メイジーの瞳

(C) 2013 MAISIE KNEW, LLC. ALL Rights Reserved.

 2012年、第25回東京国際映画祭のコンペティション部門で上映された「メイジーの知ったこと」は、映画を見たライター仲間でも、評判が高かった。このほど、一般公開が決定、タイトルは「メイジーの瞳」(ギャガ配給)である。私見だが、この年の東京国際映画祭のコンペティション作品15本の中では、昨年の10月に公開された「ハンナ・アーレント」と並んで、この「メイジーの瞳」が、ことに優れた作品だったと思っている。
 6歳の少女が、身勝手な大人たちの都合で、別れた両親の間を行き来し、切ない思いにかられる。原作は、1897年に書かれたヘンリー・ジェイムズの「メイジーの知ったこと」。100年以上も前に、大人の身勝手さを、すぐれた心理描写で活写したヘンリー・ジェイムズの先見性もさることながら、「メイジーの瞳」は、現代のニューヨークを舞台に、両親に翻弄される少女の視点から、大人たちの身勝手を、きめ細かな心理描写で綴っていく。

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 メイジーの大好きなパパとママは、いつも喧嘩ばかり。ママはロック歌手、パパは美術関係の仕事で、どちらも不在が多い。メイジーは、シッターの女性とも仲良しだ。パパとママが別れる。メイジーは、10日ずつ、ママとパパと暮らすことになる。パパは、シッターの女性と同居し、ママは、バーテンをしている若者と同居する。メイジーは、誰にでも懐き、仲良くするが、ママとパパは多忙、つい、シッターの女性や、新しいパパと過ごす時間が多くなっていく。
 とうとう、いろんな行き違いから、メイジーは、ひとり、取り残されてしまう。決して、泣いたりはしない、けなげなメイジーだが、ついに涙を流す。パパもママも、メイジーが大好きだが、つい仕事を優先し、メイジーのことは二の次となる。そんなメイジーが、久しぶりに迎えにきたママに、大きな決断を下す。さて…。
 決して、大人の身勝手さを描くだけの映画ではない。6歳の少女が、両親や周囲の大人を通して、見て、感じたことを、静謐に描いていく。親と子の関係とは? その愛の在りようとは? だから、人が生きていくこととは?

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 メイジーに扮した少女オナタ・アプリールが、抜群に巧い。映画の成功は、この少女を発見したことに尽きる。オナタの父方の祖母が、日本人のクオーターという。すでに子役経験も豊富、うまく育っていけば、大スターになる可能性を秘めている。
 ママ役は、ごひいきの女優ジュリアン・ムーア。ラストで見せるメイジーとのシーンでは、圧巻の演技。身勝手なパパ役は、スティーヴ・クーガン。監督は、スコット・マクギーとデヴィッド・シーゲル。マクギーは、日本映画にも造詣が深く、細部にこだわった、巧い演出を見せる。
 6歳の少女の視点を通して、大人が学ぶべきことは、山のようにある。決して、高価なプレゼントが、親の愛ではない。物質的に裕福な暮らしを用意するのが、子供への愛ではない。メイジーの瞳が、何を見つめ、どこを見ているかを、大人たちが熟視、熟考するべきだろう。

2014年1月31日(金)、TOHOシネマズシャンテico_linkシネマライズico_linkほか全国順次ロードショー!

『メイジーの瞳』公式Webサイトico_link

監督:スコット・マクギー、デヴィッド・シーゲル
原作:ヘンリー・ジェイムズ
製作:ダニエラ・タップリン・ランドバーグ、リーヴァ・マーカー
出演:ジュリアン・ムーア、アレキサンダー・スカルスガルド、オナタ・アプリール、ジョアンナ・ヴァンダーハム、スティーヴ・クーガン
2013年/アメリカ/99分/カラー/シネスコ/5.1chデジタル
原題:WHAT MAISIE KNEW
字幕翻訳:松浦美奈
配給:ギャガ
提供:ギャガ、朝日新聞社

日本という国のかたち(1)

