日本という国のかたち(1)

「日本国」への眼

看板に記載してある内容は、諸説あるうちのひとつです。

 安倍総理が口にする「長い歴史と固有の文化を持つ日本国」「美しい国」日本とはどのような国家の在り方を問い語っているのでしょうか。具体的には何もありません。
 己の存在する場を確認しようとの営みは、その存在が脅かされるとき、危機感にうながされての発動です。現在、このような問いかけが何か意味を持つように思われるのは、経済の停滞で「経済大国」日本が失速し、国際的地位の低下に加え、韓国や中国との島嶼の帰属をめぐる紛争、北方領土返還等々、閉塞感に覆われている日本の状況を「国家の危機」と提示することで、強きナショナリズムを鼓舞していこうとの政治の作法がなりふりかまわず表出していることによります。
 ここに表出してくる国家に寄せる強き想い、ナショナリズムという気分は、19世紀半ば以降、鎖国下で「徳川の平和」を謳歌していた日本にとり、西洋諸国の蒸気船の来航がもたらした衝撃が日本への眼を開かせる時代と重ねて読み解くと、「美しい国」なる言説に秘められた世界がみえてきます。黒船来航がもたらした衝撃は、会沢安が1824年5月のイギリス船常陸大津浜来航への衝撃から執筆し、翌25年に脱稿した『新論』、27年に松平定信に謹呈された頼山陽の『日本外史』、攘夷決行の空気を一身にうけて61年(文久元)に書き上げられた竹尾正胤の『大帝国論』等々が描いていますように、日本という国のかたちが問い質され、ひとつの国家像が提示され、明治維新への奔流を生み出す原動力となったものです。そこで日本が世界に冠たる「大帝国」であることを説いた『大帝国論』を読むこととします。

竹尾正胤とその時代

 竹尾正胤は、三河国舞木、現愛知県岡崎市の山中八幡宮の社司で、平田篤胤の没後門人の一人です。その著『大帝国論』は、文久元年3月18日に書き上げ、同3年12月に再訂され、世に問われたものです。この文久3年は、京都の朝廷が江戸の将軍に攘夷をせまり、政治の舞台に登場してくる大きな足場を築いた年にあたり、京都と江戸がヘゲモニーをめぐり火花を飛ばし、攘夷から討幕への転換期ともいえる年です。その動きは、
 3月11日 孝明天皇、攘夷祈願で賀茂神社に行幸、将軍も随從
 4月11日 石清水社へ行幸、将軍病気を理由に従わず
 4月20日 将軍、天皇の強い意向に逆らえず、5月10日を攘夷決行の日と奉答
 5月10日 長州藩、攘夷決行の証として、下関海峡を通過するアメリカ商船を砲撃、
 23日、フランス艦、26日、オランダ艦を各砲撃(下関事件)
 6月 英・米・仏・蘭の4国連合艦隊、下関砲台を攻撃、占拠
 7月2日 イギリス艦隊、鹿児島湾で薩摩の城下を攻撃(薩英戦争)
 8月17日 元侍従中山忠光らが大和五条に挙兵(天誅組の乱)
 18日 公武合体派が朝廷より攘夷派追放、19日、三条実美ら7公卿、長州に逃亡
と激しい権力闘争の渦中に読みとることが出来ます。この状況下、平田門の国学者は、篤胤の古史伝上木の募金に託し、攘夷祈願に重ねた御一新をめざすオルグ活動を展開しております。竹尾は、このような時代の気分を一身に受け止め、日本とは如何なる国かを確かめるべく、『大帝国論』を著したのです。

日本が世界唯一の「大帝国」たる根拠

 『大帝国論』は、世界史の中に日本国を位置づけることで、日本が冠たる大帝国であることを論じたものです。この歴史書は、ノアの箱舟にみられる聖書物語にはじまり、ギリシャから、皇帝暗殺に明け暮れる下剋上のローマ史を描き、ヨーロッパの王朝交代史を延々と述べることで、日本が帝国のなかの唯一正統な帝国たることを論証しようとした世界史といえます。その冒頭には竹尾の思いが端的に表明されています。

 凡斯一地球の中にて、西夷等が帝国と称する国六あり。所謂亜細亜洲にて、皇国・支那・欧邏巴(ヨウロッパ)洲にて、独逸(ドイツ)・都児格(トルコ)・魯西亜(ロシア)・仏蘭西(フランス)すなわち右の六国にて、其外は、王侯、或は共和政治の国柄なれば、英吉利(イギリス)国の如は、近来万国に縦横して、兵威甚盛なりと云ども、未帝国の号を云ず、其他は、大概これに擬て知るべきなり。

 ここには、帝国といえる国が皇国日本をふくめ6カ国、他に王国、共和国があり、イギリスが軍事力で世界に覇を誇示しているものの帝国を呼称しえない国であると、世界各国の状況を提示しています。さらに6帝国は、西洋人が選んだ「正統の帝国」とはいえ、「大皇国」たる日本だけが全世界で唯一の「大帝爵国」で、支那、独逸、都児格、魯西亜、仏蘭西が帝国を勝手に名乗る「偽帝国」にすぎないと。日本が世界の唯一の大帝国であるのは、万世一系の皇統の国で、天皇が地球上における唯一つの大君主であるからだと。
 日本が「大帝爵国」であるのは、各国が王位簒奪の歴史であるのに対し、「神代以来万古に貫て、日月と共に明光を並て栄させ給ふ其美事を主張」する「天皇命」の国、万世一系の国であるからにほかなりません。ここに『大帝国論』は、各国の王位簒奪の歴史を詳述し、「我皇国は万世一系の天統」であることを強調し、万世一系の皇国たることを説き聞かせたのです。ここには、圧倒的な軍事力を誇示して迫る欧米列強の圧力に対し、皇国日本をよりどころに、己が存在する場を万世一系の皇統への信仰に求め、その存在を確かめている姿がうかがえます。
 この日本像こそは、万世一系の皇統への信仰にうながされるまま、現在も語り説かれる「長い歴史と固有の文化を持つ日本国」「美しい国」日本の原像にほかなりません。このような国のかたちこそは、神国日本の残映であることを問い質すことなく、現在まさに求められ、明日の日本像として理想化されている日本という国のかたちのようです。

 

参考文献

  • 芳賀・松本編『国学運動の思想』日本思想体系51 岩波書店 1971年
  • 大濱『天皇と日本の近代』同成社 2010年

日本、日本人とは(2)

日本理解をめぐる確執

 アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノが来日した時の日本イエズス会は、フランシスコ・ザビエルから30年の伝道成果として、10万人のキリスト者を生むほどに大きな躍進の時を迎えていました。その教線は、南は鹿児島から東は美濃、尾張に及び、長崎、島原、天草、五島、平戸、博多、豊後、山口、京都、高槻、堺、河内、安土等の各地に教会が形成されていました。このような活況を呈して日本伝道の前途は、全日本布教長ポルトガル人フランシスコ・カブラルと都地方長イタリア人オルガンティーノ・ソルドの日本布教をめぐる確執により、閉塞感にとらわれていました。それは、伝道方策の亀裂によるもので、両者の日本人観がもたらしたものです。
 ヴァリニャーノは、カブラルの日本像を否定し、オルガンティーノの日本理解に示唆を受け、日本順応の布教戦略を日本イエズス会の方針としたのです。その方策は、日本人の性格を厳しく問い質し、その心に秘めた「邪悪」さに嫌悪感を語るカブラルの日本像より、ある種心地よいものでした。
 オルガンティーノは、1577年10月のイエズス会総長宛書簡で多数の宣教師がいれば、「10年以内に全日本人はキリスト教徒となるであろう」と、高らかに宣言し、日本人が優秀であることを力説する一方で、その優秀さの底にある道徳観念がもたらす落とし穴に怯えてます。ここには、先に紹介した芥川龍之介が描いた闇に慄きとまどう姿、日本の神々の微笑がもつ危険な誘惑がかたられています。

 この国民は野蛮ではないことを御記憶下さい。なぜなら信仰のことは別として、私達は互いに賢明に見えるが、彼等と比較するとはなはだ賢明に見えるが、彼等と比較するとはなはだ野蛮であると思う。私は真実のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる。したがって、尊師、願わくは、ヨーロッパで役立たないと思われる人が私達のもとで役立つと想像されること無きように。当地では優鬱な構想や、架空の執着や、予言や奇蹟に耽る僭越な精神はことに不必要なのである。私達に必要なのは、大度と慎重さと、聖なる服従に大いに愛着を感ずる人なのである。
 さらに、私は尊師に、住民ははなはだ不品行で、必要な貞操観念をほとんど評価していないので、危険に満ちていることを御報告申し上げたい。私はこれを同僚を疎んじて申すのではなく、堅固な徳操を獲得するよう激励して申すしだいである。されば彼等は当地に派遣されるならば、天使のごとくあらねばならず、その生活の模範によって、この国民を不貞から貞潔の実践へ連れ戻さねばならぬのである。

