16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(5)

承前

 日本巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノは、1579年に来日、82年に帰途につく際、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノら4人の少年をヨーロッパに派遣すべく同伴しました。第2回の来日は、少年使節の帰国に同伴した1590年で、天正15年(1587年)6月の伴天連追放令に対処すべく、秀吉に面談するとともに日本教会の在り方を在日宣教師とはかり、92年に離日。ついで第3回は1598年から1603年で、キリシタン禁教に喘ぐ日本キリシタンの方途を切り拓こうと努めたのです。ヴァリニャーノは、任務のために「天正遣欧使節」と呼ばれる4人の少年を引率しての母国への凱旋がかないませんでしたが、旅の成功に心をくばっていました。この少年使節派遣は、日本宣教の成果を母国の王侯貴族、さらにローマの教会に示すことで、イエズス会の宣教活動へのさらなる支援を求めてのものでした。少年らの旅は、各地で大歓迎を受け、ローマ法王の謁見もあり、90年に禁教下の帰国となりました。

日本キリシタンの状況

 イエズス会の宣教は、少年使節の派遣にみられますように、禅宗や本願寺等の仏教と激しく競うなかで、大きく展開しておりました。その様相は、16世紀を「キリシタンの時代」といわしめます。日本イエズス会は、1583年現在、「下」、「豊後」、「都」の3教区で構成され、イエズス会員が84-5人(32名が諸国籍の司祭、修道士の20名が日本人、他は学生、幇助修士)、同宿100名、雑役者300名。200教会、15万人と報じています。
 「下」は有馬、大村、天草、平戸の領地等で11万5000人の教徒。内3名の領主がキリスト教徒。大村領では、領主が1563年に受洗、寺社破壊、全領民が改宗、1人の異教徒もいないと。長崎・茂木は大村氏の寄進でイエズス会領となり、ある種の要塞化しており、ポルトガル船の入港による収入で運営されていました。
 「豊後」は、老国王大友宗麟がキリシタンとして宣教師を厚遇し、国主大友義統はまだ信徒でないが修練院1、学院1、修院2が設置されており、1万人以上のキリシタンがいました。山口は、本願寺につらなる毛利の支配により司祭が不在でしたが、ザビエル時代の信徒699-700名。
 「都」は、日本でもっとも「優雅で富裕な地方、政治の中心」地で、異なる諸国に神学校1、修院が都、安土、司祭館が高槻にあり、河内には2万5000人のキリシタン。
 このような報告の一端は、宣教師がもたらす貿易と先端知への期待から、イエズス会に好意をもった領主の支援もあり、宣教が展開していたことをうかがわせます。その宣教は、領主階級が求めたある種の政治的経済的利得からの「好意」以上に、戦乱の巷に放置された人々への奉仕活動、「ポロシモ」―隣人愛の営みが民衆の心を揺さぶり、「貧しき群」をキリシタンにしたのです。巡察師ヴァリニャーノは、「貧しき群」の存在を嫌悪したカブラルの方針を否定し、ザビエルが提示した日本順応の布教方針を確定しました。この方針こそは日本16世紀を「キリシタンの時代」といわしめる状況を可能としたのです。宣教師の日本順応は、ヴァリニアーノの日本研究の成果、日本人の日々の暮らしの営みを描いた「日本諸事要録」にみられる日本理解をふまえた諸方策に読みとることができます。

アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノの日本―「日本諸事要録」(1583年)の世界

 ヴァリニャーノは、他者たる日本への鋭い目で、相互の文化がもつ差異性を理解し、日本の文化―暮らしのかたちについて個別具体的な方策を提示することで、日本と日本人との付き合いの作法を説きかたっています。「日本人の他の新奇な風習」は、ヨーロッパ的世界と全く異質な文化が生みだした世界であるが、その文化に秘められている魅力と活力を理解しようとしています。

 彼等は真に思慮と道理に従うから、他の国の人々の間にみられるように節度を越えた憎悪や貪欲を持たないのである。だが彼等に身受けられる
1)悪は色欲上の罪にふけること、
2)主君に対してほとんど忠誠心を欠いていること、
3)欺瞞と虚構に満ちており、嘘を言ったり陰険に偽り装うことを怪しまないこと、
4)はなはだ残忍に、軽々しく人間を殺すこと、
5)飲酒と、祝祭、饗宴に耽溺すること、
日本人は、他のすべての国民とは、はなはだしく異なった儀礼や風習を有しており、まるで他のいずれの国民とも、いかにしたら順応しないかを故意に研究したかと思われるばかりである。これに関して生ずることは想像を絶する。事実日本はヨーロッパとは全く反対に走っている世界である。すなわち、我等とは、いかなることにおいても合致しないほどすべてが異なっており、食事、衣服、栄養、儀式、言語、交際、及び起居、建築、家庭内での奉仕、負傷や病気の治療、子供の教育、養育、その他すべてのことにおいて言語に絶した理解し得ないほど相違は大きく、正反対である。これについて私が驚嘆するのは、深い思慮と統制力を有するのに、なお彼等が諸々の悪の中に生きていることである。

 ここには、キリスト教的世界とは全く異質な日本の在り方に仰天しながら、日本と日本人の固有な世界への目があり、その固有性を可能な限り受けとめることで日本人を理解しようとの強い意志があります。この強き意志こそは、三度におよぶ日本行きをなさしめ、信長と秀吉に向き合い、その声を聞きながら、禁教下のキリシタンが信仰によって生きる道を模索せしめたのです。厳しい禁教化を生き、殉教に耐えうる信仰的確信はヴァリニアーノが準備した信仰訓練によって可能となったのです。

16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(4)

「貴族」フランシスコ・カブラルの日本像

 宣教師が向き合った日本とはどのような世界だったのでしょうか。1533年生のポルトガル出身の「貴族」フランシスコ・カブラルは、日本布教長として、1570年6月に天草志岐上陸、日本宣教にあたりました。その方策は、ザビエルが提示した日本順応への戦略ではなく、イエズス会の信仰を直截に原理的に説くことでした。カブラルは、ザビエルやフロイスの日本人に向ける評価を否定し、「異教徒」日本に厳しい言葉を浴びせています。

私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民を見たことがない。彼等が共同の、そして従順な生活ができるとすれば、それは他になんらの生活手段がない場合においてでのみである。ひとたび生計が成立つようになると、たちまち彼等はまるで主人のように振舞うに至る。日本人のもとでは、誰にも、胸中を打ち開けず読みとられぬようにすることは、名誉なこと賢明なこととみなされている。彼等は子供の時からそのように奨励され、打ち開けず、偽善的であるように教育されるのである。彼等は土着民であり、彼らには血族的な繋りがあるが、日本におけるヨーロッパ人には、一人の親族があるわけでもない。彼等はラテン語の知識もなしに私達の指示に基づいて異教徒に説教する資格を獲得しているが、これがために我等を見下げたことは一再に留まらない。日本人修道士は、研学を終えてヨーロッパ人と同じ知識を持つようになると、何をするであろうか。日本では、仏僧でさえも20年もその弟子に秘義を明かさぬではないか。彼等はひとたび教義を深く知るならば、上長や教師を眼中に置くことなく独立するのである。日本人は悪徳に耽っており、かつまたそのように育てられているので、それから守るためには、主なる神の御恩寵に頼るほかはない。日本で修道会に入って来る物は、通常世間では生計が立たぬ者であり、生計が立つ者が修道士になることは考えられない。日本人は同宿として用いるべきである。彼等は私達と同じ家に住み、説教の助けをしたり、通訳をしたり修道院での用事をする。彼等は修道士よりも多く働き、司祭を見下げるということもなく、イエズス会員ではないから、私達は余り激昂することもない。

 「傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民」との日本人像は、カブラルのみならず、現在でも耳にする日本像です。カブラルの宣教は、己の信仰的優越性を場に、「無知なる異教徒」への布教論でありました。その作法は、己が身につけている文化の場を絶対視したもので、日本人修道士の在りかたに「小賢しい性」を読み取ったのです。このような目、「ヨーロッパ人と同じ知識を持つようになると、何をするであろうか」、「封建君主に優る宣教師はいない」は、組織のなかで上役に弱い日本人像に読み取れましょう。いわば日本人は、異質な存在に同化を強要し、群としては「強者」となり得るものの、他者性を認識出来ない問題がカブラルの指摘にあるのだといえましょう。

