平安京の誕生

平安神宮の創建

 京都の平安神宮は、平安遷都を行った第50代桓武天皇を祭神となし、平安遷都1100年の1895(明治28)年(皇紀2555年3月15日)に創建されたものです。その建物は、遷都1100年を記念して京都で開催された第4回内国観業博覧会が企画した大内裏の一部を8分の5の規模で復元したものを用いたため、社殿が正庁である朝堂院、拝殿が大極殿、赤く光る朱色の正面の門が応天門をそれぞれ模したものです。1940(昭和15)年(皇紀2600年)には、平安京における最後の天皇である第121代孝明天皇を祭神に加えました。
 明治維新で誕生した近代国家は、南朝ゆかりの湊川神社(明治5年創建 祭神楠木正成)などのように、歴史上で功績のあった人物を神に祀る神社の造営を初期から手掛けていました。しかし天皇を祀る神社は、1890(明治23)年(皇紀2550年)に神武天皇を祭神とした橿原神宮や、前述の平安神宮などと、明治20年代になってからなのです。
 ここには、ある記念の営みに合わせて歴史を想起させ、天皇をめぐる記憶の創成をめざそうとの営みがみられます。

桓武の王朝

 平安京を新たな京とした桓武天皇は、第40代天武天皇の王統が「天平」の元号とともにある不滅と信じていた仏教に支えられていた平城京を否定し、天智天皇の王統につらなる王として長岡京に新都を造営し、旧王権に代わる政治をめざしました。山部(やまべ)親王である桓武が天皇になるには幾多の政争がありました。父白壁(しらかべ)王は、天智天皇の皇子施基(しき)親王(春日宮御宇天皇と追尊=亡父、亡祖に尊号を贈ること)の子であり、天武の王統が天皇となるという不文律(「不改常典」)から見れば傍流にすぎません。
 白壁が孝謙・称徳後に即位して第49代光仁天皇となりえたのは、天武-草壁-聖武-孝謙天皇の姉妹たる井上内親王を妻としていたことで、次に井上の子である聖武天皇の皇孫他戸(おさべ)親王を皇太子として天武王統に戻すことが想定されていました。しかし、この天武王統回帰への想いは、井上皇后・他戸皇太子を死に追いやることで断たれ、山部親王が皇太子となることで桓武天皇への道が開かれました。
 山部・桓武は、百済系の下級氏族にすぎない高野新笠(たかののにいがさ)を母となし、土師(はじ)氏につらなる低い出自で、皇位につける者ではありませんでした。それだけに血脈の低さは、血で血をあらう政争を経て天武系から天智系に王朝交代が成立しただけに、己の王権をいかに正統なものとなし、天皇として統治するかが問われていました。そこで天武系の平城京に代わる新しい京を、天智天皇の近江京に近い地である長岡京に設定しようとしたのです。
 長岡遷都は、天武系から天智天皇-施基-白壁・光仁天皇という天智系王統への交代が天命による王朝交代であるとなし、その世界を具体化しようとしたものです。桓武は、天武系王統の復活を謀った氷上川継らを処断し、聖武天皇系の皇親や前代からの重臣を一掃して専制君主たる権力の集中をはかります。そこでは天智-施基-光仁という桓武天皇直系の父祖を顕彰し、光仁・桓武の名前である白壁と山部の使用を制限し、大津宮の近くに梵釈寺(ぼんじゃくじ※現在は廃寺)を創建し、光仁天皇陵を平城京北郊から父施基皇子の眠る田原(現奈良市)に移しました。
 かつ785(延暦4)年11月と787年11月に河内国交野(かたの)で天神祭祀を営みます。この祭祀は、中国歴代皇帝が営む郊祀(こうし)に倣ったものです。郊祀は、毎年冬至に都城の南郊で天帝を祀る儀礼です。桓武はこの儀礼に倣い、円丘を築き、犠牲を捧げ、唐と同じような祭文を読み上げさせました。唐では天帝と太祖または高祖を祀りましたが、桓武の郊祀では光仁天皇が祀られていました。この営みには光仁天皇を新王朝の創始者とみなす想いが読みとれます。ちなみに交野の地は、長岡京の南方10キロメートルの地、桓武の出自にかかわる百済系氏族である百済王氏の本拠地です。まさに桓武天皇は、百済系などの渡来系氏族を権力の基盤にとりこみ、天武-聖武天皇の王統を否定し、新たに天智-光仁-桓武天皇の王統を宣言したのです。

※一連の皇室系譜については
Vol.38 古代、生死をかけた政争劇
Vol.39 古代、掟に縛られた政争劇 参照

王城の地・平安遷都

平安神宮

平安神宮(京都市)

 長岡京遷都は、皇太子早良(さわら)親王を擁立する平城廃都の反対勢力による藤原種継の暗殺、飢饉疫病の流行で頓挫しました。ここに793年正月に山背国葛野(かどの)郡宇太(うだ)が検分され、10月に遷都詔を発し、山背国を山城国に改称、平安京と命名します。この命名は、平城京や長岡京などいままでの都城が地名を冠したのと異なるもので、即位から遷都をめぐる政争がもたらした非業の死をめぐる怨霊と飢饉・疫病・天災の跋扈に怯える天皇の「平安」への祈念をこめたものといえましょう。この地は、太秦の地を中心に渡来系氏族である秦氏の拠点があり、「四神相応の地」にして「山河襟帯自然城」と形容されています。東の流水が青龍、南の沢畔が朱雀、北の山が玄武の諸徳を備えた北高南低の地勢が「黒龍水性の地」とみなされた理想的な王城の地とみなされたのです。
 理想的な京とみなされた平安京は、平城天皇の奈良への還都をめぐる藤原薬子の変を鎮圧した嵯峨天皇によって、己の王権を正当化すべく「万代の宮」と宣言されます。かくて平安京は、王城の地たる京都として、1869(明治2)年の東京遷都まで日本列島の都として君臨しました。京都は、明治維新後の国家においても、皇位継承の大嘗祭が京都御所で営むと皇室典範が規定しているように、王城の地でありつづけたのです。
 桓武天皇は、平安京を 1.条坊のマス目にあたる「町」を40条(約118メートル)四方に統一し、 2.羅城門の左右の東寺・西寺を置き、他の寺院建立を認めませんでした。この処置は、旧来の都城が官寺・私寺を不可欠な要件としたのに対し、旧来の仏教勢力との断絶を表明したものです。まさに平安京は、内裏-大極殿-朝堂院という中枢が集中した平安宮のもとに、新たな王城の地に相応し京として造営されていくのです。

 この、時空間で営まれた世界は、枕草子や源氏物語が描き、蜻蛉日記をはじめとする多様な日記等に読みとれましょう。その王朝の世界は、桓武天皇が自らの存在を誇示した天神の祭祀が物語るように、強く唐の世界に規定されたものでした。


国風文化とナショナリズム

清少納言 VS 紫式部

 清少納言は女房名で、父である歌人清原元輔の清原の姓から「清」と、親族の役職名から「少納言」にしたといわれています。一条天皇の993(正暦4)年冬頃から中宮定子に仕え、博学にして才気煥発な言動で定子をめぐる後宮をひきたて、主君定子の恩寵をこうむり、宮廷社会に名をなしました。その作品『枕草子』は、歌枕などの類集である「ものはづくし」、詩歌秀句、日頃の観察記、世間の噂、人物評をはじめとする宮中生活の記録ともいうべき回想で、作者清少納言の好奇心のおもむくままに見聞した世界が認められています。しかし、その才気煥発な言動を紫式部は『紫式部日記』で声高に批判しております。

 清少納言こそしたり顔にいみじうはべりける人さばかりさかしらだち、真名書き散らしてはべるほどもよく見れば、まだいと足らぬこと多かり、かく人に異ならむと思ひ好める人はかならず見劣りし行末うたてのみはべればえ心になりぬる人はいとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみをかしきことも見過ぐさぬほどにおのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし、そのあだになりぬる人の果ていかでかはよくはべらむ

 若い公達を手玉にとりしてやったりと得意顔する女清少納言、「したり顔」して「真名」たる漢字漢籍の知識をひけらかしているが、よくみるとまだ足らないことが多いとなし、こんな人の行く末にいいことがあるはずはないとまで述べるほどに、清少納言への敵愾心を燃やす『源氏物語』の作者紫式部の姿には、「女のいくさ」のすさまじさが読みとれます。
 紫式部は、「御堂関白」藤原道長に寵愛され、道長の長女である中宮彰子に仕えた女房でした。清少納言が仕えた定子は一条天皇より三歳年上で、父関白道隆によって中宮とされましたが、道隆の死後は三男の道長が権力を握り、その娘の彰子を中宮となし一人の帝王に二人の中宮という「一帝二后」という事態の中で苦しみ、その後宮も寂しくなります。
 「望月のかげあることなき」といわれるほどに権力をふるう道長の下にある紫式部は、このような敵対関係にある宮中にあって、中宮定子の女房清少納言に辛辣な眼を向けたのです。ちなみに紫式部は、藤原北家の出身である越後守藤原為時の娘、母は藤原為信女で、中宮定子が没後に中宮彰子に仕えます。その点では、清少納言が定子の後宮に奉仕していた時期とすれちがっていますが、彰子の権勢を一身に担う者として、中宮定子の高名を轟かせた清少納言の存在が許せなかったのではないでしょうか。

