トルーマン・カポーティ 真実のテープ

© 2019, Hatch House Media Ltd.

 もとより、トルーマン・カポーティのあまり熱心な読者ではない。「ティファニーで朝食を」という映画は、原作とはかなり違っていたようだ。ベネット・ミラー監督の映画「カポーティ」では、カポーティの甲高い声を真似たフィリップ・シーモア・ホフマンの熱演もあってか、やっと作家カポーティの実像に、少しは近づいたのかなと思っていた。このほどのドキュメンタリー映画「トルーマン・カポーティ 真実のテープ」(ミモザフィルムズ配給)は、さらにまた、カポーティの実像により近づいたようだ。
 愛読書のひとつに、ハーパー・リーの書いた「アラバマ物語」(暮しの手帖社・菊池重三郎 訳)がある。グレゴリー・ペック主演で映画にもなった。このハーパー・リーは、カポーティより年上、カポーティが「冷血」を書くのに、多大の協力をしたと言われている。
 カポーティは、1924年、ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。10代でニューヨークに移り住み、「ニューヨーカー」誌の雑用係の職を得る。19歳で書いた小説「ミリアム」でデビュー。ついで、「遠い声、遠い部屋」を書く。傑作は、1949年に書いた短編集「夜の樹」(新潮文庫・川本三郎 訳)ではないか。以降、流行作家として、作品数は多くはないが、著名な作家の仲間入りを果たす。1966年の「冷血」が大ベストセラーとなり、ニューヨークのセレブたちとの交友が深まる。遺作は、3章ほどが「エスクァイア」誌に掲載された「叶えられた祈り」で、自身を重ねた作家のP・B・ジョーンズが登場する。1984年、「叶えられた祈り」は未完のまま、死去。
© 2019, Hatch House Media Ltd. 映画は、カポーティの評伝を書いたジョージ・プリンプトンが、カポーティを知る人たちにインタビューした膨大なテープ録音から始まる。「カポーティの生涯を辿っている。あなたの思い出も聞かせてくれないか」と。さらに、映画を監督したイーブス・バーノーが、プリンプトンのテープを基に、カポーティを知る多くの人物に、新たにインタビューした映像が追加されている。カポーティの私生活をよく知る養女ケイト・ハリントンを始め、多くの作家たちや、女優、ジャーナリストたちが登場する。
 絶賛もされるが、酷評もある。一人の人物についての表現の幅広さに、驚かれると思う。当然、見どころ、聴きどころは、トルーマンについて、誰がどのように語るか、だろう。ざっとの顔ぶれである。
 テネシー・ウィリアムズの晩年のパートナーだった作家のドットソン・レイダー。「叶えられた祈り」に登場するゲイの作家のモデルが、テネシー・ウィリアムズのようだ。女優のローレン・バコールは、1966年、カポーティがプラザ・ホテルで開催した「黒と白の舞踏会」というパーティに出ている。ベトナム戦争のさなかなのに、このパーティには、500人を超えるセレブが参加したという。NBCの「トゥナイト・ショー」の司会者、ジョニー・カーソン。「ニューヨーカー」誌の女性編集者バーバラ・ローレンス。「ハーパーズ・バザー」や「ヴォーグ」の女性編集者のバブス・シンプソンは、数多く、ニューヨークの社交界の取材をしている。作家のノーマン・メイラーは、カポーティとほぼ同じ時代の高名な作家で、カポーティの作品には厳しい批評もするが、十分その才能を認めている。もちろん、ハーパー・リーも登場する。
 そのほか、上流階級で、大金持ちの夫人たち。鉄道王コーネリアス・ヴァンダービルトの孫娘。CBS会長、ウィリアム・ペイリー夫人のバーバラ・ペイリー。「ワシントン・ポスト」紙の社主、キャサリン・グラハムなどなど。そのほか、誰が登場するかは、見てのお楽しみ。
© 2019, Hatch House Media Ltd. 映画をこよなく愛したカポーティは、多くの雑誌や新聞のインタビューにたびたび登場する。もちろん、映画にも出演する。ロバート・ムーア監督の「名探偵登場」や、ウディ・アレン監督の「アニー・ホール」だ。
 富と名声を得たカポーティは、「叶えられた祈り」という小説の執筆を、あちこちに喧伝する。しかし、ニューヨーク社交界の寵児となったカポーティは、享楽の日々を過ごす。酒に溺れ、ドラッグに手を出す。この新作は、多くの前払いを受けたにもかかわらず、なかなか出来上がらない。やっと、いくつかの原稿が「エスクァイア」誌に掲載される。小説での名前だけでなく、実名を晒して、セレブたちの私生活やゴシップを、白日のもとに晒すことになる。結果、トルーマンは、社交界から追放となる。ますます、酒とドラッグの日々を過ごす。
 翻訳された「叶えられた祈り」(新潮文庫・川本三郎 訳)の第3章「ラ・コート・バスク」を読んでみた。セレブたちが激怒するのも当然だろう。
 カポーティには屈折した過去がある。その反動として、社交界に憧れたのかどうかは分からないが、文学の作家なら、もっとストイックな生き方があったのではないかと思わざるを得ない。
 女性ともつきあったが、ゲイである。小柄でもある。多くのコンプレックスもあったと思われるが、結果としてカポーティは、生き急いだと思われる。
 未完の小説の3つの章を読む限りでは、どうやって、この3つの章が、ひとつの物語となるかは、とうてい理解できない。映画「トルーマン・カポーティ 真実のテープ」は、カポーティの真実にかなり近いものと思われるが、遺作をめぐっては、多くの謎も存在することをほのめかす。トルーマン・カポーティは、さまざまな意味で、興味尽きない作家だろう。

