民衆という存在

承前

 前田多門は、『公民の書』(1936年)において、市政、町村政を担う地方自治における民衆の権限につき、「範囲は小さく、力に限りがあるにしても」、「国政以上に充実」したものなのだと位置づけ、その民衆像に言及しています。

議会は貴衆両院で法律案を可決したからとて、すぐそれで法律としての国家意思は発生しない。必ず御裁可を俟つて効力が完成するのである。然るに地方自治の場合では、市会の議決、町村会の議決はその議決の瞬間にその自治体の意思として完全に成立する。その内には無論国家の監督上の許可認可を要するものがあらう。さやうな事項はそれぞれ許可認可がない内は実行は出来ぬものゝ(例へば起債)、然し地方自治体の意思そのものは、議決の瞬間に立派に成立したのであつて、敢て監督官庁の行為を俟つまでもない。範囲は小さく、力に限りがあるにしても、民衆的権限は国政以上に充実して居ると言へるのである。
(民衆は)一見迂愚軽躁と見えるかも知れない。然し長い眼で見れば、その判断はおのづから帰趨する所があつて、決して忽がせにはなし得ないものがある。アブラハム・リンカーンの言に「一部の人間を長い間欺くことは出来る、全部の者を短い間欺くことは到底出来ない」といふのがある。さすがは峻傑、うまい事を言つたものだと思ふ。民衆の判断はこれである。これを除外して正しい政治は出来ない。して見ると、民衆の一般の投票によつて選出される代議士が、常に民衆の声を代表して国政に参加する重要性がはつきりする。仮令世の中がどんなに変つても、この仕組みは決して変はるべきものではない

民衆によせる眼差し

 こうした民衆によせる眼差しは、「立憲政治か独裁政治か」(1935年)で「究極の監督者は民衆の声に帰す。知識は専門家に、然し智慧は民衆に属すべき理である」となし、テクノクラートとしての官僚の営みも、その智慧の部分は民衆の声に帰するとみなしていたのです。民衆の声に耳を傾けない政治はありえないと認識していました。
 いわば『一票の力』(1935年)は「どんな善政の姿を取つても、それが民衆の意思と連絡のない時は、長きに亘つて正しい政治は行はれるものではない」との確信にささえられた提言でした。この思いは、民衆が公民として、「自分達が協力して公共事業を作り上げれば、それは結局自分達のお互ひに享有する楽土が現出するのであつて、公共生活は重苦しい厄介なものではなく、各人が寄り合つて楽しい生活を共にするためのものであることを銘記すべきである」となし、「人は公民となって初めて人生の尊貴を味ふことができる」という信念によるものです。
 ここには、秩序形成能力を身につけた民衆の意思こそが地方自治体の運営を可能にするとの指摘にみられますように、現在主張されている地方分権論を先取りした主張が読みとれます。昨今の議論には、civicsの認識が欠落しているため、秩序形成能力が問われていることに眼がとどかず、市民たる者の責任と義務が稀薄ではないでしょうか。
 まさに『公民の書』は、縦の関係が強調される時代に対峙し、互いに横に手をつなぎ合う横の平等人同士の協力を覚醒することで、時代の閉塞感を打開していく公民の道を説き、民衆の秩序形成能力への期待を表明した作品といえましょう。

連帯協力への途

 ここで提示された横の平等人同士の連帯協力を可能とする公民という観念には、世界との連帯、今で言えば国際的な連携を問いかける発想が読みとれます。ここには第一次大戦後の1923(大正12)年から1926年までジュネーブの国際労働委員会における日本政府代表を務めた経験がうかがえます。ちなみに労働総同盟の鈴木文治が労働者代表として国際労働会議に出席できるように政府を動かしたのは前田の力が大です。
 前田は、「吾々が一日の生存を完うするためにも、それは吾々の周囲に聯なる、知れる、また知らざる、見える、また見えざる無数の人々と持ちつ持たれつして居るのである」となし、生産と消費の関係が生みだす「経済の理法」にささえられて社会は動いていること、当世風に言えば国際化に言及します。いわば自然的な関係に支えられた「隣保相佑」の秩序は、「経済の理法」と「社会の約束」に支配される共同体に変わり、公民にはその社会を形成していく力の担い手となることが期待される。その力は一国から世界へと及ぶものとみなされたのです。
 このような「世界の日本」になるためには、「国際正義の実現のため各人は協力を吝むべきではない。それはこの世に生を享けた吾々人類の、心懸くべき大きな公民道であると信ずる」となし、「国際平和の建設の為に」「国際正義と世界平和に対して、より多く建設的な貢献をなす心懸けを養」ねばなりません。まさにcivicsとしての公民道には、各地の人々と国際正義と言うことにおいて、いかに連帯を作っていけるか、そうした意味における世界平和への目線が託くされていました。
 いわば前田が提起した公民への期待は、上から押さえつける権力的関係性ではなく、下から公民が互いに協力し合って生活を作り上げていく、社会の秩序を形成していくという、横の連帯という概念で説かれたわけです。この思いこそは「国内のcivicsにとどまらず、国際間の平和もやはり同一の公民道精神によって支持されるべきだ」との問いかけにほかなりません。
 昭和十年代に提示された問いかけは現在まさに市民たる者に求められるものではないでしょうか。昨今声高に喧伝されている「市民自治」とか「世界市民」なる言説にみられる「市民」には、己の要求をのみ主張し、市民が負うべき責務、互いが同心協力し、自らの秩序を構築していくために求められることは何かを問い質す眼が欠落しているのではないでしょうか。それだけに前田が敗戦時にcivicsに言及した思いを現在まさに想起すべきです。

自治を担う器として

承前

 前田は、住民が自治を担うということ、政治の主体となるとはどういうことかを東京市助役時代の事例で具体的に説き明かします。

地方自治制といふものは政治の内でも極めて大切な地位を占むべきものと思ふが、まだ世間からさほど重視されて居らぬのである。その癖自治制の取扱ふ仕事は一番吾人の日常生活に縁の近いもの、一日荒廃され々ば身に迫つて困却を痛切に感ずるもの多い。
先般も東京市に電車の罷業(ストライキ)が起りかけたが、一日市内交通機関が止まれば、眼に見えて市民は困るのであり、塵芥や不浄物の掃除、水道の供給、下水の始末、瓦斯問題、道路、伝染病院、それよりも尚ほ大切な学校の施設といひ、それぞれ日常生活に直接関係することを取扱ふのが自治体の仕事であるが、米の飯は毎日食ふために左程美味いとも思はぬ如く、この吾人に最も近い政治に対して割合に世人は無関心である。

市政改善への眼

 前田は、東京市助役としての実務をふまえ、道路、橋梁の施設をはじめ、公園、下水の類から、さらに病院、学校、各種の社会事業、図書館、墓地の類は「行政的事業」として「施設」「経営」されるべきであり、電車・電灯・瓦斯・水道のような住民の生活に必需なものも「公企業」として「自治体」の経営に移したほうがよいと説きます。いわば、「自治体の特色は、支配権をもつて住民を威圧するにあらず、奉仕をもつて共同生活に後見するに在る」のであり、ここに「新しき、また広き意味における隣保相佑」が「完成」すると。
 自治体は住民の日常生活に奉仕するものであり、住民たる「吾々」が主体なのだとの認識です。お互い知らぬ他人は、このような協同して営んでいけるような形をとおして、自治の当事者としての連帯をなす公民となりうるのだと。
 「市政改善の一歩として予算決算等の積極的公開を望む」(1928年)は、市民こそが主人であるとして、市政を改善するために予算決算の積極的公開が望まれると提言しています。ここには、行政の執行権限が強い政治の在り方に対し、予算執行を公開し、東京市民が一人の市民として監視していくことができるシステムが要る。まさに前田には、市民こそが「真の主人」であり、市民の監視、了解、承認、協力後援があってこそ自治が実現できるとの強き信念がありました。

