『社会科らしさ』って何だろう? ~人に目を向けた授業づくり~

資料1 前回は資料1の写真を用いて素朴な問いを引き出し、低地でくらす人々の工夫や努力(知恵や汗)に目を向けていくことがこの授業の1つ目のポイントであること、そして小学校の屋上にあるレスキューマーク(ヘリポート)を提示し、子どもにゆさぶりをかけ、問題意識を醸成する(さらに高める)ところまでを紹介した。
 今回はこの続きを取り上げ、『社会科らしさ』って何だろう?~人に目を向けた授業づくり~について考えていく。
 まずは、前回授業の続きからスタートしたい。

資料2
資料3 「水害の心配は、本当になくなったのか?」という問いに対して、屋上からの景観(資料2と資料3の写真)を手がかりに、個々が自分の考え(推理)をノートにメモし、ペアや全体で話し合う。
 「校庭が川より低いぞ!」
 「新しい家も石垣の上にあるよ。今も水害の心配があるのでは?」
 これらの疑問を受け『もし□□したら○○ではないか?』という話型を板書。「もし台風などで大雨が降り続いたら洪水の心配があるのではないか?」などの予想を引き出す。そのうえで、水害の写真と年表を読み取り、過去には度々水害に悩まされてきたが近年その被害を受けていない事実を確認する。
 次にこの授業の2つ目のポイント『海津市でくらしている人々に聞いてみたいことは?』と板書。海津でくらす人々の気持ちに目を向け、個々が自分の素朴な疑問や思いをノートに書いて、ペアや全体で紹介し合うのである。
 ここで期待する反応は、一般的には次のAやBであろう。

A:水害の心配は本当になくなったのか?
B:水害からくらしを守るために、どのような工夫をしているのか?

 AやBは水害からどのようにくらしを守っているのか(水害を克服するための工夫や努力に関する疑問)という教師側のねらいに直結する問いでありそれも大切にしたいが、私が子どもたちにぜひ目を向けてほしいのは、次のCやDなど自分ごととして考えたり低地の海津でくらす人々の立場に立って考えたりすることである。

C:引っ越したいとは思わないのか?(私ならもっと安全なところに引っ越すけどなー。)
D:でも、水害の心配がある海津(低地)のくらしには、わたしたちの知らないよさや魅力があるのではないか?それはいったい何だろう?

 こうした海津でくらす人々の気持ち、思いや願いに目を向けた反応を受け、次のように投げかけるのである。
 「それでは、海津でくらす人々の声を聞いてみよう!」
 ここで海津市の人々の声を直に聞かせたいところではあるがそれは難しい。その代わりとして海津市観光協会が出している広報紙を提示。その中で誰もの目にも飛び込んでくる次のキーワードを取り上げ、「?=本当はどうなのか知りたいこと、確かめたいことなど」をノートにメモし、ペアや全体で話し合う。

三つの川が出合う『自然の楽園』
三川の『おいしい恵み』を食す
『記憶』に刻まれた『自然の猛威(ものすごいパワー)』

 そして「引っ越したいどころか『自然の楽園』らしい。川に囲まれた低地がどうして楽園なのか?」「三川(木曽川、揖斐川、長良川)は水害という自然の猛威をもたらしてきたが、それは記憶に刻まれた遠い昔の話かも・・・。今は『おいしい恵み』を与えてくれる海津の宝。そのおいしい恵みっていったい何?」そんな「?」を引き出したいのである。

 ところで、私がなぜ人に目を向けた社会科の授業づくりにこだわってきたのか。それは、「社会に生きる人々がどのような思いや願いをもち、どんな問題を抱えながら生きているのか」「その問題を解決するために、どんな工夫をし(知恵を働かせ)努力をして(汗を流して)いるのか」を探っていくという『人に目を向けた授業』こそが小学校の社会科らしさであると考えているからである。その原点は初任者時代にまでさかのぼる。