2020年11月6日(金)より、Bunkamuraル・シネマほか全国順次公開

『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』公式Webサイト

監督・製作:イーブス・バーノー
出演:トルーマン・カポーティ、ケイト・ハリントン、ノーマン・メイラー、ジェイ・マキナニー、アンドレ・レオン・タリー
2019年/アメリカ=イギリス/英語/98分/カラー・モノクロ/ビスタ/5.1ch
原題:The Capote Tapes
字幕:大西公子
字幕監修:川本三郎
後援:ブリティッシュ・カウンシル
配給:ミモザフィルムズ

対談:ともにかなでる教育実践

横浜国立大学教授 有元典文先生筆者

 前回は、「アートの生存価がある」という話と、「教育実践を主客不分離にとらえる」ことについて考えてみました。今回、引き続き有元先生がご登場いただき、事例を通して「教育実践をどのように眺めるか」まとめてみたいと思います。

授業はグループワーク

筆者:事例で取り上げるのは、鈴木陽子先生の連載「ともにかなでる図工室」における実践です(※1)。着目したのは鈴木先生がKくんに「声をかけない」と「声をかける」という二種類の指導を使い分けていることです。
 まず、鈴木先生は、「私は途中で『いろいろな用具も使ってみる?』と声をかけることができませんでした」と語っています。たぶん鈴木先生は「声をかけてはいけない」と直感的に察知したのでしょう。「K君に、いろいろな用具は今必要ないと思った」と述べていますが、それは察知した後に考えたことで、声をかけなかったのは、むしろ集中して製作する子どもの姿を我が事のように感じた自然な態度だろうと思います。
 一方で、積極的に子どもに主題や理由などを尋ねる場面もあります。鈴木先生は「何を感じているのかな。どんなイメージが広がりつつあるのかな」など子どもの発想や構想を知るのが「何より楽しみ」だからです。「楽しみ」とは、教師と子どもが同じ位置にいる感覚から生まれる言葉だと思います。また「尋ねる」は、発想や構想という訳のわからないものを、お互いに可視化する行為です。
 「声をかけない」からこそ子どもに能力の発揮が保障される。一方で「声をかける」ことで子どもとイメージを共有し、発想を確かにする。どちらも等しく「子どもの能力」を実現させていて、それを一緒に達成する共同実践者が子どもと教師です。
有元:校内研でいろんな授業を拝見してると、私には「授業とは歴史を通したグループワークだ」という風に見えます。「教師→生徒」という一方通行ではなく、「授業として観察可能な文化社会歴史的実践の45分だけのスナップショット」だ、と思うのです。そこに参加する皆が「共同の意志(いっしょにやろう)」を持って、共同に寄与する「何かをして」、あるいは、寄与しない「何かを積極的にしないことをして」、その上で授業は成り立っている。まさにグループワークでしょう。
 難しい学校も拝見するのですが、少なくとも授業が成立していることは、まずもって、そこにいる多くの参加者に「共同の意思」が「共有された事態」です。授業では、子どもたちが「そこにいること」をしていて、「出ていくことをしない」のです。同様に「手をあげること」をしたり、「頭を使うこと」をしたり、「話してる子を見ること」をしたりします。また、「ロッカーにしまったカブトムシの世話をしに行くことをしないこと」をしたり、「立ち歩くことをしないこと」をしたりしています。街角の「雑踏」にはこれほどの「共同の意思」はないです。