「農民の息子」オルガンティーノ・ソルドの目

 イタリア人オルガンティーノは、1532年生れで「農民の息子」を自称、1576年都地方長として活躍、南蛮寺を建立した「ウルガン」伴天連として、京童に親しまれ、人気のあった宣教師。彼は、カブラルとともに来日、京都を中心に畿内で働き、多くの信者を育てました。その宣教論は、カブラルと対立し、ザビエルの日本像につらなるものでした。

日本人は全世界でもっとも賢明な国民に属しており、彼等は喜んで理性に従うので、我等一同よりはるかに優っている。我等の主なる神が何を人類に伝え給うたかを見たいと思う者は、日本に来さえすればよい。彼等と交際する方法を知っている者は、彼等を己の欲するように動かすことができる。それに反し、彼等を正しく把握する方法が解らぬ者は大いに困惑するのである。
私達が多数の宣教師を持つならば、10年以内に全日本人はキリスト教徒となるであろう。四旬節以来6ヵ月間に、8千以上の成人に洗礼が授けられた。この国民は野蛮ではないことを御記憶下さい。なぜなら信仰のことは別として、私達は互いに賢明に見えるが、彼等と比較するとはなはだ野蛮であると思う。私は真実のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる。(1577年)

 このような日本への目は、日本人に好ましいだけに、「ウルガン」さまと慕われました。しかしオルガンティーノは、日本に順応する道を歩むほどに、あらゆるものに神々が宿る日本の空気に怯えたのではないでしょうか。芥川龍之介は、オルガンテイーノの心の揺れ動きを「神神の微笑」として描いています。まさに『神神の微笑』は、日本人の心性に切り込んだ作品で、日本人の神観念を抉剔したものです。キリスト教は、プロテスタントもそうですが、この「神観」にどれだけ向き合ってきたのでしょうか。映画「沈黙」はこの問いにせまっているでしょうか。神と神神がつきつける問題を考えたいものです。『神神の微笑』を読んでみて下さい。あわせて遠藤周作が『沈黙』で問いかけようとした世界を芥川の想いと重ねて読み解きたいものです。ここに日本思想史の課題があるのではないでしょうか。教室で話題としてみませんか。

16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(3)

承前

 イエズス会は、ルターの批判に向き合い、ローマ教会を信仰の覚醒で蘇生させ、全世界への宣教をめざしました。その信仰的熱心は、1549年のザビエル来日にはじまる日本布教より30余年、1583年(天正10)に長崎を中心とする「下」・「豊後」、畿内の「都」からなる3布教区に200教会、25万の信徒を擁するまでの教団を生み出したのです。ここに16世紀日本は、キリシタンの時代といわれるように、時代の人心が大きく揺れ動いた転換期とみなすことができます。この時代を記録した宣教師の一人がルイス・フロイスです。フロイスの「日欧文化比較」については先に28号29号で紹介しましたが、今回は日本にどのように信仰が伝えられたかを読み解くこととします。この課題は、昨今話題となっている映画『沈黙』、遠藤周作の作品をめぐる日本人の心の在りかた、信仰信心を考えたいためでもあります。
 フロイスは、1532年にリスボンで生まれ、王室付き秘書となり、48年にイエズス会入会、ゴアのパウロ学院に学び、62年に日本へ派遣、63年に大村純忠所領横瀬浦入港。平戸から65年にミヤコ、74年に豊後臼杵、79年に来日した巡察師ヴァリニャーノの通辞として随行、信長との会見に同席するなど、16世紀日本の政治社会事情を報じる同時代史ともいうべき『日本史』を遺しています。87年の秀吉によるキリシタン禁教令の下でも伝道に励み、90年に来日したヴァリニャーノを支援、97年に長崎で歿しました。

信長はどのようにみられているか

 フロイスは、信長が覇者への道を歩む時代と同伴し、信長という人間に強い共鳴盤をいだいていました。その意味では秩序解体期ともいうべき16世紀の空気を一身に浴びた宣教師であったといえましょう。信長の相貌は次のよう紹介されています。わたしは、「多少憂欝な影があったが、困難な企にかかると大胆不敵で恐れるところなく」とのフロイスの信長像に、織田信長という人間の本質があると思うのですがいかがでしょうか。

信長は尾張国三分の二の殿(織田信秀)の二男であった。彼が天下を支配し始めた時は、37歳くらいと思われた。彼は中背痩躯で、髭は少なく、声は甚だ快調で、きわめて戦を好み、武技の修業に専念し、名誉心強く、義に厳しかった。他人から加えられた侮辱に対しては、これを処罰せずにはおかなかった。或る事柄では愛想よさや慈悲を示した。眠ること少なく、甚だ早起きであった。貪欲ならず、決断を秘してあらわさず、戦略においてはきわめて狡猾で、気性激しく、癇癪もちであったが、それも、平素そうであったというわけではなかった。彼は部下の進言に左右されることはほとんどなく、全然ないと言ってもよいくらいで、皆から極度に恐れられ、尊敬されていた。彼は酒を飲まず、食事も適度で、彼の行動は何物にも拘束を受けず、その見解は尊大不遜であった。日本の王侯を悉く軽蔑し、彼等に対してまるで自分の下にいる家来たちに対するように見下した態度で口をきき、人びとは絶対君主に対するように彼に服従していた。戦運が彼に反するような場合、彼は度量が大きく、辛抱強かった。彼はすぐれた理解力と明晰な判断力とをそなえた人であり、神仏の祭祀や礼拝はどんなことでも軽んじ、異教の卜占や迷信的な慣習はすべて軽蔑した。名義的には、最初いかにも法華宗に属しているような観をいだかせたが、顕位についてからは、誇らし気にすべての偶像よりも自分を優れたものとし、霊魂の不滅などということはなく、来世における賞罰もないと考えていた。彼は家居ではきわめて清潔を好み、諸事の指図にたいそう几帳面に気をくばっていた。人が彼と話をする時には、だらだら長びいたり、長たらしい前置きを嫌い、ごく卑賤な、軽蔑されていた僕とも打解けて話した。彼が特に好んだものは、茶の湯の有名な器、良馬、刀、及び鷹狩りで、また、貴賤の別なく自分の前で裸で相撲をとるのを見るのがたいそう好きであった。何人も武器を携えて彼のところへはいることは許されなかった。彼は多少憂欝な影があったが、困難な企にかかると大胆不敵で恐れるところなく、人びとは何事でも彼の命に従った。
我等今までに報告した日本の諸宗派の中で最も不遜、傲慢、放恣なのは、釈迦を拝む法華宗である。彼等の間では僧侶が第一等の地位を占めていて、彼等はデウスの教えの最悪の敵であり、敵対者である。その中でも特に六条という寺院(本圀寺)は年収も豊かで、悪習に耽って甚だ放埓であった。(1569年)

病人・貧者への目―聖遺物・聖水によせる想い

 イエズス会は、国取り物語ともいうべき戦国の世にあって、信長の位置取りに期待する政治的遊泳術で布教戦略を展開しております。そこで説かれた信仰は、大友氏をはじめとする戦国大名の庇護を期待するなかで、病者や貧民への働きに証をもとめたものでした。その一端はすでに1549年の薩摩の宣教にみることができます。

ぱあでれメステレ・フランシスコがそこから出発するに先だって、この土地には医者も薬もないから、それが同時に肉体上の病気を癒すのにも役だつような記念品を何か残して行ってほしいと、ミゲルはぱあでれに願った。ぱあでれは、これは霊魂のための薬です、皆さんマリヤ様を尊敬して、マリヤ様が世の救い主である御子ゼズス・キリシトからあなた方の罪の赦しをいただいてくださるようにお願いなさいと言って、一枚の小さな聖母の画像をミゲルに残した。また、ぱあでれは、「わが子ミゲルよお信じなさい。これは肉体のための薬です。キリシタンでも異教徒でも、誰か熱病に罹ったときは、あなたが病人の上にゼズスとマリヤとの聖い御名を呼び求めている間に、この鞭でその病人を軽く五つお打たせなさい。そうすれば、その人たちは健康になるでしょう」と言って、自分の鞭をミゲルに残した。この善良なミゲルの信仰は、彼がその後なお十四、五年生存していたので、多数の病人が方々から彼のところに集まって来たほどであり、彼等はデウスの御力によって健康を得た。誰かが熱心のあまり鞭で打つ数をふやしたり、もっと強く打ちたがったりすると、ミゲルは鞭がいたまないように、これを許さなかった。このようにして、彼は聖遺物のようにこれを頸にかけていた。