「日本国」への眼

看板に記載してある内容は、諸説あるうちのひとつです。

 安倍総理が口にする「長い歴史と固有の文化を持つ日本国」「美しい国」日本とはどのような国家の在り方を問い語っているのでしょうか。具体的には何もありません。
 己の存在する場を確認しようとの営みは、その存在が脅かされるとき、危機感にうながされての発動です。現在、このような問いかけが何か意味を持つように思われるのは、経済の停滞で「経済大国」日本が失速し、国際的地位の低下に加え、韓国や中国との島嶼の帰属をめぐる紛争、北方領土返還等々、閉塞感に覆われている日本の状況を「国家の危機」と提示することで、強きナショナリズムを鼓舞していこうとの政治の作法がなりふりかまわず表出していることによります。
 ここに表出してくる国家に寄せる強き想い、ナショナリズムという気分は、19世紀半ば以降、鎖国下で「徳川の平和」を謳歌していた日本にとり、西洋諸国の蒸気船の来航がもたらした衝撃が日本への眼を開かせる時代と重ねて読み解くと、「美しい国」なる言説に秘められた世界がみえてきます。黒船来航がもたらした衝撃は、会沢安が1824年5月のイギリス船常陸大津浜来航への衝撃から執筆し、翌25年に脱稿した『新論』、27年に松平定信に謹呈された頼山陽の『日本外史』、攘夷決行の空気を一身にうけて61年(文久元)に書き上げられた竹尾正胤の『大帝国論』等々が描いていますように、日本という国のかたちが問い質され、ひとつの国家像が提示され、明治維新への奔流を生み出す原動力となったものです。そこで日本が世界に冠たる「大帝国」であることを説いた『大帝国論』を読むこととします。

竹尾正胤とその時代

 竹尾正胤は、三河国舞木、現愛知県岡崎市の山中八幡宮の社司で、平田篤胤の没後門人の一人です。その著『大帝国論』は、文久元年3月18日に書き上げ、同3年12月に再訂され、世に問われたものです。この文久3年は、京都の朝廷が江戸の将軍に攘夷をせまり、政治の舞台に登場してくる大きな足場を築いた年にあたり、京都と江戸がヘゲモニーをめぐり火花を飛ばし、攘夷から討幕への転換期ともいえる年です。その動きは、
 3月11日 孝明天皇、攘夷祈願で賀茂神社に行幸、将軍も随從
 4月11日 石清水社へ行幸、将軍病気を理由に従わず
 4月20日 将軍、天皇の強い意向に逆らえず、5月10日を攘夷決行の日と奉答
 5月10日 長州藩、攘夷決行の証として、下関海峡を通過するアメリカ商船を砲撃、
 23日、フランス艦、26日、オランダ艦を各砲撃(下関事件)
 6月 英・米・仏・蘭の4国連合艦隊、下関砲台を攻撃、占拠
 7月2日 イギリス艦隊、鹿児島湾で薩摩の城下を攻撃(薩英戦争)
 8月17日 元侍従中山忠光らが大和五条に挙兵(天誅組の乱)
 18日 公武合体派が朝廷より攘夷派追放、19日、三条実美ら7公卿、長州に逃亡
と激しい権力闘争の渦中に読みとることが出来ます。この状況下、平田門の国学者は、篤胤の古史伝上木の募金に託し、攘夷祈願に重ねた御一新をめざすオルグ活動を展開しております。竹尾は、このような時代の気分を一身に受け止め、日本とは如何なる国かを確かめるべく、『大帝国論』を著したのです。

日本が世界唯一の「大帝国」たる根拠

 『大帝国論』は、世界史の中に日本国を位置づけることで、日本が冠たる大帝国であることを論じたものです。この歴史書は、ノアの箱舟にみられる聖書物語にはじまり、ギリシャから、皇帝暗殺に明け暮れる下剋上のローマ史を描き、ヨーロッパの王朝交代史を延々と述べることで、日本が帝国のなかの唯一正統な帝国たることを論証しようとした世界史といえます。その冒頭には竹尾の思いが端的に表明されています。

 凡斯一地球の中にて、西夷等が帝国と称する国六あり。所謂亜細亜洲にて、皇国・支那・欧邏巴(ヨウロッパ)洲にて、独逸(ドイツ)・都児格(トルコ)・魯西亜(ロシア)・仏蘭西(フランス)すなわち右の六国にて、其外は、王侯、或は共和政治の国柄なれば、英吉利(イギリス)国の如は、近来万国に縦横して、兵威甚盛なりと云ども、未帝国の号を云ず、其他は、大概これに擬て知るべきなり。

