元日や一系の天子不二の山(『鳴雪自叙伝』) ―「皇国」日本という幻想(5)―

承前

 この句は、若き日の正岡子規の師にして、子規に学ぶことで俳人となった内藤鳴雪のものです。ここには明治天皇と共に生きた人びとの心の原風景が描かれています。「一系の天子」という原像を法的に確定させたのは大日本帝国憲法であり、その枠組みを内的に規定したのが皇室典範です。まさに大日本帝国憲法が創出した天皇を法的に封印した天皇制という枠組みは、一夫一妻多妾を前提とした嫡子を第一義となし、やむを得ない場合は庶子による男系皇統の維持を前提にすることで、「万世一系」の皇統という言説を創出したものにほかなりません。ここに天皇という存在は、世界に比類なき「一系の天子」という皇統神話を説き語ることで、国民の心に植え込まれ、皮膚感覚となり、日本国民の心を呪縛したといえましょう。
 明治の新政府は、圧倒的な文明の力を誇示する欧米列強に対峙すべく、列強をささえる内的規範であるキリスト教に代替しうる精神の器たるものとして「万世一系」の天皇を位置づけ、国民精神の原器となし、ここに国のかたちである国体の原義を読み取ろうとしたのです。学校教育は「天皇の国」の在り方を多様に問いかけました。

教科書に見る国の容

 明治33年(1900)の金港版『尋常国語読本』(坪内逍遥)は、日清戦争に勝利し、アジアの覇者たる場を確立した日本の雄姿を神武天皇による国家の創成から、「天子様の御血筋が幾年も一筋で、限りなく続く」「万世一系」の国柄を、「紀元節」「天長節」「日の丸」として語りかけています。そこには、欧米列強に対峙しうる国家の容をして、直截に小学児童の脳髄に埋め込もうとの熱い思いが読み取れます。
 「紀元節」は、神武天皇が橿原宮で即位した日、日本書紀が「辛酉年春正月(かのととりのとしはるむつき)」と記している日、「是の歳を天皇の元年」とした日をして、「万国歴」として受容した西暦の2月11日に当たるとみなし、「紀元節」として国家祝祭日としたものです。日本の紀元、「皇紀」は、この年に始まりとしたもので、元号とともに「西暦」と併用されることとなります。「紀元節」は、「天子様の御血筋が幾年も一筋で、限りなく続くのは、何よりめでたい」となし、「万世一系」の皇統の国であることを寿ぎます。

此の日は、古き昔、神武天皇と申す天子様が、あちらこちらの悪者をお退治あそばして、始めて天子様に御なりなされた日であります。神武天皇様は、我が国第一代の天子様で、今の天子様は百二十二代目の御孫でございます。我が国のよーに、天子様の御血筋が幾年も一筋で、限りなく続くのは、何よりめでたいことであります。

 明治天皇は、神武天皇の「御血筋」を万代にわたり受け継いできた存在として、その誕生日を天皇の下に天地が永久に変わることのないようにとの思いをこめて「天長節」と命名、国家の祝日としました。その日は、各家で家長の下に、「一家一族」が集い、祝う集い日とみなされたのです。

この家の床の間には、今上天皇陛下と書いてある掛物をかけ、その脇の花いけには美しい菊の花をさしてあります。一家の者どもはみな床の間の前にかしこまり、主人は少し進み出て、丁寧におじぎをして居ます。これは、今日は天長節といって、いまの天子様のお生まれあそばした日であるから、一家こぞってお祝いを申上げて居るのであります。これから親子もろともに天長節の歌を歌い、それからまた親類、友達を招いて、この日を楽しく暮らすでありましょう。
 今日の よき日は、大君の、生まれ たまひし、よき日なり。
 今日の よき日は、御光の、さし出 たまひし、よき日なり。
 光 あまねき、君が代を、祝へ もろびと、もろともに。
 めぐみ あまねき、君が代を、祝へ もろびと、もろともに。

 この小学唱歌は、祝典歌であり、キリスト教会の讃美歌のリズムです。「今日の よき日は、大君の、生まれ たまひし」は、「今日の よき日は、エス様の、生まれ たまひし、よきひなり」、とすればクリスマス賛歌ともなります。まさに日本は、天皇を国の要となす国民国家を造形すべく、文明国の枠組みを機能合理主義ともいえる方策で換骨奪胎し、1930年代に「天皇制国家」といわれることとなる日本型の立憲国家の確立が目指されたのです。
 なお、天長節なる名称は、「天長地久」よりきたもので、皇后の誕生日は「地久節」です。後に女権確立をめざす婦人運動は、天長節にならぶものとして、「地久節」を国家の祝日に制定することを目指す運動を展開します。ここに「地久節」は、国家祝祭日に制定されることはありませんでしたが、女学校では「祝日」として祝典を営むようになります。この一事には、日本における夫人の地位向上をめざす婦人運動にしても、「天皇制」的枠組みに強くとらわれていたことが読み取れます。

「日の丸」の下に

 日本は、日清戦争の勝利により、このような万世一系の国が世界に雄飛する思いを「日の丸」に託して小学児童の心に問いかけたのです。「日の丸」に託された世界は、「紀元節」「天長節」が描き出した世界の在り方をして、万国に比べようなき唯一の国であると問い語りかけています。

そもそも日の丸の旗は、世界をてらして居る、日にかたどって作ったもので、甚だあざやかで、そのうえ、まことに勇ましく見えます。外の国々の旗には、鷲という鳥や獅子という獣などをつけたのもありますが、あざやかで勇ましいのは、我が国の旗に及ばないよーです。

 「日の丸」は、「日輪の国」日本、世界を照らす太陽の下にある国家を顕すもので、他国の旗などと比べようのないほどに、「あざやかで勇ましいのは、我が国の旗」だとなし、世界雄飛への使命が託されているのだと。いわば「皇国」、「一系の天子」の統べる国日本という言説は、大日本帝国憲法の下にある国家像を顕現するもので、世界雄飛への使命をして、「日の丸」に込められた思いとして語りかけています。まさに「皇国」、「一系の天子」が統べる国日本の雄姿は、大日本帝国憲法の下にある国家の存在をして、日清戦争から日露戦争を経るなかで日本人の心身に埋め込まれ、日本人の国民精神を呪縛していきます。その心を具象した景観こそは富士山の「雄姿」に引き寄せて己が心を語る作法を生み育てたのだといえましょう。

皇室典範の世界 ―「皇国」日本という幻想(4)―

承前

 皇位は、皇室典範により、「皇男子孫之を継承」するものと規定されました。皇統は男系男子という言説は何をもたらしたのでしょうか。

皇室典範の枠組み

 皇室典範(1889年2月11日)第1章「皇位継承」は、憲法第2条を受け、次のように規定しています。

第1条 大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子之を継承す
第2条 皇位は皇長子に伝ふ
第3条 皇長子在らさるときは皇長孫に伝ふ皇長子及其の子孫皆在らさるときは皇次子及其の子孫に伝ふ以下皆之に例す
第4条 皇子孫の皇位を継承するは嫡出を先にす皇庶子孫の皇位を継承するは皇嫡子孫在らさるときに限る

 伊藤博文は、第4条につき、『皇室典範義解』で「万世一系の皇統」をささえた世界は嫡庶混在の男統主義であることを宣言しております。

恭て按ずるに祖宗の嫡を先にし庶を後にするは継嗣の常典とす。但し皇緒萬世一日も曠くすべからざるが故に、既に摘出なきときは庶出亦位を継ぐことを得せしむ(皇位百二十一代にして庶出の天皇実に四十六代なり)我国の庶出を絶たざるは実に已むを得ざるに出る者なり

皇位継承の実態とは

 井上毅は、「皇室継統の事は祖宗の大憲の在るあり、決して欧羅巴に模擬すべきに非ず」(「謹具意見」)と述べ、男系に限定することで予想される「皇胤」減少に対処すべく、「従来の皇胤を繁栄ならしむる」「他の種々の方法」を提示します。ここに想起すべきは、3代将軍家光の頃より見ても、歴代天皇が庶出の天皇、側室の子であることです。

