対談 『13歳からのアート思考』(前編)

末永幸歩 先生筆者

 『13歳からのアート思考(※1) 』という本が17万部のベストセラーとなりました。内容はまさに美術の授業!美術教育の本がベストセラーになるというは初めてのことでしょう。今回、著者の末永先生をお招きして、その背景やテーマなどいろいろなお話をお伺いしたいと思います。

美術の授業から生まれた本


筆者:まず『13歳からのアート思考』を出したきっかけをお聞かせください。
末永:学校で美術の授業をしていて、生徒たちの反応を見ていると「実はすごく面白いことしているんじゃないか」と感じることが多かったんですね。それで、授業の様子を書いた資料を配布するなど、他の先生にも何とか伝えようとしてみたんですけど、なかなかうまくいかなかったんです。でも夫に授業の話をすると……夫は普通のビジネスパーソンで、美術に興味のない人なんですが、それでも「面白いね」と言ってくれて。そこで自家製本というか、書いたものを冊子のような形にして、簡単な表紙も付けてみたんです。
 動画やWebという方法を選ばなかったのは、本は読者のペースで考えながら読むことができますし、一連のまとまりをもったものからです。授業って、一方向的に視聴させたり、一部分だけ切り取ったりしても伝わらないですよね。読者が主体になって考えたり、前後の流れが全部あってこその授業と思ったので、まとまった授業の内容を伝えるには本が一番いいんじゃないかと。そうしてまとめた本を、たまたま夫が仕事でつながりのあった方に渡して、そこからどんどん縁がつながり、出版することになりました。
筆者:美術の授業実践から始まって、生徒、家族、仕事先と、縁が転んでいったんですね。「世界は因果だけでつくられているわけではなくて、縁起で成り立っている」というのはお釈迦様がおっしゃったことらしいですが(※2) 、名画についても「名画は描かれたとたんに名画になるわけじゃなくて、いろんな縁や動きで名画になっていく」ことを、多くの人々が指摘しています。
 ちょっとWebを引けば分かりますが、19世紀まではダ・ヴィンチよりもラファエロの方が評価は高かったそうです。しかし1911年、『モナ・リザ』がルーブルから盗まれてしまいます。盗難後、『モナ・リザ』のあった場所だけぽつんと空いている写真を見ると、『モナ・リザ』はあくまでも多くの絵の一枚に過ぎなかったことが分かります(※3)。ですが『モナ・リザ』は盗難にも遭いましたし、アメリカに持って行ったときに700億円ぐらいの保険がかけられるなど、その後も様々な縁があって最高の名画になっていきます。
 美術そのものが縁起、そして美術の授業も縁起、そこからの出版も縁起ってなかなか素敵な話ですね。その後もいろいろな縁が広がったのではないですか?
末永:はい。この本を出してから、すごくたくさんいろんな場でワークショップ、講演会、授業をすることになりました。はじめは、本を読んでくださった方々がほぼ100%だったので、本に書いてある、これまで行ってきた授業を行えばいいかなと思ってたんですけど、そうはいかなかったですね。なぜかというと、そもそも授業がそうですけど、実際授業を見てみると、子どもたちの反応を通して気付いたり、伝え方によって違うニュアンスになっていたり……本書も、自分の授業をベースにしながら、出版するまでの1年間に元の授業とはずいぶん異なるものになりました。今も出版、講演会、ワークショップなどを通して、自分自身が変化している感覚です。
筆者:なるほど、今も縁起は進行中で、しかも、その縁を通して先生自身も変化し続けているんですね。この本は、その貴重なひとつの「切片」なんですね。
末永:そうかもしれません。