 ここには、帝国といえる国が皇国日本をふくめ6カ国、他に王国、共和国があり、イギリスが軍事力で世界に覇を誇示しているものの帝国を呼称しえない国であると、世界各国の状況を提示しています。さらに6帝国は、西洋人が選んだ「正統の帝国」とはいえ、「大皇国」たる日本だけが全世界で唯一の「大帝爵国」で、支那、独逸、都児格、魯西亜、仏蘭西が帝国を勝手に名乗る「偽帝国」にすぎないと。日本が世界の唯一の大帝国であるのは、万世一系の皇統の国で、天皇が地球上における唯一つの大君主であるからだと。
 日本が「大帝爵国」であるのは、各国が王位簒奪の歴史であるのに対し、「神代以来万古に貫て、日月と共に明光を並て栄させ給ふ其美事を主張」する「天皇命」の国、万世一系の国であるからにほかなりません。ここに『大帝国論』は、各国の王位簒奪の歴史を詳述し、「我皇国は万世一系の天統」であることを強調し、万世一系の皇国たることを説き聞かせたのです。ここには、圧倒的な軍事力を誇示して迫る欧米列強の圧力に対し、皇国日本をよりどころに、己が存在する場を万世一系の皇統への信仰に求め、その存在を確かめている姿がうかがえます。
 この日本像こそは、万世一系の皇統への信仰にうながされるまま、現在も語り説かれる「長い歴史と固有の文化を持つ日本国」「美しい国」日本の原像にほかなりません。このような国のかたちこそは、神国日本の残映であることを問い質すことなく、現在まさに求められ、明日の日本像として理想化されている日本という国のかたちのようです。

 

参考文献

  • 芳賀・松本編『国学運動の思想』日本思想体系51 岩波書店 1971年
  • 大濱『天皇と日本の近代』同成社 2010年

道徳的な人間じゃなくても、道徳を教えていいんですか?

今までなかった「どうとくマンガ」!
「道徳教育」についてよく抱かれる疑問を取り上げ、マンガでわかりやすく解説します!
第2回のテーマは、教師の基本的な姿勢についてです。

【登場人物】

徳田一道(とくだかずみち)

徳田一道
(とくだかずみち)

主人公。新任の中学校教師。悩んでいる。

モモ

モモ

なぜか一道に「道徳」について教えてくれる妖精(?)

ルル

ルル

モモと一緒に「道徳」について教えてくれる妖精(?)

自然の変化に敏感に気付く防災教育(第3学年)

※本実践は平成20年度版学習指導要領に基づく実践です。

防災教育って,なんでしょうか?

「避難訓練のことでしょ?」
「9月1日に地域で行う防災訓練のことだよ。」
「災害から逃げ方を訓練する教育のことでしょ。」
「じゃあ,避難訓練以外に何をすればいいの?」
「安全指導と違うの?」
「不審者対応訓練と防災教育は関係ないでしょ。」

 私は,すべてノーと考えます。(もちろん,立場によってすべて正解です。)防災教育は,安全教育と本質を同じにしており,「自分の命を守る教育」であると考えます。

防災教育でめざすべき姿はなんでしょうか?

 ごく簡単に言えば,「自然や環境の変化に敏感に気付き,どう行動したらよいかを知っていて判断でき,実際に自分の命を守る行動ができること。」さらに,「他人の命を助けることもできること。」と考えました。

 これって,もともと教育でめざしている姿を多く含んでいると思いませんか。そうなんです。防災教育の本質は,普段の教育で取り上げていることを有意味的に関連させ,命を守る知識や方法として教え,理解させることです。その上で,逃げ方を確実に身に付けるために,避難訓練等として特別に行うことです。

では,どうやって教えればいいのですか?

 私の所属校は,水害に遭いやすい地域のため,洪水を取り上げました。担任している3年生の子どもが理解できるよう,次のようなポイントで実施しました。
1)防災教育プログラムで知識を系統的に教える。
2)普段の学校生活の中で,気付きを促す学習を行う。
3)社会科の校外学習で現場を観察する。
4)学習参観で,保護者の前で防災の学習をする。

 ~それでは,1)と2)について,実践を紹介します。

1)新潟県防災教育プログラムの実施
 新潟県では,防災教育プログラムが作成されています。小学校1年から中学校3年の子どもたちにプログラムを実施することで,どこにいても,どの災害からも,自分の命を守れる知識と判断力を付けることが目的です。(※注1)
 公開授業で実施した3年生の洪水に関する学習プログラムの概要と資料を示します。

