ホルンと彫刻の調べ

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 「音楽からのイメージで彫刻をつくってみませんか?」
 長崎大学からの旧知の仲である彫刻家・片山博詞氏との何気ない会話から全ては始まりました。抽象的で様式感のない、ホルンとピアノのための曲を提案したので、具象をフィールドにしている片山氏にとっては冒険に近い試みだったかも知れません。この試みは、いつしか実現したいという「夢」となっていました。
 そんな私たちの思いが通じたのか、昨年「ホルンと彫刻の調べ」というコラボレーションが実現しました。
 リサイタルの依頼を受けた際、主催者に「音楽と彫刻」という組み合わせのコンサート企画を提案したところ、幻想的で新しい空間を創造したいという熱い思いが伝わり、沢山のご支援の中実現することができたのです。
 企画内容を詰めていくうちに、「彫刻」から「音楽」ができたらどうなるか? という興味も湧いてきました。そこで、長崎出身の作曲家・中原達彦氏に、片山氏の彫刻をもとにした新曲を委嘱しました。
 演奏会当日、会場に足を運ぶと、彫刻がステージ上や客席の周りを包み込むように設置されており、不思議な雰囲気を醸し出していました。
 今回初めての試みでしたが、お客様の思いもよらぬ感想に驚きました。「曲によって彫刻の表情が変わる」「彫刻が動いているように感じた」というのです。ワルツでは踊るように、ノクターンでは沁み入り聴いているように見えるというのです。音の響きが彫刻と共鳴してそう見えるのか、音楽を聴いた自分の中のイメージによってそう見えるのか判別付け難いのですが、そこには確かに「動き」がありました。
 演奏中は彫刻から温かみを感じました。お客様の表情も、柔和に変わって行くのを肌で感じました。彫刻家の「想い」が我々演奏者に伝わり、そこから奏でられた「音」が観客に伝わったと確信しています。
 このコンサートを通して、「人との繋がり」の大切さを改めて痛感しました。最初は小さかった輪が次第に大きくなり、ホルンと彫刻までも結びつけて幸せな空間を生み出したのです。結びついた力は数倍にも増幅し、幸福をもたらす事を信じて、この新しい表現を引き続き模索して行くことが、「音色」のメッセンジャーである音楽家、私個人の「夢」です。

プロフィール
 宮崎市出身。長崎大学経済学部を卒業後、東京藝術大学にて学ぶ。1996年より、オランダ・マーストリヒト音楽院に留学。留学中はヨーロッパ各地にてオーケストラの演奏旅行に参加した。帰国後、九州交響楽団とモーツァルトのホルン協奏曲を共演。2000年第17回日本管打楽器コンクール第3位入賞。同年広島交響楽団に入団。その後、日本フィルハーモニー交響楽団、読売日本交響楽団を経て、2005年NHK交響楽団に入団。現在首席代行を務める。2009年にはドイツ・オストフリースラント夏の音楽祭に招待され、ソロ、室内楽を演奏。モーツァルト作曲「協奏交響曲」のソリストを務めるなど好評を博した。活動範囲は幅広くユニークで、今後の活躍が最も期待されるホルン奏者である。洗足学園音楽大学、国立音楽大学、東京藝術大学各非常勤講師。


走ることをとおして伝えたいもの

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 小学生のころ、アトピー性皮膚炎や小児ぜんそくで、いわゆる虚弱体質な子どもでした。一か月に一回は風邪を引いてしまうし、本当に弱くて、でも走るのが好きでした。6年生のときの担任の先生が非常に厳しい先生で、毎朝、学校に登校したら2キロ走らされました。それによって、持久力や体力がついたと感じました。それもあって、他の人より走るのが速いということで陸上部に入りました。
 走るということは、自然を感じること。そのときの風、匂い、諸感覚でいろいろなことを感じることができるスポーツであり、自分の足ですごい距離を移動できるとてもエコなスポーツです。マラソン大会は、雨や雪が降ってもなかなか中止にはなりません。そのような中でも一生懸命走ることで、精神的・肉体的に強くなります。また、沿道の人たちの応援や、ボランティアの方の給水には、とても感謝の気持ちがわいてきます。だから走ることは、人とのつながりや日常生活では味わえないものが感じられたりします。
 社会的活動のきっかけは、1997年の東京国際女子マラソンで、ある新聞社が地雷問題をテーマとして開催していたときに選手宣誓をさせていただきました。翌年が長野オリンピックで、そのときの最終聖火ランナーで、右手右足を地雷で失った方が、長野オリンピックの開会式の翌日に、箱根から東京まで約100キロを走り、オリンピックに参加している70か国の大使館に地雷廃絶の手紙をもって走りたいので、その伴走をやってほしいという話がありました。それはNPO法人「難民を助ける会」の活動だったのです。彼がきっかけで、私も走ることをいかして何かできないかと思い、毎年1月に『地雷ではなく花をください』をテーマに地雷廃絶のチャリティマラソン、谷川真理ハーフマラソンを開催させていただいています。
 先生方の中には、いろいろなことで悩まれる方もいらっしゃると思いますが、そんなときには外へ出てジョギングやウォーキングをして汗をかいて、体の流れをかえてあげると、心が前向きになると思います。走ることに興味がありましたら、私どものジムに無料体験にきてください。