ポロシモへの愛の業

 信仰は、聖母と聖遺物信仰として、日本人キリシタンに受けとめられていることが読みとれます。宣教師は、日本キリシタンが聖遺物をほしがるがために、これらのロザリオ等々を送るように書簡に認めています。かつ宣教師は、病人と貧困者に奉仕し、「ポロシモ」隣人への愛の業に励み、戦乱の巷にとり遺された人々に、「キリシタンたちはそこにいた貧しい人たち皆に一席食事を与え」(1552年 山口)、その心をささえたのです。その営みは、各地でイエズス会の期待となり、信仰への道を用意しました。豊後では、大友氏の庇護を受け、病院がもうけられていました。

救貧病院には、毎日方々からそこに集まって来る人たち以外に、百人以上の人たちがいた。我等の御主は惜しみなく与えたもう大度を彼等に示すことを嘉したもうて、病気の重さのためにその期望を全くもっていなかった大勢の人びとに完全な健康を与えたもうた。その大多数の人びとは瘻症傷痍があって、これにはもう手の施しようがなかった。それで、彼等は現地の医者たちに絶望してやって来て、デウスの恩寵によって期待以上の短期間で健康になった。このことは日本人たちに大驚異を喚び起こし、彼等にとっては聖い福音に近づく動機となった。しかし、我等の仲間は、どう考えてみてもそれだけの効力は殆んどないのに、薬がその病人たちに現わした効果を見て、不思議に思わずにいられなかった。そうして、皆は身体の健康と同時に霊魂の健康をも得た。なぜならば、彼等は説教を聴いてキリシタンになったからである。その人びとの中には、今年は、僧侶やごく名望ある人びとが少数あった。(1562年 豊後)

 宣教師の働きは、「奇跡」の業とみなされ、その説く教えに心を開かせたのです。このような働きは、イエズス会の信仰をして、「乞食」「病人」の信仰とみなされる一因ともなりました。このことは、日本宣教をめぐり、宣教団に亀裂をもたらしました。この亀裂は日本評価をめぐるものですが、ポロシモへの愛の実践こそは過酷な弾圧の時代を信仰によって生き抜く力となった原動力にほかなりません。

16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(2)

日本宣教への覚悟

 ザビエルが手にした日本情報は宣教への夢を日毎に大きくしたようです。その夢は、マラッカからヨーロッパのイエズス会員宛1549年6月22日に読みとることができます。ヨーロッパに伝わった日本宣教への期待は、信仰覚醒にうながされ、イエス・キリストの使徒として全世界に旅立たんとの熱気を誘うメッセージとして王侯貴族のみならず青年の心に火をつけていきます。まさに17世紀の禁教下に来日した『沈黙』の主人公ロドリゴは、ザビエルにはじまる日本宣教像が提示した記憶を共有することで来日の狂気にとらわれた一人なのです。

 ポルトガル人が日本について私によこした手紙によると、日本人は非常に賢く、思慮分別があって、道理に従い、知識欲が旺盛であるので、私たちの信仰を広めるためにはたいへんよい状態であるとのことです。(略)日本についての情報を得てから、私は日本へ行くべきか否かを決定するために長いあいだ熟考しました。主なる神が、日本において神に仕えるために日本へ行くことが私の使命であると、私の内心に確信を抱かせる恩恵をお与えになることをお望みになってからは、もしもそれを実行しないならば、私は日本の未信者よりも悪い者になると思うようになりました。悪魔は私の渡航を妨げようとして、いろいろな試みをしました。私たちが日本へ行くことを悪魔が恐れているのはなぜなのか、私には分かりません。私たちはミサをたてるために必要な物をすべて携行します。神の思し召しであれば、来年私たちがあちらで体験したことすべてを、細かに報告することになるでしょう。
 日本に着きましたら、国王のおられる本土へ行き、イエズス・キリストから遣わされた使節であると国王に申しあげることにしました。主なる神が悪魔に対する勝利を与えてくださるに違いないと、神の慈しみを心から信頼して私たちは渡航します。私たちは日本において、学識のある人たちと出会い討論することを恐れません。なぜなら、神を知らず、イエズス・キリストをも知らない人びとが何を知ることができるでしょうか。

 「主なる神が悪魔に対する勝利を与えてくださる」との信仰的確信は、日本で出会った世界をして、「この国の人びとは今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう」と、言わしめるほどに日本宣教への高い期待を生み育てたのです。この日本像は、日本への憧れが強かっただけに、日本熱を否応なしにうながします。

日本という世界

 鹿児島到着後にゴアのイエズス会員宛1549年11月5日の書簡は、ザビエルが思い描いてきた夢が眼前に展開したものとみなされ、来るべき日本が「キリスト教の王国」に相応しいものとして紹介されています。

1)私たちが交際することによって知りえた限りでは、この国の人びとは今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていません。
2)日本人は侮辱されたり、軽蔑の言葉を受けて黙って我慢している人びとではありません。武士以外の人たちは武士をたいへん尊敬し、また武士はすべて、その地の領主に仕えることを大切にし、領主によく臣従しています。
3)この国の人たちの食事は少量ですが、飲酒の節度はいくぶん緩やかです。この地方にはぶどう畑がありませんので、米から取る酒を飲んでいます。人びとは賭博を一切しません。賭博をする人たちは他人の物を欲しがるので、そのあげく盗人になると考え、たいへん不名誉なことだと思っているからです。宣誓はほとんどしません。そして宣誓する時は、太陽に向かってします。大部分の人は読み書きができますので、祈りや教理を短時間に学ぶのにたいそう役立ちます。
4)この地の二つの習慣について、あまりにもひどいので驚いています。その第1は、これほど大きな忌わしい[ボンズたちの]罪を見ていながら、人びとはなんとも思っていないことです。昔の人たちがこうした罪のなかで生活することに慣れてしまったので、現在の人たちも前例に倣っているからです。(略)その第2は、世間一般の人たちがボンズたちの生活よりも正しい生活をしていることです。
5)私があなたがたにお知らせしたい唯一のこと、それは主なる神に大きな感謝を捧げていただきたいことです。この島、日本は、聖なる信仰を大きく広めるためにきわめてよく整えられた国です。そしてもし私たちが日本語を話すことができれば、多くの人びとが信者になることは疑いありません。

 ここに提示した日本像は、後に来日したルイス・フロイス等々の宣教師の眼を規定し、日本に順応した宣教論を構築する根拠となったものです。ここには、パウロが「コリントの信徒への手紙」で「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固いものを口にすることができなかったからです」(一の3章2節)との想いがありました。日本人には、「聖なる信仰」そのものを生のまま説き聞かせるのではなく、日本人の心に寄り添い、その心に合わせて日本人の心に響くように「信仰」を説き聞かせ、キリスト者にしていく作法がとられたのです。この作法は、「順応」論といわれるもので、16世紀をキリシタンの時代になさしめたものです。

16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(1)

 今年2017年は、ルターがヴィッテンベルグ城教会の扉に「95箇条提題」を掲げてローマ教会の在り方を告発し、宗教改革の狼煙をあげてから500年ということで、プロテスタントの諸教会が「宗教改革500年」の記念行事を各種企画しているようです。ルターが信仰の覚醒を説いた16世紀は、すでに1509年にエラスムスの『愚神礼賛』、1516年にトマス・モアが『ユートピア』を提示しているように、人間の精神が神の帳から解き放たれようとしていた時代の夜明けでした。このことは、日本においても1497年に蓮如が石山本願寺を創建、1501年に細川政元が日蓮・浄土の宗論を行わせたのをはじめ、1506年に北陸で一向一揆が長尾能景を敗死させたように、多様な宗教運動が民衆の心をとらえていく時代でした。
 ルターの告発は、このような時代の空気を揺り動かす精神の糧となることで、時代を震撼させたのです。その波動は、日本に到達し、蓮如に象徴される仏教諸派の信仰運動に連動することで閉ざされた民心を開いていくこととなります。
 イグナテイウス・デ・ロヨラを指導者にフランシスコ・ザビエルらは、ルターの叫びに応じ、ローマの教会―カトリックの信仰覚醒をめざし、1534年にイエズス会を結成、40年にローマ法王より認可され、全世界へ宣教をめざします。かくてザビエルの日本宣教は「キリシタンの時代」ともいわれることとなる16世紀をもたらしたのです。この時代については、すでに、「ルイス・フロイスがみた日本」(Vol.28Vol.29)、「キリシタンの時代」(Vol.68)、「日本、日本人とは」(Vol.69)等々でいくつかの事績を紹介しました。ここにあらためてザビエルの日本への眼差しをみるのは、昨今話題となっているマーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙SILENCE』、遠藤周作の『沈黙』が原作ですが、の問いかけている世界とは何かを現在の場から考えてみたいと想ったがためです。

