戦後70年をみつめ

70年という年

 2015年、今年は1945年8月15日のポツダム宣言を受諾、降伏したという「終戦」を告げる玉音放送から70年ということで、「戦後70年」をめぐる各種の言説がマスコミをにぎわせています。この敗戦から70年ということは、1945年6月から義務兵役制が15歳の男子を兵役に就かせることが出来るようになったことをふまえれば、現在85歳以上がこれに相当するわけです。85歳以上の人口比は5%を切っています。かつ、戦場体験がある人は敗戦時20歳以上でしょうから、現在90才以上に相当します。このことは、戦争体験、なかでも戦場体験をして、己の言葉で戦場の死を語れる世代が今後年とともに亡くなっていくことにほかなりません。
 日本は、米英中露等の連合国、日本に宣戦布告をした国が60ヶ国ちかいように世界を敵として、イタリア、ドイツ降伏後は日本一国で世界を相手に戦争を続けたのです。その「終戦」は、焦土決戦を呼称し、天皇の「臣民」である国民を楯として、皆殺しても「天皇の国」を守るとして戦争を続けたはてに、「国体」は守られたとしての降伏でした。この敗戦という痛覚は、「終戦」と言いかえられ、8月15日を「終戦記念日」として先祖迎えの御盆行事にのみこみ、降伏文書を調印した9月2日を無化することで、国民の記憶から故意に忘れられていきます。
 それだけに敗戦後70年という現在は、日本の戦争とは何かを戦場に生きた人びとに同伴し、その追体験をふまえて問い質せる最後の時とも言えましょう。そこで、革めて70年の現在、何が問われているのかを考えてみることにします。

敗戦という現実に向き合ったろうか

 日本国民は「敗戦」に目を向けたことのない民族ではないでしょうか。世界の歴史は、民族の興廃、国家の興亡として描かれており、民族の敗北、滅亡を凝視するなかに国家を新生させていく物語です。しかし日本という国は、歴史をさかのぼれば、663年の白村江で唐と新羅の連合軍に大敗、日本軍は百済の遺民を引きつれて日本に逃げ帰ったことがあるものの、民族としての敗戦体験を問い質したことがないようです。
 白村江の敗北は、天智天皇をして外的襲来に備え対馬・壱岐・筑紫等に防人を配置、筑紫に水城を、都を守る山城を造営、琵琶湖がひかえる近江大津宮に遷都したように、外国の侵攻に怯えさせました。天武天皇は、兄天智の敗戦体験を引き受けながらも、外敵に侮られないだけの国家の造型をめざし、律令による国家の整備をすることで、「大君は神にしませば」と寿がれるまでに王権を強化し、国家体制を整備します。
 しかし天武王朝の歴史は、国家存在の要に天皇の物語として説くものの、敗北を問い質すことはありません。国家の歴史は天皇を起源とするを神話として語る作法で潤色されたのです。このような歴史の作法は、その後もモンゴル襲来を「神風」で乗りきったという「神国」日本の物語で語り継ぐことで、民族の体験として「敗北」「敗戦」がない「神国」という幻影に依存する歴史認識を日常化していくことともなりました。
 このような歴史認識は、「大東亜戦争」に対しても、敗戦という現実を受けとめることができないまま、「終戦」と読みかえる歴史の読み方をなさしめたのです。日本人は「敗北」を己の問題として問い質すことが出来ない民族なのでしょうか。そこには、常にある種の「勝利」感覚にかくれて世渡りすることが好きな民族の遺伝子が埋め込まれているようです。このことは、経済大国日本の後退を認めたくないがために、いまだに「経済大国」日本の幻想によりそい、「美しい日本」と潤色し、敗戦で貶められた日本のあり方を「戦後レジューム」と問いかけることで否定し、「積極的平和主義」を唱えて「大国」日本を言挙げする安倍晋三首相の言動に読みとれましょう。

