道徳科の指導法①

 1年がたつのは早いもので、もう3月になりました。春は別れと出会いの季節です。学校では卒業式が行われ、生徒たちが新しい進路へと旅立って行きます。そして2週間もすると、新入生が入学してきます。校長の時、入学式では緊張と希望で顔を紅潮くさせていたまだ小学生のような生徒が、3年間で立派な大人へと成長した姿を見ることが卒業式の一番の楽しみでした。教師という仕事は、人の成長にかかわることができる素晴らしい仕事だと思います。
 4日から12日まで院生を引率してロンドン大学教育研究所と3つの公立学校の視察に行ってきました。写真は、中・高等学校で教科として行われている「ドラマ」の授業です。シェイクスピアのハムレットの一部分を生徒が演じています。父親の亡霊が出てきて今の王になっている弟に殺されたことを伝え、真実を知ったハムレットが嘆き苦しむところです。「ドラマ」では、生徒にとって古語となっているシェイクスピアのセリフを言語学の視点から検討し、さらにセリフに込められている心情を考え、それを体で表現し、演じます。日本の国語科と道徳科をミックスしたような教科です。
 それでは、今回からは、新しく始まる「特別の教科 道徳」の授業について考えていこうと思います。新しい学習指導要領では、考え、議論する授業、主体的・対話的で深い学びが求められています。そのような授業はどのように行っていくかを考えていきたいと思います。深い学びの授業例として「役割演技」が紹介されていますが、イギリスで行われている「ドラマ」に似ているところがあります。道徳科の授業に取り入れることも考えてみてはどうでしょうか?

1 指導体制

「岡田先生、道徳科の授業をどのように行っていけばよいのでしょうか? 僕はまだ一人で授業を行っていく自信が無いです。先日の中学校道徳教育セミナーで、僕が担当したグループでは、校内の指導体制づくりが話題となりました。道徳科の授業は担任が行わなくてもよいでしょうか?」
「学習指導要領には指導に当たっての配慮事項として、『学級担任の教師が行うことを原則とするが、校長や教頭などの参加、他の教師との協力的な指導などについて工夫し、道徳教育推進教師を中心とした指導体制を充実すること』とあります。学級担任が授業を行う理由は、生徒のことを一番理解していることやコミュニケーションがとりやすいことが理由です。しかし、副担任や学年の先生でも、生徒との人間関係や信頼感があれば授業をすることも可能でしょう。私は校長の時、毎年授業を行っていました。時には担任の先生とTTで行ったこともありましたが、生徒はとても喜んでいました。また、先生自身にも教材に対しての得手不得手があります。その教材を得意とする先生が、全ての学級を指導するようなローテイション授業も有効だと思います。」

2 ねらいと教材分析

真理「今回の教科化では、登場人物の心情のみを聞いていくような画一的な授業はよくないといわれていますが、どのように授業を展開していけばよいでしょうか?」
「確かに登場人物の心情を読みとるだけでは国語科の授業と変わりません。道徳科の授業では、登場人物の思いや考えの基となる道徳的価値について学ぶことが大切です。そのためには、先生がまず教材をしっかり読んでおくことは重要です。
 小林秀雄の『考えるヒント』の中にある『人形』という作品を読んだことがありますか? 急行列車の食堂車で遅い晩飯を一人食べていた小林さんが老夫婦と相席することになりました。静かにビールを飲んでいる老紳士の横で、奥さんは背広、ネクタイ、帽子を身につけた薄汚い人形を取り出し、食事を与え始めました。小林さんは、人形は亡くなった息子に違いないと思いました。夫は死んだ息子による妻の乱心を鎮めるために人形をあてがい、二度と正気に戻らぬ妻を、こうして連れ立っている、と思いました。奥さんは運ばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口に持っていき、それから自分の口に持ってきます。そこに女子大生と思われる娘さんが小林さんの隣に座りました。彼女はすぐに事を悟ったようでした。この不思議な会食に素直に順応し、四人はごく当たり前のように、無言で、穏やかに食事を終えたのです。もしも、あの時、誰かが人形について余計な発言でもしたらどうなっていただろかと、小林さんが回想する随筆です。
 さて、この作品を道徳科の教材として授業をしようと思いますが、この作品の中にはどのような道徳的価値が含まれていますか?」
真理「老夫婦への思いやりでは……。」
「妻をいたわる夫の家族愛も考えられる。」
道子「老夫婦の立場を尊重する寛容や広い心、さらに人間そのものへの人間愛もあります。」
真理「命について考えさせられると思います。」
「普通、道徳科で使用する教材の中には複数の道徳的価値が存在しています。どの価値についても授業ができそうですが一つに決めることが大切です。これが授業のねらいとなります。」
「思いやりでもよいと思うけれど、相手の立場を尊重する寛容が良いと思います。」