110代後光明――父後水尾天皇、生母が藤原光子、皇后源和子(東福門院)が養母
111代後西――父後水尾天皇、生母が藤原隆子、皇后源和子が養母
112代霊元――父後水尾天皇、生母が藤原国子、皇后源和子が養母、御光明猶子
113代東山――父霊元天皇、生母が藤原宗子、皇后藤原房子(新上西門院)が養母
114代中御門――父東山天応、生母が藤原賀子、皇后幸子(承秋門院)が養母
116代桃園――父桜町、生母が藤原定子、皇太后藤原舎子(青綺門院)が養母
118代光格――父典仁親王(慶光天皇)、生母が橘磐代、母は皇妃成子内親王、皇太后藤原維子が養母
120代仁孝――父光格、生母が藤原ただ子、皇后欣子内親王
121代孝明――生母は藤原雅子、養母は皇太后藤原祺子
122代明治――生母が中山慶子(一位局)、養母は夙子(英照皇太后)
123代大正天皇は、嘉仁(明宮はるのみや)で、生母が柳原愛子(やなぎはらなるこ・二位局)、皇后美子(昭憲皇太后)が養母となることで皇位を継承することができました。

 いわば皇位の男系主義は一夫一妻多妾という方策で可能になったものです。そこでは、嫡出の皇子女は命名の即日親王宣下がなされますが、庶出の皇子女は「百日或は萬一年等に於て叡慮を以て親王宣下あるべき」(1875年)とされたのです。庶出の子は、嫡子の皇位継承者がないことを確認して、はじめて皇后の養子となることで皇位継承者の地位につくことができました。
 まさに皇后御養子の儀は、「嫡庶の別を重ぜらるる国体なれば、後来嫡出の皇子降誕の目途なき時にあらざれば容易に御養子に定めらるる事これあるべからず。庶出の皇子と雖も皇胤勿論なれば嫡出の皇子存さざる時に臨て長幼の順序に任せ、皇后の御養子として嫡出に定めらるるとも更に遅きにあるべからず」とされたのです。

女帝否認と一夫一妻多妾

明治天皇の皇子・皇女一覧

 「文明国」をめざして制定された大日本帝国憲法と皇室典範が規定した皇位継承は、女帝否認論であるがために、庶子容認論であり、一夫一妻多妾制度ともいうべきものに支えられて可能となったものにほかなりません。しかも女帝の否定は、自由民権を主張した改進党系の桜鳴社が「女帝を立るの可否」を討論した際、沼間守一が「論者は言ん。女帝を立てざるが為めに、皇統絶るときは如何んと。予は直ちに之に答んとす。既往二千五百年間此事なし、爾後も亦是れなかる可きのみと。論者にして尚ほ説あらんか。請ふ。其詳を悉せ」と論じています。この論は、推古、皇極、齊明(重祚)、持統、元明、元正、孝謙、称徳(重祚)、明正、後桜町と、女帝が存在したことを故意に無視した立論です。民権論者にしても男系論だったのです。
 思うに「萬世一系」という神話は、女帝の存在によって可能になったものですが、明治維新で「天皇」を制度的枠組みの中核に位置付けていく過程で、男系主義を原則とした国家の造形を目指す潮流が色濃く投影されたものにほかなりません。ここに登場した男系主義による「万世一系」という言説は、1929年5月3日の大審院判決によって、「我帝国は萬世一系の天皇君臨し統治権を総攬し給ふことを以て其の国体と為し、治安維持法に所謂国体の意義亦此の如く解すべきものとす」と、国体の原器とみなされたのです。
 まさに皇統は男系によるとの言説は、広く一夫一妻多妾という風潮が顕在化していた時代が可能にした枠組みであることに思いをいたし、昨今の皇室をめぐる議論を考えてみたいものです。
 なお、明治天皇には、皇后美子の他に権典侍葉室光子、橋本夏子、柳原愛子(正二位勲一等、二位局)、千種任子、園祥子らの女性がおり、5皇子10皇女をなしますが、多くが夭折しました。明治天皇は、男子が嘉仁(明宮)、後の大正天皇のみであることを憂えた元老から「逸楽のため召させたまふにあらず、誠に国家に致し、皇祖皇宗に対する大孝を全う」するためだと局の活用を説かれましたが、耳を傾けませんでした。天皇も「一夫一妻」の文明の習いにさからえなかったのだといえましょう。
 しかし現行の皇室典範は、第1条が「皇位は、皇統の属する男系の男子が、これを継承する」と規定し、継承順位を1)皇長子、2)皇長孫、3)その他の皇長子の子孫云々と、皇男子と定めており、大日本帝国憲法の世界とかわりません。いわば「皇男子」という論理が声高に説かれるのは、皇位の維持が一夫一妻多妾制によってはじめて可能になったことを凝視せず、いまだ「皇国」日本の原器だとみなす「信仰」によるものといえましょう。

 

参考文献

  • 大濱『天皇と日本の近代』 同成社 2010年

大日本帝国憲法という枠組 ―「皇国」日本という幻想(3)―

承前

 伊藤博文は、ヨーロッパでキリスト教がはたしている役割に代替しうるものとして、皇室を国民統合の要とみなし、国家の枠組みに天皇を精緻な制度体としてとりこむことに全能力をかたむけました。この制度体は、神話的な言説に粉飾されているものの、先進文明国であるヨーロッパの立憲君主制の枠組みを換骨奪胎し、日本型ともいえる立憲君主制を可能とする大日本帝国憲法として実現します。この国家造形に見られる作法は、文明の枠組みを分節化し、選別改変して、選択的に受容する、機能合理主義的価値判断にうながされたものです。まさに日本の近代化は、文明と天皇制が同時的に展開することで、国民国家への方途が可能となりました。ここに天皇という存在はどのように位置づけられたのでしょうか。

「帝国憲法」の構造

 大日本帝国憲法は、伊藤が説き聞かせたごとく、「国家統治の大権は朕か之を祖宗に承けて之を子孫に伝ふる所なり朕及朕か子孫は将来此の憲法の条章に循ひ之を行ふことを愆(あやま)らさるへし」と、「第1章 天皇」からはじまります。

第1条 大日本帝国は萬世一系の天皇之を統治す

 伊藤博文は、帝国憲法を解説した『憲法義解』において、第1条を次のように説いています。

恭て按するに神祖開国以来時に盛衰ありと雖、世に治乱ありと雖、皇統一系宝祚の隆は天地と與に窮なし本状首めに立国の大義を掲け我か日本帝国は一系の皇統と相寄て終始し古今永遠に亘り一ありて二なく常ありて変なきことを示し以て君民の関係を萬世に昭かにす

 日本帝国は、神武天皇の「開国」以来の万世一系の皇統による統治を「立国の大義」となすことで、国家存在の根拠としました。この「立国の大義」は、第2条、第3条によって、新国家における王権の在り方を規定します。

第2条 皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を継承す
第3条 天皇は神聖にして侵すへからす

 皇位は天皇の血を継ぐ男子がつぎ、天皇が「神聖」な存在であると。「神聖」とは、日本書紀巻一「神代上」冒頭にある天地開闢の記述で、「天(あめ)先づ成りて、地後に定る。然して後、神聖(カミ)其の中に生まれます」を受けたもので、「カミ」との意をこめたものです。しかし「カミ」なる天皇は、権力がいかに強大だとしても、

第4条 天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ

とあり、君主といえども憲法に規定された範囲を超える権力の行使が出来ないように君権を「憲法の条規」に封じ込めております。
 伊藤は、この条文に「抑憲法ヲ創設スルノ精神ハ第一君権ヲ制限シ第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」(「枢密院会議筆記・一、憲法草案」)との思いを託したのです。ちなみに第1条と第4条の矛盾ともいうべき関係は、憲法および皇室典範を「皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述」(「告文」)したものと位置づけることで、解消しました。
 しかし、天皇が「戦ヲ宣シ」(第13条)、その戦に敗れたりすれば、当然天皇に政治的な責任が生じかねません。そのため、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」との第3条で「神聖(カミ)」なる天皇であるがために無答責であると宣言し、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(第55条)と規定することで、国務各大臣に大権行使の責任を負わせたのです。
 たしかに陸海軍の統帥権をはじめとする「天皇大権」がありましたが、天皇が恣意的に「大権」を行使することはできません。そこには、内閣・元老、さらに軍等の意向を参酌せねばならず、天皇が独裁者の如くふるまう道はありませんでした。このような統治システムを「天皇制民主主義」とみなす論者もありました。ある意味でいえば、大日本帝国憲法の枠組みは、時代状況に応じて流動し、内閣や軍の意向に左右され、「天皇」の名による恣意的統治への道を開くことを可能にする世界でもあったといえましょう。
 それだけに大日本帝国憲法の運用は、天皇と輔弼者である大臣との信頼関係、端的にいえば制定者たる伊藤博文と明治天皇との情誼的な一体感をふまえた信頼関係の下で、はじめて運用の実、憲法に込められた理念が実現できたのだといえましょう。この情誼的・人的装置の喪失は、法の論理が先行することで、「機関説」「神権説」云々の論争の中に運用の妙が喪失し、統治機構の内的崩壊をもたらすことのなったのではないでしょうか。この課題は、大正から昭和にかけて、あらためて検証せねばなりません。