カブラルの眼

 カブラルは、オルガンティーノが怯える日本人の「道徳的」に暗く深い闇に対し、その闇にこそ日本人の本質があらわれているのだという認識をもち、そのような日本人への嫌悪感をあらわにした言動でしめしたのです。

 私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民を見たことがない。彼等が共同の、そして従順な生活ができるとすれば、それは他になんらの生活手段がない場合においてのみである。ひとたび生計が成立つようになると、たちまち彼等はまるで主人のように振舞うに至る。日本人のもとでは、誰にも胸中を打ち開けず読みとられぬようにすることは、名誉なこと賢明なことと見なされている。彼等は子供の時からそのように奨励され、打ち明けず、偽善的であるように教育されるのである。彼等は土着民であり、彼等には血族的な繋りがあるが、日本におけるヨーロッパ人には、一人の親族があるわけでもない。彼等はラテン語の知識もなしに私達の指示に基づいて異教徒に説教する資格を獲得しているが、これがために我等を見下げたことは一再に留まらない。日本人修道士は、研学を終えてヨーロッパ人と同じ知識を持つようになると、何をするであろうか。日本では、仏僧でさえも20年もその弟子に秘義を明かぬではないか。彼等はひとたび教義を深く知るならば、上長や教師を眼中に置くことなく独立するのである。日本人は悪徳に耽っており、かつまたそのように育てられているので、それから守るためには、主なる神の御恩寵に頼るほかはない。日本で修道会に入って来る者は、通常世間では生計が立たぬ者であり、生計が立つ者が修道士になることは考えられない。

日本人に問われていること

 教義を身につけたら外国人宣教師に対して己を主張するようになるとの指摘は、何も16世紀のイエズス会の問題ではなく、近代化のなかでキリスト教を手に入れた日本人キリスト者の言動にみられたことです。日本のプロテスタント教会がかかげた自給独立教会への強き志向、内村鑑三らの言動には、カブラルが危惧した世界につうじるものが読みとれます。かつ修道会に入るのは生計の立たぬ者との指摘には、明治維新後の社会にあって、宣教師の下で英語を習得して世に出るべく開港場に出入りし、宣教師に生活をみてもらい、その支援でキリスト者となることで海外留学への切符を手にいれようとした「ライスクリスチャン」と揶揄された者につらなる世界がうかがえましょう。
 カブラルが嫌味をあからさまに問いかけ日本像は、日本、日本人の相貌をとらえたもので、ヴァリニャーノやオルガンティーノの陰画にほかなりません。礼儀正しく、忍耐強い日本人像は、喜怒哀楽を秘めて生きる姿に、傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民とみなさたものにほかなりません。このような日本人の相貌は、16世紀の日本像ではなく、現在も日常的にみられる風景ではないでしょうか。
 ここには、日本人が「信義」を重んじる国民であるのかとの問いかけがあるのではないでしょうか。この問いに向き合うには、「偽りの教義」、正しい信仰を身につけていないがために欺瞞と虚構が満ちており、嘘を平然と語り、陰険に偽り装うことを怪しまない、嘘も方便とみなす世渡りの作法で生きる民、とのヴァリニャーノが指弾した日本人の処世術に対峙し、己の内なる世界を凝視するなかに「日本人」たる我とは何かを思い描くことが求められています。現在、声高に説かれている日本像、「美しい国」「おもてなし」云々で表現されている日本像は、16世紀にイエズス会士が問い質そうとした世界に向き合い、応答しうるだけの内容を提示しているのでしょうか。わたしの眼には、何一つ内容のない、無慚な声に聞こえるのですが。いかがなものでしょうか。

日本、日本人とは

何故、声高に日本が語られるの

 安部総理は、「我が国の平和と安全のため」「我が国の経済の発展のため」「我が国の国際競争力のため」に、「長い歴史と固有の文化を持つ日本国」「今や国際社会に重要な地位を占めている我が国」の固有性を宣揚し、「美しい国」日本を何かにつけ声高に説いています。ここに宣揚される「日本人」「日本国」とは何なのでしょうか。施政方針は、世界に冠たる日本になるべきだとのとの強い決意を宣言していますものの、日本について何一つ具体的に語っていません。しかしその思いは、日本国憲法が占領軍によってつくられたものとなし、天皇を元首と戴く国になるべきだ、との主張を読み解けば、「美しい国」日本の原像を大日本帝国憲法下の日本に求めているようです。
 ここで問われるべきは現在語り説かれている「日本」「日本国」とは何なのかを検証する作業です。国家は、その存在をおびやかす他者、他国を意識したとき、自己の存在を強く主張することで国民をとりこもうとします。その風潮は、ナショナリズムを増幅させ、過剰なまでに日本人であること、世界に向かい日本の優位性を説くことをうながします。このような時代の気分に流される前に、日本とか、日本人とは如何なるものとみられていたかを、他者の眼で読み解き、己の場を確かめることが求められているのではないでしょうか。

アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノがとらえた日本

 そこで16世紀、西洋世界と出会ったとき、日本、日本人はどのように紹介されたかを、アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノの眼がとらえた世界から学ぶこととします。ヴァリニャーノは、イエズス会の東アジア巡察師として、その巡察区域でもっとも遠隔の地日本に1579年7月上陸、1582年2月までの2年余、日本の布教状況を巡察しました。この巡察の成果は、在日イエズス会員に日本社会へ順応した布教をうながし、16世紀を「キリシタンの時代」といわれるような状況をもたらすこととなりました。
 この巡察報告書は、1583年10月28日付けで、「日本諸事要録」として提出されました。その第1章は、「日本の風習、性格、その他の記述」として、日本の国の在り方、その国民性等々について紹介したものです。そこでは、冒頭に「日本は66カ国に分かれた多数の島嶼から成る地方」と紹介し、そこの住民と国土を次のように述べています。

 人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨーロッパ人よりも優れている。
 国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供達よりも、はるかに容易に、かつ短期間に我等の言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我等ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。
 国土は、ある地方では彼等の主食である米を産し、また麦もとれるが、他の地方は不毛の山岳地帯となっている。一般的に言って日本の不毛と貧困さは東洋全域で最もはなはだしい。というのは、ポルトガル人が支那から彼等のもとに齎し、彼等が衣類として用いる絹のほかには、ほとんど商品らしいものは何もないからである。牧畜も行なわれず、土地を利用するなんらの産業もなく、彼等の生活を保つ僅かの米があるのみである。したがって一般には庶民も貴族もきわめて貧困である。ただし彼等の間では、貧困は恥辱とは考えられていないし、ある場合には、彼等は貧しくとも清潔にして鄭重に待遇されるので、貧困は他人の目につかないのである。貴人は大いに尊敬され、一般にはその身分と地位に従って多数の従者を伴っている。
 日本人の家屋は、板や藁で覆われた木造で、はなはだ清潔でゆとりがあり、技術は精巧である。屋内にはどこもコルクのような畳が敷かれているので、きわめて清潔であり、調和が保たれている。
 日本人は、全世界で最も面目と名誉を重んずる国民であると思われる。すなわち、彼等は侮蔑的な言辞は言うまでもなく、怒りを含んだ言葉を堪えることができない。したがって、もっとも下級の職人や農夫と語る時でも我等は礼節を尽くさねばならない。さもなくば、彼等はその無礼な言葉を堪え忍ぶことができず、その職から得られる収入にもかかわらず、その職を放棄するか、さらに不利であっても別の職に就いてしまう。

 生活の貧しさが語られていますが、その貧しさには、衣食住にみられる暮らしのかたちである文化の差異がもたらしたものといえましょう。イエズス会の学校で学ぶ子供たちへの高い評価は後の少年使節派遣につながるものです。ここで感歎をもって語られている礼節と忍耐力は、「感情を表わすことにはなはだ慎み深く、胸中に抱く感情を外部に示さず、憤怒の情を抑制しているので、怒りを発することは稀である」「いかなる者も柔和で忍耐強く、秀でた性格を有するように見えるのであり、この点において、日本人が他の人々より優秀であることは否定し得ない」と、日本人への高い評価につながります。しかし日本人の無表情は、現在でも指摘されているものですが、日本人の「不気味」さとみなされるものにほかなりません。この「美徳」の裏には理解しがたい悪徳がひそんでいました。

