「北方領土」といわれる世界 2

 北海道庁は、昭和14年2月に千島調査実施案の作成と開発計画案を審議するために、道庁内に千島調査準備委員会を設置し、4月23日に紗那郡(しゃなぐん)紗那村に北海道庁千島調査所を設置、25日に千島開発委員会を発足させ、28日午前に第1回千島調査準備委員会を、午後に千島開発委員会で3カ年にわたる千島の総合的調査を承認しました。この調査報告書は、「千島調査資料 昭和14年度」としてまとめられています。この調査に従事した学務部社寺兵事課勤務の中村貞吉は、国後島・択捉島・色丹等の現況を次のように指摘し、人心結集が急務であると問いかけています。

 今や時局下諸般産業の資源開発と新天地開拓により生産拡充の要切なる秋に当り南千島は海陸無限に包蔵せる資源を開拓すべき処女地として取残されたるが為目下これが開発を計画されつつあり。而して開発は人によらざるべからず。即ち精神力発揮に最も密接なる神社宗教を盛んならしむるは本島開発の為に最も緊要なりと痛感す。

 住民が「困苦欠乏に耐へ」開発事業に従事するには不退転の精神を以て猛進せねばならず、この「不退転の精神」は宗教によって培養されると説きます。開発は物心両面よりなされてこそ、はじめて可能となることを力説してやみません。調査時の国後島と択捉島は次のような世界でした。

国後島の現況

学び!と歴史vol44_01 島の地勢は細長く、中心となるべき役場所在地は一方に偏しており、唯一の交通機関たる道路は悪く馬を主とし、海路には客船もない。そのためある地方では、死亡者の診断書を得るために屍体を運ばねばならず、数日を費して漸くこれを得る有様で、しかも僧侶がいないまま葬儀を営むこともあるように、何から何まで不完全不充分な暮らしであったそうです。
 そのために開発の為に第一にしなければならないことは、「交通の関係と村治の中心点を変更して村の支配をより敏速にしより完全になさしむるを急務と信ずるものなり、斯くして開発の目的達せられ生産力の拡充は行はるべし、開発は生産力の拡充にのみ重点を置くことは不可なり、宜しく物心両方面より為さざるべからず。」と、国後島の状況を報告しています。島の面積は97方里、人口8,184人。

択捉島の現況

 択捉島は、面積203方里余、国後島の97方里に比べて遥かに大きいが、戸数が812戸余で国後島の1,400余戸より少ない。海岸線が長く、人口が希薄で1方里当り僅かに4戸に過ぎない。しかも人家は海岸にのみ点在しており、まとまった集落を形成することが困難であるため、役場所在地の戸数も100戸内外である。海岸にはいたるところに鮭、鱒などの漁場があり、漁期中には多の漁夫が入るためにいずれも番屋があり、缶詰工場を有する大きな番屋がみられたそうです。
 1875年に戸長役場が置かれた蘂取村は、択捉島の東端で、日本の行政区画の最も東に位置し、択捉島で交通が最も不便で、恵まれない地形です。その地形は、拳のように西南より東北に突出し、西北にオホーツク海、東南に太平洋に臨み、東15浬を隔てて得撫島に対し、西南牛首の所で隣村の沙那村を境界とする面積48方里610。中央に山脈が走り、諸方に山岳があるが、傾斜の緩やかな西海岸に交通が開け、漁場が相接して展開して水産業が発達している。しかし東海岸は、巖壁屹立(がんぺききつりつ)して交通が不便で、波浪の高い太平洋岸のために産業が振るわなかったそうです。
 これらの漁場経営者は函館などに本拠を置く資本家であるため、利潤は他所に流出してしまう。そのため雇用関係は季節雇いで、漁期が終われば皆帰国する。農業は気候の関係で「殆んど絶望的」で、鉱業・植林事業の見込みがなく、放牧業も振るわないという。小学校は蘂取(しべとろ)市街にあるのみで、村医1人で、産婆もいないという極めて不便な地域です。
 紗那村は、択捉島の東西両海岸に跨る二級町村で、島のほぼ中央に位置しており、西南より東北は山岳で囲まれ、散布岳に接し、西北はオホーツク海に臨み、土地の起伏が多く、紗那川が村の中央を流れており、面積62方里2、東西14里南北13里で蘂取村より広い村落です。比較的に人口の多いい集落は、紗那市街652、内岡259、有萌83、別飛403、シヤマンベ52人で、総人口1,448人で1方里当り23,2人。この統計は海岸部の漁場人口を含めたもので、蘂取村と同様に漁業が中心の村ですが、島の統治の中心として官公衙が多い地域です。
 留別村は、択捉島の南部に位置し、東北より西南にわたり、長さ34里、幅が狭い所で4里、面積92,7方里で島の総面積の約2分の1弱を領し、北はオホーツク海、東は太平洋に面し、西は国後水道で国後島と相対しています。戸数450余戸、人口2,600人余。

色丹島の現況

 島の総面積は16,514平方里、25,700余町歩の内114,000町歩が国有林野となっていますが、林帯のない草原で、農耕適地5,000町歩も大部分が国有林野で、この外放牧適地が100町余あるものの、農畜林業等にはみるべきものもなく、水産業のみ盛んであったそうです。
 地勢は、山岳丘陵起伏多く、所々に小平野を形成し、沿岸は到る所厳しくそびえ立つ断崖が多く、海岸線が出入りしているため、船を入れるたる港湾が20あり、人家は海岸にのみ点在しており、総戸数177世帯、人口1,300人余。

 国後・択捉・色丹の島々は、総力戦体制下での資源開発をめざすなかで、眠れる富が注目されました。しかし島民のくらしは、その富が外部資本に奪われるだけで、島民の暮らしに還元されることなき内国植民地としての様相を呈しています。この地で生きた住民は、国策に翻弄されながら、漁業を足場に生活を切り拓き、過酷な状況下で己が暮らしを築いたことがうかがえます。それだけに島を追われた島民の想いは、遠く故郷の島を望見するにつけ、激しく望郷の念を募らせることでしょう。千島調査報告が問い語る世界と併走することで、島民の想いを考えてみたいものです。


地図とカタチ

 「世界は時空間を共有する」リアルタイムの時代となり、自分の意図にかかわらず情報・メディアが洪水のごとく溢れ出る現在です。日々めざましい文明の利器の恩恵を受け、その渦中いる私たちは、ややもすると傍観者的態度でも「事」が済んでしまいそうです。さらに、プッシュボタン「ON」・「OFF」の操作ーつ(最新は触れる機能もありますが)でLife 生活が事足りてしまうほどの驚くばかりの進歩でもあります。一方、その利便さの裏に、実感をともなった「心のはたらき」や「アイデンティティー」について問われつづけている現状もあります。これらの利器(機能優先)の活用法(メディアアートのジャンルは別として)にもよりますがバーチャル的世界で体験して「知る」「わかった」こと、と実際モノに触れ、考え、そこから「わかった」こと、とは似て異なる体験ではないかと思われます。
 
 私は高校の美術教師としての現場を離れて数年を経ましたが、当時の美術授業を展開するにあたって「教えること」と「学ばせること」の違いを常に意識していたように思います。しかしこれがなかなか難しく、次の展開を急ぐあまり生徒に「ヒントを与えすぎたり」「考えさせる余裕」を充分に与えていたかどうかなど反省すべき点があるような気がします。あらためて思うことは、実技をともなった美術の授業で生徒はイメージに近づくため、技法を生かしつつも「あれや・これや」と試行錯誤しながら、その制作のプロセスで思わぬ発見や感動に出会うことがあります。潜在していた「感性」が目を覚ますこともあるでしょう。また、本人が今までなんとなく不透明(漠然と)に思っていたことが実技(モノづくり)を通して明確となり解決の糸口をつかむこともあるでしょう。そのような時、芸術(美術…)は「表現することの喜び」を体感でき得る直接的な教科であると思っています。

