教材は心をこめて「語る!」ことが大切なのです

 「学び!と道徳」第2号を掲載させていただきます。
 ただ今この原稿は「松山市」で執筆しています。松山市は、今年度の「全国小学校道徳教育研究大会」(全小道研全国大会)開催地です。11月10日(木)に松山市立久枝小学校、潮見小学校で公開授業と学年別分科会、11日(金)に会場を移して課題別分科会、講演等が行われます。全小道研にかかわっていた者として多くの皆様のご参加を期待しております。(詳しくは、全国小学校道徳教育研究会のホームページをご覧ください(※注1)。今年度より大会参加申し込みがインターネット申し込みとなりました。)
 実は、私、この2月に会場校となる潮見小学校で授業を3コマやらせていただきました。後の号で触れたいと思っています。

1.これからの道徳は、アクティブ・ラーニング…!?

 次期学習指導要領改訂の目玉は「アクティブ・ラーニング」です。当然道徳科においてもそれが強く求められます。他教科においては、自主的、主体的な学習ということで、今までも問題解決的学習、体験的学習ということでやってきたのでなんとなくイメージがつきやすいのですが、道徳科においては今一つ明確になりません。「考える、議論する」ということが盛んに言われていますが、今までも考えさせたり、議論させたりはしてきました。
 中教審のワーキンググループ部会報告によりますと、子どもたちの「主体的・対話的で深い学び」をアクティブ・ラーニングの視点にすると記されてあります。このことについて、教育課程企画特別部会では、

(1)習得した知識や考え方を活用した「見方、考え方」を働かせながら、問いを見出して解決したり、自己の考えを形成し表したり、思いを基に構想、創造したりすることに向かう「深い学び」が実現できているか。
(2)子ども同士の協働、教員や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ、自らの考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できているか。
(3)学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連づけながら、見通しを持って粘り強く取組み自らの学習活動を振り返って次につなげる「主体的な学び」が実現できているか。

 これらの学びを促す道徳の時間の創造は今までも取り組んできたことですが、より一層アクティブ・ラーニングの視点を生かそうということと捉えたいと思います。要は具体的な授業構想を上記3つの視点から問い直そう、そして、授業もこの3つの視点から評価しようということが大切となります。具体的な道徳授業について、この3視点から考察する機会も、今後もってみようと考えています。

2.道徳科におけるアクティブ・ラーニング、それは「教材提示」から始まる!

 私は、道徳科におけるアクティブ・ラーニングの根底に「教材提示の工夫」を据えたいと考えています。上記3つの視点を重視した授業づくりの前提となるアクティブ・ラーニングです。
 全小道研大先輩の荻原武雄先生はその著書「あたたかい道徳授業をつくる(※注2)」において「資料提示(道徳科においては、教材提示)に心を込める」とおっしゃっています。教材に深く浸れば浸るほど子どもたち一人一人がもつ豊かな思いが心の中で躍動し始めるのです。そして、子どもたちの側に立って考え、子どもたちも教師も心が躍るような教材提示の工夫に全力を傾けることが必要なのです。教材提示は道徳の授業の極めて重要なポイントであり、この成否が道徳の授業の成果の鍵であるとおっしゃっています。思いを基に構想、創造したりすることに向かう「深い学び」、自らの考えを広げ深める「対話的な学び」(教材との対話的な学びをも含む)や「主体的な学び」も教材提示によって大きく左右されるのではないでしょうか。
 そのためには、何度も言いますが、教材は心をこめて「語る」ことが大切なのです。

