国際交流から見えるもの

■ 中国・上海万博が開かれている

 史上最大の240余の国と地域、国際機関が参加している。1970年、月の石で話題を呼んだ大阪万博の6400万を上回る過去最大の7千万人の入場者を見込んでいる。
 北京五輪を成功させ、世界第2 位の経済大国に駆け上がり、万博を成功させる。日本が40年前に歩んだ道を走り抜けようとする中国。
 胡錦濤国家主席は、「中華民族5 千年の輝かしい文明と改革開放30年余の成功」を示す場と位置付け、中国の存在感を示す一方、「より良い都市、より良い生活」をテーマとし環境を意識した万博をアピールしている。

■ 日中青年の相互交流

 静岡県は、中国・浙江省と4半世紀にわたり姉妹提携を結び、青年たちの交流を図っている。昨年も、(1)「青年相互の理解と友好の促進」、(2)「その経験を生かし、次代を担う地域リーダーの養成」を目的とした「ふじの翼グローバルリーダー養成事業」を実施した。
 応募資格は、18歳(高校生は除く)から概ね35歳までとし、募集人数は25名。年間6回の国内講座を実施し、メインに海外交流(浙江省)をすえ、さらに、浙江省の青年を静岡に迎えて親交を深めるというプログラムである。
 交流を通して青年たちの心に深く刻み込まれるのは、「友情」であり、「信頼」関係である。ホームステイが大きな役割を果たすが、活発な「シンポジュウム」も交流を超えた新たな人間関係を生むことに貢献している。

■ シンポジュウム

 シンポジュウムのテーマは、世界の関心事である「環境」、「格差社会」のほか、「就職」、「恋愛」等日常茶飯に及ぶ。今回のシンポジュウムを通して、両国青年の意識に大きな違いがあることに気付いた。その第1 は、浙江省の青年は、個人より、国の未来に関心が強く、どのように発展させていくか、環境問題を克服し、格差社会にどう対処していくかなど国の抱える課題に話題が集中する。一方、静岡の青年は、個人が思考の原点であり、今、自分のできることは何か、今後、何をなすべきかを考え、その上で、自らの夢を語り、社会の在り方に言及するスタイルをとる。
 具体案はないものの浙江省の青年の課題の捉え方の大きさに静岡の青年は敬意を表し、逆に、浙江省の青年は静岡の青年の堅実な思考に感心するといった具合である。

■ 海外交流で得たもの

 参加者の一人 Iさん(女性)は、報告書に次のように記している。帰国後、NHKでドラマ「坂の上の雲」がスタートした。時代は100年以上違えど、杭州で出会った若者の内には、この主人公と共通する、一種の「希望」が宿っていたように思う。少なくとも、日本の若者が到底感じることのできないであろう、「国民としての未来への期待感」を秘めているように感じた。
 そして、杭州の若者に共通していたものは、「上昇志向」と「キャリア意識」の強さであったという。社会人として活躍しているとはいえ、30代の若者が、「日本から浙江省にどんどん投資してください」といった国を俯瞰し、かつ「一人ひとりが国を発展させることへの責任と期待を負っている」という自覚には心底驚きであったとも記している。
 その一方、上海では、バスの窓越しに、赤ちゃんを背負い物乞いをする人を目の当たりにし、経済の発展途上の狭間にあって、想像もできないような苦渋を味わっている人の存在を知る。

■ 国民の幸せとはなにか

 4月末、内閣府が初めて調査(3月)したという、国民の「幸福度」についての発表があった。調査は15 歳以上80歳未満の4千人を対象に、「とても不幸」を0 点、「とても幸せ」を10点として自分の現状を採点したものである。
 回答者の平均は6.47 点で、同様の調査を行っている欧州各国の結果(2008年)に比べると、社会保障制度が充実しているデンマーク(8.4点)、英国(7.4点)、フランス(7.1点)よりも低い。中国のデータがないので詳細は不明であるが、出会った杭州の若者は、幸福度こそ高くはないものの、前向きで日々の生活に「充実感」をもっていることは間違いない。彼らには夢があり、現状を少なくとも不幸だと思ってはいない。

■ 相互交流から相互理解へ

 2000年に日本語の「かわいい」が台湾経由で中国語になったという(『中国と日本』王敏著)。2006年には中国語に新語「特萌」が登場した。「チョー(超)、カッコイイ」の意味で使うという。日中両国の交流は進み、相互理解も深まっている。しかし、草の根の交流を通して実感することは、日中の文化、思想の大きな違いである。この違いを理解し、認めあうことが何より大切なことである。それは、「共に」「同じ」という価値観ではなく、「共に」「異なる」という認識を共有することである。
 21世紀は、アジアの時代でもある。隣国の中国とは、良きパートナーでなければならない。そのためには、若い人たちの相互理解が欠かせない。

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コミュニケーション力は指の下に

■ 企業の求める人材

 経団連の「新卒者採用に関するアンケート調査結果」によると「選考にあたって重視するもの」の順位は次のようになっている。(2008年度)

 1位 コミュニケーション能力(79.5%)
 2位 協調性(53.0%)
 3位 主体性(51.6%)
 4位 チャレンジ精神(49.4%)

