地域再生に問われるのは何か(2)

承前

 古橋源六郎暉皃(てるのり)は、開化の風が吹くなかで、「銘々腕稼」による起業家精神がもたらす世界を、「維新開化の今日」という思いにうながされて「明治16年北設楽郡殖産意見書」で次のように描いていました。

普通の学より天文地理経済学に、農工商古今に通じて学ばしめ、哲学科学舎密(セイミ「化学」の呼称)の学をも研究して、数多の元素を詳知して、水より火を取り火より水を取り、或は軽気球を製して空中をも走るべく、又は地質を修めて地層の深底をも探求して地心地皮の功用を弁ずるなど地水火風を自在にし、文法語格に至るまで明にして、交通自在に航海せば自国の不足は他国に取り、自国の余贏は他国に及ぼし、事物百般不足なく、宇宙間を我家の如く成たらんには豈愉快ならずや如此事業進歩の秋にこそ各々開化の風に移りて勧娯をも極むべきなれ

 この思いには、昨今耳にする海底・宇宙探査による資源開発競争、原子力の活用から地熱発電、経済のグローバル化への過剰なる期待、国際共通語としての英語教育等々こそが豊かさを可能にすると、昨今喧伝される政府の国家構想に通じる世界が読みとれます。しかし、暉皃の構想は、明治16年の愛知県北設楽郡「人民生活の状態」を前にして、行き詰まります。

人民生活の状態

 松方財政下で呻吟する北設楽郡内を視察した文部書記官は次のように報告しています。

本郡専ら農耕を業とす。或は商業職工を営すものありと雖も、僅々兼業たるに過ぎず。然り而して郡曠濶、大凡方里内に於て戸数平均80戸6分厘余、人口平均451人7分3厘余なりと雖も、耕地段別は僅に2226町6段18歩、戸数平均5段6畝1歩強にして、其他は皆な山林原野耕耘の施すべきなきものなり。然るに僅々に限りあるの田畝も多くは洞田棚畦にして地味皆薄瘠なり。氣候寒冷極寒に至れば、寒暖器氷点21度に下り、極暑は93度、平均57度の内外を昇降す。是を以て労費夥多にして収獲僅少、終に得失相償はざるの歎を発せしむるのみならず、年間の収穫人口に給足するを得るものは、郡内纔に5分の1にして、其他は皆年の半ばを支ふる能はざるもの多きに居る。是等は皆資を美濃信濃の他国に仰ぎ、以てに其生計を得るに至る。是を以て活路極めて困難、未だ凶歳の声を聞かざるに皆な菜色を帯ぶ所以の者は、蓋曰、常食する所の物、多くは稗、麦、芋、馬鈴薯等の淡白無味滋養に関係薄き麤悪の物資を用ゆるに職由すと云はざるべからざるなり。故に郡内人民の活路を計る、之を田畑に資るの至難なる其斯の如し。是を以て活路を計る、其路他に需むるあるにあらざれば、何によりてか自営の策を求むるを得んや。然るに繭・生絲・茶・烟草・楮・椎茸・馬等の如き産出物なきに非ざれども、頼りて以て活路を計る又難しとす。唯頼りて以て力ありとするものは独山林なり。然るに此の山林にして多くは伐採し尽して顧みず。以て資り難き僅々の田畦に垂頤して以て生計を営まんとする。是れ天に梯すると一般、豈に得べきの理あらんや。故に現今百方奨励勧誘、以て山林の蕃植・製茶・養蚕・産馬改良等の諸業何れも緒に就けり。漸を以て他日其目的を達するに至らば、目今の活路を回復し得るのみならず、陶朱猗頓の如くなるを欲せざるも豈に得べけんや

 土地に相応しい産業こそが「陶朱猗頓」、金満家になる道と説くことで、民富の形成と富村への期待が表明されたのです。ここに古橋源六郎暉皃は、製茶・蚕糸・煙草等の殖産が成果を見いだせない中で、民富形成をささえる原点に民心統一が欠かせないことに想い致したのです。いわば富村は、産業による経済的利益がもたらす以上に、地域を己のものとして担う民心の一致がなければならないとの想いにほかなりません。

民心の協力一致を求め

 ここに古橋源六郎暉皃は、茶業崩壊に直面するなかで、山間地にある稲武にとり、「唯頼りて以て力ありとするものは独山林なり」との指摘を想起、地域の資源に目を向け、『富国の種まき』をはじめます。この『富国の種まき』は、明治11年の東海巡幸の記憶を想起し、開化の風になびいた起業を反省し、神の贈り物である山幸たる山林経営による富村富国への想いを吐露したものです。

明治11年東海御巡幸を拝せむと、道を足助に取て行くは10月24日也、既にして伊勢賀見の嶺(現伊勢神峠)に登り、遙に神宮を拝し、西に尾海を望み、東に駒山を顧るに、山相土性東西自然に異なるを見る、其東にあるは山色萃黛肥潤耕土乾燥嶮峻、其西にあるは山相赭色枯瘠耕土平坦沢饒、下りて明川に至り親その実を知り、行々これを察するに益西して益然り、尾張に至りては殊に平坦大沃、山を見ること無きに至る、それ田圃肥饒なる地は山力薄く、耕土薄瘠なる地は山力盛なるは何の為に然らしむるや、これ蓋し天神造化の妙機にして、天下の黎衆(アオトビグサ)をして各其所を得せしめ給はむか為也

 先の所信表明演説は、ここに表明した暉皃の言説を都合よくパクリ、上っ面を利用したものにすぎません。製茶等の起業による地域再生の挫折こそは風土に根ざす山林への回帰となったのです。その山林経営は、植林から100年先を待たねばならない事業であるだけに、強き精神を共有しうる民心がもとめられます。そのため暉皃は、「自然天理人道に叶へば、神明も恵みたまひ、幸へたまひて、事業隆盛、子孫長久、人々安楽の基を開くべきなり、然るに眼前の小利にのみ汲々して、永遠の計を為さざるものは、啻に敬神愛国の心無きのみならず、また其祖親を忘れ、妻子を顧ず、而して又其身を捨る所謂自棄自亡の人なり。神明何ぞ憎悪み給はざるべき。災害必ず其身に及ぶものなり、深く恐れて、固く慎まるべけんや」(『報国捷径』)と説き聞かせ、「敬神愛国の心を全くして、必要の事業に勉強すべきこと」を強調したのです。
 ここには、平田門国学者暉皃の面目が躍如としていますが、起業による経済的利得ではなく、住民の協同一致を可能とする精神の拠り所となりうる器なくして地域再生への途がないことが問いかけられています。現在、問い質すべきは、地域再生を担うにたる精神の器、その器の場をいかに蘇生し、住民の協同一致を実現していくかではないでしょうか。そこに求められるのは、交付金を給付し、金の力で民心を買い取り、煽動していく方策ではありません。暉皃の言説を宣揚するのであれば、その言説に託された想いを読み解きたいものです。

地域再生に問われるのは何か(1)

所信表明の虚実

 安倍晋三首相の所信表明演説の「おわりに」は、三河稲橋村(現愛知県豊田市)の古橋源六郎暉皃(ふるはしげんろくろうてるのり)が「植林、養蚕、茶の栽培など、土地に合った産業を新たに興し、稲橋村を豊かな村へと発展させることに成功しました」と紹介し、「“地方”の豊かな個性を活かす」物産開発で、「前に進もうではありませんか」、と問いかけています。
 ここで特筆された古橋暉皃は、芳賀登が1960年末に古橋家を訪問、翌年8月から木槻哲夫らと延々半世紀近くにわたり調査をし、時代を生きた古橋家と村の営みを世に問い、そこで紹介した古橋家中興の祖といえる人物です。私は、この調査にある時期まで参加し、明治における村落再生を検証し、「明治10年代における農村と自力更生運動」(『日本歴史』246、247号 1968年)等を発表しました。所信表明演説は、古橋暉皃が家と村の再生、富家・富村を問うた想いに眼をむけず、短絡的に「土地に合った産業」開発で成功した事例とのみみなしています。
 しかし暉皃は、養蚕・製茶に失敗したがために、山村に相応しいものとして100年先に眼を向け、植林を位置づけ、平田篤胤没後門人として神祇による村民の精神的覚醒をうながし、民心の結集をはかることで富村への途を切りひらきました。思うに、首相のみならず、昨今の地域再生論には、暉皃が村に生きる者としての哲学を説いた志を思いみることなく、経済合理主義から何か利を生む産業さえあれば、起業家精神で何とかなるとの拝金宗があからさまに説かれています。そこで、まずは暉皃の事蹟を紹介し、地域再生には現在問われているかを考えることとします。