アートと子ども


筆者:
それでは本書の内容についてお話をいただけますか?
末永:本書は20世紀のアートに絞って、アーティストが苦悩したり、格闘したりしたことをもとに、読者と対話を進めています。
 そのひとつが、ピカソの「子供はみんなアーティストだ」という有名な言葉です。多くの人は、子どもが思い切り描いた絵を、私たちのものの見方で「アーティスティックだ!」ととらえる、そのような意味で納得していると思うんですが、決してそうではないですよね。
 子どもは自分なりのものの見方で世界を観ている。そこから活動が生まれていくというか、模索をしている。それは、ピカソはじめ20世紀のアーティストたちが試みてきたことでもあります。自分なりの見方で世界を見て、自分なりの答えをつくっていく……それを子どもは自然にできているんだという気付きがピカソの中にあって、「子供はみんなアーティストだ」と発したのでしょう。
筆者:だからピカソは「問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ」と続けているのですね。この「芸術家」は特別な技能や才能をもった美術家という意味ではないですよね。

末永:ええ、もちろん意識的にしているか、していないかでアーティストとの違いはあると思うんですが、2歳3ヶ月の我が娘を観ているとそう思います。目の前のものに対して、文化や社会的な見方に染まらない自分なりのものの見方で、その都度世界に出会っていると感じます。それこそがアート思考だと思うのです。
 例えば、つい最近の話なんですけど、娘がブロックで遊んでいたんですね。ブロックで滑り台をつくって、最初は小さい人形をシューッと滑らせて遊んでいたんです。そして、しばらくしたら娘自身がシューッと言いながら滑り始めたんです。娘のつくった滑り台は小さいですし、見た目も滑り台の要素はないんですけど、娘はトコトコと登って何度もシューッと滑るんです。それは、誰かに見せる演技ではありません。娘の見ている世界の中には、今、滑り台があって、それを滑っているんだなあと思いました。
 何かの対象をきっかけに心に浮かんだものを見ているというか、「見る」って広い意味をもっているなと思いました。もちろん娘の世界を100%理解できているわけではありませんが、娘になったつもりになって世界をとらえなおしてみると、もうひとつの全く違う縁が生まれるというか、パラレルワールドのように同じ世界が何層にも広がっていく感覚がありました。
 それは、私自身が20世紀のアートにすごく興味をもったことと同じなんですね。「アーティストたちは何を模索していたのか」ということを学んでいくうちに、目の前に見えている世界が「これって絶対じゃないのでは?」とか、ものの見方が広がったような感覚があって、そこですごくアートって面白いと思ったんです。
 そのときに近い感覚を、今、我が子も含めて子どもたちと出会う中で感じています。ですから、アートと子どもの世界は近いんじゃないかなと考えています。
筆者:娘さんと、お母さんと、ブロックと、様々な資源が取り囲む場で、アートな世界が成立しているんですね。
 末永先生は本書の中で、モネの睡蓮を見て「カエルがいる」と発言した大原美術館の有名な事例を紹介されていますが、私も西洋美術館で睡蓮を前にギャラリートークした際、「風が吹いている」「水面の中に地球がある」と言う子どもたちに出会ったことがあります。画面には水面だけが描かれていますが、画面の奥や手前にはたくさん世界があって、子どもたちはそこを見て話すんですね。子どもは、作品からいろんなものが見えるというか、世界に入り込むというか、それがピカソの言ったアートという意味なのかもしれません。アートと子どもは、世界との出会いという深いところでつながっているのでしょうね。決して目前の作品だけではないと思います。
末永:本当に、子どもが生まれてから見えてくるものが違ってきましたね。今は子どもと関わる時間が学びの時間になっているなと感じます。
筆者:あ、ひらめきました。子育てがアートと言ってもいいかも!「子育てというアートをやっているんだ」「世界が豊かに広がっていくことを体験する時間なんだ」と思えると、世の中の頑張っている保護者の方々を少しは応援できませんか?
末永:じゃあ、そんな本を一緒に出しませんか?(笑)


末永 幸歩(すえなが・ゆきほ)