「真名」という漢籍をめぐる素養

 中宮定子の後宮風景は『枕草子』の「雪のいと高う降りたるを」にうかがえます。ある雪の朝、中宮定子が「香炉峰(こうろほう)の雪、いかならむ」と問われ、清少納言は御簾を巻き上げます。女房たちは、この清少納言の所作に、「さることは知り、歌などにさえ歌へど、思ひこそよらざりつれ」と言います。定子に仕える女房達は、清少納言が唐の詩人 白居易の「香炉峰雪撥簾看(香炉峰の雪はすだれをかかげてみる)」という詩をふまえたものであることを、すぐに理解したのです。ここには、後宮に奉仕する女が和歌のみならず詩文の知識、漢籍への素養をも身につけていたことがうかがえます。
 清少納言を論難した紫式部は、人前で「一」という文字すら書けないふりを『紫式部日記』に認めていますが、『源氏物語』に詩文の知識がちりばめられておりますように、詩文をささえる漢籍への造詣がありました。いわば真名は、男のもの、表の世界といわれていましたが、女にとっても身につけるべき素養だったのです。
 清少納言と紫式部という二人にみられる女のいくさは、平安朝の宮廷文化を支えている世界の奥深さ、真名という表層にある漢籍という唐様に対して、仮名という国ぶりをあらわす国風が深く根を張っていたことがうかがえましょう。
 平安朝の世界は、「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとてするなり」と書きはじめた紀貫之の『土佐日記』が先導することで、男が政務の記録を漢字で記した日記をして、仮名で和歌と同じように己の心情を吐露する日記を誕生させました。こうした風潮は、漢籍に象徴される唐風の世界に対し、国風-国ぶりへの眼を大きくさせます。
 この営みは、歴史の記述において、摂関政治の時代を「国風文化」なる呼称で位置づけさせることともなりました。いわば「国風文化」は、列島にもたらされた中華の文明-唐風の世界が倭-日本の大地にとりこまれ、新たな色づけで国ぶりに塗り替え、意味づけられていくことでした。しかしその眼は、大宰府交易への強い期待、唐物崇拝が根深いように、中華の国への憧憬が渦まいていました。清少納言と紫式部が体現している世界は、このような唐風と国風が渦巻くなかで、国ぶりを問う眼が大きく育とうとしていた気分を代弁していたのです。

ナショナリズムに呼応して

 現在の歴史の教科書では、10~11世紀を「国風文化」あるいは「国風の文化」といった言い方で、日本の風土や日本人の人情・嗜好に相応した「優雅」で「洗練」された文化、日本文化が生まれてきたという記述、仮名文字・古今和歌集に代表される和歌、土佐日記などの仮名の日記、その他様々なかな物語が紹介され、寝殿造などの国風美術等への言及をしています。また、浄土信仰がおき仏教の日本化を読むことができます。この「国風文化」なる記述は、1930年代の国体明徴の時代風潮をうけ、東京帝国大学教授川上多助『平安朝史』(『総合日本史大系』)で9世紀初頭を「唐風文化」となし、10世紀以降を「公家文化」と呼び、「国風」を「公家文化」の一要素としました。
 現在の「国風文化」論は、こうした位置づけを受け、日本敗戦と占領下の1950年代に民族独立を課題とした日本共産党の政治綱領と結びついて展開されたものなのです。大阪市立大学文学部名誉教授 河音能平(かわね よしやす)は、敗戦の1945年以後における「新しい『民族問題』、発達した資本主義国である日本がアメリカ帝国主義に対して従属的同盟におちいったという新しい事態に直面」したという認識をふまえ、「日本『民族』の形成過程を科学的に明らかにすることによって、そこから真に国民的=革命的な歴史意識をくみだそうと」する研究のなかから、「日本民族文化」形成の重要な契機として「国風文化」を把握したいとの課題を提示しました(『講座日本文化史2』より「『国風』的世界の開拓」 三一書房刊 1962年)。
 このような論調には、「国風文化」を問い質し、「国風」とあえて強調することで、民族独立へのロマンを奏でる想いが読みとれましょう。この強きナショナリズムへの眼が説き聞かせた「国風文化」にこめられた「国風」なる呪縛から自由になるには、清少納言や紫式部が垣間見せた後宮の暗闘を問い質すなかで、唐風への強き憧憬を凝視し、「国」に託された世界を解析することが問われているのではないでしょうか。


古代、掟に縛られた政争劇

「日本」であるという国のかたち

 「日本」が日本であるのは何かとの問いは、幕末の19世紀日本が欧米諸国の外冦(がいこう・国外から敵が攻めてくること)に対峙していく精神的拠り所として、日本の国のかたちを「万世一系の皇統」に求める想いをうながします。この想いは、平田篤胤(あつたね)没後の門人である山中八幡宮(現愛知県岡崎市)社司竹尾正胤に、『大帝国論』を書かせました。その冒頭を「凡斯一地球の中にて、西夷等が帝国と称する国六あり」と書きはじめ、「西夷」であるヨーロッパが帝国と呼ぶのはアジアでは皇国(日本)と支那、ヨーロッパではドイツ・トルコ・ロシア・フランスの六国。その他は王制の国もあれば共和政治の国もあり、イギリスが「万国に縦横して、兵威甚だ盛なり」といわれる中、いまだに帝号を名乗らない程度の国にすぎず、他はたかが知れたものとします。この六国のなかで唯一正統な帝国は独り、わが大皇国日本のみが全世界に確固たる大帝爵国であり、支那・ドイツ・トルコ・ロシア・フランスは勝手に帝国を名乗る偽帝国だとみなします。日本のみが正統な帝国であるのは、王位纂奪(さんだつ)の歴史がない、日本だけが万世一系の皇統の国であるからだと誇ります。
 この「万世一系」の天皇の国という言説は、日本の歴史を呪縛し、「国史」の枠組みを規定しております。この「国史」的な日本の歴史を問い質すためにも、「皇統の国」という神話を支えてきた皇位継承の論理と実態がもたらした歴史の闇に目を向けたいものです。そこで平城の盛儀をもたらした第45代聖武天皇を誕生させた世界をうかがうこととします。

「不改常典」という掟

 第38代天智天皇は、子である大友皇子の即位を実現すべく、皇位継承法を定めます。その法は、707年(慶雲4)元明天皇が即位の詔で

「天地と共に長く、日月と共に遠く、改(かわ)るまじき常の典(のり)と立て賜い、敷賜える法」

 と述べた、皇位継承の大典、「不改常典(ふかいじょうてん)」といわれるものです。天智天皇が申し渡したという皇位継承の約束である「不改常典」は、天智の子である大友皇子を壬申の乱で亡ぼし、皇位を奪った天武-持統の皇統を守護するために不磨の大典とされたのです。
 第41代持統天皇は、嫡子である皇太子草壁が亡くなったので、孫である草壁の子軽皇子(第42代文武天皇)を15歳で即位させ、上皇として後見します。文武の後継である嫡子首(おびと)は、「年齒幼稚」で即位できないため、草壁の皇后が第43代元明天皇、ついで草壁の娘である氷高内親王が第44第元正天皇となります。
 天皇の即位は、冒頭に「詔して曰く」とし、

「現御神と大八嶋国知らしめす天皇が大命らまと詔りたまう大命を、集り侍る皇子等・王等・百官人等、天下公民諸聞きたまへと詔る」(第42代文武天皇)

「現神と八洲御宇倭根子(やまとねこ)天皇が」(第43代元明天皇)

「現神と大八洲知らしめす倭根子天皇が」(第45代聖武天皇)

「現神と御宇倭根子天皇が御命らと宣りたまう御命を、衆聞きたまへと宣る」(第46代孝謙天皇)

 等々が述べていますように、「現(御)神」である現人神たる天皇の言葉を伝えることで、天皇位の継承がなされていきます。
 聖武天皇の即位は、首皇子として、天武-持統-草壁の皇統を一身に担う帝王として期待されていました。首皇子は、即位の詔で

「元正天皇は、この天下は父である文武天皇から私に賜ったもので、私が年齒幼稚、年齢が若く、重責に耐えられないので元明天皇に譲位され、それを元明は娘の元正に譲位したが、その時に改るまじき常の典(不改常典)にもとづき必ず私に皇位を伝えるようにと仰られた。いまここに元正天皇から譲りを承て即位する」

 と、宣言します。いわば文武後の二代の女帝は、首皇子が天皇位につくまでの中継ぎの女帝として、天武の皇統を不磨の大典として守護したわけです。
 こうした処置は、天皇になるには一定の年齢、少なくとも30歳以上との不文律があったことによります。たしかに父の文武は15歳で即位しましたが、この即位は異例なことでした。ここには、祖母の持統が上皇として文武との共治体制をとることで、天武・持統の王統を守護しようとしたのです。それだけに聖武天皇の誕生は待ちに待った盛典であり、その治世が期待されました。いわば「不改常典」は、文武の嫡子首を即位させるために活用され、男系嫡子相承の論理として強調されております。

聖武の王統

学び!と歴史Vol.38

皇室系譜(一部)

 ここに聖武は、「不改常典」に託された責務をはたすべく、王朝の盛儀の実現に努め、血脈の継承をめざします。聖武と光明子との間には、阿部内親王(後の孝謙天皇)、次いで基王が誕生しました。基王は生後33日に早々と皇太子となり、嫡子継承の道が天下に示されます。しかし皇太子基王が誕生日を迎えることなく亡くなったことで、聖武は皇位継承者に苦慮します。嫡系相承を旨とする聖武は、唯一の皇子安積(あさか)でなく、女子であっても嫡系であり年上の阿部を女性の皇太子とします。こうして天武-持統-草壁-文武-聖武という天武の王権は、聖武天皇が「不改常典」を己の嫡孫継承という血の論理をさらに強く強調することで、聖武王権へと収斂(しゅうれん・ひとつにまとまること)していくことになりました。いわば「不改常典」という掟は、時の王朝の想いによって運用され、皇位継承の正統性を競うことで、政争の渦を拡散していく要因ともなったのです。
 第48代称徳天皇(第46代孝謙天皇)は、死の床で聖武天皇の第一皇女で、県犬養宿禰刀自(あがたいぬかいのすくねとじ)が母である井上内親王を妻とする白壁王を皇位継承者となし、第49代光仁天皇の即位となりました。光仁は、天智系ですが、井上によって聖武の血脈につながるとみなされたのです。そのため光仁天皇の即位では、