ザビエルの旅

 ザビエルは、1506年4月7日にナバラ王国のザビエル城で生まれ、1534年8月ロヨラを指導者に同志7人とモンマルトンの丘で誓願(28歳)。この年は、ルターの聖書のドイツ語全訳、ヘンリー8世がイギリス国教会首長となった年でもありました。イエズス会がローマ法王パウロ3世より認可されたのを受け、42年インドのゴア着、49年4月、日本に渡航(43歳)、8月に鹿児島に上陸。すでに43年、ポルトガル船が種子島に漂着、日本に鉄砲が伝来していました。50年にキリスト教信仰の原理を述べた『公教要理』『使徒信教の説明書』を日本語に訳すとともに、鹿児島から山口を経て51年に堺からミヤコに入り、11日間滞在、11月に豊後沖の浜を出帆、中国広東の山川島(サンチュアン)で52年12月3日に亡くなります。
 ザビエルはこの旅のなかでインドなどとはことなる日本への夢を描き、日本宣教の可能性に明日を思い描いていたのです。

日本への憧れ

 ザビエルは、コーチよりローマのイグナチオ・デ・ロヨラ神父宛の1549年1月12日の書簡で、日本への熱い思いを認めています。ここには、「知識欲に燃える日本人」への強い期待が吐露されております。

 この地方(インド)でポルトガル人は、海上と海岸を支配しているだけです。すなわち、本土をすべて支配しているわけではなく、ポルトガル人が住んでいる部分だけを支配していることをあなたにお知らせします。(略)ポルトガル人がこの地方の未信者をもっと大切にしてくれれば、多くの人が信者になるでしょう。でも異教徒たちは信者になった人たちがこれほどまでに圧迫され、迫害されているのを見ていますから、それで信者になりたがらないのです。
 以上あげた理由によって、その他にも数えればさまざまな理由がありますが、日本についてたくさんの情報を入手したのが主な理由で日本へ行こうと思います。日本はシナの近くにある島です。そこではすべての人が異教徒で、イスラム教徒もユダヤ人もおりません。人びとは非常に知識を求め、神のことについても、その他自然現象についても新しい知識を得ることを切に望んでいるそうです。私は内心の深い喜びをもって、日本へ行くことを決心しました。このような知識欲に燃える日本人のあいだに私たちイエズス会員が生きているうちに霊的な成果を挙げておけば、彼らは自分たち自身の力でイエズス会の生命を持続してゆけるだろうと思います。
 ゴアの聖信学院には、私が帰って来た時に、1548年にマラッカから来た若い日本人が3人います。彼らは日本について重要な情報を提供してくれます。また彼らはよい習慣を身につけ、才能豊かで、とくにパウロは優れ、(略)8か月でポルトガル語を読み、書き、話すことを覚えました。今黙想中で大いに進歩し、信仰のことをたいへんよく受け入れております。日本で沢山の人びとを信者にしなければならないと、私は主なる神において大きな希望に燃えています。私を助けてくださる主なるイエズス・キリストにおける大きな希望を持って、まず国王のいるミヤコへ行き、次に学問が行われている所大学へ行く決意です。
 パウロが言うには、彼らが信奉している教えは、天竺(チエンジコ)と呼ぶ地からシナを過ぎ、タタールを経て伝えられたものだそうです。パウロの話では、日本から天竺へ行き、また日本へ帰るのは、3年の道のりだとのことです。

 この日本像こそは、日本宣教に赴くイエズス会の宣教師をとらえてのもので、その心に刻印された世界でした。日本宣教は、この日本像をめぐる確執、蹉跌であり、深い沼地たる日本という大地にのみこまれていく『沈黙』が問いかけた課題ともなるものです。『沈黙』が投げかけた問い、「なぜ神は我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか―?」に応じる前に、日本宣教への眼を確かめておきます。

12月8日にどのように向き合ったのか ―戦後70年と開戦75年の間にみる世界―

 敗戦後70年が喧伝された2015年が終り、2016年は1941年12月8日の真珠湾攻撃による日米開戦から75年にあたり、米国では真珠湾攻撃75年の記念行事が開催されます。日本は、70年という節目の年、2015年に日本国憲法第9条が掲げた「非軍事憲法」ともいうべき戦後日本の基本法が「積極的平和主義」なる言説のもとに否定され、自衛隊が同盟国米国の「後方支援」を任務とすることが可能となりました。この「後方支援」は、新しい日米ガイドライン(防衛協力の指針)の英語版によれば、「logistic support」となっています。
 かくて平和協力業務(PKO)で2016年11月に南スーダンに派遣された自衛隊には、戦闘に巻き込まれた他国軍隊を「駆け付け警備」を名目に、支援する任務が付与されました。自衛隊が負わされた「積極的平和主義」による「後方支援」は、内戦下といわれる南スーダンにおいて、他国軍隊の支援を名目に武器を使用し、戦闘することとなったのです。いわば戦時における「後方支援」は、「logistic support」、「logistic―兵站」のことで、武器・弾薬・食糧の補給や兵士の輸送を任務となし、旧日本軍の兵科でいえば「輜重(しちょう)」に相当します。
 旧日本軍は、「輜重輸卒が兵隊ならば電信柱に花が咲く」「輜重輸卒が兵隊ならば蝶々トンボも鳥のうち」と揶揄、兵科に入らない存在とみなしていました。ここには、補給を軽視し、糧は敵に取れとした日本軍の戦略観が色こく投影されています。日本軍隊は、占領地住民から食糧をはじめ物資を徴発―略奪したがために、怨嗟の的となり、敗北したのです。
 自衛隊の任務は、旧日本軍が「軽蔑」した兵站を担い、米軍をはじめとする「同盟国」の作戦遂行を支えるわけです。近代戦は、戦線の拡大に相応する兵員と物資の輸送、兵站線の確保が作戦の死命を決定づけました。現代戦では、この兵站の確保が重要なだけに、敵の兵站を攻撃することが必須とみなされております。その意味では、「後方支援」である兵站を担う日本の自衛隊がまず攻撃対象にされることとなります。「後方支援」であるから「安全」という安倍首相の答弁は虚言、戯言なのです。
 このような現下の状況に想い廻らせたとき、私の頭に去来するのは、1941年12月8日のハワイ真珠湾の奇襲、対米・英宣戦布告の報に勇躍し雄叫びをあげ、「臣民」であり、「国民」であることを誇りとした日本人の姿です。日米開戦75年という日、12月8日は日本人にとり何であったかを確かめることは、戦後70年の2015年に日本が「非軍事憲法」をどのように処遇したかを問い質すためにも、現在あらためて確認すべき責務があるのではないでしょうか。

詩人にとっての12月8日

 詩人は言葉に生きる、生きねばならない存在です。日本の近代詩は欧米、特にフランスの詩壇に目を向け、その動向に倣うことで己の詩想をねりあげてきました。この方策は、古くは中国の詩を「漢詩」として、その創作を知識人の資格としてきた風潮につらなるものです。そこで、ヨーロッパの先端知を受け入れることに生命の火を燃やし続けた詩人の営みを読みとることで、日本の近代知なるものの在り処を問い質します。
 安西冬衛(1898-1965)は、日本植民地の大連で育ち、独自の心象風景を詩作した前衛詩人です。『軍艦茉莉』(1919年)での登場は衝撃的でした。

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。(「春」)
彼女は西蔵の公主を夢にみた/寝床は花のやうによごれてゐた。(「犬」)

 この詩人が描いたエロチシズムは、12月8日という現実を目の当たりにし、「出陣の旦」(1941年)と語り、一挙に破砕されていきます。

「大本営陸海軍部発表『帝国陸海軍は本日未明西太平洋に於て米英軍と戦争状態に入れり』」
朝瞰紅を発して芙蓉の霊峰に映じ神国日本の眞姿将に東瀛に明け渡らんとする昭和十六年十二月八日の払暁、東京中央放送局の電波は、果然破邪顕正の神意の発動を儼として報じたのである。
鳴弦一旦。矢は既に放たれた。
我等は積年斯くあるを待望し、皇民一億又斯くあるを斉しく念願したのである。

