自律的な学びを一層促す行政への期待

■ 中学校のある授業

 最近、ある中学校で数学の授業を見る機会があった。熱心に課題に取り組んでいる生徒も居る中で、公開授業であったにもかかわらず堂々と机に伏せて寝る生徒が少なからず居た。数学の授業のもつ課題も少なくないが、授業で平気で寝ること、もっと言えば、勉強への拒否をあからさまに示す生徒がいることにいささか驚かされた。

■ 学びの方法を学ぶ大切さ

 いつの頃からか、授業は自分が成長できる貴重な機会であること、そのために、どのようにすればこの機会を最大限に活用することができるかの意識が子どもの中から欠落してきたのではないかと感じることがある。あるいは、授業がそのような大切な機会であり、単に答えを求める場ではなく、将来の「答えのない世界での問題解決力の習得」のために「答えのある世界での問題解決をモデルとして習得」する機会で、それはどのようにすることかという学びの方法を指導する場であることを先生方も意識しなくなっているのかもしれない。

■ メタ認知とは

 「この時間は、しっかりと興味・関心のもち方、見方・考え方を学ぶ時間」だと子ども自身が自分に言い聞かせるような<もう一人の自分(メタ認知)>の働きが弱くなっていないだろうか。十分メタ認知を育成してこなかったのではないかと思える。
 メタ認知とは、自分の記憶や理解などの認知的行為をモニターしたり、コントロールする頭の中の働きといえる。実際、学習の不振に2種類ある。図がかけない、計算ができないといった直接的(認知的)原因と、いつ、どこで図をかいたり、計算をするか、といった頭の中の働き(メタ認知)が影響した原因となるものがある。したがって、後者の原因での改善には先生のメタ認知的支援が大切になる。例えば、「ここで前に習った図を使えばよいよ。」と先生が言えば、子どもは「それを早く言ってよ。」とばかりに鉛筆が進むことがある。この「図を使えば解決できる。」は子どもの方略についてのメタ認知的知識で、これが適時適所で働くことを先生が代理するメタ認知的支援を行ったといえる。
 筆者は、このメタ認知の育成には、発達的には小学校3、4年生が大切な時期だと考えている。また、メタ認知の育成にとって大切なメタ認知的知識の育成には、先生の言葉がけ(言語的行動)が大切だと考えている。というのも、先生の言語的行動が子どもに内面化され、やがては行動する自分を見つめる<もう一人の自分>として働くと考えられるからである。そのためにメタ認知を『内なる教師』とも言っている。
 それだけに、先生の頭にある教科の学びや学びの方法そのものに対してのメタ認知的知識が大切になってくる。「正しく答えてより点を取ることが大切」としか学びの課題を考えていなければ、やがて子どもの学びに対するメタ認知が「点数」だけになる。だからこそ、授業で寝て聞いていなくても点さえ取ればよいという行動のコントロールが働いたのかもしれない。
 このメタ認知の育成は、単に学習のつまずきをのり越えるための方法の習得という側面だけでなく、将来の未知で困難な課題の解決にとって大切な知的働きであるということで、シンガポールでは日本と同じような態度・思考・知識・技能の4つの教育目標に加えて、第5番目の教育目標に「メタ認知」が位置づけられている。

■ これからの子どもたちの学び

 よりよくできる子どもの特徴は、自分が知るべきことについて考え、計画的に対処し、先生から情報を与えてくれるのを待たずして自ら学習に取り組む傾向があるという。これは、頭の中に自律的な学びを進めるメタ認知がうまく働いている子どもといえる。
 このような子どもを育むには、子どもたちがこれまで体験したり、学習したりしたことを生かしながら、課題を見つけたり、自分で工夫して問題を解決したりすることができるようにすることが必要である。さらに、先生が子どもの主体的で自律的な学習活動を仕組むためのメタ認知的支援を積極的に行うことが必要になる。その結果、子ども自ら学ぶ楽しさと充実感を味わい、さらなる学びに取り組み、やがては、学んだことをもとに「提案型」の学力をもった子どもとなることが期待できる。
 このために、先生方の健全なメタ認知の育成やメタ認知的支援のあり方の研修機会が望まれる。
日文の教育情報ロゴ