「詔して曰く、天皇が詔旨らまと勅りたまう命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民衆聞きたまへと宣る」

 と、「現(御)神」の文言がありません。このことは、光仁が天武-持統-草壁につらなる聖武天皇系でない、聖武の血を継承しない天智天皇系であったことによりましょう。ちなみにこの書式は、中事・小事に関する詔勅の形式であり、左右大臣以上の任官や五位以上の叙任などに用いられたものです。
 井上内親王は皇后となり、その子他戸(おさべ)親王が立太子されました。ここには、県犬養氏の存在を媒介として、聖武天皇の血筋を皇統にしていくとの強い想いがみられます。この想いは、773年(宝亀4)3月に井上皇后が光仁に代わり、聖武に連なる他戸皇太子の即位を望み巫女に天皇を呪い殺す祈祷をさせた(巫蠱大逆・ふこたいぎゃく)として皇后の位を剝奪され、5月に他戸親王も廃太子となり、挫折します。この謀略は、光仁の第一皇子山部親王を皇太子にし、聖武王朝に距離をとろうとの勢力によるものです。こうして山部親王は翌774年1月に皇太子となります。

桓武天皇の想い

 山部は、母を百済の武寧王を祖とする和氏(やまとうじ)出身の帰化系氏族である身分の低い高野新笠が生母でした。781年(天応元)に即位(第50代桓武天皇)したものの、桓武は氷上川継(ひかみのかわつぐ)ら天武系から皇統の正統性を否定されます。ここに桓武は、聖武天皇との擬制的関係を否定し、己の皇統を天智天皇に連なるものとなし、天武-持統-草壁-聖武という天武系を否定し、新たなる皇統への道を歩むこととなります。
 こうして桓武は、聖武陵をはじめ天武系後胤の山陵に奉幣することもなく、聖武没後51年後の807年(大同2)に聖武天皇を国忌(薨去した日を国家の忌日として政務を休み、追善供養を行う)からはずします。まさに平安王朝は平城の盛儀を担った聖武天皇の存在そのものを疎ましくみなしていたのです。なお、2001年(平成13年)の天皇誕生日前の記者会見で、天皇が桓武天皇にふれた発言が「皇室百済起源論」として、韓国で話題となりました。いわば万世一系の皇統なる歴史は、「不改常典」なる幻想に踊らされ、魑魅魍魎(ちみもうりょう・さまざまな妖怪変化)が跋扈(ばっこ・のさばり、はびこること)した闇を見つめることなき世界の産物ではないでしょうか。


古代、生死をかけた政争劇

 古代大和の地では、大王(おおきみ)から天皇と言われるなかで、政治の中心である天皇の位をめぐり激しい政争が渦まいていました。この権力闘争は、昨今の政争劇のようなものではなく、生死をかけたものでした。その一端は前回の「平城京・天平政治の舞台裏」(Vol.37参照)で垣間見ましたが、ここであらためて、血ぬられた王権をめぐる闘争がもたらした世界を読み解くこととします。

権力をめぐる生と死の約100年

587年

蘇我馬子、穴穂部皇子を殺させ、ついで物部守屋殺害、物部氏滅亡。

592年

馬子、東漢直駒に崇峻天皇を殺害させる。
推古天皇、廐戸皇子(聖徳太子)を皇太子として、万機を委ねる。

604年

聖徳太子、冠位・憲法を定める。

628年

推古天皇、病重く、皇位に関し田村皇子と山背大兄王に詔す。

629年

推古歿、大臣ら天皇の璽印(じいん)を田村皇子に献ず。皇子即位、舒明(じょめい)天皇。

642年

舒明歿、皇后即位、皇極天皇。蘇我入鹿、国政を執る。

643年

蘇我入鹿、聖徳太子の王らを廃し、古人大兄皇子を立て天皇にしようと謀る。
聖徳の子山背大兄王を自刃においこむ。

645年

中大兄皇子・中臣鎌足、蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや・現奈良県明日香村)の大極殿にて殺す。蝦夷、「天皇記」「国記」等を焼いて自害。
蘇我氏滅亡(大化改新)。孝徳天皇、中大兄皇子を皇太子に立てる。

649年

右大臣倉山田石川麿、皇太子暗殺と讒訴(ざんそ)※1 されて自害。

655年

孝徳歿、皇祖母(皇極)重祚、齊明天皇。中大兄皇子が再び皇太子。

658年

孝徳の皇子有間皇子(ありまのみこ)を謀叛の廉(かど)※2 で紀伊国(現和歌山県)藤白坂で処刑、関係者を処断。

661年

天智天皇(中大兄皇子)即位。

668年

皇弟大海人皇子を皇太子に立てる。

671年

大海人皇子、東宮を辞し、沙門に入り、吉野に入る。
天智の子大友皇子が皇太子となる。天智歿。大友皇子(弘文)即位。

672年

大海人皇子、近江の朝廷に異をとなえ兵を起す(壬申の乱)。
大友皇子(弘文)、敗死。

673年

大海人皇子即位、天武天皇となる。

681年

草壁皇子を皇太子に立てる。

683年

大津皇子、朝廷の政治を行う。

686年

天武天皇歿。鸕野(うのの)皇后が政治を執り、大津皇子、謀叛の嫌疑で死刑。

689年

皇太子草壁皇子の死により即位、持統天皇となる。

697年

持統天皇譲位、太上天皇と称す。
皇太子天武皇孫、草壁皇子第二子珂瑠(かる・母元明天皇)が即位、文武天皇となる。

権力闘争の相貌

学び!と歴史Vol.38

皇室系譜(一部)

 大和王朝といわれる日本国の確立は、蘇我・物部の抗争、大王家たる天皇一族と蘇我の対立、天皇家の一族内における権力闘争へと血で血を洗う争いで彩られています。蘇我入鹿親子は、家を宮門と称し、その男女を王子とよばせ、城册(城郭)を築き、兵庫を構え、兵に家を護らせ、天皇に代わりうる者としての力を誇示したと糾弾されました。ここには、蘇我のような力ある氏からみれば、王のなかの王である大王の座が流動的であり、崇峻天皇殺害にみられるように、天皇位が大臣らの意向に強く左右されるものであったことがうかがえます。
 それだけに天皇になった者は、己の血筋に継承させるべく、他氏との合従連携という政治工作で天皇の座を守り、さらに天皇になりうる者の系譜を排除することに奔走しております。そこでは天皇家の一族内での陰惨な暗闘が繰り返されていました。中大兄皇子は、孝徳天皇を擁立、皇太子として大化改新後の政治の実権を中臣鎌足と共に掌握しました。孝徳は、難波長柄豊崎宮(なにわながらのとよさきのみや・現大阪市中央区)に都を遷して己の政治を執ろうとしますが、皇太子中大兄が飛鳥に引き揚げ、皇后間人皇女にも去られ、失意の内に歿しました。中大兄は、即位せずに母である皇極が重祚して齊明天皇となり、再びその皇太子として政治の実権をにぎりつづけます。
 こうした中大兄皇子にとって目ざわりな存在は、齊明の下で営む己の施政に異をなし、心の病を装いて紀の国牟婁(むろ)の湯(現和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に逃れた孝徳の子有間皇子(母は安倍内麻呂娘小足媛・おたらしのひめ)です。有間皇子は、謀叛の密告で捕縛され、尋問に対し「天と赤兄だけが知っており、吾は全く知らない」と応えています。父舒明・母皇極の子たる中大兄皇子は、有間皇子を殺すことで、欽明-敏達-推古(敏達皇后)-舒明-皇極(舒明皇后)に連なる王統を守ろうとしたのです。
 中大兄皇子は、自己の王統における異質な存在を排除した後に即位、天智天皇となり、皇極という母を同じくした弟である大海兄皇子を皇太子となし、政治の表舞台に立ちます。天智の弟大海人皇子は、有間皇子の謀殺をはじめ、血で血を洗う政争場裏に生きた者として、天智の子大友皇子の存在が大きくなるにつれ、己の身が危うくなることを怖れ、沙門して吉野に逃れました。
 この吉野行きは「虎を野に放つようなものだ」と言われ、大海人皇子を慕う者は吉野に集まります。こうして天智王朝に代わる天武王朝への道が開かれたのです。ここに武力で天皇位を奪取した壬申の乱の勝利者である天武天皇と皇后鸕野讃良(うののささら)には、己の血筋こそが何よりも天皇位を受け継ぐ正当なものであり、何人も侵すことが許されないものとみなされたのです。天武没後に鸕野皇后は、天武の正統な王統譜を守護すべく、わが子草壁皇子が亡くなったので即位します(持統天皇)。
 持統天皇は、己の血に連ならない天武の第三皇子である大津皇子(天智天皇皇女大田皇女)を殺し、我が子草壁の血筋を守るべく、草壁の子珂瑠を即位させ(文武天皇)、初めての太上天皇となることで天皇の継承を見守り、異質な存在を死に追いこんで行くことをいといませんでした。
 まさに天武・持統の血筋こそは、正当なる王権の証とされ、聖武天皇に体現される平城京の政治と文化を担います。その舞台裏では、「平城京・天平政治の舞台裏」に描かれたような、多くの血が流される世界が展開しておりました。