「新奇な風俗」とみなされた悪徳

 日本人は、「非常に優れた風習や天性を具有し、それによって、世界のもっとも高尚で思慮があり、良く教育された国民に匹敵しながら、一方悪い面を有し、この点ではそれ以下がないほど悪い」として、下記の諸点が糾弾されています。

1)色欲上の罪に耽ること。なかでも「口にするに堪えない」として、「衆道」などとのいわれた男子の同性愛、男色の営みが公然としていること。
2)主君に対する忠誠心の欠如、「血族や味方同士の間で、数多の殺戮と裏切行為が繰り返される」こと。ここには、下剋上の世がもたらした社会の気風、戦国争乱を生き抜く作法が世の習いとなっていることが読みとれましょう。
3)「偽りの教義」、正しい信仰を身につけていないがために欺瞞と虚構が満ちており、嘘を平然と語り、陰険に偽り装うことを怪しまないこと。嘘も方便とみなす世渡りの作法。
4)性格は、残忍にして、軽々しく人間を殺すこと。ここでは、民家を焼き、民衆を殺戮していく戦乱のならいのみならず、敵とみなせばきり殺すことを当然視し、母親の子殺し等々が言及されています。
5)飲酒、祝祭、饗宴に耽溺することに多くの時間を消費し、幾晩も夜を徹すること。

 ここにあげられた日本人の悪徳は、礼節、忍耐等々と語られている「美徳」の裏にあるもので、現在の日本人も共有していることといえましょう。ここで指摘された残酷な処刑の作法は、現在も中国、韓国から日本の「歴史認識」として問い質されている日本人像に重ねて、読みとられることにもなりましょう。それだけに「美しい国」などという言葉に幻惑されることなく、イエズス会が共有したいと思った世界から日本をとらえなおしたいものです。すでに「ルイス・フロイスが見た日本」(Vol.28Vol.29)で描きましたが、いましばらく日本、日本人とは何かを問い質していくこととします。

参考文献

  • ヴァリニャーノ、松田毅一他訳『日本巡察記』(東洋文庫229) 平凡社 1973年

キリシタンの時代―Godの世界はどう説かれたか(続)

ザヴィエルの日本像

 日本の16世紀は、大航海時代の波涛に乗って1549(天文18)年8月に鹿児島に上陸したイエズス会士にはじまる布教により、キリシタンの時代といわれるほどにキリシタンの信仰が日本人の心をとらえていました。ザヴィエルは、「日本人は私の見た他の如何なる国民よりも理性の声に従順な国民」「質問は際限がない位に知識欲に富んでいて」(1552年1月29日)と、ヨーロッパの会友宛書簡で述べ、日本宣教への大きな手ごたえを実感していました。そのため日本に来る宣教師には「日本人のする無数の質問に答えるための学識」があり、「宇宙の現象のことを識っている」「学者」が相応しいとも。一方で日本宣教には、堺の繁栄に注目し、その交易が多大なる利益をもたらすとの認識を布教の保護者であるゴアの総督に伝えています。
 ここに来日したイエズス会の宣教師は、ザヴィエルの意向をふまえ、やがて巡察師ヴァリニャーノが確定した日本順応策の下で、貿易の利に期待した戦国大名の要望に応じるのみならず、戦乱のなかに放置された民衆の心をつかみ、急速にキリシタンの信徒を増やしていきました。その教勢は、1550年に約3万人、布教後30年で13万人、1614年の禁教令前夜にはおよそ40万前後の信徒数であったといわれています。当時の人口が2700万程度であったこと、布教区域が近畿以西の西日本であることを考慮すれば、かなりの布教率といえましょう。ちなみに現在のキリスト教徒数は、カトリックが約45万人、プロテスタントが65万人といわれています。ここには、16世紀のキリシタンの活力の盛んな状況に比べ、近代化の尖兵たる宗教との自負をもっていた近代のキリスト教、特にプロテスタントの墜ちこんだ隘路を見ることが出来ます。それだけにイエズス会は己の世界、造物主たる創造主宰神Godをどのように説いたが問われましょう。

大日からデウスへ

 ザヴィエルの話は、上陸地鹿児島において、造物主である創造主宰神デウスを「大日」と説き、天地創造からキリストの誕生、生涯、復活、昇天を語ったがために、天竺からの新しい教え、仏教の一派とみなされました。この「大日」との訳語は、ザヴィエルが案内人ヤジロウに学んだことで、日本人の嘲笑をまねいたのです。「大日」なる用語は、密教でいう光明遍照、常住不在、衆徳全備であるものの、創造主宰神ではありえず、当時卑猥な隠語としても使われていたのでした。それだけにイエズス会士は、このような誤りを犯さないためにも、教理教会の用語の移植にあたり、体系的な哲学をもつ仏教語に学びながらも、教理の和約、とくにデウスの訳語に苦闘しました。
 デウスの訳語としては、当時ひろく使われていた「天尊」「天帝」「天命」「天道」のなかから、「天道」が採用され、キリシタンに広く用いられていきました。しかし「天道」には、キリシタンの教えに違和感をあたえることなく導く利点があるものの、デウスとその摂理が誤解される危険がありました。このことは、1603年に刊行された『日葡辞書』において、「天道」を次のように訳していることに読みとれます。

Tenno michi(天の道)天の道、すなわち、天の秩序と摂理と、すでに我々はデウス(Deos 神)をこの名で呼ぶのが普通であるけれども、ゼンチョ(getios異教徒)は上記の第一の意味[天の道]以上に考え及ぼしていたとは思われない。

 そして「天」については、

Ten(天)天空、また、書物の中では、「天道」と同じ意味で、天の秩序または運航と支配とを言う、ある人々は、この語[天道] によってデウス(神)、すなわち、天の支配者を表わすと理解しているようである。

 創造主宰神であるデウスを天道とすることは、天に想いを致す信仰として、大きな違和感なく日本人の心をとらえることが可能になりました。林羅山は、こうしたキリシタンの説法に対し、「儒教を盗んで天道を説いて酒の搾りかす吐くもの」と非難します。
 かつ、「天下は天下のまわり者」という戦国乱世の論理は、天道に認められた者こそが天下人になれるとの風潮にみられますように、時代人心を動かす意識でした。まさにこの意識、気分は、天道への信仰とみなされたキリシタンへの道を可能となし、人心を魅惑したのです。
 しかしデウスの世界は、天の秩序、運航を支配する天道理解だけでなく、愛と恩寵と救済が信仰の要でした。いわば訳語は、いかに類似なものを提示していようとも、この信仰的要義を充分に伝えるものと成り得なかったのです。ここにイエズス会は、可能な限り、日本の習俗への眼を大切にした順応策をとりながらも、信仰の要義にかかわる言葉を原音で表記し、イエスの福音を証することに努めました。すなわち創造主宰神はデウス、天国は「ごくらく(極楽)」でなくパライソ、霊魂はアニマ、恩寵はガラサ、祈祷はオラショ、誘惑はテンタサン、信仰はヒイデス、聖者はサントス等々。教会の組織的用語では仏教、とくに禅宗の用語を借用しながらも、信仰の内面にかかわるものはラテン語等の原音表記で日本の神仏の世界と異なる造物主である創造主宰神の世界の優位性を説いたのです。

「神神の微笑」に怯え

 Godの世界は、キリシタンの時代にデウスとして、その信仰の要義が日本に伝えられ、キリシタンの時代をもたらしました。そこでは、日本の神々と異なる唯一の創造主宰神たるデウスにつき、日本の世界に向き合い、日本人の心に引き寄せて信仰の在り方が語り聞かされておりました。その信仰の世界は、19世紀に来日したプロテスタントの宣教師以上に、日本という大地をみつめて説かれたものでした。しかしその歩みは、芥川龍之介がオルガンチィノを主人公にした作品『神神の微笑』で描かれていますように、日本という大地の営みに濾過され、信仰の要義を原音で表記することで堅持しようとした信仰世界すらも失いかねない闇に直面していました。キリシタンの宣教師は、19世紀の「文明の徒」プロテスタントと異なり、この日本の闇を直視し、原音にこだわることで信仰の証に努めましたが、「神神の微笑」に怯え、たじろぐ世界が待ち受けていたのです。南蛮寺の夕闇にたたずむオルガンティノの耳に老人がつぶやきます。