今日の市政に於いて、市会は市政の主人である。然し彼等が主人たる市民の委任あるが為の御蔭であつて、自分自身固有の力に依てでは無い。市民こそは真の主人である事言ふ迄もないのである。市民の監視、市民の了解、市民の承認、市民の協力後援、是が凡百の問題に働いて茲に初めて自治政府の成功がある。

政治に求められること

 ここでめざされた政治は、「人が善い道を歩み善い水を飲み善い教育を受けるために、サービスを尽くすことが、それが政治である。」(「地方議会と婦人」1931年)という世界でした。このような政治の実現には、civicsの担い手として、公民たる市民の責務が問われます。普通選挙における「一票の力」はその実現に向けた第一歩になるものにほかなりません。「一票の力」は「国民の公事に対する熱意関心」そのものが問われることです。そこには「どんな善政の姿を取つても、それが民衆の意思と連絡のない時は、長きに亘つて正しい政治は行はれるものではない」という確信がありました。

もっと大切なのは、国民が公事に対する熱意関心である。(略)「公事に対する関心」には、上下の関係の外に、横への繋りがあるのを忘れてはならない。それは国民として、市民として、お互ひの公共生活を共同処理しやうとする一面である。これが欠けるなら、市町村の自治などは全然成り立たなくなる。

 前田は、「上下の関係」がもたらす「公事」への「熱意関心」のみが強調されていた時代のなかで、「横への繋り」がもたらす社会性を問いかけ、お互いが共同生活を共同処理することの自覚をうながしたのです。昭和初頭から、公民の在り方が地方自治の要にあるとなし、普通選挙を実のあるものにするためにも、衆愚なる民衆が賢い統治の支配者になるためには、社会的価値判断力を身につけた秩序形成能力のある公民たるべく、civicsを身に付けなければならないと説き、そのための実践をしました。まさに政治は、垂直的な上下の関係で成り立つのではなく、横への連帯、社会的広がりで営まれるものにほかなりません。いわばここに提示された公民像は、臣民という概念とは異なるもので、横の目線、横の連帯を広げながら、新たに下から政治を変えていく、下から変えていくためには地方から変わらなければならないし、地方自治は公民が担うことで変えられるものだと説き聞かせたのです。

「地方自治」の実態

承前

 前田多門が「Civics」に託した思いは、文部大臣として初めて説いたものではなく、帝国大学を卒業して内務官僚となり、若き郡長の課題として公民の育成に心をつくした営みに表明されていました。それは、新渡戸校長が「機会ある毎に強調せられたのは、縦の関係の外に、横の関係の重視すべきこと、即ち、水平的に、各人が相寄り相携へて、善き社会を作らねばならぬ。日本人の教養にこれまで欠けて居り、こん後涵養の急務なるを感ずるのは、社会性(ソーシアリチイ)であり社会奉仕であると」(「道草の跡」『山荘静思』)、日毎に問い語っていた世界を全身で受けとめ、その実現を己が使命としたことによります。

「自治」とは何か

 前田は、若き牧民官として、普通選挙法が地についたものとなり、日本の政治を新しくすべく働きます。その思いは1930(昭和5)年の『地方自治の話』として刊行されています。この『地方自治の話』は、昨今声高に語られている地方分権論などを問い質す上でも、示唆豊かな視点を提示しています。
 その一端は「自治体の事務所」が「役場」と呼称されているなかに日本の地方自治の実態をみる眼に読みとれます。ヨーロッパでは、「自治体の事務所」をTown HallとかHotel de Villeと呼び、町や村の「公会堂とか建物」と見なされている。しかし日本では、「役場」と呼称していることに注意をうながします。この「役場」は、「国政の委任事務」を執行する所で、住民にとり「自分達の共通の事務所といふよりは、寧ろ国家の行政庁たる町村庁の役場に、国家的権力服従の関係において出頭する」場です。それだけに前田は、このような上下の権力関係に位置づけられている「自治」のありかたを問い質し、住民の意識を変え、住民が自治の主体となることをめざし、あるべき「地方自治」とは何かを問いかけます。この意識の変革は、いまだに都道府県「庁」であり、区市「役所」、町村「役場」と呼称されているように、至難の事業ですが。

自治は読んで字の如く自ら治める謂であるが、それはただ自分のことは自分がする、人に迷惑をかけぬ、或は人に依頼をせぬといふ事だけではない。それでは意味を尽くさぬのである。(略)人は孤立して存在することは出来ない。生活には必ず社会といふ背景を必要とする。故に自分が自分を治めることは無論として、その自分の聯なつて居る社会、自分も一員である共同生活に対して之を治める、即ち共同の事情を処理して行く責任を負ふ、かういふ意味が必ず地方自治のうちに含まれて居ねばならないのである。(略)故に団体生活の公共事務といふことを離れて自治は到底成立しないのであつて、ただ自助とか、自由とかいふのとは意味が違ふのである。

共同生活の軌範

 ここで説かれた自治の原点は、明治維新によって国民国家が建設されていくなかで、自然村から行政村になったことをふまえて提示されたものです。

昔から伝統の自治は向ふ三軒両隣が自治である。(略)この連帯責任から発達した部落の自治は、既に明治維新の新政に、將た更に明治二十二年の町村制実施の際に、破壊せられたといふて宜ろしいのである。(略)故に自治観念としてのいはゆる「隣保相佑」は今日においては、現実端的に知り合つて居る同志の団結といふ意味ではなくして、たとへそれが「知らぬ他人」であつても、一定地域内に社会生活を営むで居る必然の関係上、互に相寄り相助けねば、暮らして行けぬ連帯生活、昔のやうに領主の刑罰連帯の笞が団結を余儀なくさせた代りに、経済の理法、社会の約束が、団結か然らずんば破滅といふ運命を示すために余儀なくさる々連帯生活になつたのである。

 知り合った同士がお互いに相佑け合うという関係で成り立っていた隣保相佑は、1889(明治22)年の町村制実施によって自然村が行政村に移行していくなかで破壊されたがため、知らぬ他人が連帯するにはどういうことを考えれば良いのかを問い、「経済の理法、社会の約束」が自治をささえるのだという発想です。前田は、刑罰の鞭による団結ではなくて、「社会の約束」で知らぬ他人がお互いに連帯していけるような共同生活の場をつくっていくことの意味性を説きます。いわば「隣保相佑」を「社会の約束」という概念で転換させ、「経済の理法」が必然的に求めるものともみなし、新しい社会の在り方を地方自治に求めました。自治体の営みは、日常生活に直接関係しており、最も身近な政治と認識しておりました。その荒廃は日常生活そのものを破壊します。その解決には、かってのように情緒的な「隣保相佑」に依存して暮らすのではなく、一人ひとりが政治に直接参与していくことで、己の責任で世界をきずいていくことが問われているのです。

新渡戸稲造から学んだ世界

新渡戸稲造の遺産 ― societyへの眼

新渡戸稲造<国立国会図書館ホームページより転載>

 前田がcivicsを強調したのは、第一高等学校において、選ばれた者たるものが身につけるべき義務として、ソサエティーsocietyが必要なことを新渡戸稲造校長から学んだことによります。新渡戸から若き日に学んだ世界こそは、前田のみならず、当時の一高生の生涯を決定づけます。前田はその立志の原点を次のように問い語っています。