大日本帝国憲法にこめられた思い ―「皇国」日本という幻想(2)―

承前

 大日本帝国憲法は、1889年(明治22)2月11日、紀元節の「佳節」に発布されました。この日、王位継承の根本法典である皇室典範が制定されました。天皇皇后は、すでに1月11日に赤坂仮皇居より造営された新皇居である宮城に移っておりました。ちなみに「宮城」なる呼称は、1888年に天皇が住む「新皇居」を「宮城」と称すと告示したことによります。この「宮城」なる呼称は、1948年7月1日に「皇居」を「宮城」とした告示が廃止されたことで、「皇居」となりました。
 この一事には、ヨーロッパの王室制度を範にして天皇を統治の主体者とする制度としての皇室制度を設計するにあたり、西洋文明の仕組みに学ぶことで「天皇」という王権を位置づけようとした想いがうかがえます。まさに「皇居」なる呼称には、1945年の敗戦がもたらした衝撃をして、「天皇」という王権にこめられた特殊日本型の国家像たる「皇国」の神話に引き寄せることで、日本のnationality「国体」を誇示したいとの思惑がうかがえましょう。

統治者たる天皇が問いかけた世界

 天皇は、「告文」「勅諭」で、天壌無窮の皇統を継ぐ者として、「人文の発達」する時代の趨勢にしたがい、「皇祖の遺訓」を明らかにした「典憲」を定め、「内は以て子孫の卒由する所と為し、外は以て臣民翼賛の途を広め永遠に遵行せしめ」、大いなる帝王の下にある国家を強固にし、「八洲民生の慶福を増進」すべく、ここに皇室典範と憲法を制定したと、告げました。
 「憲法」発布は、「朕が祖宗に承くるの大権に依り現在及将来の臣民に対し、此の不磨の大典を宣布」すと。そこには、「我が臣民」が「祖宗の忠良なる臣民の子孫」であったことに想い致し、「朕が意を奉体し」て率先して従い行い、おたがいに「和哀協同」して「我が帝国の栄光」を「中外に宣揚し祖宗の遺業を永久に鞏固」にする望みを同じくし、この負担を分かちもつことを疑っていない。「国家統治の大権」は、「朕か之を祖宗に承けて之を子孫に伝ふる所」のもので、「朕及び朕か子孫は将来此の憲法の条章に循ひ之を行ふことを愆(あやま)らざるべし」と。
 朕は、「我が臣民の権利及財産の安全を貴重し及之を保護し此の憲法及法律の範囲内に於て其の享有を完全ならしむべきことを宣言す」と述べ、帝国議会を1890年に召集して議会を開会すると。かく天皇は、憲法発布がもつ意味を説き、各大臣が「朕が為に此の憲法を施行するの責に任ずべく、朕が現在及将来の臣民は此の憲法に対し永遠に従順の義務を負うふべし」と。かく語られた大日本帝国憲法にこめられた世界は制定者伊藤博文の意図を表明したものにほかなりません。

伊藤博文の思い

 憲法制定を主導した伊藤博文は、人心結合の器が仏教や神道に期待できないがため、「我國にあっては機軸とすべきは独り皇室あるのみ」と確信しました。まさに神の不在は、西洋諸国でキリスト教がはたした役割をして、「皇室」という存在に国家の根軸を託させることとなります。
 この「皇室あるのみ」との確信こそは、神が不在な日本において、天皇、万世一系の皇統につらなる天皇を神に代替しうる器とみなし、国民精神の拠り所に造形していくことだとの思いにほかなりません。この思いが結実した世界が大日本帝国憲法です。
 かくて伊藤博文は、憲法発布をふまえ、2月15日に枢密院議長官邸で府県会議長に対する憲法演説で、欽定憲法として発布された大日本帝国憲法にこめられた思いを懇切に説き語りました。そこでは、まず「憲法」が民との契約による「民約」ではなく、「欽定憲法」であることが強調されます。「欽定とは既に諸君の熟知せらるる如く、天子親ら定め玉うの辞にして、天子の特許して一国の臣民に賜与し玉うの義なり。故に此憲法は全く天皇陛下の仁恵に由り臣民に賜与し玉いしものなるを、恒に諸君の心に銘じて記憶せられんことを冀望す」と。まさに憲法は天皇の「仁恵」による賜物にほかなりません。この言説は、「我が日本国は、開闢の始より天皇親ら開き玉い、天皇親ら治しめすを以て、之を憲法の首条に載するは実に我が国体に適応するものと謂うべし。是れ他国の憲法と大に其構成体裁を同くせざる所以なり」と、日本開闢神話を「事実」とした王権の在り方を根拠としたものにほかなりません。
 かくて政府は、「天皇陛下の政府」であり、主権が天皇の玉体に集合し、天皇が任免した宰相が国政の責任を負う体制にほかならず、主権が人民にある共和国とは全く異なるものとなります。このことは、「主権は君主即ち王室に存し、未だ曾て主権の他に移りたるの事実なく、又移るべきの道理あらざるなり」という「開闢以来の歴史と事実」にもとづいたものであること。それ故、「仮令、議会を開き公議輿論の府と為すも、主權は唯だ君主の一身に存在することを遺忘すべからず。日本に於ては開闢依頼の国体に基き、上元首の位を保ち、決して主權の民衆に移らざることを希望して止まざるなり」と。この主旨をふまえ「苟くも帝国議会の議員たるものは、自己の選挙せられたる一部の臣民を代表するにあらずして、全国の臣民を代表し、敢て郷里の利害に跼蹐せずして、ひろく汎く全国の利害得失を洞察し、専ら自己の良心を以て判断するの覚悟なかるべからず」と、議員たるものの覚悟に説き及んでいます。
 ここには、「憲法政治」をかかげ、立憲君主制の定着をめざした伊藤の想いが読みとれます。まさに日本は、国民国家を造形すべく、西洋の立憲君主制の枠組を分節化して選別改変し選択的に受容する作法、機能合理主義的価値判断で「皇国」に相応し制度設計をすることで、日本型君主制ともいうべき「天皇制」を構築したのです。まさに「天皇制」は、日本の文明化と同時的に登場することで、その全容を整えていった制度体だといえましょう。そのための基本的枠組みは大日本帝国憲法と皇室典範にほかなりません。

 

参考文献

  • 滝井一博編『伊藤博文演説集』 講談社学術文庫 2011年
  • 坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』 講談社学術文庫 2012年

「皇国」日本という幻想

「皇国」という言説

 札幌農学校に入学する新渡戸稲造は、1877年(明治10)8月17日に養父太田時敏宛書簡に蝦夷地といわれた新開地北海道に行く決意を詠んでいます。

たらつねにはやうわかれて遠国へ 行く不幸も只た皇国之為免
北国もいとわず開らく稲の花 国益を恩ひば軽ろく我が命

 「皇国之為免」なる想いこそは、戊辰敗残の南部藩士末裔として、新国家に場をしめるための「遠国」行きこそが、「国益を恩ひば軽ろく我が命」なる決意をささえたものです。まさに「皇国」日本なる意識こそは、新渡戸のみならず、欧米列強の圧力下に生きようとした青年の心をささえたものにほかなりません。
 日本列島の住民は、欧米列強の風圧にさらされていくなかで、己が邦日本とは何かを想起したとき、天皇の国「皇国」であることに国家の存在根拠を見出し、ここに列強の圧力に対峙しうる場を見出したのです。「皇国」日本なる観念こそは、圧倒的な力で襲来してくる欧米文明に対峙し、「日本人」たる「我」を確認し、その存在を確かにせしむる言説をささえました。それだけに「皇国」という言説は、天皇が政治的主体となる制度的枠組-「天皇制」が整備されるよりはやく、独り歩きをはじめていたのです。
 戊辰内乱に勝利した新政府は、福井藩に招聘されたE・グリフィスが日本滞在中に見聞した世界を「ミカド主義」として提示した『ミカド―日本の内なる力』(亀井俊介訳/1995年)に読みとることができます。