【表1】授業の概要
◆ねらい 「雨の降り方や洪水について知る」~洪水災害に関する現象についての理解を深める。

学習活動

提示資料・留意点

1.大雨時の身を守る方法について,復習する。
高いところにいる
流れる水には近付かない
情報に注意する

・前時の学習内容の復習として,具体的な避難方法を提示する。

2.雨の日が多いのは何月か考え,雨の降り方の特徴を知る。
・梅雨 ・台風の時期

・洪水の時期を考えるため,新潟県の月別雨量のグラフを提示する。

3.街が洪水になる訳を考える。
・小川や側溝が溢れる。
・土地の低いところに水がたまる。
・大きな川が溢れる。
・上流の大雨で,大きな川が溢れることがある。

・所属校が遭遇した道路の流水動画を視聴する。
・五十嵐川決壊時の動画を視聴する。(三条市消防署作成DVD)
・山で大雨が降ると下流で洪水が起こる動画を視聴する。
・溢れる原理や現象について児童にわかりやすい言葉で表す。
・災害の複合性について,雷,たまり水,突風のニュース映像等を提示する。

4.大雨の際,洪水の他に起こる現象を考える。
・停電 ・落雷 ・渋滞

5.学習してわかったことをワークシートに記入し,確認する。

※新潟県防災教育プログラム洪水編(試行版)A-3中学年(1/2)の概要に使用した資料を加えたもの

【図1】平成23年夏 所属校前を水が流れる様子

【図2】防災学習(洪水)の板書

 「できるだけリアルな資料を用意し,子どもたちが生活感覚としてイメージしやすいようにする」,「知識が混在しないように,掲示物を工夫して提示し,視覚に訴えながら知識や判断基準が整然と理解できるようにする」とよいことがわかりました。課題は,学習がすべて頭の中での思考や理解の範囲にとどまっているということです。学んだことが生きてはたらく場を用意しなければなりません。そこで次に,自分で情報収集し,判断・実行し,うまくいったかどうか評価する活動を実施しました。

2)自然についての気付きを促す取り組み~「かさ当て名人の取り組み」の実施
 「学んだことを実生活で活用すること」,「自己決定・自己判断・自己評価をさせること」をねらうため,かさ当て名人の取り組みを行いました。

【「かさ当て名人になろう」のやり方】
 天気予報を見る,家の人に聞くなど,自分で情報収集し,登校時に傘を持ってくるかどうかを決めます。下校時に,傘のあるなしにかかわらず,天気と自分の朝の判断が合っていれば○とします。指導時間は,登校後と下校前の短学活の時間です。担任は記録カードを用意し,天気の話題をしながら,「きのうのかさ当てゲームは当たった?カードに記録しましょう。」と指示します。

【図3】かさ当て名人の取り組みに用いたカード

 その結果,こんな姿が現れました。
・子どもの言葉から…
 ―「天気予報を見て,かさを持たないって自分で決めたんだ。」
 ―「雨が降るけど,塾でお迎えが来るから,かさはいらないんだ。」
 ―「雨が強そうだから,長靴を履いてきた。」
・実践後,3年生は,傘の持ち帰り忘れが激減した。
・朝の短学活で,災害ニュースや自然現象の話題が,子どもからよく出されるようになった。
・突風,強い雨,虹などが発生すると,授業中でもみんなで注目するようになった。

 私の実践:「防災教育=自然の変化に対して敏感に反応して行動決定する子どもの育成」
 こんな考え方はいかがですか?現在,地域に残る伝説から,災害について考えさせる方法はないか探索中です。みなさんのご意見を聞かせてもらえると嬉しいです。

 

※問い合わせ先:古田純 
E-mail:togeso8313@hotmail.co.jp
※注1:財団法人新潟県中越大震災復興基金「新潟県防災教育プログラム洪水編(試行版)」(協力 新潟県教育委員会 新潟県防災局)平成25年2月

日本、日本人とは(2)