 コミュニケーション能力が断トツだが、この傾向は毎年、顕著になってきている。
 学生が気にしがちな「保有資格」などは、10位以内はおろか、どこにも見当たらない。相当なレベルでない限り、評価に値しないということなのだろう。
 それにしても、コミュニケーション能力の比重が年々増してきているのは、それだけ、面接官の質問をしっかり聞き、自分の言葉で適切に答える能力が弱ってきていると言えるのではないか。

■ 衰弱するコミュニケーション力

 昔、東京の大手の出版社へ、原稿の打ち合わせに出向いた時、広い編集部のフロアーは電話でやりとりする社員の声で喧騒としていて、すごい活気があった。
 去年、同じフロアーに行って驚いた。誰もしゃべっている人がいない。電話は全てメールに変わっている。原稿の依頼も催促も口を動かさず、指でするようになった。
 ここ10年、携帯電話が子どもたちの世界にまで急速に広がり、電車の中でも多くの高校生たちはメールに没頭している。車内が騒がしくないのは結構だが、座席に座っている女子高生がズラーと並んで携帯でメールしている光景は異様だ。
 学校の帰りにコンビニに寄っても、スーパーで買い物をしても、一言も会話せずに用事を済ませる。
 自販機でジュースを買っても、しゃべるのは自販機のほうだ。 家に帰って母親から「今日、学校はどうだった ?」、「べつに…」、「楽しかったの ?」、「ふつう…」と言って自分の部屋に逃げ、テレビをつけながらゲームに興じる。
 コミュニケーションしなくていい世の中で今の子どもたちは育っている。

■ コミュニケーション力を高めるために

 「コミュニケーション能力の育成は対話から」とよく言われる。
 対話は相手の話をよく聞くことが前提である。しっかりと聞き取り、適切に返答する力とは、ベラベラと冗舌に話すこととは別ものである。
 相手が何を求めているかを把握し、必要とされていることを返さなければいけない。
 それも、面接のハウツー本に書かれているような他人の言葉でなく自分の言葉で語る必要がある。
 自分の言葉で語れないのは”ネタ”を持っていないからだ。
 ”ネタ”とは自分自身の体験である。
 人は誰でも生まれてから今日まで様々な体験をしている。それをその時々にどう感じたか、どう対処したか、何が出来て何が出来なかったか、自分の長所は、短所は、といった自分史を持っているかどうかである。
 自己分析をし、自分を知っている人は、たとえささやかな体験であっても、相手の求めていることに自分の言葉で返せるはずだ。
 子どもたちに自分の生い立ちを振り返らせ、様々な体験をもとにして自己分析をさせることは、自己肯定感を持たせることにもつながる。
 文部科学省の学力テストの時に行われるアンケートに「自分にはよいところがあると思う」という項目があるが、これに堂々と「ハイ」と答えられないのは自分史を持っていないからだと言える。
 もうひとつ大切なことは、場数を踏ませることである。
 クラスの皆の前で、自分の意見を発表する機会、朝礼台の上に立って全校生の前であいさつをする機会、総合の時間に自分たちで調べたことをカンニングペーパーなしで訴える機会、そういう場数を踏むたびに場馴れしてくる。
 子どもたちはどの子も本当はお立ち台に立ちたがっている。皆に訴えて、自分のことをわかって欲しいと願っている。
 そういうチャンスを小学生の時からどの子にも数多く与えてやりたい。
 コミュニケーション能力を衰弱させないために、意図的な取り組みが求められている。

著者経歴
元 大阪府堺市教育長
元 大阪府教育委員会理事 兼教育センター所長
元 文部省教育課程審議会委員

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シングルマザー親子を支援する仕組み作り

■ 離婚率は三組に一組になる

 今、離婚する者が増えている。三組に一組が離婚をしている、といわれる。件数は年間26万件にのぼるそうである。その結果、離婚件数の8割は母親が子どもを引き取る母子家庭となる。
 私はこれまで十数年間シングルマザー親子を支援するボランティア活動を行ってきた。そこから見えてきたことを報告する。
 シングルマザー親子は全国で百万世帯を超える。そして年収の平均は220万円ほどで低い。「貧困層」といわれる者が15%いる。それはかなり母子家庭と重なる。
 このしわ寄せの典型が親子の食生活である。仕事に追われ疲れた母親はなかなか朝食と夕食の準備ができない。ついインスタントなモノや店屋物に頼りがちである。
 ボランティアのきっかけは、このシングルマザー親子の食生活を支援できないか、であった。

■ シェフたちと料理キャンプ

 フランス料理のシェフたちが作ったNPO法人がある。日本エスコフェ協会である。会員は約600名近くいる。
 ボランティア活動は、このNPOと連携して一泊二日の料理キャンプを行う。シェフたちには簡便で野外でもできるフランス料理のレシピの作成と実際の料理指導をしてもらう。
 そこには大学生のボランティアスタッフも参加し、子どもたちと遊んだり料理の手伝いもしてもらう。
 私の願いは、このキャンプで覚えた簡便なフランス料理を親子で十日に一回でよいから、レシピを見ながら作って食べて欲しい、というものである。
 この料理キャンプのもう一つのねらいは、同じ境遇の者たち同士でネットワークを作ってもらう、ということである。
 そのために、夜はリフレッシュ・タイムと称して炉端懇談会を用意した。お酒などの飲み物を用意し、夜を徹して話し合う。子どもたちは大学生たちと一緒に就寝するので母親は思う存分に食べたり、飲んだりできる。