新政府には金がなく、日本には実質的統一がなく、普通の日本人には真の愛国心がなかった。どこの国に生まれたかときかれれば、日本人の素直な返事は、その事情に応じて、「越前」とか「土佐」とか「薩摩」とかであった。個人的には、国家の意識は当時非常に弱かったのである。このようなばらばらの状態では、いつ内乱が起るかわからなかった。

 まさに日本人なる存在は、人心を結合する器とてもなく、「国家」を国家とする存在の場を見出せず、彷徨していたのです。この危機意識こそは「皇国」という言葉に託して己の場を確かめさせたものにほかなりません。

政府ありて国民なし

 福澤諭吉は、このような日本の在り方をして、「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」と指摘しています。この「国民」造型という課題は、万世一系の皇統という物語にもとづく「皇国」であることを過剰なまでに強調せしめたものにほかなりません。「皇国」なる観念こそは、民族の一体性を可能とする国民国家の器となしうるイデオロギーとみなされ、「国体」の原器だと位置づけられたのです。
 この国体は、「一種族の人民相集て憂楽を共にし、他国人に対して自他の別を作り、自から互に視ること他国人を視るよりも厚くし、自から互に力を尽すこと他国人の為にするよりも勉め、一政府の下に居て自から支配し他の政府の制御を受るを好まず、禍福共に自から担当して独立する者を云ふなり」(『文明論之概略』)と福沢が説きましたように、西洋のnationalityに相当します。まさに日本のnationalityは、「皇国」なるイデオロギーを信仰にまで高めることで、はじめてを確立しえたのです。このことは、危機の時代において、過剰なまでに国体信仰を宣揚する言説を横溢せしめることとなります。それだけに日本におけるNation-stateは、民族的一体感を「皇国」の民であるという唯一性を強調することで増幅しているように、その意味で「民族国民国家」ともいうべき相貌が強く刻印された存在だといえましょう。
 いわば新政府は、この「国体」「皇国」が提示する世界をして、記紀神話が説く「万世一系」につらなる天皇の物語を見出し、西洋の君主制度を選択的に導入していくことで制度的枠組み封じこみ、日本型の立憲君主制度としての「天皇制」の構築をめざしたのです。いわば「天皇」を根軸とした国家制度、「天皇制」は日本の「文明化」と一体となって生み出されたものにほかなりません。かくて天皇は、大日本帝国憲法と皇室典範という統治制度の枠組に封じ込められることで、政治的主体者となった己の場を確保しえたのです。

人心の結集―Nationalityの器とは

 天皇という存在を国家の根軸に位置つける制度設計は、西南戦争で西郷隆盛の軍団が壊滅したことを受け、板垣退助らの国会開設を大義にかかげる自由民権派を懐柔していくなかですすめられていきました。その主導者は、「維新三傑」といわれた西郷亡き後、木戸孝允が病没、大久保利通が暗殺されたことで、伊藤博文となっていきました。
 伊藤は、新生日本を欧米文明国を範とする立憲国家とすべく、日本に相応しい憲法制定をめざしました。そこで問われたのは、日本列島に暮らす人びとの心を一つにまとめる器とは何かということでした。日本に問われたのは、「グナイスト氏談話」(1885年、伏見宮貞愛親王が聞いた講義記録)が問いかけているように、

 人間自由ノ社会ヲ成サントスルニハ一ノ結付ヲ為スモノアルヲ要ス。即チ宗教ナル者アリテ人々互ニ相愛シ相保ツノ道ヲ教ヘ以テ人心ヲ一致結合スルモノナカル可カラザル所以ナリ。宗教ノ内自由ノ人民ニ其ノ善ク適当とすべきものを可成丈ケ保護シ、民心ヲ誘導シ、寺院ヲ起シ、神戒ヲ説教シ、深ク宗旨ヲ人心ニ入ラシムルニ非レバ、真ニ鞏固ナル国を成スコトヲ得ズ。兵ノ死ヲ顧ミズシテ国ノ為メニ身ヲ犠牲ニ供スルモ亦只此義ニ外ナラザルナリ。静ニ欧州ノ内富強ト称スル国ヲ見ル可シ。先ズ寺院ヲ興シ、宗教ヲ盛ニセザルハナシ。皆宗教ニ依テ国ヲ立ツルモノト知ル可し

と、日本の人心を結合せしむる精神の器を何に求めるかということでした。
 ここに伊藤博文は、憲法制定における課題につき、1888年6月18日の枢密院の憲法審議冒頭に問いかけました。憲法の制定は、「先ス我国ノ機軸ヲ求メ我国ノ機軸ハ何ナリヤト云フ事ヲ確定セサルヘカラス」となし、「機軸ナクシテ政治ヲ人民ノ妄議ニ任ス時ハ、政其統紀ヲ失ヒ、国家亦隨テ廃亡ス。苟モ国家ガ国家トシテ生存シ、人民統治セントセハ、宜ク深ク慮ツテ以テ統治ノ效用ヲ失ハサラン事ヲ期スヘキナリ」、と。この機軸は、欧州諸国が「宗教ナル者アリテ之ガ機軸ヲ為シ、深ク人心ニ浸潤シテ人心之ニ帰一」しているのに対し、日本では「宗教ナル者其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルヘキモノナシ」と、佛教・神道が「宗教トシテ人心ヲ帰向セシムルノ力」がない現状を指摘し、「我国ニ在テ機軸トスヘキハ独リ皇室ニアルノミ。是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用ヰ、君権ヲ尊重シテ成ル可ク之ヲ束縛セサランコトヲ勉メタリ」と、皇室こそが人心を結合せしめる国家の機軸に相応しい存在だと説き聞かせました。
 まさに伊藤は、師グナイストの言をまつまでもなく、Nationalityの器を皇室に求め、その存在を記紀神話がかたりかける物語で潤色することで「皇国」という神話を「国民の物語」として国民精神に埋めこむことが「国家」をして国家たらしめる方途だとみなしたのです。ここに「皇国」という言説は、統治の主体者と位置づけられた天皇をして、大日本帝国憲法と皇室典範という制度的枠組みにはめこむことで可能となった国家体制の根軸となる物語の器とみなされたのです。ここに生れた「天皇制」は、「皇国」という物語をして、時代に応じて多様に増幅されていくことで、国民の心を呪縛する制度的枠組みとして根づいていくこととなります。

 

参考文献

  • 大濱「「日本という国」の容を歴史として問い質す―日本人・日本国民たる我の場とは」 『北海学園大学人文論集』63号 2017年8月

天皇政府がめざした世界

承前

 徳川将軍家は、各種の執拗なテロのために、統治者たる権威を失っていきます。薩摩と長州らは、テロを武器に、将軍家の政治的権威を失墜させたのです。ここに新たな統治の権威とすべく京都の朝廷が浮上してくる。かくて長州・薩摩は、朝廷が日本の統治者であることをことさらに強調し、江戸将軍家の支配に対峙できる政治的場を確立していきました。かくて京都―天皇という磁場は、将軍家が鳥羽伏見で敗退したことで、一気に強力な権力の主体となっていったのです。

統治の器である天皇

 薩長を主体とした京都の権力は、1868年(慶応4年)正月3日に鳥羽伏見の戦いに勝利したのを受け、260余年にわたる幕府の統治を武力で解体すべく、7日に徳川慶喜征討の大号令を出しました。「王政復古」といわれる権力の交替は、10日に「開国の詔」「王政復古に付外国使臣に賜う国書」で諸外国に告知されました。
 「開国の詔」は、先帝孝明天皇が「多年宸憂」、開国の可否判断に苦しんできたが、幕府の「失錯」で今日に至ったものの、「今や世態一変して」鎖国攘夷をとるわけにいかないので、「宇内の公法に基き各国の交際を開く」から「上下一致して此旨を遵奉せよ」というものです。この宣言には、幕府の開国策が孝明天皇の夷人嫌いにはばまれ、噴出した攘夷感情が横溢させた「尊皇攘夷」を「大義」とする薩長が教唆したテロが幕府の開国路線を妨害したことなど一考だにしていません。まさに京都の政権は、勝者として、凡てを幕府の失政にすることで開国、「宇内の公法」たる万国公法―欧米文明の秩序観を規定した国際法の世界に参入したのです。
 かつ「王政復古に付外国使臣に賜う国書」は外交においても天皇の親政が始まったことを告げております。