 フランスの「前衛詩」に学んだ世界は、「我等は積年斯くあるを待望し」、と「出陣の旦」とともに飛散し、「大詔昭々 大道坦々/豁然としてこの道の開闢するところ/山川海嶽/帰一してことごとく/天皇の卒土/ああ/感激の十二月八日/乾坤、転じ来って再び咫尺にあり」「それ/生死を言はず/名利また埒外/必謹/ただ必殺の神気/凝って撃発すれば/真珠湾頭たちまち紅蓮の焔と天に冲し/ベンガル海上真紅の火と濤を焼いて/ために敵胆をして寒からしむ」(「軍神につづけ」1943年)との雄叫びにのみこまれていったのです。
 丸山 薫(1899-1974)は、「病める庭園」(1926年)で真昼の空虚感を鮮烈な映像として詩(うた)う言葉の魔術師、硬質な抒情を奏でた詩人でありました。

静かな午さがりの縁さきに/父は肥って風船玉のやうに籐椅子にのっかり/母は半ば老いて その傍に毛糸を編む/いま春のぎょうぎょうしも来て啼かない/この富裕に病んだもの懶い風景を/誰がさっきから泣かしてゐるのだ
オトウサンヲキリコロセ/オトウサンヲキリコロセ
それは築山の奥に咲いてゐる/黄色い薔薇の葩びらをむしりとりながら/またしても泪に濡れて叫ぶ/ここには見えない憂欝の顫へごゑであった
オトウサンナンカキリコロセ/オカアサンナンカキリコロセ/ミンナキリコロセ

 この詩人は、「空虚感」が補填されたのかのように、12月8日の感激を一身に浴び、「日の本とともに」(『軍神につづけ』1943年)と雄叫びをあげております。

こぞのかの日/大詔くだりししゞまの刻ぞ/わが肇国のこのかたより/ももちの刻にもためしなき一刻/すぎしこの年/われら戦ふさなかの現実ぞ/ともに一億が生涯の中/幾十年にもまさる一年/仇国ら未だ亡びずとても/われら戦ひ 戦ひて捷つ未来こそ/わが国史の上/幾百年をこぞる光陰なれ/みたみわれら/この耀ける御代に生れ遇ひて/一日の感激を火と燃やさむ/一年のくらしを石と耐へむ/一生のこころを鉄と鍛へむ/草莽われら/光栄ある生涯を戦ひ抜きて/わが短きいのちを百年の力と化さむ/わが生くるいまの歓喜を孫子につたへて/日の本とともに永遠にあらむ

 この雄叫びは、『つよい日本』(1944年)で「航空体操」「けふも雲間に」「ぼくの初陣」「ぼくらは海鷲」等々の陸軍少年飛行兵の讃歌となります。現代のけだるい闇を詩うことで、人間の生のあやうさに眼を向けた詩人はどこにいったのでしょうか。
 三好達治(1900-1964)は、抒情詩人として、日本近代詩の劈頭をかざる人物と評価されているようです。その詩人は、抒情詩ならぬ、「臣民」として、『捷報いたる』(1942年)等々と国家を寿ぐ詩を奏でることで時代に伴走して生きた一人です。

くにつあたはらへよとこそ/一億の臣らのみちはきはまりにたり/十二月八日/捷報臻る/アメリカ太平洋艦隊は全滅せり/昨夜香港陥つ/汝愚かなる傀儡よ/馬来(マライ)の奸黠/新嘉坡落つ/この夕べ/ジュンブル家老差配ウインストン・チャーチル氏への私信/化け銀杏/一陽来/第一戦勝祝日/あたうちて/落下傘部隊/九つの真珠のみ名/三たび大詔奉戴日を迎ふ/陽春の三月の天/春宵偶感/アメリカはいづれの方よ

 「ジュンブル家老差配ウインストン・チャーチル氏」と愚弄した詩人は、ここには無残な破碎した言葉しかありませんが、戦後は戦争などどこ吹く風と戦火に生きる場を失った人々を何もなかったかのごとく「涙をぬぐって働かう」(『砂の砦』1946年)と鼓舞してやみません。戦争は自然災害でしかないようです。ここに詩魂が読みとれましょうか。

みんなで希望をとりもどして涙をぬぐって働かう/忘れがたい悲しみは忘れがたいままにしておかう/苦しい心は苦しいままに/けれどもその心を今日は一たび寛がう/みんなで元気をとりもどして涙をぬぐって働かう
最も悪い運命の颱風の眼はすぎ去った/最も悪い熱病の時はすぎ去った/すべての悪い時は今日はもう彼方に去った。

時代に向き合う場とは

 詩人、近代知を纏うその姿には、日本近代における知の受容の形相があるのではないでしょうか。日本の近代は、欧米の先端知を一身に纏うことで己の場を誇示してきました。詩人の相貌は、言葉で生きる存在であるがために、その空虚さを曝したにすぎません。その相貌は、日本の学問思想の根なし草につらなり、状況に合わせて乱舞する世界、流れに併走していく世界を生み育てたと言えましょう。それだけに時代に向き合い己の場を問い語る知の在り方が問われるのではないでしょうか。そのような時、私の心に谺してくるのはM、ピカートの問いかけです。

もしも人間が、沈黙からも教えの言葉からも、正しい行いをなすことを聴き容れない場合には、事件が、歴史そのものが、人間を教える役割を引きうけるのである。もはや言葉によって人間のもとに達することの出来なくなった真理は、そのとき、事件によって自己を明らかにしようとする。(『沈黙の世界』1969年)

 阪神淡路、東北大震災、原発災害、関東・東北豪雨、熊本地震、北海道を襲った台風10号等々、昨今日本を襲う自然の相貌に向き合う時、このピカートのことばが想起されます。12月8日にみられた脆い知、先端知の上澄みに踊らされるのではない、私の場は己の眼で歴史に問い質すことで手にし得るのではないでしょうか。危い時代の風潮だけに空虚な言葉の乱舞に踊らされることのない私の場を確保したいものです。
 なお安倍総理は、日米の同盟関係を誇示するために、75年記念式典が営まれる真珠湾を12月末に訪問、オバマ大統領とともにアリゾナ記念館で犠牲者に献花するそうです。犠牲者を悼み、死者の声に耳を傾けた時、12月8日を讃えた詩人の声が人間安倍晋三にはどのよう響いたかを聞きたいのですが、いかがなものでしょうか。その心には詩人の声に共鳴する世界で生きているのではないでしょうか。

 

参考文献

  • 阿部猛『近代詩の敗北』大原新生社 1980年、『近代日本の戦争と詩人』同成社 2005年
  • マックス・ピカート『沈黙の世界』みすず書房 1964年

御一新から維新へ

維新150年を前にして

 2018年、平成30年は、1868年の明治維新から150年ということで、山口県などでは「維新150年」という各種の企画がはじまっており、今から観光イベントとしてもりあげようとしています。顧みれば1968年の明治維新100年をめぐっては、政府が企図した100年行事に対し、歴史学界の多くは反対声明を出し、日本の近代化が「侵略戦争」となったことを論難しました。ある意味では国論を二分したともいえましょう。150年にはどのように向き合うでしょうか。
 この間に歴史研究者は、「天皇制絶対主義」なる言説から「国民国家」論へ視点を移し、「江戸ブーム」ともいえるような風潮にささえられた江戸時代像に「国民文化」の幻想を読み、エコロジー社会、完結型社会の先駆けを見出すなど、日本近代の内在的要因を評価する言説が声高に語られております。
 このような言説の背景には、1968年前後の時代が公害問題、日本大学をはじめ、東京教育大学の移転問題、東京大学安田講堂攻防戦等々をはじめとする大学闘争、公害、ベトナム反戦、沖縄の基地問題、東京都、大阪府等にみられた「革新」自治体の登場等々に戦後政治への訣別と異議申し立ての可能性を見出そうとした気分がありました。このような気分は、経済成長の下での「中流」意識、欲望充足型の社会風潮の渦にのみこまれ、社会への眼ではなく、自己一身の安心立命に自己充足をもとめる「個人主義」に名の下に忘失されていったようです。
 しかもバブル崩壊による低成長時代の到来は、「経済大国」日本が低落するという不安に怯え、「大国」幻想をして「日本回帰」の言説が喧伝される風潮を増幅しております。それだけに維新150年なる想いは、日本人たる「愛国心」、栄光の明治を言挙げすることで、敗戦によって奪われた時を恢復した昭和天皇の記憶に重ね、「万世一系」の「皇統」の国「日本」にことよせて、日本の栄光を取りもどそうとの想い、国家愛の表明、閉ざされたナショナリズムに呼応するものともいえましょう。その一端は、11月3日の「文化の日」、明治天皇の誕生日を旧来の「明治節」となし、4月29日の「緑の日」、昭和天皇の誕生日を「昭和節」にしたい、との念にも表明されています。このような時代の風潮に向き合うには「維新」なる言説が提示した世界を読み解かねばなりません。