日本理解をめぐる確執

 アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノが来日した時の日本イエズス会は、フランシスコ・ザビエルから30年の伝道成果として、10万人のキリスト者を生むほどに大きな躍進の時を迎えていました。その教線は、南は鹿児島から東は美濃、尾張に及び、長崎、島原、天草、五島、平戸、博多、豊後、山口、京都、高槻、堺、河内、安土等の各地に教会が形成されていました。このような活況を呈して日本伝道の前途は、全日本布教長ポルトガル人フランシスコ・カブラルと都地方長イタリア人オルガンティーノ・ソルドの日本布教をめぐる確執により、閉塞感にとらわれていました。それは、伝道方策の亀裂によるもので、両者の日本人観がもたらしたものです。
 ヴァリニャーノは、カブラルの日本像を否定し、オルガンティーノの日本理解に示唆を受け、日本順応の布教戦略を日本イエズス会の方針としたのです。その方策は、日本人の性格を厳しく問い質し、その心に秘めた「邪悪」さに嫌悪感を語るカブラルの日本像より、ある種心地よいものでした。
 オルガンティーノは、1577年10月のイエズス会総長宛書簡で多数の宣教師がいれば、「10年以内に全日本人はキリスト教徒となるであろう」と、高らかに宣言し、日本人が優秀であることを力説する一方で、その優秀さの底にある道徳観念がもたらす落とし穴に怯えてます。ここには、先に紹介した芥川龍之介が描いた闇に慄きとまどう姿、日本の神々の微笑がもつ危険な誘惑がかたられています。

 この国民は野蛮ではないことを御記憶下さい。なぜなら信仰のことは別として、私達は互いに賢明に見えるが、彼等と比較するとはなはだ賢明に見えるが、彼等と比較するとはなはだ野蛮であると思う。私は真実のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる。したがって、尊師、願わくは、ヨーロッパで役立たないと思われる人が私達のもとで役立つと想像されること無きように。当地では優鬱な構想や、架空の執着や、予言や奇蹟に耽る僭越な精神はことに不必要なのである。私達に必要なのは、大度と慎重さと、聖なる服従に大いに愛着を感ずる人なのである。
 さらに、私は尊師に、住民ははなはだ不品行で、必要な貞操観念をほとんど評価していないので、危険に満ちていることを御報告申し上げたい。私はこれを同僚を疎んじて申すのではなく、堅固な徳操を獲得するよう激励して申すしだいである。されば彼等は当地に派遣されるならば、天使のごとくあらねばならず、その生活の模範によって、この国民を不貞から貞潔の実践へ連れ戻さねばならぬのである。

カブラルの眼

 カブラルは、オルガンティーノが怯える日本人の「道徳的」に暗く深い闇に対し、その闇にこそ日本人の本質があらわれているのだという認識をもち、そのような日本人への嫌悪感をあらわにした言動でしめしたのです。

 私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民を見たことがない。彼等が共同の、そして従順な生活ができるとすれば、それは他になんらの生活手段がない場合においてのみである。ひとたび生計が成立つようになると、たちまち彼等はまるで主人のように振舞うに至る。日本人のもとでは、誰にも胸中を打ち開けず読みとられぬようにすることは、名誉なこと賢明なことと見なされている。彼等は子供の時からそのように奨励され、打ち明けず、偽善的であるように教育されるのである。彼等は土着民であり、彼等には血族的な繋りがあるが、日本におけるヨーロッパ人には、一人の親族があるわけでもない。彼等はラテン語の知識もなしに私達の指示に基づいて異教徒に説教する資格を獲得しているが、これがために我等を見下げたことは一再に留まらない。日本人修道士は、研学を終えてヨーロッパ人と同じ知識を持つようになると、何をするであろうか。日本では、仏僧でさえも20年もその弟子に秘義を明かぬではないか。彼等はひとたび教義を深く知るならば、上長や教師を眼中に置くことなく独立するのである。日本人は悪徳に耽っており、かつまたそのように育てられているので、それから守るためには、主なる神の御恩寵に頼るほかはない。日本で修道会に入って来る者は、通常世間では生計が立たぬ者であり、生計が立つ者が修道士になることは考えられない。