谷川真理

谷川 真理

福岡県生まれ。
1991年、東京国際女子マラソン優勝。
2002年には、ハイテクスポーツ塾を開設し、老若男女のランニング指導をしている。
社会貢献活動では、NPO法人難民を助ける会の理事として地雷の視察や地雷廃絶の国際会議でスピーチを行っている。09年には、地雷廃絶活動に対して外務大臣表彰を受賞。毎年1月には「地雷ではなく花をください」をテーマに、谷川真理ハーフマラソン大会を開催している。
現在は、ランナーとしてだけでなくタレントとしても活躍中。


座談会 小学社会のめざすもの

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 『小学社会』は、創刊以来、問題解決学習を基盤にしてきました。問題解決学習とは、何をたいせつにしようとする学習方法なのか、また、現場の先生方の実践・研究などをどう取り込んでいこうとしているのでしょうか。平成20年告示の学習指導要領の趣旨を生かし、さまざまな観点から新しい教科書を生み出していこうとしている平成27年版『小学社会』について、今回から代表監修を務められる3人の先生方に伺います。

1 「社会科」との出合い

司会 本日はよろしくお願いいたします。代表監修を務められる先生というと、雲の上の存在のように思えて、少し緊張しています。3人の先生のご紹介代わりに、ご自身の「社会科」との出会いについてうかがいたいのですが。
的場 大学時代は、私は宗教哲学と神学をやっていたので、社会科に出合ったのは教育方法学を研究しようと名古屋大学の大学院の学生になって授業記録を学んでからですね。授業記録に残されているのがほとんど社会科の授業だったんです。「子どもってこういうふうに見えているのか」と、子どもの見方が社会科から少しずつ見えてきました。以前『小学社会』の代表監修をしておられた日比裕先生のもとにいたものですから、自然に民間教育団体「社会科の初志をつらぬく会」のお世話をするようになりました。日本の先生方は手弁当でお互い切磋琢磨しておられますが、非常に貴重だと思います。研究という「城」の中に閉じこもっているだけじゃなくて、現場とかかわることで、自分自身も変えられるような研究をやっていこうと思っているし、学生たちにもそう勧めています。
司会 安野先生はもともと小学校の先生でいらしたんですね。
安野 初任校の校務分掌で社会科部に充てられました。中・高社会科の教員免許状をもっていましたから。それが始まり。その年に放送教育研究会の提案者としていきなり教育放送番組を利用した社会科の授業を行うことに(笑)。その当時は社会科向けのテレビ番組をそのまま使うというのが放送教育の「標準的な授業」だったようですが、僕は子どもの問題意識の中にないものが映像として入っているものを使うのは嫌だった。そこで、番組を分断し、子どもが関心をもち、問いが出てくるところだけを使うという授業をしました。そうすると「君のは社会科じゃない」と講評されたんです。「放送教育としては駄目だ」って言われるならまだしも(笑)。腹が立って「いや、むしろ放送番組を20分も使うような社会科は、社会科ではない」と初任なのに断言してしまって(笑)。たまたまその時の校長が社会科に理解がある先生で「君のほうが正しいよ」と言ってくれて、社会科って僕の肌に合うのかなと思ったのが社会科との最初の出合いですね。
司会 池野先生はずっと広島大学で研究されてきました。
池野 現場に立ったのは、大学院時代、付属中学で2年間だけですね。あとはずっと大学でいかに教育思想として社会科を作るかを研究しています。
司会 それはどういったことでしょうか?
池野 「社会認識教育学」が私たちの研究室の基本的な考え方です。たとえば社会科という言葉がなくなっても、「社会科的なもの」をしていることを学問的に主張したいし、しないといけないと考え続けてきました。現実に小学校低学年で社会科は生活科に変わったし、高等学校では地理歴史科、公民科になりました。でも大きく見れば、これらも社会科だと私たちは言いたいわけです。グローバル化の時代に世界中どこでも使える考え方を作りたいと、30~40年間、グループの中の一員としても、また自分自身でもやってきて、いろいろな本を作るなど、さまざまな形で活動してきました。