 私も最近各地の学校で飛び入り授業をさせていただく機会をもっています。初めて出合った子どもたちと道徳の授業をする緊張感は何ともいえないものがあります。もちろん子どもたちの実態やクラスの雰囲気など事前に情報は何も得ておりません。しかし、授業はそれなりの水準以上をクリアすることが出来ます。なぜでしょう…?
 それは、「教材提示」です。教材提示で子どもたちを教材の世界に誘うことが出来ればほぼ授業のねらいは達成できます。教材提示で子どもたちの心が躍っていれば、躍動していれば当然のことながら子どもたちはよく考え、議論の深まりが見られる授業となってくるのです。
 そして、私は言いたい。教材提示の工夫にはこれからの道徳の授業においてもっともっと創意・工夫を凝らしていただきたい。道徳の教材は提示後の話し合いのための単なるテキストではないのです。一つの「作品」と心得ていただきたい。読めばいいというものではなく、朗読の域にまで近づける努力を教師はするべきだと考えます。そんな道徳の時間を子どもたちは好きになり、待ち焦がれるものとなるでしょう。楽しく魅力ある道徳の時間であれば自然と子どもたちの(道徳の)学力=道徳性は身につき高まるはずです。
 道徳科におけるアクティブ・ラーニング、それは教材提示から始まる。誰も言わないので、私が一人声高に主張し続けたいと考えています。

3.忘れられない資料提示、「泣いた赤おに」

 もう7、8年前になります。若い2年目の先生が市の研究会・道徳部会で「泣いた赤おに」の研究授業をすることになりました。学年は2年生です。感動的な資料なので、感動的な資料提示が求められます。問題はどのようにすれば子どもたちに感動を呼び起こさせることが出来るか、です。山形県・高畠町の浜田広介記念館(※注3)で聴いた朗読はまさに圧巻でした。淡々とした語りから深い感動の世界に引き込まれました。それはまさにプロの技です。一般の教員には難しいです。その域に達するには何十年とかかります。
 その若い女性教員に助言しました。資料を暗記して子どもたちに語ろう、そして、少し身振り手振りを入れて一人芝居風にやってみよう、と。もちろんBGMも忘れないで。しかし、最後のクライマックスが難しい。青おにの手紙を読んで「戸に手をかけて顔を押し付けてしくしくと涙を流して泣く」場面です。彼女は「私、実際にこの情景を赤おにになったつもりで泣いてみます。」と提案してきました。やってみるとそれなりに様(さま)になっています。それから彼女の気合いの入れ方が変わってきました。授業づくりへの執念というか気迫が並々ならぬものへと変わってきました。
 当日の授業では子どもたちも最初のあたりでは担任の一人芝居に慣れないせいかくすくす笑う子もいましたが、終盤のクライマックスまでくると全員の子どもが「泣いた赤おに」の世界に完全に引き込まれてしまいました。提示が終わった後もその世界に浸り込み、結局その後の学習活動も資料の世界に入り込んだまま流れていきました。
 赤おにを通して自己を見つめ、自己の生き方についての考えを深める授業が進められました。もちろん、まだ2年目の先生なので不十分な点は多々ありましたが、総じてよい授業、感動的な授業でした。ある面、相当の経験者でも到達できない授業であった、というのが率直に感じたところでした。

 

※注1 全国小学校道徳教育研究会 http://zenshoudouken.com/
※注2 「小学校 あたたかい道徳授業をつくる」荻原武雄著(2007/9 明治図書出版)
※注3 「まほろば・童話の里 浜田広介記念館」 http://hirosuke-kinenkan.jp/
浜田広介は、山形県高鼻町出身の童話作家で「日本のアンデルセン」とも呼ばれています。日本の児童文学の先駆け的存在で、作家人生50余年の間に、約1000編もの童話や童謡を世に送り出しました。代表作品として「泣いた赤おに」「りゅうの目のなみだ」「よぶこどり」「むくどりの夢」などがあります。(ホームページより)