 次に、実施しました美術授業展開の「地図とカタチ」のー例を挙げてみますが、その前にこの授業の題材(テーマ)を設定するにあたってのいきさつ(契機)のようなことを述べてみたいと思います。
 多分、私が小学校の高学年の頃だったと思います。父の部屋から「ガリ・ガリ…」と時折不思議な音が響いてきました。それは、父が何やら鉄筆を片手に板状の金属板(ガリ版)に油紙(原紙)とで不思議なカタチを書いていたのです。後にそれは父が社会科の教師で、地理の試験問題づくりをしていたという事が分かったのです。(当時はコピー機などはなく)その不思議なカタチは多分アメリカ大陸だったと思います。道理でわが家のトイレの中の前面には父が貼ったと思われる「世界地図」が占拠していて否が応でも国々や大陸が目に入ったのを記憶しています。私は、最初はこの地図を漠然と「ながめていた」が、しだいに「みつめていた」自分になっていたようにも思います。
 後々このことと直接関係あるかどうかはわかりませんが、「地図」に興味をもつ私は旅先で現地の地図を買い求める癖がついているようです。そして世界地図の扱かい方がそれぞれの国によって異なっているのに気付き、そのお国がら(考え・センス…)までも見えてきます。また国境の区分が直線であったり、燐国同士の複雑な曲線が山脈で仕切られていたりと政治色や自然に沿った地形(カタチ)である事情も見えてきます。

美術授業展開: 「地図とカタチ」

【題材】

topics_vol28-08

写真世界地図(部分)とトレーシングペーパー

地図と形(動物…):MAP&ANIMALE…etc.
(動物に限らず植物など生物全般・架空の生き物などを対象として)

【題材設定内容】

世界地図(メルカトル図法)から国や大陸や島を用いて、これらを組み合わせて自分のイメージした動物などに合うカタチ(形・象)をつくり出す。

【題材設定理由】

  • 地球に生まれた私達は、あえて自国はもとより他の国々や大陸や島々の自然界がつくりだす固有なフォーム(形状)を知り、意識させる。
  • これらを造形的な見方で捉えさせてみる。これらの形状から連想したり、イメージを誘発したり、潜在していたものを引き出す契機としたい。
  • 生徒自身のオリジナルな見方・感じ方を具体的に作品へ反映させたい。

【授業展開】

  1. 配布された世界地図(A3)から各国や大陸などのカタチ(国境ライン)をつぶさに観察する。
  2. イメージして浮かんだ表現したい動物等をメモ描きする(1つに限定しない)。エスキースとして大まかに描き出す。
  3. 部分(国=パーツ)と全体(動物等となる対象)をどのように関係させるか工夫考案する。
  4. 配布された世界地図(A3)上のパーツとなる国々などをトレーシングペーパーで写しとりながら組み合わせてゆく。その都度パーツに国名も書き入れておく。
  5. エスキースと照合しながらすすめるが自分のイメージに近づけるべく根気よくタイムリーなパーツを見つけだす。
  6. 完成した動物等に国名を入れたものと彩色するものと2部作成する。基本的に1部はパーツからなる説明図用とし、もう1部は着色するためのオリジナル動物等の完成用とする。(それぞれコピーや転写により適宜拡大する)

【作業条件】

  1. 地図中の国や大陸や島など同じパーツを繰り返し使用しても可。
    (レピテーション)
  2. 地図中の各パーツは同ー大で選び、拡大・縮小はしない。
  3. 各パーツの反転はOK。(地球の内側から見たカタチ)
  4. 地図中のパーツから動物等を連想してしてゆく。イメージした動物等に合うカタチを地図からピックアップする。どちらの方法でも良いが、イメージを展開するため最初は配布された世界地図と対峙してからスタートする。

【準備材料・備品】

世界地図/トレーシングペーパー/HB・4B~6B鉛筆/ボールペン/絵の具/筆/マジック/定規/画用紙/セロファンテープ/コピー機

生徒作品「チャボ」制作途中

生徒作品「チャボ」制作途中

地図と蜘蛛

地図と蜘蛛

蜘蛛 国名入れ(説明用)

蜘蛛 国名入れ(説明用)

地図と百合子

地図と百合子

地図と百合子

百合子 国名入れ(説明用)

 

【評価の観点】

この題材は普段からの観察力・イメージ構成力・美的表現力などの造形要素を評価の基準としました。

【評価の具体化】

  1. 配布された世界地図をじっくりと観察することが出来たか。
  2. 各国々のパーツのカタチがアイデアとうまく連動し、生かされていたか。
  3. トレース作業や転写技術が正確にできていたか。
  4. 発想がユニークか。部分と全体との関係が有機的に響いていたか。
  5. 下絵となるエスキース・アイデアスケッチ・プロセス中のメモ描き等も評価。
  6. 色彩表現によっての効果が出ていたか。(工夫・考案)
  7. 完成までの作業の進行具合に個人差がでるが、これは評価の対象にしない。(ーつのテーマに向かって根気強く、自分が納得するまで取り組むには時間に追われて中途で安易に妥協してしまうことは避けたいため)

【指導して感じたこと】

作品展示案内状の部分より
作品展示案内状の部分より
  • 生徒にとって地図と対峙する時間が長くなり葛藤しながら考える場面がかなり多くなるため、安易に時間を気にさせてはならないと感じました。(個人のペースを大切にする)
  • 面倒くさがりやの生徒に限って2~3の少数のピースで早く終わらせたい傾向がありました。その場合、当然ダイナミズムに欠けました。 (適宜、参考となる作品等を見せて組合わせる妙味を理解させました)
  • ようやく探しあてた(その時の生徒の表情から)タイムリーなパーツとなる国名は、本人にとっては忘れられない国となるかも知れないと思いました。

【最後に】

 この題材から生徒ー人ひとり全くもって同じ作品はなく、各人それぞれのイメージが展開したオリジナル作品となりました。そして日頃の出会いや場面を意識してモノやシクミを視て感じとっていたかが問われるテーマでもあったと思います。授業を通して生徒が意識/認識をあらたにし、興味や関心そして発想や構想力がいかに大切であるかを感じとる契機となればと思いました。


「画人像」 小倉遊亀作

紙本着色/91.4× 69.2cm/1962

紙本着色/91.4× 69.2cm/1962

 鏡を見ながら描いた画家の自画像です。画家はこの作品について、「私は何度となく人物を描いてきたが、どうも顔が拙い。一番大事な顔が描けていないのだ。自分の顔をモデルに一つ苦心しようと決心した」と制作の動機を語っています。
 画面一杯に上半身をとり、太い墨の線で体の輪郭や着物がかたどられます。無駄のない厳しい線描によって、作者の内面までもが描きだされるかのようです。バックは、左から射し込んだ光線が、画家の着衣や部屋の片隅を照らし出しているところが、プラチナ箔の下地の上の、微妙な着彩の変化で表現されます。
 「鏡を見ながらスケッチを何枚もする。見れば見るほど変な顔である。間のぬけた、好人物的で、怒ったように表情を作っても笑った顔になってしまう。似なければ自画像にならない。削り削り、うんと省略してしまいたいのだが、『私』がぬけてゆく。とてもむつかしくていい勉強になった」と、画家は制作の感想を語っています。
 何気ない、どこにでもあるようなものを作品のテーマに選び、一見無造作な、奇をてらわない画面構成をしていますが、実は周到に計算し尽くされて描かれている、というのがこの画家の特徴です。この作品についても、これと同じ大きさの下絵が残っており、綿密に練られた絵づくりの足跡を知ることができます。