2 『小学社会』の歩み

司会 第二次世界大戦後、昭和22年から社会科教育が始まりました。その後、国定から検定教科書となってからずっと『小学社会』は発行され続けています。
的場 『小学社会』の初代の代表監修者だった重松鷹泰先生はほとんど何も言わずに「温かい教科書を作ってください」とかしか言わない(一同笑)。重松先生は戦後文部省が作った初めての社会科教科書の著者なのです。いわば「社会科」という教科の生みの親という立場ですね。
 重松鷹泰先生の社会科に込める願いの中で今も『小学社会』に生きていると思うのは、「問題解決学習」という方法論だけじゃありません。「問題解決学習」を通してだまされない人間を作りたいということです。それはずっと言っておられた。子どもたちがやすやすと戦争のほうに行ってしまった戦前の教育のことを反省されたのでしょう。だから「自分で考えて、ちゃんと判断できる」子どもを作りたかったのですよね。
 その次に日比裕先生が代表監修者を引き継がれたときの特徴は、4人のキャラクターを作ったことですね。子どもの個性も定式化しようとしたのですね。大きな変わり目でもありました。
 清水毅四郎先生が代表監修されていた前回までは、問題解決学習に「見方・考え方」が入ってきたのが特徴。それに加えて評価の観点が入ってきました。
司会 約60年間の間に、『小学社会』も時代に合わせて変わってきたということですね。
 ところで『小学社会』は教師が提示した問題を解決するのではなく「子どもが追究する問題解決学習」をつらぬいてきました。たしかに今も、発問は教師からではなく、子どもからのものとして記述しています。このように変化の一方ずっと守ってきたものもありますね。
的場 『小学社会』がいま最も大事にしているものは、ひとつは知識基盤社会における問題解決学習を具体化しようとしたところです。これは時代に要請された変化ですね。もう一つは、先生方が共に学んでいくこと。言い換えると先生が完璧に知ってから指導するのではなくて、先生もその教材を勉強しながら成長していく。
 そういうことはあっても、昔からずっと守ってきているのは、やはり一人一人の子どもをたいせつにするということですね。単なる子ども中心主義ではなくて、人間形成と問題解決学習とは結びついているんです。さっきも言ったように『小学社会』には4人のキャラクターが登場します。みな個性のある子どもたちという性格付けをして本を作っています。それと「思考の連続展開」という2本柱がずっと引き継がれてきたと思いますね。
池野 社会科は固定化された社会科学を教えるものでも、子どもたちにベッタリしたものでもないですね。子どもたちがより良い社会をみんなで作れるようになる、そんな社会科にならないといけないんじゃないでしょうか。社会科であろうとする限り、「問題解決学習」は絶対抜け落ちることがないと思います。それを抜け落ちた社会科をやろうとするって人たちは許されないというか、それは間違ってる、おかしい(笑)。

3 問題解決学習とは?

