ビデオレターによる国際交流(子ども・学校とPBL②)

 福島県須賀川市立白方小学校(以下、「白方小」)の鹿又悟先生による報告の2回目は、先生が2018年度に担任した6年生の実践を中心に紹介していきます。

1.ネパールとの交流

 白方小とネパールの小学校間でビデオレター交流を行うきっかけとなったのは、白方小が2011年の東日本大震災で、ネパールの山間部にある小学校が2015年4月のネパール地震で、それぞれ被災したことです。「子どもたち同士で励まし合うことになるのでは」と、ESDの指導をいただいていた法政大学の坂本旬先生の仲介により、2015年11月からネパールの小学校とのビデオレター交換の実践が始まりました。それから数年にもわたってネパールとのビデオレター交流が、白方小の高学年における伝統として引き継がれてきました。鹿又先生は、2018年からビデオレター交流を指導しています。
図1 田植えの様子
 2018年に鹿又先生が担任した6年生21名は、5年生の時からネパールとのビデオレターによる交流を行っていました。ネパールと日本は米文化という共通点があるので、米についての学習を行いました。子どもたちが5年生だった2017年は、白方小周辺の放射線のために田んぼで稲を育てることができなかったので、衣装ケースに植えるなど工夫を凝らしながら稲作に挑戦してきました。6年生になった2018年には、地域の方々の協力も得て実際の田んぼで米作りができるようになりました。

2.ビデオレターの取り組み

 白方小の総合的な学習の時間の流れは、「つかむ」「調べる」「まとめる」「発信、行動する」の四つの段階に分かれています。
 ビデオレターの作成は、自分たちの調べたことを分かりやすく表現し、発信する力を身につけること、さらには外国との交流を通してお互いの文化を理解・尊重し合うことをねらいとしています。外国語科と関連付けて学習を進めたり、ジェスチャーや写真・動画等を用いて自分の思いを伝えたりすることで表現力を高めることができます。ネパールへ向けたメッセージをビデオレターで表現するために、子どもたちは学級やグループで協力しながら分かりやすい表現方法を考えたり、自分たちが生活している白方の文化を世界へ広げるという思い(ビジョン)をまとめたりします。
 子どもたちは、自分の関心のあるテーマを決めて、グループに分かれて構想を練り、情報の収集からタブレット端末を使ったビデオレターの撮影・編集へと進んでいきます。各グループのテーマは表1の通りで、前期・後期にそれぞれビデオレターを作成しました。

表1 各グループのビデオレターのテーマ

前 期

後 期

・田んぼの土や生き物(生物)

・白方での米(伝統)

・田んぼの利用方法(多様性)

・日本の米の利用(文化)

・1年の流れ(気候)

・給食での米料理(食育)

・米の出荷(経済)

・外国の米料理(国際理解)

・田んぼの特徴(環境)

 子どもたちは、田んぼに何度も足を運び、ネパールの人たちに伝えたい、自慢したいという観点でテーマを考えたり、そのテーマについての情報を集めたりしました。情報資源が身近にあるので、必要なことをすぐに調査したり、確認したりすることができます。
 グループで作成しているビデオレターは、いずれも、子どもたち自身で情報を選定し、作成(絵コンテ・撮影・編集)し(図2)、他のグループとの対話をもとに構成し直し、最初から最後まで子どもたちがタブレット端末を操作し、自分たちの手で制作しています。
 前期と後期では、各グループのテーマに変化が見られました。前期は、自分たちの身近な疑問点を調べたり、紹介したりするテーマだったのに対して、後期は、「ネパールの給食はどんなのかな」、「ネパールの家庭料理は何だろう」など問いが生まれ、調べていくうちに自分たちの生活には様々な国の食生活が取り入れられていることに気づいていったのです。さらに、前期のビデオレターの内容は紹介だけでしたが、後期の内容には相手への質問が含まれ、「このことについて教えてほしい、知りたい」という思いが溢れる内容になっていました。これらは、子どもたちの中で、他者意識が生まれてきているのだと考えられます。

3.学習の深まり

 計画を練る時や立ち止まって考え直す時、子どもたちはワールドカフェ(図3)など十分に対話できる環境で友だちの意見をもらいXチャート(図4)やYチャート(図5)などの思考ツールを使いました。他のグループから付箋に考えを書いてもらい、気づかなかった視点などのアドバイスをもらうことができました。アドバイスをした子どもたちも参考になる部分を自分のグループに持ち帰り、活用している様子が見られました。