 私は初任者研修を兼ねて社会科の授業研究を行ったのだが、その時に今でも記憶に残る大きな失敗をする。その授業とは、第4学年「郷土をひらく先人のはたらき~利根川・荒川のつけかえ~」の単元の導入(第1時)である。
 利根川・荒川のつけかえとは、江戸時代、荒川と合流して東京湾に流れ込んでいた「坂東太郎」の異名をもつ暴れ川の利根川を荒川と分離させ、少しずつ東へと移し千葉の銚子で太平洋に注ぐよう大きく流れを変えた伊奈氏(忠次、忠政、忠治)による大工事のことである。
 私が行った授業では、地図帳で県内を流れる主な川の流路やその中の「荒川」と「元荒川」、「利根川」と「古利根川」の名称に着目し、白地図作業を通してその流路をおさえることで、昔は荒川と利根川が合流して東京湾に流れ込んでいたことや、今は利根川の流れが大きく東へと変わり太平洋に注ぎこんでいることなどに驚きをもたせる。そしてその事実認識に基づく疑問を出し合い、学習問題や学習計画を立てていくことをねらいとしていた。
 子どもが「元荒川」や「古利根川」などの名称に興味を示し、その流路が大きく変わったことに驚きをもつなど私の意図通りに授業は流れたが、それは授業の前半から中盤までの話。授業の終盤、ある子どもの発言が引き金となり、流れが私のねらいからどんどんずれていく。その発言とは・・・。
 「川の流れを変えた水の力にびっくり!流れる水のはたらきをもっと詳しく知りたい。」
 子どもたちの問題意識は川の流れを変えた「人の力」(社会的事象)ではなく、「水の力」(自然事象)へと向いてしまったのである。
 指導者である当時の浦和市教育委員会の指導主事から「先人である伊奈氏の業績に目を向けていくしかけ(手立て)が抜けていたね」とズバリ指摘された。残念!!
 実は、私が生まれ育った鴻巣市の勝願寺には伊奈氏の墓とその偉業を称える説明書きが設置されている。子どものころからその存在に気づいてはいたが、「人に目を向けること」の意味やその必要性について理解しておらず、それらを授業で生かすことができなかったのである。もったいなかったな!!

 結びに一言・・・
 「人に目を向けた授業づくり」が軽視されているのではないか。そう思わざるを得ない社会科の授業に時々出合う。単元「市の様子の移り変わり」(第3学年)において、市の人口と市域の変化の資料を見比べ、相互の関係を読み取っていく授業がその一例である。3年の社会科は子どもが社会生活を学ぶ入門期。だからこそ「市の様子」の移り変わりだけでなく、それに伴う「人々のくらし」の移り変わりに目を向けてほしい。この「人に目を向けていく授業」こそが『社会科らしい』授業づくりの “はじめの一歩” ではないだろうか。

Webマガジンまなびと:「学び!と共生社会」Vol.72

Webマガジン:「学び!と共生社会」Vol.72 “「共生社会」という言葉とその理解”を追加しました。

「共生社会」という言葉とその理解

1.はじめに

 「共生社会」について、学校教育で扱われる度合いが高まっていることは、このマガジンのVol.30(*1)Vol.48(*2)などでもたびたび紹介してきました。「共生社会」という言葉に接する機会が増えていることは確かなのですが、それでは、「共生社会」の意味はどのように理解されているのでしょうか。
 昨年末、障害者雇用の記事がニュースサイトに掲載されていました。その記事自体は、障害者雇用ビジネスの課題や雇用主の責任を正面から取り上げた建設的で内容でしたが、そのコメント欄は、「共生社会の実現」に懐疑的とも読み取れるような意見であふれていました。ニュースサイトの記事のコメントには、極端な意見や誤情報も少なくないと言われていますが、それでもこれらのコメントに接して、「共生社会」や「障害者雇用」という言葉の理解が十分に行きわたっていないために、戸惑いや疑義が生じている側面もあるだろうということを感じざるを得ませんでした。
 そこで、今回は「障害者雇用」とも関連させながら、「共生社会」ということばの理解について、いくつかの調査研究を参考にしながら探ってみることにしました。

2.障害者雇用関連の記事から

 前述の記事は、「障害者雇用の問題『雇っているのに、一緒に働いていない』 数合わせから戦力化へ」(*3)というタイトルがついていました。
 この記事には、「障害者雇用の課題と展望」がまとめられていました。障害者の雇用については、障害者雇用促進法に基づき障害者の法定雇用率が雇用主に課されていますが、記事には次のようなことが記されていました。