武蔵野美術大学造形学部卒業、東京学芸大学大学院教育学研究科(美術教育)修了。
東京学芸大学個人研究員、九州大学大学院芸術工学府講師、浦和大学こども学部講師。
「絵を上手に描く」「美術史を丸暗記する」といった従来の美術の授業に疑問を感じ、アートを通して、自分なりのものの見方で「自分だけの答え」をつくることに力点を置いた探究型の授業を中学校や高等学校で実践してきた経験を持つ。
現在は、全国の教育機関や企業等で、年間100回を超えるワークショップや講演を行う。
日経STEAMアドバイザー、Eテレ「ノージーのレッツ!ひらめき工房」監修、ニュース共有サービス「NewsPicks」プロピッカーなど兼任。様々な企業や団体とアートや教育に関する事業共創に力を注いでいる。
著書に18万部を超えるベストセラーとなった『13歳からのアート思考』(ダイヤモンド社)、動画コンテンツに『大人こそ受けたい「アート思考」の授業 ─瀬戸内海に浮かぶアートの島・直島で3つの力を磨く─』(Udemy)などがある。

※1:末永 幸歩 『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考 』ダイヤモンド社(2020)
※2:奥村高明・有元典文・阿部慶賀編著「コミュニティ・オブ・クリエイティビティ ひらめきの生まれるところ」日本文教出版(2022)p.224
※3:ウィキペディア「モナ・リザ」(2022)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B6

Webマガジンまなびと:「学び!と人権」Vol.17

Webマガジン:「学び!と人権」Vol.17 “外国人の人権と教育(その2) 国籍による制約と差別” を追加しました。

外国人の人権と教育(その2) 国籍による制約と差別

 前回、外国人差別という場合、国籍による処遇の違いに関わる側面と、国籍よりも人種差別に関わる側面とがあると述べました。そのうち、今回取り上げるのは、国籍による処遇の違いという側面についてです。
 「日本の国籍がなければ権利が制約されるのは当たり前」と思っている人もいることでしょう。しかし、前回も触れたように、さまざまな国際人権条約の土台となっている国際人権規約では、「内外人平等」という原則が貫かれています。つまり、居住している国の国籍があろうとなかろうと、人権は同じように保障されなければならないということです。
 日本は同条約を批准していることから、基本的には憲法で定めている基本的人権の諸項目は、外国人にも適用されてしかるべきだということになります。しかし、実際には外国人には認められていない権利や、日本への同化を求める制度などがあります。これらを正当なものと見なすかどうかについては、議論が重ねられています。

国籍の性格と取得

 国籍の取得については、出生地主義と血統主義があります。出生地主義とは、どこで生まれたかを基本に国籍を認めるというもので、アメリカ合衆国はその例とされます。それに対して血統主義とは、父母の国籍に従って子どもの国籍が定められるというもので、日本がこの例だ とされます。
 出生地主義の国であれば、親が海外から来た人であったとしても、本人が国内で生まれたなら生まれた国の国籍をもてることになります。2世や3世にとってややこしいことはあるでしょうが、それは血統主義の場合よりもかなり少ないと考えられます。
 それに対して日本は血統主義です。血統主義の国では、いくら日本国内で生まれても、親が外国籍の人なら日本国籍を得ることになりません。血統主義はさらに、父系血統主義と父母両系血統主義の二つに分かれます。日本は、以前は父系血統主義でした。ですから、父親が日本人なら子どもも日本国籍になりますが、母親だけが日本国籍なら子どもは日本国籍にはなれなかったのです。しかし、女性差別撤廃条約の批准(1985年)とも関わって、日本は父母両系血統主義を導入(1984年)しました 。その結果現在では、父母のいずれかが日本国籍をもっていれば、日本国籍をもてることになります。その子どもは、二つの国の国籍をもっているということになります。ただ、日本の法律は原則として重国籍を認めていません。ですから、たとえば日本では、22歳になるまでに父母のいずれの国籍を取得するかを決めなければならないのです。
 ここで学校として知っておくべきは、原則として重国籍を認めていないということの意味合いです。国籍法第14条1項では、日本と他国の国籍をもっている人は、一定期間のあいだに「いずれかの国籍を選択しなければならない」とされています。しかし、この際、見逃せないのは、選択しなかったもう一つの国の国籍について、同法第16条1項では「当該外国国籍の離脱に努めなければならない」としていることです。「努力さえすれば良いのであって、必ずしも当該外国国籍を離脱しなくてもよい」とも解釈できるのです。近年、海外にルーツのある子どもやその保護者から、国籍について相談を受けたときのためにも覚えておくべき事柄だといえます。