■ シングルマザーの悩みベスト3

 この場は本音タイムである。それこそ様々な意見が飛び交う。これらをまとめると、次の3点に絞れる。

  1. 仕事が欲しい
  2. よい弁護士を教えて欲しい
  3. 学校や教員への批判

 離婚した母親の多くはそれまでに定職をもっていない。離婚をきっかけに働き始めるが正社員の口はほとんどない。一年間のみの派遣かパートぐらいである。
 多くの母親は首切りの心配がない安定した職業を求めている。正確には、渇望している。
 二つ目は、別れた元夫からの慰謝料と養育費を上手くもらえるようになりたいので、安くて優秀な弁護士を紹介して欲しい、というものである。
 実際1992年、離婚した夫から養育費の支払いを受けている者は15%にとどまる。かつて受けたことがある者16%を加えても3割に過ぎない。民事執行法の改正が行われた後の2006年でも、養育費の支払いを受けている者は19%にとどまる。
 三つ目の学校・教員への批判は耳が痛い。「どんな教員養成をしているのか」という厳しい意見を数多くいただいた。
 批判の中心は教員たちの母子家庭に対する偏見である。子どもがいたずらをしたとき、母親のしつけがしっかりしていないから、と直接に説教をされている。
 教員の多くは母子家庭の置かれた経済的な苦しさはもとより、精神的な不安定さを理解できていない、という。シングルマザーに寄り添っていないのである。

■ 公助と互助と自助の仕分けをしよう

 公助はいうまでもなく公的な援助である。今回の子ども手当はシングルマザーにとって効果的である。15%いる貧困層にとって恵みの雨である。
 互助は互助組合という言葉に代表されるように助け合いである。料理キャンプでいえば、NPO法人のエスコフェ協会であり、大学生たちのボランティア活動が互助になる。
 自助はセルフヘルプである。自力で生き抜くのである。母と子どもが公助と互助を受けながら自立への道を歩むのである。
 経済格差が著しい。15%の貧困層への支援が不可欠である。しかし、支援する仕組み作りが遅れている。とりわけ、貧困層の多くを占めるシングルマザー親子の自立を進める支援が断片的である。
 教育においては、放課後の子どもの「遊びと勉強」を総合的に支援する仕組みを早く作り上げていきたいものだ。

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年度始めの文書管理

■ 特色ある学校づくりと学校文書

 地域に開かれた特色ある学校づくりのためには、社会の変容や学校への期待に応じる教育活動のための情報収集と活用が欠かせない。また、効果的に情報を発信し、自校の目標実現に向けて全教職員の協働体制を確立する、あるいは家庭・地域に理解と協力を促すことがこれまで以上に重要になっている。年度始めには、改めて教育情報・学校文書の果たす役割を確認する機会をつくりたい。
 学校が目指す目標にはどのような側面があるか。それぞれの教職員が担う役割、家庭・地域の果たす役割としては何が求められるのか。そうしたことについて共通理解を持つ。適切な文書を作成・活用し、一体になって取組を行う。そのことによってより効果的に教育活動が展開され、教育力が発揮されることを認識したい。 
 こうした基本認識のもと、新しい年度の学校教育目標や教育活動の重点を踏まえて次のことに留意し、文書管理の体制を整えることが必要になっている。

■ ますます重要になる連携体制

 これまでの学校には、ややもすれば情報はなるべく校内にとどめ、すべての問題を校内で解決しようとする傾向があった。学校の責任、信頼感の確保への配慮があったのだが、最近は、家庭・地域、関係機関との連携抜きで問題を解決することが難しくなっている。また、説明責任を果たすことと信頼関係を重ねてとらえるようにもなっている。
 今後は、家庭や関係機関とネットワーク化を図り、同時に学校としての説明責任を果たすという、新たな考え方に基づく学校経営の展開が重要になっている。
 学校経営については、その成果と課題を公表する基本姿勢が求められる。学校評価であれば、評価結果に加えて今後の改善方策についても公表することが望まれている。
 課題の共有、連携体制の構築のためには、そこに機能する文書の工夫が重要になる。年度始めにあたって、保護者、地域の連携のもと、これからの学校を築くための学校文書をどう工夫するかが課題になる。

■ 課題解決に向けての取組と学校文書

 新学習指導要領のもと、新しい実践の展開が必要になっている。地域社会や家庭の構造・機能の変化によって、様々な課題を抱える子どもが増え、その面でも指導改善が大切になる。
 実際の指導に際しては、①全教職員が学校の当面する課題を受け止め、組織的に指導に当たる、②学校での指導・対応の基本姿勢を保護者・地域住民に公表し、一致協力して指導を進める、③困難な問題については学校だけで抱え込むことなく、保護者や関係機関等との連携のもとに対応することが重要になる。そこでは、こうした指導・対応のための情報の収集と活用、そこに機能する文書の整備が大きな意味を持つ。 
 パソコンの普及によって、昨年までのデータを引き出し、必要な修正で文書を作成することが可能になった。それだけに、機械的な操作ではなく、新たな課題意識をもって文書を作成する基本姿勢を持つようにしたい。