教員の資質能力向上

■ 中教審分科会の議論

 昨年から中央教育審議会に設置された「教員の資質能力向上対策特別委員会」では、大きく分けて、教員養成制度、教員免許制度、採用・任用・研修等を担う教育委員会の在り方について議論されている。
 教員養成制度、教員免許制度については、議論そのものが教員免許の修士化(4+2、今は4+αと言われている。)が議論の入り口だったので、学部4年に何年を継ぎ足すか、その際のカリキュラムはどうするか、といった具体論が今後展開されていくと思われる。このことで、注目すべきことは、専門免許の創設が話題になっていることである。専門免許については、具体的な議論は始まっていないが、経営、生徒指導、特別支援等の専門免許が例として示されている。これらの専門免許を取得した教員が、校長・教頭等の管理職や、地域での生徒指導・特別支援等の支援を行う立場や、大学等での教員として考えられるだろう。これに、教員養成の課程認定の問題も今後の話題となることが予想される。

■ 市町村の責任

 教員養成にいくら手をつけても4年ないし6年の問題であり、問題は、採用後40年近くの教員の資質向上に責任を持つ任命権者としての都道府県教育委員会や、実際に学校の設置管理者であり、服務監督者としての市町村教育委員会の責任である。地方分権一括法から10年を過ぎ、地方分権推進改革委員会勧告から5年を過ぎようとしているのに、地方分権の主体者として責任を果たしているのか。その最たるものが「県費負担教職員」の人事権問題である。勧告では市町村への移譲を前提としつつ、中核市への移譲については先行することを勧告したにも関わらず、人事権を持つことを嫌がる市町村と、人事権を手放したくない都道府県教育委員会が多く、現在まで結論が出ていない。
 学級編成の問題もこの間、県教育委員会の設ける学級編成基準が従うべき基準から、市町村教育委員会から都道府県教育委員会への同意を要する事前協議と移り、さらに来年4月からは事前協議の義務付けが廃止され事後の届け出となることに標準法は改正されたのに、果たして都道府県教育委員会は標準法が算定の基準と編成の基準が一致していた時代の学級編成基準から、算定の基準と編成の基準は別物であるという時代になって10年を過ぎたのに、学級編成基準を作る責任者としてその責任を果たしているのだろうか。市町村教育委員会はその準備を進めているのだろうか。
 我が国は第三の教育改革期である、と盛んに言われ、それを前提にいろいろな政策・施策を実施してきたはずである。この10年間の議論はすべてそこに収斂されるはずである。学校組織の在り方の見直し、地域と学校との関係、教職員制度の大改正、学校評価の導入や人事評価の改革等々、目標を理解せずひたすら上意下達で導入してきたのなら責任は重大である。こどもたちへの「生きる力」というメッセージもむなしく響く。

■ 学力向上

 教員の資質能力向上はいうまでもなく、子どもに反映されなければならない。そのことが教員の資質能力向上の目標である。しかし、その方法はあまりにも、いわゆる「指導技術」に偏っていないか。板書は…、発問は…等々、同じことを言い続け、指導技術だけで学力向上に向かっていないか。もちろん、それらのことは普遍の指導技術の面もあるが、今もって黒板とチョークを前提にしていたり、挙げ句の果てには、黒板とチョークが教師の本質であるような精神論が堂々とまかり通っていないか。もともとそれだけではないはずである。学校という組織がどう教育を組織的に行うかという、システムの面からのアプローチが必要である。それらの根本に手をつけようとしているのが、学級編成権の弾力化である。このことは、一斉授業、板書、学級主義からの転換を意味する。これらを変えることのできない普遍的なものとして捉える限り新しい学校の姿は生まれてこない。学校や学級の適正規模の話題も、言い換えれば一斉授業を何人にするかという議論であり、このことについては正解がないばかりか、取りこぼしを生み取りこぼしを補うために習熟度という方法を取るなどシステムとしての矛盾を内在している。
 これらの問題は、経済効率が生んだものであり、長く続いた右肩上がりの価値構造が転換するこれからの時代にはそぐわない。「経済効率優先の教育」から「知識効率優先の教育」へ転換すべきであるし、「組織マネジメント」から「知識マネジメント」への転換が求められる。

日文の教育情報ロゴ

「までい」に子育てを

■ 昔ながらの方言

 東北地方で使われている方言に「までい」という思いやりのあるあたたかい言葉がある。
 「真手(まて)」という古語が語源で、広辞苑には「(『ま』は二つ揃っていて、完全である意)左右の手。両手。」とある。
 それが転じて「手間ひまを惜しまず、丁寧に心をこめて、つつましく」という意味で現在でも使われているそうだ。
 「までいに飯を食わねえどバチがあだっと」
 「子どものしつけはまでいにやれよ」
 「玄関はまでいに掃いておげよ」
などとお年寄りは言う。
 「天声人語」朝日新聞2011年5月5日(木)で知った。
 辞書を幾つか当たってみると、「手間ひまを惜しまず」という意味から広がって、「思いやりを持って、愛を込めて、大切に、もったいない、節約をする」などの意味を込めて使うらしい。
 東日本大震災をきっかけにして、東北地方のことをいろいろと情報として知る機会が増えたが、この「までい」という方言はずっと私の心の中で生きていた。