図2 絵コンテ図3 ワールドカフェの様子

図4 Xチャート図5 Yチャート

 子どもたちは、ネパールの子どもたちに向けて「Hello,I’m 〇〇. I like ~.」という簡単な自己紹介を行いました。
 また、本校の授業に協力していただいている東洋学園大学の坂本ひとみ先生の指導で、英語でかっぱ巻き調理実習も行いました(須賀川市は、夏秋キュウリの産地として日本トップクラスの生産量を誇ります)(図6)。子どもたちは、坂本ひとみ先生の英語の言葉や手元にある英文の資料(図7)を見て、かっぱ巻きを作りました。それを法政大学の坂本先生に撮影していただき、ビデオレターの一部に付け加えました。子どもたちは、ネパールの子どもたちに自分たちの地元の名産を紹介するのと同時に、調理という体験から英語に触れ、理解することができました。この調理実習や英語による自己紹介は、すべての子どもたちが意欲的に外国語を学ぶきっかけとなりました。

図6 英語でかっぱ巻き調理実習図7 かっぱ巻き作りの英文レシピ

 ビデオレター交流は作成すること自体が活動のゴールではありません。子どもたちの感想から、ビデオレターが目標を実現するツールとして、自分を振り返り、文化を再認識し、価値観の形成することに繋がるなど、様々な学習効果を生み出すことが分かります。
 現在はGIGAスクール構想で、子どもたちは一人1台タブレット端末を持っており、このような動画作成が簡単にできる時代です。映像表現を通じて相手に自分の思いを伝えることも、思考、判断、表現力の育成において効果的な一つの方法だと考えます。

(※鹿又悟先生の原稿を、三浦が本連載に合わせて編集しています。)

Webマガジンまなびと:「学び!とシネマ」Vol.207

Webマガジン:「学び!とシネマ」Vol.207 “遺灰は語る”を追加しました。

遺灰は語る

© Umberto Montiroli

 「遺灰は語る」。なんとも、不思議なタイトルではある。遺灰は、語ったりはしない。原題は、「LEONORA ADDIO」。意味は、「さらば、レオノーラ」。ヴェルディのオペラ「イル・トロヴァトーレ」の第4幕の冒頭で、マンリーコが、塔の中から、愛するレオノーラを思って、「さらば、レオノーラ、さらば」と歌うシーンがある。では、この原題が、本編とどのように繋がっているのかを、期待しながら、見た。
 誰の遺灰かというと、イタリアの作家で、ノーベル文学賞を受けたルイジ・ピランデッロである。
 ピランデッロは、シシリア島生まれの大作家である。1921年に書いた戯曲「作者を探す六人の登場人物」が有名で、これは、後の前衛劇に大きな影響を与えたと言われている。
 ピランデッロは、1934年に、ノーベル文学賞を受けている。2年後の1936年、ピランデッロはローマの自宅で亡くなる。遺書を残していて、ちゃんと映画「遺灰は語る」のなかに、遺書の一節が引用されている。
 映画は、このピランデッロのノーベル賞の受賞式の様子から始まる。
© Umberto Montiroli ある男が死の直前の床にいる。「私は死んだのか」とナレーションが入る。子どもたちが、死の床にやってくる。子どもたちは、すぐに、もう大人になっている。やがて、この男が、作家のピランデッロだと分かる。
 ムッソリーニは、ピランデッロの死を、自分の名声に利用しようとするが、ピランデッロの遺書が、ムッソリーニの魂胆を阻止する。ピランデッロの遺言を読んで、激怒したムッソリーニは叫ぶ。「愚か者め」と。
 敗戦後、イタリア社会は変貌する。ピランデッロの遺灰は、なんとかローマに保存されていて、遺言通り、遺灰は、故郷のシチリアに帰ることになる。シチリアからの特使(ファブリツィオ・フェッラカーネ)が、ローマにやってくる。
 ただ、小さな壺に入った遺灰を、ただシチリアに運ぶだけなのに、これが、なかなかうまく行かない。遺灰になったピランデッロは、愚かな人間たちの所業を、嘲笑っているかのよう。無事、遺灰はシチリア島に着くのだろうか。
 約1時間の、モノクローム映像で、シリアスな雰囲気のコメディが終わる。さらに、ピランデッロが死の直前に書いた短編小説「釘」の映像が、エピローグとして添えられる。
© Umberto Montiroli バスティアネッド(マッテオ・ピッティルーティ)は、レストランで働く少年だ。バスティアネッドは、ふたりの少女が喧嘩しているところに出くわす。そして、幼いほうの少女を、拾った長い釘で刺し殺してしまう。おとなたちに問いただされても、ただ「定めだから」と答えるのみ。なぜ、こんなことになったのか、おとなたちは、あれこれ、推測するだけ。
 さらに、本編とエピローグには、過去のイタリア映画のアーカイブ映像が出てくる。ロベルト・ロッセリーニ監督の「戦火のかなた」、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「情事」、ヴァレリオ・ズルリーニ監督の「激しい季節」、パオロとヴィットリオのタヴィアーニ兄弟監督の「カオス・シチリア物語」その他だ。
 タヴィアーニ兄弟は、「父/パードレ・パドローネ」や「サン★ロレンツォの夜」、「グッドモーニング・バビロン!」、「塀の中のジュリアス・シーザー」などの傑作を多く撮った兄弟だ。
 2018年4月、兄のヴィットリオが亡くなる。映画「遺灰は語る」は、弟のパオロが、ひとりで脚本を書き、監督した。
 原題の邦訳「さらばレオノーラ」は、オペラのなかの曲だが、邦題の「遺灰は語る」は、愚かだけれど、愛すべき人間たちに捧げた、パオロ・タヴィアーニの、生前に残した遺言かもしれない。パオロ・タヴィアーニは、1931年11月の生まれ。今年、92歳になる。
 映画「遺灰は語る」は、亡くなった兄、ヴィットリオに捧げられる。
 戦前戦後のイタリア。作家ピランデッロ。タヴィアーニ兄弟の多くの傑作映画たち。そして、人生とは何か。たった一本の映画とはいえ、学ぶこと、多し。