■ 学校文書の果たす役割

 課題を共有すること、説明責任を果たすことが大切になり、どのような内容を盛り込んで配布文書を作成するかがますます重要になっている。
 一般的に文書といえば、通知・通達、照会などの学校が受け取る公文書、また、通知、回答、報告、申請などの学校が発する文書などが中心となるが、学校づくりにかかわって重要度が増しているのは、校内・校外での共通理解、活動推進のための各種情報・文書である。
 特に新学習指導要領対応に関しては、その趣旨を踏まえての新しい取組について教師の創意を促す、その内容を保護者に伝えることに機能する文書の工夫が求められている。

■ 文書の取扱に際しての留意点

 基本的に言えば、文書の収受と作成については一定の手順を定めて適正に行うことが原則である。文書管理については思いがけない事態を招くことのないよう、十分な配慮を持って厳正に行われることが必要である。
 文書の取扱が情報機器を通じて行われた場合、これまではありえなかったような事故が発生することが懸念される。年度始めには、管理体制を点検することが大切である。
 情報管理、文書の取扱においては、守秘義務の履行と個人情報の保護に関して厳守する基本姿勢が重要である。
 個人情報保護などの配慮を欠くとき、学校への信頼は一挙に崩れることになる。十分な配慮のもと、家庭、地域等との信頼関係を重視する学校づくりに機能する、適正かつ効果的な文書を作成、管理する。年度始めには、全職員の間でそのことを徹底することが求められる。

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社会の変化と教育

■ 工業化社会と教育

 日本は明治以来近代国家建設のために学校制度を整備して先進西欧諸国を手本とする工業化をめざした。明治期はまだ農耕社会の要素の濃い社会であったため封建的道徳(親孝行、長幼の序の重視、指導者への敬意等)が人々に根付いていた。政府はそれを活かしながら先進国の科学技術の移入、発展に努めた。いわゆる和魂洋才といわれる工業化の推進であったが短期間のうちに大きな成果をあげた。このような前近代的道徳観を基盤とする日本の教育制度、教育観は日本の社会に適合し、戦後の民主化の流れの中でも生き続け、日本の教育はその水準の高さ、「効率性」の面で世界から注目された。
 ところが工業化の進展の中で社会や家族の形態は次第に変わってくる。工業化社会は必然的に核家族化を促し、人々の考え方も個人主義的価値観に傾斜していくことになる。科学技術の発達は工業の生産性を高め社会を成熟化させる。著しい物質的繁栄は個人の欲望充足の可能性を高める。テレビの個人所有がすすみ親との同居は減少し、個室を得た家族は自分の城をつくる。情報の多様化は個人の行動や思考の多様化をもたらす。人々は画一化を嫌い個性重視を志向するようになる。企業も営業政策として個人単位の需要拡大を図る。学校においてはかつて日本の教育の伝統でもあり世界各国から評価された全国一律の画一教育は次第に困難となり「先生の指示に従う」、「一斉授業を静かに受ける」というような「学校文化」は徐々に崩れてきた。経済の発展とともに全国の学校で不適応生徒や教師の指示に従わない生徒、自己中心的自己主張する生徒が増加するようになった。

■ 工業化社会から情報化社会へ

 こうした傾向は科学技術、わけても通信技術の発達によってさらに拍車がかかる。パソコンやケータイ(携帯電話)は世界各地に普及し、個人にとって必要な情報の授受を通して民族、性別、年齢、地域、職業をこえた個人を社会の構成単位にしてしまう。個人の意志が集約化され生産、消費、風俗、政治の形まで変えてしまう。いわゆる情報化社会の到来である。工業化社会を支えていた核家族も個人単位のバラバラの存在になり個人の価値観による行動様式が一般化する。こうなると家族の求心力も連帯も稀薄化し家庭の教育力の低下は避けられない。個人単位の社会では地域というコミュニティも崩れ、地域の教育力は低下ないしは消滅してしまう。
 こうした新たな教育課題に対応するため我が国では1980年代の臨教審以来様々な教育改革がすすめられた。一般に未経験の新しい社会で新秩序をつくろうとする場合、従来の社会の体制や価値観に依拠することが多い。「教育改革」も過去の安定した時代を善とする立場を基にすすめられる傾向にある。ところが現実は過去の社会の変化や否定の上に出現しているのであるから既存の価値観や理念と対立することになりがちであるためなかなか成果があがらない。情報化社会というのは先進諸国も初めて経験する事態であるので日本が学ぶべきモデルもない。私たちはこの現実と正面から向き合いあるべき教育を追求していかなくてはならない。

■ 情報化社会の教育

 現在の日本では若者の様々な問題行動が指摘されるが頼もしい生き方も多くみつけることができる。自分の意志で努力している人もたくさんいる。進んで人との連帯を求めて被災地や困っている人のためのボランティア活動にとりくむ人やスポーツや趣味に生き甲斐を感じている人も多い。キーポイントは自主性ということだろう。学校教育では従来のように用意された教育内容を押し付けるだけでなく個々の生徒のニーズを掘り起こし、それに適合する内容を工夫し自主的に学ぶ意欲をひき出すことが重要である。美術や音楽等の芸術関連の授業や部活動を含めた豊富なメニューを用意することが必要である。教師は学ぶ意味について生徒を納得させる力量と情熱が必要条件である。こうした条件を満たした優れた教師によって学ぶ意欲を触発された生徒は自主的に学習にとりくみ成果をあげる。生徒の意欲をひき出す教師の力は教師自身が自主的、主体的に研鑽することが何より重要であるから上からの命令や管理強化はなじまない。国や自治体はこうした指導者の確保と物理的条件(少人数教育等の教育環境の整備)を満たさなくてはならないだろう。
 当然財政上の問題は大きいが、社会の安定化、人材育成のコストと考えるべきである。明治政府が学校制度を始めたとき、戦後6・3制教育のため全国に中学校を新設した折の財政面の労苦を考えれば今の国力からみて決して不可能ではない。
 個人を単位とする情報化社会に適合する教育は個人の能力をひき出し育てる教育本来の目標に近づく可能性をもつものと言えよう。