■ 「までい」の心は生きていた

 今回の東日本大震災を通じて、私が一番心を動かされたのは、日本の社会全体が個人主義、「自分さえよければいい」という風潮に流れている中で、家族のつながりや仲間、地域の助け合いなどがしっかりと根づいている東北の人々の姿だった。
 水道も電気もガスもなく、冷房もない暑い体育館で、自分だけ快適な生活を求めて抜け駆けをすることもなく、大多数の人々は家族や親戚、仲間、地域の人々と肩を寄せ合い、この夏をのりこえられた姿に感動した。
 人と人とのつながりが薄らいでしまっている大都市に住む私には考えられない光景だった。
 そこには私たちの生活を支配している価値観、すなわち、効率的、刷新、改革、能率、有効、無駄なく、効果をあげる、新幹線、高速道路、といったイメージとは別の世界、まさに「までい」の世界があった。
 「までい」という方言も、昔は日常的に使われていたが、今日では効率を求める社会の変化のなかで、陰が薄くなり日常的に使われることがだんだんと減ってきているらしい。
 しかし、「までい」の心はしっかりと生きていた。

■ 教育改革(子育て)も「までい」に

 私ごとであるが今年の「夏休み」も講演に呼ばれて北海道から九州まで全国各地をめぐらせてもらった。
 話をする対象は、ほとんどが幼小中高の学校園の先生たちである。
 そこで共通して感じたことがある。
 それは、日本の先生たちは忙しすぎる、「学力向上」などの教育改革に追われている、そして一番大切な、子どもたちとたっぷりと遊んでいない、子どもの話をたっぷりと聞いてやっていない、保護者ともゆっくりと話し合っていない、用事があっても携帯電話ですましている、先生どうしのつながりも薄くなってしまっている、ということである。
 ある県の校長研修会で、手を挙げてもらった。
 「給料から毎月、積み立てをして、学校の全教職員で泊まりがけで親睦旅行に行っている学校はどのくらいありますか?」
 800人ほどいた校長さんのうち、8人が手を挙げた。
 99%の学校は全教職員で旅行に行くような日がとれないと言う。とれたとしても希望者しか行かないと言う。
 「夏休み中、どこにもつれて行ってもらえない家庭環境の子どもに電話して、今日は先生、当番で一日学校にいるから、遊びにおいで、などと気になる子とつながってますか?」という話をしたら、感想文に、「今日帰ったら、電話してみようと思った」というのもあった。
 教育で一番大事なのは人と人とのつながりである。
 先生たちの集団が仲間としてつながらないで、どうしていい教育ができるのだろう。
 先生たちが、子どもや保護者としっかりつながらないで教育と言えるのだろうか。
 「までい」に、家族、仲間、地域とつながって、手間ひまを惜しまず、丁寧に心を込めて教育改革を進めたい。

著者経歴
元 大阪府堺市教育長
元 大阪府教育委員会理事 兼教育センター所長
元 文部省教育課程審議会委員
日文の教育情報ロゴ

ソーシャル・キャピタルの醸成と教育委員会の役割

■ 地域コミュニティの形成とソーシャル・キャピタルの醸成

 地域コミュニティの形成において、ソーシャル・キャピタルの醸成と地域社会の課題への対応力との関係性が注目されている。
 ソーシャル・キャピタルとは、『人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性を高めることのできる、「信頼」「互酬性の規範」「ネットワーク」といった社会組織の特徴』と一般的に説明されている。信頼関係や相互扶助の慣行、人的ネットワークといった人々の協力関係を促進し、社会の機能を円滑に機能させる諸要素を資本(キャピタル)に見立てた概念であり、地域住民相互の“関わり合い”の指標と言える。
 また、ソーシャル・キャピタルの醸成と地域活動の活性化には、互いに他を高めていくような関係、すなわちポジティブ・フィードバックの関係の可能性も指摘されている。