新渡戸先生が、当時一高校長としてのみならず、それこそ、当代随一の社会教育家として、機会ある毎に強調せられたのは、縦の関係の外に、横の関係の重視すべきこと、即ち、水平的に、各人が相寄り相携へて、善き社会を作らねばならぬ。日本人の教養にこれまで欠けて居り、こん後涵養の急務なるを感ずるのは、社会性(ソーシアリチイ)であり社会奉仕であるといふ点であった。(「道草の跡」)

 想うに日本の戦後改革は、教育改革をはじめ宮中改革等において、大きな役割を果たした人脈をみると、第一高等学校で新渡戸校長に出会い、新渡戸の導きで内村鑑三から聖書を学び、心の眼を開かれた人々が多くを担っています。
 これらの人びとは、日露戦争の勝利がもたらした強いナショナリズムの風潮を受けながらも、ある開かれたナショナリズムを身につけていました。そのナショナリズムこそは、敗戦に打ちひしがれた国民に向け、文部大臣前田多門が1945年9月2日の降伏文書調印を受けとめた「青年学徒に告ぐ」の全国放送に読みとれます。この問いかけには、日本がなぜこんな敗戦を迎えるような国家になってしまったのか、そこには人間というものを見る目の弱さがあったことへの自責と反省がこめられています。

敗戦日本に向き合い

 前田は、新生日本を担う青年に、「日本の往く道はただ一つ。武力を持たぬかはりに、文化で行く、教養で行く、ほんとうの道義日本として、世界の進運に寄与する」道をいかに歩むかと問いかけ、「若し今後、外に、武力を背景に吾等に無理押しをしようとする国があった場合、わが平和的な態度に、それらのものが、おのづから愧ぢざるを得ないといふやうになり度いもの」として、「哲学を欠いてゐる」日本人の弱さを指摘し、「皮相の米英追随主義に早変りするといふ如き軽薄なることでは、到底、立派な国民にはなれない」と日本人の姿を問い質し、「どうか、心の奥で、物を考へるやうにあり度い」と、己の頭で哲学する日本人でありたいと、語りかけています。

 いくら戦ひに負けても、捨てゝならないのは、自尊心であります。自ら信じて正しとするところに就いては、所謂威武も屈する能はざる底の毅然たる態度が、常になくてはなりません。従来、わが国に、個性の尊重といふ観念が足らず、この毅然たる態度が民衆になかったことが、軍国主義跋扈の大原因であったのであります。自己の人格を尊重するものは、同時に、他の人格を尊重せざるを得ないのであります。(略)
これからの国民は、一層、国際的常識を養はねばならぬ。国際の信義を重んぜねばならぬ。得意の日に於て、わが力を恃んで他を凌ぐのが悪いと同様に、負けたからといって、卑屈な無気力な態度を執るべきではない。吾々は、断じて、亡国の民となってはならぬ。
 科学は重んぜられねばならぬ。しかし、それは、目先きの功利的打算からではなく、悠遠の真理探究に根ざす純正な科学的思考力や、科学的常識の涵養を基盤とするものでなければならぬ。換言すれば、高い人間教養の一部分として、科学の分野を認めたい。また、自然科学も大切であるが、同時に、世界現在の悩みとして、人文科学の進歩が、自然科学の歩みに遅れて、跛行状態を呈してゐる点に於いても、学徒の向学心を喚起し度い。更に進んで言へば、君子は器ならずといふことがあるが、明治以来の教育の弊風は、その反対に、人間を、ただ物の役に立つ器にのみ教育して、却って、明治の初年迄は存して居た精神教育の根源を没却したのであり、この弊害を是正せねばならない。
 近来、日本精神の呼び声は高った。しかし、それが、余りに政治的に取扱はれ過ぎて、内容が、案外空虚であり、真に、心から溢れ出づる精神の躍動でなかったことが、今日の破綻を招く原因でなかったかに就いても、深い反省が行はれねばならぬ。宗教の自由確保と共に、敢へて一宗一派に偏せよとは言はぬが、眼に見えざるものを畏れ、謙虚な気持ちを以て、衷心より、已むに已まれず、大いなるものに憧れ、高きを仰ぐといったやうな宗教的情操は、大いに養はれねばならぬ。今回、戦争末期に現れた種々の道義頽廃の事実、戦争終結の際にまで持ち越された、忌むべき利己主義、我利々々主義の噂の高い昨今、学徒諸君の心に、何か深いもの、高いものを持って貰ふことに、熱心な要望が向けられる。(「青年学徒に告ぐ」)

 この呼びかけは、敗戦にうちひしがれていた同時代人の心を激しく打ち打ち、「新しい黎明期の曙光に接した感激」をあたえました。まさに前田は、教育の本質が自分でものを考える力そのものを養うことにあるとの思いで、戦後の文教行政を担おうとし、civicsを根づかせようとしたのです。この「青年学徒に告ぐ」は、敗戦の秋に発せられたメッセージであるのみならず、現在への問いかけとしても通じるものです。
 現在まさに問われているのは、「伝統」を言挙げして日本精神とか文化への信奉を喧伝する声に唱和することではなく、「心の奥で、物を考へる」こと、哲学することであり、「眼に見えざるもの」「大いなるもの」を畏敬する心を身につけることではないでしょうか。昨今強調される「宗教的情操」の涵養は、宗教の歴史や教理を解説することではなく、この畏敬する心、見えざるものへの眼に気づかせ、人間である己の小ささに思いをいたすかではないでしょうか。

前田多門の眼

「主權者教育」に問われること

 思うに日本の教育は、明治以来というもの、国家の枠組に合わせて人間を精巧な部品として造形すべく営まれ、問い学ぶのではなく、教育という名の命令でした。そこでは、哲学すること、己の頭で考えたことを己の言葉で他者に問い語る作法を身につけることが否定されていました。
 戦後教育の理念を表明した教育基本法は、このような教育の在り方を克服すべく、人格の育成を課題となし、一人ひとりが哲学することを学ぶ教育への道を用意しました。しかし教育基本法の改定が議論されたとき、社会や国家を無視する個人主義の増長をうながしたものとして批判され、占領を引きずる戦後教育の否定を大義とする言説が声高に説かれました。そこでは、改定の賛成・反対派ともに、教育基本法が問いかけようとした原点をみつめ、現在の教育を問い質す議論がなされませんでした。
 社会の協同性が崩壊し、家族のまとまりすら喪失し、児童虐待や育児放棄が日常化していく状況の根源が問い質されることなく、戦後教育の負のみが論難されております。人間が人間であるとは何かに思いいたすことなく、「心の教育」なるものが過剰に期待され、「宗教的情操」の涵養がことさらに説かれております。「宗教的情操」なる言説で「心の教育」の必要性が喧伝されていますが、それは宗教の教祖の言説、教団の教理を知識として知ることなのでしょうか。このような現在の教育の在りかたを確りとみつめ、私の場を確保することが何よりも求められているのではないでしょうか。
 それだけに選挙権が18歳に引き下げられた現在、「主權者」が主權者であるためには何が問われているのでしょうか。この問いに向き合うことなく一個の政治的主体たる我を確立できないのではないでしょうか。

敗戦日本を受けとめて

 戦後日本の教育は、日本の敗戦は何かを問うなかで、あるべき道をめざそうとしました。その営みこそは、敗戦を人間としての日本人の敗北という痛覚を場に、一個独立した人間としての人間意識、人格の育成をめざそうとの思いです。終戦直後の8月18日に文部大臣に任命された前田多門は、東久邇ついで幣原内閣の文部大臣として、敗戦日本を再建すべく教育改革を担いますが、公職追放によって在任わずか5ヶ月で文部省を去りました。文相としての前田は、新生日本の教育が問われる課題をシビックス―civicsの確立、公共生活への日本人の開眼に求め、この精神を樹立するのが教育の要務と考えていました。この想いは、「再び、われわれは天皇を神にしてはならない、という祈りをこめて」、天皇の「人間宣言」を起草した時に前田の念頭にあったもので、「起草当時、私の頭に去来した思想はやはりこの公共生活への日本人の開眼ということであった」となし、後に「新公民道の提唱」(『ニューエイジ』 1951年1月)で次のように回想しています。