「戦後レジューム」という幻想

 敗戦後の日本はどのような国家をめざしたのでしょうか。たしかに日本国憲法、なかでも第9条が説く国家の非軍事化を「神話」とした「平和憲法」という言説による「平和国家」への道が理想化されています。しかし国家のかたちは、第1条が規定した天皇を象徴となし、天皇に付与された「平和」であり、「人権」でしかないのではないでしょうか。この第1条は、1946年1月1日の詔書で天皇が自ら現人神にあらずと述べた「人間宣言」をふまえたもので、明治天皇が国是として示した「五箇条の御誓文」を冒頭にかかげ、日本の民主主義の原点を提示したことをうけたものです。
 敗戦後の新国家は「五箇条の御誓文」を源流とする「民主国家」をめざすものでしかなかったのです。そこで問われるのは、第9条の非軍事国家という理念を内実化していくうえで、国民主権を実態化するために第1条にどのように向き合うかではないでしょうか。この第1条を「私」の問題として問い質すことが現在求められているのです。「戦後レジューム」克服を説く論者は、第9条の非軍事化国家像よりも、天皇を「象徴」から「国家元首」とすることで、戦後日本の国家像を変更することをめざしています。
 このような動向にある種の危機感をいだいているのは現天皇明仁であり、皇后美智子です。その言動は、激戦地への弔慰の旅であり、「先の戦争」と「大東亜戦争」にことよせて語る「平和」への思いにうかがうことができましょう。
 安倍首相は、アメリカの議会演説で合衆国の戦死者を刻したフリーダムウオールにふれ、第2次大戦における合衆国の若者の崇高な死にふれ、日本の戦死者と同じにみなしました。しかし日本の戦死者は、「自由」のために命をささげたのではなく、天皇に死を強要されたのです。この知の落差、国家のありかたへの無知、無感覚が日本の首相の歴史認識なのです。その意味では、現天皇皇后の方が国家の強要した死の重さを己の痛覚として知っているのではないでしょうか。
 想うに、戦後70年という現在ほど明治の「五箇条の御誓文」から読み解く「民主主義」ではなく、私が一個固有の存在であるという原点にささえられた人権のあり方から国のかたちを問い質したいものです。「美しい国」日本などと「先進国日本」幻影に酔う実態のない空虚な言説に流されることなく、日本という「国のかたち」を「私」の場から問い質し、「五箇条の御誓文」に依拠した国家の物語ではない、国民の物語を創りたいものです。

『官報』昭和21年1月1日発行

参考文献

  • 大濱『天皇と日本の近代』同成社 2010年

兵隊を育む教育

若林虎三郎編『小学読本』第二(明治17年)第27課

 明治維新で誕生した日本は、吉田松陰らの幕末志士が欧米列強による侵略、日本が植民地にされるのではないかという危機感を共有することで、列強に追いつくために日本を天皇の下に一元的に統治する国家の形成をめざしました。国内の一元的統治は、列島にある地域的な固有の言語、方言とよばれた言葉を列島共有の「国語」に造型するとともに、天皇が統率する軍隊によって推進されます。ここに日本列島の住民は、地域的な偏差をこえて、日本国の国民である前に、天皇の民、臣民とされ、天皇の軍隊を担う兵隊こそが良き臣民、国民であるとみなされ、「良兵良民」となるように教育されました。この「良兵良民」をめざす教育はどのようなものだったのでしょうか。

行進する小学生

 1890年8月、島根県の松江中学に赴任したL、ハーン、後に日本に帰化した小泉八雲は、松江城を散歩の途次、女教師の先導で歌いながら行進する小学生の一団に出会い、その姿が松江の初印象として心に刻まれたと記しています。その時の歌は楠正成です。
 この行進曲は『小学生徒運動唱歌』(1889年 有川貞清 京都 福井宝正堂)の楠公に関するものです。『小学生徒運動唱歌』は、世間に流行する俚歌童謡が「鄙猥」「批毀軟弱」か「粗暴」なもので、「一として純乎たる児童天稟の美徳」を害うものばかりだとし、これを矯正すべく、「高尚優美の気風を喚起せしむべき運動歌活発勇壮の志気を振興せしむべき軍歌若干を選択編纂し以て児童をして運動遊技の間に之を和唱せしめ識らず知らず児童の悪習卑風を矯正するの材料に充て」、「教育の一助」とすべく編集されたものです。そこに収められた作品は、「日本魂の歌」「忠孝の歌」「武士の歌」「体操の歌」「遊戯の歌」「競漕の歌」「勧学の歌」「英雄の歌」「花月の歌」「元寇襲来の歌」「国体の歌」「益荒男の歌」「楠公遺訓の歌」「小楠公の歌」「軍歌」「楠公父子訣別の歌」「王政復古の歌」「兵士の歌」「小楠公決死の歌」等々で、楠公楠正成を主題としたものを多くみることができます。いわば楠公の神話は、明治維新の精神的な拠り所であっただけに、新国家が求める天皇への忠誠心、愛国の至上を言挙げする物語の原点にある世界として説かれたのです(Vol.3「楠正成像に読みとる時代精神」ico_link参照)。まさに日本の子どもは、松江の小学生が「楠公」を歌いながら行進しましたように、天皇の忠臣として生きることを幼き日よりすりこまれたのです。「楠公遺訓の歌」は