司会 『小学社会』が大切にしてきた「問題解決学習」というのは、具体的にはどんなものかを、あらためて伺いたいのですが。
的場 問題解決学習の構造として、「問題」と「解決する手段」と「関心」とがありますが、個人的で子どもたち自身に身近な「関心」の部分が問題解決を支えているんですね。たとえその問題に多くの人たちが関心をもっていなくても、話し合いをすることにより、「関心」が見えてきて、問題がここにあるんだなと感じることが大事だと思うんです。肝心なのは、追究する根元のほうを大事にしておくこと。「問題」というのは、世間の大問題だと思いがちですが、そうではないんです。そこを間違うと「問題解決学習」にはならないですね。
池野 そうですね。子どもたちの生活場面にできるだけ寄り添うのが問題解決学習の特徴だと思いますね。生活に引きつけた状況を先生が設定して、その中で出てきた子どもたちの「私の問題」をクラス共通の問題に作り上げていく。『小学社会』の場合は、重松先生以来、子どもたちの生活場面に寄り添って、子どもたちが持ち出してくる疑問や関心や、価値観や家庭生活の中でのいろんなものを持ち込んできて議論したり、話し合ったりする場面を大事にしてきた歴史がありますからね。
安野 問題解決学習の原点には、「子どもたちのもっている『世の中を作り変えていく力』」があります。問題の設定時点から、子どもは未熟ながらも一人の立派な生活者だと定義する。そして子ども自身の願いを人間的な願いとして考え、そうした目で世の中を見ていく。最初の問題は常に生活とつながりながら、さらに世の中とか自分の生活を含めた周りの人へと広がって、最後は学んだことを総合的に大きく見る。そんな学習ができたらいいなというのが、私の問題解決学習に対する願いです。
司会 その問題解決学習ですが、具体的にはどのように『小学社会』という教科書に反映されているのでしょうか。
的場 大きく5点あります。まず一つには、実際の授業における子どもの追究を想定しているところ。教わる子どもを4人登場させていますが、それぞれの追究の道筋がある。
 二つ目は、子どもたちが「見方・考え方」を再構成する場として、話し合う場が設定されていること。自己評価のためには非常に良いと思っています。
 三つ目は、周りの事象や事実を正確にとらえ、理解する力を育てるために、「学び方・調べ方コーナー」が設定されていること。教科書の中の絵とか写真、地図などの資料の読み取りヒントを示しています。
 四つ目は、学習する子どもたちが住んでいる地域が単元ごとに設定されているところですね。遠く離れた場所や異なる地域の詳細についての問題をどうやって自分たちから生みだしていくかその「多様性」が出てくるためのしかけです。
 五つ目は「大きくジャンプ」を設定して少し困難な問題にチャレンジすることと、基礎・基本の学習の定着が毎回見直されて思考力が出てくるところですね。
司会 『小学社会』でつらぬいてきた「問題解決学習」と学習指導要領に示される「問題解決的な学習」との相違点というのはどこなのでしょう。
的場 決定的に違うのが「学習の類型化」ということです。「問題解決的な学習」では、非常に類型化されているのです。しかし、子どもも、地域も、先生も違うのに、同じパターンはないだろうと思います。「問題解決学習」では多元性、多様性と言ったら良いんでしょうか、教科書でさまざまな典型的事例を示そうとしていると思いますね。
池野 平成に入ってから社会科で経験主義と系統主義と言われていた対立的なことが、お互いに接近し始めて、学問的なものだけとか、子どものものだけというようなところで社会科を作るのは難しくなってきました。「問題解決的な学習」という経験主義と系統主義の二つを抱え込む考え方を持たざるを得なくなった。社会科だけでなく各教科がそういう状況になりましたね。
安野 どちらも子どもの問題意識をたいせつにしている。そして、それを原動力として、自分の頭で考えることを基本としている。その点では両者は共通しています。一番の違いは、総合社会科をどこまで守っているかということ。社会科という教科は、本来、総合的なんですが、その社会科の総合性がしっかりと守られている教科書が意外に少ないんです。はっきり言って問題解決学習を堅持している『小学社会』だけかもしれない。実践の現場でも、学んだことを実社会とか実生活とかに活用することがないと、どうも社会科として、迫力がないと言いますか(笑)。
池野 一人一人の子どもたちを大事にして、「わたしの個性的な問題」を共有化して考えるような問題を設定すること。そしてそれを、「場所や異なる地域の調査」のように社会科の中で活動する部分を入れ込んで、なんらかの形でその問題が解決する。問題を解決するだけじゃなくて、その「見方・考え方」のレベルが一つ上がるように導かれて次のステップへ上がるように発展的に作り直されていくのが新しい問題解決学習でしょう。
司会 ありがとうございました。次回にはさらに詳しく、平成27年版『小学社会』の特徴について伺っていきます。

的場 正美(まとば まさみ)
名古屋大学教授。専門は教育方法学。大学では、哲学・組織神学を卒論に。十代の頃からドイツ好き。長じてドイツの政治教育、公民教育も研究。1990年から『小学社会』編集委員。

池野 範男(いけの のりお)
広島大学教授。専門は教育学(社会科教育)。高校の社会科の教員を目指して大学に入学したが、研究者の道に。ドイツのフランクフルト学派の影響を受ける。1998年から『小学社会』編集委員。

安野 功(やすの いさお)
國學院大學教授。小学校教員、指導主事を経て、2000年に文部省入省、教科調査官として学習指導要領の改訂などに携わる。2009年退官。教科調査官時代も現場で「授業実践」などを通して現場での授業づくりの指導を進めてきた。