日本国天皇、諸外国帝王及其臣人に告ぐ。嚮者(さきに)将軍徳川慶喜、政権を帰さんと請いたるや、之を制允して、内外政事親しく之ヲ裁せり。すなわち曰、従前条約、大君の名称を用いたりと雖も、今より後は、まさに換うるに天皇の称を以てすべし、しこうして諸国との交際之儀は、専ら有司等に命ぜん。各国公使斯旨を諒知せよ。

天皇という存在

 まさに「換うるに天皇の称を以てすべし、しこうして諸国との交際之儀は、専ら有司等に命ぜん。各国公使斯旨を諒知せよ」との宣言は、天皇が政治の主体になったことを天下に告知したものです。この宣言は、天皇が新しい日本を統治する政治の主体者たる存在としての認知を欧米文明国に求めたものにほかなりません。ここに大久保利通は、正月23日に旧来の天皇の在り方を問い質し、新たに天皇が政治の主体者たる王者に相応しい存在になるべきだと建白します。今までの天皇という存在は、「主上の存す所を雲上といひ、公卿方を雲上人と唱へ龍顔は拝し難きものと思ひ」、天皇の貌「龍顔」は見てはならないもので、天皇の身体を「玉体」と称し、「寸地を踏玉はさるものゝ様に思食させられ、終に上下隔絶して其形今日の弊習」なのだと論難し、かく問い語ります。

主上と申し奉るものは、玉簾の内に存し、人間に替らせ玉ふ様に、纔に限りたる公卿方の外、拝し奉ることの出来ぬ様なる御さまにては民の父母たる天賦の御職掌には乖戻したる訳なれは、此御本道理適当の御職掌定まりて始て内国事務之法起る可し

 天皇が新国家を統治する政治の主体者になるには、このような「雲上」の世界に秘匿された場から出て、ひろく見られる存在になることが求められたのです。ここに天皇は、宮中から外に出かけ、貌のある目に見える統治者になろうとします。新政府は、行幸等をとおし、天皇という存在を確かなものにしていきます。

「幼弱」天皇の決意と不安

 「幼弱」の身で即位した天皇は、慶応4年3月14日に国家の基本綱領を、「五箇条の誓文」と「億兆安撫 国威宣揚の宸翰」で天下に告げ知らせました。この政治綱領は、新政府の方針を、新国家を統治する政治の主体者である天皇の想いとして説いたものです。
 とくに「国威宣揚の宸翰」は、冒頭で「朕幼弱を以て猝に大統を紹き爾来何を以て万国に対立し、列祖に事へ奉らんと朝夕恐懼に堪へさるなり」と語り、武家政権の下で「朝政衰てより」「表は朝廷を推尊して実は軽して是れを遠け億兆の父母として絶て赤子の情を知ること能はさる様計りなし、遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果」た状況から説き起こし、最後に世界における日本の姿を提示しました。日本は、世界が大きく開け、各国が雄飛している「世界の形勢にうとく旧習を固守し一新の効」をはからず、「九重に安居し一日の安きを偸み百年の憂を忘るるときは遂に各国の凌侮を受け」ている。この現状こそは、上は「列祖」を辱しめ、下は「億兆を苦し」めることとなったのだと。そこで天皇は、親らが「四方を経営し汝億兆を安撫し遂には万里の波涛を拓開し国威を四方に宣布し天下を富岳の安きに置んことを」と、天皇の国日本の明日を言挙げしております。
 この決意は、「今日ノ事、朕自身骨ヲ労シ、心志ヲ苦メ、艱難ノ先ニ立」つことで、「治蹟を勤メテコソ始テ天職ヲ奉ジテ億兆ノ君タル所ニ背カザルベシ」と負うべき天皇の強き政治的主体性による宣言です。しかし天皇は、「今日朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて朝威は倍衰へ上下相離るゝこと霄壤の如し かゝる形勢にて何を以て天下に君臨せんや」と、高らかに「億兆安撫 国威宣揚」を問いかけたものの、おのれの統治に不安をいだいてもいた。まさに天皇の政治的主体性は、不安にさらされていただけに、文明国家としての法的枠組みを整備し、確乎たるものに造形されていかねばならなかったのです。

「義挙」とは何か―「攘夷」という大義の下に

「維新150年」が問いかけていること

 安部内閣は、2018年が明治維新から150年ということで、祝典を企画している由。この企画は、佐藤栄作内閣の下で営まれた「明治百年」の「祝典」を受けたものです。佐藤内閣は、1966年1月に古都保存法を制定して京都市(平安京)、奈良市(平城京)、橿原市(神武天皇―橿原神宮)等々の天皇にかかわる歴史的故地を指定し、「天皇の国」であることに目を向けさせ、さらに6月に国民の祝日法を改正、9月15日の「敬老の日」、10月10日の「体育の日」とだきあわせて「建国記念の日」を制定、12月8日に「建国記念の日」を2月11日とする答申をうけ、旧紀元節がここに衣替えをして蘇生したのです。この間には1968年が明治維新から100年ということで明治百年記念事業を国家的事業と営むことが決定されました。
 このような佐藤内閣の政策は、明治維新で誕生した「皇国」日本という物語を戦後日本における国民の記憶にすることで、国家の精神を造型することをめざしたものにほかなりません。国家の文化政策は、きわめて強い政治性を帯びたものであり、国民の歴史意識を規定するものなのです。
 かかる記紀神話のもとづく強い民族心を揚言する政治作法は、1968年に小笠原諸島返還、小学校における神話教育の復活をうながし、71年の沖縄返還、72年に沖縄県が発足することにみられますように、占領体制から日本の「真の独立」がここに達成されたとみなし、内閣の政治的遺産として受け継がれていきます。かかる国家ナショナリズムが揚言した民族的自覚は、帝国大学的体質で営まれてきた戦後大学の権威的体質に異議を申し立てる学生反乱が列島を揺るがせましたように、まさに国家の方途めぐり戦後日本の営みを根本から問い質すこととなりました。
 しかし国家の在り方は、神話的物語に照らされた国家ナショナリズムにのみこまれ、現在の安部政権が忠実に引き継いでおります。想うに安部晋三の母は岸信介の娘であり、岸は佐藤の兄、佐藤家の長男市郎が海軍の星として名をなす逸材との誉高い存在であったこともあり、秀才といわれた次男信介が岸家の養子となりました。3男栄作は、2人の長兄におよばない者とみなされた存在でしたが、市郎の死で佐藤家を継いだのです。
 まさに安部晋三は、岸・佐藤という「皇国」的な国家ナショナリズムの血を受け継いだ「大国」日本をめざしてきた家系の申し子にほかなりません。そのため安部晋三の世界は、中国と対峙するアジア戦略が物語るように、「昭和の妖怪」といわれる外祖父岸信介が終生想い描いてきた日本を盟主とする「大東亜共栄圏」の実現を夢想する外交戦略に引き継がれています。この思いこそは、自衛隊の海外派兵へ途を開くことで日米軍事同盟の強化をはかり、アジア諸国への艦船の供与で中国の海外進出に対抗し、北朝鮮の弾道ミサイル落下に対する挑戦的な指示で危機感を増幅し、国民の不安を煽り、テロ等準備罪という治安立法による国民監視体制の構築等々を強権的に推進せしめたものにほかなりません。
 かかる体制がめざす世界には、「維新150年」を宣揚することで、西洋文明の圧力に抗し、維新の復古革命で日本が世界に名をなす「大国」、「軍事大国」になりえたのだという思いこみにちかい歴史像があります。では「維新」への道を開いた、「タイクン」の国といわれた江戸将軍家の統治を崩壊に追い込んだ一撃は何にはじまったのでしょうか。