悲愁を詠う

 政治の敗者は、己が非命を歌に託し、世に問いかけています。有間皇子が詠んだという辞世歌が『万葉集』におさめられています。ただし折口信夫(おりくち・しのぶ)は後世の人が皇子の心を詠んだ歌ではないかと述べています。

磐代の浜松が枝を引き結び真幸あらばまた還り見む
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

 大津皇子は、「体格容貌がたくましく、気宇壮大にして、幼少より博覧強記で、成人して文武に優れ、自由闊達な人柄にして、皇子でありながら謙虚、人々を厚くもてなし、人望をあつめていた」と『懐風藻』が認めており、『日本書紀』も皇子を讃えています。天武は、この皇子に大きな期待をよせ、政治をとらせました。それだけに持統天皇は、その存在が疎ましく、わが子草壁のためにも殺さねばならなかったのです。姉大来皇女は、伊勢神宮の斎宮でしたが、刑死した大津皇子が二上山に移葬されたとき、弟を悼み、詠みました。その歌には嘆きの深さが読みとれます。

うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといわなくに

 歴史を読む作法で求められるのは、敗者に想いをよせ、敗者の目で時代に想いをはせ、勝者の目で綴られてきた歴史を問い質すことではないでしょうか。

※1:人を陥れるために悪く告げ口をすること
※2:ある事柄の原因・理由となる点


平城京・天平政治の舞台裏

 今年は、710年の平城遷都から1300年ということで、マスコットキャラクターの「せんとくん」を掲げた一大イベントが企画され、奈良への観光客の誘致がはられています。テレビでは、「大仏開眼」が話題をよび、シルクロードにつながる日本の道と重ね、日本の原郷、「日本のはじまりの奈良」への関心が呼びおこされています。そこには、昨今の日本をおおう閉塞感への苛立ち、ある種の「美しい国日本」を言挙(ことあ)げすることで「日本民族」の誇りを感じたいとの想いが読みとれます。この「天平」なる時代はどんな時代だったのでしょうか。

藤原政権への道

平城京 朱雀門 奈良県奈良市

平城京 朱雀門 奈良県奈良市

 平城京を都とした8世紀は、律令体制の下で、シルクロードにつながる仏教文化が栄え、いわゆる天平の盛事とよばれる世界が展開していました。しかし、王朝政治の底流では、激しい政争が絶え間なく続き、藤原一族の覇権が確立されていきます。
 律令政治は太政官が政治の中心となり、太政官は公卿といわれる太政大臣・左大臣・右大臣各1名、大納言2名、中納言3名、少納言3名と数名の参議で構成されています。この首脳部は、皇親と石上(いそのかみ)・多治比(たじひ)・紀・粟田・大伴・巨勢(こせ)らの有力豪族と大化改新の功労者藤原氏からなっていました。藤原氏は、大宝律令制定の中心であった藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘宮子が文武天皇の夫人となり首皇子(おびとのみこ。のちの聖武天皇)を生んだことで、天皇家の外戚として力をつけていきます。しかし720年(養老4)に右大臣であった不比等が死んだため、天武天皇の長子高市皇子(たけちのみこ)の子である長屋王がやがて左大臣として力をふるったのです。

学び!と歴史vol37復元図

平城京 復元図

 不比等のあとを継いだ藤原武智麻呂(むちまろ)ら4兄弟は、724年に即位した聖武天皇の夫人光明子(こうみょうし=安宿媛・あすかべひめ)が不比等の娘で武智麻呂の異母妹であったことで、長屋王に対抗しました。727年に光明子が生んだ基皇子(もといのみこ)が満1歳の誕生日を迎える前に病死したのは長屋王の呪いだとして、長屋王一族は滅ぼされました。長屋王は、臣下の出身が皇后になった前例がないとして、光明子が聖武天皇の皇后になることに反対したからだったのです。武智麻呂ら藤原一族は、長屋王が密かに左道を学び国家を傾けようとしているとの密告をもとに、長屋王邸を包囲攻撃し、王と妻子を自害させました。ここに藤原氏は、公卿9人のうち4人を占め、その主導する政権を確立していきます。

長屋王の祟り

 藤原一族による天平の政治は10年近くつづきましたが、737年に、2年前に新羅からもたらされた裳瘡(もがさ、天然痘)で4兄弟が病没したことで一挙に崩壊しました。聖武天皇は天然痘の流行に怯え、己が不徳のなすところとして、諸社への奉幣や護国経の転読などを行わせますが功なく、長屋王の子女の位階昇叙(いかいしょうじょ=官位があがること)などを行いました。光明皇后は燃燈供養で長屋王の菩提を弔い、「五月一日経」書写を発願して長屋王への罪障の滅罪をはかります。
 このことは、九世紀初頭に編纂された『日本霊異記』中巻の「己が高徳を恃(たの)み、賤形の沙弥を刑(う)ちて、もって現に悪死を得し縁第一」に、長屋親王らの屍を城外に捨て、焼き砕いて河に投げ散らし海にすてたが、親王の骨だけ土佐国に流した。そのため土佐国では多くの人々が死に、人々は「親王の気に依りて、国の内の百姓皆死に亡(う)すべし」と申した。天皇は、これを聞き、すこしでも皇都に近づけるために、紀伊国海部郡椒沙の奥の島(現和歌山県有田市初島町)に置いたとの話にみられるような、長屋王の祟りへの恐れあったことによります。政変による非業の死は、亡魂がこの世に祟りをもたらすとなし、怨霊の存在を意識させたのです。

広嗣の乱、広嗣の霊

 藤原四氏没後の政権は、右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)が中心となり、唐から帰国した吉備真備(きびのまきび)と僧玄昉(げんぼう)らが参加して運営されていきます。
 740年(天平12)、大宰府に左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ)は、天地の災害の元凶が吉備真備と僧玄昉にあるとなし、北九州の豪族・百姓を率いて叛乱を起こしましたが、大野東人(おおののあずまびと)に鎮圧され、唐津で処刑されました。ここに広嗣の式家に代わり南家が台頭し、朝廷も動揺します。聖武天皇は、律令の原理であった公地公民制が破綻し、天地の異変に怯え、都を恭仁京(くにきょう-現木津川市加茂)、紫香楽宮(しがらきのみや-現滋賀県甲賀市信楽町)、難波宮(なにわのみや-現大阪市中央区)に遷都し、平城京に還すという遷都をくりかえす有様でした。
 玄昉は、745年(天平17年)に藤原仲麻呂から筑紫観世音寺別当(太宰府市観世音寺)に左遷され、翌年に亡くなります。この死については、『続日本紀』天平18年6月の条が「世相伝えて云わく、藤原広嗣の霊のために害するところ」と記しており、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』も「玄昉法師大宰小弐藤原広嗣の亡霊のためにその命を奪わる。広嗣の霊は今松浦明神なり」としているように、玄昉の死を広嗣の霊魂の仕業とする風聞が広く流布したのです。『平家物語』『今昔物語集』も広嗣の悪霊をめぐる物語を描き、天皇が怯えていたことを記しています。
 広嗣の霊は、悪霊としての強力さで、現在の佐賀県唐津市の鏡山の麓に鎮座する鏡神社、北九州市八幡東区の荒生田(あろうだ)神社、奈良市高畑町の鏡神社、京都府木津川市の御霊神社などに祀られています。

跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する亡魂・生霊

 橘諸兄の政権は、聖武天皇が譲位して孝謙天皇の時代になると、藤原仲麻呂と対立していきます。仲麻呂は、孝謙女帝とその母光明皇太后の信任を得て、皇后宮職を改称した紫微中台(しびちゅうだい)長官として、皇太后の権威を背景に権力を握ります。諸兄の子奈良麻呂は、仲麻呂を排除すべく決起しようとして捕縛され、拷問死します。奈良麻呂の乱は、「民間に亡魂に仮託し、浮言紛紜として、郷邑(きょうゆう=郷里)を撹乱する者あり」と、奈良麻呂の非業の死への同情が怨霊となって世を騒がすとの風聞を生んだようです。
 ついで仲麻呂は孝謙上皇の寵愛をうけた道鏡を排除しようとして処刑され(恵美押勝の乱)、廃帝された淳仁天皇は淡路に幽閉され、淳仁の兄弟船親王は隠岐国へ、池田親王は土佐国に流されました。孝謙は重祚(じゅうそ=一度退位した君主が再び君主の座に就くこと)して称徳天皇となります。『水鏡』は、称徳天皇の項に、天平宝字9年(765)に「淡路廃帝国土を呪い給うによりて、日てり、大風吹きて世の中わろくて、飢え死ぬる人おおかりきと申し合いたりき」と、淳仁の呪いで災異が起きたとの噂があったことを記しています。天平宝字の災害は淳仁の生霊が引き起こしたとみなされたのです。淳仁は、称徳の意向で淡路廃帝と呼ばれたままで、淳仁天皇と呼称されるのは明治3年(1870)になってからです。称徳は、淡路の淳仁が逃亡し、徒党を組んで皇位を奪いにくることを警戒しつづけたのです。淳仁は、天平神護元年(765)10月23日に歿しました。

「青丹よし」と歌われたかの平城京は、権力の争奪をめぐる激しい政争が渦巻き、非命に倒れた者の恨みが世を騒がしていたのです。平城遷都1300年の現在、復元された平城京に立ち、そこに眠る亡魂と向き合い、敗者の眼で時代の闇を読み解くのも、歴史の一作法です。