■ ソーシャル・キャピタルの醸成と地域社会の教育力

 ソーシャル・キャピタルの醸成が地域コミュニティ形成の基盤になる可能性が指摘されるが、地域社会の教育力の活性化には、一般に次のサイクルが有効である。

kyoiku_joho_104

 ①は、地域社会の教育力を活性化するきっかけを発見する場面、例えば学校評価などにより明らかになった児童生徒に関わる課題を地域と学校が共有する場面などである。
 ②は、地域住民が地域課題に取り組む過程で地域社会に対するアイデンティティを高めていく場面である。地域と学校の双方向での連携促進は、児童生徒や保護者・地域住民に地域社会に対する関わりの深まりや地域社会の一員である自覚の高まりを期待できる。
 更に課題解決の成功経験によって地域づくりの意欲向上につながっていくのが③であり、行政と地域住民との協働が期待される。④は、実践発表などを通して、課題解決の方法を地域と学校が共有化しシステム化を図る場面である。学校運営に住民が参画する仕組みづくり等が位置づけられる。
 なお、①から④の各場面は、ソーシャル・キャピタルの醸成とポジティブ・フィードバックの関係であることからスパイラルなサイクルになると考える。

■ 多様・柔軟な学校運営協議会(コミュニティ・スクール)の設置

 地域社会の教育力を地域コミュニティ形成につなげる一つの方策として、地教行法第47条の5に規定されている「学校運営協議会」の設置があげられる。学校運営協議会の設置は、保護者・地域住民が一定の権限と責任を持って主体的に学校運営に参画することにより、学校を核とした地域社会づくりの広がりが期待されているものである。
 学校運営協議会は、指定学校ごとに設置することとされているが、地域自治組織(宮崎市で設置している地域自治区など)の仕組みの中に、学校運営協議会の内容を組み込んだ、いわば「地域自治組織立のコミュニティ・スクール」など地域の実情に応じた多様・柔軟な在り方が構想できる。地域内の各小中学校と地域が連携協力することによって「縦のつながり」と「横のつながり」が更に深まり、児童生徒の発達課題に応じた「地域とともにある学校」が実現されると考える。

■ これからの教育委員会の役割

 地域住民が学校運営協議会を通して学校運営へ参画し、学校づくりに関わることは、地域社会のソーシャル・キャピタルを醸成する契機になり、地域コミュニティの形成に影響を持っていると考えられる。
 また、学校運営協議会は、「当該学校の職員の採用その他の任用に関する事項」について、任命権者に対し市町村教育委員会を経由して意見を述べることができる。このことは、特色ある学校づくり、地域づくりを実現する上で重要な条件整備であると考える。
 これらのことから、教育委員会には、地域社会のソーシャル・キャピタルの醸成の支援や地域住民の学校に対する期待の的確な把握、それを教育行政に反映させる仕組みを構築することが望まれる。さらに、地域住民の人事面での要望をいかに調整するかも重要な役割の一つとなると考える。
 これからの教育委員会には、特色ある学校づくりとともに特色ある地域づくりを支援することが期待されているのである。日文の教育情報ロゴ

教師の指導力をどう高めるか

■ 緊急課題としての指導力向上

 学校を支える教師の指導力の重要性が改めて強く認識されるようになっている。理由は二つある。
 第一は、新学習指導要領の完全実施である。そこで求められているのは、単なる知識や技術の伝達ではない。生きる力を育てる学校が目指されるのである。基礎・基本の徹底と同時に、主体的に学び学習を自ら展開していく力の育成が求められている。社会の信頼に応える学校づくりには教師の指導力が欠かせない。そこでは高度の指導力が要求される。教師の指導力をどう向上させるかが緊急の課題となる。
 理由の第二は、こうした動きについていけない、指導力不足の教師への対応という課題である。
 効果的な取組のためには、まず、いま求められる教師の資質能力を明確にする必要がある。
 平成19年7月の文部科学事務次官通知「教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律について」には、指導力不足に関して次のことが示されている。

①教科に関する専門的知識、技術等が不足しているため、学習指導を適切に行うことができない場合。
②指導方法が不適切であるため、学習指導を適切に行うことができない場合。
③児童等の心を理解する能力や意欲に欠け、学級経営や生徒指導を適切に行うことができない場合。

 裏を返せば、これこそが、いま求められる教師の指導力ということになる。こうした指導力をどう向上させるか、各学校における教師の指導力の実態を分析的に捉え、その改善・充実のための効果的な取組を施策に位置づけ、実施に移すことが求められている。