私が文部大臣の職にあったとき、初めて進駐軍が来て教育係の軍人が私の許に見えた。先方の第一の質問が日本の教育科目でいったい何が一番欠けているかということだ。それに対して私はCIVICSにあると答えた。シヴィックスという英語に関しては適当な日本語もないのであるが、まず公民科とか公民道というべきものであろう。この教育が欠けているから、たやすく全体主義、軍国主義に引きずり廻されたのであると答えた。私は今でも確かにそう信じている。日本の政治は今までは上から治めるのであって、下から公民が持ち寄って互いの生活を作り上げていくシヴィックスなる技術を知らなかった。

civicsへの眼

 civicsというのは、the study of rights and duties of citizenship、市民の義務と権利を学ぶことで、外部から operation and oversight government 政府に対する働きかけと監視をきちんとすることでもあります。前田は、それを「公民科」「公民道」と位置づけ、「その地域において住民が自分らの力で共同生活を作り上げていくというような意味」「われわれが共同生活体の責任者として共同生活体を盛り上げていくのだ」と位置づけ、「断片的にいろいろな公けの事柄について知識を与えるというだけの、断片的な知識を与えるという」「公民科」「社会科」ではないと断言します。それは市民教育、市民の哲学を身につける教育にほかなりません。
 日本の教育では、公民教育・公民道がなされてこなかったとの指摘、現在風にいえば市民精神の涵養に関わる教育が公教育に欠落していたということです。ここには、「民主主義はその行動の形態に於て、共同の生活を、各人が共同して行うことである。共同生活の処理、即ち政治は各人の責任である」(「わたしのそぼくな幻滅感」1955年)となし、政治は「共同生活」の処理であるがゆえに、各人が責任をもち、「共同して行う」一個独立した人間への期待がありました。いわばcivicsには、より良き「共同生活」担うにたる価値判断能力にささえられた秩序形成の主体となることが託されていたのです。このcivicsの欠落こそは一個独立の人間としての人間意識の弱さをもたらしました。「主權者教育」に問われているのはまさにこのcivicsをいかに確立するかではないでしょうか。

 

参考文献

  • 大濱『歴史の読み方、学び方』(北海道教育大学釧路校社会科教育第1研究室 2011年)

国家に強要された死とどのように向き合いますか

戦跡への鎮魂慰霊の様式

 天皇明仁・皇后美智子による慰霊の旅、行幸啓は、日本人戦没者に向けられたもので、「大東亜戦争」の戦没将兵、現地で亡くなった日本人への追悼であり、慰霊鎮魂です。そこでは、日本軍の犠牲となった現地住民、戦争の犠牲者を慰霊することはありません。今回のフィリピンであれば、1945年米軍の進攻を前にした日本軍がマニラで10万人を殺したといわれる「マニラ大虐殺」の記念碑“MEMORARE MANILA―1945”(google Map)ico_linkを訪問、「日本国天皇」として献花し、頭を下げ、謝罪と哀悼の意を表することはプログラムにありませんでした。
 東南アジアには、このような「虐殺」記念碑として、シンガポールの「華人大検証」なる名目による「華人掃討令」で5万人ともいわれる華人、中国系の住民が「虐殺」されたとの悼み、「血債の塔」が建立されています。戦後の日本は、このような日本の戦争がもたらした各地の「惨劇」をどれだけ直視してきたでしょうか。ここには慰霊鎮魂の旅がもつ偏頗な構造がうかがえましょう。
 いわば天皇皇后による慰霊の旅は、国民に刻みこまれている国家が強要した死の痛みを慰霊することで、国家の責任を無化しようとの想いが託されているのではないでしょうか。ここには、日本軍が他国民に強要した死の重さを思い見る眼がありません。たしかに天皇明仁には、ハワイ訪問の際に真珠湾奇襲で撃沈され、乗員1,177名のうち1,102名が戦死した戦艦アリゾナがアリゾナ記念館“USS Arizong Memorial”というオアフ島にある戦没者の記念館を訪れ、献花をする意向があったようですが、内閣の意向で中止されたとのこと。
 日本は、海外における戦死者追悼行事において、日本人の鎮魂慰霊に心よせますものの、現地の戦争犠牲者に眼を寄せていきませんでした。現地の人びととともに追悼行事を営み、「平和」を祈念したのは立正佼成会の「青年の船」が初めてではないでしょうか。ここには、「大東亜戦争」アジア太平洋の戦争に向き合う日本国民の閉ざされた眼があるのではないでしょうか。この眼こそは、「平和国家」日本を喧伝し、アジア諸国に多大な資金援助をするものの、どこか白眼視さている要因といえましょう。
 行幸啓はこのような構造で営まれてきたものです。惟うに今回のフィリピン訪問で「マニラ大虐殺」の記念碑“MEMORARE MANILA―1945”に明仁・美智子が献花し、額ずくならば日本に向ける眼が大きく開かれることでしょう。しかし、このような作法は期待できないのが現実です。「国民の天皇」とは、あくまで内向きで、閉ざされた国民の眼に寄りそうものでしかないのです。

「死」を意味付ける器とは

 この閉ざされた眼は、国家に求められた死をして、いかに一国民として受けとめたかということにかかわることです。このことは、日本が近代国家をどのようなものとして形成したかということにほかなりません。
 日本が国民国家を造形する上での課題を、プロイセンの国法学者グナイストは伏見宮貞愛(ふしみのみたさだなる)親王に1885年の講義でつぎのように説いています。国家をひとつに結付けるには、人心を一致協力させる精神の器がいる。そのためには、「人々互ニ相愛シ相保ツノ道ヲ教ヘ以テ人心ヲ一致結合」に導く「宗教」が必要である。「宗教」こそは、「自由ノ人民ニ其ノ善ク適当とすべきものを可成丈ケ保護シ、民心ヲ誘導シ、寺院ヲ起シ、神戒ヲ説教シ、深ク宗旨ヲ人心ニ入ラシムルニ非レバ、真ニ鞏固ナル国を成ス」もので、「兵ノ死ヲ顧ミズシテ国ノ為メニ身ヲ犠牲ニ供スルモ亦只此義ニ外ナラ」ないものなのだと。
 このような教示を受けとめた伊藤博文は、日本には宗教なるものの力が微弱であるとして、「我國にあって機軸とすべきは独り皇室あるのみ」と判断しました。かくて国民を一つにまとめる神の不在こそは、記紀神話に描かれている天皇を潤色して「神の裔」とみなす「大きな物語」を造型し、神格化していくことで国民の心に天皇崇拝を鋳造していくこととなります。この造形は、大日本帝国憲法が第1条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」、第3条「天皇は神聖にして侵すへからす」、第4条「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依りて之を行ふ」と規定し、権力の行使を公的に天皇が保障するシステムとしての日本型君主制、後の1930年代に登場してくる「天皇制」なる言説で説き語られる世界となります。
 ここに天皇は、幕末維新期に来日した外国人の眼に「精神上の皇帝」「教皇」と写っていた存在から、国家権力の要となり、福沢諭吉にいわせれば皇室は政治権力の外に立つことで仲保者となり、「万機を統るもの」で、「人心収攬の中心」たる使命を担う存在となっていきます。