豊後の王フランシスコ大友宗麟

イエズス会士がみた王

学び!と歴史vol36_01大友宗麟

大友宗麟銅像 大分県大分駅前

 大友宗麟は、豊後国-現大分県の守護大名大友義鑑(よしあき)の嫡男として、1530年(享禄3)に生まれ、幼名塩法師丸、元服して五郎と称し、先将軍足利義晴の「義」を得て義鎮(よししげ)と名乗りました。1551年(天文20)にフランシスコ・ザビエルを豊後府内・現大分市に招き、1553年にイエズス会の布教を認め、豊後を日本におけるキリシタンの一大拠点となし、1578年(天正6)7月に受洗、洗礼名ドン・フランシスコ。その姿は、ルイス・フロイスが臼杵(うすき-大分県)からポルトガルのイエズス会に送った同年9月16日付け書簡に読むことができます。

豊後の王は今四八、九歳なるが、日本に在る王侯中最も思慮あり、聡明叡智の人として知られたり。始め一、二箇国(豊後・豊前)※を有するに過ぎざりしが、今五、六箇国(豊前・豊後・肥後・筑前・筑後・日向)※を領し、その保有に心を尽し、ほとんど戦うことなくしてこれを領有し、また統治せり。彼は、日本において我等に好意を示したる最初の王にして、当地方のコンパニヤ(イエズス会会員)の父のごとし。しかしてパードレ(伴天連、神父)およびイルマン(伊留満、修道士)等がその領内に居ること二十七年なるが、たえず領内において我等を庇護せるのみならず、不幸に遭遇せる際我等を保護し、パードレ等の求に応じて免許状を交付し、またパードレ等がデウスの教を弘布せんと欲する都、その他異教徒の諸国の王侯大身等に書翰を贈り、教化の事業を援助せんことを請い、また好意を得んため進物を贈れり(村上直次郎訳注『耶蘇会士日本通信豊後編』雄松堂出版刊 1982年)

入道宗麟として

 このような宗麟像は、宣教師に共通したもので、キリシタンの庇護者への敬意に満ちたものにほかなりません。しかし宗麟大友義鎮は、キリスト教に好意を持ちながらも、府内最大の寺院万寿寺を保護し、京都大徳寺瑞峰院の名僧怡雲(いうん)禅師を招いて禅を修め、1562年(永禄5)に入道して瑞峰宗麟と称しました。こうした風貌は宣教師を当惑させますが、宗麟がイエズス会を保護することに変わりはありませんでした。1557年(弘治3)に周防-山口県の大内義長が毛利元就に滅ぼされたため、豊後府内は、日本布教の本部となり、ポルトガル人ルイス・アルメイダが病院を開設、西洋医学にあたる「南蛮医学」の治療がなされました。臼杵城下の最も良い場所には宣教師等の住院と会堂が建設されていました。こうしたキリシタンの活発な活動は、僧侶や宗麟家臣等の反撥を起こしもしました。
 宗麟のキリスト教への関心は、信仰への好奇心もさることながら、軍事的・経済的な利益への期待でした。戦国大名には宣教師とその背後にあるポルトガルがもたらす利益が魅力だったのです。宗麟は、毛利との交戦中の1567年(永禄10)に火薬の原料である硝石200年を毎年輸入したいと、ついで翌1568年には大砲を宣教師に求めています。府内の宣教師は、戦勝祈願をして宗麟を支援しています。
 豊後の王から九州の王へと馳せ行く宗麟は、キリシタンがもつ先端知の魅力に心うばわれ、時とともに信仰が説き聞かせる世界にとらわれていきます。そこには、博多商人を仲立ちにした朝鮮や明国との交易による大陸文化との接触、都の貴族や絵師等との交遊による狩野永徳の絵画、茶湯道具の名物蒐集(収集)にみられる多方面におよぶ、聡明叡智といわれた宗麟を魅惑する世界があったのです。このような王の眼は、戦乱の世を勝者として生きねばならない領主たる自分を想いみたとき、キリシタンの教理に向かわせます。

イゼベルのこと

 しかし宗麟夫人は、宇佐八幡宮の別宮奈多八幡宮大宮司家出身でキリシタンを敵対視し、その布教を妨害します。そのため宣教師は、夫人をイゼベルと呼び、悪魔のごとき女とみなしていました。イゼベルとは、旧約聖書の列王記に語られているイスラエルの王アハブの妃でバアルを崇拝し、預言者エリヤを追放した女性のことです。このような夫人との関係は、宗麟が1576年(天正4)に家督を長男義統(よしむね)に譲り、キリシタンの信仰に強く表明していく中で悪化していきます。かくて宗麟は、夫人に仕えていた女性と臼杵城を出て新生活に入り、キリスト教徒としての日々に励み、領国統治の一切から手を引いていったのです。

ムジカに託した夢

大友宗麟の印章

大友宗麟の印章

 1578年(天正6)大友氏は、島津氏に敗れた日向国主伊藤義祐を救援した戦いにおいて勝利しました。この勝利は、隠居していた宗麟をして、島津氏を抑えることで九州の覇者たることを決定的にするものと思われました。ここに宗麟は、夫人と宣教師カブラル、アルメイダ等を連れ、300名の部下を率いて海路日向に向かいます。軍船は、十字架の軍旗をかかげ、胸に数珠と影像を懸けた家臣を乗せ、キリシタン大名の面目躍如たる日本の十字軍たる様相でした。
 この出陣は、豊後と日向の国境にある無鹿(むしか・務志賀-宮崎県延岡市無鹿町)に、ポルトガルの法律と制度による政治が行われる理想郷たるキリスト教都市の建設をめざしたものです。無鹿が聖歌音楽を意味するポルトガル語のムジカに似ていたことによります。しかし6月の決戦は二万人の戦死者を出す壊滅的敗北でした(耳川の合戦)。ここに豊後の王国は没落への一途をたどることとなります。まさに大友宗麟は、日向の国主伊藤氏に連なる伊藤満所(マンショ)をして、天正遣欧少年使節にいれて派遣したこと、フランシスコを漢字で「普蘭師司怡」「不龍獅子虎」等と署名したなど、キリシタン大名の雄として語られてきましたように、戦国の世を駆け抜けた王として魅力的です。
 戦国の世は、旧秩序が解体し、新しい世界の構築をめざした開かれた時代に相応しい人物を生み出しています。まさに宗麟という存在は、信長・秀吉・家康とは異なり、「無鹿」への夢に託した想いが物語るように、ヨーロッパの王侯を想像させる世界が読みとれるのではないでしょうか。この魅力は、遠藤周作『王の挽歌』、赤瀬川隼『王国燃ゆ 小説大友宗麟』などの文学作品となっていますように、ロマンをかきたてるものです。

 豊後の王国から日本列島、さらに世界を問い質すと如何なる歴史が想い描けるでしょうか。海に開かれた眼で日本列島の歴史を問い、「国史」的歴史像から訣別したいものです。

※旧地名の現在地
豊前:福岡県東部、大分県北部
肥後:熊本県
筑前:福岡県西部
筑後:福岡県南部
日向:宮崎県


岩戸山古墳が問い語る世界

vol35_012 岩戸山古墳は、『筑後国風土記』によれば筑紫君磐井の墓と云われており、筑後平野南部の八女丘陵の中ほどにあります。八女丘陵には、石人山(せきじんざん)古墳、弘化谷古墳など、多くの古墳群が所在します。石人山古墳は、磐井の祖父か曾祖父の墓といわれている地域でいちばん古い前方後円墳で、5世紀前半に造られたものです。その後円部には家形石棺が祀られており、その前を石の武人が守護しております。その隣にある弘化谷古墳は、磐井の縁者のものかとみなされており、円墳の装飾古墳です。こうした筑紫君磐井をめぐる古墳群は、機内のヤマト王権に対峙する政治勢力として、筑紫を拠点とした九州王権の存在を示唆しております。磐井が継体天皇21年(527)に叛乱したという物語は、ヤマト王権の在り方をめぐり、九州の王権がどのような存在であったかをうかがわせる語りにほかなりません。
 この物語は、『古事記』と『日本書紀』で、語りの構造に大きな落差があります。『古事記』は、「この御代に、筑紫君石井(いわい)が、天皇の命に従わず、秩序に背くことが多かった。それで物部荒甲之大連(もののべのあらかいのおおむらじ)・大伴之金村連(おおとものかなむらのむらじ)の二人を派遣して、石井を殺した」と、さらりと書き流しています。しかし『日本書紀』は、新羅をめぐる朝鮮半島の状況に対応し、磐井がヤマトに反旗を翻し、やがて鎮圧されるまでを詳細に述べています。