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学校支援地域本部は学校を活性化する

■ 学校支援地域本部とは

 各地で学校支援地域本部の取り組みが行われている。しかし、都道府県や政令都市では温度差が見られる。
 青森県のように生涯学習課と社会教育センターが一丸となって、全県下で本部構想を推進しているところはあるが、周りの様子を伺っているところもある。
 それはなぜだろうか。学校支援地域本部は学校を助ける、というミッションが理解されていないからである。生涯学習課の担当者のなかでもこのミッションを正面から受け止めていないものがいるのではないか。
 とりわけ、学校教育関係者は生涯学習課が余分な仕事を押しつけてきた、と思いがちである。実際仕事を仕切る教頭先生は、殊の外そう思うのである。
 子どもの教育はもはや学校だけに任せる時代は終わった。地域の人たちの底力を借りて行わなければ、学校は役割を果たせなくなっているのである。
 こうした認識を前提に、学校が地域に開かれ様々な人材を受け入れる仕組み作りが地域本部構想なのである。
この仕組みが動くと学校と教師は本当に助かる。本来の教師の仕事に専念できる。

■ 学校支援地域本部がうまくいく方策

 学校支援地域本部でよく知られているのは杉並区の和田中学校が中心となった活動である。これは個性のある当時の藤原和博校長がリーダーシップをとって行ったものである。「夜スペ」だけがマスコミに取り上げられたきらいがある。PTA を廃止したことは賛成できないが、学校と地域がコラボレートしたユニークな実践である。
 二つ目は千葉県の習志野市立秋津小学校の実践である。学校に本部の空間を設置し、地域の人の力を借りながら、パソコンを修理したり、図書室を改装したりしている。圧巻は地域の人たちが千葉県で有名な上総掘りで校庭に井戸を掘ったことである。
 三つ目は、木更津市の教育委員会が12 年前から行っている学校支援ボランティアである。
 木更津市は小中学校合わせて31 校ある。すべての学校に校務分掌として学校支援ボランティア担当教員を委嘱している。また、ボランティア・コーディネーターも各学校に一人置いている。さらに、年1回、学校支援ボランティアサミットを開催している。そして、コーディネーターの研修はサミットへの参加を含めて年4回行っている。
 学校支援ボランティアの所管は、生涯学習課ではなく、学校教育課が行っている。これまで生涯学習課と学校のつきあいは少なく、隔たりがあった。その点、学校教育課は学校とホットラインを持っているので意図が伝わりやすい。
 木更津市の特徴は、教育委員会が全権を掌握し、学校支援ボランティアを「点」ではなく「面」として行ったことである。どの学校にも担当教員とコーディネーターを置いたのである。
 杉並区の和田中学校と習志野市の秋津小学校の実践はユニークですばらしいものである。しかし、その実践はなぜ同じ市や区の中学校、小学校に広がっていかなかったのだろうか。

■ 参考になる群馬県の教育事務所の取り組み

 群馬県のある教育事務所の試みは、これから学校支援地域本部を立ち上げようとするものにとって参考になる。
 ここがまず行ったことは、学校に理解してもらうことであった。まず、教育事務所が所管する全小中学校の教
頭を対象に学校支援地域本部とはどんなものか、の講習会を開いている。そこでは、群馬県のユニークな取り組みを紹介する。例えば、学校とボランティアの両方でコーディネーターを決めている。学校は教務主任が担当する。教務主任が各クラスの先生方から挙がった支援して欲しいリストをボランティア側のコーディネーターに伝える仕組みである。また、教材作成にかかる経費については、地域本部は財政的には豊かでないので、PTA から支援をしてもらっている。
 こうした人的、財政的なボランティアの支援があるので教師から好意的に受け止められている。
 学校支援地域本部は地域の底力を学校教育とコラボレートして、学校を助ける働きをする仕組み作りである。