死者と伴走する天皇

 国家は、戦争において、天皇の名で国民に死を強要します。天皇は、己が強要した死に向き合い、「戦死者」の死を抱え込むことで、「死」を意味付けます。その国民的磁場が靖国神社です。かつ死に伴走する天皇の営みは私的な生活空間である吹上御苑に建設された御府に読みとることが出来ましょう。天皇は、靖国神社に詣でる「御親拝」で「靖国の神」となった死者を慰霊し、鎮魂の祈りをささげます。
 この営みは、1945年の敗戦占領下で中断、1956年の対日平和条約後52年7月に明治神宮に参拝し、「敗戦」の責を謝罪し、10月の靖国神社に参拝となります。しかし1978年東条英機ら「A級戦犯」14名が合祀されて以後、天皇は靖国神社を訪れていません。
 このことは、明仁天皇・美智子皇后をして、高齢をもかえりみず、海外の戦跡に足を向けさせ、慰霊と鎮魂をなさしめるのだといえましょう。このような作法は、日本国民の眼に天皇の御稜威を感じさせましょうが、無残な死を負わされた者の救済、鎮魂になるのでしょうか。
 死は、一己固有のものであり、何人も容喙できるものではありません。この原点こそは、記念碑等に国家が密閉した死者を解き放ち、国家に対峙する己の場を持つことを可能にするのではないでしょうか。日本の近代国家が密閉した世界に潜む闇を問い質し作業として、天皇が営む慰藉、慰霊、鎮魂等の作法を考えたいものです。

 

※御府は、戦死将兵の名簿、遺品、戦利品を納めるために皇居吹上御苑内に建設された振天府(日清戦争)、懐遠府(北清事変)、建安府(日露戦争)、淳明府(西伯利出兵)、顕忠府(済南・満洲・上海事変)のこと。

参考文献

  • 大濱『天皇と日本の近代』(同成社 2010)
  • 大濱『天皇の軍隊』(講談社学術文庫 2015年)

「国民の天皇」になるということ

慰霊鎮魂の旅とは

 天皇明仁と皇后美智子は、今年2016年1月26日から30日にかけてフィリピンを訪問、27日に国立英雄墓地で供花し、フィリッピン側の戦没者を慰霊、29日にマニラの南約70キロのラグナ州にある日本が建立した「比島戦没者の碑」に供花、戦没者の遺族代表と懇談されるそうです。この旅は、沖縄、硫黄島、サイパン、ペリリュー島等の戦地訪問につらなるもので、戦後70年を前にした2014年に沖縄・長崎・広島を、2015年という70年の年には太平洋の激戦地であったパラオに、その後関東大震災・東京大空襲の遺骨を納める東京都慰霊堂、観音崎の戦没・殉難船員追悼式に出席、パラオから引き揚げてきた入植者が開拓した山形県蔵王の北原尾地区を訪問しています。
 この戦後入植者への眼は、満洲移民が引揚げ後に入植した栃木県那須の千振開拓地、長野県軽井沢の大日向開拓地への訪問としてすでに実施されてきたことです。パラオ慰霊に重ねての「日本のパラオ」と喧伝された北原尾訪問という演出の見事さに脱帽するのみです。
 現天皇は、とくに「先の大戦」と呼称される「大東亜戦争」、アジア太平洋戦争における激戦地への慰霊に皇后ともども強くこだわってきました。この想いは、沖縄戦終結の6月23日「沖縄県の慰霊の日」、広島に原爆が投下された8月6日、長崎に原爆が投下された8月9日、降伏「終戦」を告げた8月15日の四つを大切な「祈りの日」となし、皇太子らにその日に何処にいようと祈りを捧げるように教えたなかにも読みとれます。
 2014年の沖縄、長崎、広島訪問は、2015年が戦後70年で戦後政治の「争点」として日本の戦争が問い質される渦を避け、かつ政治の争点となっている普天間基地の辺野古移設問題にとりこまれないための政治的配慮であったとも言えましょう。このように行幸啓という営みは、時代の政治的争点に配慮しながら、時代によせる天皇の想いを吐露したものと言えましょう。

水俣の地で

 このような行幸啓に2013年10月27日の熊本県水俣訪問があります。この訪問は、熊本県での「全国豊かな海づくり大会」に出席した際、明仁・美智子が強く希望したものです。二人は、水俣病患者を見舞い、水俣病資料館で患者の声に耳傾け、慰霊、慰藉することに時間をさきました。その日の思いは翌2014年の歌会始に読まれています。

慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり

 水銀汚染の海を埋め立てた親水公園に建立された「水俣病慰霊の碑」には、この歌とともに、訪問での感慨を詠った「あまたなる人の患ひのもととなりし海にむかひて魚放ちけり」が大きく書かれ、「患ひの元知れずして病みをりしひとらの苦しみいかばかりなりし」との3首が刻まれています。
 この天皇の歌には、水俣病によって亡くなった人々、いまだ苦しむ人びとによせる天皇の想い、鎮魂の念が託されているのではないでしょうか。さらに2015年には、富山県での「全国豊かな海づくり大会」に行幸啓した際、イタイタイ病資料館に立寄り、「どういふことでこの病が発生したのか」「どうしてすぐにはわからなかったのだらうか」(河相周夫侍従長談)等と天皇が問われた由。ここには、日本の高度成長が産み出した公害病の被害者に寄りそうことで、己の存在の場を示そうとする姿がうかがえます。
 近くは、東北大震災、関東東北豪雨等による被災地をいち早く訪れ、見舞います。そこでは、「天皇」という上からの目線ではなく、被害者の目線に近づいて、言葉を交わす姿がみられます。この様子は、TVで広く報じられることで、国民の眼にふれ、天皇の「恩愛」と「仁慈」を広く国民の心に刻みこまれ、「国民」によりそう天皇像を増幅させ、「国民の天皇」という言説を広く流布していくこととなります。

「配電盤」のごとき営み

 このような天皇の在り方―皇室像は、日本国憲法第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定された天皇像を具現したものとみなされましょう。しかし、この営みは、日本国憲法によって創出されたものであるというより、明治維新で誕生してきた「天皇の国」像の底部に流れていた君主像のひとつでもあったのです。
 福沢諭吉は、1882年(明治15)に「帝室論」を著わし、天皇の立位置が果すべき役割につき、「帝室は政治社外のもの」「帝室は万機を統るものなり、万機に当るものに非ず」として、「帝室は人心収攬の中心と為りて国民政治論の軋轢を緩和し、陸海軍人の精神を制して其向ふ所を知らしめ其向ふ所を知らしめ、孝子節婦有功の者を賞して全国の徳風を篤くし」、と述べています。ここに提示された世界こそは、現在にいたるまで、天皇が担わねばならない天皇像なのです。
 現天皇明仁は、皇太子時代に「東宮御所教育常時参与」小泉信三から「帝王教育」を受けました。小泉は、父信吉亡き後、幼少期を福沢諭吉の下で一時育てられました。それだけに小泉には、皇太子教育において、諭吉の「帝室論」を範とすべきもとみなしたのです。まさに「象徴天皇」という在り方は、何も戦後に突然あらわれたのではなく、明治以来の「帝室」の課題を引継ぎ、天皇が時代に同伴するなかで、その時々に表す相貌にほかなりません。現天皇の営みは、鎮魂・慰霊・慰藉という語りかけを表出することで、最も表情豊かに己を提示しているのではないでしょうか。ここには、天皇という存在が時代に合わせた働きによって、あたかも配電盤のごとく、時代状況を体現して歩んでいく姿がうかがえます。「天皇制」なる言説で語られる世界は、このような時代像に重ねて、読み解かねばならないのではないでしょうか。