 近江の毛野臣(けなのおみ)が軍衆6万人を率いて任那に行き、新羅に奪われた朝鮮半島南部の南加羅(ありひしのから、洛東江下流域の金海の金官国)・喙己呑(とくことん、現慶尚北道慶山)回復に出兵しました。そこで新羅は、筑紫君磐井に「賄賂」を届け、毛野臣の侵攻を阻止しようとします。磐井は、火(肥前・肥後)・豊(豊前・豊後)に勢力を伸ばし、ヤマトの軍勢を邪魔し、海路を封鎖して高麗・百済などの朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、毛野臣に「今でこそ使者となっているが、昔は同じ仲間として、肩を並べ肘を触れ合せて、一つ器で共に食べたものだ。使者になった途端に、私をお前に従わせることなど、どうしてできようか」と言い、毛野臣軍と交戦しました。天皇は、毛野臣軍が阻止されたため、「筑紫の磐井は反逆して西戎の領地を占領した。今、誰を将軍にしたらよかろう」と、大伴金村・物部麁鹿火(もののべにあらかい)・許勢男人(こせのおひと)らに将軍の人選を聞いたところ、物部麁鹿火が推挙されました。そこで天皇は、8月1日に物部麁鹿火を将軍に任命し、「お前が行って征伐せよ」といわれた。物部麁鹿火は、「磐井は西戎の狡猾な輩です。川の阻みを頼みにして朝廷に従わず、山の険しさを利用して叛乱をおこしました。徳を破り道に背き、驕慢であり、自惚れております。帝を助けて戦い、民を苦しみから救って来ました。昔も今も変わりません。謹んで征伐しましょう」と申しあげた。天皇は、「良将の戦とは、厚く恩恵を施し、慈悲をもって人を治め、攻撃は川の決壊のように激しく、戦法は風のように早いものだ」と仰せられ、重ねて「国家の存亡はここにある。力を尽せ、謹んで天罰を加えよ」と。そして自ら斧と銊(まさかり)とを麁鹿火に授け、「長門以東は私が統御しよう。筑紫以西はお前が統御せよ。もっぱら賞罰を実施せよ。頻繁に奏上する必要はない」と、磐井鎮圧に関する天皇の統帥権を与えたのです。

 物部麁鹿火は、528年11月11日に筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)で磐井軍と交戦、激戦の後、磐井軍を敗北させ、磐井を斬りました。12月に磐井の子、筑紫君葛子は、父の罪に連座して誅殺されることを恐れ、糟屋屯倉(現福岡県糟屋郡付近)を献上して、死罪を免除されます。

 『筑紫国風土記』逸文は、麁鹿火の軍勢が急に攻めてきたので、勝ち目がないと覚った磐井が豊前国に逃れて山中で死んだと、述べています。そこでヤマトの兵は、怒りにまかせ、磐井が生前に造っていた墓の石人の手を折り、石馬の首を断ち斬ったのだと。
 こうした記述にうかがえる磐井の憤死や朝鮮半島との交流は、岩戸山歴史資料館に展示されている首を切られた石人とともに、朝鮮半島製の金製垂飾付耳飾(きんせいすいしょくつきみみかざり)などに確認することができます。また隣接した別区と称されている50メートル四方の広場には、首のない石馬や手のない石人のレプリカが並べられており、磐井の世界を想起させてくれます。
 この叛乱は、磐井に代表される九州王権がヤマト王権に対し、ある一定の独立性をもっていたことをうかがわせます。かつ北九州の地は、ヤマト王権が拠点とした機内よりも、出土品にみられますように朝鮮半島との一体感を強く意識していたといえましょう。それだけに朝鮮出兵等の負担は反撥をよび、文化的につながる朝鮮と結んでのヤマト王権への叛乱となったのではないでしょうか。
 ここには、ヤマト王権の朝鮮経営が512年の任那4県を百済に割譲するなど、失敗の一途をたどるなかで、継体王朝が地方支配を強化し、越前(現福井県)から皇位をついだ天皇として、自己の王権を確立していく姿が読み取れましょう。
 継体天皇は、武烈天皇に後継ぎがいないため、応神天皇の5世子孫という遠い血筋の男大迹王(おほどのおおきみ)を越前三国から迎えられて皇位を継承したために、武烈天皇の姉(妹との説も)手白香皇女(てしらかのひめみこ)を皇后とすることで皇位の正統性を保証しようとしました。河内の樟葉(現大阪府枚方市楠葉)で即位し樟葉宮に4年、山背の筒城(つつき 現京都府綴喜郡)に7年、弟国(おとくに 山城国乙訓郡、現京都府長岡京市・大山崎町)に8年の後、磐余(いわれ 現奈良県桜井市中西部から橿原市東部にかけての地)を都とし、即位後20年をかけて大和に入れたわけです。この年数には疑問がありますが、即位してから天皇の故地たる大和に入るまで、多この年月が必要でした。ここには、継体天皇の正統性をめぐり、強い反発が大和にあったことをものがたっています。そのため継体王朝期には、後の南北朝のように、二王朝が並立していたとの学説がだされたこともあります。まさに継体の王権は、大和を基盤とするよりも、近江をはじめ畿外の勢力にささえられていたのです。なお現天皇家はこの継体に始まる王朝です。
 ヤマト王権が列島を統一していく過程を九州や吉備(現岡山県)・出雲(現島根県)をはじめ、東国の蝦夷らの「謀反」と称される事件を読み解き、頭に詰め込まれた「国史」的歴史とは異なる大陸に連なる列島の相貌を問い質し、一人ひとりが己の歴史像を身につけたく想うのですが、如何でしょうか。

 『古事記』『日本書紀』の読解には、新編日本古典文学全集が本文とともに、現代語訳をしており、注釈・解説が丁寧で、参考になります。


歴史は、時空を超える旅

2010年を迎え

 歴史は時間と空間を旅する世界です。時空を旅する営みは、過去と併走することで、現代を問い質すことを可能とします。今年2010年という年はどのような過去をつきつけているのでしょうか。
 100年前の1910年(明治43)は、大逆事件と日韓併合にみられるように、日本近代史を画する年でした。さらに150年前の1860年(安政7・万延元)には1月13日に勝海舟・福沢諭吉らが咸臨丸で渡米し、3月3日に大老井伊直弼が水戸・薩摩の浪士に襲撃された桜田門外の変がおこり、状況の打開をめざすテロリズムにより将軍の権威が失墜していきます。また近く50年前、1960年(昭和35)は日米安全保障条約の改定をめぐる安保闘争という熱い政治の季節でした。
 そこで1910年という年から旅を始めてみます。

学びと歴史vol34_011年表

100年前、日韓併合という年

 日本は、明治維新で「欧州的帝国」たる新国家の建設をめざし、東アジアの册封(さくほう=君臣関係を結ぶこと)・朝貢(ちょうこう・朝廷に貢がせるなど)体制を万国公法(-国際法)によるヨーロッパ的な国際秩序の中で再編することで、新たな場を確保しようとします。日露戦争の勝利こそは、こうした欧州的新帝国を東洋に確立させたものにほかなりません。
 ここに日本は「東洋平和」のために韓国の支配を安定させ、アジアの覇者たる道を歩み始めます。こうして8月22日に韓国を併合すると、韓国王室を皇族の礼で遇することとし、29日には詔書を発して前韓国皇帝をたてて王と為し、昌徳王李王と称し、朝鮮の国号を改めて朝鮮と称し、朝鮮貴族令を出して朝鮮総督府が設置されます。
 まさに日本は、清朝皇帝に代わり、日本皇帝たる天皇が頂点に立つ東アジアにおけるあらたなる册封・朝貢体制を構築したのです。天皇は、韓国併合を前にし、侍従武官に台湾統治の実情を視察させ、南洋諸島の状況を報告させるなど、東アジアの皇帝たる準備に心をくだき、新しい帝国の王としての準備をしております。
 しかし国内には、日露戦争の過重な負担に喘ぐ農村を「天明天保」以来といわれる恐慌が襲い、疲弊した農村から人口が流出し、さらに都市におけるストライキなどの社会労働問題と社会主義の流行など、大「帝国」を根底から脅かす状況が広く顕在化していました。かくて政府は、1908年3月13日に「忠実業に服し、勤倹産を治め、惟れ信、惟れ義、醇厚、俗を成し、華を去り、実に就き、荒怠相戒め」(*1)と説いた戊申詔書(*2)を発布しました。    
 1910年5月25日の宮下太吉の逮捕に始まる大逆事件の幕開けは、こうした戦後の空気に対する国家の鉄槌(てっつい)にほかならず、「帝国」を帝国らしくしようとの強き国家の意思を表明したものにほかなりません。

150年前、開国という年

 まさに大逆事件と日韓併合が物語る1910年という年は、明治国家が帝国というアトラス的負荷に喘ぎながら、新しい方途を血眼になって探していた時代でした。こうした閉塞感は、さらに50年前の1860年の咸臨丸によるアメリカ行きが「文明」の実体験による日本の明日への眼を育てる培養器となる一方、桜田門外の変にはじまるテロリズムによる閉塞状況を打開する作法が維新への道を準備する時代としても読みとることができます。

50年前、日米安保という年

 さらに1960年の安保闘争は、日本の安全保障-米軍による核の傘で守られる日本列島の現状を自らの眼でみつめることなく、「平和憲法」への信仰を吐露し、「民主」か「独裁」かという戦後民主主義を擁護する運動として展開しました。この幻想こそは、「所得倍増」から「経済大国日本」をもたらし、現在日本の尻尾にあるものです。
 2009年の総選挙における政権交代では、当事者が「平成維新」と自称し、日米関係の見直しを声高に語りかける姿にこそ、60年に露呈した「尻尾」を自らの眼で捉えようとの強き想いが託されているのかもしれません。安保条約を問い質すことは、核にたよらない非武装中立という信仰を堅持し、明日を生きることを意味します。この決断は、150年前に井伊直弼が祖法を破り、開国による国家富強をめざそうとした困惑につながるものです。

年表を手がかりに

 歴史は、「文明」「進歩」という絵姿で単線的に展開しているのではなく、螺旋(らせん)状の展開になっており、ある断面をみると似たような相貌が読みとれます。ここに歴史を問い語る面白さがあるのではないでしょうか。
 それぞれの作法で、まずは年表を手がかりに時空を旅してみませんか。おそらく歴史の学界では日韓併合と大逆事件を天皇制国家の犯罪として論じ、世間でも唱和する声が聞かれましょう。その時には、せめて150年前とか50年前の時空に眼を広げ、すこしは豊かな旅を成し、ミューズクレイオ(歴史の女神)がどのような微笑をみせてくれるかに心をときめかし、明日への想いをめぐらしたいものです。