筆者:なるほど「雑踏」と「授業」を比べれば、「共同の意思」は実感しやすいですね。当たり前に授業が成立していることこそ、かけがえのない実践だと思えます。
有元:授業はグループワークで、学習は共同で、これに気付けば、そこを子どもに価値づけてあげれば、もっと多くの共同に満ちた将来の生活への練習に良いのではないかと考えています。

あたりまえの授業が素晴らしい

筆者:同時に、私は鈴木先生の実践を「子どもに素晴らしい能力」があって、それを「ベテラン教師が上手く見取った」という風にとらえてはいけないと感じました。その見方をしてしまうと「子ども万能主義」か「スーパーティーチャー主義」か、どちらにしても発展しないし、応用もできません。特別な出来事にしてしまってはいけないと思うのですが……。
有元:確かに先生たちは「共同の意志」のような日常的な「共同の価値」よりも、何か特別な「他の価値」に目を向けることが多いですね。私は、校内研講師として呼ばれることが多いのですが、そこでは、すでに先生や子どもたちが日常的に「もうできてること」「もうやっていること」を伝えるのが仕事だと考えています。「事実と指導が同時に生まれている(事実←→指導)」という原因と結果の同時生成に気付いてほしいからです。道具と学習の結果が同時に生成されていることの素晴らしさにも気付いてほしいですね。それは人間社会の成立と同じ素晴らしさです。このことについて、「パフォーマンス心理学入門」(※2)の拙稿で以下のように書きました。

 教育を皆が共同で発達する実践だ、と読み替えていきたい。
 教育はみんなで唄う歌のようなものだ。歌は誰かの声が歌なのではなく、個々の声の総和以上の全体が歌だということだ(※3)。教師と児童生徒は、拍手における右手と左手である。拍手の音はどちらの手のひらから出ているか?今その場で、拍手をしてみて、確かめてもらいたい。よく見て、よく聴いて、何度も繰り返して、確認してみよう。拍手の音声は右手からも左手からも鳴ってはいない。拍手の音声は右手と左手の関係の効果として一体として空気を震わす。水がその構成要素である酸素そのもの、水素そのものとは異なる性質を持つように、全体は部分の総和をこえている。ヴィゴツキーは共同作業の意義について以下のように記した。
 集団を形成した一人一人の子供は、ある種のより大きな存在と同化することで、新たな質と特殊性を獲得した。集合的活動(コレクティブ・アクティビティ)と協同の過程において、かれの水準は高められる。前からそこにあったというわけではなく、まさにグループづくりのその過程において、新たな形の生き方(人格)があらわになるのだ。(Vygotsky、2004、p.211)
 社会の縮尺図である教室は、個々の要素の足し算を超えている。できる−できない、うまい−下手、関与−無関与、初心−熟練、そうした多様な要素が混じり合って全体の効果をつくりあげるアンサンブルであり、その意味で社会の小宇宙だと言える。教科を学ぶだけではない。教科を学ぶことを通して、社会生活の基礎である「一緒に生きる技術」(※4)を、教科で学んでいる。