「そうですね。人にはそれぞれ誰にも言えない知られたくない悩みや苦しみを抱えているものです。そのような相手の立場を尊重する寛容な心が大切です。ねらいが決まったら次にその道徳的価値がどのように教材の中に含まれているか分析します。次の図は、『人形』の中に登場する小林秀雄さんの言動とその心情を基に整理したものです。この時、教材の話が大きく変わり、ねらいとする道徳的価値に迫る『ヤマ場』をしっかりと押さえることが大切です。」
道子「つまり起承転結の転にあたるところ。『人形』では、若い娘さんの出現ですね。」
「なぜ『ヤマ場』が大切なのですか?」
「相席する娘さんに対して小林さんは心の中でどのようなことを思っていたと思いますか?」
「『余計なことを言わないで黙っていて欲しい』と思っていたと思います。」
「『小林さんはなぜ黙っていて欲しいと思っていたのかな』と生徒に聞いたらどうなりますか?」
「『老夫婦のことを考えて欲しいから』と答えると思います。」
「そうですね! 娘さんの出現の場面からねらいとする道徳的価値『寛容』に気づき、深く考えることができます。つまり、教材の『ヤマ場』を押さえることにより、ねらいに迫る中心発問を設定することができます。このように教材を分析し、それぞれの場面で発問を次のように設定することにより、目指すねらいに迫っていくことができます。
起:補助発問① 老夫婦と相席することになった時、作者はどのようなことを思っただろうか
承:補助発問② 人形に食べさせる夫人を見て、どんな思いが込み上げてきただろうか
転:補助発問③ 作者の心持ちとはどのようなものだろうか
結:中心発問④ 食事が穏やかに終わった時、作者はどのようなことを考えていただろうか
 これらの発問をすべてする必要はありません。また、生徒の発達の段階を配慮して中心発問を補助発問③にすることも考えられます。
 なお、生徒がそれぞれの発問に対して、どのように答えるかを事前に想定しておくことは忘れないでください。」

3 導入と終末

真理「授業の展開の方法はわかりましたが、導入と終末はどのようにすればよいでしょうか?」
「道徳科の導入は、『つかみ』で良いと思います。『つかみ』とは吉本総合芸能学院で教える言葉で、舞台に立った時に、しゃべっていたりお菓子などを食べていたりするお客さんの視線を短時間に舞台へ向けるために行う芸のことです。今日は何をするのかと全生徒の興味関心を授業に引き付けることが導入です。多くの場合は、ねらいや教材に関することを取り上げることが多いようです。」
「僕なら『人形』の導入では、食堂車や相席のことを知っているか聞いてみたいと思います。」
「今の中学生は食堂車や相席を知らないので、食堂車の写真を見せてもいいでしょう。」
真理「導入の方法は大体わかりました。しかし、私は終末がいつも、『今日はこのようなことを学びましたので今後の生活に生かしていきましょう』というような価値の押し付けをして、生徒指導のようになってしまいます。」
「それは皆さんが自分の教科指導の終わりに本時のまとめをしているからです。道徳科の学習指導案では、まとめではなく終末となっています。それはまとめをしたら授業で味わった心地良い良心の余韻が消えてしまうからです。終末は、授業で学んだ道徳的価値への理解をさらに深めたり、道徳的価値を実践しようとする意欲や態度へとつなげたり、さらには自己を見つめたりする大切な場面です。」
真理「具体的にどのような方法がありますか?」
「板書で授業を振り返る、感想を書かせる、『私たちの道徳』を使う、先人や偉人の言葉を紹介する、説話や先生自身の経験談を話すなどがあります。」
「担任の先生の経験談は生徒に受けそうだ!」
道子「響は生徒に話せるような道徳的な行為を実践したことがあるの?」
「……。」

 第6回目はいかがでしたでしょうか? 次回は、新しい学習指導要領が目指す「考える道徳・議論する道徳」、「主体的・対話的で深い学び」について考えていきたいと思います。ご期待ください。