■ 求められる組織的な対応

 教師の指導力に関して問題の生じたA小学校の場合である。B教諭の担任する学級では、学習規律が確立されず、雑然とした雰囲気の中で学習活動が行われるようになった。やがて学習活動に加わらない児童が4、5人になり、そのことに対し保護者から強い批判が寄せられた。保護者の抗議を受け、その解決に向け、校長はB教諭への直接の指導を開始した。
 ここにはいくつかの問題点がある。
 第一は、保護者の批判を招くに至るまで、事態の把握、改善のための有効な対応が遅れている点である。第二がB教諭に対する組織的な対応体制の不備の問題である。第三は、全教師の指導力向上のための、日常的な研修体制の確立の問題である。
 対応の重点は三つに絞られる。
 第一は、指導改善に機能するPDCAシステムを確立し、教育活動を組織的に評価点検し、保護者と課題を共有して改善に取り組む体制を確立することである。
 第二は全教職員の間で指導向上を図る、そのための研修体制の確立である。
 第三は管理職を中心に、指導力に課題を抱える教師に対し指導助言を行う重層的な体制の確立である。
 全校体制の中で、いま児童生徒につけようとする力を明らかにする。目標実現のための指導組織を整備し、目標実現に向けて全教職員の力を統合し保護者と課題を共有する。課題解決に向けて取組を進める中で、教師の指導力向上を図るのである。各学校に求められるのは、全教師の指導力向上に着目するPDCAすなわち計画→実践→評価→改善を根底に置く取組であり、その取組を支える校内研修の実施である。

■ 指導力向上のための創意を生かした取組

 平成23年1月、中央教育審議会<教員の資質能力向上特別部会>における審議経過報告「教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について」が公表された。
 ここでは、現職研修について、これを支援する方向で改革を進めることが基本方向として示されている。その実施内容・方法については、個別的・協働的な学習をより重視する方向で見直しをすることが重要とされている。
 これからの教育を担う教師に対しては、授業力とともに様々な教育課題に適切かつ柔軟に対応できる力量を備えるよう支援していくことが必要になっている。
 高度の指導力を身につけさせる仕組みを整えることは相当な難題である。というのも、近年、教師の生活が非常に多忙になっているからである。まず、教師がそうした指導力を向上させるための余裕をつくりだす努力が重要である。同時に多様な研修の機会を整備することが求められる。
 「審議経過報告」では、教育センターや身近な施設に対し、カリキュラム開発や先導的な研究の実施、教師が必要とする図書・資料等のレファレンス・提供などを行うことにより、教師の教材研究や授業研究、自主的研修を支援することを求めている。各学校、教育委員会、関係機関等が連携して、こうした教師への支援体制を整えることが強く期待されている。
日文の教育情報ロゴ

東日本大震災で どんな教訓を残せばよいか

■ 16年前の教訓

 3月11日。日本は千年に一度の甚大な被害を受けた。社会全体はもとより教育界でもこれまでに積み重ねてきたマニュアル学習がいかにもろかったか、痛感した。既習の知識が役に立たなかった。
 ある小学校での悲しい出来事がシンボリックである。学校は地震に対する避難訓練を繰り返していた。
 教師は子どもたちを校庭に並ばせ、点呼を取っている。確認してから避難をした。ここまではマニュアル通りである。学校側に瑕疵はない。しかし、残念なことに多くの尊い命を亡くしてしまった。
 「とにかく裏山に逃げろ」とか「沖に出ろ」といった学校の子どもや漁師は生き延びている。言い伝えにしたがった「とっさの判断」が命を助けている。経験則が有効であった。

 16年前の阪神大震災では教育界に二つの教育的遺産を残している。
 一つは、ボランティアという言葉を定着させたことである。それまで特別な活動と捉えがちであったボランティア活動に市民権を与えたのである。ここからボランティア・コーディネーター、ボランティアセンターという言葉が生まれている。
 二つ目は、「トライ・やる・ウィーク」の提案である。「トライ」はTRYの試みるとトライアングル(三角形)を掛けている言葉である。大地震のとき、学校・地域・家庭のトライアングルでお互いが試行錯誤しながら支え合った体験がある。
 「やる」はとにかくがんばろう、とにかくやってみようと活動を促している。「ウィーク」は活動は中途半端ではだめである。効果を上げるには一週間程度の活動期間が必要だという、主張である。
 具体的な活動として兵庫県から中学校二年生全員を対象にした職場体験活動が始まったのである。
 職場体験活動は、働く場所の確保が大切である。学校は探すツールを持っていない。そこで地域の人のネットワークを借りながら職場を探す。活動も2、3日間ではやっと慣れ始めた時に終わってしまう。それが4、5日目に入ると生徒たちは生き生きしてくる。
 この活動には不登校の生徒も参加している。三分の一の生徒は活動後学校に復帰したというデータもある。この成果が評価されて全国的な規模で中学校における職場体験活動が広まっている。