2023年6月23日(金)より、ヒューマントラストシネマ有楽町新宿武蔵野館ほか全国順次公開

『遺灰は語る』公式Webサイト

監督・脚本:パオロ・タヴィアーニ
出演:ファブリツィオ・フェッラカーネ、マッテオ・ピッティルーティ、ロベルト・エルリツカ(声)
原題:Leonora Addio/2022/イタリア映画/90分/モノクロ&カラー/PG12
字幕:磯尚太郎、字幕監修:関口英子
配給:ムヴィオラ
後援:イタリア大使館
特別協力:イタリア文化会館

「やめろよ」(第1学年)

1.はじめに

 道徳が特別の教科として出発して5年が経過した。教科化には、道徳授業の質的改善だけでなく、いじめなどの問題に対応できる児童の資質・能力を育むことも期待され、それをねらいとした教材も多く開発されてきている。道徳の授業では、このような教材を通して、人間の強さや弱さを見つめ、自分ごととして理解し、児童がよりよく生きるための力を養っていくことが求められている。
 本教材も、いじめを題材にした教材である。「いじわるはよくないことです。」と児童に模範解答を求めるような授業にならないように、教材にしっかりと自我関与し、自分ごととして生活を振り返ることができるような発問を工夫することが大切である。また、友達の思いや考えに耳を傾けながら自分の考えをつなげ、さらに深めていくことを目指した授業を構想しなければならない。

2.教材について

 ぽんたたちは学校の帰り道で、ぴょんこに意地悪をするこんきちと会う。注意をしようか悩みながらも、ぽんたたちは一度通り過ぎようとする。しかし、ぴょんこが泣き出しても意地悪を続けるこんきちに、ぽんたは勇気を出して「やめろよ。」と言うことができた。
 正しいことをすることに悩むぽんたに自我関与しながら、人の心の弱さにも触れ、どんなときも正しいことを進んで行おうとする態度を養う。

3.実践報告

(1)主題名

正しいことを、ゆうきを出して A[善悪の判断、自律、自由と責任]

(2)教材名

「やめろよ」
(出典:日本文教出版 令和2年度版『しょうがくどうとく いきるちから1』)

(3)本時のねらい

 ぽんたの行動や心情を通し、正しいと思うことができたときとできなかったときの気持ちを理解し、正しいと思うことをすすんで行おうとする態度を養う。

(4)展開例

学習活動
(○主な発問 ・予想される児童の反応)

◇指導上の留意点 ☆評価


1 ねらいとする価値への導入を図る。
○意地悪とは、どんなことですか。
・たたく ・悪口 ・仲間外れ
・友達が嫌がること
○意地悪をしている人を見ると、どんな気持ちになりますか。
・いやだな。 ・悲しい。
・やめてほしい……。
・やめさせなきゃ。

◇意地悪について考えることで、ねらいとする価値への導入を図る。
◇個別の児童の名前が挙がらないように配慮し、一般的な問題として捉えさせる。



(前段)

2 教材を読んで考え、話し合う。
○ぽんたがそのまま通り過ぎようとしたのは、どんな気持ちからでしょう。
・やり返されることが怖い。
・自分が意地悪されるようになるかも……。
・ぴょんこみたいになりたくない。
・関わりたくない。

◇場面絵を提示して、登場人物を確認できるようにする。
◇いけないことだとわかっているうえで、ぽんたの関わりたくないという気持ちに気付き、人間の心の弱さについて理解する。