「御一新」をめざし

 ペリーとプゥチャーチンの艦隊が来日した嘉永6癸丑(1853年)の衝撃は、朝廷が京都の寺社と伊勢神宮に「夷類退攘」の祈願をさせ、日本が列強の植民地になるのではとの危機感を共有していくなかで、「夷類退攘」から造語された「攘夷」が流行します。この「攘夷」なる言説は、閉塞感にとらわれた時代を突破するスローガンとなり、やがて「攘夷開国」へと道を開くこととなったのです。この攘夷実現は、江戸将軍家の秩序を解体し、「皇国」という国の容を取りもどさねばならないとの想いとして時代を動かしていきました。
 この秩序の解体と一新への想いは、「御一新」、総ての秩序を新たにすると念が命じるままに、江戸将軍家に対峙する討幕への行動へと奔らせたものにほかなりません。慶応3年(1867)12月9日に出された 「王政復古の大号令」はこの思念を次のように宣言しています。

近年物価格別騰貴如何共不可為、勢富者ハ益富ヲ累ネ、貧者ハ益窘急ニ至リ候趣、畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者之大寶百事御一新之折柄旁被悩 宸衷候。智謀遠識救弊之策有之候者無誰彼可申出候事。

 「民ハ王者之大寶百事御一新」との宣言は、「百事御一新」とすべてが新たとなることを宣言したもので、神武復古を掲げた復古革命ともいべき、新権力の誕生を告げたものにほかなりません。西郷隆盛は、「民ハ王者之大寶百事御一新」に新国家の寄るべき場を見出したがために、「維新」という言葉を口にせず、終世「御一新」という言説にこだわって生きたといわれています。

「維新」という言説

 明治の新政府は、明治3年(1870)正月3日の「宣布大教詔」で、御一新がめざした秩序の在り方を問い直します。

今也天運循環百度維新宜明治教以宣揚惟神之大道也因新命宣教使布教天下汝群臣衆庶其体斯旨

 「百度維新」という言説は「惟神之大道」に重ねて説かれたのです。「維新」は「惟神」でもあったのです。しかも「百事御一新」にこめられた体制の大変革なる想いは、「百度維新」、ある種のものを新たとする改革、「神ながら」という建前にそうかたちでの改革に貶められたのです。このような「維新」なる言説は、『日本書紀』巻25「孝徳紀」大化2年(646)3月壬午(20日)の記事にみることができます。

皇太子、使(つかひ)を使(また)して奏請(まを)さしめて曰(のたま)はく、昔在(むかし)天皇等(すめらみことら)の世(みよ)には、天下(あめのした)を混齊(むらかしととの)へて治めたまへり。今に及逮(およ)びて、分れ離れて業(わざ)を失ふ。[国の業(わざ)を謂ふなり。]天皇(すめらみこと)我皇(わがきみ)、萬民(おほみたから)を牧(やしな)ひたまふ可き運(みよ)に屬(あた)りて、天(かみ)も人も合応(こた)へて、厥(そ)の政(まつりごと)惟(こ)れ新なり。是の故に、慶(よろこ)び尊(とふと)みて、頂戴(いただ)きまつりて伏(かしこまり)奏(まを)す。

 ここには大化の改新による政治秩序、天皇による統治の回復が「政惟新」とみなされております。「維新」「惟神」はこのような故事にかさねて読みたいものです。さらに藤田東湖は、天保元年(1830年)の藩政改革上書で「周雖旧邦其命維新(周は旧邦といえども、その命維(これ)新たなり)と『詩経』「大雅、文王篇」によって、改革を論じています。
 いわば「維新」なる言説は、西郷がめざした「御一新」による秩序を解体する革命、復古革命への途ではなく、統治機構の改革による「文明国」をめざす営みでした。このような新政府の方途は、「御一新」に夢をたくした草莽の国学者、島崎藤村の父正樹(『夜明け前』の主人公青山半蔵)をして、新政府に絶望し、座敷牢で狂死せしめたものにほかなりません。
 維新150年を問い質すには、御一新への夢が「維新」となることで、日本における近代国家―国民国家の形成がなされたことを凝視し、「国民」がどのような「文明の徒」として造形されたのかを考えたいものです。国民化される民衆と国家との間には、深い闇があり、多様な亀裂が奔っていたのではないでしょうか。

落書の世界 ―二条河原落書が問いかけた世界― 2

承前

 後嵯峨天皇の眼には、「天子二言アリ 院中念仏アリ 当世両院アリ ソヽロニ御幸アリ」と、民の営みなど眼中にありませんでした。正元元年(1259)11月には、後嵯峨上皇が後深草天皇の皇位を弟恒仁親王に譲位させ、亀山天皇となり、上皇が後嵯峨、後深草の2人となりましたが、後嵯峨が父権によって権力をにぎっていました。この後嵯峨上皇は、熊野・八幡・賀茂・高野等への御幸が繰り返しており、亀山は皇位を後深草に返さず、己の子を皇位につけ(後宇多天皇)、後深草と対立、幕府の介入で皇位を後深草の持明院統と・亀山の大覚寺統の交互にするという迭立の方式となりました。ここに皇統が二流となり、この方式が後醍醐による「建武中興」で破綻、南北朝争乱となります。その意味では、この「院落書」にみられる「当世両院アリ」は南北朝の争乱への讖言にほかなりません。

後嵯峨(1242年)から後醍醐へ

 後嵯峨から後醍醐への皇統の流れは右図のようなものです。このような迭立の時代は、前号で紹介しましたように鎌倉大地震、諸国暴風雨、飢饉疫病流行、諸国飢饉の時代であり、戒壇設立をめぐる山門、寺門の抗争が渦巻いておりました。幕の御家人体制は、大陸に成立した元の脅威にさらされ、文永・弘安の役となり、「悪党」といわれた非御家人台頭し、亀裂がはじまってきます。日蓮は、こうした時代が迎える危機を説き、文応元年(1960)に『立正安国論』で世に警告、流罪に処せられます。両統迭立という方策は、御家人体制が揺らぐなかで、鎌倉幕府が朝廷を懐柔操作する方策として活用されたのです。後醍醐の登場は、北条執権体制を担う得宗執権体制に異をいだく御家人にくさびを打ち込み、畿内西国の非御家人を結集する場を提供し、鎌倉幕府を亡ぼすこととなります。この変革は、天皇親政に道を開いたとして、「皇国」日本の「国史」上で「建武中興」なる名称で説かれることとなります。

建武新政の虚実―二条河原落書(建武年間記)は何を問いかけているか

口遊。去年八月二条河原落書云々。元年歟。
此比都ニハヤル物。夜討強盗謀綸旨。
召人早馬虚騒動。生頸還俗自由出家。
俄大名迷者。安堵恩賞虚軍。
本領ハナルヽ訴訟人。文書入タル細葛。
追従讒人禅律僧。下克上スル成出者。
器用ノ堪否沙汰モナク。モルヽ人ナキ决断所。
キツケヌ冠上ノキヌ。持モナラハヌ笏持テ。
内裏マジハリ珍シヤ。賢者ガホナル伝奏ハ。
我モ々々トミユレドモ。巧ナリケル詐ハ。
ヲロカナルニヤヲレルラン。為中美物ニアキミチテ。
マナ板烏帽子ユガメツヽ。気色メキタル京侍。
タソガレ時ニ成タレバ。ウカレテアリク色好。
イクソバクゾヤ数不知。内裏ヲガミト名付タル。
人ノ妻鞆ノウカレメハ。ヨソノミルメモ心地アシ。
尾羽ヲレユガムヱセ小鷹。手ゴトニ誰モスエタレド。
鳥トル事ハ更ニナシ。鉛作ノオホ刀ガタナ。
太刀ヨリ大ニコシラヘテ。前サガリニゾ指ホラス。
バサラ扇ノ五骨。ヒロコシヤセ馬薄小袖。
日銭ノ質ノ古具足。関東武士ノカゴ出仕。
下衆上臈ノキハモナク。大口ニキル美精好。
鎧直垂猶不捨。弓モ引エズ犬逐物。
落馬矢数ニマサリタリ。誰ヲ師匠トナケレドモ。
遍ハヤル小笠懸。事新キ風情ナク。
京鎌倉ヲコキマゼデ。一座ソロバヌヱセ連哥。
在々所々ノ歌連歌。点者ニナラヌ人ゾナキ。
譜第非成ノ差別ナク。自由狼藉世界也。
犬田楽ハ関東ノ。ホロブル物ト云ナガラ。
田楽ハナヲハヤルナリ。茶香十炷ノ寄合モ。
鎌倉釣ニ有鹿ト。都ハイトヾ倍増ス。
ゴトニ立篝屋ハ。荒涼五間板三枚。
幕引マハス役所鞆。其数シラズ満ニタリ。
諸人ノ敷地不定。半作ノ家是多シ。
去年火災ノ空地共。クワ福ニコソナリニケレ。
適ノコル家々ハ。点定セラレテ置去ヌ。
非職ノ兵杖ハヤリツヽ。路次ノ礼儀辻々ハナシ。
花山桃林サビシクテ。牛馬華洛ニ遍満ス。
四夷ヲシヅメシ鎌倉ノ。右大将家ノ掟ヨリ。
只品有シ武士モミナ。ナメンダウニゾ今ハナル。
朝ニ牛馬ヲ飼ナガラ。タニ変アル功臣ハ。
左右ニオヨバヌ事ゾカシ。サセル忠功ナケレドモ。
過分ノ昇進スルモアリ。定テ損ゾアルヲント。
仰デ信ヲトルバカリ。天下一統メヅヲシヤ。
御代ニ生デテサマ々々ノ。事ヲミキクゾ不思義トモ。
京童ノロズサミ。十分一ヲモラスナリ。