■ 何を残せばよいか

 学習は大きく分けて二つある。
 一つは「状況」学習といわれる。「こうしたときはこうすればよい」というルールや法則を学ぶ。
 もう一つは、トライ・アンド・エラー(試行錯誤)の学習である。ルールや法則ではないが、いろいろ試してみるうちに身に付ける学習方法である。
 人間の成長にはこの二つの学習方法は欠かせない。車の両輪である。しかし、今回の東日本の大震災を体験すると、「状況学習」のもろさが浮き彫りになった。残念ながら想定内のマニュアル学習が力を発揮しなかった。
 それよりも、「この風向きならば、こちらに逃げた方がよい」「少しでも高いところに逃げろ」という漁師の経験則(知恵)のほうが命を救ったのである。
 「記録」(知識)は大切である。しかし、とっさの判断は体験による「記憶」(知恵)に支えられるのではなかろうか。
 これからは、記録をベースにしながらもどんな知恵が有効か、そして知恵をどう伝承していくか、の活動が必要となるであろう。
日文の教育情報ロゴ

何のために勉強するの?

※4月、5月掲載分は、休刊させていただきました。

■ “勉強なんか、せんでもエエ”

 あの大震災大津波が起こった3・11の1週間程前、ある県の中学校の教頭先生と話をしていた。いろいろと課題の多い学校である。
 「授業中、校舎の見廻りをしてたのですが、2年生の誰もいない教室に男子生徒が1人、席に座ってゲームをしていたんです。
先生 “皆はどこに行った?”
生徒 “音楽室”
先生 “音楽の時間か、君はどうして行かんの?”
生徒 “勉強せんでもエエもん”
先生 “そんなことないやろ、高校へ行くんやったら、音楽もちゃんと受けとかんと!”
生徒 “高校なんか行かん!”
先生 “高校ぐらい出とかんと、仕事さがす時こまるぞ!”
生徒 “先生、仕事なんかせんでも生活保護で生きていけるで……。”
と言うんですよ。親を見てるんですかね。言い返す言葉がありませんでした。」

■ “みんなの役に立ちたいから”

 その1週間後、東日本大震災が起こった。
 家族を亡くされて、家も津波で流された人たちが、水道も電気もガスも何もない避難所で生活する様子が連日テレビで報道されている。
 そこには想像を絶する惨状が映し出されていた。
 小学生の女の子が2人、背中にお弁当や水を入れたモッコを背負って山道を登っていた。一人住まいのお年寄りの家に救援物資を毎日運んでいるという。
 「学校が始まっても、続けたいです。私もみんなの役に立ちたいから…」
 野球部の高校生たちが、
 「町のみなさんに応援してもらって甲子園に行けた。今度は僕たちが頑張らないと。」と言って、一生懸命水を運んでいた。
 「避難所のみなさんを励ますことができたら。」と中学生たちが、水につかった楽譜をきれいに拭いて、送ってもらった楽器でブラスバンドの演奏をしていた。
 聴いている避難所の人たちは涙を浮かべながら中学生たちに拍手を送っていた。テレビでインタビューを受けている東北の子どもたちは「皆で力を合わせて、この町を復興させたい。」「これからは私たちが頑張らないと。」など、どの子もしっかりと語っている。

■ 勉強するのは自分のためだけですか

 「しっかり勉強せんと、いい高校に行かれへんよ。」「いい学校出て、立派な会社に就職して、よい生活ができるように、頑張って勉強せなあかんよ。」という動機づけは、もう通用しなくなった。
 「別に無理して、いい高校に行かんでもエエ。」と教育を受ける権利を放棄されたら、勉強することを利己的な自分の利益のためとしている限り指導の余地はなくなってしまう。
 “教育を受ける権利”を子どもにまる投げしてしまうのは間違っている。
 “義務教育は無償とする”とあるように国民の税金を使って保障されている“権利”には“義務”も伴っていることをもっと明確にすべきだろう。
 そのことを今回の東北地方の子どもたちは見事に証明してくれている。
 知力も心も体力もしっかりと鍛えて、自分自身の生きる力をつけるのは、自分のためでもあるけれど、その力を地域のため、社会のために役立てることと不可分の関係にある。
 「自分たちの若い力が、この町に必要とされている。」「私たちも地域のみんなの役に立ちたい。」そう思った子どもたちは元気を出して頑張ることができる。
 いまだに水道も使えない避難所で、被災された人たちが、不自由な生活を強いられている時、子どもたちが一生懸命、お手伝いをしている姿は、教育の原点を考えさせてくれる。
 きっと今まで以上に思いやりのある優しい子に育ってくれるだろう。社会に役立つ人に育つために体力もつけ、勉強もしっかり取り組んでくれるに違いない。
 強く教訓としたい。