落書の世界 ―正元二年院落書が問いかけた世界― 1

 時代の転換期は、権力の恣意的運用を批判した落書によって、社会の澱みを読みとることができます。これらの落書には、当代の人心と智慧が結集しており、時代の闇が的確に抉り出されたものが多くみられます。その意味では、メール等の発達で、多様な情報網が独り歩きしている現在、密かに怨念を託して生まれる落書のような世界が飛散したのかもしれません。否、無記名なメールを拡散することで、気になる存在を貶め、抹殺していくことに何等の痛痒を感じない社会の到来で、練り上げられた落書という芸術的業(わざ)に己の存在を託す営みが忘失されたといえないでしょうか。このことは、権力の在り方を根元的に問い質し、傷を負わせる落書という作法そのものが多様な情報手段の発展によって粗悪な中傷行為に転落していったことに外なりません。それら言説には、時代を投影した落書の世界にくらべてみれば、時代の闇に蠢く人間の情念を突き詰める眼がうかがえません。そこで落書の世界がみせる闇の深みを、13世紀中頃の正元2年(1260)院落書で読み解くこととします。
 正元元年院落書は、南北朝への讖言ともいえるもので、昨今話題となっている現天皇の生前退位問題にもかかわる話題につながる世界であるかもしれません。まずはいかなる落書かを読むこととします。

年始凶事アリ 国土災難アリ
京中武士アリ 政ニ僻事アリ
朝議偏頗アリ 諸国饑饉アリ
天子二言アリ 院中念仏アリ
当世両院アリ ソヽロニ御幸アリ
女院常御産アリ 社頭回禄アリ
内裏焼亡アリ 河原白骨アリ
安嘉門白拍子アリ 持明院牛アリ
将軍親王アリ 諸門跡宮アリ
摂政二心アリ 前摂政追従アリ
左府官運アリ 右府ニ果報アリ
内府ニシヽアリ 花山ニ出家ノ後悔アリ
四条権威アマリアリ 按察使(あぜち)ニカシラアリ
大弁ニ院宣定アリ 除目僧事(じもくそうじ)ニ非拠アリ
嵯峨殿ニハケ物アリ 祇園神輿アリ
五条殿ニ天狗アリ 園城寺ニ戒壇アリ
山訴訟ニ道理アリ 寺法師ニ方人(かたうど)アリ
前座主冥加アリ 当座治山ニ勝事(しようじ)アリ
高橋宮ニ嘉寿アリ 綾小路ニシソクアリ
大僧正ニ月蝕(がつしよく)アリ 正僧正察会アリ
円満院乱僧アリ 桜井ニ酒宴アリ
聖護院ニ穏便アリ 東寺ニ行遍アリ
南都ニ専修アリ 大乗院馬アリ
学生ニ宗源俊範アリ 武家過差(かさ)アリ
聖運ステニスヱニアリ
 正元二年庚申正月十七日院御所落書云々

 この落書は正元2年正月17日に後嵯峨上皇の仙洞御所に記されていたものです。冒頭の「年始凶事アリ 国土災難アリ 京中武士アリ 政ニ僻事アリ 朝議偏頗アリ 諸国饑饉アリ」は、園城寺が正嘉元年(1257)に戒壇設立の勅許を求めたことにはじまる園城寺と延暦寺の争いを諷刺し、迷走する朝廷の姿を批判したものです。朝廷は、幕府が正元元年に延暦寺を威圧するために数100名の武士を鎌倉から上洛させた力を背景に、2年正月4日に園城寺が戒壇設立の代案として出していた三摩耶戒を許可する官宣旨を園城寺に与えました。ここに延暦寺は、翌々6日に日吉・祇園・北野社の神與を擁して入洛、放置して去るという嗷訴をします。朝廷がこの嗷訴に怯えて勅許を取り消した事件を述べたものです。この落書は、「政ニ僻事アリ 朝議偏頗アリ」「天子二言アリ」「園城寺ニ戒壇アリ 山訴訟ニ道理アリ」と状況をみなしていることよりみて、叡山側、延暦寺に味方する立場から認められたものといえましょう。
 かつ時代は、「国土災難アリ」「諸国饑饉アリ」「河原白骨アリ」と描かれていますように、正嘉2年8月諸国暴風雨による田畠の被害甚大で、10月に鎌倉が豪雨洪水となり、翌年春より飢饉・疫病が諸国に蔓延、死骸が河原に充ち溢れる惨状を呈し(正嘉の大飢饉)、3月26日に正元と改元したものの、この年も翌正元2年も諸国の飢饉は続きました。そこで正元2年4月13日を文応に改元します。このうち続く災害飢饉は、「社頭回禄アリ 内裏焼亡アリ」と火災の頻発にもかかわらず、朝廷の恣意的統治がもたらしたとものとみなし、その怒りを院と天皇の在り方を論難する落書を認めて院に掲示せしめたのです。
 思うに自然災害は時代へのある警告を秘めた声です。日蓮は、かかる危機の時代に向き合うことで改元された文応元年(1260)7月に「立正安国論」を執権時頼に上書します。この「落書」は、まさに日蓮の声に呼応するもので、一つの時代転換期を体現したものといえましょう。そこにみられる「当世両院アリ」と指弾された世界は、統治の正統性をゆるがせ、皇位をめぐる確執がもたらす騒乱の世への讖言ほかなりません。