元日や一系の天子不二の山(『鳴雪自叙伝』) ―「皇国」日本という幻想(5)―

承前

 この句は、若き日の正岡子規の師にして、子規に学ぶことで俳人となった内藤鳴雪のものです。ここには明治天皇と共に生きた人びとの心の原風景が描かれています。「一系の天子」という原像を法的に確定させたのは大日本帝国憲法であり、その枠組みを内的に規定したのが皇室典範です。まさに大日本帝国憲法が創出した天皇を法的に封印した天皇制という枠組みは、一夫一妻多妾を前提とした嫡子を第一義となし、やむを得ない場合は庶子による男系皇統の維持を前提にすることで、「万世一系」の皇統という言説を創出したものにほかなりません。ここに天皇という存在は、世界に比類なき「一系の天子」という皇統神話を説き語ることで、国民の心に植え込まれ、皮膚感覚となり、日本国民の心を呪縛したといえましょう。
 明治の新政府は、圧倒的な文明の力を誇示する欧米列強に対峙すべく、列強をささえる内的規範であるキリスト教に代替しうる精神の器たるものとして「万世一系」の天皇を位置づけ、国民精神の原器となし、ここに国のかたちである国体の原義を読み取ろうとしたのです。学校教育は「天皇の国」の在り方を多様に問いかけました。

教科書に見る国の容

 明治33年(1900)の金港版『尋常国語読本』(坪内逍遥)は、日清戦争に勝利し、アジアの覇者たる場を確立した日本の雄姿を神武天皇による国家の創成から、「天子様の御血筋が幾年も一筋で、限りなく続く」「万世一系」の国柄を、「紀元節」「天長節」「日の丸」として語りかけています。そこには、欧米列強に対峙しうる国家の容をして、直截に小学児童の脳髄に埋め込もうとの熱い思いが読み取れます。
 「紀元節」は、神武天皇が橿原宮で即位した日、日本書紀が「辛酉年春正月(かのととりのとしはるむつき)」と記している日、「是の歳を天皇の元年」とした日をして、「万国歴」として受容した西暦の2月11日に当たるとみなし、「紀元節」として国家祝祭日としたものです。日本の紀元、「皇紀」は、この年に始まりとしたもので、元号とともに「西暦」と併用されることとなります。「紀元節」は、「天子様の御血筋が幾年も一筋で、限りなく続くのは、何よりめでたい」となし、「万世一系」の皇統の国であることを寿ぎます。

此の日は、古き昔、神武天皇と申す天子様が、あちらこちらの悪者をお退治あそばして、始めて天子様に御なりなされた日であります。神武天皇様は、我が国第一代の天子様で、今の天子様は百二十二代目の御孫でございます。我が国のよーに、天子様の御血筋が幾年も一筋で、限りなく続くのは、何よりめでたいことであります。

 明治天皇は、神武天皇の「御血筋」を万代にわたり受け継いできた存在として、その誕生日を天皇の下に天地が永久に変わることのないようにとの思いをこめて「天長節」と命名、国家の祝日としました。その日は、各家で家長の下に、「一家一族」が集い、祝う集い日とみなされたのです。

この家の床の間には、今上天皇陛下と書いてある掛物をかけ、その脇の花いけには美しい菊の花をさしてあります。一家の者どもはみな床の間の前にかしこまり、主人は少し進み出て、丁寧におじぎをして居ます。これは、今日は天長節といって、いまの天子様のお生まれあそばした日であるから、一家こぞってお祝いを申上げて居るのであります。これから親子もろともに天長節の歌を歌い、それからまた親類、友達を招いて、この日を楽しく暮らすでありましょう。
 今日の よき日は、大君の、生まれ たまひし、よき日なり。
 今日の よき日は、御光の、さし出 たまひし、よき日なり。
 光 あまねき、君が代を、祝へ もろびと、もろともに。
 めぐみ あまねき、君が代を、祝へ もろびと、もろともに。