 この有名な落書は教科書の定番です。「建武」の世とは下記の年表に読み解くことができます。時代の人心は、政治の動乱に天変地異を重ね想いみたとき、はじめと歴史として把握できます。歴史は想起し創造することで描ける世界です。この想いを秘め、一人の歴史家として、年表が問いかけている時空間の世界を旅してみませんか。なお、落書が掲示された場所は、後醍醐天皇の政庁が所在した二条富小路に近い二条河原で、無縁地で公権力が介入できない公界の場でした。

1325年(正中2)10月 正中地震 M6.5‐7
1331年(元弘元)7月 元弘地震 3日紀伊 7日東海 M7以上(東海地震か)
1333年(正慶2、元弘3)閏2月 後醍醐天皇、隠岐脱出 5月 六波羅、鎌倉陥落 6月 後醍醐天皇、京都に還る 8月 足利高氏に尊氏を賜う
1334年(建武元)5月 記録所、雑訴決断所、武者所の設置 8月 二条河原落書
1335年7月 中先代の乱、護良親王歿 11月 尊氏、鎌倉で叛 12月 赤松則村の叛
1336年(延元元、建武3)5月 楠木正成、湊川で敗死 6月 尊氏、光厳院を奉じて入京 11月 尊氏、建武式目17条制定 12月 後醍醐天皇、吉野潜行(南北両朝分裂)
●卜部兼好「徒然草」
1337年12月 北畠顕家、鎌倉攻略
1338年(延元3、歴応元)5月 顕家、和泉石津で敗死 7月 新田義貞、越前で敗死 8月 尊氏、征夷大将軍
1339年8月 後醍醐天皇歿(52)、秋、北畠親房「神皇正統記」
1342年(興国3、康永元)4月 五山十刹の制
1353年(正平8、文和2)8月 尊氏、後光厳院を奉じて入京
1354年4月 北畠親房歿(62) 12月 直冬が京都侵攻、尊氏、光厳院と近江へ逃れる
1358年(正平13、延文3)4月 足利尊氏(54)歿

内憂外患の世

 室町の世は、幕府にみる主従制的支配原理も天皇による統治権的支配原理も揺れ動くなかで、列島をささえてきた秩序のありかたに亀裂が奔って行く時代です。まさに時代は、年表に列記された時代相にみられますように、自然災害によって大きくゆるがされ、大転換の時に曝されていきます。

1360年(正平15)10月 紀伊摂津(東南海地震か)M7.5-8 死者多数、津波
1361年6月 正平地震 M8-8.5 死者多数、摂津・阿波・土佐で津波被害大
1407年(応永14)12月 応永地震 京都M7-8 紀伊・伊勢で地震、熊野本宮の温泉停止
1408年5月 義満歿(51)11月 諸国関所の制
1413年8月 段銭・棟別銭を諸国に課す
1418年 近江大津の馬借、京都に侵攻
1419年 朝鮮の兵、対馬襲来(応永の外寇) 京都・関東に地震・風水害
1420年 全国各地、凶作飢饉
1421年1月 倭寇、明辺境を侵攻。●飢饉・疫病流行
1427年5月 京都大水害
1428年(正長元)8月 畿内近国で土民蜂起、徳政要求(正長の土一揆)「亡国の基」
1429年(永享元)1月 播磨国に土一揆
1433年(永享5)9月 相模地震 M7以上 死者多数、津波で利根川逆流
1449年(文安6)4月 山城・大和地震 M6.5 死者多数
1454年(亨徳3)11月 亨徳地震 会津強震、奥州海岸の大津波 12月 鎌倉で大地震
1474-75年(文明6)冬 京都大地震
1467年(応仁元)10月 細川勝元(東軍)・山名持豊(西軍)激戦(―77年11月)
1495年(明応4)8月 津波で鎌倉大仏破壊
1498年(明応7)6月 日向地震 M7.5 死者多数、畿内でも地震(南海地震か) 8月 明応地震 M8.2-8.4 使者3―4万人以上 伊勢・駿河津波被害大、浜名湖が海に繋がる
1502年(文亀元)12月 越後地震 M6.5-7.0 死者多数

 応仁の乱は、南北朝の抗争にはじまる列島の歴史構造にくさびを打ち込み、新しい秩序の誕生へと向かわせます。おもうに皇統の在り方、その統治権的支配原理の混迷は、日本の統治構造をめぐる歴史に大きな翳をおとしており、現在の「象徴」なる言説にみられる日本の支配原理をも揺るがす要因を秘めていることに想いをいたしたいものです。

落書の世界 ―正元二年院落書が問いかけた世界― 1

 時代の転換期は、権力の恣意的運用を批判した落書によって、社会の澱みを読みとることができます。これらの落書には、当代の人心と智慧が結集しており、時代の闇が的確に抉り出されたものが多くみられます。その意味では、メール等の発達で、多様な情報網が独り歩きしている現在、密かに怨念を託して生まれる落書のような世界が飛散したのかもしれません。否、無記名なメールを拡散することで、気になる存在を貶め、抹殺していくことに何等の痛痒を感じない社会の到来で、練り上げられた落書という芸術的業(わざ)に己の存在を託す営みが忘失されたといえないでしょうか。このことは、権力の在り方を根元的に問い質し、傷を負わせる落書という作法そのものが多様な情報手段の発展によって粗悪な中傷行為に転落していったことに外なりません。それら言説には、時代を投影した落書の世界にくらべてみれば、時代の闇に蠢く人間の情念を突き詰める眼がうかがえません。そこで落書の世界がみせる闇の深みを、13世紀中頃の正元2年(1260)院落書で読み解くこととします。
 正元元年院落書は、南北朝への讖言ともいえるもので、昨今話題となっている現天皇の生前退位問題にもかかわる話題につながる世界であるかもしれません。まずはいかなる落書かを読むこととします。

年始凶事アリ 国土災難アリ
京中武士アリ 政ニ僻事アリ
朝議偏頗アリ 諸国饑饉アリ
天子二言アリ 院中念仏アリ
当世両院アリ ソヽロニ御幸アリ
女院常御産アリ 社頭回禄アリ
内裏焼亡アリ 河原白骨アリ
安嘉門白拍子アリ 持明院牛アリ
将軍親王アリ 諸門跡宮アリ
摂政二心アリ 前摂政追従アリ
左府官運アリ 右府ニ果報アリ
内府ニシヽアリ 花山ニ出家ノ後悔アリ
四条権威アマリアリ 按察使(あぜち)ニカシラアリ
大弁ニ院宣定アリ 除目僧事(じもくそうじ)ニ非拠アリ
嵯峨殿ニハケ物アリ 祇園神輿アリ
五条殿ニ天狗アリ 園城寺ニ戒壇アリ
山訴訟ニ道理アリ 寺法師ニ方人(かたうど)アリ
前座主冥加アリ 当座治山ニ勝事(しようじ)アリ
高橋宮ニ嘉寿アリ 綾小路ニシソクアリ
大僧正ニ月蝕(がつしよく)アリ 正僧正察会アリ
円満院乱僧アリ 桜井ニ酒宴アリ
聖護院ニ穏便アリ 東寺ニ行遍アリ
南都ニ専修アリ 大乗院馬アリ
学生ニ宗源俊範アリ 武家過差(かさ)アリ
聖運ステニスヱニアリ
 正元二年庚申正月十七日院御所落書云々