日本人に問われていること

 教義を身につけたら外国人宣教師に対して己を主張するようになるとの指摘は、何も16世紀のイエズス会の問題ではなく、近代化のなかでキリスト教を手に入れた日本人キリスト者の言動にみられたことです。日本のプロテスタント教会がかかげた自給独立教会への強き志向、内村鑑三らの言動には、カブラルが危惧した世界につうじるものが読みとれます。かつ修道会に入るのは生計の立たぬ者との指摘には、明治維新後の社会にあって、宣教師の下で英語を習得して世に出るべく開港場に出入りし、宣教師に生活をみてもらい、その支援でキリスト者となることで海外留学への切符を手にいれようとした「ライスクリスチャン」と揶揄された者につらなる世界がうかがえましょう。
 カブラルが嫌味をあからさまに問いかけ日本像は、日本、日本人の相貌をとらえたもので、ヴァリニャーノやオルガンティーノの陰画にほかなりません。礼儀正しく、忍耐強い日本人像は、喜怒哀楽を秘めて生きる姿に、傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民とみなさたものにほかなりません。このような日本人の相貌は、16世紀の日本像ではなく、現在も日常的にみられる風景ではないでしょうか。
 ここには、日本人が「信義」を重んじる国民であるのかとの問いかけがあるのではないでしょうか。この問いに向き合うには、「偽りの教義」、正しい信仰を身につけていないがために欺瞞と虚構が満ちており、嘘を平然と語り、陰険に偽り装うことを怪しまない、嘘も方便とみなす世渡りの作法で生きる民、とのヴァリニャーノが指弾した日本人の処世術に対峙し、己の内なる世界を凝視するなかに「日本人」たる我とは何かを思い描くことが求められています。現在、声高に説かれている日本像、「美しい国」「おもてなし」云々で表現されている日本像は、16世紀にイエズス会士が問い質そうとした世界に向き合い、応答しうるだけの内容を提示しているのでしょうか。わたしの眼には、何一つ内容のない、無慚な声に聞こえるのですが。いかがなものでしょうか。

研究授業の参観のコツ

「影物語」工作用紙、竹ひご、パワーポイント、プロジェクターなど

 よく授業参観の方法について聞かれることがあります。多くの場合、研究授業の参観は、ゆるやかな目的にそって、参加者独自の方法で行われます。私にも自分なりに決めた方法があります(※1)。汎用性があるかどうかわかりませんが、何かの参考にはなるかもしれません。本稿で紹介してみます。

1.子どもを決める

 私は授業がはじまったら、すぐに見る子どもを決めます。それが最初に行うことです。なぜかというと、研究授業は子どもの具体的な事実から指導の改善を図る実践だからです。先生の指導は子どもにおいて実現してこそ意味があります。その妥当性は子どもの発言や動きなどから分かるはずです。「指導の妥当性は子どもの姿から見える」と言い換えてもよいでしょう。そのために誰かを決めて授業を見るというわけです。

2.子どもを選ばない

 どうやって子どもを決めるかというと、たいていは最初に出会った子、目の前にいた子どもです。結果的に教室入り口付近にいる子になることが多いようです。積極的に発言する子、おとなしい子など選ぶめやすを設けることはありません。それが先入観になって子どもがうまく見えなくなるからです。偶然の出会いを決め込んでいます。選ぶとしても、せいぜい撮影しやすい角度にいる子、逆光を避ける程度でしょうか。

3.一人を見る

 子どもは一人だけにします(※2)。魅力的な活動をしている子どもを何人も拾って歩くような見方はしません。それは蒐集と同じようなもので、子どもではなく「自分の好み」を見る行為だと思っています。それに、何人も同時に見ることができるほど能力がありません。さらにいえば、自分が図画工作・美術の人なので、ついアート的に面白いことをする子に惹かれてしまいます。それを防ぐために、ほぼ無造作に一人を選び、ある意味我慢して、徹底してその子だけを見ます。でも、ずっと追われる子供からすれば、いい迷惑でしょうね……。

4.子どもから見る

 とはいえ、一人だけを見ているわけではありません。決めた子が隣の友達と話す、先生の話を聞く、材料や用具を選ぶなど、その子から広がる関係性や世界を見ているつもりです。「一人を見ない、一人から見る」といった感じでしょうか。子どもを成立させる多様な教育の資源を、その子から見ているのであって、一人の閉じた世界を覗き込むわけではないのです。また、授業はほぼ同じ条件で行われていますから、一人の道筋で起きている事実は大抵残りの子どもたちに敷衍できます。「一人から全体を見る」と言ってもよいでしょう。

5.先生は見ない

 一方、先生はほとんど見ません。そもそも、先生が何をするかは指導案に書いてあるので、それを読めばすむことです。それに子どもが先生の話を聞いていれば、それは「その子にとって大事なこと」であり、逆に聞いていなければ「先生はその子の世界に存在していない」ということでしょう。先生は子どもから成立するというわけです。でも、中には先生ばかり見ている参観者もいます。「目の前で子どもが事実を展開しているのにもったいないなぁ」と思います。

6.位置取りする

 子どもがよく見える位置を確保するのも大事です。参観者の流れに押されて教室の後ろから参観することになったら最悪です。先生と子どもの背中だけしか見えません。子どもの表情や動作が見えなくなると、具体的な子どもの事実から指導の有効性を判断することが不可能になります。子どもが何を感じ、考えているのか分からないので、子どもの育ちも不明になります。授業の是非が判断できなくなるので根拠ある意見も言えないし、指導助言もできなくなります。