(滋賀県立近代美術館 主任学芸員 國賀由美子)


滋賀県立近代美術館ico_link

  • 所在地 滋賀県大津市瀬田南大萱町1740-1
  • TEL 077‐543‐2111
  • 休館日 月曜日(祝日の場合は開館、翌日休館)、
    冬季休館日(2010年12月20日~2011年2月4日)

<展覧会情報>

  • 襖と屏風-暮らしを彩る大画面の美- 
  • 2011年2月19日(土)~4月10日(日) 

展覧会概要

  • 日本の絵画は、欧米の絵画以上に建築と密接な関係をもち、発展を遂げてきました。本展覧会では当館の館蔵品から、江戸時代から近代に及び、座敷の美から展覧会芸術の華へと転じた、襖や屏風の様相を概観します。 

<次回展覧会予定>

  • 珠玉のヨーロッパ絵画展~バロックから近代へ~
  • 2011年4月16日(土)~6月12日(日)

その他、詳細は滋賀県立近代美術館Webサイトico_linkでご覧ください。


わが心の歌舞伎座(2010・日本)

(c)松竹株式会社

(c)松竹株式会社

 小さいころから、歌舞伎が好きである。まだテレビがモノクロだったころ、歌舞伎の舞台中継をよく見ていた。先代の市川團十郎、松本幸四郎、尾上松緑らがスターだったころである。
 歌舞伎のどこが面白いのか。一見、荒唐無稽、様式美にこだわった、いささか大袈裟な表現をとるが、喜怒哀楽といった人間のいろんな感情を、長唄や常磐津(ときわづ・浄瑠璃音楽の一種)、義太夫(浄瑠璃音楽の一種)といった音曲に支えられて深く描いているから、だと思う。

(c)松竹株式会社

(c)松竹株式会社

 昭和40年すぎから、歌舞伎座に足を運ぶようになった。いまの山城屋、坂田藤十郎が、まだ中村雁治郎を襲名する前、中村扇雀だったころである。高い座席には座れない。たいてい、3階うしろの幕見席である、ここは、1幕だけ、安く見ることができる。
 今年の4月、歌舞伎座が建て替えのため、さよなら公演の第2部を見た。もちろん、幕見席だ。「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」は、松王丸・松本幸四郎、千代・玉三郎、戸浪・中村勘三郎、武部源蔵・片岡仁左衛門の豪華配役であった。40年ほど、ときおりだが、通い詰めた場所、感慨は深い。

 このほど、ドキュメント映画「わが心の歌舞伎座」(松竹配給)が作られた。当代の人気役者がズラリ、それぞれが、歌舞伎座の思い出を語る。
 登場する役者は、中村芝翫(しかん)、中村吉右衛門、市川團十郎、坂東玉三郎、中村富十郎、中村勘三郎、松本幸四郎、中村梅玉、片岡仁左衛門、坂田藤十郎、そして、尾上菊五郎の11人。そして、この役者たちの最近の舞台のダイジェストが挿入される。有名な演目のクライマックス・シーンばかり。まるで、歌舞伎の「ザッツ・エンタテインメント」。実に見応えたっぷりである。さらに、歌舞伎座を支える、床山、大道具など、いろんな役割を果たす裏方さんの実態が紹介される。
 幕見席からは、とうてい見えない役者の表情が、映画ではあざやかに捉えられている。様式美はもちろんだが、歌舞伎には心理描写や身振りなど、たいへんなリアリティがある。それが役者たちの表情から伝わってくる。歌舞伎の持つおもしろさ、奥深さが、よく分かるのである。
 もう、歌舞伎に興味のある若い人には、ぜひ見てほしい。さらに、歌舞伎に魅せられることと思う。

(c)松竹株式会社

(c)松竹株式会社

 七代目中村芝翫。五代目中村歌右衛門の孫になる。歌舞伎座での芝居がいちばん嬉しく、誇りに思っていることと、年齢を表現する難しさを語る。80歳ながら、20代なかばの女性の気持ちで踊る「藤娘」。そして、6人の孫と踊る「雪傾城」。みごとな踊りだ。
 二代目中村吉右衛門。昭和28年の天覧を記憶している。ふだんから人間の匂いのする芝居を心がける。「義経千本桜」の二段目「大物浦」では、碇もろとも海に身を投げる平知盛を熱演する。はまり役は「平家女護島」の「俊寛」。「16年はひと昔、夢だ、夢だ」のセリフに万感が籠もる。「熊谷陣屋」も得意芸。
 十二代目市川團十郎。息子海老蔵の不祥事が発覚したが、市川家伝承の荒事を守る。七代目團十郎の選んだ歌舞伎十八番から「暫」を演じる。伝統に基づいて創造を加え、観客を楽しませたい、と語る。「助六由縁江戸桜」より助六の花道の出を、華麗に演じる。「勧進帳」の弁慶も達者。弁慶の飛び六法による引っ込みは、何度見ても格好いい。
 五代目坂東玉三郎。当代きっての名女形。昭和39年6月の五代目襲名披露が、歌舞伎座での最大の思い出。泉鏡花の「天守物語」と「海神別荘」、どちらも艶っぽさがたっぷり。
 源氏に追われる景清の居場所を明かさないために、琴、三味線、胡弓を弾きわける「壇浦兜軍記」では、阿古屋を演じる。これが出来るのは、今では坂東玉三郎だけだろう。
 五代目中村富十郎。松竹を創立した大谷竹次郎と白井松次郎兄弟の功績を称える。80歳にして、まだ小さい息子と「連獅子」を踊る。
 舞踏劇「石橋」もあざやか。獅子の舞は、富十郎家に縁の深い演目だけに、みごとな舞である。
 十八代目中村勘三郎。幼い頃、歌舞伎座の売店にいた女性にロビーで遊んでもらう。後日、彼女が亡くなる1年前に歌舞伎座に招待する。20歳で初演した「鏡獅子」を迫力たっぷりに踊る。野田秀樹の「野田版 鼠小僧」では、愛嬌たっぷり笑わせる。「仮名手本忠臣蔵」から、塩冶判官の刃傷、切腹の場面を演じる。
 フィルム映像では名優2人が登場する。三代目の市川猿之助。「義経千本桜」、「黒塚」のあと、ケレン味たっぷりの「伊達の十役」では、早変わり、宙吊りのおもしろさを演じる。もう一人は、四代目中村雀右衛門。「本朝廿四考(ほんちょうにじゅうしこう)」からの「十種香」、「三笠山御殿」、「英執着獅子(はなぶさしゅうちゃくじし)」、「金閣寺」で、幅広い女形芸を見せる。
 いよいよ、古式顔寄手打式のあと、2009年4月、歌舞伎座さよなら公演がスタートする。手打式の様子が挿入される。
 九代目松本幸四郎。孤独な人間の典型として、「菅原伝授手習鑑」から「寺子屋」の松王丸を演じて、涙を誘う。「勧進帳」の弁慶は、1000回以上も演じた、はまり役。「仮名手本忠臣蔵」の四段目では、大星由良助を演じた。
 大道具の場面転換は、幕間の10分間で設営する。みごとな早業だ。討ち入りのある「仮名手本忠臣蔵」十一段目の始まる前には、3つの場面を同時に組み立ててしまう。
 四代目中村梅玉。歌舞伎座の3階ロビーに飾ってある、かつての名優たちの写真を見ている。演じるのは、新歌舞伎の「頼朝の死」での頼家。梅玉は、「頼朝の死」の初日の前に亡くなった父、六代目中村歌右衛門の思い出を語る。「鈴ヶ森」では、白井権八に扮して、みずみずしい。
 十五代目片岡仁左衛門。孝夫ちゃんの愛称で呼ばれる上方の名優。初舞台は、昭和の名優、大松嶋と言われた父、十三代目片岡仁左衛門の歌舞伎座での襲名興行。観る人の心に残るように演じたい、と語る。「菅原伝授手習鑑」では、菅丞相を演じる。父と祖父が、大事にしていた役どころである。近松門左衛門の傑作「女殺油地獄」の与兵衛を、油にまみれて熱演する。
 四代目坂田藤十郎。三代目中村雁治郎から四代目襲名が決まったころ、「心中天網島」の「河庄」では、カーテンコールで襲名の挨拶をした。「曾根崎心中」の徳兵衛も心理描写が絶品。封印切で有名な「恋飛脚大和往来」では、忠兵衛の所作を、哀切たっぷり、丁寧に演じる。上方歌舞伎の至宝といえる。
 さよなら公演のための最後の顔寄で、演目が発表される。 
 七代目尾上菊五郎。歌舞伎座3階ロビーにある名優の胸像を見て、名優といわれた五代目、六代目の思い出を語る。陰惨なドラマ「直侍」を、コミックに演じて軽快。「魚屋宗五郎」は、酔っぱらうシーンがうまい。歌舞伎の様式美とリアルな心理描写を心がけている。当たり役は「弁天娘女男白浪」の弁天小僧で、「知らざぁ言って聞かせやしょう」の名セリフで有名。心地よい七五調のセリフ、口舌はあざやかである。
 千秋楽の演目は「助六由縁江戸桜」。市川團十郎扮する助六の睨みや見栄に、観客は大喜び。
 2010年4月30日は閉場式。8人の立役が「都風流」、5人の女形が「京鹿子娘道成寺」を踊る。まさに豪華版、最後の手打を、坂田藤十郎が務める。
 新しい歌舞伎座は、2013年春、完成の予定である。