 この落書は正元2年正月17日に後嵯峨上皇の仙洞御所に記されていたものです。冒頭の「年始凶事アリ 国土災難アリ 京中武士アリ 政ニ僻事アリ 朝議偏頗アリ 諸国饑饉アリ」は、園城寺が正嘉元年(1257)に戒壇設立の勅許を求めたことにはじまる園城寺と延暦寺の争いを諷刺し、迷走する朝廷の姿を批判したものです。朝廷は、幕府が正元元年に延暦寺を威圧するために数100名の武士を鎌倉から上洛させた力を背景に、2年正月4日に園城寺が戒壇設立の代案として出していた三摩耶戒を許可する官宣旨を園城寺に与えました。ここに延暦寺は、翌々6日に日吉・祇園・北野社の神與を擁して入洛、放置して去るという嗷訴をします。朝廷がこの嗷訴に怯えて勅許を取り消した事件を述べたものです。この落書は、「政ニ僻事アリ 朝議偏頗アリ」「天子二言アリ」「園城寺ニ戒壇アリ 山訴訟ニ道理アリ」と状況をみなしていることよりみて、叡山側、延暦寺に味方する立場から認められたものといえましょう。
 かつ時代は、「国土災難アリ」「諸国饑饉アリ」「河原白骨アリ」と描かれていますように、正嘉2年8月諸国暴風雨による田畠の被害甚大で、10月に鎌倉が豪雨洪水となり、翌年春より飢饉・疫病が諸国に蔓延、死骸が河原に充ち溢れる惨状を呈し(正嘉の大飢饉)、3月26日に正元と改元したものの、この年も翌正元2年も諸国の飢饉は続きました。そこで正元2年4月13日を文応に改元します。このうち続く災害飢饉は、「社頭回禄アリ 内裏焼亡アリ」と火災の頻発にもかかわらず、朝廷の恣意的統治がもたらしたとものとみなし、その怒りを院と天皇の在り方を論難する落書を認めて院に掲示せしめたのです。
 思うに自然災害は時代へのある警告を秘めた声です。日蓮は、かかる危機の時代に向き合うことで改元された文応元年(1260)7月に「立正安国論」を執権時頼に上書します。この「落書」は、まさに日蓮の声に呼応するもので、一つの時代転換期を体現したものといえましょう。そこにみられる「当世両院アリ」と指弾された世界は、統治の正統性をゆるがせ、皇位をめぐる確執がもたらす騒乱の世への讖言ほかなりません。

 

参考文献

  • 『中世政治社会思想』下 日本思想大系22 岩波書店 1981年

民主主義の実現をめざし

承前

 『公民の書』は敗戦翌年の1946年に「補修版」として再刊されます。その再刊は、「今日の新時代は何も或人人が考へて居るやうに凡て百八十度方向転換と言ふ訳でなく、十何年前までに戻つて更にそれから再出発さへすれば、やがて健全な民主主義完成を将来に帰することができる」との想いで、新渡戸稲造から学んだ世界が戦後日本の原点になりうるとの決意の表明にほかなりません。戦後日本の建設は、戦前との断絶ではなく、新渡戸から学んだsocietyを問い質すなかで、確乎とした人間への目線を育てることが課題とみなされています。
 この想いは、戦後の1950年10月に著した「新公民道の提唱」で、「日本の政治は今までは上から治めるのであつて、下から公民が持ち寄つてお互いの生活を作り上げていくシヴィクスなる技術を知らなかった」からだとを説いたなかにもうかがえます。日本の政治を滅ぼしたもの、日本を破局に導いたのはcivicsという観念が乏しかったからだと。civicsなる提言は、民主主義を担うための「秩序形成能力」、それを支える「社会的価値判断能力」を身につけ、一人びとりの民衆が民主主義の主体的担い手となることへの期待にほかなりません。

天を仰ぎ神明と語り―公民道の根にある世界

公民道は単に人々を横の関係に結び付けるばかりでなく、若干、縦の関係に人の心を繋いで、天を仰ぎ神明と語り、胸奥深く秘むる内心の光に徹して、見ざるに畏るるの心義を拓くのでなければ、完全を期し難いのである。
かような公民道は、如何にして国民の心に植え付けられるであろうか。私は宗教を離れてその実現の不可能なことを念うのである。

 「縦の関係に人の心を繋」ぐという言説は、前田の師新渡戸稲造が『修養』(明治44年)において、「人間は縦の空気をも呼吸せよ」と説いた教えに学んだものです。それは、青年が志を立てるときに名利を求めるのではなく、「冷静に、私心を離れて公正に考へて貰ひたい」となし、この理想に達するために「人間以上のあるものがある。そのあるものと関係を結ぶことを考へれば、それで可いのである。此縦の関係を結び得た人にして、始めて根本的に自己の方針を定めることが出来る」と、新渡戸が説いた世界にほかなりません。ここに前田は、新渡戸に学び、垂直に天を仰ぎ見る、人間たる私を問い質すときに公民道という横のつながりがより深くなってくることに想いいたし、知らない者同士の連帯を生み育て、civicsの内面化が可能になることを確信したのです。
 いわば見えないものを畏敬する念こそは、1953年11月の「民主主義は先ず心から」において、「民主主義はその行動の形態に於て、共同の生活を、各人が共同して行うことである。共同生活の処理、即ち政治は各人の責任である」となし、己の在り方に目を向けさせたものにほかなりません。ここには、政治を担いうる公民となること、政治を主体的に担いうる存在、civicsへの強き期待が表明されています。まさに秩序形成能力を身につけた公民の育成こそが民主主義を根づかせるために欠かせません。
 その実現への道程は、1955年7月の「私の素朴な幻滅感」で、「民主的な意味で各人が手をつないで共同の生活を行政する姿」を「打ち建てなければならぬ」としているように、道遠き歩みです。それだけに前田は、共同生活を営むことができる、そういう政治に参加する姿勢を学び身につけるcivicsが要るのだと説き続け、その実現を終世の課題として苦闘しました。

前田多門の原点にあるもの

 そこには、「民主主義の根本思想というものは人格の尊厳にある。ということは人格、一人、一人の個性を尊重しなければならないということにある」と1961年10月の講演「政治と民主主義」で説いた世界、「その地域において住民が自分らの力で共同生活を作り上げていく」「われわれが共同生活体の責任者として共同生活体を盛り上げていく」ことを実現したいとの思いがあります。
 しかし知らぬ者同士の連帯だとか横のつながりだとかということを、いろんな形で説きながら、その連帯を為し得ない、異質なる他者を許せない己を知り、その弱き己の姿に前田は涙しています。弱き我を見つめることで、異質なる他者の存在を理解できたのです。この心をみる眼こそは、民衆の智慧に期待し、その可能性に賭けたのです。まさに民衆は、生きていく日常の生活で、神仏や何かに祈りをささげる、自然と向き合うなかで、自然を畏敬する念がその心にあることを、前田はそれなりに認めていたのではないでしょうか。そこには、人間の弱さに対する眼差し、弱さによせる共鳴とその弱さを共有し共に涙することによって、何かを模索していく姿があります。宗教を問い語るときに求められるのは、このような眼差しです。
 いわば公民教育、市民教育、「市民」が市民であり得ると言うことは、市民が横の連帯をしていくときに、「縦の関係に人の心を繋ぐ」ことで、はじめて連帯の実現が可能となります。強さの連帯ではなくて、弱さを相互に認め合い、相互の差異を確認し、町なら町をよりよくしていく方策を探っていく、その歩みを通して連帯を求めていくことが問われているのではないでしょうか。そのためには生きて在る私を見えざる眼で問い質していけるか否かが問われていましょう。このことがcivicsには宗教の裏付けが必要だと前田に言わせたのです。
 想うに日本の教育には、断片としての知識を授けますが、人間として生きるとは何かという根源的な問いかけをする原点がありません。まさに現在問われているのは、一個独立した主權者となるためにも、自分で考える、哲学することを身につけることです。私にいわせれば、私の考えていることを私の言葉で他者に伝え、私の世界を私の言葉で語れるようにすること、civicsを担う器となり得るか否かが問われているのだといえましょう。この根源的な問いこそは、社会の共同性を担い、より良き明日を可能とします。