  • 近年、この障害者の雇用率が段階的に引き上げられ、企業等にとっては経営上の重要な課題となってきている。
  • 一方、制度の要請が強まるほど、現場での対応が追いついていないという現実も見受けられる。
  • こうした中で、表向きは雇用契約を結び、例えばIT企業や商社の社員として雇用された障害者が、外部事業者の運営する遠隔地の農園で作物を育てているといったように、法定雇用率の達成を主目的としているかのようにも受け取られる実態が認められるようになってきた(これが、タイトルの『雇っているのに、一緒に働いていない』ということです)。
  • そのために「障害者雇用」を進めるための制度が、かえって実態の見えにくい雇用を生んでいるという矛盾が生じてきた。
  • 厚生労働省は、こうした事態を受けて外部事業者に過度に依存することは適切ではないとして障害者雇用代行を含む外部活用型の雇用形態についての指針を明確化し、企業側の関与を求める姿勢を示した。
  • このことを契機に障害者雇用ビジネスの潮流も量から質の重視へと変わりつつある。

 記事は、このように現状を整理したうえで、次世代の「障害者雇用ビジネス」に求められる価値は、単に働く「場所」を用意することではなく、「戦力」として企業の生産性向上につなげる役割こそが中核となるであろうとまとめています。
 筆者もこうした流れが進んでいくことを期待するものですが、この記事はyahooニュースとしても配信されていて、そのコメント欄には、障害者雇用の難しさ、あるいは現状では企業にとって「戦力」になっていないことなど不満やとまどいを訴える声であふれていました(残念ながらこの記事は、Yahoo!ニュースでは既に削除されていて、記事もコメントも読むことができなくなっています)。
 これらのコメントは、「共生社会の実現」や「障害者雇用」が組織や個人の業績、生産性などを脅かしていると受け止めての反応であり、短期間に一定程度の成果が求められる業績主義の社会で奮闘している人々の率直な気持ちも表れているようにも思われました。
 このような厳しいコメントを読んで「共生社会」実現への歩みを進めることの厳しさを感じたのですが、「共生社会」には、包摂、協力、共同などの面から業績社会を補填する役割を果たす側面もあります。「共生社会」の実現に向けて着実に歩みを進めていくためには、こうした声を受け止めつつ、「共生社会」という言葉の理解をより深めていくことが肝要だということを再認識させられました。

3.「共生社会」という言葉の認知と社会的配分のありかたへの姿勢

 「共生社会」の実現に対する社会の動きの受け止めについて、長ら(2019)は、社会的地位や経済的な豊かさについての理想的な社会的配分のあり方と「共生」に関する知識との関連から調査を実施しています(*4)
 この調査は、「共生社会」という言葉の認知と社会的地位や経済的な豊かさの理想的な社会的配分のあり方の関連について、性別・年齢層・居住地域による層化抽出を行った成人2000名を対象に調査されたものです。
 この調査では、社会的地位や経済的な豊かさについての理想的な社会的配分のあり方を捉えるために「社会階層と社会移動全国調査(SSM調査)」(*5)を拠り所として、「高い地位や経済的豊かさなどの利益をどのような人が得るのがよいか」という点について、4つの意見を提示して、回答者に最も近いものを選択させる問いを発しています。
 4つの意見とは、以下のとおりです。

  • 「実績をあげた人ほど多くの利益を得るのが望ましい」(実績原理)、
  • 「努力した人ほど多くの利益を得るのが望ましい」(努力原理)、
  • 「必要としている人が必要なだけ得るのが望ましい」(必要原理)、
  • 「誰でもが同じくらいに利益を得るのが望ましい」(平等原理)

 「実績原理」や「努力原理」はどちらかというと能力や成果を重視した「業績主義」の立場に立つもので、「必要原理」「平等原理」はどちらかというと多様性や協調性を重視した「共生」の立場に立つものと整理できそうです。
 この調査からは、「共生社会」という言葉の認知が、大学進学者では、理想的な社会的配分のあり方として「必要原理」を支持することと関連していること、非大学進学者においては「共生社会」という言葉の認知と理想的な社会的配分のあり方に関連が見られなかったということが示されたということです。
 この研究を踏まえて、津多(2024)は、「共生社会」の推進が明確に学校教育に導入された世代である高校1年生を対象に「共生社会」という言葉の認知と理想的な社会的配分のあり方の関連について調査しています(*6)
 その結果は以下のように整理されています(詳細は原典を参照してください)。