名前と氏名

 国籍と関わって述べておきたいのは、「氏名」という枠組みについてです。現在でも多くの場合、「氏名」と「名前」は同じものと考えられていますが、実際には、かなり大きな違いがあります。
 日本で現在の「氏名」の形がとられるようになったのは明治時代に入ってからです。明治政府は徴兵・徴税などで全国民の管理が必要と考え、戸籍を整備するとともに1875(明治8)年にすべての人に対して「氏名」をもつよう求めました。氏は「家」の名称をさすものとされ、1898年の明治民法により同じ家族は同じ氏を名乗ることが原則とされました。それゆえ、結婚したときには、女性が男性の氏を名乗ること(これは逆もあります)が基本となったのです。
 つまり、近代の「氏名」という枠組みは、明治時代のイエ制度という土台の上に成り立っていた ということです。現代ではイエ制度はなくなっていますが、いろいろな制度によって、実質的に支えられているともいえます。その一つがこの「氏名」という枠組みです。
 世界を見渡せば、日本のような意味合いで「氏名」と同じ枠組みをもっている国は少数派です。たとえばレオナルド・ダ・ビンチやバラク・フセイン・オバマなどは「氏名」では説明がつきません。中国や韓国では、姓は生まれたときに定まるもので、結婚しても変わりません。どちらの方が近代的かという問題ではありません。いずれにも課題があり得ます。ここでのポイントは「異なる」という点です。中国や韓国の名前の構成と日本の名前の構成は異なるのです。(同じ日本でも、江戸時代までと明治以後とで、名前の構成は異なります。)
 戦前、朝鮮半島を支配していた日本は、この問題を「解決」するために朝鮮の人たちに「創氏改名」(1941年)を強いたことになります。「創氏改名」とは、この意味で、朝鮮の名前の制度変更を通して、民族文化の放棄を求めたものだということになります。名簿などで「氏名」という枠組みを使っている限り、厳密に言えば、わたしたちは諸外国の人たちに「ほんとうの名前を日本風の氏名に変えて書きなさい」と言っていることになります。
 そこで、外国人差別をなくし、国際的な取り組みをしようとする団体や個人は、「氏名」を書くよう求める書類を「名前」を書くよう求める書式に変えるなどしています。
 それでは次に、日本における外国人の権利に関わる主な課題について、考えてみたいと思います。

入国・出国・再入国の権利

 外国籍の人に対しては、出国の権利は認められていますが、再入国の権利が認められていません。マクリーン事件(最高裁大法廷、1978年)、森川キャサリーン事件(最高裁、1992年)では、外国人の再入国は、憲法上認められないとしています。けれども、外国人のなかには日本で生活基盤ができているという人もおり、とくに永住権のある外国人については認めるべきだという意見があります。永住権はなくとも、在留が認められている時期に一時帰国した場合などは、再入国が権利として認められてしかるべきだという意見もあります。

日本国内における外国人の政治活動

 日本国内で外国人が政治活動をすることは、憲法上保障されるというのが判例でもあり、通説でもあります。ただ、日本の政治的意思決定に関わるような運動は認められないとされています。また、政治活動をした外国人に対しては、在留期間更新にあたって拒否するなど、不利益のある処遇をしても憲法違反ではないとされています。これに対しては批判が強くあります。

参政権

 現在の法解釈や判例では、国政に関わる参政権は外国人に認められていません。地方参政権についても認められていない場合がほとんどです。但し、判例上、永住者については地方参政権を認めるべきだという見解が出されていることに注意するべきです。自治体の判断によってはできなくはないということであり、実際に「住民投票」のさいには外国人の投票権を認めている例もあります
 その点に関わって、次のような判例があります。