「泥烏須(デウス)も必ず勝つとは云われません。天主教(てんしゅきょう)はいくら弘まっても、必ず勝つとは云われません。」…「我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明りにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。」

参考文献

  • 土井・森田・長南編訳『邦訳日葡辞書』(岩波書店 1980年)
  • 『キリシタン書・排耶書』(日本思想体系25 岩波書店)

新島襄とキリスト教-Godの世界はどう説かれたか【大河を読み解くシリーズ6】

 新島襄は、キリスト教に出会い、その世界を伝えようとしたとき、大文字のGodを「ゴッド」と単に表記するのでなく、God像を日本語で具体的に説くことに苦慮し、この「神」を「天上独一真神」「天上真神」「真神」「万有之造物者」「見て不得、取れとも不可取の霊神」「帝中の帝」「王中の王」「唯不可見のゴッド」「我輩及び天地万物を造れる天帝」等々、多様に表記しております。キリスト教のGodを伝えることは、日本の精神文化、かみがみの世界をどのように理解しているかにもかかわることでした。そこでGodがどう描かれているかを読み解くこととします。

新島襄が伝えようとしたGod像

 アメリカに密航した新島が父民治に無事を伝える最初の手紙は、1866(慶応2)年2月のもので、「少年の狂気業若し成らざれば死すとも帰らず」と決心し、生命に拘る国禁をも恐れず、「義すて難き主君を棄て、情わかれ難き親族をも不顧」、密かにアメリカ船で「万里之外に跋渉」、一家一族を悲哀に沈めた「多罪」は何れへも謝まってすむものではないが、この企ては「飲食栄華」のためではなく、「全く国家の為に寸力を竭」さんと「中心燃るが如く遂に此挙に及ひ候」と、密航の心意を認め、目下は「神の加護」で健康であり、日々学問修業に励んでいるので安心してほしいとの旨を認めた後、この「神」について追記しています。

此神は日本の木像金仏とはちかひ世界人間草木鳥獣をつくりし神にて永世不朽、実に我等之尊敬祈祷すへき神なり

 ついで1867年3月には、学んでいる神学校の生徒像を描き、「独一真神の道を修め」ることの道義的優位性を論じ、己が求めている世界を知らせます。

書生は多分正直信実にして一切酒煙草等を不用、強而邪淫を避け決し而女色の事杯は不談、唯天地人間草木鳥獣魚虫を造りて永々存在こゝにもかしこにも被為在候あらたかなる神、乃ち以前に申せし天上独一真神の道を修め、此世の罪を償へる聖人ジイエジユスの教を守り日夜不怠祈祷致し、其恩恵扶助をのそみ、己に克ち欲を禦き、父母に孝を尽し、兄弟姉妹朋友隣人を愛する事己に斉しく、偽詐佞弁を辱ち、悪口怒口を嫌ひ候、其風俗の美し事、何卒我朝放蕩之諸生酒をのみ自ら英雄とか称し、世間の人を見さげ豚犬とかよひ、親兄弟をけつけ、情の知れぬ女郎になじみ遂に癰毒(ようどく)に染まり、其業を失ふのみならす大切なる身を亡し、父母に難義をかくる輩に見せ度そんし候。小子も昔の七五三太とは大に違ひ深く此聖人の道を楽み、日夜怠らす其聖経をよみ、道を楽しみ善を行ひ、偏に他日の成業且国家の繁栄、君父朋友の幸福をのみ神祈仕候。

 かつ、家族が病気等で神仏へ願かけ、まじない等は無用となし、日本の神仏を論難し、「独一真神」とは何かを説き聞かせたのです。

一切神仏への願かけ、まじない等は被成間敷候様奉存候、なせならば日本の神仏は木、銕、銅、石、紙等にて造り、目あれ共見得ず、耳あれ共聞得ず、口あれ共食ひ得す、手足あれ共働く能ず、是其内に魂のなきは明白に御座候、且神仏は古の人にし而矢張当時の人間と同しく太神宮の如きも大人と斉しき人に御座候間、神棚へ崇め尊び天照宮と申頭をさげ拝みを上候等之事は愚之至りにして論を用ひす共、其利益のなき事は相分り申候、但し天照宮も八幡宮も春日大明神も矢張我々と同しく独一真神より造を受たる人間に御座候間、何卒大人御目をひらき如此手に製したる偶像に御迷ひ被成ぬ様、去なから此天上独一真神は天にも地にも只独り(釈迦如来の如き銕石の仏とは相違いたし候)の神に御座候はゝ天地、星辰、人間、鳥獣、魚類等をつくり永々御存在こゝにもかしこにも被為在、世人の善悪を御覧被成、善をなす者には未来の幸福不朽の生命を賜ひ、悪を為せし者に必らす罪を加へ、永々も困苦を賜ひ候間、其神を信仰し而日夜敬而祈祷を呈し

「偶像教」に寄せる眼

 日本の神仏は、木、銕、銅、石、紙等で造型されたもので、天照大神をはじめ八幡神、春日明神等にしても、造物主の手になる偶像にすぎないと徹底的に論難されました。このような論難は、日本にきた耶蘇教―プロテスタントの宣教師が説く論理であり、日本がアジアの野蛮国の証とみなしたものです。ここには、木、銕等々にすぎない日本の神仏を野蛮な偶像教とみなし、キリスト教こそが日本が野蛮から文明に歩むための日本文明化の器であるとの思いが読みとれます。新島は、このような日本を変革するためにも、偶像が支配する秩序からの脱皮し、善悪を裁く独一真神の道に入ることを説いています。ここには、日本の儒教的世界を超える文明の秩序をささえる道義への期待があり、精神の覚醒を偶像教批判でめざすものにほかなりません。
 この「天上独一真神」等等と聖書が説くGodをどのように伝えるかは、新島のみならず、日本宣教に従事した宣教師にとり難題でした。プロテスタントの聖書和訳では、Godを「天主」「上帝」「神」のどれにするかが議論され、イギリス系が「上帝」、アメリカ系が「真神」とすることを主張。しかもギュツラフは、『約翰(ヨハネ』福音之伝』で「ゴクラク」と約しています。この「ゴクラク」は、ヨハネ福音書3章5,6節の「神の国」の説明で「ゴクラクノクニ」と理解したことから、「ゴクラク」を至高の実在とみなしたことによりましょう。
 このように人格神であるGodをどのように理解させるかは、偶像神批判を野蛮の証として、批判すればするほど日本におけるキリスト教伝道を躓かせることともなります。やがてプロテスタントの聖書は、「天主」「真神」をして、「神」とします。この「神」は、「真神」なる表現が示していますように、日本の神godをして、偶像にすぎない偽の神とみなしたことによります。このことは、Godとgodの根深い対立を生みますが、日本のキリスト者をしてgodの世界に捕囚させる遠因ともなりました。それは、文明の宗教としてキリスト教を受け入れ、道徳経と理解したがために、「此世の罪を償へる聖人ジイエジユスの教」を己のものにすることに大きな躓きの石となったのです。

新島襄 愛国の至情―日本富強への思い【大河を読み解くシリーズ5】

承前

 新島七五三太は、アメリカの地で徳川将軍家から薩長を中心とした新政権が誕生した時代の形勢をみつめながら、日本への帰国の時をさがしていました。1870(明治3)年4月の弟新島双六宛書簡は、弟が知らせてきた「日本当今之形勢承知いたし、偏に四海之波涛静まりて朝廷人才を挙げ蒼生に其居を安し、文を盛し、武を構し、我朝の欧羅巴の各国に比肩せんを望む」と、新国家誕生に強い期待を表明しています。ここに新島は、1872年2月安中藩大目付であった飯田逸之助に帰国したいとの思い述べ、その助勢を乞うたのです。そこには、「真神の道即ち耶蘇の福音」が日本富強をもたらす器となし、新日本の建設に参画する思いが吐露されています。

新日本への思い

 新島は、愛国の至情から国禁を犯したこと、アメリカにおいて欧米各国がなぜ「強大」になったかを探索したところ、「独一真神」「ゴッド」を信ずる人民が栄え、それを忘却した国は「愚鈍」に陥り、亡んでいることを歴史が証明していることを学び、この「耶蘇の福音」こそが日本に必要なのだと説き、そのために働き、日本の文明化と富強に尽すとの決意を、世界史の興亡を略記することで縷々述べています。まさにキリスト教は、文明国の宗教とみなされ、文明の器として説かれたのです。ここに七五三太は、日本のヨセフたる襄となり、日本の富国強兵をめざす精神の器となる「独一真神」を説く「耶蘇」の宣教師として帰国、新生日本を担う人間育成をめざします。