 

参考文献

  • 『中世政治社会思想』下 日本思想大系22 岩波書店 1981年

【新連載スタート】「語る!」道徳教育の基本はここにあり

1.はじめに

 はじめまして。このたび、「学び!と道徳」を担当させていただくことになりました大原龍一です。
 道徳の教科化(特別の、新しい枠組みによる)が教育界における大きな話題の1つになっている昨今、現場の皆様に少しでもお役に立てるような記事や情報を提供し、道徳教育の振興にいくばくか寄与したいと思っています。頑張ります。
 よろしくお願いいたします。

2.道徳教育の基本は「語る」

 さて、いきなり道徳の教科化云々から始めるのも気分的に「重い」ので、普段私が考えていることをいくつか紹介させていただこうかと思います。
 今回は「語る」をテーマにしたいと思います。道徳教育を貫く基本的なスタンスとして、私は「語る」ことを位置づけているからです。もちろん、週一時間の道徳の時間の指導においても「語る」ことを重視しています。

(1)「語る」ということ

 「語」という漢字を二つに分けてみました。「吾(われ:自分)」+「言(う)」となります(実は、これは道徳の大先輩から教わったことです)。ですから、自分が自らを心から話すこと。これが話すこと。これが語るということになります。これは、「(1)自分のことを言う➡語る」でもありますし、「(2)自分のこととして、自分のものとして(自己の内面できちんと咀嚼して)言う➡語る」ことももちろん、「(3)相手に分かりやすく自分の主張や考えを話す➡語る」でもあるわけです。まさに道徳の基礎・基本ではないでしょうか。
 広辞苑を引いてみますと、「①事柄や考えを言葉で順序立てて相手に伝える。②筋のある一連の話をする。③節や抑揚をつけてよむ。朗読するように述べる。④親しくする。うちとけて付き合う。⑤内部事情や意味などをおのずからに示す。」とあります。よく見てみると、上記「(1)(2)(3)」と同様、これらも道徳教育ならびに道徳の授業を行う上での基本姿勢であると私は考えます。

(2)教師は、まず自分を「語る」

 道徳教育を効果的に推進していく上で最も留意しなければならないことは、教師と子どもとの豊かな人間関係を醸成することだと考えます。小学校学習指導要領解説「道徳編」においても、教師と児童・生徒との人間関係を深めることの必要性・重要性が以下説かれています。

 教師と児童の人間関係においては,教師に対する児童の尊敬と,児童に対する教師の教育的愛情,そして相互の信頼が基本になる。したがって,教師には児童を尊重し受容する態度及び児童の成長を願う教育的愛情が不可欠である。また,教師自身がよりよく生きようとする姿勢をもつことによって,自己を常に向上させようとしている児童の強い共感を呼び,それが信頼関係の強化につながる。これらのためにも,教師と児童が共に語り合うことのできる場を日常から設定し,児童を理解する有効な機会となるようにしていくことが大切である。(小学校学習指導要領解説「道徳P.113」下線部:大原)