建武の昔正成は 肌の守りを取出し 是は一歳都攻ありし時 下し給ひし綸旨なり 之を汝に譲るなり 我兎に角になるならば 世は尊氏の世となりて 叡慮を悩まし奉らんは 鏡にうけて見る如し さは去りながら正行よ 父の子なれば流石にも 忠義の道はかねて知る 弓はり月の影暗く 家名を汚すことなかれ打ち漏されし郎等を あはれみ扶助し隠家の 吉野の山の奥ふかく 月の桂は漣や 流れも清き菊水の 旗を再び翻がへし 敵を千里に退けて 叡慮を慰め奉れ 嗚呼叡慮を安んじ奉れ

と説き聞かせ、次の「小楠公の歌」が「嗚呼正成よ正成よ 公の逝去のこのかたは 黒雲四方にふさがりて 月日も為に光なく 悪魔は天下を横行し 下を虐げ上をさえ あなどり果て上とせず」と、正成亡き世の暗黒を歌い、正行が「大君の御為に」「菊水の旗」を揚げ、「雲霞の如き大軍を ものともせずに斬まくり 君の方をば枕して 討死せしはいさぎよく 勇しかりける次第なり 都も遠き村里の 女わらべに至るまで 忠臣孝子の鑑ぞと 誉むる其名は香しく 天地と共に伝はらん 天地と共に伝はらん」と、楠公父子の忠誠心を讃えます。
 ここに歌われた楠公父子の物語は、後に落合直文が「櫻井の訣別」「敵軍襲来」「湊川の奮戦」からなる「楠公の歌」となし、「青葉茂げれる櫻井の 里のわたりの夕まぐれ」とうたいだす「櫻井の訣別」が小学唱歌として、人口に膾炙し、国民の心に埋め込まれた記憶の根となります。

小学校は兵士の訓育場

 このような小学校教育を担う教師は、1889年1月の徴兵令改正で、小学校の教師となる師範学校卒業者に6カ月短期現役制(11月より6週間現役制)の特典を付与し、軍隊への体験入学をふまえ、小学生徒に天皇を「頭首」(軍人勅諭)とする天皇の軍隊の良き兵隊となることこそが良き国民の務めだということを教えたのです。国語読本は兵隊さんの世界を説き聞かせ、体育の授業では団体行動の規律を体得させるために行進することを教え込みました。その成果を競う場が学区をこえた地域対抗の連合運動会となります。
 1884年(明治17)の『小学読本 第二』(明治17年 若林虎三郎)第27課は、「汝等ハ操錬スルコトヲ好ムカ、操錬ヲ学ビテ好キ軍人ト為リ他日事アルトキハ死ヲ決シ勇ヲ振ヒテ敵ト戦ヒテ我ガ天皇陛下ノ厚恩ニ報イ奉ラズバアルベカラズ」と問いかけます。小学2年生の教科書としては程度が高いのは教科書編纂者が小学校教育の現場を知らないことによりましょう。教科書には、「櫻井駅訣別」等の楠公父子の忠義の物語が必ず入るとともに、「兵士」(『尋常小学読本 巻之二』第20課 1887年 文部省)、同『巻之三』第25課「招魂社」というように、兵隊として天皇の手足となって死ぬことが忠義の証であると教え込んだのです。
 いわば小学校の国語読本は、大日本帝国憲法公布に先立ち、1888年に文部省の『高等小学読本 巻之一』第1課「吾国」、『巻之四』)第28課「皇国の民」が教材となり、日清戦争の1894年の『尋常小学読書教本 巻之六』第17課が「軍人」、第23課「兵役と租税」というように、兵役の義務を説きましたように、国家の容(かたち)が整えられてくるとともに、「皇国の臣民」たる教育が体系化され、「良兵良民」として歩まされていくこととなります。このようにして造形された日本国民は、日本国憲法下においても、いまだ「天皇の民」に囚われた呪縛から自由でないのではないでしょうか。