◎どんな考えから、ぽんたは「いじわるは、やめろよ。」と言えたのでしょう。
・これ以上、見ていられない。
・こんきち、ひどい。ぴょんこを助けたい。
・怖いけど、やめさせなきゃ。
・逃げるのは、格好悪い。
・そんな自分になりたくない。
・勇気を出して、言おう。

◇どんな考えから、「やめろよ。」と言えたのか、児童の意見をつなげたり、問い返したりして、多面的・多角的に考えを深められるよう工夫する。

○「やめろよ。」と言えたとき、ぽんたはどんな気持ちになったでしょう。
・怖かったけど、言えてよかった。
・言えてすっきりした。
・ぴょんこを助けられてよかった。
・言えた自分が嬉しい。

◇役割演技をしながら、「やめろよ。」と言えたときのぽんたの心情から、正しいことができたときの気持ちについて考える。また、言えたときだけでなく、言えなかったときの気持ちについても迫る。
☆正しいと思うことを行うことのよさについて、自我関与しながら考えている。【発言】



(後段)

3 自分を振り返る。
○正しいと思うことができたとき、どんな気持ちになりますか。
・気持ちがいい。
・すっきりする。
・できなかったら、ずっと気になる。
・できた方が、自分のためにもなる。

◇本時の学習を振り返り、道徳ノートに自分ごととして考えたことをまとめ、学びを確かなものにする。
☆よいことや正しいと思うことができたときのよさについて、経験から考えようとしているか。【発言・道徳ノート】


4 教師の説話を聞く。

○正しいことを行うことのよさについて、説話をする。

4.授業記録

【導入】

T 意地悪って、どんなことですか。
C 暴力。
C 悪口。
C 相手が嫌がること。
T では、意地悪している人を見ると、どんな気持ちになりますか。
C いやな気持ち。
C やめさせる。

(考察)
いじめや意地悪は、当たり前のようにいけないことで、いやな気持ちになったり、止めようとしたりすることが一般的であることを確認する。

【展開前段】

T ぽんたがそのまま通り過ぎようとしたのは、どんな気持ちからでしょう。
C 注意したいけど、怖い。
C やり返されたら、どうしよう。
C 自分が意地悪されるようになるかもしれない。
C 巻き込まれたくない。
C 誰かが、止めてくれるかな。

(考察)
やめさせることが正しいことだと分かりながらも、できない人の心の弱さにしっかりと触れさせたい。すぐに言えなかったことについて、その理由について自我関与させながら考える。

T どんな考えから、ぽんたは「いじわるは、やめろよ。」と言えたのでしょう。(中心発問)
C 泣くまでやるなんて、ひどい。
C やりすぎ……。
C 怖いけど、助けたい。
C 怖いけど、やめさせなきゃ。
C 逃げるのは、意地悪しているのと一緒。
C そんな自分になりたくない。
C 勇気を出して、言おう。

(考察)
正しいことを行うことが、周りの人だけでなく、自分としてもどういう意味があるのか、多角的に捉えさせたい。また、通り過ぎようとしていたとき、どのように考えが変容したのか、児童の発言をつなげながら、深めさせる。

T 「やめろよ。」と言えたとき、ぽんたはどんな気持ちになったでしょう。
C 助けられてよかった。
C (できて、言えて)すっきりした。
C 言えなかったら、後悔する。
C (言えないと)格好悪い。
C 自信がついたから、今度はすぐ言える。

(考察)
「やめろよ。」と言えたときの心情に触れ、正しいことを進んで行えたときの気持ちを問い、正しいことができたときの喜びやよさを確認し、後段の自己への振り返りにつなげた。

【展開後段】

T 正しいと思うことができたとき、どんな気持ちになりますか。
C 気持ちがいい。
C すっきりする。
C できなかったら、ずっと気になる。
C できた方が、自分のためにもなる。
C 自信をもって行動できる。

(考察)
生活経験が少ない低学年において、後段の自己への振り返りは課題の一つである。一学期から意識をもって関連する場面を取り上げて考えることを通して、後段での発問に関する経験が思いつかない児童には、「あのときは、どうだったかな。」と、学級共有の経験について振り返ることができるよう声を掛ける。

【終末】

主題やねらいに沿った教師の説話

5.板書例

6.授業への工夫など

(1)板書の工夫
 場面絵だけでなく、教材の人物の絵を掲示することで、話の内容を正しく理解できるようにした(教材への導入など)。また、児童の発言について、関連している意見をまとめたり、線でつないだりすることで、考えを深められるように板書した。

(2)役割演技の活用
 「いじわるは、やめろよ。」と言えたときの心情について、自我関与しながら考えられるように、役割演技を行った。言えたときだけでなく、通り過ぎようとしていた場面からぽんたの気持ちを考えさせ、それらを対比させることによって心情の変化を捉えやすくした。