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学校の自立を

 学校の自立が叫ばれて久しいが、何故学校の自立が重要なのか?全国70万人の教職員を擁する公立の小中学校が自立し、組織の体をなし、自らの組織目標を持ち、教職員が目標に向かって動き出すことによって、最大の教育効果が生まれることは間違いない。学校を自立させることこそ最大の教育施策かもしれない。考えてみると、学校を組織的に自立させるための諸施策のいくつかが、学校評価や、学校運営協議会、コミュニティスクール等々のものだ。何も学校評価や、学校運営協議会、コミュニティスクール等々を学校に導入することが最も重要なことだと言っている訳ではない。明治以来培ってきた学校の文化に、学校の自立や組織という感覚を導入することで、今一度柱を通すことになるのではないかということである。しかし、学校現場ではどうも諸施策が関連性なくバラバラで導入されているように思われているために意図が伝わらない。逆に疲労感が漂うし、施策そのものが“為のもの”となっている感もある。
 学校の自立は何故進まないのか。何と言っても最大の原因は市町村教育委員会が自立していないことだ。もちろん、政令市や都市を含めて全ての市町村教育委員会ということではない。しかし、1,700の市町村教育委員会総体でいうと長い間の都道府県教育委員会の指導に従う癖がまだ抜けきらないでいる。都道府県教育委員会に権限のないことまでも未だ指導を待つ姿勢があるし、都道府県教育委員会自体も未だ指導を行うという姿勢から抜け切れていない。お互いに長い時間慣れ親しんできた間柄であるので仕方ないのかもしれないが、そんなことばかりは言っておれない。効果性や、費用性を考えても、教職員70万人への対策を採るより、全国33,000校の校長への対策の方がはるかに効果があるからこそ、管理職への対応は手厚いのである。更に、教育委員会つまり教育長へ対策を立てれば全国1,700で済むのである。これこそ教育界最大の効果を生む教育施策である。教育委員会制度云々よりもっと効果的な施策である。
 それでは、学校の自立は何によって測ることができるのか?大きなバロメーターがそれぞれの学校が立てる“学校教育目標”である。組織目標は連鎖することが大事であるということは誰しも分かっている。分かっているからこそ、校長は自らの“学校教育目標”に対して、各学年の“学年目標”や各学級の“学級経営目標”により具体性を求めるのである。問題はこの連鎖と具体性の流れが国、自治体と学校との間で切れていることである。何故、学校の“学校教育目標”は連鎖と具体性に欠けるのか?逆説的な言い方をすると、何故、“学校教育目標”は具体的に書けずに、「主体的に……」とか「自ら……」などと、いつまでも抽象的なものとなっているのか?抽象的であるがゆえに、目標に向かって働く教職員も目標完成のイメージがわかないし、どういう手立てで目標完成に近づけるのか、子ども自身も自身の目標完成のイメージがわかない。
 あらゆる組織は“組織目標”を持つ。学校と言えどもその例外ではない。しかし、目標が抽象的であるということでは例外である。組織が目標を達成するために3つの要素があると言われる。よく言うところの“ひと、もの、かね”である。最近はこれに“じょうほう”が加わった。学校という組織にこの“ひと、もの、かね”の三要素が与えられているかということである。逆に、学校という組織にこの”ひと、もの、かね”の三要素が与えられたなら、学校はまっとうな組織目標を立てることができるようになるということである。
 “かね”は当然予算と言うことができる。学校の予算は本当の組織目標達成のための予算なのだろうか?いわゆる“あてがいぶち”の教育委員会の再配分方式の予算である。一部裁量予算とか、総額裁量予算という手法が出てきているが、いずれも、従来からの執行型の予算であることには間違いない。学校も目標を立ててその具現化の為に予算を編成する、編成型予算への脱却が急がれる。
 “ひと”についてはどうだろうか?それなりの職員が学校には存在する。しかし、同じように“あてがいぶち”の人である。組織目標達成型の人事制度への脱却が急がれる。その入り口が、県費負担教職員の人事権の市町村への移譲であることは間違いない。小さな市町村では人事が滞留する等々の危惧が先にたつが、自己責任ともなれば教育委員会だって知恵を出すはずである。複数の市町村で人事連合を組んだり、新たな広域人事の枠組みを模索するだろう。一歩前へ進まないと何事も始まらない。日文の教育情報ロゴ


好かれようと思うな、好きになれ

■子どもは好きな人からしか学ばない

 新任2年目の先生たちの勉強会で、「私、今日、大変なことをしてしまったのです。」と女性教員が語り出した。
 「今、小学校3年生の担任をしてるんですけど、私のクラスに毎日、問題を起こしてくれるやんちゃな男の子が1人いるんです。今日も、給食の時間に突然立ち上がって、手にパンの切れ端を持って、私のホッペのところまで突き出しながら、”先生、パン残してええか!”と言うんです。”何を言ってるの、みんな仲良く班で食べてるのに、立ち歩かないで席にもどって、しっかり食べなさい!”と、いつもより厳しく言ったんです。そしたら、その子がね、持っていたパンをギュッと握りつぶして床にポン!と捨てたんです。”食べるものに何ということするの!許しません!食べなさい!”と言って、床に落ちたパンを無理矢理食べさせてしまったのです……。」
 助言者として、その勉強会にいた私は、新任2年目の先生の悩みとしては、面白いテーマやなあ、と思って右側にいた若い男の先生に、「あんたやったら、どうする?」と振ってみた。その男性教員は中腰になりながら、彼女に「さらのパン、残ってへんかったんか ? 」と言った。
 先生たちから「そんなんアカンわ、野口先生、何か言ってください。」という声があがったので、私は女の先生に、
「よっしゃ、2つ言うよ、1つ目、先生その男の子のこと、好きか? 」
 「好きかと言われますと……、あまり好きくありません。」
 「正直な気持ちと思うけど、子どもは敏感やから、そのこと感じてるよなあ、僕は担任の先生に好きくないと思われているって。子どもは好きな人からしか学べへんで。先生とその子の間には教育が成り立つ関係にないよなあ、どうしたらいいかは後で言う。」