 そのため、私は自分を子ども(今は、学生)に語るようにしています。自分について語り、自らの胸襟を開き「どうぞいらっしゃい」と迎え入れる姿勢が子どもたちの共感を呼ぶと考えています。しかし、どうしても自分をさらけ出すことにもなり恥ずかしい限りではありますが「私はこうやって生きてきた」ということを語っています。そうすると、子どもたちも徐々に断片的ではありますが自分のことを話すようになってきます。このことは、小学生のみならず大人である大学生にも通じることです。大学の授業を開始するに当たって、最初にオリエンテーションとして自己紹介がてら「私」について語ります。豊かな人間関係の醸成とは実はこのような積み重ねによってつくられてくるのだと思っています。
 大学での自己紹介の内容は、●私の生い立ち ●私の学校生活(小中高等学校) ●大学生活と教員志望 ●教師になってから ●管理職になってから ●私と家族 ●趣味や特技 等をP・Pでかつての写真等を提示しながら語ります。学生は興味をもって聞いてくれます。実はこのP・P画面は、校長の時に6年生の総合的な学習の時間に「将来の自分について」という学習で6年生に話した(語った)時の資料が基本となっています。子どもたちも興味をもってよく聞いてくれていました。

(3)道徳の時間では、子どもが自分を「語る」

 道徳の時間においては「資料・教材」が大きな割合を占めます。資料のない道徳の時間の指導はあり得ません。そこでは、「資料勉強する」のではなく、「資料【人としての生き方】を勉強する」のです。主人公に投影して自分を語らせるのです。知っていることや聞いたこと、見たことをそのまま話すのではなく、それらをもとに自分の生き方について語り合う時間が道徳の時間なのです。そして、その中から「よりよい生き方」を自ら探し出すことが学習のねらいとなるのです。教師は、子どもたちが「自らの生き方の軸を見つける」お手伝いをすることとなります。
 「知識」「見識」という言葉があります。知識とは字のごとく知っていることです。知っていることに基づいて自分なりの考えや思い、見解を持つことが大切です。そうでなければ単なる「物知り」にすぎません。知識➡見識に引き上げるところに人間的な成長がみられるのではないでしょうか。道徳の時間もそんな時間にしたいものです。子どもたちや先生が互いに語り合って、高め合う時間に。
 もう一歩。肝が据わった「胆識(たんしき)」もほしいところですが。

(4)資料・教材は教師が「語る」

 道徳の時間は「資料(教材)提示で決まる」と言われます。質の高い資料を用意することはもちろんですが、その資料をどのようにして子どもたちに提示するかが道徳の授業においては非常に重要な要素となってきます。
 私自身恥ずかしい限りではありますが本当にこのことを実感として理解したのは、50も半ばを過ぎた頃でした。耳にはしていましたが、実際の授業(校長になってからも自校を中心として授業実践をしていました)を通してその意味するところを自らのものとして実感し、理解しました。子どもたちの反応が明らかに異なるのですから。そして、資料提示後の授業展開も今までとは比べものにならないほど質の高いものになります。若い教員が道徳の授業で苦労していました。徹底して資料提示を練習させました。結果、授業が見違えるほどステキになりました。単に話合いのテキストを読むのではないのです。
 私は「資料を読む」のではなく「語る」と言っています。学習指導案にもそのように記すようにしています。資料(教材)を何回も何回も読み、自分のハートに落とし込み、自らの心の言葉として子どもたちに語ることによりその心が子ども一人一人に伝わっていくのではないでしょうか。そして、「間」と「余韻」を大切にしながら「節や抑揚をつけてよむ。朗読するように(広辞苑)」語ることです。まるで1つの作品のように子どもたちの心にプレゼントしたいものです。心の玉手箱として。