筆者:なるほど。そういえば、鈴木先生は、別の実践で、教科を通して共に学ぶことにも触れています。ある子どもが、自分で集めた「土」を絵の具にして絵をかくうちに、「雨や太陽、ざっそう、葉っぱ、虫、人とかが土といっしょになると、いい土になって未来に続く」ことに気付いたそうです。その後、「『大地はなぜ命を生み出すのだろう』というとても深い問い」を立てます。そのことを鈴木先生はすごく喜んで、「子どもたちが問い続けていくことのできる授業を編み続けたい」と述べています(※5)
 「編み続けたい」なんですよね。子どもも教師も、絵も、土も、主題も……。授業におけるすべてを並置された資源としてとらえ、それを編み続けるのが「授業だ」というとらえ方なのでしょう。
有元:「編む」というのはぴったりの表現だと思います。並置されたバラバラの糸を組み合わせて全体として一つのかたちを作ることだからです。教育は一緒に生きることで、皆が共同で発達する実践です。「発達の最近接領域」「足場かけ(スキャフォールディング)」「特別支援教育」「ユニバーサルデザイン」「障害の社会モデル」「指導と評価の一体化」など、様々なとらえ方がありますが同じことだと思います。結局、私たちは人間に関して「全体は部分の総和に勝る」(※6)ということを話し合っているのです。こうして久しぶりに対話するうちに徐々に創発してきた私たちの興味は「教育実践の基礎としての人間の弁証法的理解」といったところでしょうか? 教育、啓蒙、指導、支援、援助、治療と言った実践は、一方通行のようでいて、実は相手がいないと成立しない。子どもたちがいるから、私たちは「教育」をできているのです。そこで強調したいのは、「教育とは教育が適切に機能するための教え手と学び手による共同作業だ」、ということです。とても対話的なことなのだ、どちらともが共同で発達する実践なのだ、という事実です。
筆者:教育実践を見たり語ったりするときの基礎は、教育を「皆が共同で発達する実践」として見ることなのですね。学習指導案上は「子どもの事実→教師の指導」という因果になるけど、現場の実際は違っていて事実と指導は常に同時に生まれています。言語や式などの認知的な道具、あるいは文字通りの小刀や絵の具などの道具なども、学習成果や能力と同時に成立しています。それは、特別なことではなくて、まさに大勢の先生たちが実践している「普通」のことですよね。
 鈴木先生の連載の題名を、あらためて見ると「ともにかなでる図工室」なんです。子ども、先生、材料や用具、窓や光など、それらすべてがアンサンブルするインプロビゼーションの現場、それこそが「教育実践の基礎としての人間の弁証法的理解」なのかなと思いました。
 2回にわたった対談、多くの知見を得ることができました。有元先生、ありがとうございました。

※1:「ともにかなでる図工室 第四回 データの海」
https://www.zukonomikata-nichibun.net/tomonikanaderu04/
※2:香川秀太、有元典文、茂呂雄二著『パフォーマンス心理学入門—共生と発達のアート』pp.12-15、2019、新曜社
※3:「全体は部分の総和に勝る」アリストテレス The whole is greater than the sum of its parts.
※4:「教育において殻を破り自分を広げるべきは誰か?:いっしょに生きる技術としての発達の最近接領域(ダンスがひらく 学びの世界:殻を破る・自分を広げる)」『女子体育 59(6・7)』pp.12-15、2017、日本女子体育連盟
※5:「ともにかなでる図工室 第五回 大地はなぜ命を生み出すのだろう」
https://www.zukonomikata-nichibun.net/tomonikanaderu05/
※6:前掲註3