暉皃の生いたち

 暉皃は、1813年(文化10)に古橋義教の次男として生まれ、1831年(天保2)19歳で家政を担い、名主を勤め、徹底した倹約策で家政改革を推進、家政再建を果すなかで、天保の飢饉に対応、家財を投じて村の救済にあたり、勤勉倹約を旨とする村づくりをなし、村の地主としての地位を固めていきます。この天保の飢饉体験は、村落指導者暉皃にとり、家と村を一体として自家の安定と繁栄をめざす豪農古橋家の責任意識、名望家たる原点となります。その思いは、家政再建の途上にありながら、「己を責て人に施すは今の時也、仮令我家貧困いかに谷(きは)まるとも、衆と休戚を共にせん」と、村人と一体になった危機への対応に読みとれます。
 村落の更生撫育にあたる暉皃は、指導者たる己をささえる内的規範を求めるなかで、徳川斉昭の「告志篇明君一班抄」を読み、国事公益に励む決意を固めていきます。この思いは、「志を誠正にし善事を積むにしかすと、偶本居宣長御大人の著述せし直毘霊を読み大に感する所あり、益国書の尊きを知り暇日あれは熟読せり」と、宣長が説く「真心」による「神ながらの国」への期待となります。
 暉皃は、黒船来航による外患の危機下、安政大獄、桜田門の変と続く政治的激動のなかで醸されてきた尊皇攘夷の空気にうながされ、1863年(文久3)に平田篤胤の没後門人となります。この入門は、『夜明け前』の青山半蔵、島崎籐村の父親正樹など、在地に生きた名主などの村落指導者が村を改革する精神的な器を平田国学に求めていく軌跡、「草莽の国学」誕生につらなるものです。
 かれら「草莽の国学者」は、1863年3月に孝明天皇が加茂神社に行幸、攘夷決行を祈願したのを受け、平田門国学者が古史伝出版の資金集めで全国を行脚する動きに応じたものです。暉皃は、このような時代の子であり、国学関係の書籍を収集し、南朝遺臣や神武天皇への関心を強めていきます。ここには、御一新―維新をささえる精神文化運動の一端が読みとれます。暉皃はこのような時代を生きた名望家の一人でした。

「経済之百年(よわたりのもと)」問い語ること

 暉皃は、死の直前の1892年(明治25)に「経済之百年(よわたりのもと)」で、松方財政下の不況時を回想、村落更生への想いを認めています。それは、松方デフレ、「日本の原始的資本の蓄積期」がもたらした不況下、秩父事件等に象徴される困民党等の決起をうながした窮乏下の社会、己が村をいかに再生し豊かにするかを述べたものです。先の所信表明演説は、ここに述べた世界の一端にふれたものですが、暉皃の想いを受けとめたものではありません。
 72歳の暉皃は、己が老躯に鞭うって戦った1885年(明治18)の天保の飢饉体験に重ね、「郡民の飢苦」に向き合う己の場を問い質します。

 治に乱を忘れず。豊に凶を思ふ、故賢の戒を、年来、心に守れるを、過し明治18年は、天明8年の大飢饉より百年、天保8年の、大凶作より50年、に当れる年なるを、麦の登熟も、思ひ、よりは、おとれりしかば、殊に焦心苦慮しをり、当時の郡長、佐藤啓行ぬし、郡内巡回とて、我家を訪はれしかば、共に憂談けらく、かくて、秋作相違せば、郡民の飢苦しまむこと、眼前なり、とやせまし、かくやせまし、など談合つゝも、天の降す災は、人力の及ぶべきに非ざれば、各其独を慎むことを、専一として、内に者、奴婢等が、食物の煮炊に心を用ゐ、外また、山を焼て畑を興し、蕎麦大根等、かてものを作らせ、田は水の加減肝要なれば、我身七十有三歳なれど、若人に魁て、朝夕灌漑を巡視て、里人を励さむと、朝の露に起出、夕霧に立帰りて、田の水を、かけみ、おとしみ、する程に、持病疝痛に堪ずして、臥籠りたる、

 このように時代と向き合った暉皃は、「勤倹」二字による村づくりの弊を批判され、「銘々腕稼」での殖産勧業をもくろみ、製茶勧業で民富をきずき、富国をめざします。しかし、1878年からの茶価下落で「茶株も殆んど全廃」「嗚呼これ誰が過ぞや」と慨嘆、徒に「物産興隆の一途にのみ着目」し、「人民各自の快楽嗜好を恣にせむことを以て鼓舞」したが故と、欲望充足を旨としたことが失敗の原因となし、「道義に従ひ天理によりて国益を成さむことを誘導」せねばならないことに気づきます。ここには、「銘々腕稼」という市場原理主義による競争原理がもたらす荒廃をみつめ、「道義に基きて事業を起さしめむ」と、事業をささえる精神の在りかが問われることとなります。
 思うに地方再生―地域振興に問われるのは、「銘々腕稼」という利益至上の競争原理ではなく、「道義に従ひ天理によりて国益を成さむ」というような、ある種の精神性にささえられた地域の連帯、協同がもたらす世界への眼ではないでしょうか。暉皃は、製茶等が無に帰したなかで、どのような構想で村の再生をはかるかを次号で検討します。

 

参考文献

  • 芳賀 登 編『豪農古橋家の研究』(雄山閣 1979年)

富岡物語(3)

行啓

画像提供 富岡市・富岡製糸場

 英照皇太后と美子(はるこ)皇后(後の昭憲皇太后)は開業したばかりの富岡製糸場に1873(明治6)年6月24日に行啓、場内を巡覧、工場が日本の富国につながると職員を励ましました。『明治天皇紀』は、6月19日から26日までの行啓の途を次のように描いています。

皇太后皇后、上野国富岡町富岡製糸場台覧のため、午前八時御出門、宮内大輔萬里小路博房・同大丞杉孫七郎・宮内省三等出仕福羽美静・典侍萬里小路幸子等供奉す、大宮・熊谷を経て二十一日新町に着したまひしが、連日の降雨にて鮎川氾濫せるを以て、二十二日亦同地に駐まりたまふ、同日皇太后の安否を問はしめんため遣はしたまひし侍従山口正定、参候して聖旨を伝へ、且御贈進の菓子一箱を上る、二十三日両后七日市町に著し、御宿泊所に入りたまふ、二十四日午前九時御出門、富岡製糸場に行啓、同場雇仏蘭西国人ブリュナー夫妻に謁を賜ひ、尋いで場長租税大属尾高惇忠及びブリューナの御案内にて製糸作業及び機械室等を御巡覧、雇外国人に縮緬を、職員に酒肴料を賜ふ、ブリューナ西洋料理の御晝餐を献り、其の妻洋琴を弾奏す、午後二時七日市町に還啓あらせらる、同日皇后の詠じたまへる御歌に曰く、
 いと車とくもめくりて大御代の
   富をたすくる道ひらけつゝ
二十五日両后同町を発し、二十六日、武蔵国旙羅郡玉井村鯨井勘衛養蚕の実況及び挿秧の状を観覧
二十六日官幣大社氷川神社御拝あり、同日午後三時還啓あらせらる、富岡製糸場は、政府が生糸精製の端緒を開き大に蚕業の発達を図るらんとして、ブリューナを職工首長と為し、客秋開業せし模範工場にして、当時男女工合して五百余人、伝習生徒十二人あり、又一箇年の定額金は五万千六百十九円余と洋銀一万七千四十弗なり

 降雨による氾濫という悪天候下での行啓は、富岡製糸場建設に象徴されたように、国家が「蚕が化した金貨」を稼ぐ養蚕製糸の振興こそが「富をたすくる道」をもたらす富国の基いとなる器を期待しての営みです。それだけに皇后は、西洋の糸機械の前に居並び糸繰りを学ぶ工女の姿を「御世のため並居て学ぶときわきの日々に賑はふ富をかのさと」詠み、励まします。富岡は富をもたらす里とみなされていたのです。