 この小学唱歌は、祝典歌であり、キリスト教会の讃美歌のリズムです。「今日の よき日は、大君の、生まれ たまひし」は、「今日の よき日は、エス様の、生まれ たまひし、よきひなり」、とすればクリスマス賛歌ともなります。まさに日本は、天皇を国の要となす国民国家を造形すべく、文明国の枠組みを機能合理主義ともいえる方策で換骨奪胎し、1930年代に「天皇制国家」といわれることとなる日本型の立憲国家の確立が目指されたのです。
 なお、天長節なる名称は、「天長地久」よりきたもので、皇后の誕生日は「地久節」です。後に女権確立をめざす婦人運動は、天長節にならぶものとして、「地久節」を国家の祝日に制定することを目指す運動を展開します。ここに「地久節」は、国家祝祭日に制定されることはありませんでしたが、女学校では「祝日」として祝典を営むようになります。この一事には、日本における夫人の地位向上をめざす婦人運動にしても、「天皇制」的枠組みに強くとらわれていたことが読み取れます。

「日の丸」の下に

 日本は、日清戦争の勝利により、このような万世一系の国が世界に雄飛する思いを「日の丸」に託して小学児童の心に問いかけたのです。「日の丸」に託された世界は、「紀元節」「天長節」が描き出した世界の在り方をして、万国に比べようなき唯一の国であると問い語りかけています。

そもそも日の丸の旗は、世界をてらして居る、日にかたどって作ったもので、甚だあざやかで、そのうえ、まことに勇ましく見えます。外の国々の旗には、鷲という鳥や獅子という獣などをつけたのもありますが、あざやかで勇ましいのは、我が国の旗に及ばないよーです。

 「日の丸」は、「日輪の国」日本、世界を照らす太陽の下にある国家を顕すもので、他国の旗などと比べようのないほどに、「あざやかで勇ましいのは、我が国の旗」だとなし、世界雄飛への使命が託されているのだと。いわば「皇国」、「一系の天子」の統べる国日本という言説は、大日本帝国憲法の下にある国家像を顕現するもので、世界雄飛への使命をして、「日の丸」に込められた思いとして語りかけています。まさに「皇国」、「一系の天子」が統べる国日本の雄姿は、大日本帝国憲法の下にある国家の存在をして、日清戦争から日露戦争を経るなかで日本人の心身に埋め込まれ、日本人の国民精神を呪縛していきます。その心を具象した景観こそは富士山の「雄姿」に引き寄せて己が心を語る作法を生み育てたのだといえましょう。

馬を放つ

 もう6、7年前になるが、キルギスの映画監督アクタン・アリム・クバトが監督・主演した「明りを灯す人」という映画を見た。小さな村で、「明り屋さん」と呼ばれている電気工の夢は、風車で村じゅうの電気をまかなうこと。その夢を実現しようとした明り屋さんは、変化する時代の荒波に翻弄されていく。
 このアクタン・アリム・クバトが脚本を書き、監督・主演した新作が「馬を放つ」(ビターズ・エンド配給)で、昨年の東京フィルメックスのコンペティション部門で上映された。このほど、あらためて見直したが、何度見ても、すばらしい映画と思う。
 ケンタウロスと呼ばれている男が、「明りを灯す人」の明り屋さんと同様、時代の荒波、変化に翻弄されていくが、翻弄されるだけではない。ケンタウロスは、キルギスの騎馬民族としての「誇り」を示そうとする。
 キルギス。地図をご覧になると分かると思うが、カザフスタン、中国、タジキスタン、ウズベキスタンに国境を接している。ソ連崩壊に伴い、1991年に独立した共和国だ。
 キルギスでは、ソ連時代から映画が作られていて、映画のなかに、トロムーシュ・オケーエフ監督の「赤いりんご」のポスターが出てくる。また、あちこちに映画館があったようで、インド映画のラージ・カプール監督「合流点(サンガム)」の話がでてくる。
 夜、ある男が、厩舎から馬を連れだし、その馬に乗り、両手を広げて、天を仰ぐ。馬を盗まれて怒った馬主のカラバイ(ボロット・ティンティミショヴ)は、容疑者らしい男を捕らえるよう、警察に話している。
 村人から、ケンタウロス(アクタン・アリム・クバト)と呼ばれている男がいる。ケンタウロスは、ギリシャ神話に出てくる半人半獣の種族で、上半身が人間で、下半身が馬である。
 ケンタウロスは、妻マリバ(ザレマ・アサナリヴァ)と、5歳になる息子ヌルベルディ(ヌラリー・トゥルサンコジョフ)と、粗末な部屋に住んでいる。かつては、映画館で映写技師をしていたケンタウロスだが、いまは遊牧民の末裔として、細々と暮らしている。
 言葉の話せないマリバは、ケンタウロスに手話で訴える。「あなたが息子に話しかけて。あなたの話しか聞かないから」。
 ケンタウロスは、古くからキルギスに伝わる言い伝えを、息子に話す。「かつて、敵なしだったキルギスの騎馬戦士。強さの秘密は、騎馬戦士を乗せた馬。馬に翼を与えたのは馬の守護神、カムアルバタだ」と。
 馬を逃がした容疑で、サディル(イリム・カルムラトヴ)という男が捕まるが、サディルは否定する。やがて、カラバイの馬が見つかり、カラバイは、馬が見つかるように祈ってくれた伝道師たちに感謝する。
 容疑の晴れたサディルは、真犯人を捕まえるべく、カラバイにある提案をもちかける。
 もうお分かりだと思うが、馬を放った犯人は、ケンタウロスである。馬主のカラバイの遠縁になる。カラバイは、馬を放った理由をケンタウロスに問いただす。「ある晩、夢を見た。白馬に姿を変えた馬の守護神カムアルバタが言った。“はるか昔、私たちは人間を友と信じ、この地に生きてきた。ところが、お前たちは自分を神だと思い込み、自然を壊し、富と権力を手に入れるために……”」とケンタウロス。そして、ケンタウロスは、自らの罪をあがなおうとする。
 まだ、キルギスには雄大な自然が残っている。それでもケンタウロスにとっては、騎馬民族としての文化や誇りは、すでに喪失している。なぜ、ケンタウロスが、馬を放ったか。映画は、その答えを観客に委ねる。5歳の息子ヌルベルディは、いまだ話せないままである。映画は、キルギスという国の行方を暗示して、閉じられる。
 ことはキルギスだけではない。いまや、世界の多くが、文化や伝統を喪失しつつある。ケンタウロスが馬に乗り、両手を広げ、天を仰ぐ。突出した映像美。古来、キルギスのことわざで、「馬は人間の翼である」と言われている。多くの寓意に満ちた、すばらしい映画だ。