7.カメラを覗かない

 授業の様子をカメラで撮影できる場合は、カメラを脇腹当たりに構えて、大まかに子どもの方向に向け、適当な間隔で録画ボタンを押したり、消したりします(※3)。ファインダーを覗いて撮ることはしません。我が子の運動会を撮影した経験のある方は分かるでしょう。何を見たかよく分からない気持ち、自分自身がカメラになったような感覚です。やはり自分の目で見ないと、子どもの身に重ねるということができません。でも、子どもを見ながら脇腹でカメラ操作なんて、まるで不信人物ですね……。

8.子どもと目があったら?

 子どもと目があったら「私は君には興味なんかないよ」という顔で知らんぷりします。見られているという意識は、子どもの造形活動に影響を与えますし、子どももじろじろ見られると気持ち悪いでしょう(※4)。ただ、どう気を付けようとも子どもは気付きます。突然こちらに話しかけてくることもあります。ニコッと笑って作品を手に「ほらっ」という感じです。私はかなり怖い顔で見ているはずなのですが不思議です。子どもは自分を見る人が共感的なのか、そうでないのか直感的に分かるのかもしれません。

9.信じる

 「一人しか見てないのに、何も分からなかったら?」とよく聞かれます。原則そんなことはありません。子どもは必ず何かやってくれます(※5)。授業中はただひたすら「この子はやってくれる」と信じて見ています(※6)。もちろん、授業中には分からないままで終わってしまうこともあります。でも、後から撮影データを見直せば何か見つかるので、それほど心配していません。実際、撮影データを控え室で見ながら一人でニヤニヤしていることも多いようです。うーん、ほとんど怪しい人ですね……。

10.頭を空にする

 子どもに身を投じるためにできるだけ自分の頭を空っぽにします。これをしないと失敗します。あるとき「技能」に視点を決めたのですが、結果的に何も分かりませんでした。「技能」が色眼鏡になって「見ることそのもの」を阻害したのでしょう(※7)。また、授業が始まったらできるだけ指導案の内容を忘れるようにします(※8)。子どもは指導案を知って動いているわけではありません。教師の提示に驚き、出された課題に悩みます。それに共鳴するためです。先生の指導の理由が分からず指導案で確かめることもありますが、指導案をもとに授業を追っていくことはしないのです。時々わざと控え室に忘れることもあります。バインダーやペンまで用意してもらっていますが……。校長先生、すみません。

 結局、私が辿り着いた参観のコツは、偶然に任せて子どもを選び、子どもが何を感じ考えたか共感しながら、その子から教育の資源を分析するというものです。結果的に自分の思い込みに気付かされたり、教育の当たり前が問い直されたりするので、この方法を気に入っています。「自分から見ると自分以上にはなれないけれども、子どもから学べば少しは進歩するかもしれない」そんな意味もあります。私のこれまでの原稿も、そうやって見つけてきたことがもとになっています。もし、よかったらこの方法を使って見てください。
 なお、私の見た子どもが「なぜあの子だったのか」と驚かれる場合が多くあることを付け加えておきます。「普段と別人のように熱中していた」とか「高熱をおして授業に出てきた」などのようなことです。確かに、教室に入ったときに目の前に二、三人います。私が選んだ一人でなくてもよかったはずです。でも、なぜか「その子」だったのです。こればかりは説明がつきません。「子どもが呼んだのでしょう」と言っています。論理的ではありませんが、子どもが見えないオーラを発しているのかもしれません。それもまた子どもの能力だと思っています。

 

※1:研究としては、例えば奥村高明「造形活動における相互行為分析の視座~授業研究・指導法改善の方法論(1)~」『日本美術教育研究論集42』日本教育連合2009、奥村高明「造形活動における相互行為分析の視座(2)~相互行為分析の手がかりとしての視線~」『日本美術教育研究論集43』日本教育連合2010などで発表している。
※2:ただし、授業分析と授業参観は別だ。授業分析では教師カメラ、子どもカメラ、全体カメラの三台を用意する。
※3:周りとの関係性を見るので撮影するのはその子とその周りがある程度写っている範囲。
※4:授業研究ということ自体、子どもの学習の資源だ。普段より意欲的になったり、萎縮したりする。授業後に子どもたちが「先生!今日のあたしたちどうだった」と言うことも多い。
※5:もし見つからなければ、それは子どものせいではなく参観者の責任だと思っている。
※6:研究大会などでは、一つの教室に5分しかいないこともある。これまでの経験からは、たとえ短時間でも子どもは何かをやってくれた。
※7:技能は単独では存在しない。発想や構想、意欲や感触などと絡んで成立する。その関連が見えなくなって、技能そのものも見えなくなったのだろう。
※8:もちろん事前に指導案を読み、研究の方向をつかむことは必要だ。