■言い分けと説明は大違い

 「2つ目、先生、今から家庭訪問しておいで。今日その子はおうちの人に、学校であったこと言わないかもしれん、しかし、言うかもわからん。この頃の親、”そら先生が叱りはるの当たり前や、お前が悪い”と先生をたててくれる親ばっかりと違うで。明日お父さんが”うちの息子に地ベタに落ちたパン無理矢理食べさせた教師はどいつや ! “と言って職員室に来はったら、あんたどうするの?お父さんのとこへ飛んで行って、”いえ、お父さん、あの子は4月にこんなこと、5月にあんなことをやりまして、6月の今けじめをつけないと、と思って…”ときつい指導したことを言い分けするんやろ。だけど言われてからでは何を言っても言い分けになるよ。今から家へ行って、お母さんに今日あったこと説明しておいで、”ちょっと、やりすぎたかな、と悩んでるんですけど…”と正直に頭下げといで。きっとお母さんは、”先生、うちの子に気をつかわんと、もっと厳しく、やってください ! “って言ってくれるよ。こちらから先に言ったら『説明』、後手にまわったら『言い分け』。説明と言い分けでは大違いやで、教育は『今日行くから教育と言う』んやで。」
 「はい、分かりました。」
と彼女が立ち上がったので、
 「ちょっと待ち、説明だけで帰ってきたらあかんで……。”先生、せっかく家まで来たから、5分か10分宿題一緒にしようか ? “とその子とオデコ付きあわせて勉強みたげ。家でやったら、その子のこと好きになれそうなこと何か見つかるわ。例えば、明日学校で”あんた昨日入れてくれたお茶、おいしかったわ。やさしいとこあるんやネ”って言ったりしたら、その子は”先生、僕のこと認めてくれた”って教育が成り立つ関係をつくるきっかけになるかわからんやろ。」

■こちらから好きになること

 「さっき、子どもは好きな人からしか学ばない、と言ったけど、好かれようと思ったらダメ、子どもへの迎合になる。こっちが好きじゃないと思ってるのに、子どもが”先生のこと好き”ということもありえない。先生が子どものいいとこ見つけて、”やさしいネ”とか”すごいネ”とか、こちらから子どもを好きになったら子どもはついてきてくれる。好かれようと思うな、好きになることやで……。」
 こんな話をしていたら、素直で一生懸命に学ぼうとしている若い先生たちのことを好きになりそうでした。

著者経歴
元 大阪府堺市教育長
元 大阪府教育委員会理事 兼教育センター所長
元 文部省教育課程審議会委員

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教育委員会制度を考える

 「教育長と教育委員長はどう違うのですか?」と尋ねられることがある。また、「教育長の勤務時間は?」と問われることもある。その説明には、かなりの時間を要する。
 前者は「教育委員会」の理解の仕方によっては、かみ合わない説明となるし、後者は「教育長は、…委員としての身分と教育長としての身分とを併せ有する…」(教育法令コンメンタール)身としては説明しにくい質問である。
 そこで、教育委員会制度の在り方を整理し、教育委員会の存在意義を明らかにしたい。

■教育委員会制度考察の視点

 「教育委員会」制度の在り方を考える場合、(1)任命された複数の教育委員からなる合議制の教育委員会(狭義の教育委員会)の在り方、事務局としての教育委員会(広義の教育委員会)の在り方、両者の関係性及び首長部局との関係の在り方という視点、(2)県教育委員会と市町村教育委員会の関係という視点、(3)学校と教育委員会の関係という視点がある。ここでは、(1)の視点について整理してみたい。

■教育委員会活動の点検・評価

 「教育委員会」が、その職責を果たすには、狭義・広義の教育委員会それぞれに求められる役割を明確にする必要がある。地教行法では、教育委員会の職務権限を23条で示し、教育長に委任等できる事務(教育長は委任された事務等を事務局職員等に委任等させることができる)と、委任することができない事務を規定している。
 したがって、狭義の教育委員会は教育長に委任できない事務について大所高所から執行する役割を有することになる。
 また、狭義・広義の教育委員会の関係性は、教育に関する事務の管理及び執行の状況の点検・評価(地教行法27条)によって明らかにすることができる。
 宮崎市教育委員会では、「教育委員会の活動」(教育委員の活動及び教育委員会の運営状況等)、「教育委員会が管理・執行する事務」(教育委員会の会議に諮られる事項)、「教育委員会が管理・執行を教育長に委任する事務」(事務局が実施する事務事業)の観点から評価項目を設定し、点検・評価を行うことによって狭義・広義の教育委員会の役割分担及び責任体制の明確化を図っている。

■教育委員会活動の活性化-改革プランの取組

 「教育委員会が管理・執行する事務」を「地域の実情に応じ」(地教行法1条の2)て推進するには、広い視野からの地域の要望を把握することや、事務局の教育施策の執行に関して進行管理をするなどの役割が狭義の教育委員会に求められる。そこでは、レイマンとしての教育委員の自己研修を含めた教育委員会の研修体制の充実が課題である。
 そこで、宮崎市では、「教育委員会改革プラン」(詳細は、「教育委員会月報」(平成20年12月号)「教育委員会の活性化に向けて」)を毎年度策定・実践することで教育委員会の活性化に取り組んでいる。平成21年度の改革プランでは、各種行事への各委員の積極的な参加及び定例教育委員会の地域開催による地域住民との意見交換、市長や教職員、社会教育委員等との意見交換会の実施や委員協議会の開催など自己研修等の充実や会議内容のホームページでの公開等に取り組んでいる。