2018年3月17日(土)より、岩波ホールico_linkほか全国順次公開
<岩波ホール創立50周年記念作品第2弾>

『馬を放つ』公式Webサイトico_link

監督・脚本・主演:アクタン・アリム・クバト
出演:ヌラリー・トゥルサンコジョフ、ザレマ・アサナリヴァ
2017年/キルギス・フランス・ドイツ・オランダ・日本/89分/2.35:1(シネスコ)/DCP/カラー/5.1ch
原題:CENTAUR
配給:ビターズ・エンド

教育の効果~最大要因は「教師」

 「学校教育でかけがえのない存在は?」と聞くと、多くの人々は、たいてい「子ども」と答えます。しかし、「かけがえのない子ども」には「かけがえのない教師」が必要です。本稿では統計学を用いた研究成果からこのことを検討してみましょう。

1 効果量という指標

 宿題、就学前プログラム、学級規模の縮小、能力別学級など様々な教育方法や施策があります。それらの中で、最も学力に影響のある要因が教師です。ハッティ(2018)は、何百万もの子どもたち、5万件の研究成果をもとにした800のメタ分析を統合した結果、学習に違いをもたらすのが教師だという結論に達します(※1)
 ハッティは学力に与える影響の違いを効果量dによって表しました。効果量とは効果の大きさを表す指標で、実験群と統制群の平均値の差を標準化した数値です。効果量dを用いることで、研究ごとに異なる測定単位や量などを概ね同じ条件で比べることができます。

図2.2 全メタ分析の効果量の分布

 800のメタ分析を効果量dで比較して分かったことは、学校や教室で行われていることは、ほぼ全てに「正の効果」があるということです。簡単にいえば、何をやっても子どもの学力は伸びるというわけです。
 ただし効果の程度には違いがあります。効果量の平均はd=0.4です。つまり、効果量が0.4以上であれば、平均以上の効果が見られるのですが、0.4以下であれば、それなりに効果はあるけれども、時間や費用、実施方法などを検討する必要があるということになります(※2)
 この効果量で全体を見渡したとき、平均以上の効果を示すものの多くは教師要因で、学級規模や異年齢学級などの学校要因や、宿題や視聴覚教材などの指導法要因によるものは人々が思ったほど効果がないことが分かりました(※3)