7.考察

ねらいを「正しいと思うことを進んで行おうとする態度を養う。」としたため、中心発問では心情ではなく、考えを問うことにした。そのうえで、正しいと思うことを行うことができたときの心情を重ねて確認することで、そのことのよさについて、さらに感じられるようにした。
善悪の判断について、低学年の発達段階では他律的に捉える児童が多い。そのことから、発言を問い返したり、ときには揺さぶったりすることも必要となる。本授業においても、教材を通して、正しいとわかっていても迷う心の弱さについて十分に触れ、他者ではなく自分としてはどうなのかを考えられるようにした。
自己の振り返りで、経験があまりなく悩んでいる児童も見られたが、学校生活を振り返り、同じような場面を想起できるよう声掛けを行った。

令和6年度版 小学校教科書のご案内:図工「内容解説資料/教科書検討の観点から見た内容の特色(Wordファイル)」追加

「令和6年度版 小学校教科書のご案内」特設サイト:図画工作の資料ダウンロードに「内容解説資料/教科書検討の観点から見た内容の特色(Wordファイル)」を追加しました。

Webマガジンまなびと:「学び!と人権」Vol.23

Webマガジン:「学び!と人権」Vol.23 “アイヌ民族と人権(その1)” を追加しました。

アイヌ民族と人権(その1)

 日本には、先住民族としてアイヌやウィルタなどの人びとが暮らしています。アイヌ民族は、北海道からサハリン、千島、東北北部などに住んできた民族です。ウィルタは、おもにサハリンに住んできた民族で、日本にはごく少数が住んでいます。ここでは、アイヌ民族をおもなテーマとして述べることにします。今回は、第二次世界大戦までの歴史が中心です。

1.アイヌ民族をめぐる歴史

 日本の歴史では、古代から東日本に住む人たちを指して「蝦夷(えみし)」という言葉が使われてきました。坂上田村麻呂(758~811年)を将軍として大軍を東北に送り、アテルイ(?~802年)などの指導者を捕虜とし、支配を強めたと言われます。しかし、この「蝦夷」がアイヌ民族であったかどうかは定かではありません。現在の考古学によると、アイヌ民族が成立したのは12世紀から14世紀とされています。
 アイヌ民族は、狩猟・採集の他、洋上を舟で渡り日本国内だけでなく中国やロシアなど、大陸との交易を担ってきました。この交易という側面は、アイヌ民族を考えるときに抜きにできないのですが、わたしたちが教えられてきた「アイヌ=狩猟・採集民族」という従来からのイメージとずれているため、軽視されがちです。
 東北北部にいわゆるアイヌ語地名があることが知られています。ある地名がアイヌ語地名として認められるには、①アイヌ語が話されていた時代の記録があること、②それがない場合、北海道各地のアイヌ語地名と同様のものが周辺に集中して存在すること、③そうした地名と地形の結びつきが確認できること、といった条件を満たす必要があります。たとえば、青森県にある三内丸山遺跡 です。「三内」という地名がそもそもアイヌ語 で解釈すれば理解できます。「サンナイ」とは、アイヌ語で「流れ出す川」という意味になります。「雨が降ると鉄砲水が出る」という地名です。このように、アイヌ民族の歴史を学ぶ と日本史に関わるイメージも変わる可能性があります(*1)
 現代とのつながりで考えるとき、アイヌ民族の歴史と関連して特に重要なのは、明治時代(近代)になってからの動きです。明治政府は「富国強兵・殖産興業・脱亜入欧」を掲げ、北海道開拓にも乗り出します。江戸時代(近世)までは、アイヌ民族の存在を前提に交易をしています。それが明治時代になって変わるのです。1871(明治4)年、明治政府は、北海道開拓のためアメリカからホーレス・ケプロン(1804~1885年)を招きます。ケプロンはアメリカの農務省長官だった人で、北海道に小麦栽培を広げたり、札幌農学校(現・北海道大学)の開設を進言したりするなど、北海道の開拓に貢献したとされる人物です。札幌の大通公園には彼の銅像も建っています。同時にこの人は、アメリカ先住民を居留地へと追いやり、厳しい生活を強いた人でもあります。日本に来て、アメリカで先住民に対して行ったのと同じような政策をアイヌ民族に対して進めようとした のです。これは厳しい同化政策(*2)でした。ケプロンの政策が「富国強兵・殖産興業・脱亜入欧」という明治政府の政策に合致していたということであり、明治政府の政策がどんな性格のものだったかを端的に示しています。
 江戸幕府は、「蝦夷と呼ばれる人たちが住む地域」を蝦夷地(えぞち)と呼んでおり、自分たちの土地ではないことを名称としても認めていたことになります。ところが明治時代に入ると、明治政府は「アイヌモシリ」(アイヌ語で「人間の大地」)を「北海道」と呼ぶようになり、日本国の土地としました。同時に、その土地に住む人びとは、明治政府の政策に従わなければ生きていけなくなりました。ことばや服装など民族文化が禁止され、和人文化への同化を求められました。戸籍制度が敷かれると、和人と同じように「氏名」(*3)というスタイルの名前を使うことを強制されました。このような明治政府の政策を法律として固定化したのが、1899(明治32)年の北海道旧土人保護法 です。
 この時代にアイヌ民族の和人への同化を担ったアイヌのリーダーもいます。アイヌ民族の生活改善などのためです。その一人、吉田菊太郎(1896~1965年)は、アイヌ民族の同化を担いながら、結局アイヌ民族がいなくなり、アイヌ文化も途絶えてしまうことを嘆きつつ、十勝の幕別町に蝦夷文化考古館という博物館を建てました。その博物館の中には、彼が1961(昭和36)年に書いた「蝦夷文化考古館におもう」という文書が掲げられています。(句読点を加えた箇所はありますが、段落換えを含め、基本的に文面を変えてはいません)