兼て御存之通、小生義公禁をも不顧、臥櫪千里に駆する志を起し、遂に海外を跋渉し、千辛万苦今日に至るは、全く国を愛する深による、然し国禁を犯せし段、国刑を免れざるを得ず、其のみならず、小生亞国へ参りしより、如何して欧洲の各国及米利堅の、日に強大に相成しやを克々探索せし所、漸く其妙奥を見るを得たり、亜細亜及び欧羅巴の歴史を見るに、独一真神、無所不能、無所不知、無所不在、無所無終、「ゴッド」、万有之造物者、見て不得、取れとも不可取の霊神、帝中の帝、王中の王の真理、妙動を信奉せし人民は必らず栄へ、其を忘却せし国は益愚頓に陥る、四千年以前に興起せし「イジプト」(エジプト)、其後「エツシチヤ」(アッシリヤ)、「バビロン」、「ポルシヤ」(ペルシャ)、「グリース」(ギリシャ)、羅馬(ローマ)の盛なりしは、今何所に在る、印度は甚古き国なれとも、至愚の仏法を信奉せし故、益愚頓に相成候て、空く英人の所領と成れり、且支那日本に於て一切此妙動を知らざりし故、当今の日本は百年前の日本に格別の相違無之、唯古史旧経を索る事にして、一切開花に進まず、是ぞと申す新発明も不致、却て当今之日本は、百年前の日本に劣れりと思れ候、此真神の道即ち耶蘇の福音は、孔孟の道に比すれば、唯馬と鹿の相違なるのみならず、実に月と鯰魚との相違に斉く思れ候、耶蘇の教は益栄え、孔孟之道は益衰ん事必常なり、依て小生も頗る此道に志し、当今は「アンドワ」邑の神学館に此道を攻め居候故、何れ帰国之上は此道を主張し、有志之子弟へ相伝へ、益国を愛し民を愛するの志を励まさん事を望む、且兼て学び得し地理、天文、窮理、精密等の学をも伝へ、富国強兵之策を起すのみならず、人々己を修め、独を慎むの道を教へんと存候、但し人々己を修め、其身を愛するを知らば、己の住める国を愛せざるを不得候事、自然の理なり

富国強兵・人心一致の器

 このように愛国の思いを認めた書簡は、己が信ずる耶蘇教が日本にポルトガルから伝えられたキリシタン宗門と異なり、「当今強大なる英国、プロイセン、合衆国にて信奉せる教道」であるとなし、「国を憂へ、民を愛する志」を起し、富国強兵、人心一致をもたらすものと説き聞かせます。そこでは、ローマ法王の下にあったイタリア、スペイン、オーストリア、ポルトガル、フランスが一時強大であったが、現在ではイギリス、アメリカ、プロイセン等の下であり、強兵を誇ったフランスもプロイセンに降参したように、「ゴッド」を信奉する国は甚栄へ、之を閑却せる人民は必らず亡ぶと申候、是道は奇々妙々、人心一致する事、駭に堪たり」、と近世の歴史をふまえて語りかけてもいます。
 いわば耶蘇宗といわれるプロテスタントの優位性は、「独一真神の真理」を奉拝することが英米等の国力を生み出した活力であるとなし、日本の文明化を果すためにも必要なものとみなされたのです。新島襄は、ここに吐露した思いを日本で実現すべく、独一真神の道を説き、日本の新生をめざしました。この独一真神の世界は次のように紹介されています。

亞国に行れる教は、実に独一真神の真理にして、我等の奉拝する所の者は、唯不可見の「ゴッド」、我輩及び天地万物を造れる天帝なり、扨此真神を奉拝し、且真神を信愛せば、必らす国を憂へ、民を愛する志を起さん、且富国強兵、かつ人心を一致せん事、此妙道に如く者なからん

 この独一真神の世界に身を投じた新島襄は、Vol.60で紹介した「新島襄の初心」で述べましたように、「一国を維持するは決して二三英雄の力に非ず」「智識あり、品行ある人民の力」、「一国の良心」ともいうべき人間を育てることが国家富強の基本であるとの念で、キリスト教信仰による大学、同志社大学の創設をめざすこととなります。しかし新国家は、新島襄が思い描いた「一国の良心」を担う人民の力に期待する国家像とは逆に、軍事力に支えられた富国強兵路線を駆け足で突き進んでいきます。ここに愛国の業に己を投じて生き急いだ新島襄の悲劇の相貌が読みとれましょう。

参考文献

  • 『新島襄全集3 書簡編1』同朋舎 1987年

新島襄の決断―憂国の激情【大河を読み解くシリーズ4】

承前

 新島八重を主人公としたNHKの大河ドラマは、八重の夫となる新島襄が登場してきた由。どのように襄が描かれるか不明ですが、上州(群馬県)安中藩士新島七五三太(しめた)、後の襄は、兵庫湊川の楠公墓碑を訪れ「嗚呼忠臣楠子之墓」に涙し、その拓本を八重と住んだ京都の自宅書斎にかかげ、己の志を問い質した人物でした(Vol.3「楠正成像に読みとる時代精神」参照)。
 この楠公の思いに己の志を重ねた新島襄は、ペリー来航の嘉永癸丑がもたらした欧米列強の襲来に強い危機感を抱き、攘夷の思いを胸に秘め、1864(元治元)年7月に箱館からアメリカに密航、アメリカ伝道会社の宣教師として1874(明治7)年、10年4カ月ぶりに帰国。この間、72年から73年にかけ、岩倉使節団に随行してアメリカ、ヨーロッパの教育制度調査に従事。帰国を前にした伝道会社の年会では、日本にキリスト教主義の学校設立を訴え、その支持を得たのです。
 その足跡は「新島襄の初心」(Vol.60)で紹介しましたが、今回は密航前夜の新島七五三太がとらわれていた憂国の激情ともいうべきものを読み解き、帰国後の襄が京都の地から日本に何を発信しようとしたかの初心をうかがうこととします。この激しい憂国の情は、西軍ともいうべき薩長の非情な攻撃に対陣し、会津を守護せんとした東軍の女兵士八重が思い抱いた愛藩(あいこく)に通じるものともいえましょう。密航までして世界を手にいれようとした襄が思い描いた世界は、「八重」に託された物語において、どのように語ってくれるのでしょうか。

宣教師ニコライへの手紙

 襄は、1864年に箱館でロシア領事館付き司祭ニコライの下に寄寓、ニコライに古事記等を教え、一方で英語を学び、密出国の時に備えます。この書簡は「(元治元年)五月 ニコライ様玉机下」と認められたものですが、新島自筆の封筒に入れられていた筆写のもので、襄の自筆ではありません。「クライスト」教を学びたいとの文面には、海外密航をニコライに支援を求めるための方便の感がありますものの、日本の覚醒をめざす憂国の情は新島の思いを説いたものです。

私儀今度江戸表より当地へ参候はよの義に無之、外国の人々に交はり、自分の行義は勿論、国を治むる道なとを承はらんとそんし、私の主人も親も許さざりしが、色々と申立、よふやく当地へ参る事を得、はからすも貴殿の御世話に相成候は、実に平生の願ひに相叶ひ、心の喜びいはん方も無之候、依而日夜学問に出精いたし候ハヽ、遂には私の本望も成就いたすべしと楽のしみをりしに、(目下、眼を病み、読書も出来ずに鬱々として日々をすごしていると心境を述べた後に)
私の西洋学をいたし候は、日本の地は尽く海岸なる故、航海術を開らき無事なるときは諸国へ参り公益いたし、事ある時は海軍をもて敵をふせぎ候ハヽ、一としほ国家の為に相成候半とぞんぜしに、近頃政府の政事益たゝす、国家益みだれ、物価益高登し、万民益困窮いたし候、さて国の有様かくなりしは、全く教のたたずして、国人神の道を知らさるより然らしむるとそんし候、嗚呼国のしか成りませしに、無理おしに兵を練り船を造る共、欧羅巴(ヨーロッパ)各国には敵しがたし、欧羅巴各国の強兵も敗り難きは唯一つの道理なり、然れば航海術は瑣末の事に而、私共は第一に「クライスト」聖教を学ひ己れをみかき、而して後其教書を釈して国中に布告いたし、国人をして尽く欧羅巴の強兵もやぶり難き独一真神の道を知らしめば、政もおのつから立ち、国も自らふるひ候半とそんし候、嗚呼我邦もしかなりませば、私の身はCrucified(磔)さるる共決してうらみず、全く神への奉公「クライスト」への勤めとそんし候、しかし日本にて「クライスト」教を学ばんには、極めてかたかるべし、いかんとなれば、「クライスト」教は国禁のみならす、此地にて学ひ候得ば速やかにはまいり難からん、故にひそかに欧羅巴へ抜け行き、是非とも此の志を遂けんとそんし候、去ながら欧羅巴へ参り学問いたすへき用意の金は更に無之候故、途中にては船のマトロス、彼地へ参り候得ば、「クライスト」教学校の小使となりてもくるしからず、偏に彼地へ参り充分学問いたしたくそんし候、扨右様の工夫もありしゆへ、いかにも養生いたし、少しも早く眼をいやしたくそんし候間、(どうかロシア病院で治療できるように紹介してほしい)
御頼みのほとこひねかひ候、且つ私学問の為めとて欧羅巴へ参り得べき工夫は、いかかして宜しきか臥し而奉伺候