製糸場での暮らし

 「御場所」といわれた官営模範工場は、レンガ造りの壮観な建造物と最新の機械設備によって、人々を驚かせる文明の府でした。横田英は、その偉観に圧倒され、筆にも言葉にも表し様がないと認めています。この驚きは皇太后・皇后も共に抱いたものといえましょう。

私共一同は、此繰場の有様を一目見ました時の驚きはとても筆にも言葉にも尽されません。第一に目に付きましたのは、糸とり台でありました。台からひしゃく、さじ、朝がほ二個(まゆ入れ湯こぼしの湯)、皆真ちう、それが一点の曇りもなく、金色目を射る斗り。第二が車、ねづみ色にぬり上げたる鉄、木と申物は糸わく、大わく、其大わくと大わくの間の板。第三が西洋人男女の廻り居る事。第四が日本人男女見回り居る事。第五が工女行義正敷、一人も脇目もせず業に付居る事で有りました。一同は夢の如く思ひまして、何となく恐ろしい様にも感じました。

 就業時間は、ブリューナが日本政府との契約で取り決めた「職工働き方」にもとづき、夜業を禁じ、午前7時から午後4時半までとし、午前に9時から30分、昼が1時間の休憩があり、実働8時間でした。日曜日と天長節などの祭日が休日とされ、12月29日から1月3日までが年末年始の休暇。このような労働環境は、官公署にみられたものの、当時の慣行にはないものでした。
 給与は、元繭1升の出来糸目方8匁5分、1日5升取りの者が1等工女で年額25円、元繭1升の出来糸目方8匁、1日4升取りの者が2等工女で年額18円、元繭1升の出来糸目方7匁8分、1日3升取りの者が3等工女で年額12円、等外の者が9円。夏冬には「服料」としてボーナスが5円、寄宿舎の賄料は1日7銭1厘。
 まさに開業時の工場は、労働環境や処遇のみならず、工女の健康を管理する医官がおり、「御場所」にふさわしいフランス直輸入ともいえる「文明の府」にほかならず、後の「女工哀史」的世界とは無縁でした。このような「文明」的ともいえる工場で生活した工女からは、日曜日ごとに甘楽第一基督教会(現日本基督教団甘楽教会)に通い、教会員となる者もいました。そのため当初の甘楽教会員は男性より女性が多数をしめていました。ちなみに甘楽教会は、1874年に米国から帰朝した新島襄の郷里安中での布教によって、78年に設立された安中教会(現日本基督教団安中教会)から84年に独立した教会です。

組合製糸の営み

 安中教会を支えた信者の群は碓氷郡の組合製糸碓氷社を支えた人びとでした。組合製糸碓氷社は、養蚕農家が自家製繭を改良座繰で製糸したものを組合に集積して検品、均一品質の良質のものを大量に準備して市場に出すことで各農家の利益をあげていきました。この方式は、資本力の無い農家が協業協力する組合を結成することで、独立した養蚕農家として道を歩むことを実現したものです。
 在来の伝統的な技法を改良した座繰製糸による農家の営みは、収繭から製糸を「各農家」、揚げ返しを「組」、束装販売を「組合本社」が受け持つという分担でそれぞれの責任体制を明確にすることで生産性をあげ、富岡製糸場をうわまわることができたのです。ちなみに碓氷社が地域にある組の共同揚げ返し場は水車などによる一斉回転の大枠と絡交装置をもち、機構として富岡製糸場と変らなかったといわれています。それだけに富岡製糸場は、生産工程の最新の機械化を実現したとはいえ、収繭から製品化にいたる過程を充分に管理出来ないままに農民の座繰に敗北し、身売りへと追い込まれたのでした。ここには、模倣としての「近代」に対し、在地に根ざした営みがもつ近代の在り方が読みとれましょう。

 

参考文献

  • 松浦利隆前掲書
  • 大濱『明治キリスト教会史の研究』吉川弘文館 1979年

富岡物語(2)

工女の募集

画像提供 富岡市・富岡製糸場

 大蔵省勧農寮は、富岡製糸場の完成を前にした1872(明治5)年5月、「諭告書」で「御国製糸の品万国に勝れ永遠の御国益と相成り、全国民をして富強の利に潤ぜんが為」と、蚕が金の卵であり、富国の基となることを説き聞かせ、工女の募集を始めました。しかし、応募者がなかったがため、政府は、9月に勧奨状を頒布し、次のように申し渡したのです。

「其管内に於ても従来製糸等営来り業前未熟の者は、別紙工女雇入心得書に照し、人選の上名前取調べ差出可申。尤も追ては養蚕多分有之地方へは製糸場も施設致度、其節は繰糸の教師にも可相成人物の儀に付、夫是差含人選方針取計来十一月二十九日迄に当人富岡製糸場へ差出可申事」

 かつ「富岡製糸場繰糸伝習工女雇入心得書」で、富岡で働く「伝習工女」の年齢を15歳から30歳までとなし、政府―県―戸長役場と行政組織を通じて地域ごとに10人から15人までを半強制的に割当ました。工女の応募者がなかったのは、(1)製糸技術改良の意味が理解されていなかったこと、(2)外国人に生血を吸われるというような流言によって、異人の監督下で働かされることへの恐怖感が増幅されたこと、(3)若い娘が家を離れて他国に出て、西洋人が「親方」である工場の寄宿舎で暮らすという未知な体験への不安が強かったことによります。
 ここに富岡製糸場長尾崎惇忠は、このような不安を払拭すべく、郷里の入間県(現埼玉県)から娘ゆう13歳を呼び寄せ、範を示したのです。

横田英の思い出

 信州松代(現長野市松代町)の戸長横田数馬は、富岡に女子を出せとの県からの布達にもかかわらず、「人身御供にでも上がる様に思いまして一人も応じる者も有ません」という状況に苦慮し、娘の英(えい)を行かせることにします。娘英は、この富岡行きのことどもを、後に「明治六,七年松代出身工女富岡入場中の略記」(『富岡日記』)として描いております。

やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判に成まして、中には、「区長の所に丁度年頃の娘が有に出さぬが何より証拠だ」と申様に成ました。それで父も決心致まして、私を出す事に致ました。私も予て親類の娘が東京へメリヤスを製します事を習いに行きました時、私も行きたい申しましたが、私より下に四人兄弟が有りまして中々忙しう有りましたから許しません。残念に思って居りました所で有りましたから、大喜びで一人でも宜しいから行たいと申しました。祖父は大喜びで申しますには、たとい女子たりとも、天下の御為に成事なら参るが宜しい。入場致候上は諸事心を用い人後に成らぬ様精々はげみ、あする様と申されました時の私の喜びはとても筆には尽されません。

 英は、富岡行きを主体的に受けとめ、「天下の御為に成事」に参画できる喜びを語っていますように、開化の世を全身で受けとめることができた女性でした。富岡の工女にはこのような女性がいたのです。松代からは、英の応募で参加希望者が続出、16名が選ばれて富岡に行くこととなりました。その年齢的内訳は最年少が13歳、14歳が3名、15歳、16歳が各1名、17歳が英を入れて5名、18歳、21歳が各2名、25歳が1名。
 出立を前に父数馬は、英に「国の名、家の名を落さぬ様に心を用る様」にと申し渡し、英は「心さへ慥に持居ますれば身を汚し御両親のお顔のさはる様な事は決して致しませぬ」と母に誓いを述べ出立の日に備えたのです。ここには、国家の存在がきわめて身近なもの、国家を私の手でつくるのだという意識が素直に吐露されているのではないでしょうか。それは、富岡に入場することで、若い国家の形成に参加しているとの思いを支える想いにほかなりません。