3.次回にむけて

 次回は、もう少し「資料・教材を語る」についてこだわってみたいと思います。もう一つは、アクティブ・ラーニングです。しばらくは道徳授業の進め方になるでしょうか。
 また、よろしくお願いいたします。

 

※本原稿は、当サイトの機関誌・教育情報「まなびとプラス」vol.9でもお読みいただけます。

図画工作・美術における知識の行方

「石の張り子」椎俊一先生(宮崎市)
サイズ W8×D8×H3(cm)

 8月26日「次期学習指導要領等に向けたこれまでの審議のまとめ」が中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会から示されました(※1)。図画工作・美術についても今後の方向が提示されています。本稿では「知識」に着目して内容を検討してみましょう。

1.「知識」が違う!

 先日、ある美術の研修会で参加者に「鎌倉幕府が成立したのはいつですか?」という問いを出しました。50代以上の男性は「イイクニ鎌倉、だから1192年!」と即答し、「これが正答だ」という表情でした。しかし、20代前半の女性は一瞬の間があり、「えっと、、、1185年から1192年ぐらいの間に、、、う~ん、、頼朝が鎌倉に武家政権を、、、、、」と自信なさげに答えました。この「答え方の違い」について考えてみましょう。
 まず鎌倉幕府の成立については諸説あり、どちらが正しいという話ではありません(※2)。ただ「鎌倉幕府の成立はいつ」という問いに、50代は、「鎌倉幕府=1192年」という「事実」を答え、それで安心しています。一方、20代は明らかに困った様子を見せました。それは「鎌倉幕府の成立は朝廷や武家、支配権など複数の要因が絡んだ事象で、いくつかの段階があるので『いつ』という問いには即答できない」という意味でしょう(※3)。同時にそこで複数の知識がネットワーク化された「概念的な知識」が用いられたことを示しています(※4)。
 同じ問いなのに、一方は「事実的な知識」で対応し、一方は「概念的な知識」を発動する、、、これは世代の違いなのか、知識の違いなのか、興味深い出来事でした(※5)。

2.「知識」が変わる?

 さて本題です。「審議のまとめ」では、これからの教育がめざす知識は以下のようなものだとされています。

  • 「何を理解しているか、何ができるか(生きて働く「知識・技能」の習得)」(※6)
     各教科等において習得する知識や技能であるが、個別の事実的な知識のみを指すものではなく、それらが相互に関連付けられ、さらに社会の中で生きて働く知識となるものを含むものである。
     例えば、“何年にこうした出来事が起きた”という歴史上の事実的な知識は、“その出来事はなぜおこったのか”や“その出来事がどのような影響を及ぼしたのか”を追究する学習の過程を通じて、当時の社会や現代に持つ意味などを含め、知識相互がつながり関連付けられながら習得されていく。それは、各教科等の本質を深く理解するために不可欠となる主要な概念の習得につながるものである。そして、そうした概念が、現代の社会生活にどう関わってくるかを考えさせていくことも重要である。基礎的・基本的な知識を着実に習得しながら、既存の知識と関連付けたり組み合わせたりしていくことにより、学習内容(特に主要な概念に関するもの)の深い理解と、個別の知識の定着を図るとともに、社会における様々な場面で活用できる概念としていくことが重要となる。

 「審議のまとめ」でめざしているのは、単なる「事実的な知識」だけではないようです。その習得は大事だけれども、もう一歩進んで社会における様々な場面で活用できる「生きて働く知識」、言い換えれば「概念的な知識」を各教科等において習得する必要があるということでしょう。では、図画工作・美術ではどうでしょうか(※7)。

  • 芸術系教科・科目における「知識」については、一人一人が感性などを働かせて様々なことを感じ取りながら考え、自分なりに理解し、表現したり鑑賞したりする喜びにつながっていくものであることが重要である。知識が、体を動かす活動なども含むような学習過程を通じて、個別の感じ方や考え方等に応じ、生きて働く概念として習得されることや、新たな学習過程を経験することを通じて更新されていくことが重要である。