晩年の明治天皇

明治天皇没後100年ということ

明治天皇『天皇四代の肖像』(毎日新聞社)より

明治天皇『天皇四代の肖像』(毎日新聞社)より

 今年2012年は、712年に太安万侶が編集した古事記が献上されてより1300年、1872年の湊川神社創立より140年、1912年の明治天皇崩御より100年、1972年の沖縄返還より40年という年にあたります。神社界では、古事記1300年、明治天皇崩御100年を記念することで、日本の国のかたちに想いをはせ、いかなる国家をめざすべきかを問うています。ここに楠正成を祀る湊川神社140年を重ねれば、国家創成の物語に維新復古革命をうながした精神的道統をふまえた明治天皇の国造り在り方が読みとれましょう。かつ、沖縄返還40年は、基地沖縄を己のこととして見つめるか否かで、どのような国家を思い描くかが異なってきましょう。それだけに、このような節目の年に日本とは何かを考えたいものです。
 しかし日本という国はいかなるかたちなのかが問い質されないまま現在があるがゆえに、現在何をなすかが見えておりません。ここに戦後日本の混迷があり、明日の日本を思い描かない苛立ちのみを募らせているのではないでしょうか。かといって古事記が提示した世界に「美しい日本」の原像を求め、明治日本の国造りに範を求めていけばよいのでしょうか。否、国のかたちが視えない現在ほど己の眼で歴史を問い質すことが問われているのではないでしょうか。そこで明治日本を造型した明治天皇という存在に接近するために、その日常の営みを窺うこととします。
 明治天皇に統治された近代日本という国のかたちは、天皇の強き個性に彩られ、その言動が「臣民」と位置づけられた国民の規範となっておりました。しかし生身の天皇の姿は、時代とともに神秘の帷帳の覆い隠され、神格化されていきます。その死は、教育勅語不敬事件で日本国中に身を置く場を失った内村鑑三ですら、「天皇陛下の崩御は哀悼に耐へません、自分の父を喪ひし如くに感じます、明治時代は其終りに来りつつあります、昼と呼ばれる中に働かうではありませんか」「天地が覆へりしやうに感じます」と認めているように、悲痛な思いを国民にあたえております。この天皇は、死を眼前にし、いかなる相貌を呈していたのでしょうか。

天皇の老い

 明治天皇の侍従であった日野西資搏は、明治天皇紀編纂のために応じた談話で、日常身近に接した天皇の日常を問い語っています(『明治天皇の御日常―臨時帝室編集局に於ける談話速記―』)。日露戦争後の天皇は、伊藤博文が暗殺されたこともあり、心身の衰弱が進んだようです。

全体日露戦争後、伊藤公の遭難がございました。その時には特に御力落しでございましたが、その事がありまして御段が御つきあそばされたやうに御老境に入らせられたかのやうに、御側の者には拝察致したのであります。四十三年の岡山の大演習の時に御統監中、御野立でたびたび御小水に成らせられました。どうも御小水がいつものやうに御快通がございませぬ。それにもかかはらず三十分経つか経たぬかに御小水に御出であそばしたい御気味があつても御出にならなかつたのであると思ふ。
また大本営還御後も、非常に御疲れの御様子でございまして、いつもでございますればそのまま御椅子にでも御掛けになるのでありますが、その時は直ぐに御召更所(めしかえじょ)へならせられまして、なかなか御出ましにならぬ。御独りで御坐りになつて御膝や御腰を撫でて御ゐでになる、といふことがたびたびございまして(略)
その時分から、御表では決して仰しやいませぬが、御奥では「どうもわしが死んだら世の中はどうなるであらう。もうわしは死にたい」といふことを能く御沙汰になつた。

 ここには老いにさらされた老人の姿がうかがえます。天皇は医者嫌いで、皇太子(大正天皇)の生母である二位の局柳原愛子が「皇太子殿下も洵に御病弱の御身体であるし、もし玉体に万一のことがありましては、日本国中の者が非常に心配を致しますから」と、医者の診断を受け、養生をされるように「直諫」すると、「御腹立ちで、脇へ往つておしまひになる」有様であったという。そこで、忠臣蔵の「大石良雄が主人に薬を勧める蓄音器の譜、そういふものを上げまして、それとなく薬でも召上るやうにと」と、さまざまな苦心を重ねた由。天皇は、風邪にかかれば、「生姜の砂糖湯とか橙湯(だいだいゆ)」ですませたという。ここには、大元帥陛下として軍服をまとった天皇像の底に、西洋医学を嫌悪する夷狄感がひそんでいることをうかがわせます。しかし嗜好品では、シャンペンやベルモット等々を愛飲していたとのこと。

酒の好み

 天皇は、甘いものに目がなく、「牡丹餅で酒を飲むやうな者でなければ本当の酒飲みではない」と話していたように、大の酒好きでした。

日本酒・葡萄酒・「シャンペン」・「ベルモツト」、あるひは保命酒・霰酒のようなものが御好きで、保命酒・霰酒は奈良・岡山に出張しまする時には特に御沙汰で御買上げになる。そうしてそれは御自身の御手近に御置きになつて時々ちよいちよい召上る。平素は主に葡萄酒ばかりでございました。日本酒も召上ることがありますが、雉酒とか鶏酒とか鴨酒とかいふやうな、日本酒にその肉を入れて御吸物のやうにしてさし上げますので、御盃で日本酒を召上るやうなことは、何か御祝ででもないとめつたになかつた(略)ともかくも御酒は御好きでございましたから、注いでさし上げれば、それこそ何杯でも召上る(略)「シャンペン」が最も御好きでございまして、ある時などは、二本も召上つたことも