富岡入場者の姿

 英は、戊辰内乱の際に父数馬が着た中黒ラシャの筒袖を身にまとう男装姿で、1873年3月末に松代衆16名の一行として出立。この4月に長野県からの入場者180名は、各県が5,6名から多くて20名程度というなかで、地元群馬県につぐ大勢力で、「信州の人」と何かと名ざされたがため、「松代」であることにこだわった由。強い郷党意識が工女を支える意地でもあったのです。
 ちなみに73年4月現在の府県別入場者は、群馬170人、長野180人、入間82人、栃木6人、東京2人、置賜(山形)14人、酒田(山形)6人、宮城15人、水沢(岩手)8人、静岡13人、浜松13人、石川1人、播磨(兵庫)4人、奈良6人、山口36人の計556人。その出身階層は、78年在籍の寄宿工女371人中の148人、約4割が士族出身の子女。そこには、井上馨の姪鶴子・仲子姉妹、長井雅楽の長女貞子ら旧長州藩、山口県の有力者の一族をはじめとする士族とともに、熊本県の郷士徳富家の音羽、蘇峰の姉を見いだすことができます。製糸場では、これら士族とともに職人・商人の子女、被差別部落出身の娘もいました。
 これらの工女には、富岡で最先端をいく「西洋の糸きかい」の技術習得をめざす伝習工女として、全国に小富岡を生み出す尖兵となることが期待されていたのです。このことは、74年に郷里の埴科郡西条村字六工(現松代町)に六工社(ろっこうしゃ)が設立されたのを機に、横田英ら松代出身工女が「教婦」として帰郷するにあたり、場長尾高惇忠が「繰婦勝兵隊」の5字を大書して前途を祝した思いにうかがえましょう。
 六工社は、松代県士族らの出資金に小野組が資金援助をして創立された50人繰のフランス式器械製糸工場でした。工場は「蚕の化せし金貨を求め」る営みでしたが、「教婦」として帰郷した英ら富岡工女はその設備の落差に困惑せねばなりませんでした。それでも英らは、「国益になる糸」を取ることが村の開化につらなり、国益になるとの想いで励みます。

 

参考文献

  • 和田英『富岡日記』ちくま文庫 2014年6月5日

 

六工社の場所はこちらico_linkから確認できます。

富岡物語(1)

文明―西洋の貌として

画像提供 富岡市・富岡製糸場

 群馬県の富岡製糸場は、「富岡製糸場と絹産業遺産」として世界遺産に登録されることとなり、未曾有の観光ブームのにぎわいで喧騒の渦にまきこまれているようです。明治政府は、明治3(1870)年に日本の文明開化、西洋を模範とした近代化を実現するための外貨獲得をめざし、「糸縷純情色沢玲瓏の佳品」を製造する一大製糸場を建設し、進んだ製糸技術を全国に広めようとはかりました。ここに製糸場建設計画は、横浜の生糸商社エッシュ・リリアンタール商会が紹介したフランス人技師ポール・ブリューナを雇用し、具体化します。
 富岡の地が選ばれたのは、(1)1万5600坪という広大な敷地、(2)富岡付近が古来より養蚕の中心地として多量の原料繭を生産し、座繰糸による品質の優れた製糸生産地であったこと、(3)水質が製糸に最適である高瀬川からの引水が容易なこと、(4)富岡周辺の山水の美にひかれたこと、(5)地元有力者の協力が期待できたこと等々によります。工場は、着工後1年半、明治5年7月に完成、煉瓦造りで、繰糸場(長さ142メートル、幅14.4メートル、高さ11.8メートル)をはじめ、東西の繭所、蒸気釜所、寄宿所等々からなり、一大偉観を呈し、「御場所」「御製糸所」といわれましたように、お上の権威が威光を放つ存在でした。
 建設資材は、杉を妙義山、松を吾妻地方の官林、セメント代用の漆喰用石灰を下仁田、基礎の石材を甘楽町の連石山、煉瓦は粘土が手にはいる甘楽町福島の窯で焼かれましたように、周辺のものが使用されました。

工場の営み

 工場は、明治5年10月4日から操業しましたが、明治6年の日本人職員が通訳3名を含めて14名、伝習生徒13名、フランス人9名の少人数で、工女が400名前後で出発するというあわただしい開業でした。明治8年には、日本人職員が通訳・医官を含めて22名、生徒2名、「小使い」20名、フランス人2名、寄宿工女550名、通勤工女750名に警官5名、馬丁1名という大所帯になっています。このような大規模な富岡製糸場の存在は、戸数620戸、人口2500人程度であった富岡の町にとり、驚天動地ともいうべき出来ごとでした。その風景は、ハヤリ唄にうたわれるほどに富岡の名所とみなされたのです。まさに赤煉瓦造りの壮大な建物群は、糸繰る車の音とともに、民衆に「文明」への夢を奏でる世界でした。

上州一ノ宮あづまやの二階
 椅子に腰をかけ遙か向うを眺れば
あすこに見えるはありや何処だ
 あれこそ上州の甘楽郡
音に聞えし富岡の
 あれこそ西洋の糸きかい
西洋造で木はいらぬ
 回りははしごで屋根瓦
窓や障子はギヤマンで
 糸繰る車はかな車
あまたの子供はつれだちて
 髪は束髪花やうじ
紫はかまを着揃へて
 縮緬だすきをかかけ揃へ
糸とる姿のほどのよさ

文明の陰翳

 工場の経営は、御雇外国人への給与支払いが巨額なこともあり、当初より赤字経営が続いていきます。そのため外国人の雇用は、契約が満期となった明治8年で打ち切られ、日本人だけで運営されたのです。この間、明治6年に良質生糸をオーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に出品し、日本にも器械製糸場があり優良製品を生産しうる国であることを宣伝しました。しかし製糸場の運営は、工場が大規模なこともあり、構造的な赤字体質から脱却できず、明治14年の官営工場の払下げの対象をまぬがれたものの、ついに明治24年6月に払下げの入札が行われました。開業以来の総経費は20万円余(現在の34億円程度に相当か)でした。最初の入札は予定価格が整わず、26年7月の再入札で三井家が12万2600円で落札します。この価格は、倉庫にある原料繭代約8万円がふくまれており、土地・建物・機械のすべてが約4万2600円の値段でしかなく、操業後10年にして製糸場の評価額が5分の1でしかなかったことになります。
 この後、富岡製糸場は、明治35年に原合名会社に、さらに昭和14(1939)年に片倉製糸紡績株式会社に譲渡され、現在に至ったのです。昭和62年には、工場の製糸部門が廃止され開業以来動いていた機械は停止となり、繭倉庫として使用されたものの、現在その業務も停止されました。かくて現在は富岡町の観光資源として蘇生され、注目をあつめています。このように流転していく工場の運命には、「蚕の化せし金貨」といわれた外貨獲得の花である生糸をめぐる歴史が凝縮されています。
 富岡製糸場の開設は、工場が流転していく様を想い見ることなく、民衆に文明の響きを告げるものでした。しかしこの夢は、甘楽郡の農民にとり、大規模工事への強制的動員、資材運搬で田畑が踏み荒らされたことなどもあり、無残にも裏切られたようです。そのため、信越線が新町―藤岡―富岡―下仁田―上田のルートで計画された際、政府の工事を敬遠する反対運動が生まれる要因ともなりました。ここには、「西洋の糸きかい」が奏でる文明をもたらす音が民衆の暮らしを根底から揺るがす地鳴りであったことがうかがえます。このような「西洋の糸きかい」の登場は、日本農村で営まれてきた在来の製糸業にとり、どのような影響をあたえたのでしょうか。

 