■教育委員会設置の積極的意義

 教育再生懇談会第三次報告では、「教育行政の継続性・安定性、教育内容の政治的中立性の確保、…首長への過度の権限集中の防止」を教育委員会設置の意義としてあげている。また、「日経グローカル」が実施(2009.5.4)したアンケート調査では、県庁所在地の都市教育長の78%が市教育委員会を必置とする「現行制度」を肯定している。
 現行教育委員会制度は、市町村への教育分野における権限移譲に伴い、当然変化していく可能性を持っている。その方向性は、住民参加をいかに制度として保障できるかという事でなければならない。
 今後、教育行政への住民参加の拡充という観点から、教育委員会の設置及び教育委員のリーダーシップの発揮が、より積極的な意義を有することになる。
 また、教育委員会事務局職員の中立・公正な教育行政の執行とともに、複雑・多様化する教育に関する諸問題に対応するためにも、教育委員会事務局職員の専門性の確保も一層要請されるところである。

 教育行政は”ひとづくり”を目的としている。その施策は”まちづくり”に繋がっている。地域住民の教育に関する声を、レイマンコントロールとしての教育委員会が如何に組織化できるか、首長部局とどう連携していくかが、問われている。

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あいさつの心を生かす

 スポーツ大学の学生は、あいさつをよくします。面識があってもなくても、赴任したばかりの老教師に、さわやかな声を掛けてくれます。教師側もタイミングを合わせて「やあ」「おはよう」「元気?」「がんばっているね」などと応対します。エネルギーの塊のような学生に声を掛けられると、「意気消沈」気味の心も晴れてくるから不思議です。このような経験は、かつて小学校校長をしていた頃にも味わったことを想い出します。いわゆる「子どもや若者から元気(aura)をもらう」ということでしょう。
 一般に体育系の生徒・学生間では、部活動中の先輩・後輩としての節度を守ることが重視されています。あいさつの徹底もそのひとつの現れと言えるでしょう。「礼に始まり、礼に終わる」剣道・柔道・相撲などの例に見るように、「礼儀を重んずる日本の歴史的文化」の影響を受け継いでいると見ることも出来るでしょう。
 学生へのメッセージとして飯田稔学長は、こう語りかけます。「大学生活で大切にしてほしいことは、人間関係です。よい人間関係をつくるスタートは、あいさつであり、思いやりと感謝の心です。」全くその通りだと思います。
 しかし「よい人間関係つくり」のためには、先に見た先輩・後輩とか、教師・学生のような垂直的人間関係と、同輩・仲間のような水平的人間関係とでは、異なることをわきまえることも大切かと思います。
 私たちはとかく自分の立場だけに関心を向けがちです。他人(相手)の立場に無関心なのが常であります。そのために相互間のズレが社会的な課題として浮上しにくいこともあるわけです。
 ある日「授業中のあるグループの私語のために大変迷惑しています。授業者の清水先生の立場から何らかの対策をとってほしい。」と、レポート用紙の片隅につつましく毅然と書かれていたのを目にし、胸を突かれる思いがしました。授業中「静かに! 黙って!」をくり返していたのみだったからです。受講生が多ければそれに対応する策をとるのは教師の重要な責務でしょう。同クラスの別の授業を若い教師が静かに展開していると耳にして、さっそく公式参観を申し込みました。そしてそれを真似て、人間関係をそのまま教室に持ち込みグループとして着席できる「座席自由制」を見直して、「座席指定制」を八割方取り入れ、二割の最前列だけを「自由席」としました。以後、私語は減少し、指導へのエネルギーを他の有意義なことに費やす余裕が生じてきました。
 「教師の指導方策の責務」を確認したうえで、あえて願うのは、垂直的関係の不満・注文・意見を教師と学生間に閉じ込めるのではなく、水平的・垂直的関係者全体に課題として提言するかかわり方を身につけてほしいということです。
 先に掲げた飯田学長のメッセージは、「あいさつはスタートであり、思いやりと感謝の心が大切です」とも読めます。あいさつの動作そのものを身につけることはある期間中に出来たとしても、思いやりの心を育てるには相当の時間を要します。
 あいさつは、惰性や打算の世界とは無縁なはずです。あいさつをする動作にパスすることが出来たとしても、あいさつをする思いやりと感謝の心の育成にパスすることは、なかなか難しいことです。
 思いやりの心とは、相手の身になって、相手の立場に立って、よくよく考え、理解を深めていくことでしょう。
 同じく「座席指定制」も単なるスタートにすぎない(ものにしたいと願っています)。身体的に拘束して教壇に向かわせ、それらしくつきあわせても、心が自らゆり動き出すことがないならば淋しいことです。ある一人の学生は書いています。「最近、学生の間でKYというコトバが流行しています。その場の空気(K)の読めない(Y)人のことです」と。
 今日の子どもや若者は、あいさつをはじめ礼儀の表し方を大人から教えられる機会が少なく、人間関係をつくるコミュニケーションのとり方がぎこちないことを感じます。
 いやそれだからこそ、あいさつの動作を身につけることは「氷山の一角」の目標(成果)に過ぎず、その心底には思いやりと感謝の心が育ちつつあるかを考える必要があるのです。
 できるなら、晴れやかなあいさつの心を大切にする出会いでありたいです。

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