御一新―維新へ奔らせたもの

 1853年(嘉永6年)のペリー艦隊の浦賀入港、54年の日米和親条約による開国がもたらした衝撃は、後に「嘉永癸丑」の年として、御一新―維新による新国家創成の原点と意識されました。この「黒船」来航は、列島を覆う衝撃波となり、人心をゆるがしたのです。日本の開国は、イギリスの産業革命に象徴される資本主義の波動が日本に到達、世界がひとつになったことでもあります。かつ「未開野蛮」「暗黒の国」とみなされていた日本を「文明の光」で照らすものだともみなされた営みでした。この波動こそは、江戸将軍家の統治を揺るがせ、日本列島をひとつとすることで対外危機に対峙する方策を模索させました。
 1858年の日米通商条約調印をめぐる朝廷と将軍家の対立は、京都の朝廷を政治的な場に登場させ、将軍家に対抗する諸大名が「京都」をかつぐことで江戸に対抗する途を用意しました。彦根藩主井伊直弼は、大老に就任、将軍家の統治を強化すべく京都におもねる諸大名とその背後で教唆先導する「志士」を自称する武士を厳しく処断しました(安政の大獄)。
 井伊大老は、開国に舵を切り、将軍家の全国統治を強権的に推進することをめざしたのです。直弼は、オランダ学に心開いた「蘭癖大名」であり、「一期一会」を説いた茶道に通じた大名でした。このような人物の登場は、将軍家に対抗する者にとり、排除すべき存在とみなされたのです。かくて井伊直弼は1860年3月登城中の行列を水戸・薩摩の武士集団に襲撃され、殺されました(桜田門外の変)。
 この事件は、討幕攘夷を掲げた勢力にとり、個別的な襲撃で政治状況を変えていくという作法の先駆けとなったものです。この作法は、圧倒的な武と富を占有することで徳川王国を担う「タイクン」の政府に対抗すべく選択した、個別分散的な武力行使にほかなりません。諸藩の脱藩浪士は、将軍家の治安を揺るがせ、将軍家に近い公卿をはじめとする人物への執拗な襲撃で己の政治的場を世間に知らせようとしました。かかる作法は、当世風にいえば「テロ」そのものです。かかる「テロ」は御一新により徳川王国が滅び、天皇を頭首として明治の新政府が登場することで「義挙」とみなされ、そこに倒れた「テロリスト」は「義士」として称揚され、靖国神社に祀られました。

義挙―正義のために起こす企てや行動

 開国に世上が激変していく19世紀後半は、桜田門にはじまり、老中安藤信正を襲撃した坂下門外の変 、一方に品川東禅寺のイギリス公使を襲撃、さらに京都や江戸で大きな商家に押し込み「御用金」強奪。江戸では薩摩邸を拠点に西郷隆盛の教唆による相楽総三らの浪士集団が江戸の治安を攪乱すべく「御用党」を自称して商家を荒しました。そのため将軍家は治安出動として薩摩邸を襲撃。
 思うにこれらの事件は、時の権力を脅かし、自己に有利な状況を創り出すための武力行動、世上人心に恐怖をばらまくことで秩序に孔をあけ、自己に優位な状況をつくり、さらには権力を奪取するための企てにほかなりません。昨今成立した「組織犯罪処罰法」改正による「テロ等準備罪」なるものに該当するものこそは、桜田門をはじめとする水戸、薩摩、長州等々が教唆先導し、暗に実行した血生臭い諸事件です。いわばテロ等の諸行動は、新たな状況下で「義挙」「正義の行動」とみなされ、世が賞賛し、歴史に名を遺させることともなります。歴史を読むということは、この逆説がもつ世界を凝視し、世間日常の「正義」に対峙できる目をきたえる作法にほかなりません。「維新150年」なる言説はこの目で問い質したいものです。

8月15日という物語 ―天皇は敗戦占領にどのように向き合ったのであろうか―

「終戦」という言説

 戦後の日本は「敗戦」を「終戦」と語ることからはじまります。歴史の教科書は、1945年(昭和20)8月15日のポツダム宣言受諾による終戦を告げる詔書が大書するものの、9月2日の米艦ミズーリ号上において重光葵外相が降伏文書調印の日に想い致しているでしょうか。昭和天皇は、その2日後9月4日の帝国議会開院式の勅語で「朕は終戦に伴ふ幾多の艱苦を克服し国体の精華を発揮して信義を世界に布き平和国家を確立して人類の文化に寄与せむことを冀ひ」と、戦後日本がめざすべき国家像を「平和国家」だと宣言します。「平和国家」なる言葉は、この勅語ではじめて使用されたもので、「国体の精華を発揮」するという脈絡でかたられたものです。
 ここに日本は敗戦後の国家像を「平和国家」への道に求めることとなります。この思いは、日本国憲法が第9条で「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」したがために「平和憲法」とみなし、国民が護持すべきものという戦後「神話」を説きかたらせることとなりました。しかし「平和憲法」なる神話は、戦争が「平和」の大義をかかげておこされてきた歴史を思いみれば、警察予備隊から自衛隊へ、防衛庁が防衛省に、さらに昨今では「国防軍」への改称が云々されているように、きわめて脆弱な物語です。それだけに第9条は、「平和国家」幻想による「平和憲法」を宣揚するのではなく、「非軍備憲法」「非武装憲法」であることを明確になし、戦後日本がいかなる武力・軍事力にも依存しない非武装国家をめざしたのだと提示すべきだったのではないでしょうか。憲法改定が世上をにぎわしている現在こそ、日本国民は敗戦にどのように向き合ったかを問い質さねばなりません。そこでまず昭和天皇が「国体」なる言説に囲い込んでかたりかけた「平和国家を確立して人類の文化に寄与」するなる言説は、敗戦占領とどのように向き合い、思い致した歴史認識から発せられたものかを読み解くこととします。

天皇が「人間宣言」で問いかけた世界

 昭和天皇は、敗戦の翌46年年頭「詔書」で、新たに再生する日本の原点を明治維新の時に提起した五箇条の誓文が説く世界に「民主主義国」日本の原点を見出し、ここに国家の存在の場を確認し、「終戦」を受けいれた天皇が「人間宣言」をすることで、戦後日本の方向性を国民に提示しました。「詔書」は、明治天皇が国是として下した「五箇条の誓文」を掲げ、「叡旨公明正大、又何をか加へん。朕は茲に誓を新にして国運を開かんと欲す。須らく此の御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以て民生の向上を図り、新日本お建設すべし」と説き、敗戦で「焦躁に流れ、失意の淵に沈淪せんとする傾き」がある国民に「朕は爾等国民と共に在り」と語りかけます。「失意の淵に沈淪せん」とは、幣原喜重郎首相が詔書原案を英文で起草した際、17世紀の伝道者ジョン・バニアンの『天路歴程』第一部第一節にある語句“the Slough of Despond”を日本語訳したものだといわれています。

朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神(あきつみかみ)とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものに非ず。

 この宣言は、「天皇の人間宣言」として敗戦国民の脳裡にすりこまれ、「象徴天皇」への道をきりひらきます。しかし「人間宣言」が提示した戦後日本の国家像は、明治維新で語られた「天皇の国」という物語を受け継ぐ、迷うことなく継承していくことで戦後日本の在り方を定め、そこに紡ぎ出された「日本という物語」を戦後日本に相応しい物語として改鋳していくことにほかなりません。そこには、敗戦を主体的に受けとめ、新生日本への想いを見出すことが出来ません。

昭和天皇にみる歴史認識

 占領下におかれた天皇の想いは、1946年1月22日の歌会始で、歌題「松上雪」によせて詠んだ天皇の歌に率直に吐露されています。

ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしく人もかくあれ

 この歌題「松上雪」によせた歌は、「平和と苦難へ 畏き大御心」と紹介されていますように、占領下を生きる国民へのメッセージにほかなりません。敗戦という現実を凝視する昭和天皇の脳裡には、白村江の敗戦を受けとめた天智天皇があり、大陸の国家原理を学ぶことで律令国家日本を構築していく天武天皇にはじまる治世があったのです。ここには、白村江の敗戦により唐帝国の制度文物を受容して「大君を神と」詠いあげる律令国家を形成していったように、アメリカデモクラシーを五箇条の誓文に表明された世界に通じるものとみなし、この「誓文」を「日本の民主主義」の原点に位置づけることで戦後国家を建設するのだという強き思いが読みとれます。
 昭和天皇は、こうした敗戦占領下にある日本の国民によせる思いを1947年には