2 少人数学級の効果

 国会等でよく議論になる「学級規模の縮小」はd=0.21です。1学級当たりの児童生徒数を減らせば、一人一人を丁寧に見る時間、子どもと向き合う時間が増えます。指導や仕事の面でそれなりの効果が見られます。国立教育政策研究所の山森は、小学2年生の国語で、過去の学力が同程度であれば、少人数学級の方が、その後の学力が高くなることを報告しています(※4)
 しかし、学級規模を縮小すれば、当然学級と先生の数は増え、継続的に人件費がかさむことになります。教育経済学者の中室(2015)は「少人数学級は学力を上昇させる因果効果はあるものの、他の政策と比較すると費用対効果は低い政策である(※5)」と述べています。学力を伸ばす効果はあるものの、教師を採用する膨大なコストに見合っているかどうかは微妙な数値です。
 少人数クラスほどコストがかからない「能力別学級」を算数や英語などで導入している自治体も多いようですが、効果量はd=0.12、効果としては極めて小さいものです。高収入で学習習慣が身についた高学力クラスに対して、低学力クラスには困難を抱える子どもが集められ、秩序が形成されず、学習に集中して取り組めない状態が続くので、公平性という点で課題があるようです。

3 教師の効果

 教師に関する要因は、例えば「教師の明瞭さ」効果量d=0.75、「教師と子どもの関係」効果量d=0.72など、宿題や少人数学級以上の効果量を示しています。
 「教師の明瞭さ」効果量d=0.75は難しい話ではありません。教師の話の聞き取りやすさや内容の分かりやすさなどが学力に影響を与える度合いが大きいということです。
 授業の概要について説明する場面、例示をする場面、子どもの意見や実践を評価する場面など「教師の明瞭さ」は学習のあらゆる場面で求められます。子どもから考えれば、先生が何を話しているのかが分かればスムーズに勉強できますし、それが学力に対する効果につながるのは妥当なことでしょう。
 「教師と子どもの関係」の効果量はd=0.72です。文字通り先生と子どもの関係性が良好であれば、子どもの学力は伸びるということです。
 例えば、子どもに共感的に接し、よく子どもの話を聞く先生がいるとします。子どもたちは自分に関心を寄せられ、周りからも気遣いを受けていると感じるでしょう。自分が期待されていると思う子どもたちは友達も尊重するようになります。学級に安心感や雰囲気が醸成され、子どもは学習に集中して取り組み、友達を尊重し、自主的、自律的に学習することになるようです。

4 教師という存在のかけがえのなさ

 ハッティは子どもの学力を向上させるためには「教師の質」と「教師と学習者との関係」が特に重要だと主張しています。
 「教師の質」とは教師の人格や熟練度のことではなく、教師が様々な指導法を身に着けたり、学習指導の失敗や成功などから学んだりしながら子どもを効果的な方法で教えてくれるかどうかという意味です。
 「教師と学習者との関係」とは、文字通り教師と子どもの人間関係であり、子どもに高い期待を抱くことを始まりとして、教師と子ども、子どもと子どもなどが、お互いに認め合う温かい学級風土が形成されることです。
 ハッティはそのような「児童生徒の学力を確実に高める教師」が大勢いるので「将来に希望がもてる」と述べています。
 そうだとすれば、教師が前述した「学級規模の縮小」や「能力別学級」の効果量が低いことも、それ自体の責任というよりも、教師の存在が原因ではないでしょうか。
 教える人数が変わったからといって自分の指導方法を大きく変える教師はまずいません。教師は自分に合った話し方や指導法を身に着け、日々これを実践しています。
 教師は、子どもの数にお構いなしに授業をするという言い方もできますが、目の前にどのような数の子どもたちがいても、自分の特徴を生かしながら全力で指導するのが教師の性分だとも言えると思います。
 40人学級でも、能力別学級の低学力クラス担当であっても、教師は日々指導の改善に努め、かけがえのない子どもたちのために最善を尽くしているのです。

 教師たちは、自分たちが「かけがえのない存在」であることにもっともっと自信をもっていいと思います。

 

※1:ジョン・ハッティ著/山森光陽訳「教育の効果 メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化」図書文化 2018
※2:前掲書48p
※3:例えば「宿題」の効果はd=0.29です。効果量としては平均以下です。宿題を出す、出さないの違いは、身長に置き換えれば180cmと182cmの差しかありません。
※4:山森光陽「学級規模の大小による児童の過去の学力と後続の学力との関係の違い~小学校第2学年国語を対象として~」教育心理学研究 2016
※5:中室牧子「学力の経済学」ディスカバー・トゥティワン
2015