若手教員の指導力向上

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■緊急課題としての若手育成

 第三者評価委員として学校にうかがった折のことである。「現在の時点での本校の課題は?」という質問に対し、「若手教員の指導力です」と答える学校が多くなっていることに気づかされた。
 若手教員の授業力が弱く、保護者から厳しい指摘を受けた。学級経営がうまくいかず、子どもの問題行動が発生し広がった。校務分掌での役割が十分に果たせず、学校運営に支障が生じた。問題の中身は様々だが、若手教員が関連する問題が発生し、その解決のためには指導力向上が欠かせないというのである。若手教員の増加傾向が、さらにこの問題の緊急度を高めているという。
 新学習指導要領に基づく指導が本格的に展開している。学習指導を取り上げても、そこで求められるのは単なる知識や技術の伝達ではない。基礎・基本の徹底と同時に、活用する力、自ら学習を展開する力の育成が求められている。社会の信頼に応える学校づくりには教員の指導力が欠かせない。全校すべての教員の指導力向上が学校経営の重要な課題になっているのである。

■指導力アップの基礎基本

 指導力に課題を抱える教員の存在が把握された場合、管理職はその課題が主として次のどの内容に該当するかを分析的に捉えることが必要になっている。

ア 指導計画に基づき、工夫を加えて授業を展開し、ねらいを確かに達成する力。
イ 自校の子どもを深く理解し、効果的に生徒指導・学級経営を進める力。
ウ 全校指導体制の一員として自分がなすべきことを理解し、校務分掌の役割を果たす力。
エ 保護者の願いを受け止め、適切に対応して連携協力の関係をつくる力。

 把握した内容に基づき、いま起こっている問題の改善に必要な取組を全校的な取組に位置づけることが求められる。その際、次のことを押さえることが大切になる。

ア 若手を育てることを視野に入れて、全校の研修を充実・強化する。
イ 校長・教頭、主任等を中心として、指導にかかわる相談・支援体制を強化する。
ウ 各種委員会、教科部会、学年会等の機能を高め、組織を生かして全教師の指導力向上を図る。
エ 学習評価を中心に、教育活動に対する評価活動を活発にし、プロセスの評価力を高める。

 全校体制の中で、いま児童生徒につけようとする力を明らかにする。目標実現のための指導組織を整備し、目標実現に向けて全教職員の力を統合する。その中で、指導力不足の解消を図るのである。まずは、管理職を中心にし、重層的な体制で指導力に課題を抱える教員に対し指導助言を行う。組織を通じて若手教員を含む、すべての教員の指導力に働きかける。そのための指導体制を確立することが重要になっている。

■効果を上げた工夫とは

 若手育成が当面する課題になっている学校では、様々な工夫がなされていた。

〔A校〕校長・教頭の授業観察のあと、問題になる場面を再現し、協働で改善方策を話し合うことによって効果をあげていた。
〔B校〕授業公開を重視する。その後の保護者等の感想、意見に基づく改善点の明確化、効果を上げる授業のポイントについての協議、改善策の作成を重視していた。

 多くの学校で実施し、効果を上げていたのは、リフレッシュ研修会、パワーアップ研修会などのネーミングで実施する各校独自の若手教員研修会だった。
 時間設定、講師選定、実施方法に各校さまざまな工夫が凝らされていた。そして、共通するのは、いずれの学校も大きな成果を収めていることだった。ピンポイントの課題を取り上げ、その内容に適した中堅教員が指導に当たる。事例に即した多様な資料が準備される。方法が工夫される。それは中堅教員の指導力向上、人間関係づくりにも結びついたということであった。
 優れた教員の条件としては①教職に対する熱情、②教育の専門家としての力量、③総合的な人間力、があげられるが、指導力という観点からは、やはり、②にかかわって、教科に関する指導力、深い子ども理解に基づく人格形成に関する指導力、学級等の集団に対する指導力が大切になる。そうした点を中心とする、工夫を凝らした働きかけが多くの学校で必要になっている。

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