2011年1月15日(土)より、東劇ico_link 他にて全国公開

■「わが心の歌舞伎座」

監督:十河壯吉
ナレーター:倍賞千恵子
撮影:柏原聡
照明:藤井克則
音楽:土井淳
2010年/日本/207分/HD
製作・配給:松竹


おうちへ おいでよ

※本実践は平成20年度版学習指導要領に基づく実践です。

指  導  計  画

題材名

おうちへ おいでよ

総時数

題材概要


Web実践事例vol07_12
Web実践事例vol07_12

 用いる主な材料は、1畳大より小さい段ボール板である。その段ボール板を立てて壁をつくって囲むと、部屋のようなスペースができる。こうしてできた部屋を一人ひとりの部屋として見立て、表していく題材である。
 部屋の仕組みだが、一畳大の段ボール板を十字に組み、倒れにくくした構造になっている。十字に組んだ所の一角ずつを、一人ひとりのスペース=部屋とし、その4つの部屋がまとまりをもって「おうち」と設定している。
 「おうち」の外に向かっては壁(境界線)がなく広がっているが、隣同士は段ボールの壁で隔たり(境界線)がある。実は、これは、隣の友だちとの造形活動の交流が生まれる仕掛けとなる場の設定なのである。なぜなら、自分のスペースを一つの部屋としてつくりながらも、隣と共有する壁に切り込みを入れたり穴を開けたりすることで、その窓や扉の活用の仕方を友だちと交流することが生まれるからである。こうしたつながる面白さを感じながら表すこともできるのが、この題材の面白さでもある。
 いつしか、一人ひとりのスペースも4人共有のスペースとなり、全体で一つの「おうち」となっていく。さらに発展して、隣の「おうち」とも段ボール板の道でつながり、コミニティがどんどんできていく。このような部屋づくり→家づくり→町づくりと展開されていく面白さのある題材である。

題材ではぐくみたい資質や能力

  • 自他の「おうち」の表し方や想いの面白さ、「おうち」ができていくことの面白さを感じ取ることができる。
  • 切り開いた窓やつくり始めた部屋を基に、新たな窓や壁、天井、部屋に合うアイテムなどを発想して表すことができる。
  • 思い描いた「おうち」が形づくられる満足感を味わったり、想いや表し方の違いをよさとして認めたりすることができる。

題材を構成するもの

  • テーマ:へや、うち
  • 素 材:段ボール板、段ボール箱、共同絵の具、刷毛、色テープ、粘着テープ、これまでの図工科の学習で出た廃材など
  • 方 法:段ボールカッターで切る、絵の具での着色する、材料を組み合わせるなど幅がある

*テーマは、「おうち」として限定をかけたが、それを表す素材や方法には幅をもたせて取り組ませた。

授業の実際

●題材イメージ→想いへ

Web実践事例vol07_01

 題材の導入では、一畳大の段ボール板を十字に組んだものを「おうち」に見立てることから始まり、子どもたちが「おうち」から連想するもの・ことを引き出していった。ここでは、題材の中心テーマである「おうち」への想像を広げ、おうちづくりへの想いをもたせることがねらいなので、敢えて時間をかけて分類・整理はしなかった。
 題材イメージが「おうち」からの連想によって広がってくると、子どもたちの中に「こんなおうちにしてみたい」「こんなおうちがあったらいいなあ」といった想いが芽生え始めてきた。そこで、活動へと移行していったのである。

●扉が交流の扉を開く

Web実践事例vol07_02 Web実践事例vol07_03 Web実践事例vol07_04

 まずは、座ったり触れたりして材質を確かめる子ども。十字に組んだ段ボールを動かして思い描いた部屋に合うように場を変化できないかと試す子ども。自分のスペースから隣のスペースをのぞいて楽しむ子どもなど。場や材料で遊んだり、材料に触れてできることを試す子どもたちの姿がそこにはあった。
 次にとりかかったのは、導入で行ったおうちからの連想で出ていた様々な部屋に必要なアイテムづくりである。段ボールで浴室をつくる子ども。部屋で一緒に暮らす犬の小屋をつくる子ども。おもちゃ棚を段ボール箱を切ってつくる子ども。段ボール箱を積み重ね、階段を手掛ける子どもなどがいた。
 一方で、段ボールカッターを手に始めたのが、隣の友だちと共有している壁の加工であった。部屋に必要なアイテムとして窓を強く意識している子どもであった。ギコギコ切っていくといつしか隙間ができ、扉や窓ができていく。その空いた箇所から隣をのぞいたり、手を入れて隣にちょっかいを出したり。また、それに気付いて、のぞき返してきたり、扉の形をさらに変えようと提案したりする子どもなど、次第にその輪が回りに広がっていった。つまり、共有する壁は子どもたちにとっては、隣との境界としての隔たりではなく、交流のきっかけをつくるものとして働いたのであった。