国家の改造は精神の覚醒から

 新島襄は、ニコライの下でキリスト教に目覚めたかというと疑問ですが、「近頃政府の政事益たたす、国家益みだれ、物価益高登し、万民益困窮いたし候、さて国の有様かくなりしは、全く教のたたずして、国人神の道を知らさるより然らしむるとそんし候、嗚呼国のしか成りませしに、無理おしに兵を練り船を造る共、欧羅巴各国には敵しがたし」と、精神の覚醒なくして国家の改造はなしえないとの思いを吐露しています。この思いこそは、楠公の精神に己の身を捧げんとした志につうじるもので、時代を覚醒せしむる精神の器を求める旅をなさしめたのです。
 密航の船中で漢訳聖書を学び、「ロビンソン・クルソー」を読むことで、造物主たる唯一の神を強く自覚した新島は、船主ハーディ-の庇護を受け、Joseph Hardy Neesima、と称し、日本を救済するヨセフになる意思を表明し、Joseph-襄と名乗りました。アンドーヴァー神学校附属教会で洗礼を受け、アマースト大学に学び、アンドーヴァー神学校に進み、牧師となり、日本宣教の任を受け帰国。
 キリスト者新島襄は、御一新前夜の1867(慶応3)年3月、父新島民治にアメリカにおける生活の様相、アンドーヴァーで学ぶ日々を報じ、「天上独一真神の道を修め」ていること、「天上独一の真神全家を恩顧し、悪事災難を禦き、かつ日々の食物を賜ひ、其上以前に犯したる罪を御ゆるし被下」と、「主の祈り」を教え、この祈りを「御となへ候得は、此神喜んで必らす其の祈祷を御聞き未来の冥福を被下候事必定に御座候。扨此神の事は逐々小子帰郷の後仔細に可申上候」と、キリスト者たる己の世界を説き聞かせています。まさに新島七五三太は、新島襄となることで、日本の改造がキリスト教による覚醒でしか為しえないとの思いを宣言したのです。


◆ニコライ-Ioan Dimitrovich Kasatkin Nikolai(1836-1912)

1861(文久元)年箱館着。日本全国にハリストス正教を伝道、その日記には伝道で訪問した各地の民情が記されています。全国布教の拠点となる会堂を東京お茶ノ水に建設、ニコライ堂の呼称で東京名所となる。『宣教師ニコライの全日記』全9巻 教文館(2007年)
ヨセフは、創世記37-50章に記された物語の主人公。

八重よ(2)-新島襄との夫婦の世界【大河を読み解くシリーズ3】

 新島襄は、明治17年4月から18年12月までの1年8カ月に及ぶ欧米への旅行中、旅先から妻八重にこまごまと土地の状況を知らせるなかで、妻の身を案じています。この外遊中の手紙は、原書簡が遺されておらず、柏木義円(①)が筆写したものであるがため、新島家の個人的な話題を削除しており、旅先の見聞に関する記録を意識的に筆写したようです。そこには夫婦の世界を垣間見ることができます。

旅立ちにあたり

 4月4日、八重は湯浅治郎(②)らと英国汽船キーウァニまで送り、「別れに臨み祈祷す。鎌田、甲賀ふじ、八重は后にのこり、泛々小舟にのり神戸に戻る。舟よりも甲板上よりも白きハンケルチーフを振り、離別の情の切なるを表す」、と襄は船出の情景を「第二回外遊記」に認めています。船は午後7時過ぎに解䌫、8日6時半に長崎港着。八重は、長崎で投函された船内での見聞を記した7日付けの手紙を、11日に受取ります。
 手紙には、「御両親様方別して一体なるお前様に別るゝに随分四方に志ある此襄も心を哀しませぬ事はなく、旁々以て身体も大に疲るべしと案じ居る」となし、伝道等のための諸種の資金の配分を事細かに指示しております。その追記には「何卒々々しんぼうしてオトナシク御留守被下度希上候、グードバー」と。妻を案じる襄の姿がうかがえます。八重は、神経質なまでの各方面にわたる新島の詳細な指示をはたすのみならず、新島家の両親に仕え、学校の問題にも目を配らねばならなかったのです。
 それだけに襄は、甥の公義(③)宛の長崎安着を報じた八日付け手紙で、「何卒留守之義諸事御注意あるのみならず、偏に御老親方と八重をも御慰め被下度奉切望候」「返す返すも御老親方八重を御慰め被下度候、四方之志をして躊躇せしむるは只此一事也」と、留守宅のことを案じ、八重の支えになるようにと頼んでいます。
 襄が思い描く「四方之志」とは、公義が整理したものによれば、香港、シンガポール、セイロン、スエズ、アレキサンドリア、ローマ、フローレンス、ピサ、スイス、ドイツ、フランス、英国を広く見聞した後、九月末に北米合衆国に入り、ボストンをはじめとした故地を訪れ、日本伝道の成果を報告し、学校への支援を呼びかける旅でした。それは思い定めた学校、同志社大学設立への旅にほかなりません。

八重の身を案じ

 旅行記は、西洋見聞記として読んでも面白い世界が展開していますが、アジアに向ける眼を紹介しておきます。外遊の第二信は米国宣教師ヘーゲルの案内で香港を見聞した模様を報じたものです。香港政庁等の壮観さを「日本に見ざる所」と驚く一方、中国人街が「純然たる支那之実況を現出し家は暗黒又不潔、亞片烟を喫する人々の有様なと中々筆頭に尽し難し」となし、中国人の姿を次のように描いています。

先支那人の有様は上流より下等に至る迄一口に申せば此世に只衣食之為に出でたる者と申しても誣言にはあらざる可し

 襄は、かくアジアの野蛮に思いいたす各地の見聞を記すなかで、両親と八重の兄山本覚馬の安否を気遣い、同志社一統、学生の身を案じ、必要な経済的支援を指示しております。その八重が健康を患ったとの報には驚き、信頼している宣教医師テーラの診察を受けるようにと、その身を気遣い、新島家の嫁の身を案じたのです。

 御前様には未だに御全快無き由、其心配致候、費用は如何計り相懸候とも不苦、テーラ様(④)に御相談充分御療治被成候様仕度候、婦人之病気之一生涯之病ひ持になり、之が為に世の中に役にたたすとなる者少なからず、費用は如何ばかりかかり、又他人が如何に思ふとも決して頓着なく病に替へられず、且私も久々之脳病に而思ふ儘に之の為に働くを不得、中々困り候際、お前様も病人に相成候而は病気の共もダオレに相成、今日の如き働きの入用なる日本にあり共に病の為に妨げられしならば、御同様如何に不幸なる者となるべきも難計、療治も手厚く加へてもなをらぬ病気ならは致方無之候得共、充分手を尽さすして久々の病気とならば我々の手落ちと申べし、何卒心を大きく御持被成、少しの事にクヨクヨと御心配あらば、私遠国にあり中々お前様之御身に心配致し、私の養生もとげすして直に日本に帰らねばならぬ事も出来すべし、此身を主基督に捧げ、且我愛する日本に捧げたる襄の妻となられし御身ならば、何卒夫之志と且其望をも御察し、少々の事に力落さず、少々の事を気にかけず、何事も静に勘弁し、又何事も広き愛の心を以て為し、如何に人に厭はるるも人に咀はるるも、又そしらるるも常に心をゆたかに持ち、祈りを常に為し、己を愛する者の為に祈るのみならず己れの敵の為にも熱心に祈り、又其人々の心の る迄も其の為に御尽しあらば、神は必ずお前様之御身も魂迄も御守り被下べし、返す返す少しの事に御了簡違ひの無之様、種々六ヶ敷事あるは世のならひなれば、何卒主と共に棘の冠をかふり、又身にいたき十字架迄も御になひ被下度候、何事もすらすらと参るのが私共の幸ならず、此六ヶ敷世の中に心に罪を犯さず、人をにくまず、之を忍び神の愛を心に全うするこそ我等信者の大幸なれ(略)御年寄様も段々御年は進み、且少しは我儘も出可申候得共、此上又となき私の両親と思召、日本の癖として兎角しゆふとのよめによき面(カオ)をなさぬ事もあるべきも、返すか返すも御忍び御つかへ被下度、別して食物は女子共にのみまかせず、精々御注意ありて柔かなる物を御上被下度候、(略)何卒武士の心ばかりにては足らず、真の信者の心を以て主と共に日々御歩み被下度奉希候