(幕別町教育委員会提供)

 蝦夷文化考古館におもう

 その昔、北海道は蝦夷、即ちアイヌ民族の自由の天地であり、大自然に恵まれて何不自由なく楽しく住んでいた。蝦夷ヶ島北海道は、急激なる拓殖政策の強化に伴い、古潭は村に町にと拓け、世は限りなく発展を示しつつあるのに反し、激しい生存競争に耐えられぬ同族の中には世の敗残者として家財を失い、古潭を離れてその行方さえ知れぬものが少なくない。
 又、進化向上した者は事業のため其の他により都会に移り、古潭に停る者も生活様式の改善により、あるいは和人との混血により、同族本来の姿は年々薄れ、古潭は一般和人部落に変りつつある現状にして、おそらく近い将来には全くアイヌ人の姿はこの世から歿し去ることであらう。斯くて先祖が起き伏し、日頃意を通ずるために用いた言葉や、荘厳に行われたカムイノミ(祭典儀式)も殆ど忘れられていることは誠に遺憾の極みである。また、鎌倉時代から蝦夷ヶ島北海道開拓のため移入する内地人の奴僕となって、重荷を背負い、深い茨を分けて道しるべの役となり、或は河に丸木舟を操って交通運輸に努め、開拓移民の先駆者として、文字通り犬馬の労に身命を曝す。
 その酬いとして与えられた品々及び熊の皮、鹿の角など、物々交換により求めた諸々の物を宝ものとして保存し、又自ら作った生活必需品など之等貴重な文化財が薄れゆくアイヌ民族と共に失はれ、このまま放置せんか、古潭にアイヌ文化財は全く消え失せるであらうことを嘆く吉田菊太郎は、一族と共に奮起したのである。
 而して、先祖の遺した文化財を蒐集して一堂に収め、永く正しく保存することが、先祖に対する餞であり、また向後の考古資料にも役立つであらうと考え、先ず之等を保存する館を建設するに当り、菊太郎は資金造成のためアイヌ文化史なる冊子を発刊し、之を道内外に行脚して販売す。尚家族の私財を含めても足りず、然るに幕別町を始め江湖諸賢の御賛助に与り、昭和三十四年深秋、首尾良く蝦夷文化考古館の完成を見るに至る。以来文化財の蒐集に渾身懸命に努むるや、幸い篤志家の御協力と相俟って、徐ろに収容しつつあり、必ず初志の目的を完遂する信念に徹す。茲に念願するは、菊太郎亡き後の蝦夷文化考古館の維持管理は幕別町において當られるよう切に望むのである。
 嗚呼、思いを後世に転ず。既に蝦夷は亡く蝦夷文化考古館の一堂のみが往時先住民族アイヌ人居住の跡として此の地に残るのであらう。
 吾は、先祖と共に蓮華の蔭から蝦夷文化考古館を見守る。合掌。

昭和三十六年五月五日(一九六一年)
北海道十勝国中川郡幕別町字千住(元チリロクトウ古潭)
蝦夷文化考古館建設者 アイヌ人 吉田菊太郎
明治二十九年七月二十日この地に生る