冬枯のさびしき庭の松ひと木色かへぬをぞかがみとはせむ
潮風のあらきにたふる浜松のををしきさまにならへ人々

とも詠んでいます(『おほうなばら 昭和天皇御製集』1990年)。これらの歌には、厳しい冬の風雪や荒き潮風に耐える松のように、占領下であろうとも雄々しくありたいと、皇国日本の民によせる思いが表白されています。

現在(いま)、日本が問われていること

 戦後日本の物語はかかる天皇の歌に封じ込められた世界からはじまったのです。この「ふりつもるみ雪」は、民族の心を高らかに奏でた歌とみなされ、2002年(平成14)2月に小泉首相が施政方針演説でふれ、サンフランシスコ講和条約が発効して61年目にあたる2013年4月28日に天皇・皇后を迎えて開催された「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」で安倍首相も引用しました。想うに戦後日本は、敗戦を凝視し、新生日本の方途がいかなる「平和国家」をめざすかを問い質すこともないまま、明治維新が説いた「文明」的秩序をして、「民主主義」の範例とみなし、明治国家がめざした軍事による「大国日本」への道程をして、「経済大国」なる方途に読み直して歩み続けたのです。そこには非武装をささえる道義国家たる「小国日本」という在り方が忘却されています。
 現在問われているのは、維新150年という「祝典」が企図されている前夜、東京オリンピックなる狂騒に踊らされることなく、私が主語で8月15日の敗戦に向き合い、己の足場をかため、日本の明日に想いをめぐらすことではないでしょうか。日本の体力は現在まさに「失意の淵に沈淪せん」 “the Slough of Despond”という状況下にあります。それを打開する術は強権的支配で現状の打開をめざすために異分子を排除していく作法にあるのでしょうか。そこで次回からは、徳川将軍家の強権的支配が日常化していた時代、かかる時代の閉塞状況に向き合い、己の場を確かめる作法に何が求められたかを歴史として問い質すこととします。

16世紀という時代(7) ―「沈黙」の世界に生きた人びと―

承前

 昨今話題となったマーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙サイレンス』は遠藤周作の作品を映画化したものです。私は、神々が宿る国日本におけるキリスト教の受容とは何かを問いかけた遠藤の作品をして、キリスト教国の人間がどのように描くかに興味がありました。しかし遠藤が己の信仰をかけたとも言える作品は、キチジローを狂言回しとした一種の道化芝居とも言うべき映画になっていたのではないでしょうか。フランスの友人からはローマ教皇がキチジローの姿に笑いだしたとの手紙をもらいました。世間がこの映画をどのように評価したか寡聞にして知りませんが、禁教下で生きたキリシタンの信仰をここで確認し、信仰に生きるとは何かを考える一助にしたいと思います。

Ⅱ)コンフラリアの相貌

 キリシタンは、秀吉から家康、さらに家光へと、踏絵、宗門人別帳、キリシタン類族帳等々による徹底した禁教体制下で生きねばなりませんでした。この体制下にあってもキリシタンは、先祖伝来の信仰としてデウスの信仰に生き、開港後にその存在が発見されました。そこには、厳しい迫害に耐えて生きるべく、同心協力の講組が結成されていました。ルイス・フロイスは、1592年10月1日付年報で、次のようにキリシタンの姿を報じています。

奉教人たちは迫害いよいよ進みしに拘わず、各地においてその勇気を保持したり。そのため彼らは一種の組合を作り、毎日曜日に信者たち団体またはあちこちの家に集まり、アニマ(霊魂)のために勤め、数時間を費せり、即ちスピリッアルの書を読み、また語り、一斉にオラショをなし、キリシタン宗門のため、またパーデレなどの聖教恢復のためデウスに祈り、主なる祝日を祝い、またクアレズマの金曜日には身を苛めて、聖週の日には血を流すに及べり。それらの暦日はよく心に止めたり。暦は既に日本語にて印刷せられてありたり。都にはこれらの組合七、八つあり。婦女子たちも亦男子とは別に集会し、またかかる方法にて信仰を保ちたり。而してこの勤行をよくするため、御主デウスは各地に熱心なる奉教人を作りたまえり。彼らはこの組合の頭として他の奉教人たちの尊敬と愛とを受けたり。彼らのうち、ある者は才能ありて説教し、また『どちりなきりしたん』を教へたり。唯信徒を助けるためならず、またこの説教を聴き、その回答を習いて新に宗門に入るもの年に甚だ多し。

 このような信仰共同体は、1559年(永禄2)に豊後府内で結成された慈善救貧施療をなすミゼリコルジャの組をはじめとし、1604年(慶長9)有馬で「お告げの組」、05年京都の「サンタマリアの組」、久留米に「お告げの組」、06年に肥後八代に「ミゼリコルジャの組」、07年長崎に「イエズスの聖名の組」、10年「長崎聖母被昇天の組」、平戸に「サンタマリアの組」、さらに長崎には11年「至聖聖体の組」、「聖ミカエルの組」、12年江戸に「ロザリオの組」、長崎に「アウグスチノ・コルドンの組」、13年有馬に「マルチリヨの組」、江戸に「セスタ講」等々と、キリシタンが所在した各地に結成されて行きました。

Ⅲ)組の目的と構成

 この組は、デウスの保護により、イエスの福音を伝え、「組衆各々の利益のみならず、まことのあにま(霊魂)のたすかりの世話のため、並びにきりしたんだあでの導きのための抉けなり。これによりてきりしたんは諸々の班と組とに分たれ、万事に於いて益々よく、容易く助けと導きとを見出すことを得るなり。これにより迫害の時に方りてまことに唯一無頼の利益を生きるものなり。」と位置づけられていました。
 その組織は、同一地方を統括する地域の名称を付けた親組、その下に500-600人で構成された祝日名かサンタマリアの連祷のなかの語句を尊称とする大組、さらに50人の男からなる小組から成っていました。妻子や未婚の男女は家主・地主の組数に入ります。そこには大親・小親(組親)がおり、その下に惣代、「慈悲のぶんぐこ」といわれる組員の面倒をみる慈悲役という年柄の女がおり、組員をまとめ、物心両面でささえていました。
 組員には、「四つの祈り、即ち、はあてるのうすてる(主祷)、あべまりや(天使祝詞)、けれど(使徒信教)及び十のマンダメントス(十戒)」を遵守し、さらに「組に於いて堪忍叶はざる科」という掟が課されていました。

1、ただしからざる方法により、また至当なる穿鑿なく人を殺すこと。
2、予めこんひさん(告解)をなすべき機会を与へず、或はきりしたんに非る場合、予めひいでず(信仰)を教へばうちすも(洗礼)を授からしむることなく、人をころすこと。
3、生るるに先立ち、また生れたる後子を殺すこと。
4、公にひろめありたるゑけれじや(教会)に於いてまちりもによ(婚姻の秘蹟)を受けず結婚すること。
5、夫婦の如く公然と同棲すること。
6、遊び者とて評判悪しきこと。
7、正当なる妻を離別すること。
8、きりしたんなる少年少女をぜんちよ(異教徒)に売ること、わけても海を越えてぜんちよの国々へ送ること。
9、てかけとなし、また金を儲くるために、己が娘を他人に与ふること。
10、己が家を姦淫の場に供すること、また他の者に此の職業を営ましむること。
11、公然の不和、またゑすかんだろ(躓き)の種子となるべき不和。
12、えけれじやに対し公然おべぢゑんしや(従順)を拒むこと。
13、二度三度組親または役人より諌めを受け、終にははてれよりも諌められたる後も、これに耳をかし、科を改むる意志なきこと。
14、ひいですを表すこと弱く、たとへ表のみなりともぜんちよに譲ること。

Ⅳ)信仰に生きるということ―蓮如が問い語る世界

 このような信仰の世界は、キリシタンのみならず、15世紀に蓮如によって各地に組織された一向門徒にもみることができます。蓮如は、越前吉崎に道場が建設された1471年(文明3)12月の御文で、門徒衆に「一心にふたごころなく弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり」と、信仰のありかたを問いかけています。このような信仰こそは、門徒衆が一向一揆で加賀に本願寺の領国を生み出し、16世紀に信長などの戦国大名と対峙せしめたのです。百姓衆は、己の心のありかをもとめ、弥陀一仏の悲願にすがる信仰に生きようとしたのです。想うに蓮如の御文はキリスト教でいえば新約聖書にあるパウロの書簡のようなものといえましょう。両者には信仰者としての共有し得る世界があるのではないでしょうか。