*1 現代訳:「忠実に仕事に励み、節約して生計を整え、信と義を重んじ、人情に厚い習慣をつくり、華やかなことを退けて実質あるものに力を注ぎ、乱暴や怠慢を互いに戒め」

*2 戊申詔書(ぼしんしょうしょ) 日露戦争の戦勝気分に浮かれる国民の気分を引き締める事を目的として発せられた。


「番付」のはじまり

興業のプログラムとして

 大相撲の場所前には、「番付」が発表され、世間の評判をよびます。この番付は、相撲のみならず、歌舞伎・人形浄瑠璃などの興行を前に、その参加者を紹介する興行の案内をした宣伝のためのプログラムともいうべき刷物で、興行月日、興行場所を記した「順番付」を意味します。相撲は勝負なので、強い者から順に人名を並べてつくられます。この相撲番付は17世紀初頭の寛永年間から始まったといわれています。

「諸商売人出世競相撲」(江戸時代)

「諸商売人出世競相撲」(江戸時代)

 芝居番付では、演目、出演者の配役に座名が記されますが、役者の芸力や人気を加味するため上から下へと並べるわけにいきません。そのため、名前を書く場所、文字の大小、前後との間隔等に趣向をこらして、役者相互の不満がおきないように配慮してつくられます。その作法は、映画やテレビドラマなどの配役一覧の書き方にも踏襲されており、大きい字で記された主演者の名に次いで、文字を小さくした脇役が順に書かれた後に、別枠で出演した大物役者の名前が特筆された中に読みとれます。こうした芝居番付は、寛永年間に「番組付」としてのものが使用されており、現在の「順番付」に相当するものが17世紀後半の延宝年間に歌舞伎で、18世紀初頭の享保年間に浄瑠璃でもみられます。

江戸のヒット番付

 こうした番付とは別に「見立て番付」があります。見立て番付は、全国的に展開していた商品流通網が生み出した特産物を評価した「天保時代名物競(くらべ)」を始めとし、「行廃一覧」や「当時のはやり物くらべ 大都会流行競」のような時代のはやり・すたりを紹介するなど、時代や地域の人気や有名人、同業者や名物等々を列記したものです。
 「天保時代名物競」は、「後見 水野越前」と天保の改革で奢侈(しゃし 贅沢)禁止令を出した水野忠邦の名をあげ、日本各地の名物を紹介することで為政者を痛烈に批判しております。まさに見立て番付には、民衆の時代批判が読みとれ、世相をうかがうことが出来ます。

土佐
現在の高知県

勝男武士(かつおぶし)
※「鰹」に「勝男」という字をあてた縁起かつぎの言葉

陸奥
現在の福島県、宮城県など

仙台平袴地(せんだいだいらはかまじ)
※江戸時代から続く伝統の絹織物

薩摩
現在の鹿児島県

上布帷子地(じょうふかたびらじ)
※麻織の装束の下に着るひとえの布製の衣服

松前
現在の北海道南部

厚板昆布(あついたこんぶ)
※北海道松前町が産地の昆布

筑前
現在の福岡県

博多織帯地(はかたおりおびじ)
※おもに博多地区特産の絹織物

北越
現在の新潟県

縮上布(ちぢみじょうふ)
※越後魚沼地方特産の麻織物

文明開化の時代相

 文明開化期には、「新古興廃くらべ」「目今(もくこん)形勢興廃競」「馬鹿の番付」など多彩な番付が刊行されています。そこには、「文明」をかかげた時代の急変に、戸惑いあらがう民衆の姿をみることができます。
 「新古興廃くらべ」は、文明開化の推進をになう「開明進歩」と開化の抵抗勢力である「旧弊頑固」が番付作成の元締めとして勧進元となり、葵の御紋の将軍に代わり菊の御紋の朝廷が京都から江戸の乗り込み、寺院に代えて神社を中心とする新秩序を目指した政策が廃仏毀釈をもたらした時代の嵐が「神道 朝帝の御巡幸 将軍の御成 仏法」を行事に立てることで表明しています。葵の徳川将軍家から菊の天皇家へ代わった時代相を描いています。

 

西

菊の御紋

大関

葵の御紋

金銀貨紙幣

関脇

大判小判

馬車

小結

御所車

人力車、巡査の派出所、海陸軍の兵隊

前頭

四ツ手駕籠(かご)、市中の自身番屋、鎧兜の武者

 「目今形勢興廃競」は、時代の雰囲気を伝えてくれます。勧進元は置かれていませんが、開化の世で漢籍が廃れ、英学が流行り、アルファベットの蟹文字が注目され、江戸時代の書として広く流布していた御家流が片隅に追いやられる様を行事に立てることで問いかけたのです。

  • 行司:横文字、漢籍、御家流(おいえりゅう)

東 流行の部

 

西 不流行の部

皇国学

大関

金紋先箔

蒸気の乗合

関脇

茶器の価

牛肉の切売

小結

能装束

人力車の往来、とんび合羽

前頭

伊達道具、鎧兜

民衆の気分を代弁。愉快な「馬鹿の番付」

 「馬鹿の番付」は、外国製品が大量に輸入されることで、国産品が廃れることを問い質そうとの思いでつくられた番付です。輸入品に圧倒されて、国産品が滅びていく時代の姿がよみとれます。勧進元を輸入業者となし、在来産業が崩壊していく状況を「国の命を売縮める、舶来物品商」と揶揄し、その附き添いである差添人に、職人技を否定して工場の職工が幅を利かす風潮を「天稟妙を備し指先細工を捨て器械製造を好む日本職工人」を充てることで表しています。輸入ものを重宝がる舶来品信仰に踊る「馬鹿」者の世界が下記です。

  • 勧進元:国の命を売縮める 舶来物品商
  • 差添人:天稟(てんぴん)妙を備し指先細工を捨て器械製造を好む日本職工人

東 輸入品

 

西 国産品

米穀を喰はずしてパンを好む日本の人

大関

国産の種油魚油を捨て舶来の石炭油を用る人

結構なる田地をつぶし茶桑を作りて損する人

関脇

従来の商業を捨て会社を結びそれが為身代限りする人

輸出入の不平均を論して西洋料亭に懇会を開く議員

小結

ペロペロと洋語で国家の経綸を論じて我が身を修め兼ねる演説先生

国産の笠傘捨て舶来の蝙蝠(こうもり)を用る人
日本の樹をぬいてゴムののら木を植る人
国産の縞木綿を捨て舶来の衣服を喜ぶ人

前頭

国産の綿帽子を捨て風呂敷の如き物を肩巻人
日本固有の犬を殺して洋犬を珍重がる人
木造の家宅をこぼちて煉瓦石で建築する日本人

 こうした馬鹿番付は、明治10年代に国産品愛護運動を展開した佐田介石などが作成したもので、民衆に輸入品排斥を呼び掛けることで国富増大をめざしたアジビラであったといえましょう。
こうした番付には「古今嘘八百番付」のような、行司を当にならない約束を言う「紺屋の明後日(あさって)」とし、その勧進元を「地獄 天国 極楽」とすることで、世間の気分を代弁したものもあり、現在も昔も変わらぬ世の常が読みとれます。

  • 行司:紺屋の明後日
  • 勧進元:地獄、天国、極楽

横綱

早く死にたいという年寄

大関

尼になりたいといふ娘、モウやめますといふ道楽息子

関脇

不老不死の薬、見せやうが遅いといふ藪医

小結

損になるといふ商人、確かにきくといふ薬屋

前頭

憎らしい子よといふ親
要りませんといふ祝儀
女は嫌ひといふ若衆
男はすかないといふ娘

 このような見立て番付の「見立て」は、見て選び定めることですが、古事記に「天の御柱をみたてる」とあるのは、現実に柱を建てたのではなく、あるものを柱と見立てて祝福したようにきわめて神聖な行為でした。
 いわば見立て番付は、世間の気分、名物、流行等々にいたる時代の人心を神の見立てで表明した世界とみなされていたのです。そこには、神意をかりることで、時代を生きた民衆の心意を世に問いかけようとの思いが託されていました。

 これら多様な番付の世界を読み解くことで時代人心の読み解いてみませんか。


古事記・日本書紀にみる天皇

『古事記』での「天皇」

 天皇の意思を述べた詔勅には、御名御璽(ぎょめいぎょじ)と称されていますように、天皇の名前、明治天皇なら「睦仁(むつひと)」を記し天皇の印が押されます。姓を称さない王であることは、他国に類をみない日本の王室の特色として、天皇が存在してきた日本の歴史の固有性の証と認識され、「万世一系」の皇統神話を支えてきました。
日本の史書は「天皇」をどのように描いているのでしょうか。「天皇」という漢語は、日本の王朝誕生から国家の成立を描いた歴史書に登場しますが、どのように訓(よ)まれたのでしょうか。

葛城一言主神社 奈良県御所市

葛城一言主神社 奈良県御所市

 壬申の乱に勝利した天武天皇の王権が、正統なことを証する史書として編纂されたのが『古事記』と『日本書紀』です。『古事記』には、天皇・皇位が神聖なものであることを問い語るものが多くあり、第21代雄略天皇が葛城山で一言主大神(ひとことぬしおおかみ)と出会う物語があります。その神は服装・行列・言葉・態度のすべてが天皇とおなじであるため、天皇が怒り、あわや戦いになろうとします。天皇が「たがいに名を告げて矢を放とう」と言います。そこで「吾は悪事も一言、善事も一言で言い放つ神、葛城之一言主之大神」と申したのを聞き、天皇が恐縮し、拝みたてまつります。