●互いに刺激を交わして表現の幅の広がりへ

Web実践事例vol07_05 段ボールカッターで切る手応えを満喫した子どもは、「もっと~したい」とばかりに屋根を組んだり、着色したり、新たに段ボールをもってきて家具をつくり出したりし始めた。
 友だちとの交流の中で「テレビがあるといいよね」「お風呂の次はシャワーもつくってみたら」といった「もっと」が生まれ、次の造形活動が始まる子どももいれば、段ボールをテーブルにしたり床の段ボールを着色して庭にしたりといった、友だちの工夫からひらめいて始まる子ども。また、周りの友だちがアイテムを段ボールに筆で描くのではなく、段ボールから切り抜いてつくっているのをきっかけにつくりかえる子どもなど様々であった。その様子を見ていると、子どもたちの造形活動は、友だちと交流しながら創造的な刺激を交わして進んでいるかのようであった。

Web実践事例vol07_06

 また、自分のスペースを表現しながらも、隣接した友だちが手掛けているところが気になり見に行ったり、手伝ったりする姿があり、そこに、自分たちの「おうち」への想いのふくらみを見取ることができた。このころから、子どもたちから「自分のおうち」ではなく「先生見て。ぼくたちのおうち。」という声があがり始めた。

●遊びを通した相互鑑賞で互いの違いのよさを実感

 本題材も6時間目を迎えた。題材の最終時間である。
 自分たちの「おうち」を満足いくまで表現し、班によっては表現の幅を広げ、段ボールで道をつくり他の班とつながっていき、互いに行き来して遊んで交流しているところも出てきた。それを見取った教師は、最後の時間を相互鑑賞、しかも遊びを通しての相互鑑賞の時間として設けた。

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 右の画像は、友だちが表現したおうちの中の「お風呂」に入って面白さを味わっているところである。どんな気持ちかを尋ねると「気持ちいい~」と本物のお風呂に浸かってるかのように応えてくれていたところに、友だちの表現のよさを感じ取っているのを見取ることができた。

 2つ目の画像は、友だちの子ども部屋「ワクワクハウス」にすっぽり収まって落ち着いている様子である。「外側もいいけど、中からだともっといいよ」「本当のおうちにいるみたい」と教師に話しかけている場面である。

 3つ目は、女の子が男の子に、表現したおうちを「ここにはリモコンを置くポケットがあって、この箱には教科書が入ってて…」「このドアの取っ手が難しかったんだよねえ」と紹介している場面である。子どもそれぞれに、こだわってつくったり、苦労してつくった部分があったりするので、表現一つひとつがかけがえのないものとなっていることが、その説明に耳を傾けるととらえることができたのであった。

終わりに

 教師として日頃心がけていることがある。それは、終始、子どもの声に耳を傾け、子どもの内面を引き出して理解すること。そして、見取った子どものよさを子どもに価値付けとして返すことである。
 それは、個人的に問いかけたり、子ども同士の交流に加わって聞き出したりすることだけで可能になる。大事なのは、その子ども理解への手間を惜しまないこと。そして、子ども一人ひとりのこだわりや想像の世界のよさ、表現するモチーフに至るまでの背景、これからの表現への見通し、悩みなどの子どもの内面を見取った上で称賛したり周りに広めたりして価値付けるのである。そのことにより、子どもは無意識で行っていた造形活動のよさや自分の見方・感じ方・考え方のよさを意味付かせていくのである。
 本実践の記述は、場面場面での子どもの姿を取り上げて紹介したものであったが、その姿の裏では指導と評価の一体化としての教師の見取りと価値付けが適宜行われていたのである。

生徒自身が結果を出すまで待つ教育

やっと巡り会えたマドンナです。彼女の前ではセザンヌも脇役でした。(ロンドンCourtauld Gallery)

今月のPHOTO:やっと巡り会えたマドンナです。彼女の前ではセザンヌも脇役でした。(ロンドンCourtauld Gallery)

 思い出深い作品があります。もう20年も前の中学3年生の作品です。
 作者は、今でも大切にしてくれているでしょうか。下の写真はその作品です。
 おそらく、義務教育の間に唯一自信をもって表現した作品かもしれません。県の生徒展に出品し「青少年会館々長賞」を受賞しました。

学び!と美術vol042_01

生徒作品:魚の立体パズル

 作者のA君は、中学3年間、ほとんど授業に出たことはありませんでした。彼の話では、小学校4年の頃から、登校しても授業に出ない状態が続いていたようです。彼には幾人かの同様の仲間がいました。遅れがちに登校して、校庭や授業中の廊下、階段の最上階、時には校長室が彼らの居場所でした。昼食も教室に入ることなく、校庭や廊下で済ませていました。
 そんな彼らに、教師たちの面倒見はよく、常に誰かがそばにいて話しかけたり、彼らの話題に参加したりしていました。しかし、「教室に入りなさい」「勉強しなさい」という言葉は、彼らにとって色あせて感じられるほど、そうしていることが常態であり、学びの席に向かわせることが不可能と思われるほど、クラス集団の中での学習から、彼らは遠ざかっていたのです。
 いわゆる「ヤンキー」と呼ばれた彼らは、街にジベタリアンが出現するまでの間、学校の問題児とされ、生徒指導の場面の主役たちでした。
 従わないと思いつつも、日に何度か彼らの行動を厳しく注意したり、諭したり、また、羽目を外しすぎた後には家庭訪問をしたり、本人に代って謝罪に回ったりすることも珍しくありませんでした。消火用ホースで校舎内に散水することや、教室の壁面に穴を開けることなどは日常茶飯事でしたから、その後始末に奔走する教師陣の勤務実態は過酷なものでした。
 新しく着任された先生から「なぜ指導を徹底しないのか」とお叱りをいただくこともありました。
 指導しあぐねる私たちのことを見抜いてのことか、盲点を突くことに関しては天才的な集団でもありました。
 あるとき、いつものように手相占いで話が盛り上がっているときに、その中の一人が、「勝手気ままな生き方をしているけど、今考えているように二十歳を過ぎても考えているとは限らないぞ。」と卒業した先輩に言われたという話を始めたのです。「少しは先のことを考えて生きろ」ということらしいのですが、その話は、数日前にその卒業生に私が話した内容でした。彼らに自らのことを考えさせるキッカケとなって私のところに帰ってきたのです。
 自らのことを考え始めた彼らに何かできないか思案しました。結局、文字や数字の苦手な彼らを我田に引き込み「絵を描かせよう」と思い立ちました。中学3年の4月末のことでした。

 美術室に長時間座らせるだけでも大変な苦労でしたが、紙や筆記用具の無駄はしばらく目をつぶることにしました。やがて彼らは、エロ・グロの鉛筆画を描き始め、仲間や私に見せることを楽しみに描き、時には、自らの想像を絵にすることを楽しむかのように描き続けたのです。
 そして、夏を迎える頃には描画力が向上し、自信をもって描くまでに上達していました。
 その内の一人がA君です。
 描画からすっかりエロ・グロが消え、欲しいバイクや彼らの間で流行している髪型など、主題にも大きな変化が表れていました。描いたものを当時の教頭先生に見せることも楽しみの一つとなっていました。
 頃合いを見て、授業に合流させようと思い、授業課題に取り組むことを提案しました。やはり自分のクラスには入れませんでしたが、「立体パズル」の課題に挑戦する意欲を見せたのです。学校にいるすべての時間を「美術」に打ち込める特権(?)を生かして、短期間に写真のような作品を仕上げました。もちろんアイデアスケッチや高度な糸鋸操作について個人レッスンしながら励まし、褒めて集中力の維持に努めました。その作品は授業の参考作品となり、選ばれた数点とともに出品されたのです。
 受賞の喜びは、ヤンキー仲間にも広がり、彼らの態度や考え方に変化が見られるようになりました。そして、受賞式に初めて臨む我が子の姿を喜ぶ母親の涙は、A君を大きく変身させたようです。
 教員として、すでにベテランの域にあった私も、特別な指導形態であったとはいえ、改めて「美術による教育」の力を知ったという思いでした。