参考文献

  • 大濱「糸をつむぐ女たち」笠原一男編『近代の女性群像』日本女性史7 評論社 1973年
  • 松浦利隆『在来技術改良の支えた近代化』 岩田書院 2006年

天賦国権の国日本

承前

 河上肇の「日本独特の国家主義」は、(1)吾国目下の思想界、(2)国民的自負の時代、西洋文明輸入の反動時代、(3)日本民族の特徴は今の時に於いて最も顕著なり、(4)日本の国家主義と西洋の個人主義、(5)西洋の天賦人権、民賦国権と日本の国賦人権、天賦国権―西洋人の人格と日本人の国格、(6)西洋諸国は凡て民主国なり、日本国のみ独り国主国なり、(7)日本は神国なり―西洋人の権利思想と日本人の国家思想―西洋は権利国にして日本は義務国也、(8)日本に於ては天皇即国家なり、西洋に於ては天皇は国家の機関也―日本に於ける忠君と愛国との一致―忠孝一本論及祖先崇拝論は時勢に適せず、(9)日本の合力主義と西洋の分業主義―高度の愛国主義と劣度の商業道徳―西洋の人物は特種の人格を有し、日本の人物は一色の国格を具ふ、(10)日本にて無政府主義、社会主義の排斥せらるゝ所以―日本には西洋流そのまゝの社会主義、社会政策、立憲政治、政党政治は在り得べからず、(11)西洋及日本に於ける言論の自由不自由の差異―西洋の基督教と日本の国家教、(12)伝来的信仰に対する新興科学の謀叛―妥協と矛盾は刻下の特徴、(13)信仰に理由の説明あり得ず―日本人は無宗教に非ず―日本人に煩悶あり得ず、(14)国家主義の利弊―強き国家と弱き個人、(15)追録数則、という構成で、前回の「日露戦勝がもたらした国民的自負」は(1)(2)によって、紹介したものです。この論は、明治末年の日本を「天賦国権」の国と告発したものですが、「強き国家」を喧伝する声に覆われている現代日本の空気を撃つ視点を提示しております。日本人は国家をどのように理解していたでしょうか。

日本の国家主義

 日本人にとっては、「国家は目的にして個人は其の手段なり。国家は第一義のものにして個人は第二義のもの也。個人は只国家の発達を計る為めの道具機関としてのみ始めて存在の価値を有す」と。そこでは、極端な場合を想像すれば「若し凡ての個人を殺すことが国家の存立を維持する為め必要なる場合ありとせんか、縦ひ凡ての個人を犠牲とするも国家を活かすと云ふことが、国家主義の必然の論理的断案」となし、日本人の倫理観は国家のために己個人の生存を犠牲にすることを躊躇しない。逆に西洋人は、個人が第一義で国家を第二義となし、「国家は只だ個人の生存を完うする為めの道具機関としてのみ始めて存在の価値有す」るものであり、極端に言えば「若し国家を滅すことが凡ての個人の生存を完うする為め必要なる場合」、国家組織の打破が個人主義の「必然の論理的断案」であると。
 かくて河上は、日本とヨーロッパとの間には「建国の趣旨が全く相違」しているがため、その国情において種々の差異が出てきたとなし、主要な論点を次のように指摘します。

 西洋人の主義は個人主義なり。故に西洋に在ては個人を以て自在の価値あるものと為し自己目的性を有するものと為す。故に天賦人権の思想あり。人命を重んじ人格を尊ぶこと、日本人の想像の外に在り。然るに日本人の主義は個人主義に非ずして国家主義なり。故に日本に在つては個人を以て自存の価値あり自己目的性を有すと看做す能はず、独り自存の価値を有し自己目的性を有する者は只だ国家あるのみと為す。故に日本人には天賦人権の思想なくして、天賦国権の思想あり。個人の権利は只だ国家の承認を経て始て存在す。国家は只だ其の自存の目的を達するの手段として、個人に一定の権利を認む。個人の有する権利は、本来自己目的の為めに非らずして、只だ国家の道具として役立つが為めのもの也。故に西洋に在りては人権が天賦にして国権は民賦たりと雖も、日本に在りては国権が天賦にして人権は則ち国賦たり。

人格でなく国格

 このような国のかたちである日本においては、個人が個人として独立の人格を有するという観念がなく、国家の機関としての存在意義を自覚しているという意味で「国格」を担うことが求められています。天皇は、その意味で「国家の利害を自己の利害とし」「国家の公の利害の外別に個人としての私の利害」をもたない「最も完全なる国格を保有」した存在であるがため、「日本人の信仰よりすれば天皇は最高最貴の方」であるとみなされてきたのです。ここに河上は、「日本人の神は国家なり、而して、天皇は此の神たる国体を代表し給ふ所の者」として、その存在を次のように問い語ります。

吾国の天皇は完全無欠の国格を保有し給ひ、国の政治に於いては、只だ国家公の利害を以て其の利害とし給ふのみにて、別に何等私の利害を有し給はず。故に日本に於いては、国家と天皇とは一体にして分つべからず。而して国家は吾等の神なるが故に、天皇は即ち神の代表者たり。故に吾国に在りては、愛国が最上の道徳たると同時に、其の愛国と云ふことは軈(やが)て忠君と同義たり。知るべし、日本民族の特徴は忠孝の一本に非らずして、愛国と忠君との一本に在ることを。是れ吾人が、忠道奨励の前提として孝道を奨励せんとする者を愚なりとする所以なり。
西洋に在つては、凡ての人が個人の立場よりする人格を有す。故に君主も亦た人民と同位同列の人格者なり。否な彼等の思想に依れば、個人は個人としての人格を保つが故に貴き也。故に君主も亦た一個人として人格を保ち、一個人としての私益私利を有す。故に西洋流の思想に依れば、君主は決して国家と一体たる能はず、国家以外別に隔離独立したる人格を有するが故に、君主は即ち国家の機関たり。

「個人は個人の人格を保つ」との言は、現在自明のこととされているようですが、どれだけ日本人一人びとりが己のものとしているでしょうか。そこには、国格に囚われてきた己の存在をみつめることもなく、当世風に流されてきた私があるのではないでしょうか。歴史を読むということは、河上肇が「天賦国権」の国と告発した言説をひとつのてがかりに、私が主語で日本という国のかたちに向きあい、明日に飛翔しうる歴史像を思い描くことではないでしょうか。「美しい国」云々と喧伝される時代であるからこそ、日本という国のかたちを私が主語で問う作業をしていきたいものです。

 

参考文献

  • 大濱『天皇と日本の近代』 同成社 2010年

日露戦勝がもたらした国民的自負

承前

 これまで述べてきた「日本国」像は、日露戦争の勝利がもたらしたもので、「明治の栄光」と喧伝され、日本の原風景であるかのように語られてきました。日本は、日清戦争の勝利でアジアの覇者となり、日露戦争でヨーロッパとアジアにまたがる欧亜の大帝国ロシア、白人の国家に勝利することで世界の大帝国の仲間になるべく一途に駆け足で奔せ行きます。
 大帝国へと奔走する国家の想いこそは、「明治の栄光」と喧伝され、国定教科書が説き聞かせた世界です。この残像は、未だに日本人の心に遺されており、当世耳にする「美しい国」日本、「力強い」日本を取りもどすという類の言説をささえるものにほかなりません。
 このような精神の営みこそは、大帝国―欧州的帝国へと狂奔した国家の歩みにとらわれ、1945年の敗戦という現実を直視せず、現在にいたるまで韓国・朝鮮や中国をはじめとするアジア諸国との信頼関係を構築しえない状況に追い込まれています。
 こうした日本の在り方は、明治末年、20世紀初頭の1911年に河上肇が「日本独特の国家主義」において、鋭く問い質した世界にほかなりません。河上の告発は、100年後の現在の日本を覆う空気をも切り裂くもので、現在を生きる私の場を確かめることをうながしています。

勝利の陰翳(いんえい)