 

参考文献

  • 伊藤 晃『「国民の天皇」論の系譜』社会評論社 2015年
  • 高山文彦『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子』講談社 2015年

母の悲愁

 日本の流行歌には、「九段の母」「岸壁の母」をはじめとし、失った子を慕う母の思いを歌ったものが多くあります。「九段の母」は、上野駅からとぼとぼと、靖国神社に祀られている我が子を訪う母の心をうたっております。「上野駅から」という歌いだしにはリアリティーがあります。日露戦争における旅順攻略で最も多くの戦死者を出したのは、「日本軍人の南無阿弥陀仏は万歳なり」といわれたように、本願寺門徒の兵隊からなる北陸金沢の第9師団でした。日本軍隊で過酷な軍務に堪え、戦場で勇戦した兵隊の供給地は北陸、東北出身者の部隊でした。
 上野駅は、東京駅に対し東京の「裏玄関」といわれてきましたように、北陸、東北からの列車の到着駅でした。亡き子を尋ねる母は上野駅から靖国の社に「とぼとぼ」と歩んだのです。ここには日本の母の原像が読みとれます。その姿は、戦後になると、舞鶴港に入港する引き上げ船に我が子をさがす母をうたった「岸壁の母」にひきつがれていきます。この「岸壁の母」像は、東京都大田区に実在した者で、現在舞鶴港にそのモニュメントが建立されています。日本における母と子の関係はこのようにうたい語られてきた世界にあるのではないでしょうか。

小学校の教科書にみる母像

 国定教科書は、第1期(1903年)の高等小学読本1に「感心な母」として登場し、第2期(1909年)尋常小学読本巻9で「水兵の母」となり第5期(1941年)まで載せられた世界にみられますように、「一命を捨てて、君の御恩に報ゆる」ことを説き聞かせております。この物語は、日清戦争で黄海海戦に臨んだ高千穂の分隊長小笠原長生(おがさわらながなり 1867-1958)の『海戦日録』(1885年)に描かれた一兵士をめぐる母と子の姿を素材にしたものです。このような兵士と母をめぐる物語は、日露戦争に出征する息子の船を見送る母の姿を問い語った第3期の「一太郎やあい」にもみることができます。この「一太郎やあい」は、主人公岡田梶太郎のことが「新学期の小学読本に美談『一太郎やあい』。出征の倅の船を見送って防波堤に叫んだ老母の真ごころ。物語の主人公は生存」「今は廃兵の勇士が悲惨な生活」との記事が大阪朝日新聞高松支局のスクープとして報じられたがために、第4期では削除されました。
 教科書は、「命をすてて天皇に報いる」「天子様のために奉公する」物語を語りかけることで、国民であるまえに良き臣民として生きることを幼き児童の身体に刻みこんだのです。このような母と子をめぐる物語がたどりついた姿は第4期の「姿なき入城」に読みとれます。この物語は、大東亜戦争でビルマ(現ミャンマー)の首都ラングーン爆撃で戦死した「我が子」に語りかける挽歌にほかなりません。

いとし子よ、ラングーン第一回の爆撃に、(略)機は、たちまちほのほを吐き、翼は、空中分解をはじめぬ。汝、につこりとして天蓋を押し開き、仁王立ちとなつて僚機に別れを告げ、「天皇陛下万歳」を奉唱、若き血潮に、大空の積乱雲をいろどりぬ。それより七十六日、汝は、母の心に生きて、今日の入城を待てり。今し、母は斎壇をしつらへ、日の丸の小旗二もとをかかげつ。一もとは、すでになき汝の部隊長機へ、一もとは、汝の愛機へ。いざ、親鷲を先頭に、続け、若鷲。ラングーンに花と散りにし汝に、見せばやと思ふ今日の御旗ぞ。いとし子よ、汝、ますらをなれば、大君の御楯と起ちて、たくましく、ををしく生きぬ。いざ、今日よりは母のふところに帰りて、安らかに眠れ、幼かりし時わが乳房にすがりて、すやすやと眠りしごとく。

「お母さん」という叫び

 日本の母は、「さらば行くか、やよ待て我が子。老いたる母の願いは一つ。軍(いくさ)に行かば、からだをいとへ、弾丸(たま)に死すとも、病に死すな」(「出征兵士」)と戦場に送りだし、戦死した「我が子」を「今日よりは母のふところに帰りて、安らかに眠れ、幼かりし時わが乳房にすがりて、すやすやと眠りしごとく」と抱かねばならなかったのです。母が己の子を取り戻せたのは、死んだとき、骸となった「我が子」でしかなかった。ここに日本の母がかかえこんだ深い闇、悲愁があるのではないでしょうか。
 その「我が子」は、母の面影を抱くことで、戦場で生きられたのです。支那事変で1937年8月22日に戦死した陸軍歩兵中尉立山英夫の地染めの軍服には、母親の写真の裏に認めた母に呼びかけた「長詩」がありました。

若し子の遠く行くあらば、帰りてその面見る迄は、出でても入りても子を憶ひ、寝ても覚めても子を念ず、己生あるその中は、子の身に代わらんこと思ひ、己れ死に行くその後は、子の身を守らんこと願ふ、あゝ有難き母の恩、子は如何にして酬ゆべき、あはれ地上に数知らぬ、衆生の中に唯一人、母とかしづき母と呼ぶ、貴きえにし付し拝む、母死に給ふそのきはに、泣きて念ずる声あらば、生きませるとき慰めの、言葉交はして微笑めよ、母息絶ゆるそのきはに、泣きておろがむ手のあらば、生きませるとき肩にあて、誠心こめてもみまつれ

と問い語り、「お母さん、お母さん」と24回も繰り返し呼びかけています。
 このような母に寄せる思念は、戦場の広くみられたもので、『銀の匙』で評価の高い中勘助は、支那事変の戦場体験を詩った『大戦の詩』(1938年)に「百人斬りけふとげぬれどあすはまた撫で斬りせんと剣をとぎをり」と詠み、

白水村の戦ひに、敵前に擱座して燃えあがる戦車、車外に右手を傷ついて殪れた兵士、左手で書いた遺言、「天皇陛下万歳、豊田隆、隆は今から死にます、お母さん御機嫌」

 日本の母は、流行歌に唄いつがれていますように、「瞼の母」でしかなかったのです。このような想いこそは、立山の母によせる想いに寄せ、上官の大江一二三大佐が「靖国の宮にみたまは鎮もるもをりをりかへれ母の夢路に」と詠んだ世界となります。それは「靖国の歌」となりますが、母の悲愁は靖国という回路に封じ込められたのです。