 「第一に、高校1年生にとって「共生社会」という言葉の認知は理想的な社会的配分のあり方として「実績原理」を支持することと関連する。この結果は、長ほか(2019)が提示している、大学進学者において「共生社会」という言葉の認知が理想的な社会的配分のあり方として社会的分断を克服する基盤原理として重視される考え方でもある「必要原理」を支持することと関連する、という成人調査の結果とは大きく異なる結果であった。」
 「第二に、第一の点を傍証する結果として、「共生社会」という言葉の認知は、高校生活において「進路のための学習」を重視することと関連していた。進学校における「進路のための学習」の「進路」の多くが4年制大学進学であることを踏まえると、「共生社会」という言葉の認知は、「実績」や「努力」の結果としての知識の所有の側面と関連していると考えられる。また、この関連が強くみられたのは理想的な社会的配分のあり方として「努力原理」を支持する場合であった。」
 「第三に、第一の点で言及した傾向は、学業成績によらず全体的な傾向としてみられたことである。この結果は、業績としての「共生社会」という言葉の認知の側面が学歴社会において学業成績によらず浸透していることが背景にあると考えられる。ただし、「共生社会」という言葉の認知自体は、学業成績の上位者で相対的に高い傾向がみられた。」

 この調査の考察からは、「共生社会」という言葉が、必ずしも本来理想とされている「必要原理」とつながって理解されているわけではないということが読み取れます。調査対象となった高校1年生は、「共生社会」については、中学校段階、特に「公民科」で学んできているものと思われます。相対的に理想的な社会的配分のあり方として「実績原理」を支持する割合が高かったのは、学業での評価が優先される学校社会の中で「言葉を聞いたこともあり、その意味も知っている」比較的学業レベルが高いと思われる層でした。
 知識優先で、「共生社会」の内容を十分に理解した上で、「実績原理」を支持しているのではないということは、残りの学校教育を受けている期間中にその肉付け、つまり具体的な活動を通して「共生社会」にコミットするプロセスが必要だということを意味しているように思われます。そうした活動によって、本来理想とされている「共生社会」の本質的な理解が深まっていくように思われます。これは、全ての生徒に必要なことだとも言えます。しかし、「学業」が優先されている学校にあっては、その優先順位が高くなることは期待できないことかもしれません。

4.まとめ

 「障害者雇用」とも関連させながら、いくつかの関連研究を参考に「共生社会」ということばとその理解について吟味してきました。
 引用した「障害者雇用」に関するニュースサイトの記事は、「共生社会の実現」を目指すというよりも法定雇用率を達成することに主眼を置いた障害者雇用ビジネスの成り立ちと課題を丁寧に分析し、社会包摂を正面に据えた建設的な提案を含む内容でした。しかしながら、読者のコメントには、効率主義、実績主義に立った皮相的な内容の反応が少なくありませんでした。中には、現状の「障害者雇用」の課題を詳らかにしてくれる内容のものもありましたが、こうした否定的な反応には、「共生社会」が「業績社会」を補填する役割も担っていることを理解して、そのとらえ方がぶれないように冷静に対応していくことが求められていることを痛感しました。
 また、「共生社会」という言葉の認知と理想的な社会的配分のあり方の関係を探求した二つの調査は大変興味深いものでした。実践や経験を伴わない机上の学習に留まっている段階では、「共生社会」という言葉も生徒自身が身を置いている「業績原理」や「努力原理」の文脈で捉えて当然だと言えます。こうした結果を導いているのは、現在の学校の仕組にも一因があるとも言えそうです。小中学校の段階において、インクルーシブな環境での体験を通して内面的な豊かさを成長させてきた生徒が多ければ、異なった結果が出ていたかもしれません。
 「共生社会」にしても「インクルーシブ教育システムの構築」にしても、観念的な言葉遊びに興じるのではなく、それらの言葉を真の意味での理解するためには、実践レベルでの積み上げを愚直に進めていくことが求められていると言えるのではないでしょうか。

*1:学び!と共生社会 <Vol.30> 社会科と「共生社会」
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/inclusive/inclusive030/
*2:学び!と共生社会 <Vol.48> 障害者の雇用の促進と共生社会
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/inclusive/inclusive048/
*3:TBS CROSS DIG「障害者雇用の問題『雇っているのに、一緒に働いていない』 数合わせから戦力化へ」
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/withbloomberg/2386954
*4:長創一朗・岡本智周・青木結・小山田建太(
2019)「共生社会・歴史認識・配分原理・社会的諦観に関わる社会意識の分析:学歴と年齢層の観点による 2018 年調査データの検討」『共生教育学研究』6, pp.61-76.
*5:2025年社会階層と社会移動調査研究会「仕事と生活に関する全国調査」
https://ssm2025.jp/
*6:津多成輔(2024)「『共生社会』という言葉の認知と理想的な社会的配分の関連―地方公立進学校の高校 1 年生を対象とした調査の分析―」『共生学研究』01, pp.178-199.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoseigakukenkyu/1/0/1_178/_pdf