる。小学生のころから、「さと」で暮らしていて、いよいよ卒業、無事、就職が決まる。
 いつもにぎやかで、笑いの絶えない「さと」だが、連日、大なり小なり、もめごと、事件が起こる。「デメキン」が倒れる。クモ膜下出血で入院する。今までにない、大事件だ。さあ…。
 しっかり、腰を据えて、被写体に密着した、優れたドキュメンタリーだ。監督は、まだ30歳ちょっと、大阪生まれの重江良樹。撮るきっかけは、2008年、「こどもの里」にボランティアで訪れたことから。製作途中、「100万回生きたねこ」や、「フリーダ・カーロの遺品 石内都、織るように」といった優れたドキュメンタリー映画を撮った小谷忠典監督に、助言を受ける。とても、初の監督作品とは思えないほどの練れた編集ぶりである。

(C)ガーラフィルム/ノンデライコ

 こういった学童保育事業の推進、展開には、いろんな制約があると思うが、「デメキン」こと荘保さんの情熱が、多くの制約を打ち破っているようだ。「ここに来るこどもたちは、けっこう言葉は荒いし、にぎやかだし、だけども、すっごい、きれいな目をしてたんです」と荘保さん。
 政府は、幼児やこどもたちの受け入れ体制のないまま、女性に社会進出をすすめている。建物の基礎を作らないで、高層ビルを建てようとしているようなもの。大阪の、決して恵まれた場所ではないけれど、ここに、まるで奇跡のような場所、「こどもの里」がある。荘保さんが、「さと」を巣立とうとする高校生の女の子に言う。「困ったときは、いつでも来て」と。
 「さとにきらええやん」というタイトルの意味することは、深くて、重く、大きい。行政、教育に、なんらかの関わりを持つ人たちに、ぜひ、見てほしい。
 大阪の西成生まれのラッパー、SHINGO★西成の唄うラップが3曲ほど、映画に使われている。本人も映画に登場し、唄う。これが、いい。映画のために作ったわけではないが、ラップの歌詞が、映画の内容とみごとにマッチする。「心とフトコロが寒いときほど胸をはれ」という曲で、「…逃げない、あきらめない、負けない、自分に負けない、うまくいかないこともあるけど、ええこともあるよ、きっと見つかるよ…」と唄う。まるで、人生の応援歌。聴いていると、元気になり、もっともっと頑張ろうと思う。おなじ大阪・西成で生まれた身として、SHINGO★西成の唄うラップを応援したい。もちろん、映画も。

2016年6月中旬より、ポレポレ東中野ico_link第七藝術劇場ico_linkほか全国順次公開

『さとにきたらええやん』公式Webサイトico_link

監督・撮影:重江良樹
音楽:SHINGO★西成
編集:辻井潔
音響構成:渡辺丈彦
プロデューサー・構成:大澤一生
制作協力:神吉良輔(ふとっちょの木)、五十嵐美穂、上田昌宏、吉川諒
機材協力:ビジュアルアーツ専門学校大阪
特別協力:小谷忠典
助成:文化庁文化芸術振興費補助金
企画:ガーラフィルム
宣伝・配給協力:ウッキー・プロダクション
製作・配給:ノンデライコ
2015/日本/100分/カラー/16:9/5.1ch/DCP

