学び!と歴史

学び!と歴史

豊後の王フランシスコ大友宗麟
2010.03.19
学び!と歴史 <Vol.36>
豊後の王フランシスコ大友宗麟
戦国の世にヨーロッパ王家を夢みた男
大濱 徹也(おおはま・てつや)

イエズス会士がみた王

学び!と歴史vol36_01大友宗麟

大友宗麟銅像 大分県大分駅前

 大友宗麟は、豊後国-現大分県の守護大名大友義鑑(よしあき)の嫡男として、1530年(享禄3)に生まれ、幼名塩法師丸、元服して五郎と称し、先将軍足利義晴の「義」を得て義鎮(よししげ)と名乗りました。1551年(天文20)にフランシスコ・ザビエルを豊後府内・現大分市に招き、1553年にイエズス会の布教を認め、豊後を日本におけるキリシタンの一大拠点となし、1578年(天正6)7月に受洗、洗礼名ドン・フランシスコ。その姿は、ルイス・フロイスが臼杵(うすき-大分県)からポルトガルのイエズス会に送った同年9月16日付け書簡に読むことができます。

豊後の王は今四八、九歳なるが、日本に在る王侯中最も思慮あり、聡明叡智の人として知られたり。始め一、二箇国(豊後・豊前)※を有するに過ぎざりしが、今五、六箇国(豊前・豊後・肥後・筑前・筑後・日向)※を領し、その保有に心を尽し、ほとんど戦うことなくしてこれを領有し、また統治せり。彼は、日本において我等に好意を示したる最初の王にして、当地方のコンパニヤ(イエズス会会員)の父のごとし。しかしてパードレ(伴天連、神父)およびイルマン(伊留満、修道士)等がその領内に居ること二十七年なるが、たえず領内において我等を庇護せるのみならず、不幸に遭遇せる際我等を保護し、パードレ等の求に応じて免許状を交付し、またパードレ等がデウスの教を弘布せんと欲する都、その他異教徒の諸国の王侯大身等に書翰を贈り、教化の事業を援助せんことを請い、また好意を得んため進物を贈れり(村上直次郎訳注『耶蘇会士日本通信豊後編』雄松堂出版刊 1982年)

入道宗麟として

 このような宗麟像は、宣教師に共通したもので、キリシタンの庇護者への敬意に満ちたものにほかなりません。しかし宗麟大友義鎮は、キリスト教に好意を持ちながらも、府内最大の寺院万寿寺を保護し、京都大徳寺瑞峰院の名僧怡雲(いうん)禅師を招いて禅を修め、1562年(永禄5)に入道して瑞峰宗麟と称しました。こうした風貌は宣教師を当惑させますが、宗麟がイエズス会を保護することに変わりはありませんでした。1557年(弘治3)に周防-山口県の大内義長が毛利元就に滅ぼされたため、豊後府内は、日本布教の本部となり、ポルトガル人ルイス・アルメイダが病院を開設、西洋医学にあたる「南蛮医学」の治療がなされました。臼杵城下の最も良い場所には宣教師等の住院と会堂が建設されていました。こうしたキリシタンの活発な活動は、僧侶や宗麟家臣等の反撥を起こしもしました。
 宗麟のキリスト教への関心は、信仰への好奇心もさることながら、軍事的・経済的な利益への期待でした。戦国大名には宣教師とその背後にあるポルトガルがもたらす利益が魅力だったのです。宗麟は、毛利との交戦中の1567年(永禄10)に火薬の原料である硝石200年を毎年輸入したいと、ついで翌1568年には大砲を宣教師に求めています。府内の宣教師は、戦勝祈願をして宗麟を支援しています。
 豊後の王から九州の王へと馳せ行く宗麟は、キリシタンがもつ先端知の魅力に心うばわれ、時とともに信仰が説き聞かせる世界にとらわれていきます。そこには、博多商人を仲立ちにした朝鮮や明国との交易による大陸文化との接触、都の貴族や絵師等との交遊による狩野永徳の絵画、茶湯道具の名物蒐集(収集)にみられる多方面におよぶ、聡明叡智といわれた宗麟を魅惑する世界があったのです。このような王の眼は、戦乱の世を勝者として生きねばならない領主たる自分を想いみたとき、キリシタンの教理に向かわせます。

イゼベルのこと

 しかし宗麟夫人は、宇佐八幡宮の別宮奈多八幡宮大宮司家出身でキリシタンを敵対視し、その布教を妨害します。そのため宣教師は、夫人をイゼベルと呼び、悪魔のごとき女とみなしていました。イゼベルとは、旧約聖書の列王記に語られているイスラエルの王アハブの妃でバアルを崇拝し、預言者エリヤを追放した女性のことです。このような夫人との関係は、宗麟が1576年(天正4)に家督を長男義統(よしむね)に譲り、キリシタンの信仰に強く表明していく中で悪化していきます。かくて宗麟は、夫人に仕えていた女性と臼杵城を出て新生活に入り、キリスト教徒としての日々に励み、領国統治の一切から手を引いていったのです。

ムジカに託した夢

大友宗麟の印章

大友宗麟の印章

 1578年(天正6)大友氏は、島津氏に敗れた日向国主伊藤義祐を救援した戦いにおいて勝利しました。この勝利は、隠居していた宗麟をして、島津氏を抑えることで九州の覇者たることを決定的にするものと思われました。ここに宗麟は、夫人と宣教師カブラル、アルメイダ等を連れ、300名の部下を率いて海路日向に向かいます。軍船は、十字架の軍旗をかかげ、胸に数珠と影像を懸けた家臣を乗せ、キリシタン大名の面目躍如たる日本の十字軍たる様相でした。
 この出陣は、豊後と日向の国境にある無鹿(むしか・務志賀-宮崎県延岡市無鹿町)に、ポルトガルの法律と制度による政治が行われる理想郷たるキリスト教都市の建設をめざしたものです。無鹿が聖歌音楽を意味するポルトガル語のムジカに似ていたことによります。しかし6月の決戦は二万人の戦死者を出す壊滅的敗北でした(耳川の合戦)。ここに豊後の王国は没落への一途をたどることとなります。まさに大友宗麟は、日向の国主伊藤氏に連なる伊藤満所(マンショ)をして、天正遣欧少年使節にいれて派遣したこと、フランシスコを漢字で「普蘭師司怡」「不龍獅子虎」等と署名したなど、キリシタン大名の雄として語られてきましたように、戦国の世を駆け抜けた王として魅力的です。
 戦国の世は、旧秩序が解体し、新しい世界の構築をめざした開かれた時代に相応しい人物を生み出しています。まさに宗麟という存在は、信長・秀吉・家康とは異なり、「無鹿」への夢に託した想いが物語るように、ヨーロッパの王侯を想像させる世界が読みとれるのではないでしょうか。この魅力は、遠藤周作『王の挽歌』、赤瀬川隼『王国燃ゆ 小説大友宗麟』などの文学作品となっていますように、ロマンをかきたてるものです。

 豊後の王国から日本列島、さらに世界を問い質すと如何なる歴史が想い描けるでしょうか。海に開かれた眼で日本列島の歴史を問い、「国史」的歴史像から訣別したいものです。


※旧地名の現在地
豊前:福岡県東部、大分県北部
肥後:熊本県
筑前:福岡県西部
筑後:福岡県南部
日向:宮崎県