 「我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではない」(定住外国人地方参政権事件、最高裁判決、1995年)

住民投票条例案を審議する東京都武蔵野市議会 条例案は、市のおこなう住民投票に、外国籍をもつ市民にも投票権を認めるという内容でしたが、同市議会はこの条例案を否決しました。(2021年)

公務員になり管理職になること

 日本国籍を持たない人が国家公務員になることは原則として認められないとされています。国家権力の行使に携わる仕事が多いからというのがその理由とされています。一方、地方自治体の公務員については認められるという意見が強いと言えます。ただし、一概に公務員として定めるのではなく、国家の意思決定や権力行使への関わりが深いかどうかによって、認められる範囲を広げるべきだという意見があります。
 公立学校の教員についてもその一環として議論されてきました。日本政府は、1991(平成3)年3月に「在日韓国人など日本国籍を有しない者の公立学校の教員への任用について」という通達を出しました。現在の国の政策では、管理職になれない「任用の期限を附さない常勤講師」として採用することが認められています。管理職になれないという条件が付いているのは、管理職は国家権力の行使に関わるからだというのです。しかし、この通達の出された1991年当時、教育基本法では第十条 (教育行政)で「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」と定めていました。ですから、校長が直接責任を負うべきは、国民に対してだということになります。そして、ここでの国民というのは、国際人権規約に従った解釈をすれば、外国人も含むことになります。自治体によっては、1970年頃から在日外国人が教諭として正式に採用されてきましたから、そのような自治体にとって1991年に出されたこの政府の方針は、逆行しているといえます。
 2005年の東京都管理職選考受験訴訟上告審判決では、次のように述べられています。

 「地方公務員のうち、—省略—公権力行使等地方公務員の職務の遂行は、住民の権利義 務や法的地位の内容を定め、あるいはこれらに事実上大きな影響を及ぼすなど、住民の生活に直接 間接に重大なかかわりを有するものである。それゆえ、国民主権の原理に基づき—省略—原則として日本の国籍を有する者が公権力行使等地方公務員に就任することが想定されているとみる—省略—外国人が公権力行使等地方公務員に就任することは、本来我が国の法体系の想定するところでない」

社会権

 以下に述べるように、これまでの議論に従えば外国籍の人に社会権は認められないという見解が強いといえます。生活保護についても、塩見訴訟(最高裁判決、1989年)では、日本国民を在留外国人よりも優先することは違憲ではないとされました。また、大分外国人生活保護訴訟(最高裁判決、2004年)では外国人を生活保護法の対象とはせず、「事実上の保護を行う行政措置」としてのみ認めました。要するに、恩恵的な保護措置として認められたということになります。その結果、生活保護を打ち切られた場合、日本国籍をもつ人には認められている不服申し立ての権利が、外国人には認められていません。打ち切られた場合には、困難な状況に追い込まれやすいということになります。

教育を受ける権利

 日本の公教育を受ける権利については、2003年に総務省行政評価局から「外国人児童生徒等の教育に関する行政評価・監視結果に基づく通知― 公立の義務教育諸学校への受入れ推進を中心として ―」という通達が出されています。その中には次のような行があります。

 「我が国は、昭和54年に経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和54年条約第6号。以下「社会権規約」という。)を批准し、同規約第13条第1項及び第2項に基づき、我が国に在留する学齢相当の外国人子女の保護者が当該子女の公立の義務教育諸学校への入学を希望する場合には、日本人子女と同様に無償の教育が受けられる機会を保障することが義務付けられた。」

 この通達では、それぞれの外国人の母語などによる就学案内が必要だとされています。少なくとも通達が出された当時では、それが十分になされていませんでした。さらに、この通達によれば、「保護者が当該子女の公立の義務教育諸学校への入学を希望する場合」に限って公立義務教育諸学校への入学を認めるということになります。さきの就学案内を届けることが前提となりますが、保護者が日本の公立学校に就学を希望しなければ、保障の責任は発生しないということになります。
 その後、文部科学省は外国人の子どもの就学促進などについてくりかえし文書を出しています。たとえば、2020(令和2)年3月には外国人児童生徒等の教育の充実に関する有識者会議が「外国人児童生徒等の教育の充実について(報告)」を発表しています。そのなかでは、次のように述べられています。