水兵、姿なき入城(第5期)※クリックすると拡大します

戦場はどのような世界であったろうか

承前

 日本の兵隊は、前回紹介した窪田や片柳にみられますように、戦場での見聞を従軍日記等々として遺しています。このことは、欧米などにみられないことで、日本軍将兵の大きな特徴です。米軍は、太平洋の戦場に放置されていた戦死した日本軍将兵の持ち物から軍隊手牒や日記等々を収集し、その諸記録を読み解くことで日本軍の攻撃に対処し、作戦を立てたのです。一方、米軍は将兵に日記等の記録を遺すことを禁じていた。かつ欧米の兵士は、日本の兵隊とくらべ、識字力が劣っていました。
 日本の兵隊は、義務教育で識字力を身につけ、軍隊に入ることで手紙や日記等々を書く作法を習得しております。民衆は、当初徴兵を嫌悪し、忌避しておりました。しかし軍隊は、日清日露戦争の勝利により、時代と共にその存在が高くなるなかで、小学校を卒業し、村で百姓として生きねばならない青年にとり、過酷な軍務があるものの、3食コメの飯が食える場所で世間知を学べる官費の「人生道場」「国民の学校」とみなされていきます。
 かくて日本の社会は、20歳で徴兵され、現役兵として軍隊生活を終えることで、はじめて一人前の大人と認知することとなったのです。小学校を修了した若者は、兵営生活をとおして、生活の異なる多様な人間に出会い、話し方から読み書きのみならず、軍服や軍靴に代表される「文明」に象徴される生活作法を身体に刻みこまれ、「社会人」として育成されていきます。ここに日本人がいまだ身につけている集団行動の原点があります。
 戦場に行くことは、このような青年にとり、故郷を離れて「官費」で海外旅行をするという気分でもあったのです。そのため戦場の兵士は、はじめての異郷異国との出会が新鮮な体験だけに、その見聞を克明に認めております。その記録は、酷薄なまでに、戦場に生きねばならない兵士の相貌をつたえてくれます。そこで、日露戦争における203高地の惨状を記録した第1師団軍医部長鶴田禎次郎の検屍報告とロシア革命に干渉するためにシベリアに派兵された大正7年に小倉第14連隊の兵士松雄勝造(1896年生)の日記を紹介します。

医学者の眼―鶴田禎次郎『日露戦役従軍日記』の世界

 鶴田禎次郎(1865-1934)は、第1師団軍医部長として乃木希典の第3軍に属し、旅順攻略戦に従事、軍医として戦場における将兵の相貌を克明に認めています。戦場では、兵士の自傷、精神異常、戦闘中に「將校中不進の兵卒を2,3名惨殺したる後敵塁に躍入戦死したるもの」が語られ、「我連隊、我大隊、我中隊は殆んど全滅せりとの語を聴くこと何ぞ頻々たる」(明治37年12月6日)状況が日常下していく203高地攻防戦でした。占領後に屍体収容がはじまりますが、その「惨状目も当られず」として、

1)全身の大部黒焼したるものあり、2)衣服焼儘赤裸々のものあり、3)頭部の全くなきものあり、4)腹部、胸部に土砂充満し恰も47mm砲弾にて毀傷したる土嚢に彷彿たるものあり、5)何部の肉とも分らず、大なる肉塊の土地にまみれ、恰も朽大根を掘出したらん如く此処、彼処に散乱すあり、6)恰も帳面、書籍を焼きたらんが如く軍衣、チョッキ襦袢の炭化せるも尚一枚一枚重なり合て原型を存し燃え余りの衣片に接続しあるものあり、(明治37年12月9日)

 等々という状況ですが、「斯の如く千差万別なるも顔面を存する屍体は其顔貌何れも平和の態にありて一も憤怒の相を呈するものなし、実に意外千万なり、如何にも安心して死したるものゝ如くなり、画家従来人を欺くの甚しきものと言ふべし」と認めています。203m山の「光景同様」と。
 日露戦争は、このような戦闘の展開によって、プレ第1次大戦とも位置づけられることとなります。日本の軍医学は、日露戦争による「軍人狂」といわれた「戦地精神病」に取り組むことで、第1次大戦後にヨーロッパ医学界で問題視されることとなる研究に先行した取り組みをしたのです。

シベリア―パルチザンとの遭遇―松尾勝造『シベリア出征日記』(風媒社 1978年)

或部落で飯盒炊爨に取掛ったが、其処の土人は、「何を持って行ってもいいが、此処で飯を炊くことだけはやめてくれ。日本人は飯を炊くのに火を燃やす。敵はその煙を見て日本軍あれにありとて射撃をされた日には、我等は傍杖を食ふから」と。聞けば道理だが、何処へ行っても火を燃やさねば飯は出来ぬ。「愚図愚図言ふな」と叱っておいて飯を炊き終わり、急いで壕に帰った。(略)
中隊命令で明日の朝と昼2食分の飯を炊けとのこと。普通なら予、後備兵でも小まめに炊事をするものだが、今日の場合、今までの敵の砲弾の威力に些か恐れを抱いてゐる際とて、指名されぬ限りは頬かむりを決め込む。塹壕に屈んでゐれば安全でり、飯炊きに行って弾丸に当って死んでも、名誉の戦死と言ふ名は付けられようが、同じ死ぬものなら敵と渡り合って戦死してこそ死所を得たりと言ふものだらう。(大正7年8月23日)
払暁の時刻の突撃こそは、日本軍の華であり骨髄である。世界に向って最も誇りとしてゐる得意の戦術、払暁戦である。(略)
ところで不審なのは、敵兵の服装である。いづれも狩り集められた土民らしき兵、一人一人がまちまちの服装であう。(略)
健気な殿軍の役をする奴を突き伏せ、追ひ伏せ、逃げる奴、刃向ふ奴原を、一突でブスリと、脊より腹へ、腹より脊へと田楽刺に面白いやうに突き通って行くのは、牛や豚のやうに引締っていないからで、人間一人突き殺す位造作はない。頭と言はず胴と言はず、手当り次第に、倒れた戦友の弔い、仇討に突いて、突いて、突きまくって、盛んに追討ちをかけ、ブスリブスリと突き殺して行くのであるから、かうなると戦争も面白い。人間の骨は、生きている間は重い荷を担いだり酷い仕事をしても坐骨すると言ふことは滅多にないが、このやうに死んだ奴等を踏み越えて行くと、肋骨でも手も足もポキポキと音を立てて折れて行くから妙だ。(略)どうせ自分も戦死だ、命も何も惜しくない、同じ死ぬなら幾久しき語り草に、敵の本陣へ躍り込んで充分敵兵をやっつけて華々しく散って死のうと思った。これが所謂大和魂と言ふものだらう。敵の死骸を踏み越えて、誰よりも真先に突進した。実にかうした激戦の際、一番先頭になってキラキラ光る銃剣に残敵の血を塗らして突進して行くのは、実に愉快至極である。かくして突撃すること200メートル、遂に敵の歩兵最後の陣地を奪取占領したのである。(大正7年8月24日)

 シベリアの日本軍は、このようなパルチザンとの戦争に翻弄され、泥沼のなか撤退したのです。日本は、この戦闘から何も学ぶことなく、日中戦争で中国人民の大海に呑込まれて行くこととなりました。そのため日本軍は、「シナ人」を見たら敵とみなし、殺したのです。「南京虐殺」はこのようななかで起こったのです。このゲリラ戦は、ベトナムやアフガニスタンでアメリカ軍を消耗させました。
 この記録は、戦場に生きた兵士の相貌を具体的に描いたのみならず、まさに現代の戦争につながる世界の一端を提示しているものです。この記録を遺した兵士松尾が残酷な人間なのではなく、まさに兵士として生きるにはこのような世界があったのです。これらの記録は、戦場で生きることが敵を殺すことになるという冷酷な事実を、私たちにつきつけております。戦争に向き合うということはこうした戦場において人間であるとは何かを己に問うことでもあるのではないでしょうか。人間が人間であるには何が問われているのでしょうか。

 

参考文献

  • 堀田善衛『夜の森』講談社 1955年
  • 高橋治『派兵』朝日新聞社 1972-77年
  • 大濱『近代民衆の記録8 兵士』新人物往来社 1978年
  • 大濱『日本人と戦争―歴史としての戦争体験―』刀水書房 2002年
  • 大濱『庶民のみた日清・日露戦争―帝国への歩み―』刀水書房 2003年