 卒業後の彼らは、多くの教員の心配をよそに、我が道を真面目に歩んでいるようです。
 教師が教え子に手渡せるものは非常に微弱でもろいものですが、子どもたちはそれを大きく膨らませ、我がものとして「生きる力」に変える能力を秘めています。教育とは、成果を急ぎすぎず、生徒自身が結果を出すまで待つしかないものなのでしょう。

【今回は、導入事例をお休みします】


つないで つないで

※本実践は平成20年度版学習指導要領に基づく実践です。

指  導  計  画

題材名

つないで つないで

総時数

題材概要

 素材と方法から始まる造形遊びの題材である。大量の白色の短冊用紙とそれらをつなぐ造形行為(教師が示す)を出合わせ、教師が始めに示した造形行為を越える「だったら~してみたい」「もっと~できるよ」といった発想を子どもから引き出していく。こうした発想を基に、子どもたちは、短冊を重ねたり、丸めたり、折ったりしながら道のようにどんどん短冊をつないでいき、つなぎながら自分なりのお話をつくって取り組んでいく。

題材ではぐくみたい資質や能力

  • 短冊をつないでいく造形行為の面白さ、短冊用紙を折ったり曲げたり加工する面白さを感じ取りながら表すことができる。
  • 短冊のつなげ方を新たに思い付いたり、つながる中で現れる世界からさらに想像の世界をふくらませたりしながら表すことができる。
  • つなぐ造形行為そのものの面白さや想像の世界が形づくられる満足感を味わったり、互いの想いや表し方の違いをよさとして認めたりすることができる。

題材を構成するもの

  • テーマ:自由
  • 素 材:白い紙の短冊、でんぷんのりに限定
  • 方 法:でんぷんのりでの接着によって短冊をつないでいくことに限定

授業の実際

Web実践事例vol06_01
Web実践事例vol06_02

●「ななめにもつなげるよ」

 導入時に、教師が白色の短冊を数本のりで接着してつなぐ造形行為を示しながら、子どもたちに活動を投げかけた。
 教師:今日の図工は、長い紙をのりでこうしてくっつけて、ようしできたぞ。
 子1:横にもつないだらいいんじゃない。
 子2:だったら、斜めもあるんじゃない。
 子3:それいいねえ。おもしろそう。
 子4:ぼくだったら、長くつなぎたいな。ずうっと向こうまで。
 子どもたちの中に、「やってみたい」「試したい」「表してみたい」という想いが生まれたのを、教師は見取って、子どもたちの造形活動をスタートさせた。

●「いっしょにつなげよう」

Web実践事例vol06_03

 短冊をまっすぐつなぐ子ども。交差させてつなぐ子ども。ジグザグにつなぐ子どもなど。始めは一人ひとりでつなぐことを楽しんで取り組んでいた。しかし、短冊がつながり出すと、近くの友だちの表現と重なりや近接が生まれてきた。そして、友だちとのかかわりが生まれ、発想の広がりや、廊下への造形活動範囲の広がりへとつながっていった。つなぐ造形行為の面白さやつながって表れる世界の面白さを感じ取っている子どもどうし、自然と互いの想いや表現をつなぎ始めた。

●「トンネルのビルができたよ」

Web実践事例vol06_04

 教師:うわあ、面白いね、この丸まった形。どんなお話になっていくのかな。
 教師は、子どもに思い描いている想像の世界と、見通しについて問いかけた。すると、
 子4:ええとね。これがトンネルでね。トンネルのビルがあってね。ここを道路がくぐっていくんだよ。車もくぐれるよ、すぐにね。
 教師:そうかあ。楽しみだなあ。
 一人の子どもの短冊を丸める造形行為や表現から、折りたたむ、階段のように折る、高く積んでつなぐなど、次々に発想が広がっていくのを見取ることができた。

●「くぐって通れるんだよ」

Web実践事例vol06_05

 短冊をアーチ状に曲げたものを何かに見立てる発想は、男の子に限ったことではなかった。女の子にも波及し、遊園地のゲートやデパートの入り口に見立て始めた。
 また、アーチの形を繰り返し使って、模様づくりを楽しむ女の子も現れた。トンネルを設けるとそこには、目には見えないがくぐって通っている道路や車、人、動物たちがいるのであった。

●「いっぱい並べて橋に…」

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 教師:ここでは、どんなことをしてるのかな。
 子5:いっぱい並べて、橋にするの。
 子6:あっちとこっちの道をつなぐんだよ。
 教師:なるほど。この橋を渡って行くと近道になりそうでいいね。
 子6:そうだよ。
 細い短冊を隙間無く並べて敷き詰め、つなぐことで橋を表すといった造形行為も現れた。この子どもの姿からは、1年生であっても、見通しや想像の世界を友だちと共有しながら取り組んでいることを見取ることができた。

●「もっともっと長~くしたいな」

Web実践事例vol06_07

 後半になってくると、教室では狭くなり、廊下を使っての活動へと広がりが見られた。写真の子どもたちは、道としてつなぐばかりではなく、道に隣接された駐車場やレース場、店や家などを配しながら、どんどん想像の世界を広げて表していった。中には、短冊を加工して車や人をつくる子どもの姿もあった。

 授業の最後には、子どもたちの「みんなのを見てみたい」想いを見取り、相互鑑賞を行った。一生懸命工夫してつくった箇所を説明する子ども。つくり始めた所から終わりまでお話をつなぐように話す子ども。友だちの長くつながった表現に興奮し、コースを行ったり来たりして走り回る子どもなど、様々な感じ方で互いの違いをよさとして感じ取っていた。

終わりに

 材料や方法を限定してスタートしているが、子どもたちは、限定されたからこそ短冊の新しいつなぎ方を試したり、用い方を思い付いたりしたのである。題材構想の段階で「子どもは教師の想定を越える」ことをふまえつつ、どれだけ子どもに寄り添った構想ができるかが教師にとっての勝負となる。多種多様な材料だからよいわけでもなく、斬新な方法を取り入れるからよいのでもなく、ちょうどよく子どもの「もっと」が生まれる題材構想をこれからもしていきたい。
 そのために、図画工作科の授業のみならず、他教科等の授業での子どもの見取りや給食中の子どもとの対話から子どもの興味・関心や発達の特性をとらえていく必要があると考える。

体験不足はなぜ起こるか

■ 自然体験10年間で減少

 虫取りや海・川で泳ぐといった体験は45歳以上の人は当たり前であった。それがこの約10年間で大幅に減少していることが国立青少年教育振興機構の調査でわかった。
 調査は今年の1月から2月、全国の小中高校の児童・生徒約1万8800人を対象にしている。
 小学校4年と6年、中学2年への調査で、「チョウやトンボなどの昆虫を捕まえたこと」が「何度もある」か「少しある」と答えた割合は59%で、前回同じ質問をした05年度に比べて6ポイント減少。1998年に比べて22ポイント減だった。
 「海や川で泳いだ」は09年度が70%で05年度に比べ4ポイント減、98年度と比べると20ポイントも減った。「キャンプをした」も09年度は44%で、98年度に比べると17ポイント減少。
 同機構は幼少期の体験がその後の人生にどんな影響を及ぼすか調べるため、09年11月~12月に、小中高生約1万1千人を対象にした別の調査を実施している。それによると、小中学生の頃体験量の多い高校生は、規範意識が高く、職業意識も高い。さらに人と関わるコミュニケーション能力も高い、という結果が出ている。