 

参考文献

「国語は力」という思想

承前

 上田万年は、日清戦争の勝利によってアジアの覇者たる道を歩む日本国家に相応し国語の確立をめざし、時に応じて認めた論稿を『国語のため』(明治36年)として刊行します。その思いは、巻頭頁に記された「国語は帝室の藩屏なり」「国語は国民の慈母なり」「幾度か思ひかへして君かために なからふる身と人はしらすや」なる世界にこめられています。
 日本の国語学は、上田の志を実現することを使命となし、強きナショナリズムを担う学問であることを宿命として育まれてきた学問です。この宿命は、日露戦争後の日本が世界帝国への道を歩むなかで強く自覚され、「日本語」をも国語の枠組みに溶解させることともなりました。このような国語とは何なのでしょうか。

国語が求められたこと

 明治政府の悲願は、幕末に結ばれた不平等条約―外国人に領事裁判権・治外法権を認めた法権喪失と関税自主権がないこと―を改正し、名実ともに国家の独立を確立することでした。ここに日本は、日清戦争前夜の1894年7月、日英通商航海条約を調印、法権を回復し、99年の条約発効時に外国人居留地を廃止し、内地雑居を認めることとなります。内地雑居は、資金力のある外国人に日本の土地が買収され、国土が侵害される等々、強い反対運動を抑えて実現したものです。ここに日本は広く世界に開放されます。
 上田万年は、このような開放政策がはじまった状況をふまえ、20世紀前夜の1900年に「内地雑居後に於ける語学問題」を稿し、国語がおかれている状況を厳しく問い質します。それは、日本にとり、「国語は一方にては未来の国運を上進せしむる足り、一方にては外来の諸国民、或は新に帰化する諸外国を、能く日本化するに足る、思想界の媒介物なりと信ずる。」「東西文明の融化を、我国が決行し得べしと信ずるか」と問い、このような課題を担いうる国語の準備がなされないまま内地雑居を迎えている現在、「厳格な意味」でいうところの国語がない現況を論じたものです。ここに国語を確立するには、「一日も早く東京語を標準語とし、此言語を厳格なる意味にていふ国語とし、これが文法を作り、これが普通辞書を編み、広く全国到る処の小学校にて使用せしめ、之を以て同時に読み・書き・話し・聞き・する際の唯一機関たらしめよ」と、小学校における国語教育の充実が急務だと力説しております。
 さらに上田は、「国民教育と国語教育」で、「日本の国民としては、義務として読書(よみかき)をしなければならぬ」と、国民教育を担うのが国語教育の課題だと位置づけます。この国語教育は、「立憲思想」「実業思想」「海国思想」「科学思想」から文学美術思想宗教等を教材とすることで、国民教育に資することが可能となるのだと。このように国語教育の確立は、世界帝国をめざす日本にとり、「自国の国民を養成するためばかりでなく、一歩進んでは日本の言葉を亜細亜大陸に弘めて行く上に大いに関連して居る」ものとみなされます。そのためは、「立憲国国民」の言語として恥かしからぬ立派な国語を早く作り出すようにせねばなりません。まさに「国語読本」は、国民教育の器たるに相応しく、立憲政治から思想宗教等々に及ぶことがらを教材としております。この思いこそは、日露戦争の勝利をもとに世界の大帝国日本が雄飛していくなかで、「国語の力」という雄叫びとなったものにほかなりません。

国民の魂の宿る器

 「国語の力」は、国定教科書の第4期の小学国語読本巻9(1937年)の第28課に登場し、第5期初等科国語巻8(1943年)の第20課となり、国語に課された精神を問い語ったものです。そこには、上田万年が思い描いた世界、日本国民の国語とは何かが提示されています。