読み下し本文

天皇葛城山(かづらきやま)に登り幸でましし時、百官(もものつかさ)の人等(ひとたち)、悉(ことごと)に紅き紐著(つ)けたる青摺(あをずり)の衣(きぬ)を給はりて服(き)たりき。彼(そ)の時、其の向へる山の尾より山の上に登る人有り。既に天皇の鹵簿(みゆきのつら)に等しく、亦(また)其の装束(よそひ)の状(さま)、及(また)人衆(ひとども)も相似て傾(かたよ)らざりき。爾(ここ)に天皇望(みさ)けまして、問はしめて曰(の)りたまはく、「茲(こ)の倭国(やまとのくに)に吾(わ)を除(お)きて亦王(おほきみ)は無きを、今誰(た)が人ぞ如此(かく)て行く」とのりたまへば、即ち答へて曰(い)ふ状(さま)も亦天皇の命(みこと)の如し。是(ここ)に天皇大(いた)く忿(いか)りて矢刺したまひ、百官の人等悉に矢刺しき。爾に其の人等(ども)も亦皆矢刺しき。故、天皇亦問ひて曰りたまはく、「其の名を告(の)れ。爾(すなは)ち各(おのおのも)名を告りて矢を弾たむ」とのりたまひき。是に答へて曰(まを)さく、「吾(あれ)先に問はえたれば、吾先に名告り為(せ)む。吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城一言主之大神ぞ」とまをしき。天皇、是に惶(おそ)れ畏みて白したまはく、「恐(かしこ)し。我が大神、うつしおみ有(な)らむとは、覚(さと)らざりき」と白して、大御刀(おほみたち)及(また)弓矢を始めて、百官の人等の服(け)せる衣服(きぬ)を脱がしめて拝(をろが)み献(たてまつ)りたまひき。爾に其の一言主大神、手打ちて其の奉物(たてまつりもの)を受けたまひき。

口語訳

天皇が葛城山にお登りになった時、お供の大ぜいの官人たちは、すべて紅い紐をつけた青摺の衣服を頂戴して着ていた。その時、その向かいの山の尾根伝いに山上めがけて登っていく人があった。その行列は全く天皇の行幸にそっくりで、またその人たちの服装の様子も、随行の人たちも天皇の一行とよく似て同等のものであった。それで天皇はその光景をはるかにながめられて、従者を遣(つか)わしてお尋ねになり、「この大和の国には私をおいてはほかに二人と大君はないのに、今誰が私と同じような行列をつくって行くのか」と仰せられると、向こうから答えてくることばのさまもまた、天皇がお咎めになったおことばと同じようなものであった。これを聞いて、天皇はひどくお怒りになって矢を弓につがえられ、大ぜいの官人たちもことごとく弓に矢をつがえた。すると向こうの人たちもまたみな矢を弓につがえた。そこで天皇はまたお尋ねになり、「そちらの名を名のれ。そして互いに名を名のってから矢を放とう」と仰せられた。向こうの人はこれに答えて、「私は先に問われたので、私のほうから先に名のりをしよう。私は凶事も一言、吉事も一言で解決する神、葛城一言主大神であるぞ」と申した。天皇は、このことばを聞いて恐れ畏まって、「恐れ多いことです。わが大神よ、あなたさまが現実のお方であろうとは気がつきませんでした」と申して、ご自身のお太刀や弓矢をはじめとして、大ぜいの官人たちが着ている衣服をも脱がせて、拝礼して献上なされた。すると、その一言主大神はお礼の拍手をして、天皇からの献上の物をお受け取りになった。

 この「一言主」と言う名は、「天皇」の文字を「一、大、白、王」の四つに分け、「一、言、主」の三字に合成した神名で、天皇が現人神であることを物語ろうとしたものです。

『日本書紀』での「国家」と「天皇」

 日本書紀は、天皇の統治と皇位継承を描くことで、律令国家の理念を提示したもので、「国家」という文字が多く使用されています。その訓(よみ)は、「コッカ」でなく、「アメノシタ」か「ミカド」です。ここには古代の律令官人の国家によせた思いが読みとれます。

読み下し本文

(景行天皇)五十一年の春正月の壬午(じんご)の朔(つきたち)にして戊子(ぼし)に、群学び!と歴史vol32_03旧字_卿(まへつきみたち)を招(を)きて、宴(とよのあかり)きこしめすこと数日(ひかず)へたり。時に皇子稚児彦尊(わかたらしひこのみこと)・武内宿学び!と歴史vol32_04旧字_禰(たけうちのすくね)、宴庭に参赴(ま学び!と歴史vol32_05旧字_いこ)ず。天皇召して、其の故を問ひたまふ。因りて奏(まを)して曰(まを)さく、「其の宴楽(とよのあかり)の日には、群学び!と歴史vol32_03旧字_卿・百寮(もものつかさ)、必ず情(こころ)は戯遊(あそび)に在りて国家(あめのした)に存(あ)らず。若(けだ)し狂生(くるへるひと)有りて墻閣(しやうかく)の隙(ひま)を伺はむか。故(かれ)、門下に侍(さぶら)ひて非常に備へたり」とまをす。時に天皇、謂(かた)りて曰(のたま)はく、「灼然(いやちこ)なり。灼然、此(ここ)には以椰知挙(いやちこ)と云ふ」とのたまひ、則ち異(こと)に寵(めぐ)みたまふ。

口語訳

(景行天皇)五十一年春正月の壬午朔(ついたち)の戊子(七日)に、群学び!と歴史vol32_03旧字_卿を招いて饗宴を催されることが数日に及んだ。その時、皇子の稚足彦尊・武内宿学び!と歴史vol32_04旧字_禰は、宴の庭に参上しなかった。天皇は召して、その理由をお尋ねになった。そこで奏上して、「その宴楽の日には、群学び!と歴史vol32_03旧字_卿・百官は、必ず心が遊楽に奪われて、国家の事を忘れております。もしかすると狂った者があって、宮城の垣の隙をうかがうことがあるのではないか。それで、門下に控えて、非常事態に備えておりました。」と申しあげた。そこで天皇は、「至極立派なことだ〔「灼然」はここではイヤチコという〕」と仰せられて、格別に寵愛された。

 天皇が、正月7日の白馬節会に皇子と宿学び!と歴史vol32_04旧字_禰が参加しないために問うたところ、「酒宴に気をとらて国家に思いいたすものもいない。もし狂人がことを起こしたら大変ですので外で非常に備えているのです」、と答えたところ天皇が大変喜ばれ、二人をことのほか寵愛されます。この物語は稚児彦尊の立太子と武内宿学び!と歴史vol32_04旧字_禰を棟梁之臣(大臣)に任命する伏線です。
 ここにある「国家に存かず」の訓は「ミカド」か「アメノシタ」で微妙な違いがでてきます。日本古典文学体系本は「アメノシタ」ですが、いかがなものでしょうか。ここでは「ミカドのことなぞ全く気づかっていない」とした方が、人間らしい情誼(じょうぎ)をふまえた天皇の寵愛が位置づけられるのではないでしょうか。
 国家と天皇に寄せる思いは、「国家」に「ミカド」「アメノシタ」の両訓があたえられたことに、表明されています。仏教伝来を伝える欽明天皇13年10月の記事にある「帝国に伝へ奉りて」「我が国家の天下に王とまします」の「帝国」「国家」は「ミカド」としか訓めません。そこで「アメノシタ」「ミカド」の用例を整理してみます。

天皇即国家という観念

アメノシタの訓

宇宙(神代紀4 神出生章) 六合(同) 区宇(神武紀) 八紘(同) 海内(同) 普天卒土(雄略紀) 校廟(顕宗紀)

ミカド

皇(成務紀) 天朝(神功紀) 中国(雄略紀) 朝(清寧紀) 人主(顕宗紀) 大倭(孝徳紀) 天子(済明紀)

 「アメノシタ」はある空間概念をもつ組織体を意味する言葉であり、「ミカド」は「皇」「人主」「天子」が示すようにある特定の個人たる天皇に対する訓のようです。しかも「ミカド」には、「国家」「中国」「帝国」「大倭」のように、「アメノシタ」と同義の文字も使用されています。このことはミカドたる天皇に寄せる意識が投影されていることを意味しており、国家と天皇を同一なるものと認識していたことをうかがわせます。この天皇と国家との意識こそは、国家の災害を天皇が一身で負うべき責務とみなさしめたのです。
このような意識は、養老4年から5年の災害に元正天皇が詔で、「朕が心狂懼すること日夜休まず」と述べて己を譴責(けんせき)してその存在を問い質さしめます。また律令官人は、「死に生も君がまにまと思ひつつ」と歌うように、天皇との関係においてでしか己の距離をはかれない存在であり、神格化されていく天皇の血脈への忠誠心を信仰にまで高めていきます。
 この天皇即国家という観念こそは、歴史の古層に渦巻き、培養増幅されていくことで、昭和維新の奔流に潜む「天皇一元化が皇国の完成にして、ここに至る道程が修養すなわち維新なり」(杉本五郎『大義』)といわしめた心情をうながしたように、日本人の心性に鋳込まれた棘にほかなりません。

 こうした心性構造の在りかたを己の眼で撃つとき、はじめて歴史の闇が読み解けるのではないでしょうか。

引用

  • 『古事記 上代歌謡(日本古典文学全集 1)』(発行:小学館 1973年)
  • 『日本書記①<全二冊> (新編 日本古典文学全集2)』(発行:小学館 1994年)