 このために「御足を御取られになる」ので、なるべくシャンペンは差し控えた由。また、「お酒を少し召上りますと、ちよつと御話が縺れて」「御口が少し横に歪みます。そうなると少し召上り過ぎたのであります」と。なお、黒田清隆のような、「臣下の中で先に酔い潰れる者」が出ると、天皇は警戒して酔わなかったと。「御上の方が先に御酔ひなるとちよつと始末に困」つたとのこと。この風景は、天皇と臣下の交わりというより、昨今でも宴会でみられる上司と部下の関係ではないでしょうか。天皇制といわれる日本の君主制をこのような日常卑近な世界から読みなをしていくことで、骨の髄までからめとられた天皇制の呪縛を解き放す作業をこころみ、己の眼で日本という国のかたちをたしかめたいものです。

参考文献

  • 大濱徹也『天皇と日本の近代』(同成社 2010年)


学校安全点検の重要性

■ 緊急課題としての安全教育

 これも外部評価委員として学校に寄せていただいた折のことである(113号「学校多忙化の改善」参照)。保護者や地域の方々が口々に、昨年3月11日の際の対応に関連して、学校安全への大きな不安を話された。
 学校の安全が守られなければ、安定した効果的な教育は成立しない。安全教育の充実によって危機を防止・回避する。事故・事件発生に際して被害を最小限にとどめる。このことが緊急の課題となっていることを、改めて実感させられた。
 東日本大震災をはじめ、各地で深刻な災害があり、様々な事故・事件が発生しており、子どもや保護者に動揺を与えている。各学校においては、何に重点をおきどう安全教育を展開するかを見直し、安全な学習環境を確保することが問われている。

■ 「学校安全の推進に関する計画」の策定

 平成24年4月27日、閣議によってこの計画が決定された。東日本大震災をはじめとする災害の教訓なども踏まえ、生活安全、交通安全、防災教育を含めた災害安全強化のための内容が盛り込まれており、各学校においては、これを参考にして自校の指導を見直すことが重要な課題となっている。
 学校における指導の充実という点からは、つぎのような内容を中心とする、学校安全を推進するための方策に着目することが求められる。

①安全教育における主体的に行動する態度や共助・公助の視点
②教育手法の改善
③安全教育に係る時間の確保
④避難訓練の在り方
⑤児童生徒等の状況に応じた安全教育
⑥情報社会への対応
⑦原子力災害への対応

■ 各学校の留意点とは

 学校安全に関しては、学校経営の観点からは組織的な安全管理が重要になる。その対応・指導の重点としては、学校安全の指導体制を整え、すべての子どもに対し安全な生活を営むのに必要な事柄について理解させ、安全な行動ができるための態度・能力を身につけさせることが大切である。
 従来と同じ計画、指導内容では、予測を超える緊急事態には対応しきれない。
 全教職員の間で、いま求められる安全教育について、多角的に検討を加えることがまず必要になる。その上で、指導・対応の改善・充実に取り組むのである。
 各学校では、自校の実態に即して適切に全体計画を立て、これに基づいて体育・保健体育などの各教科、特別活動、総合的な学習の時間などの指導充実を図り、組織的、計画的に効果的な安全教育を行うことが必要である。
 子どもに対する安全教育は、将来につながる安全意識・能力の基礎を培うものである。
 各学校においては、学校内の施設・設備の点検や安全確保のための様々な取組を効果的に進める。それとともに、子どもに対する計画的な教育によって、緊急時に率先して避難行動をとるなど、安全に対する考え方、行動の仕方を定着させるようにする。そのための指導・対応に関する創意工夫が当面の課題である。

■ 指導推進に際しての留意点

 安全教育の計画・実施に際しては、次のことに留意し、指導の万全を期したい。

①安全教育に関する重点目標に即して基本計画を策定し、同時に具体的な事例、突発の事態に対する対応策についても整備をして、指導の充実を図る。
②自校の実態の的確な把握、他校、他地域における指導・対応の教訓を生かし、絶えず自校の安全教育計画、実施体制を見直す。
③安全教育に関する評価の結果を、指導改善、指導・対応体制の強化に結びつける。
④子どもが安心して学び、活動できる学校づくりを教育目標に位置づけ、保護者や地域の関係者と連携して地域に開かれた学校を目指す。

 また、実際の取組を進める際には、次のような点について創意を生かすことが望まれる。

①校長が学校経営の重点を周知する際に、関連資料を配布し、その趣旨の徹底を図る。
②安全教育を主題とする研修機会を設定し、子どもの事故や災害の現状、安全な行動の仕方について理解を深め、効果的な指導・対応の在り方を検討する。
③事例協議の機会を設定し、具体的な場面に即して、自校の安全計画や指導の在り方に関して話し合いをし、指導の改善を図る。