 河上肇は1908年29歳の秋、京都帝国大学講師となり、9月に京都に移り、2年後の大逆事件に衝撃をうけます。「日本独特の国家主義」は、『中央公論』1911年3月号に掲載されたもので、この大逆事件を受けとめて執筆されたものです。
 1910年5月から検挙がはじまる大逆事件は、ハレー彗星が地球に接近するなかで流言がとびかい、世間が人心不和におびえる12月10日に大審院で公判が始まり、29日に結審、翌11年1月19日に判決、24名が死刑、19日に12名を無期に減刑、24日に幸徳秋水ら12名の死刑執行で決着しました。
 この大逆事件の年1910年には、野間清治が後の講談社文化誕生への足場となる『雄弁』を創刊、壮士劇で一世を風靡した川上音二郎が大阪北浜に帝国座を開業するなど、帝国なる誇称が時代の潮流となる夜明けでもありました。河上は、このような時代に向き合い、歴史の構造を問い質そうとした『時勢之変』(1910年12月26日擱筆、1911年3月刊)を、さらに1911年2月14日に脱稿した「日本独特の国家主義」で己の想いを直截に説き語り、日本という国の在り方を告発します。
 「日本独特の国家主義」は、日露戦争後の日本を「国民的自負の時代、西洋文明輸入の反動時代」とみなし、「日本人の思想は明治40年代を一期として全く其の方向を転化した」となし、日清戦争の勝利が「吾が国民の自負心」を強めたが、「清国人は吾等と等しく東洋人たるのみならず、其の文明は吾が文明の大部を構成せる要素たるが故に、我の彼に勝ちたる一事は、未だ以て、東洋人たる日本人としての自負心を惹起するに至らず、寧ろ戦勝の原因を以て、西洋文明の輸入に於いて我国の清国に一歩を先んぜしの点に帰せんとするの傾向を免れざりき」と。
 しかし日露戦争の勝利は、日清戦勝と異なり、「西洋人に勝ちたりと云ふ一事は、実に甚しく吾が国民の自負心―東洋人たる日本人としての自負心を強めたり」と。いままでは西洋人にはとてもかなわないとして、「偏に西洋文明の輸入を計画したる吾が日本人は、此の戦勝に由りて、西洋文明必ずしも恐るるに足らず、却て自家の文明に尊ぶべき或物あるべしと考ふるに至れり」と。

国民的自負心がもたらしたもの

 日本は、清国への勝利を「西洋文明の賜物」とみなしたが、ロシアに勝利したことで「吾が日本人は、他の東洋諸国にも無く又西洋諸国にも無き何等か偉大の特徴を有し居るに相違なしとするの思想、勃然として吾が日本人の間に引き起さるるに至りたり」と、民族の偉大さを誇ることになりました。ここに明治維新以来の「上下都鄙を通じて実に国民一般の思想を支配」してきた「西洋文明の崇拝」に変わり、西洋を「軽蔑」「排斥」することとなり、「警戒」「禁遏」という風潮が世を覆い、「日本人は、自家の文明に何等か偉大なる特徴あることを自覚」することになったと、野郎自大の思いにとりつかれたのです。
 ここに「軽率なる一派の人人は、何等慎重の審議攻究を経ることなく、苟くも今日の西洋に無くして我が日本に或るものならば、其の文明史的意義の如何を問ふことなく、片端より手当り任せに、各々其の思付きに従ふて復古的言説と運動と開始するに至れり」となし、漢学、家族制、孝道、武士道等々の復興を指摘し、「何れも皆な新たに展びんとするの要求に非らずして、一に古きを守らんとするの要求」だとなし、学者の研究にみられる一般的傾向も「日本民族性の研究」で「日本民族の特徴を高調して、恰も現代の日本を謳歌するもの」で、海外からの帰国者も西洋の「短を挙げて我の長を示す」言動に急であると。
 このような戦勝の産物である国民的自負は、「自負すべからざる所に行はれ、斯くて維持すべからざるものを維持し、変ずべきものを変ぜざることと為り、或は妄りに天祐を迷信し誤つて中華の謬想に陥ることあらんか、吾が日本文明の発展は全く是が為めに封鎖さるるに至るべければ也」と。ここに求められるのは、「妄りに他の意に迎合せず、各々信ずる所を披瀝して思想の開発に務ること、蓋し刻下の任務ならん乎」と、己が日本によせる想いを問いかけます。
 かく問い質された国民的自負心は、何も日露戦争後の世上人心にとどまることなく、現在も声高にかたられる中国や韓国への嫌悪感をうながす言動に読みとれましょう。河上肇は、このような日本人の在り方をして、「西洋人の人格、日本人の国格」として問い質していきます。そこには日本という国の本質が提示されています。次回はここに解析された「独特の国家主義」を読み取ることにします。

 

参考文献

  • 『河上肇集』近代日本思想大系18 筑摩書房 1977年
  • 河上肇『自叙伝』全5冊 岩波文庫 1976年

 

 河上の『自叙伝』は、時代に翻弄されるなかで誠実に生きた人間の営みを記録した作品で、「こころの歴史」が忠実に描き出されています。時代を生きるには何が問われているかが読みとれます。

国語読本にみる日本と日本人

「日本国」という世界

 明治期に刊行された国語の教科書は、文学教育よりも、国民道徳の涵養をはかるものでした。金港堂版『尋常国語読本』は、1900年(明治33)7月の小学校令、同施行規則のもとづく検定教科書ですが、日清戦争の勝利による国家意識を小学生に根付かせるべく、日本という国の姿を空間的に説くのみならず、天皇の国であることを説き聞かせています。小学2年生には、戦勝がもたらした日本国の地理的範囲とともに、万世一系の天皇の民である喜びと務めが教え、日本国民であることを自覚させます

我が日の下は、あじやなる、太平洋の其の中に、大き小さきうちまじり、斜にわたる島つ国。
さて其の中のおもなるは、五大島とて、五つあり。
其の第一は、本土にて、四国・九州・台湾は、西と南に立ち並び、北海道は、北にあり。
小島の数は多けれど、其の中殊に、名高きは、千島・佐渡・隠岐・壱岐・対馬、さては琉球・澎湖島。
其の道のりを南より、北のはてまでかぞふれば、一千里にもあまるべし。
土地の分ちは昔より、地勢によりてさだめたり。
京都もよりを畿内とし、東と北は、東海道、東山・北陸・北海道、西と南は、南海道、山陰・山陽・西海道、国の総数八十四、人口凡そ4千万、是に琉球台湾の、土地と人とをくはふれば、たやすくかぞへつくされず。
上は万世一系の、たふとき 天皇ましまして、民をみること子のごとし。
民はそれそれなりはひをつとめはげみて、一すぢに、忠と孝とをつくすなり。
げにたふときは日の本ぞ。

 日本国民は、万世一系の天皇の子である「臣民」として、各人に相応しい生業に励み、忠孝を尽くさねばならない存在なのだと教え諭されたのです。この天皇が統治する国の由来は、天孫降臨の物語を、小学3年生の第1課「我が國の昔話」として語り聞かせています。

昔話という問いかけ

 「我が國の昔話」は、古事記が「邇邇藝命(ににぎのみこと)に科詔(おほ)せて、此の豊葦原水穂国(とよあしはらみづほのくに)は、汝知(みまししら)さむ国なり、と言依(ことよ)さし賜ふ」と描きだした世界を、日向高千穂への降臨、神武天皇の東征と即位、皇位継承の証である三種の神器をめぐる天孫降臨、神武東征が物語る日本のことはじめを、神話的潤色もなく、「古き昔」のこととして簡潔に述べています。
 ついで国土平定を第2課、3課「日本武尊(やまとたけるのみこと)」で説き、この日本に現在知ろしめす「今上天皇陛下並に 皇后陛下の御盛徳」を第16課「皇恩」として語り聞かせます。そこでは、明治天皇が1873年(明治6)の宮城火災後に「国事多端」として御所の造営をいそがなかったこと、皇后が「不孝の民をめぐみ」学校、病院に足を運ばれた事績を紹介し、「あはれ我等国民は、かくばかり大いなる皇恩の下に月日をおくれり、さらばいかにして其の万分の一をだにむくい奉るべき、ただ身を修め業をはげみて、君の御心を安んじたてまつるべきなり。」と、「皇恩」をことほぎました。

美しき国日本の虚実

 最終学年の4年生では、「大和めぐり」「藤原鎌足」「伊勢まゐり」と皇室の故地と権威を確立していく世界を述べて後に、巻7の第4課「日本の美風」で天皇が営む祭りにかさねて先祖祭祀の意味を説きます。まさに祖先教は、日本の美風とみなされ、皇国日本の国のかたちを巻8の第1課「我が國」で「気候温和に土地肥えて、五穀善くみのる」「瑞穂の国」の美しい姿として、次のように確認します。

此の国をすべ治め給ふは、万世一系の 天皇なり。天皇の御血筋は、国の初より今に至るまでつづきつづきてしばしもたえたることなし。古き昔はさておき神武天皇より数ふるも、今に至るまで、御代を重ぬること百二十二代、年をふること二千五百余年の久しきに及べり。
此の間、世々の天皇は、皆御徳盛にましまして、ひとへに臣民の幸福を進め、苦難を除くことを務めさせ給ひ、臣民も亦其の恩沢に感じて、忠義を励み、善く事へまつり来りければ、世の中、大方おだやかにして、異国にはなき程の事なりき。
かかるめでたき国に生まれ来たる我等の幸は、実に大なりと云ふべし。されば我等は、皆々よく心を会はせて、国勢の益々盛ならんことをはかり、皇運のいよいよ栄えまさんことをいのるべきなり。