■ 子どもの歩数が減った

 子どもの体験不足の背景には放課後の世界が消えていることがいえる。具体的には、子どもの歩く歩数が減っている。
 東京都によれば30年前、1日に約2万7000歩あった子どもの歩数はここ30年で半減し、今や1万3000歩までになっている、という。
 私が3年前に行った小学校5年生を対象にした調査(月曜日から金曜日までの5日間の平均)では約1万歩であった。ほぼ同じ結果である。
 日経新聞によると、東京都の荒川区にある区立三峡田小学校は昨年から年に2~3回「ミリオンウォーク」期間を設け、1日に1万歩以上歩くように促している、という。
 東京都は子どもの歩数の少なさに危機意識を抱き、今年の7月に子どもの体力を高めるには1日に1万5000歩相当の活動が必要とのガイドラインを公表している。
 「万歩計」は、商標登録されている言葉だが、そこには健康を維持するには1日に1万歩、歩きましょうという願いが込められている。実際、5千歩ほど歩くと汗がにじんでくる。その2倍歩くとかなりのエネルギーの消費になる。「1万歩」は理にかなった歩数のようだ。

■ 中山間地域では学校の遊びが必要

 子どもの歩数の減少は都市部に限ったものではない。中山間地域ほど歩数が減っている。車社会の普及で歩く機会が少なくなっている。親たちはつい便利な車で送り迎えしがちである。
 以前、団地と住宅地、それから自然が豊かな農山村地域の子どもを対象に、放課後どれぐらい遊んでいるか調査したことがある。
 先に結論をいうと、一番遊んでいるのは団地の子どもたちであった。次が住宅地の子ども。一番遊んでいないのは農山村地域の子どもたちである。仮説が裏切られた記憶がある。
 農山村地域の子どもは放課後は屋内に閉じこもっている。家の周りには友達がいないのでテレビと漫画、それからテレビゲームを友達にしている。
 一番遊んでいたのは団地の子どもたちであったが、それは家の近くに友達が多いからである。「遊ぼうぜ」と声をかければ、集まる友達がいたのである。
 子どもの歩数を多くするには、放課後子どもたちが集まる居場所づくりが欠かせない。つまり、地域の中で子どもの人口密度を高くするのである。
 放課後がすたれつつある今、地域の放課後の居場所づくりと共に、子どもの人口密度が高い学校での外遊びの復活が必要である。とりわけ、中山間地域では学校での遊びを見直したいものである。
 東海大学の小沢治夫教授によれば、あまり歩かない子どもは「体調が悪い」「寝付けない」「便秘になる」「やる気がない」という。
 歩くことは体力だけでなく、体調、それから気持ちにまで影響を与えるのである。歩かないと長い間、直立不動の姿勢がとれなくなる。夏休み明けの朝礼では、多くの小学校では子どもを体育座りにさせている。
 地面を強く踏む。しかも親指に力を入れて地面を踏む。こうした機会が減っているから、体を静止した姿勢がとれない子どもが増えている。早速、歩数計を付けて歩こう。
日文の教育情報ロゴ

「北方領土」といわれる世界 1

 ロシア大統領の国後島訪問で北方領土問題は、竹島や尖閣諸島をめぐる韓国や中国の紛糾とも相まって日本の国民感情を逆なでし、強権的な民族主義の昂揚をうながす趣きをもった論調で語られています。それだけに、こうした危機感に右往左往することなく、まずは立ち止まって、北方領土と言われる世界を自分の眼でとらえるための基礎作業が必要でないでしょうか。

松前とカラフト・千島の交易

 海禁政策(領民の海上利用を規制する政策)をとる徳川将軍家が統治する日本は、「鎖国」下で世界への窓口として長崎口(オランダ・清国)、対馬口(朝鮮)、薩摩‐琉球口(東南アジア)とエゾ松前口(蝦夷地・ロシア)という四つの窓をもっていました。松前藩や幕府は、18世紀半ばまで、カラフト・千島を交易船の派遣されないエゾの奥地とみなしていました。松前からの交易船は、1739(元文4)年頃の「蝦夷商賈聞書(えぞしょうこききがき)」によれば、北がソウヤ(現稚内市)、東がクナシリ(国後島)であり、カラフト・現北海道のオホーツク沿岸から千島列島へ及んでいません。カラフトは、南半分が主にカラフトアイヌ、北半分がウルタイや二ヴヒの居住地でした。
 千島列島は、北千島・中千島が主に千島アイヌ、南千島が北海道アイヌの居住域でした。ソウヤは、このような状況下で、現北海道のオホーツク沿岸のアイヌや「唐物」をもたらす「カラプトノ蝦夷」が参集し、クナシリにはそれより「奥」のアイヌが「荷物」を運んで来ました。
 いわばカラフト・千島のアイヌは、松前からの交易船の限界地において、和人との交易を行っていたわけです。千島アイヌは、ラッコなどの豊富な海獣資源を活かし、ラッコ皮などを生産し、カムチャツカ方面に南下してきたロシア商人や北海道アイヌと松前からの交易船によって日本との交易を営んでいました。その営みは、18世紀になると南下して来るロシアの影響が強まり、ロシア国教である東方教会に連なるハリストス正教を受容し、ヤサーク(毛皮税)を貢納するようになり、ロシアの統治下にくみこまれていきます。その一方では、道東の北海道アイヌとも通婚しており、ロシアと日本との重層的関係をもっていました。

幕府の対応

平成18~23年度用「中学生の社会科 地理 世界と日本の国土」より

平成18~23年度用「中学生の社会科 地理 世界と日本の国土」より

 クナシリは、安永年間から飛騨屋久兵衛が経営していましたが、アイヌを脅迫し強制的に使役して鮭・鱒の〆粕生産をしたために、1789(寛政元)年にアイヌが蜂起しました(クナシリ・メナシの戦い)。1792年にはロシア使節ラクスマンが漂流民大黒屋光太夫を伴い日本に通好を求めて根室に来航、1797年にはイギリス艦が蝦夷地に来航するなど、ロシアの南下をはじめ蝦夷地近海が騒がしくなります。ここに幕府は、同年に目付渡辺糺を蝦夷地巡視に派遣、1799年に近藤重蔵(じゅうぞう)をエトロフに派遣し、ロシアの南下に備えました。近藤は、ロシアに対処すべく、アイヌの和人化をはかります。かつ幕府は、1802(享和2)年に東蝦夷地を直轄領となし、エトロフのアイヌがウルップ(得撫島)以北に行くことを禁止し、北のアイヌがウルップ以南に来ることを禁止して、アイヌの千島交易ルートを遮断することで、ロシアの南下に対応していきます。こうして千島アイヌのアッケシ来航、クナシリアイヌのウルップ出稼ぎが不可能となり、千島アイヌはロシアとの交易のみで生活を営むこととなったのです。いわば日本は、エトロフ以南を支配し、北部・中部千島に眼を閉ざしたのです。