 図画工作・美術においても、「事実的な知識」ではなく、社会生活で活用されてはじめて「知識」と呼べるような「概念的な知識」の獲得が目指されているようです。その獲得のプロセスでは、一人一人の感性に立脚しつつ、試行錯誤しながら知識を更新していくことが求められています。それは、教科の本質的な「理解」につながるものだと思われます。

3.「知識」の行方

 一方、様々な図画工作・美術の研修会ではどうでしょうか。おそらく、知識の段になると決まって以下のような発言が聞かれることでしょう。
 「図画工作・美術に知識を持ち込むと、すぐに三原色やテストになる」
 「知識を教え込んでから絵を描きましょうとなるのはよくない」
 一方的な教え込みは避けたいという真意は分かるのですが、いずれも「事実的な知識」だけを取り上げたもので、そこに「概念的な知識」や、教科の本質にかかわる「見方・考え方」への発展は含まれていません(※8)。
 確かに、これまで図画工作や美術で「知識」の問題が、十分に議論されてきたとはいえないでしょう。「色の組み合わせや濃淡の効果を理解する」「奥行が生まれるように形を配置した構成と、その影響を考える」あるいは「美術作品に関する文脈的な知識を活用して鑑賞する」などについて研修会等で取り上げられることは少なかったと思います。たとえ、子ども自身がそのような活動をしていたとしても、避けられてきたのではないでしょうか。しかし、「審議のまとめ」では、以下のように述べられています。

  • このことを踏まえて、「知識」に関しては以下のことが重要であり、発達の段階に応じて整理していく必要がある。
  • 〔共通事項〕を学習の支えとして、形や色などの働きについて実感を伴いながら理解し、表現や鑑賞などに生かすことができるようにすること
  • 芸術に関する歴史や文化的意義を、表現や鑑賞の活動を通して、自己との関わりの中で理解すること

 私たちは、形や色、その働き、歴史や文化的意義などの図画工作・美術で用いられる「知識」について、もう一度検討しないといけないのかもしれません。そこでは「事実的な知識」だけでなく「概念的な知識」や「見方・考え方」などを視野に入れる必要があるでしょう。平成24年度の国立教育政策研究所の学習指導要領実施状況調査では「作品から得た自分の印象や情景、全体的な感じなどを、形や色、動きや奥行きなどの複数の造形的な特徴を根拠に説明することに課題がある」と指摘されています(※9)。子どもが豊かに造形活動を行う道具として「知識」を再定義し、「社会に開かれた教育課程」を実現することが求められているのだろうと思います。

 

※1:「次期学習指導要領等に向けたこれまでの審議のまとめ」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/gaiyou/1377051.htm
※2:そもそも幕府=政権という概念自体がこの時代にはなかったようです。
※3:この世代は「イイクニ鎌倉」という教育を受けていないそうです。
※4:「概念的な知識」は、断片的な「事実的な知識」と異なり、意味理解を伴った転移性の高いネットワーク化した構造的な知識だとされています。
※5:筆者は50代後半、「受験戦争」で断片的な知識量で競争しました。いわば「イイクニ鎌倉」世代、20代の彼女が用いた「概念的な知識」は苦手かもしれません(笑)。
※6:前掲1「次期学習指導要領等に向けたこれまでの審議のまとめ」26p
※7:「次期学習指導要領等に向けたこれまでの審議のまとめ」205p
http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/
2016/09/09/1377021_1_5.pdf

※8:テストや事実的な知識を敵視する傾向も感じられます。
※9:自分の把握した知識を明確に位置づけながら、これを複数組み合わせて、論理的に述べること(あるいはつくること)は課題だと思います。小学校学習指導要領実施状況調査 教科別分析と改善点(図画工作)
https://www.nier.go.jp/kaihatsu/shido_h24/06.pdf