著者経歴
元 大阪府堺市教育長
元 大阪府教育委員会理事 兼教育センター所長
元 文部省教育課程審議会委員
日文の教育情報ロゴ

学校のIT化への対応

■ 学校への情報技術の導入

 学校における情報技術の活用(IT化)が年々すすんでいるが、国では今後全国の小中学生にデジタル教科書を使用させることを検討している。
 デジタル教科書とは教科書、副読本はもとより関連するあらゆる情報を内蔵し、生徒の必要とする情報を瞬時にとり出せる小型映像端末である。教師はこれを使って生徒の実態に応じた個別指導を行うことになる。情報化社会は意識や行動の面で個人を構成単位とする社会であるから、学校においても生徒の多様な学習ニーズに応じた個別指導が必要になってくる。その意味で学校のIT化は時代に適合した有効な学習手段であると言えそうだ。
 ただ情報技術の進化は著しく、機器の使用という実態が先行し、子どもの精神的、肉体的発達との関連についての理論付けや成果、問題点等の検証や研究は十分ではない。そのためか学校のIT化について様々な意見がある。

■ IT化についての異見

 脳科学者や精神科医、文学者、教育学者の中にはテレビやパソコン、ケータイ等の情報機器操作の活動は、脳の前頭前野を活性化させないとか、映像でみる実験や観察の様子は記憶に残る可能性が低いと指摘する人がいる。また文章作成の折、手書きの場合は脳の動きが活発化するが、パソコンやケータイで文章をつくる場合は脳があまり動かないとも言う。パソコンやケータイに深くかかわっている子どもは他人とのコミュニケーションが不得手になり、周囲の人と人間関係を築いたり豊かな感性の発達が難しくなる等、子どもの成長過程で好ましくない影響があると主張する。
 情報や産業活動のグローバル化がすすむ現在、学校のIT化は時代の要請でもあるから阻止することはできない。とはいえIT化の問題点が学問的に証明されていないにしても、子どもたちが日常生活のレベルで共生や協働、協調が困難になったり脳力の低下をきたす懸念があるとしたら、それへの対応を考えなければならない。電子機器を使って学習効果をあげながら人間のもつ本来の力(仮に人間力という)も育てていくにはどうしたらよいか、教育界にとって大きな課題である。

■ 情報技術の導入と人間力の調和

 デジタル教科書等を導入した授業展開のモデル作成やカリキュラム開発は当然行うべきであるし、IT化と人間形成との関連の研究も重要であるが、当面現実論としての対応を考えてみたい。
 まず個々の教師が情報機器の必要性を理解し、自分自身がパソコンをはじめデジタル教科書等の情報機器の操作に習熟することである。その上で旧来の学習方法の実績を基に情報技術との調和を図ることが必要である。
 私たち日本人は従来から日常生活の中でごく自然に新技術と人間力の調和を心掛けてきた。例えば、日常自動車を利用している人が、運動不足や足の弱化を補うために徒歩やジョギングを行うというようなものである。精神的活動では読書力を育てるために全国のほとんどの中・高校で始業前や放課後一定時間読書をさせて読書の習慣化を図っている例がある。これらの実践にならって、学校で書き取りや手書きの文章作成等の活動を実施してみたらどうだろう。さらにことばを使う話し合いの訓練を行うことも必要である。
 電子機器の発達のためか、今の日本では人間の感覚のうち視覚を偏重する傾向が強いが、他の感覚の活動も促すべきであろう。バランスのとれた人間形成のためには芸術、スポーツ、技術(工作)等身体を動かす活動や実験、観察の学習に努力すべきと考える。
 学校のとりくみとしては、子どもの多様な学習ニーズに応えるため学年や学級の枠を越えた学習集団をつくって子どもの適性、興味、関心、習熟度に応じた指導を行うことも考えてみてはどうか。新しい事態に対応するためには優れた教師集団を組織することが求められる。元々教師は担当する学級を一人で受けもって授業を行うという仕事の性質上、組織的に学習指導することが一般に苦手である。しかし高機能をもつ電子機器を使って個別の学習ニーズに応えるということは、全く未知の経験であるから互いに助け合うことが重要である。
 個々の教師が、自分の特技や専門性を基に研鑽を積み、情報化時代にふさわしい教師像、教師集団像を構築して新しい時代に堂々と立ち向かってもらいたいと、切に願うものである。
日文の教育情報ロゴ