Ⅴ)沈黙に向きあい

 日本の16世紀は、ヨーロッパの宗教改革の波動を受けたイエズス会の宣教でキリシタンの時代とも言われますが、その根に蓮如による門徒衆の躍動が新しい時代の先駆けとしてあったのだといえましょう。戦国乱世と称される時代は物心両面で新秩序の形成期でもあったのです。
 16世紀のキリシタン衆は、門徒衆が手にした信仰世界に通じる心の世界を己のものとすることで、厳しい禁教下を生きることができたのです。その信仰は、絶対者たる神の応答を期待する信心ではなく、如何に過酷な状況下にあっても己の信をひたすらにつらぬいて生きる歩みにほかなりません。絶対者なる造物主たる神は人間の応答にただ沈黙する存在なのではないでしょうか。人間は神の沈黙に向き合い、仰瞻ることで生きていく己の場を確かめよりほかない存在なのではないでしょうか。
 昨今の教育界で喧伝される「道徳教育」で問われるのは、宗教の教説を解説するのではなく、時代を突破せしめた信仰とは何かを問いかけることで、己の生きて在る場を凝視できる目を育てることです。その方途は、キリシタン衆が沈黙する者の前に佇み、この世的に報いのない世界を生きようとした心の在り方を己の場から問い質すなかに見出したいものです。

16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(6)

承前

 ヴァリニャーノは、どのように日本と日本人を読み解き、いかなる方策を提示したのでしょうか。

宣教に問われたこと

 日本宣教方策は、カブラルが切り捨てた日本人への対応を否定し、まず日本人修道士・同宿とヨーロッパ人宣教師との統一融和をめざすことからはじめました。同宿とは教会などで宣教師らの身の回りの世話をなし、日本人信者との間をとりもつ人々。

1)イエズス会に入る日本人を、あらゆる点でヨーロッパ人修道士と同様に待遇し、同宿もその身分に応じて同様に扱うこと。
2)イエズス会の会則に応じて、温和と愛情をもって日本人を待遇し、徳操と宗教的贖罪を教えるように努力する。かくて我々の中に、粗野や激情、怒りによる動揺、無礼や侮辱的言辞を感じさせないようにする。常に彼等を道理によって指導し、納得させ、贖罪や処罰においても、感情でではなく、愛情をもって待遇し、すべて彼等の幸福と利益の為に努力していることを理解させなければならぬ。
3)習慣や態度、挙措の異なる他国民に、悪い感情を抱いたり悪口を述べてはならぬという我等の規則を厳格に遵守すること。
4)あらゆる努力をもって日本の習慣、その他のものを修得し、喜んでこれを遵守せねばならぬ。
5)我等はヨーロッパ人の嗜好をすべて放棄し、自らを制して彼等の嗜好に合わせ、彼等の食物に適応せねばならぬ。

 ここに日本人は、ラテン語の学習への道が開かれ、イエズス会員への道が用意されたのです。この宣教団内の改革のみならず、宣教師には日本の生活に可能な限り順応していくことが説き聞かされております。その一端を日本人との社交、付き合いについての言及にみることとします。

日本人とどのように交際したらよいのか

 ヴァリニャーノは「日本の習俗と気質(カタンゲ)に関する注意と助言」で、「パードレやイルマンが日本の習俗や気質にあてはまった行動をとる」指針を提示します。その指針は、日本人と付き合うにあたって権威を獲得し保持するための取るべき方策で重要なこととして、「身分、位階についての様々の等級があり、すべてのものがこれをこの上もない熱心さをもって守ろうと努め、各自が自己の身分、位階に適ったことより以上にも以下にも行動しないように」、身分に相応しい行動が必要なことを繰り返し説いています。それは、手紙の出し方から、来客の迎え方―座敷に上げるか否か、お茶の出し方等々にまで詳細にわたるものです。かつ領主との関係は、ヨーロッパの政治と非常に異なるから、「軽々しく動いてはいけない」、「領主の意志を汲みとることのできる何人かの立派なキリシタンに十分」に相談した上で対処し、「いかなる領主にも大砲やその他の武器」を斡旋しないこと、等々。さらに領主、国衆、奉行、「騎士」は何処の座敷に通せばよいか、中間、町人、百姓は立場によって門前か玄関口か、女性にはいかなる座敷の出入りをするにせよどのような挨拶も儀礼もしてはならない。パードレは座敷で待っていなければいけない。縁側まで送って行きたいと思うほどの「貴婦人」は別であるが、と。礼儀作法がきわめて厳格な階層秩序にもとづいていることを繰り返し教えています。そこでは、盃と肴のやりとり、宴会と贈物等々におよぶ諸注意が詳細に述べられています。まさに「礼法指針」が説き聞かせた世界は、日本人が日常的に営んでいた暮らしの仕方を「異文化」とみなしたがために記録したわけで、16世紀の日本における暮らしの作法にほかなりません。日本の暮らしにみる階層的秩序と男女差が読みとれます。宣教師はこの手引きで日本人の心にせまったのです。

宣教をめぐる確執

 このような順応策は宣教師に素直に受け入れられたものではなく、ヴァリニャーノの反対派は、カブラルのみならず、少なからず存在していました。その一人、ペドロ・ラモン(1577年来日)が生月から出したイエズス会総会長宛(1587年10月15日)の少年使節の「欺瞞」を告発した書簡に読みとれます。この告発は、日本宣教の成果を誇大に宣伝し、王侯貴族からの多額な宣教資金を獲得し、巡察師としての己の場を教会内で固めようとの思惑に対する反発にほかなりません。
 この書簡は、ともすれば神話化されてかたられてきた遣欧使節像を問い質し、派遣をめぐる宣教団内における確執、さらに禁教下における日本宣教を問い質す素材ともいえましょう。禁教下の宣教師が「フェリペ国王の手でこの日本国内に要塞を一つ獲得しなければならない」との想いを表明していることは、ヴァリニャーノがめざす宣教方策と全くことなるものですが、キリシタンの存在をめぐる17世紀の日本の選択を読み解く一つの手がかりともなりましょう。

少年使節の欺瞞―今年起こった出来事は、事の経緯を知っている当地のわれわれ会員にとって非常に驚くべきことであった。またそれが、日本人の間でわれわれのことについて強い不評を買う原因となったのも事実である。それは、御地に赴いた例の日本の少年たちについて行われたことであって、御地から届いた書簡によると、彼らのことを日本の領主とか王公と呼んでいたが、彼らは御地にとってはなんらの価値のない者で、日本においては非常に貧しく、あわれな貴族にすぎない。猊下に断言するが、御地で彼らに対して行われた事を聞いた時には、私は恥ずかしさで顔をおおったほど驚いた。われわれ会員について多分最も良く理解している日本人たちがそのことから得た教訓は、イエズス会士はこのように事を偽ってまで日本でキリスト教界をつくろうとしたので、神は会員を日本から追放することでこれに正当な罰を与え給うた、ということであった。というのは彼らは御地に赴いた少年たちを知っているので、御地に送られた情報のために、想いもよらないことを御地で信じ込んでしまっている、としか、彼らには言いようがない。(略)
関白殿はわれわれ全員の日本追放を命ずるに至り、われわれにはこれに対する確実な対策がない。これはすべて、イエズス会も教会も、このような窮状に際し避難できるような確固たる基地を日本に持たないところから生じている。このため、このような基地を持つことが何にもまして必要である。そしてそれには、フェリペ国王の手でこの日本国内に要塞を一つ獲得しなければならない。

 日本は、南北朝から応仁の乱へと秩序が流動していくなかで、ルターの登場がもたらした波動がキリスト教世界に奔った衝撃の渦に向き合い、16世紀を開かれた時代としました。時代の活力は、キリシタンの世界に対峙することで、17世紀に列島を一つとする秩序が可能となったのではないでしょうか。この時代が奏でる転換期の相貌は、キリシタンが他者なる存在である日本を記録した世界を読み解くとき、日常化された日本を現在読み直す手がかりを提示してくれましょう。日本・日本人なる言説が夜郎自大的に増幅している昨今、開かれた時代にみる他者認識の在り方とは何かに目をとめてみたらいかがでしょうか。