 「さらに、外国人の子供たちが日本における生活の基礎を身に付け、その能力を伸ばし、未来を切り拓くことができるようにすることは、国際人権規約に基づく確固とした権利であり、『誰一人取り残さない』という発想に立ち、社会全体としてその環境を提供できるようにしなければならない。」(同報告4頁)

 同報告とも連動して2020年6月28日に施行された「日本語教育の推進に関する法律」をふまえて、文部科学省は同年7月1日に「外国人の子供の就学促進及び就学状況の把握等に関する指針の策定について(通知)」を出して、都道府県や政令市に対していっそうの取り組みを求めています。
 このように見てくると、外国人児童生徒の教育権は次第に明確に認められるようになりつつあるともいえますが、一方で現在の教育基本法がその第1条で「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と定めて、「国民の育成」に目標を置いていることを明確にしています。すでに数多くの外国人が日本で暮らすようになっており、その子どもたちが学齢を迎えています。その中には、親と同じ国籍をもち続けようとする子どもたちもたくさんいます。その人たちが安心して日本の公教育を受けられるようになるためには、教育基本法の教育目標観は、今後の日本の教育をめぐる議論のなかで整理されていく可能性がありそうです。

請願権

 日本国憲法第16条に「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、 平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」と定められています。「何人も」とされているので、これについては日本国籍の有無にかかわらず認められるとされています。

 以上は、外国籍を持つ人たちの権利を考えるうえで、ポイントとなることがらの一部を取り上げたものです。これらについては議論が繰り返されていますし、様々な意見があります。国籍によってこのように処遇が異なるということについては、それらを不公正な差別と捉えるのかどうか、これからも整理するべきでしょう。現状がどうなっているかについて理解したうえで、どういう方向が日本にとって望ましいのか、個々人としても考えていく必要があります。
 大事なことの一つは、人権というのは現行法に定められていないことも含むのだということです。たとえば、LGBTQの権利は現行法ではあまり認められていませんが、人権に依拠して取り組みが進められています。同様に、日本国籍を持っていない人の権利についても、人権に依拠して進めることが可能です。人権とは、法律を越えるものでもあるのです。
 今回のテーマに関わって、わたしの体験を一つだけあげましょう。それはいまから10年ほど前のニュージーランドでのことです。前後は省きますが、わたしはオークランドで財布を落としました。クレジットカードなども入っていたので、警察に行きました。そのときに対応してくれたのは、日本国籍を持つ日本人でした。ニュージーランドでは、日本国籍を持った人が、そのままで警察官になれるということを、そのときに教えてもらいました。

【参考・引用文献】
・山中俊之氏(著述家/芸術文化観光専門職大学教授)「元外交官が語る、日本は「血統」を大事にする世界でも珍しい国」(ダイヤモンドオンライン 2022.2.19)
・ジャーナリスト・評論家 福沢恵子公式サイト「1984(昭和59)年 国籍法改正。「父系優先」から「父母両系主義」へ」(働く女性の50年史(16))
・尾脇秀和氏「氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか」(ちくまWebためし読み 2021.4.13)
・佐藤雄氏「外国人の住民投票権、制定済みの自治体ではどんな議論があったのか? 武蔵野市で条例案審議」(ハフポストウェブサイト 2021.12.16)

第69回 近畿小学校社会科教育研究協議会 兵庫大会/令和4年度 兵庫県小学校社会科教育研究発表会/令和4年度 神戸市小学校社会科授業研究会

第69回 近畿小学校社会科教育研究協議会 兵庫大会/令和4年度 兵庫県小学校社会科教育研究発表会/令和4年度 神戸市小学校社会科授業研究会を追加しました。