 瑞穂の国日本は、万世一系の天皇の威徳により、国勢盛んにして、美しい国とみなされました。そして「明治の御代」を「国の威光を世界にかがやかし」「日本の為めに利益を増し、武威を増し、名誉を増した」「めでたき御代」と寿ぎます。ここに国民は、「臣民」として、天皇の恩沢に報ゆるべく忠義に励み、己の生業に務めることが課されたのです。
さらに高等科では、「臣民」たる義務をおりにふれて説き聞かせ、現在の6年生に相当する学年を終えるにあたり、あらためて「国の名誉」を確認させております。この「国の名誉」は、「政体の美」を温和な気候と日本三景、吉野の櫻、田子の浦等々の「風景の美」に重ね、「千百年の美観旧蹟」で「日本帝国の名は、世界に鳴り渡れり」と、政体と自然を一体にすることで世界に冠たる日本を誇り、「愛国」の業を言挙げしてやみません。

夫れ勇壮義烈にして、身命を軽んじ、国家を重んじ、一歩も敵国に譲らざるは、是、事ある時の愛国なり。快活にして毫も猜疑の心なく、外人を遇すること親切なるは、是平和なる時の愛国なり。此の二つのもの若し一を缺く時は、気候風土も恃むに足らず、美観旧蹟も誇るに足らず。国の名誉の亡びんこと、踵を回らすを待たざるなり。
今や吾が国民は、幸に此の二つのものを兼ね有てり。諸子此の美風を継続して墜すことなくば、日本帝国の名誉は、千秋万歳永く世界に輝くべし。

 昨今声高に説かれる「美しい国」日本という言説は、1900年初頭、日清戦争勝利の昂揚感にうながされ、万世一系の皇統の国日本への「愛国心」をうながし、「臣民」たる国民の育成をめざす声をよびもどそうとするもののようです。思うにユネスコの世界遺産に登録された富士山フィーバーの底流には、「経済大国」日本の失墜で喪失した民族の自負心をして、富士山に託して「国の名誉」を説き聞かせ、「愛国心」の昂揚で「日本をとりもどす」との想いがあります。まさに、このような「美しい日本」の原像にひそむ世界は、万世一系の皇統の国柄への強き信仰に導かれたもので、「身命を軽んじ、国家を重んじ」る「愛国心」の発露なのです。それだけに現在問われているのは、「読本」が説き聞かせてきた日本のかたちに距離をとり、「天皇の国」として身体に刻みこまれた世界をして、一個独立した己の場から質していく作業ではないでしょうか。

「愛国心」を自覚した秋

承前

 「大皇国」日本という言説は、教育勅語に唱和していくなかで、「茅屋の民」を皇室になびく民草たる「臣民」に造型し、時代の危機に対応することで声高に語られ、日本人たる者の心の拠り所とみなされました。日清戦争は、このような日本と日本人であることへの眼を開き、日本国民たる「我」を強く自覚させ、愛国心を覚醒しました。愛国心なるものの最大の教師は戦争です。このことは、現在も眼にすることで、竹島や尖閣諸島の問題を喧伝することで、歴史教科書の在り方を論難し、「日本をたてなおす」「日本を取りもどす」という言説が横行している世間の風潮にみることができます。それだけに「愛国心」なるものが叫ばれたのは何時なのかを知りたいものです。

日清戦争前夜の空気

 日本の暮らしにはシナ―中国文明が生活に色濃く影をおとしていました。寺子屋で習ってきたのは四書五経の世界からの道徳訓であり、公式に書く文字は「漢字」といわれてきたシナの言葉、シナの文章を「漢文」として日本流に読み解く漢文訓読の作法を身につけることが教養人の証です。現在でも「漢文」が国語の授業で教えられ、大学入試の受験科目に入っています。「漢文」は日本のみならず中華文明圏で育った国々にとり、ヨーロッパ世界のラテン語に相当するものにほかなりません。漢籍の素養は武士階級をはじめ知識人の証でした。
 さらに祭りの山車が漢の高祖や楚の項羽などの英雄豪傑で飾られていますように、庶民の世界には水滸伝で語られてきた物語がねざしていました。そのため日本の歴史はシナの物語になぞらえて語り聞かされてきたのです。日本の英雄豪傑は、忠臣楠正成が日本の諸葛孔明とされたように、水滸伝の世界になぞらえて紹介されてきました。日清戦争時に12歳であった生方敏郎(1882-1969)は、上州(群馬県)沼田で生まれ育った日々の暮らしが、家をいろどる屏風や絵皿が「唐人と唐人の遊技図や南京皿」であり、学校で教えられるのは「支那の文字」で、「日本人は当時支那人以上とまでは誰しも自負していなかった。ただその以下でさえなければよい、と考えていた」(『明治大正見聞史』)と、少年期の思いを回想しています。
 日本は圧倒的な中華文明の影響下に国家を形成してきただけに、「大皇国」日本という強烈な自己主張はその劣等感が裏返されたある種の「優越感」の表明と言えるのではないでしょうか。それだけに清国―シナとの戦争は庶民を不安と焦燥にかりたてたのです。
 横浜の芝居小屋では、日本人の妻と別れるシナ人の物語等が上演されると、シナ人に扮した役者を観客が罵倒し、舞台に物を投げるという光景が見られたそうです。そのため舞台の役者が「われわれだって愛国心に富む日本人である」と、客と喧嘩することもあったのです。まさに戦争は日本に広くシナへの憎悪と敵愾心を増幅していきました。

日本国民たる我

 会津藩出身の井深梶之助(1854-1940)は、会津敗北後に藩命で東京に遊学、苦学して横浜でオランダ改革派教会の宣教師のS・ブラウンに出会い、1873年(明治3)に受洗、キリスト者となり、86年に明治学院創立で日本側理事となり、89年に副総理に就任、学院の運営にあたった人物で、日本のキリスト教界を代表した一人です。94年9月に井深は、横浜で開催された女子夏期学校で「社会改良の前途に就いて」なる講演で日清戦争と条約改正が日本の「第二の維新」にあたるものとなし、日清戦争が日本と日本国民にもたらす意義を問いかけました。
 まず「2師団即ち5万内外の帝国軍隊」の「朝鮮出陣」と「帝国10万の兵は支那国に侵入し、北京城を指して進撃」し、海軍が「威海衛、旅順口を衝き、直ちに天津を指して進行するならん」という戦況にふれ、「此の如き戦争は、日本建国以来未曾有の大事件にして、百般に付き其の影響の非常に広大なるべきこと亦論を俟たず。我が陸海軍兵機の精鋭なる、兵士の勇武なる、当局者の熟練なる、此の戦争や必ず我が國の勝利に帰せんこと毫も疑いを容れず。然らば即ち、果して此の大戦争の我が勝利に帰したる暁には、之れより生ずる所の影響は如何あらん。」として、次のように語りかけています。

先ず我が帝国の武力を世界に発揮するは勿論、外交上に於ても、貿易上に於ても、工業上に於ても、大なる影響あるは明白なりと雖も、我が国民の精神上に於ても亦一大変更を来たすや疑いを容れず。先ず第一に国民的精神の発達なりとす。夫れ人は他あるを知りて始めて己あるを知るが如く、国民も亦他国あるを知りて始めて自国あるを知るなり。試みに王政維新前のことを想い見よ。非凡の学者は格別、通常の人は己の生国又は藩あるを知りて、日本国又は日本国民なるものあるを知らざりき。現に余輩の学校に時に日本国民と云う詞を聞きたる覚えなし。只常に耳にしたる所のものは、江戸将軍家、薩摩、長州、土佐、鍋島、尾州、水戸、越前等と云う名称なりき。成る程偶には、日本、唐土、天竺等の語を耳にせざるに非ざれども、実に茫々漠々として雲をつかむ如き考えなりき。実に余は会津藩士たる我なるを知りたれども、日本国民たる我あるを知らざりしと云いて可なり。実に不都合千万成る事にして、今日より想えば殆んど想像に困しむ事なれども、事実此の如くなりし事は、維新前に生長したる人に聞きて知るべし。然るに、今回清国の開戦に関する日本国民の感情は如何。貴賤の差別なく、東西の別なく、四千万人の感情全く一人の如く然り。今にして尚且つ然り。況んや愈々今回の戦争にして我が帝国の大勝利に帰するに於ては、此の国民的精神即ち愛国心の大発達を見るや疑いなし。