 この手紙には、「武士の心」をもつ八重の言動が周囲に波紋をひろげ、孤立を深めている状況が読みとれます。八重は、気難しい襄の両親に仕え、同志社をめぐる個性的な人間関係のなかで、心労を重ねていました。とくに八重と両親との関係は襄をなやませていたようです。そのため老人への心配りを求め、夫の志を実現するためにも、イエスに目を向け、信仰によって生きることを説いたのです。ここには、襄と八重にとり、志をもって時代を生きることが如何に厳しいものであったかがうかがえます。八重は、襄にとっても、時代を己の足で馳せ行く女だったのです。

①柏木義円(1860-1938)
 越後国三島郡与板の西光寺に生れ、新潟師範、東京師範に学び、群馬県の小学校校長。同志社英学校に入学したが学費続かず、中退。再び群馬県で小学校校長。安中教会で受洗。再び同志社普通学校に再入学、熊本英学校教師。新島襄の信頼厚く、「同志社文学会雑誌」の編集を担当。教育勅語を批判。後に安中教会牧師として『上毛教界月報』を編集、足尾鉱毒を批判、非戦平和の論陣を展開、総督府の支援を受けた組合教会の朝鮮伝道を批判。
②湯浅治郎(1859-1932)
 群馬県安中の醸造販売業有田屋経営、帰国した新島襄の指導を受け、安中教会を創立。群馬県会議員として群馬県を廃娼県となし、衆議院議員であったが、新島没後の同志社をささえるべく、財政を担当。警醒社、民友社を支援。妻初子は徳富蘇峰の姉。
③新島公義(1861-1924)
 植栗義達の次男。襄が脱国していたので、弟新島双六が死亡したため、新島家の養子となる。
④テーラ W、Taylor(1835-1923)
 ミシガン大医学部、オベリン神学校を卒業、1874年(明治7)に神戸上陸、医療宣教師として同志社と契約したが、京都府が医療活動を認可しないため、1878年に同志社をやめ、大阪に在住して1912年まで医療とキリスト教伝道に従事。


八重よ-新島襄が認めた世界から【大河を読み解くシリーズ2】

「八重の櫻」という物語

 新島八重の物語は、大河ドラマの展開とともに、世間の話題をよんでいます。このドラマには、国家から断罪され、離散した会津藩が負わされた苦闘に重ね、幕末明治の世を己の思いを貫いて生きた女性の姿を問いかけ、3・11の悲運に翻弄される東北の民が負わされている世界を描くことで、自立した女の声に託した東北応援歌を意図しているようです。3・11以後のNHKは、「日本人は何を考えてきたのか」が原発事故による放射能の飛散により東日本大震災がもつ人災を現在にもたらした近代日本の負をみつめ、日本人の生き方を問い質し、東北の民に根ざした生命の在り方を提示し、その生き方にエールを送り、ことさらに東北の目を意識しています。「八重の櫻」は、朝の連続ドラマ等にもみられるように、女の自立という当世風の課題に重ね、震災の記憶が年とともに忘れられ、失われていく世間の風に対し、記憶の蘇生と継承を問い続ける作法にほかなりません。
 新島襄は、夫として、このドラマに生かされている八重とどのような世界をつくっていたのでしょうか。襄の日記や手紙にみえる八重の世界は、今後に展開していくドラマでどのように描かれるのかは不明ですが、一人の妻として時代を生きた女性の相貌を、ドラマの展開に先立ってみておくこととします。なお、新島襄は、『新島襄全集』3・4巻(書簡編)5巻(日記・紀行編)にみられるように、記録魔といえるほどに筆まめな人物で、日々の記録にくわえ、旅日記や手紙等に旅先の風物を事細かに記録し、遺しています。これらの記録をもとに八重をめぐる世界を紹介することにします。

明治15年の旅から

 新島襄は、明治9(1876)年1月3日にアメリカン・ボード派遣宣教師J・D、ディヴィスの司式で山本覚馬(①)の妹八重(1845年生れ)、31歳と結婚します。京都で最初のキリスト教による結婚式です。新島が京都に同志社を設立できたのは京都府庁に影響力をもっていた覚馬の支援あってのことです。また、ディヴィスは、同志社に35年間身をおき、その運営をささえ、新島没後にいち早く「新島襄傳」を英文で世に問うた人物。書簡集にみられる八重宛手紙は、国内のみならず海外に赴いた旅先からのものですが、山本家への気遣いや両親、宣教師、学生への気遣いを認めています。傳道や同志社設立の募金などの国内旅行には、同伴もし、旅先における八重の行動を尊重しています。
 明治15年7月、新島は中仙道を通って郷里安中に向い、11日に安中で八重と落ち合い、18日に馬車で高崎に出立、新田義貞の城跡を眺めるなどの旅程を楽しみ、20日午後日光着。21日に「余は歩行、八重は駕籠にのり、早朝より発し、途を枉げ先裏見が滝」を見、午後華厳の滝から中禅寺、二荒神社を経て日光にもどっています。ついで7月27日に八重の故郷会津若松を訪れ、8月1日まで滞在。この旅は、夫婦にとり、お互いの里帰りをかねた新婚旅行であったといえましょう。

襄がみた八重の故郷

 襄の目がとらえた「若松地方の物産」は、戊辰敗残の翳を負うもので、次の様に紹介されています。

 塗物 北方に於て製す
 陶器 若松の西南に当り本郷と称する所に於て製す
 蝋燭 若松   
 養蚕、麻、米質は中等、其味は宜し、酒に適せず
 果物は各種、蜜柑の類なし
 魚塩は他より輸入す、魚は越後より来るものを十分の九とす
 木綿は不足、他より来る
 絹は他より来る
昨年より公立中学設立す、尚微々たるよし。義塾はなし、人々に資産なし、又教育の貴重なるを知らず
此地方の士族の家は殆ど三千二百戸、士族中多くは貧困、政府より授産金下附の沙汰あるにより、何人かの誘導ありて漸々乎と帝政党に入るものあるよし。然るに北方に於ては、農民中往々自由党に加入し頗る民権皇張を望むものあるよし。此の党は僅かの下附金により左右されざる資産持の民権家たるよし
授産金は二十八万乃至は三十万円なるよし ○新聞紙なし、又新聞を取るの人も僅少なるよし。

 ここには、県令三島通庸が12月に福島自由党を弾圧した福島事件前夜の民権派に結集する者の様相が読みとれます。新島は、8月1日に伊勢(横井)時雄(②)を同伴して若松を出立、山形県下南置賜郡関村の高湯(現米沢市関の新高湯温泉)に21日まで滞在して身心を休め、米沢で上杉鷹山を偲び、三島通庸が開鑿した栗子隧道、福島に達する三島道路を紹介しています。この間、先に一人で帰京した八重に湯治場から手紙を出しておりますが、その手紙は現存していません。湯治場での日々を知らせたものと思われます。湯治場の日々は8代将軍吉宗の御落胤をめぐる天一坊事件について熱心に調べています。ここには己の足元、傳道する民衆の心意に心よせる新島の思いがうかがえます。このような足元を読み取る眼を失っているのが現在のキリスト者の姿です。
 新島襄は、己の目で日本という大地をみつめ、日本の新生を模索していました。妻八重は、己の志を実現するために飛びまわる夫襄の健康を気遣い、「しゆふとのよめによき面(かほ)をなさぬ事」にも耐えていきます。それだけに襄は、良人として妻の身を案じ、旅先から日々の様子を事細かに知らせたのです。