地域コミュニティの形成と学校の役割

■ 自立した地域社会

 学校が、その役割を十分に果たすには、地域社会との連携・協力が不可欠であることは理解され、かつ実践されてきている。
 一方、学校教育における諸問題の中には、地域社会の教育力の弱体化に起因する問題が指摘されていることも事実である。また、社会変動やアイデンティティの希薄化など地域社会の存在そのものが問われるようになってきている現状もある。
 ここに学校と地域社会との関係を、地域コミュニティという概念で整理する必要性があると考える。なお、地域コミュニティとは、「地域社会が自らの課題に対して自らの力を統合して解決していく」ことのできる「自立した地域社会」(平20・中教審答申)と定義する。
 旧来の自然発生的な地域共同体である地域社会と異なり、意図的に創造されるべき共同体としての地域コミュニティという概念を用いることによって、学校と地域社会との連携の在り方について、新たな視点が得られると考える。
 以下、宮崎市における学校と地域自治区が連携した二つの取組を紹介する。

■ 開かれた学校づくりと学校評価

 宮崎市における学校評価は、各学校での自己評価に加え、中学校区(地域自治区)ごとに10名程度で構成される学校関係者評価委員による学校関係者評価を行っている。
 学校関係者評価の目的は、「学校と保護者と地域住民が、学校運営の現状と課題について共通理解をもち、解決への建設的な協働作業を行うこと」(「宮崎市学校関係者評価委員設置要綱」)である。
 学校評価を契機として、それぞれの学校の教育的課題が保護者・地域住民にも共有され、その課題解決に向けて保護者・地域住民の協働作業を学校がコーディネートしていくことは、開かれた学校づくりとして重要である。
 また、学校評価を、学校のみならず学校関係者評価委員自らが保護者・地域住民への説明責任の担い手になることで、〈地域と学校〉から〈地域の中の学校〉という関係性に保護者・地域住民の意識が変化するものと考える。

■ 学校と地域自治区を結びつける学校支援地域本部事業

 学校支援地域本部事業は、学校と地域社会で双方向の相互補完的な支援関係を構築し、子ども達の人間関係を広げる機会を提供することによって、子ども達の多面的な発達を促進することができる。
 宮崎市では、地方自治法に基づく地域自治区が設置され、地域住民の意見を市政に反映させるためそれぞれに地域協議会が設けられ、その活動の実践組織として、まちづくり推進委員会が組織されている。
 学校支援地域本部事業では、この地域協議会・まちづくり推進委員会と学校が地域コーディネーターの調整のもとに連携・協力している。地域社会が学校の教育活動を支援する学校支援ボランティア活動や、学校が地域行事への参加など地域活動を支援する活動を双方向で推進している。
 双方向での支援活動によって子ども達は、地域社会に対してアイデンティティを獲得することができるものと考える。

■ 地域コミュニティの形成

 学校と地域社会の連携は、単に学校や地域社会の教育活動の充実という視点だけでなく、学校づくり、地域づくりというより大きな視点をもって推進されなければならない。
 紹介した二つの事例は、双方向で連携することで、教育環境を子どもの発達に有用なものにレベルアップする試みであり、地域住民を含めた学校づくりは地域づくりに、地域づくりに関わる学校は学校づくりになることを意図している。それは、開かれた学校づくりという理念の実現であり、「自立した地域社会」すなわち地域コミュニティの形成をめざすものである。

 アンケート調査(「市広報№794」平21.12)の結果、地域活動などが衰退したため住んでいる地域のつながりが10年前と比べて弱くなったと約半数の市民が感じている。また、安らぎや安心、子育てのためにも地域のつながりは必要とする市民は約9割である。
 そのような中で、地域社会の教育力のアップを視野に入れ地域コミュニティによる問題解決の取組を始めた学校は、過渡的な負担感を負っているのが現状である。地域社会のバックアップが欠かせない事を最後に指摘しておきたい。
日文の教育情報ロゴ