  ねんねんころりよ、おころりよ、 ぼうやは好い子だ、ねんねしな。
 誰でも、幼い時、母や祖母にだかれて、かうした歌を聞きながら、快いゆめ路にはいつたことを思ひ出すであらう。此のやさしい歌に歌はれてゐる言葉こそ、我がなつかし国語である。
  君が代は千代に八千代にさざれ石の いはをとなりてこけのむすまで
 此の国歌を奉唱する時、我々日本人は、思はず襟を正して、栄えます我が皇室を心から祈り奉る。此の国歌に歌はれてゐる言葉も、また我が尊い国語に外ならない。
 我々が、毎日話したり、聞いたり、読んだり、書いたりする言葉が、我々の国語である。我々は、一日たりとも、国語の力をかりずに生活する日はない。我々は、国語によつて話したり、考へたり、物事を学んだりして、日本人となるのである。国語こそは、まことに我々を育て、我々を教へてくれる大恩人なのである。
 此のやうに大切な国語であるのに、ともすれば国語の恩をわきまへず、中には国語といふことさへも考へない人がある。しかし、一度外国の地を踏んで、言葉の通じない所へ行くと、誰でも国語のありがたさをしみじみと感ずる。かういふ所で、たまたまなつかしい日本語を聞くと、まるで地獄で仏にあつた心地がし、愛国の心が泉のやうにわき起るのを感ずるのである。アメリカ合衆国や、ブラジル等に住んでゐる日本人は、日本語学校を建てて、自分の子供たちに国語を教へてゐる。日本人は、日本語によつて教育されなければばらないからである。
 我が国は、神代このかた万世一系の天皇をいただき、世界にたぐひなき国体を成して、今日に進んで来たのであるが、我が国語もまた、国初以来継続して現在に及んでゐる。だから、我が国語には、祖先以来の感情・精神がとけこんでをり、さうして、それがまた今日の我々を結び附けて、国民として一身一体のやうにならしめてゐるのである。若し国語の力によらなかつたら、我々の心は、どんなにばらばらになることであらう。してみると、一旦緩急ある時、国をあげて国難におもむくのも、皇国のよろこびに、国をあげて万歳を唱へるのも、一つには国語の力があづかつてゐるといはなければならない。
 国語は、かういふ風に、国家・国民と離すことのできないものである。国語を忘れた国民は、国民でないとさへいはれてゐる。
 国語を尊べ。国語を愛せよ。国語こそは、国民の魂の宿る所である

 この「国語の力」が説き聞かせた世界は、1945年の敗戦で「我が国は、神代このかた万世一系の天皇をいただき、世界にたぐひなき国体を成して、今日に進んで来たのであるが、」云々の文章を墨で塗りつぶしますが、末尾の「国語を尊べ。国語を愛せよ。国語こそは、国民の魂の宿る所である」がそのままです。いわば上田万年が国語に託した思想は現在も生き続けております。日本人の精神構造は、敗戦に向きあうこともなく、維新の復古革命が造形した精神の在りかたから、一歩も抜け出していないのではないでしょうか。昨今、世間で聞く「美しい国」という言説はこのような「国語の力」が説き聞かせてきた世界に通じるものではないでしょうか。それだけに、「戦後70年」という現在、敗戦の時に想い致し、己の足下を問い質したいものです。

日本語と国語

承前

 日本列島は、亜寒帯から亜熱帯におよぶ弓状列島で、その姿を吉田松陰が蛇に、内村鑑三が天女に喩え、国の使命が語られております。このような列島のありかたは、各地域に固有の暮らしから生まれてきた文化があり、生活の場がもたらす地域的偏差をもたらし、地域によって話す言葉がことなりました。このことは、Vol.84「徳川の平和」で紹介しましたように、大坂郊外の住吉で在所の子供に手習い教授をはじめた奈良育ちの老人が村の童と言葉が通じないがため、謡を習ったという一事にもみることができます。
 ちなみに明治期の北海道では、各地からの移住者間で話が通らない場合、謡曲の節回しで会話をすることがみられた、と老人がかたってくれました。琉球奄美、薩摩大隅から松前、津軽、南部、西南日本と東北日本の間にある言葉の落差をうめ、この地域固有の言葉を「方言」となし、列島に共通する言葉の「標準語」をつくることは、列島の住民をして、「日本国民」にする上で不可欠な作業でした。ここに国語の造型がはじまります。