 ①山本覚馬(1828-1892)
 会津藩の砲術指南。白内障で盲人となったが、明治維新後に京都府大参事、顧問として京都の近代化を推進。京都府会初代議長、京都商工会議所会頭等を歴任。旧薩摩藩邸を同志社の敷地として新島襄に斡旋。家ではラーネッドが「国富論」講じるなど政治学、経済学の講座を開き、青年の育成にあたった。
 ②伊勢時雄(1857-1927)
 横井小楠の長男、母は矢嶋楫子の姉つせ子。妻みねは山本覚馬の次女。妹みやは海老名弾正の妻。母つせ子の姉久子の子が徳富蘇峰・蘆花。一時伊勢姓を名乗る。熊本洋学校でジェーンズに学び、「西教」への信仰を宣言した奉教趣意書に署名、家を追われ同志社に学び、牧師として新島を助ける。第3代同志社社長となるも、神学上の煩悶もあり、キリスト教界に訣別、官界に転じ、政友会から代議士となるも疑獄事件で場を失う。内村鑑三は、不敬事件の心労で斃れた妻加寿子の葬儀に参列し、その居場所を失った内村を助けてくれた横井の恩義を終生忘れず、その葬儀で追悼演説をした。


体罰教育の根にある世界

私的体験から

 海軍における「精神棒」で臀部を撃つ制裁は、「ケツバット」と称し、1950年代の高校球児の世界で日常的にみられた光景でした。エラーをした、負けたといって、精神がたるんでいるとなし、「ケツバット」がふるわれたのです。野球部員には、甲子園への予選がはじまる頃になると、臀部の痛さで廊下の壁につかまり、蟹の横ばいのようにソロソロと歩いて教室に入ってくる者が再再いました。その珍妙な風景は、「ケツバット」なる野球部に特有な“しごき”によるものです。試合で負けた、エラーをした、打てなかったのは、精神がたるんでいるからだとなし、臀部をバットでなぐる。こんな馬鹿げた風景が高校球児の世界で日常的でした。
 このような風景を見聞すれば、高校球児を「純粋」だと讃え、夏になると囃したてる甲子園物語ほど下らないものはないと実感しました。運動部の連中の底意地の悪さは、体育祭で競技にかこつけ、柔道部の連中が気に食わない者に技をかけて倒し、暴行することが日常的にみられた由。柔道部ほど、嘉納治五郎が説いた世界と無縁な、技を暴力の具にする連中はありませんでした。このような世界で育ってきた世代が現在の柔道界を指導しているのではないでしょうか。
 私が小学生で受けた体罰は、給食を嫌がったといって、水をいれた給食バケツを両手に持たされて廊下に立たされたこと再再。その教師がある時から奇妙に猫なで声になったので、「なぐったら首を切られるから」と言ったら、顔面を鬼のようにしたことを覚えています。教師には、嫌な、腹の立つ子どもであったと思う次第。ことほど左様に教師への不信とその暴力に嫌悪感をもって育ちました。
 日本の軍隊を研究素材にした時、学校教育における体罰、暴力教育は軍隊に根があることを確信しました。天皇の下にある「一大家族」という幻影は、暴力をして、親が「わが子」の行く末を思う「愛の鞭」とみなさしめ、体罰を教育となし、その残虐な行為を隠蔽し、肯定するシステムを構築したのです。
 かつ日本の教育は、「良兵良民」をかかげ、子どもたちを良き「兵隊さん」に、軍人に育てることをめざしていました。このことは、すでに紹介した「尚武須護陸(しょうぶすごろく)」(Vol.1 2007年3月掲載ico_link)の世界に読みとれます。暴力を是とする教育は、人間を犬猫とみなし、調教することにほかなりません。そこでは、教育に問われる言葉による理解と説得が否定され、優位者が権威と権力を体現する暴力で他者を圧服せしめるのが教育と思いみなされています。まさに軍隊教育は、この暴力のシステムをして、ある種「芸術的」に磨きあげた作法にまで高め、体罰制裁をする己に自己陶酔せしめる世界を生み育てたのです。この制裁は、先にその一面を紹介しましたが、いまだに運動部等にみられる体罰のアラカルトに受け継がれています。

体罰のアラカルト

 水を入れたバケツを両手にもって廊下に立たせる作法は、一尺平方位の手箱を両足爪先と両手の二箇所に重ねて、その上で「前へ支え」をする制裁につながるものです。この手の制裁には、海軍の「ハンモック支え」「衣嚢支え」をはじめ、左右に揺れて進む端艇のオールを高く捧げる「橈(かい)支え」、卓や椅子の間をもぐって行き、「ホ―ホケキョ」と鳴く「鶯の谷渡り」、小さく区切られた衣嚢棚に入る「蜂の巣」、厚いズックで出来た衣嚢に入り、首だけ出してしばる「ダルマ」等々。制裁の名称は何とも風流を思わせるとはいえ、そこに見られるのは人間の尊厳を削ぎ取り屈辱感をあたえるものにほかなりません。いわば軍隊では、多様な制裁で己を抹殺し、一個の物になし、唯々諾々と考えることなく命令に従順な兵にしていくことでした。そこでは、制裁を制裁と受けとめる感覚が麻痺し、精神を覚醒するために制裁を自分から求める心性がつくられたのです。ここに体罰が精神を覚醒し、弱き我を鍛えるとの思いが増幅されていきます。制裁を加える者は、己の行為をして、次のように弁明しております。

やる気さえあれば、できないことはない。できないんじゃなくて、お前達にはやる気がないんだ。やる気がなければ、いくらでもやれるようにしてやる。なにも、俺達は、お前達を、こんな寒い中へ、何時間も立たせたり、嫌な文句をきかせたり、好き好んでやっているのじゃない。文句をいう側になってみろ。痛い目にあわせる身になってみろ。決して、楽なものじゃない。なるべく文句をいうまい、痛い目にもあわせまいと、思えばこそ、じっと我慢していたんだ。だが、もう、黙っていられない。

 かく云々と問い語り、制裁がはじまります。この「海軍説教文例」にみられる口説きは、当世風に、昨今話題の女子柔道にあてはめれば、監督の心象風景が見えてくるのではないでしょうか。これが体罰なるものを日常化していく世界だったのです。

制裁根絶への目

 陸軍は、私的制裁の根絶のための指針において、「監督上の準拠」で「犯行、原因、動機」として、「1)教育の熱心其の度を過ぎて之を犯すもの、2)教育及経歴の差異より生ずるもの、3)集団的社交に慣れざるため、4)能力程度の差異より来るもの、5)切磋琢磨を誤用したるもの、6)自己の怠慢性の欲望を達せんため、7)不純なる動機に基く物的欲望を達せんがため、8)性来の残虐性より来るもの、9)権力を弄せんと欲する欲望より来るもの」、と説き、その対処方を具体的に提示しております(山崎敬一郎『内務教育の参考』1933年)。この指摘は、現在問われている体罰を当然視する教師指導者にあてはまるもので、軍隊における制裁が根深く息づいている底知れぬ闇をうかがわせる。
 この闇を撃つには、人間が人間であることへの目を育て、己が組織の部品ではなく、一個独立した人間であることを取りもどすことではないでしょうか。それは、「道徳教育」ではなく、人格とは何かを問い質すことからはじまります。
 想うに戦後教育は、人格を説き聞かせながら、人格を身につける教育を疎かにしてきたのではないでしょうか。人格への認識は、新渡戸稲造が問い語った「人間以上のものがある」こと、この大いなるものへの目を身につけることではないでしょうか。まさに日本は、このような人格観念を欠落させ、人間を横の関係でしか見ないがため、他者との競争で選別していく作法に囚われて生きる社会を是とする構造です。そこでは、人格の平等という観念が人間の平準化とみなされ、匿名化された均質な社会が当然視されたのです。この構造の根には、明治建国以来の国のかたち、軍隊教育の闇を問い質すことなく、「民主主義」の乱舞に埋没した「市民」の存在がみえてきます。ここに求められるのは、小手先の「根絶」ではなく、人格への目を研ぎ済ませ、己の場から明日を手にする営みではないでしょうか。

参考文献

  • 大西巨人『神聖喜劇』(ちくま文庫)、同編『兵士の物語』(立風書房)
  • 大濱徹也・小沢郁郎編著 『改定版 帝国陸海軍事典』(同成社)