日文の教育情報ロゴ

ぼくたちのムッシュ・ラザール

micro_scope inc. (C)2011 Tous droits reserves

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 カナダ・ケベック州のモントリオールは、フランス語圏になる。モントリオールの小学校を舞台にしたカナダ映画「ぼくたちのムッシュ・ラザール」(ザジフィルムズ、アルバトロス・フィルム配給)は、だからフランス語で語られる。
 小学校で女教師が自殺する。校長先生を始め、先生仲間や生徒たちにとっては、衝撃的な事件である。新聞に報道された記事を見て、バシール・ラザールと名乗る男が小学校にやってくる。アルジェリアからの移民で、19年間、教師をしていたという。ラザールは、校長に「先生にしてくれ」と願いでる。
 ドラマは起伏に富んだものではない。小学校を舞台に、静謐に、淡々と語られるが、巧みな語り口に、少しずつ、緊迫感が増してくる。
 11歳前後だから、日本でいうと小学校の5、6年生くらいだろうか。いろんな国からの移民が多いせいか、生徒たちの出自もさまざまである。

micro_scope inc. (C)2011 Tous droits reserves

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 男の子のシモンが、鍵の掛けられた教室で、首を吊っているマルティーヌ先生を発見する。あわてて飛び出すシモン。女生徒アリスも、現場を目撃してしまう。
 学校は大騒動、生徒だけでなく、先生たちも驚くばかり。校長先生(ダニエル・プルール)は、生徒たちの心のケアを、専門の心理カウンセラーに託し、とにかく穏便に済まそうとする。
 そんな中、バシール・ラザール(フェラグ)と名乗る中年の男性が、小学校を訪ねてくる。「子供たちの助けになりたい」と、校長先生に掛け合う。誠実そうなラザールを見て、代用教員として採用する。ラザールは、シモンとアリスのいるクラスの担任になる。
 学校側は、事を荒立てないで、穏便に処理したいのだが、ラザールは、シモンとアリスの態度から、マルティーヌ先生の自殺が、まだ生徒たちの間に、深い戸惑いのあることを悟る。
 ラザールは、国語のフランス語を教えるが、その方法も内容も、時代遅れである。難しいバルザックを筆写させたり、古い文法を教えたりで、生徒たちは呆気にとられる。先生を丸く囲むようになっている机の配置を、まっすぐに並べ換えたりする。それでも、訥々と語りかけるラザールに、生徒たちは少しずつ心を開いていく。
 アリスは、マルティーヌ先生の死について、作文を書く。カウンセラーの指導だけでは、解決できる問題ではないことをラザールは理解する。ラザールは、アリスの作文を題材に、学校全体で話し合うことを提案するが、事なかれでありたい校長先生は、ラザールの提案を却下する。
 シモンは、マルティーヌ先生の死が、自分の取った行動が原因かもしれないと思い込んでいる。ある生徒が、祖父の死を話題にしたことから、マルティーヌ先生の話が飛び出す。「話したい人はいるか?」と、ラザールは問いかける。そして、シモンが話し始める。
 映画の進行に合わせて、ラザールの秘めていた過去が、少しずつ露わになる。生徒たちの心の傷に気づき始めるラザールは、自らも深い心の傷を負っていたのである。
 教師と生徒、教師と父兄、親と子の、多層な人間関係が描かれ、一見、シリアスな内容に見える。ある教師が言う。「いまの生徒は核爆弾のようなもの。触れれば火傷する」と。抑制の効いたユーモアが随所に見られ、それが逆にリアリティを保証する。

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 原作は、エヴリン・ド・ラ・シュヌリエールの戯曲で、ラザールの演じる一人芝居である。エヴリンは、女優でもある劇作家で、本作では、アリスの母親役で出演している。ラザール役のフェラグは、アルジェリアの生まれ。控えめで地味な役どころを、飄々と演じて、達者。
 監督のフィリップ・ファラルドーは、原作者エヴリンの意見を尊重、脚本も書いている。
 退屈はしない。小さな波紋が静かに広がっていくような、巧みな作劇術だ。
 ラザールは、訥々と生徒たちに語る。
 「教室という場所は…、そうだな…、友情と…、勉強、思いやり、そういう場だ。人生があり…、それぞれの人生を捧げ、分かち合う場だ。絶望をぶつける場ではない」
 そして、ラザールは、生徒たちに話すと約束した寓話を語り始める。傷ついた木が、その木で孵化しようとするさなぎを守る話である。
 教師が国歌を歌っているかいないかを調べるような国もある。そんな国の教師全員に見せたい映画。
 映画「ぼくたちのムッシュ・ラザール」には、心震える、素晴らしいラストシーンが控えている。