日本の行政区として

 1855(安政元)年の日露和親条約は、こうした状況をもとに、エトロフとウルップの間を日露の境界としました。ついで明治新政府は、1875(明治8)年の千島樺太交換条約により、全千島を領有します。そこで1884年に北千島のアイヌ97人を色丹島に移したため、シュムシュ島からウルップ島までがほとんど無人状態となりました。
 ここに国後島・択捉島は、1869年の国郡制で千島国となり、国後島は国後郡として開拓使の直轄としますが、1871年まで久保田藩の分領支配に置かれていました。択捉島には4郡がおかれ、択捉郡(彦根藩)・振別郡(ふれべつぐん・佐賀藩、のち仙台藩)・紗那郡(しゃなぐん・仙台藩)・蘂取郡(しべとろぐん・高知藩、のち仙台藩)のそれぞれ分領支配地となりましたが、72年に開拓使根室支庁の直轄となります。色丹島は根室国花咲郡に組み込まれました。
 1875年の千島樺太交換条約で得撫島までが日本領となったことで、76年に得撫郡・新知郡(しむしるぐん)・占守郡(しゅむしゅぐん)を千島国に編入し、開拓使札幌本府直轄としたが、78年に根室支庁の管轄となり、85年に根室国花咲郡から分離した色丹郡が成立。
 千島国は、1876年の北海道大小区制で第26大区となりますが、その廃止により79年に振別・択捉・紗那・蘂取の四郡役所が振別に置かれ、国後・得撫・新知・占守の四郡は根室に置かれた根室外八郡役所に属しました。85年に振別・択捉・紗那・蘂取の四郡役所が振別から紗那に移転し、国後・得撫・新知・占守の四郡は色丹郡とともに根室外九郡役所の所管となります。千島国は、82年の廃使置県で根室県に属し、86年の廃県置庁で北海道庁の管轄となりました。さらに97年の郡役所廃止で紗那・振別・択捉・蘂取の四郡は紗那支庁、国後・得撫・新知・占守・色丹の五郡は根室支庁の管轄となります。
 色丹島は、町村制で87年に斜古丹村戸長役場、1923(大正12)年の二級町村斜古丹村に、1933(昭和8)年に色丹村と改称。国後島のトマリ・ヘトカ・トウブツ・チフカルベツの各村は、1875年頃までに泊・来戸賀・東沸(とうふつ)・秩苅別(ちぷかりべつ)となり、80年に留夜別(るよべつ)の五村となり、戸長役場を泊村に設置。95年には、留夜別村に秩苅別村から分かれた大滝村とで留夜別外1ヶ村戸長役場、泊・来戸賀・東沸・秩苅別の四村が泊外三ヶ村戸長役場を設置します。さらに1923年には、泊・来戸賀・東沸・秩苅別の四村、留夜別と大滝の二村がそれぞれ合併して二級町村の泊村と留夜別村となります。
 択捉島南西部のルベツ・フウレベツ・ヲイト・ナイボ・タンネモイの各村は75年に留別・振別・老門(おいと)・内保(ないほ)・丹根萌(たんねもえ)となり、85年に振別外4ヶ村戸長役場が置かれ、翌86年に留別外4ヶ村戸長役場となりましたが、87年に内保村と丹根萌村が分かれて内保外1ヶ村戸長役場を設置。1923年には、沙那郡留別村・振別郡振別村・老門村・択捉郡内保村・丹根萌村が合併し二級町村留別村が成立します。
 択捉島中部のシャナ・アリモイの各村は1875年に沙那・有萌・別飛となり、75年に沙那外2ヶ村戸長役場が置かれ、1923年に紗那郡有萌村・別飛村・沙那村が合併して二級町村紗那村が成立します。
 択捉島北東部のシベトル・ヲトイマウシの各村は、1875年に蘂取・乙今牛となり、84年に蘂取村に戸長役場を設置、1923年に両村が合併して二級町村蘂取村が成立します。
 ここには、千島を領有した日本が新天地の開拓をめざす移住者の定住にともない、行政組織が整備されていく様相がうかがえます。「北方領土」といわれる世界は、江戸幕府が蝦夷地に向けた眼差しをふまえ、近代日本国家が北の島々を内国植民地として経営すべく、統治組織をどのように確立していったかを問い質すとき、はじめて視えることができるのではないでしょうか。そこで次回は北の島々の住民の相貌をうかがうこととします。


シチリア!シチリア!

(c)2009 MEDUSA FILM

(c)2009 MEDUSA FILM

 誰にでも、生まれ育った故郷はある。その思い出や思い入れの深さは異なっても、人生そのものに、なにかしらの影響をもたらすものと思われる。洋の東西を問わず、映画や文学、絵画、音楽など、いろんな表現に、故郷が登場する。
 イタリアのシチリア島に生まれた映画監督ジュゼッペ・トルナトーレも、故郷シチリアを映画で描く作家である。
 シチリア島の村が舞台。映画館に通い詰める少年の半生を描いた傑作「ニュー・シネマ・パラダイス」を監督したトルナトーレは、新作「シチリア!シチリア!」(角川映画配給)でもまた、故郷のシチリアを描く。

(c)2009 MEDUSA FILM

(c)2009 MEDUSA FILM

 1930年代のイタリアのシチリア。ペッピーノ少年は次男坊、経済的には豊かではないけれど、優しい家族や周囲の大人たちに囲まれて、幸せな少年時代を過ごしている。
 家業は牛飼い。もちろん、学校に行くけれど、農場に出稼ぎに行ったりもして、家業を手伝っている。ペッピーノの楽しみは、父に連れられて映画館に行くこと。サイレントの映画だが、ペッピーノにとっては、かけがえのない幸福な時間だ。 
 ペッピーノは、やがて大人になっていく。裕福な家の娘のマンニーナに恋をするが、マンニーナの両親は結婚に大反対。ペッピーノの家が貧しいからである。ふたりは駆け落ちまでして、やっとのことで結婚する。そして、時代の荒波にもまれながらも、ペッピーノは政治家を志し、みごと共産党から出馬、議員となる。
 かつてのペッピーノが、父に連れられて映画を見たように、父となったペッピーノは、まだ幼い息子ピエトロを映画に連れていく。ブルックリンの波止場で働くイタリア移民の悲劇、シドニー・ルメット監督の「橋からの眺め」だ。
 息子のピエトロが、賑やかになった町の通りに駆け出す。まだ幼かったペッピーノの姿に重なる。感動的なラストシーンが用意されている。

(c)2009 MEDUSA FILM

(c)2009 MEDUSA FILM

 ペッピーノの父から、ペッピーノの息子までの親子三代、1930年代から50年間にわたる家族のドラマである。ファシズムの崩壊、第二次世界大戦の敗戦、共和国の成立までの、まさに激動のイタリア史を背景に、家族のドラマが語られる。
 多くのエピソードは、さりげなく描かれるが、ひとつひとつが滋味深い。ひとつの家族の50年の歴史から、当時の社会背景、人生模様が、くっきりと浮かびあがる。
 笑いも涙もある。どのような境遇にあっても、前向きに、肯定的に生きることは、素晴らしい。正しいと信じたことを貫き、家族のため、人のために生きる。この、あたりまえのことを貫く勇気を、映画は伝える。

2010年12月18日(土)より
シネスイッチ銀座ico_link角川シネマ新宿ico_link他にてロードショー

■「シチリア!シチリア!」

監督・脚本: ジュゼッペ・トルナトーレ
音楽: エンニオ・モリコーネ
撮影: エンリコ・ルチディ
美術監督: マウリツィオ・サバティーニ
衣装: ルイジ・ボナーノ
2009年/イタリア/カラー/151分/スコープサイズ/ドルビーSRD/
配給:角川映画