 ここには、心ならずも同化政策を担いながら、アイヌ民族の文化が途絶えかねないことを嘆くアイヌ民族の一リーダーの声があります。吉田菊太郎という名前は和人風につけられた名前です。彼のアイヌ名もあるはずなのですが、それはわたしには分かりません。
 この幕別のコタンに住んでいた人の話を聞いたことがあります。2005(平成17)年前後ですが、その頃その人は、65歳ぐらいだったかと思います。幼い頃、フチ(おばあさん)たちがおしゃべりしているところによちよちと歩いて行こうとしたら、そのおばあさんたちは「やめよう、やめよう、おしゃべりは。子どもにアイヌ語がうつってしまう」と言っておしゃべりをやめて離れていったのだそうです。おばあさんたちにとってよちよち歩きぐらいの子どもは、孫のような存在でかわいかったことでしょう。そんな子どもともアイヌ語で話せない状況を強いられたということです。
 このような政策は沖縄でも行われ、その後、台湾・朝鮮など、日本が海外侵略を進めるときに引き継がれていきました。このように、明治に入ってからの日本の歴史は、明治の初め頃につくられたさまざまな制度を維持し、拡大していこうとする歴史だったと言えます。北海道の開拓で進められた政策を引き継ぎ、海外侵略も、戦争をくりかえしながら進んでいったと言わなければなりません。このプロセスが現代までも強い影響を及ぼしており、わたしたちの暮らしやものの感じ方を左右しています。

2.アイヌ民族の闘い

 このような動きに対して、古代から蝦夷やアイヌ民族の戦いはありました。8世紀末から9世紀初めにかけての「アテルイの戦い」、1457年の「コシャマインの戦い」、1669年からの「シャクシャインの戦い」、1789年の「クナシリ・メナシの戦い」などです。近代になってからは、アイヌ民族はさらに厳しい生活を強いられ、抵抗の動きも続きました。アイヌ民族であることに誇りを持って生きようとする人たちが登場します。
 『アイヌ神謡集』を書いた知里幸恵(1903~1922年)は、1922年7月12日の日記のなかで次のように書いています。文中に出てくる「シサム」とは和人のことを指しています。

「私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのやうなところがある?! たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないといふ事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在をすら知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知ってゐる。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けてゐる。それは感謝すべき事である。
 アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分のウタリが見下げられるのに私ひとりぽつりと見あげられたって、それが何になる。多くのウタリと共に見さげられた方が嬉しいことなのだ。
 それに私は見上げらるべき何物をも持たぬ。平々凡々、あるひはそれ以下の人間ではないか。アイヌなるが故に見さげられる、それはちっともいとふべきことではない。
 ただ、私のつたない故に、アイヌ全体がかうだとみなされて見さげられることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。
 おゝ、愛する同胞よ、愛するアイヌよ!!!」

知里幸恵の日記(大正11年7月12日) より

 知里幸恵は、言語学者の金田一京助(1882~1971年)に見いだされ、彼の誘いで東京に移り住んで『アイヌ神謡集』(1923年)を著しました。才能を見いだされたアイヌ民族の子どもが1922(大正11)年5月に東京へと移り住み、同じ年の9月に19歳で亡くなったのです。わたしは、アイヌ神謡集を初めて読んだときに、そういう背景があったことを知りませんでした。
 知里幸恵以外にも、アイヌ民族として誇りを持って生き抜いた人たちがいます。違星北斗(1902 ~1929年)は、『コタン』(1930年)を発刊し、アイヌ復興への思いを和歌に託しました。知里幸恵の弟である知里真志保 (1909~1961年)は、アイヌ語をはじめアイヌ民族文化の保存と整理に努めました。これらの人たちは、誇りを持って生き抜いた人たちのほんの一部です。吉田菊太郎の憂いを乗り越え、現在も、アイヌ民族としての誇りを引き継いで生きている人たちがたくさんいます。

3.現代の課題につなぐ

 このような流れを受け、第二次世界大戦後も取り組みは進みました。詳しくは次回に譲りますが、政府は「ウタリ対策事業」を実施するとともに、1997(平成9)年には「アイヌ文化振興法」、2019(令和元)年には「アイヌ民族支援法」を制定してきました。これらのいずれも、上に述べてきたようなアイヌ民族に対する日本政府の同化政策を反省し、先住民族としての権利を十分に認めるものではないという意見もあります 。次回は、現代的課題を中心に論じます。