2012年7月14日(土) シネスイッチ銀座ico_linkほか全国順次公開

■『ぼくたちのムッシュ・ラザール』

監督・脚本:フィリップ・ファラルドー
原作:エヴリン・ド・ラ・シュヌリエール
出演:フェラグ、ソフィー・ネリッセ、エミリアン・ネロン
2011/カナダ/フランス語/95分/シネマスコープ/ドルビーSRD
原題:Monsieur Lazhar
特別協力:ケベック州政府在日事務所
後援:カナダ大使館
提供:ニューセレクト、ザジフィルムズ
配給:ザジフィルムズ、アルバトロス・フィルム


「奈良美智:君や 僕に ちょっと似ている」展

「ちょっと意地悪」 白銅/153×125×135cm/2012 (C)NARA Yoshitomo 撮影:森本美絵

「ちょっと意地悪」 白銅/153×125×135cm/2012 撮影:森本美絵

■高校美術3 教科書表紙
(本展覧会には出品されておりません)

「Daydreamer」 パステル、アクリル、色鉛筆/紙/154.9×134.6cm/2003 Photo:Joshua White Courtesy:Blum & Poe,LA/Tomio Koyama Gallery,Tokyo

「Daydreamer」 パステル、アクリル、色鉛筆/紙/154.9×134.6cm/2003 Photo:Joshua White Courtesy:Blum & Poe,LA/Tomio Koyama Gallery,Tokyo

 白銅の彫刻「ちょっと意地悪」は誰に似ているでしょう。自分の幼いころ? 友達の子ども? それとも昔どこかで会った誰か? ちょっと遠くを見つめる眼差で、何を考えているのでしょう。でも、この作品にモデルはいません。
 人のかたちをするものは、しばしば誰かに似ることがあります。「君や 僕に ちょっと似ている」と題した展覧会に出品されるのは、人の顔を描いた絵画や彫刻です。奈良美智は「子ども」を代表的なモチーフに描いてきました。ただし作品制作の過程で特定のモデルは介在しません。それどころか作家は、作品は全て自画像なのだと語っています(ちなみに奈良美智は大人の男性です)。奈良の絵画は、すべて下描き無しに絵具を塗り重ねてゆくことでかたちを得ていきます。そしてこの彫刻も、1tに及ぶ土粘土の巨大な塊と格闘する中で、作家の手から自然と生まれ出たものです。それにも関わらず、君や僕、あるいは誰かにどこか似ている「顔」とはどういう意味なのでしょう。
 美術の歴史について語るとき、さまざまな局面で作品は特定の個人と結びつけられます。作り手は誰? 描かれているのは誰? 誰のためのもの? 表現の独自性はどこにある? オリジナリティが求められる世界で、「似ている」という言葉は、ときに負の意味を持つことすらあります。
 一方で何かに感動するとき、私たちはそこに何を見ているのでしょう。悲しみ、喜び、秘密。他人と何かを共有できたとき、私たちは一体感とともにうれしさを覚えます。感動とは、自分と「似ている」何かを見つけることではないでしょうか。これら二つの「似ている」には、美術作品を批評的に分析することと、体験・鑑賞することとの違いが対照的に表れてきます。
 「君や 僕に ちょっと似ている」。この言葉には、感動の本質が隠されているのです。

(横浜美術館主任学芸員 木村絵理子)

<展覧会情報>

  • 「奈良美智:君や 僕に ちょっと似ている」展
  • 横浜美術館 2012年7月14日(土)~9月23日(日)
    巡回:青森県立美術館 2012年10月6日(土)~2013年1月14日(月・祝)
    熊本市現代美術館 2013年1月26日(土)~2013年4月14日(日)
  • 休館日:木曜日(木曜日が祝・休日の場合はその翌日)
  • 展覧会概要
    現代美術家、奈良美智。奈良の作り出す作品たちは、ときに挑戦的であり、またあるときは瞑想しているかのような憂いを帯びた多彩な表情を見せてくれます。本展は作家にとって初の挑戦となる大型金属彫刻をはじめ、絵画やドローイングなどの新作が発表されます。

■横浜美術館ico_link

  • 所在地 神奈川県横浜市西区みなとみらい3-4-1
  • TEL 045-221-0300

<次期開催の展覧会>

  • 「はじまりは国芳 -江戸スピリットのゆくえ」展
    2012年11月3日(土・祝)~2013年1月14日(月・祝)
  • 横浜美術館コレクション展Ⅲ
    2012年11月3日(土・祝)~2013年3月24日(日)

その他、詳細は横浜美術館Webサイトico_linkでご覧ください。