前田多門の眼

「主權者教育」に問われること

 思うに日本の教育は、明治以来というもの、国家の枠組に合わせて人間を精巧な部品として造形すべく営まれ、問い学ぶのではなく、教育という名の命令でした。そこでは、哲学すること、己の頭で考えたことを己の言葉で他者に問い語る作法を身につけることが否定されていました。
 戦後教育の理念を表明した教育基本法は、このような教育の在り方を克服すべく、人格の育成を課題となし、一人ひとりが哲学することを学ぶ教育への道を用意しました。しかし教育基本法の改定が議論されたとき、社会や国家を無視する個人主義の増長をうながしたものとして批判され、占領を引きずる戦後教育の否定を大義とする言説が声高に説かれました。そこでは、改定の賛成・反対派ともに、教育基本法が問いかけようとした原点をみつめ、現在の教育を問い質す議論がなされませんでした。
 社会の協同性が崩壊し、家族のまとまりすら喪失し、児童虐待や育児放棄が日常化していく状況の根源が問い質されることなく、戦後教育の負のみが論難されております。人間が人間であるとは何かに思いいたすことなく、「心の教育」なるものが過剰に期待され、「宗教的情操」の涵養がことさらに説かれております。「宗教的情操」なる言説で「心の教育」の必要性が喧伝されていますが、それは宗教の教祖の言説、教団の教理を知識として知ることなのでしょうか。このような現在の教育の在りかたを確りとみつめ、私の場を確保することが何よりも求められているのではないでしょうか。
 それだけに選挙権が18歳に引き下げられた現在、「主權者」が主權者であるためには何が問われているのでしょうか。この問いに向き合うことなく一個の政治的主体たる我を確立できないのではないでしょうか。

敗戦日本を受けとめて

 戦後日本の教育は、日本の敗戦は何かを問うなかで、あるべき道をめざそうとしました。その営みこそは、敗戦を人間としての日本人の敗北という痛覚を場に、一個独立した人間としての人間意識、人格の育成をめざそうとの思いです。終戦直後の8月18日に文部大臣に任命された前田多門は、東久邇ついで幣原内閣の文部大臣として、敗戦日本を再建すべく教育改革を担いますが、公職追放によって在任わずか5ヶ月で文部省を去りました。文相としての前田は、新生日本の教育が問われる課題をシビックス―civicsの確立、公共生活への日本人の開眼に求め、この精神を樹立するのが教育の要務と考えていました。この想いは、「再び、われわれは天皇を神にしてはならない、という祈りをこめて」、天皇の「人間宣言」を起草した時に前田の念頭にあったもので、「起草当時、私の頭に去来した思想はやはりこの公共生活への日本人の開眼ということであった」となし、後に「新公民道の提唱」(『ニューエイジ』 1951年1月)で次のように回想しています。

私が文部大臣の職にあったとき、初めて進駐軍が来て教育係の軍人が私の許に見えた。先方の第一の質問が日本の教育科目でいったい何が一番欠けているかということだ。それに対して私はCIVICSにあると答えた。シヴィックスという英語に関しては適当な日本語もないのであるが、まず公民科とか公民道というべきものであろう。この教育が欠けているから、たやすく全体主義、軍国主義に引きずり廻されたのであると答えた。私は今でも確かにそう信じている。日本の政治は今までは上から治めるのであって、下から公民が持ち寄って互いの生活を作り上げていくシヴィックスなる技術を知らなかった。

civicsへの眼

 civicsというのは、the study of rights and duties of citizenship、市民の義務と権利を学ぶことで、外部から operation and oversight government 政府に対する働きかけと監視をきちんとすることでもあります。前田は、それを「公民科」「公民道」と位置づけ、「その地域において住民が自分らの力で共同生活を作り上げていくというような意味」「われわれが共同生活体の責任者として共同生活体を盛り上げていくのだ」と位置づけ、「断片的にいろいろな公けの事柄について知識を与えるというだけの、断片的な知識を与えるという」「公民科」「社会科」ではないと断言します。それは市民教育、市民の哲学を身につける教育にほかなりません。
 日本の教育では、公民教育・公民道がなされてこなかったとの指摘、現在風にいえば市民精神の涵養に関わる教育が公教育に欠落していたということです。ここには、「民主主義はその行動の形態に於て、共同の生活を、各人が共同して行うことである。共同生活の処理、即ち政治は各人の責任である」(「わたしのそぼくな幻滅感」1955年)となし、政治は「共同生活」の処理であるがゆえに、各人が責任をもち、「共同して行う」一個独立した人間への期待がありました。いわばcivicsには、より良き「共同生活」担うにたる価値判断能力にささえられた秩序形成の主体となることが託されていたのです。このcivicsの欠落こそは一個独立の人間としての人間意識の弱さをもたらしました。「主權者教育」に問われているのはまさにこのcivicsをいかに確立するかではないでしょうか。

 

参考文献

  • 大濱『歴史の読み方、学び方』(北海道教育大学釧路校社会科教育第1研究室 2011年)