 日清戦争は、「帝国の武力を世界に発揮」することで、「日本国民たる我」を自覚させ、愛国心の大発達をうながします。その勝利は、「支那人の傲慢亡状を懲らしむる」もので、「不健全なる漢学即ち支那主義」に加えられた打撃とみなされたのです。まさに戦争は、敵国清を強く意識することで、日本と日本人という意識を研ぎ澄まし、旧藩的な藩(くに)から日本国民へと脱皮させたものにほかなりません。ここに日本は、戦争に勝利していくことで帝国となり、自家中心的な愛国心を肥大化させ、夜郎自大な自画像に陶酔していくこととなります。

 

参考文献

  • 大濱『庶民の見た日清・日露戦争―帝国への道―』刀水書房 2003年
  • 『井深梶之助とその時代』第2巻 明治学院 1970年

日本という国のかたち(2)

「平民国」日本へのまなざし

 日本は、世界に数ある帝国のなかで、地球上における唯一つの大君主である天皇を戴く「大帝爵国」と自称し、他の「帝国」を「偽帝国」とみなし、「大皇国」であることに存在の根拠を主張することで、万国が対峙し、世界制覇を競う国際社会に登場していきます。明治維新は、「大皇国」日本を実現すべく、皇室の下に民心を結集することで、欧米列強の圧力に抗しうる国家をめざした革命です。
 革命の主体勢力であった薩長藩閥勢力は、国家独立のために人民の権利よりも権力の確立強化を優先したがために、人民の政治参加こそが国権確立に欠かせないと説く自由民権を主張する在野勢力と激しく対立します。この国権と民権の対立抗争する時代を凝視し、「将来の日本」像を1886年(明治19)に提示したのが徳富蘇峰でした。徳富蘇峰の『将来之日本』は、89年の大日本帝国憲法発布、90年の国会開設を前にした時代の声に応じ、国家のあるべき姿を「平民的の社会」の実現に見いだすことで、知識青年に歓迎されたベストセラー作品です。

 吾人はわが皇室の尊栄と安寧とを保ちたまわんを欲し、わが国家の隆盛ならんことを欲し、わが政府の鞏保ならんことを欲するものなり。これを欲するの至情に至りては、あえて天下人士の後にあらざることを信ず。然れども国民なるものは実に茅屋の中に住する者に存し、もしこの国民にして安寧と自由と幸福とを得ざる時においては国家は一日も存在するあたわざるを信ずるなり。しかしてわが茅屋の中に住する人民をして、この恩沢に浴せしむるは実にわが社会をして生産的の社会たらしめ、その必然の結果たる平民的の社会たらしむるにあることを信ずるなり。すなわち我邦をして平和主義を採り、もって商業国たらしめ平民国たらしむるは実にわが国家の生活を保ち、皇室の尊栄も、国家の威勢も、政府の鞏固も、もって遥々たる将来に維持するのもっとも善き手段にして、国家将来の大経綸なるものは、ただこの一手段を実践するにあるを信ずるなり。

 蘇峰は、皇室の尊栄と安寧も保つためにも、「平和主義」にもとづく「商業国」「平民国」を将来の日本像として提示しております。そこでは、「茅屋の中に住する者」たる国民の安寧・自由・幸福を保証する国家の在り方を、「商業国」「平民国」「生産的の社会」―産業資本主義に立脚するブルジョワデモクラシーの国とみなそうとしています。この言説は、未だ資本主義の激烈な競争場裏を目の当たりしていないなかで、牧歌的な響きで語られたものといえましょう。しかし日本の現実は、欧米列強との苛烈な競争に立ち向かい、国家富強の道を歩まねばなりませんでした。そのため「茅屋の中に住する者」たる「平民」には国家富強の捨て石となることが求められていたのです。

一国富強への道

 政府は、「皇室の尊栄と安寧も保つ」ためのに、蘇峰が提示した世界ではなく、一国富強をめざすドラスチックな方策を選択しました。その方策は、開化の風浪に奔流されていた教育を再構築することで、茅屋の民たる国民を国家の民となし、一国富強の担い手とすることです。ここに教育では、「万国和親」の下で「万国史略」、世界史を講じていた教育を否定し、1881年(明治14)の小学校教則綱領、小学校教員心得で尊皇愛国の精神に貫かれた「熟練」「懇切」「黽勉」という徳の養成をかかげ、「尊皇愛国の志気を振興し忠孝節義の風尚を涵養せんことを要す」ことが歴史教育に求められました。
 初代文部大臣森有礼は、1889年1月28日に直轄学校長に「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」と説示し、閣議にはかった意見書で「今夫国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせんと欲せば国民の志気を培養発達するを以て其根本と為さゝることを得ず」、と国家の教育目的を次のように述べています。

 今は文明の風駸々として行われ、日用百般の事物漸く変遷し進む。然るに我が国民の志気果して能く錬養陶成する所ありて、難きに堪え苦を忍び、前途永遠の重任を負担するに足る歟。二十年の進歩は果して真確精醇深く人心に涵漸し、以て立国の本を鞏固ならしむるに足る歟。加ふるに我國中古以来文武の業に従い躬国事に任ずるは偏に士族の専有する所たり。而して今に至り開進の運動を主持する者僅かに国民の一部分に止まり、其他多数の人民は或は茫然として立国の何たるを解せざる者多し。
 顧みるに我国万世一王天地と共に極限なく上古以来威武の輝く所未だ曾て一たひも外国の屈辱を受けたることあらず。而して人民護国の精神忠武恭順の風は祖宗以来の漸磨の陶冶する所未た地に墜るに至らす。是即ち一国富強の基を成すか為に無二の資本至大の宝庫にして、以て人民の品性を進め教育の準的を達するに於て他に求むることを仮らさるべき者なり。蓋国民をして忠君愛国の気に篤く、品性堅定志操純一にして、人々怯弱を恥ち屈辱を悪むことを知り、深く骨髄に入らしめは、精神の嚮ふ所万波一注以て久しきに耐ゆべく、以て難きを忍ぶべく、以て協力同志して事業を興すべし。督責を待たずして学を力め智を研き、一国の文明を進むる者此気力なり。生産に労働して富源を開発する者此気力なり。生産に労働して富源を開発する者此気力なり。凡そ万般の障碍を芟除して国運の進歩を迅速ならしむる者総て此気力に倚らざるはなし。長者は此気力を以て之を幼者に授け、父祖は此気力を以て之を子孫に伝え、人々相承け家々相化し、一国の気風一定して永久動かすべからざるに至らば国本強固ならざるを欲すとも得べからざるべし。

 ここに日本の教育は、「万世一王」、万世一系の皇国の民たる気力を鼓舞することで、生産に労働に励む国家の民を育成することを至上の価値としたのです。この国家至上の教育は、蘇峰の思いとは逆に、「茅屋の民」をして国家躍進の捨て石、皇国の埋め草にすることでもありました。まさに「大皇国」の民は、「民草」にふさわしく、国家の風になびく草として生かされたのです。この国家至上の教育を支えるものとして期待されたのが教育勅語でした。まさに教育勅語は、「維新以来教育之主旨定まらす国民之方向殆んと支離滅裂に至らんとする」状況に対し、森がめざした教育を具体化したものにほかなりません。
 このような国の在り方は、根源的に問い質されることなく、愛国心教育の欠落をことさらに説く昨今の風潮に重ねてみると、未だ日本の大地に深くねざす遺伝子として日本人の心を呪縛しているのではないでしょうか。

 

参考文献

  • 『ナショナリズム』現代日本思想体系4 筑摩書房 1964年
  • 『学制百年史』 文部省 1972年