 本稿執筆にあたり、幕別町教育委員会の担当者にアドバイスを頂きました。ここに記すとともに感謝したいと思います。なお、本稿の最終的な責任は森にあります。

【参考・引用文献】

  • 文化庁ウェブサイト「ぶんかるNews002」(2021.8.3)
  • 中川 裕氏(千葉大学文学部教授)「北海道の激ムズ地名「重蘭窮」どうやって読む? アイヌ語の地名は基本的に地形を説明している」(東洋経済オンライン 2021.2.12)
  • アイヌ文化振興・研究推進機構『アイヌ民族:歴史と現在―未来を共に生きるために―』(第6版 アイヌ民族文化財団ウェブサイトより 2015.7)
  • ノエミ・ゴッドフロア氏(フランス国立東洋言語文化学院日本言語文化研究所)「明治時代におけるアイヌ同化政策とアカルチュレーション」(国際交流基金ウェブサイト)
  • 「〔旧〕北海道旧土人保護法について」(北海道ウェブサイト)
  • 青空文庫
  • 東村岳史氏(名古屋大学大学院国際開発研究科教員)「いま、なぜ「アイヌ新法」なのか : 「日本型」先住民族政策の行方」(nippon.comウェブサイト)

*1:アイヌ民族と和人
 アイヌ民族の歴史を意識して、奈良や京都、東京に成立した政権について考えると、さまざまなことが違って見えてきます。たとえば、アイヌ民族との関係で、それ以外の日本人を一括するとき、和人という言葉が使われます。弥生時代以前に日本列島にやってきたのは、アジア各地のさまざまな地域に住んでいたさまざまな民族だと言われます。その後、奈良時代や平安時代から始まる政権を担ってきたのは和人と呼ばれるグループです。江戸時代のさまざまな身分の人たちは、だいたい和人だったということができます。現代では、さまざまな国からさまざまな民族の人たちが日本にやってきていますが、主流となっているのは和人だと言えるでしょう。ところが、日本に住む和人の多くは、ふだんから自分たちが和人だとは意識していないかもしれません。「日本は単一民族だ」という発言をする人などは、その典型です。沖縄の人たちは、和人のことを「やまとんちゅ(大和人)」と呼びます。沖縄から日本の歴史を考えることによって、これまた異なる歴史と社会が浮かび上がります。
*2:「同化政策」について
 同化政策とは、支配集団が被支配集団を自分たちの文化や制度に従わせようとする政策を指しています。しかし、同化政策という言葉の使われ方は幅広く、支配集団の言語を習得することだけをもっぱら指すという場合もあれば、言語・名前・生活様式など幅広く文化をすべて支配集団の通りにさせることを指す場合もあります。この後者は、民族浄化政策とも呼ばれます。民族浄化とは、特定民族の文化全体をなくしていこうとする政策で、住んでいる場所から特定の民族などの集団を排除し、追い出し、住めないようにすることを含みます。ジェノサイドという言葉もありますが、こちらは「集団虐殺」と訳されることも多く、民族集団の生命そのものを直接に奪うというところに力点があります。
*3:「氏名」について
 そもそも、和人の間に「氏名」という枠組みが創られていったのは明治維新からです。江戸時代まで、和人の名前はさまざまでした。武士も、「氏名」という枠組みではありませんでした。たとえば、江戸時代の名奉行として知られる大岡忠相(1677~1752年)のフルネームは、大岡越前守忠右衛門忠相となります。忠相は諱(いみな)であり、この諱はもともと忠義(ただよし)でしたが、後に忠相となりました。諱で本人に呼びかけることは失礼とされていましたので、彼が「忠相」と生前に呼ばれることはほとんどありませんでした。忠右衛門は通称です。通称は求馬から始まり市十郎と変化し、忠右衛門となりました。ですから、生前に彼が「大岡忠相」と呼ばれることなどなかったのです。諱の忠相を勝手に使って、わたしたちがいまの氏名という枠組みに当てはめて彼を呼んでいるのです。一方、百姓身分にも多くの場合、名字はありました。ただ、公的な場所で名乗ることはできませんでした。明治時代になって1870年に「平民苗字許可令」が出ても、人びとの多くは名字を届け出ませんでした。公的に名字を明かせば処罰されると思っていたからです。「氏名」という枠組みで戸籍を編成し、すべての国民を管理しようとした政府にとって、これは見逃せないことです。そのため、のちに「苗字必称義務令」(1875年)などを出し、名字を義務づけました。
 このように、江戸時代までの名前は、①氏名という枠組みではなく、②成長とともに変化し、③さまざまな要素を含んでいた、ということになります。そして、それらを一括して管理するために、明治時代になって「氏名」という制度が創られていったのです。「氏名」という制度の下では、生まれたときにつけられた名前を一生変えることができず、「氏名」以外の要素を使うこともできません。こういう枠組みの名前制度をもっている国はほとんどありません。わたしたちは、氏名という制度一つをとっても、明治時代に作られた枠組みに縛られているのです。そのため、外国生まれの人でも、日本国籍を取得するなら「氏名」という枠組みにあわせるよう求められます。「帰化」とは、こういう面も含めて日本の社会や制度などに従うことを認めるという制度だと言えます。