兵士は戦場をどのように記録しているか

承前

 日本は、米国との協力をさらに強固にするために、「積極的平和主義」をかかげ、新たに安全保障関係の法体系の整備をなし、自衛隊が米軍の後方支援に参与できるようにしました。安倍総理は、この後方支援が自衛隊員にrisk-危険をともなうことがない安全に配慮したものである、と縷々説いています。はたしてそうでしょうか。
 この「後方支援」は、日米の防衛協力を取り決めたガイドラインによると、logistic supportとされております。logisticは兵站(へいたん)のことです。兵站とは、戦争において軍隊が必要とする武器・弾薬・食料等々の補給や兵士の運搬をする任務のことです。日本陸軍は、歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵(しちょうへい)・看護卒から構成されていましたが、輜重兵は「もしも輜重兵が兵隊ならば蝶々トンボも鳥のうち」「もしも輜重兵が兵隊ならば電信柱に花が咲く」などと揶揄されるほどに軽蔑され、兵科とみなされていませんでした。まさに日本軍は、兵站の思想が欠落しており、食は敵地でとれとした軍隊でした。そのため戦地においては、現地住民の食を奪い、各占領地で多くの非道を行いました。この補給を蔑視した体制こそは、とくに太平洋戦線において、日本軍死者の7割前後が餓死であったことにも読みとれましょう。

戦争をみつめたろうか

 近代戦、とくに現代の戦争においては、兵站の確保が必須のことで、兵站の破壊が戦争を左右します。まさに兵站は真っ先に攻撃をうけます。後方支援だから戦場でないなどというのは現代の戦争について無知か意識的欺瞞のきわみです。しかも「危険」をriskとみなし、dangerと説明しないのは言葉の詐称そのものです。riskが意味する「危険」は、たとえば商売などで“リスクを取る”といわれる表現にみられるように、その人が負うべき自由と責任と不可分に結び付いた概念にほかなりません、戦場における危険は、兵士が己の責任でリスクを取るものでしょうか。それは、否応なしにおそって来るdanger-危険にほかなりません。これは、言葉の綾ではなく、戦場の危険を隠蔽するための詐欺的言語操作そのものでないでしょうか。ことほどさように言葉の置き換えで本質を隠蔽した政治が現在まさにまかりとおっているのが、日本の政治なのです。
 このような時代だからこそ、戦争とはどのような世界かを、戦場の兵士の目で確かめることとします。戦後教育は、「平和教育」を課題としてきましたが、戦争がもたらした世界を個別具体的に説くことを「児童生徒」にとり「残酷」だとしてにげてきました。慣例のごとく企画される8月行事を「平和」なる冠で営むものの、正面から戦争に向きあう「戦争展」は忌避されてきたのではないでしょうか。それだけに戦争といえばTVや映画のなかの格好のいい世界としか理解できない、戦場の死が己のことと重ねて読み解く想像力を失わせたといえましょう。そこで戦争とは何かを、徴兵された若者が、一人の兵士として戦場で見聞を記録した世界から問い質すこととします。

第1師団歩兵第15連隊窪田仲蔵の旅順戦記

 長野県諏訪郡の農民窪田仲蔵は、1873(明治3)年生まれで93年12月に第1師団歩兵第15連隊に現役兵として入営、翌94年日清開戦で第2軍の下、乃木希典の指揮下で旅順攻略に参加、12月に1等卒、95年3月に上等兵に昇進、終戦で帰国、勲8等瑞宝章を授与された人物(岡部牧夫「兵士の見た日清戦争」)。その従軍日誌は、戦場で生きた兵士の相貌を詳細に記録しており、旅順のおける殺戮戦を克明に認めております。この旅順における日本軍の殺戮戦は、「旅順虐殺」として世界に報じられ、後に日中戦争下における南京占領での「南京虐殺」に重ねてあらためて想起されることとなったものです。旅順口の白玉山東麓に万忠墓はその死者を慰弔したものです。日記には、日本兵が清国の軍民を殺戮していく思いがあますところなく吐露されています。そこには戦場における兵士の心理が読み取れましょう。

敵兵退却の後我兵士の死体を見るに一の首あらず皆敵兵之れを切り持去れり。或は手なきもあり足なきもあり腹は十文字に切り武器被服皆持去り実にザンコクの殺しをなしたり。余等は之れを見て実に耐え兼此の後敵と見たら皆殺しにせんと一同語り進む。(明治27年11月19日)
互に砲戦2時間にして日は既に西山に傾く。此の時敵の死体三つあり。見るに皆火あぶりにし亦腹等は十文字に切りあり。是は前18日双台溝に於て敵の為めに無残の殺しを受けし故其仇として我兵士今此の死体を此の如くしたるなり。余等も是れを見て一寸の心を安ぜり。(11月20日)
余等は急に追撃す。敵も三方討ち破られ逃ぐるに遑あらず土民の衣を着て土民に詐るあり。或は人家に隠れ或は屋根の上を逃るもあり恰も蟻の散るが如し。此の時余等は旅順町に進入するや日本兵士の首一つ道傍木台に乗せさらしものにしてあり。余等も之れを見て怒に堪え兼気は張り支那兵と見たら粉にせんと欲し旅順市中の人と見ても皆討殺したり。故に道路等は死人のみにて行進にも不便の倍なり。人家に居るも皆殺し大抵の人家二三人より五六人死者なき家はなし。其の血は流れ其の香も亦甚だ悪し。捜索隊を出し或は討ち或は切り敵は武器を捨て逃るのみ。之れを討ち或は切る故実に愉快極まりなし。此の時我軍の砲兵は後方にありて天皇陛下万歳を三呼す。(略)其夜は戸併に桶等を打ち破し以て火を燃き其の夜を明かしたり。夜明けて水を求めんとし見るに死人のみにて実に水を飲む如き清水なし。此の時酒或は砂糖菓子等を分捕り亦皮を分取り首に巻き將校中には虎の皮等を分捕せしもの沢山あり。昨夜よりの寒気実に厳しく吾等も皮のため寒を凌げり。兵卒中には酒を沢山飲み大酔し寒を知らざるものもあり。此の戦後日の調に依れば婦人40余人を殺したりよ云ふ。是日暮れて後見分の付かざるなり且つ我軍双台溝の戦敵のため残酷の殺しを設か奮怒の至りに出来事なり。此の時吾れ戦友と共に裏町に入り見れば5人医書一所に死し中に大なる犬一匹之を守り居るあり。是れ其家の主人ならん。(11月21日)
神国の兵は僅の兵を以て1日に之れを攻め落したり。其の敵は嚢の中の鼠の如し皆殺しにして逃ぐるは甚だ僅なり(11月22日)

従軍画家浅井忠が描いた世界

 ここに記述されている旅順の様相は、占領後に旅順に入った東京青梅の御嶽神社に奉仕する御師片柳鯉之助(1866年生)、日清開戦で充員召集で第1師団野戦砲兵第1連隊に入営、2等軍曹、第2小隊長として従軍した人物の記録です。

此日旅順の市街及附近を見るに、敵兵の死体極めて多く、毎戸必ず三四以上あり。道路海岸至る所屍を以て埋む。其状鈍筆の能く及ぶ所にあらず。午後6時舎営に帰る。今や各所は悉く日旗の金風に翻るのみ。(片柳「遠征日誌」11月25日)

 このような旅順の光景は、従軍画家浅井忠が描いた「旅順最後の捜索」(東京国立博物館蔵)ico_linkによって、現在も想起することができます。この旅順占領が現出した世界は、紛争地となっている各地に、現在も展開しているのです。

 

参考文献

  • 大濱『近代民衆の記録 兵士』新人物往来社 1978年
  • 大濱『天皇の軍隊』講談社学術文庫 2015年