日本語とは

 日本列島の住民が共有する言葉を日本語とすれば、日本語とは何でしょうか。中華文明の圧倒的影響下にあったヤマトー日本は、漢字を学び、この表意文字で文章を書き、意思を表現しました。漢字こそは、「真名」と称されていますように、古代国家における公的世界の公的言語でした。それ以来というもの日本の公的な文書は漢字で表記されたのです。
 平安時代には、この漢字を借用し、「かな」文字による表現がはじまり、漢字では表現できない心の動きを書き表わせる和語が成立し、『源氏物語』などの文学作品や和歌がさかんになります。ここに用いられた和語は、公的世界の言葉が「真名」文字である漢字であるがため、「かな」仮の言葉でしかありませんでした。平安時代以降は、和語であるかな文字が普及し、「いろは」を学ぶなかで庶民の識字力がたかまります。
 明治維新による日本の近代化は、西洋文明を受け入れるため、外国語を「カタカナ」で表記することで、西洋の知識文物をとりこんでいきました。かくして日本語は、漢字、ひらがな、カタカナの混合した世界で、言語としての機能を果していきます。まさに近年の言語様式は、国際化の流れにのみ込まれたがため、カタカナ語の氾濫となっています。このような日本語の在り方には、国語という科目が現代文、古文、漢文で構成されていますように、外来文化を摂取し、自家薬籠とすることで己の文化を造型してきた列島住民の相貌が読みとれましょう。
 それだけに明治日本は、列島住民が日本国民として一つにするために、地域的な固有性をおびた日本語をして、国民が共有しうる言葉としての「標準語」を「国語」として確立せねばなりませんでした。とくに軍隊は、命令伝達をするためにも、兵隊同志の言葉が通じなくてはなりません。そのためには、標準語が未確立であるため、軍隊固有の「兵語」ともいうべき軍隊用語をうみだします。そこでは、和語がもつ地域的偏差をのりこえるために、漢字の音読みがつかわれました。「誠心」を「せいしん」、「正直」を「せいちょく」、ズボンを「袴(こ)」、スリッパを「上靴(じょうか)」、洗濯物を干す「物干場(ぶっかんば)」、靴下を「軍足(ぐんそく)」等々と。いわば地域ごとにことなる呼称は、漢音読みをすることで、世界の共有がはかられたのです。

国語への思い

 日本の言語学、国語学の開拓者上田万年は、列島の住民が日本国民として一つ世界を共有するために、「大和民族」としての言語、国語の確立が急務の課題となし、日清戦争で昨日「平壌を陥れ、今日又海洋島に戦ひ勝ちぬ。支那は最早日本の武力上、眼中になきものなり」という強い戦勝意識のおもむくままに、1894年(明治27)10月8日に哲学館(現東洋大学)で「国語と国家と」なる講演をし、国語によせる強い思いを高らかに問いかけました。

 日本の如きは、殊に一家族の発達して一人民となり、一人民発達して一国民となりし者にて、神皇蕃別の名はあるものの、実は今日となりては、凡て此等を溶化し去たるなり。こは実に国家の一大慶事にして、一朝事あるの秋に当り。われわれ日本国民が協同の運動をなし得るは主としてその忠君愛国の大和魂と、この一国一般の言語とを有つ、大和民族あるに拠りてなり。故に予輩の義務として、この言語の一致と、人種の一致とをば、帝国の歴史と共に、一歩も其方向よりあやまり退くかしめざる様勉めざるべからず。(略)
 言語はこれを話す人民に取りては、恰も其血液が肉体上の同胞を示すが如く、精神上の同胞を示すものにして、之を日本国語にたとへていへば、日本語は日本人の精神的血液なりといひつべし。日本の国体は、この精神的血液にて主として維持せられ、日本の人種はこの最も永く保存せらるべき鎖の為に散乱せざるなり。故に大難の一度来るや、此声の響くかぎりは、四千万の同胞は何時にても耳を傾くるなり。何処までも赴いてあくまでも助くるなり、死ぬまでも尽すなり、而して一朝慶報に接する時は、千島のはても、沖縄のはしも、一斉に君が八千代をことほぎ奉るなり。もしそれ此のことばを外国にて聞くときは、こは実に一種の音楽なり、一種天堂の福音なり。

 まさに国語は、「帝室の藩屏、国民の慈母、国民の血脈」と位置づけられることで、日本国民の精神的紐帯とみなされたのです。この国語が負わされた使命こそは、一民族一国家一言語という「神話」を信仰し、日本国民の物語を説き聞かせ、列島がもつ多様性と多義性を無視する精神の営みを育んだものといえましょう。この営みこそは、異質な存在を排除し、己の世界観を絶対視する偏狭なナショナリズムを生み育てた根ではないでしょうか。それだけに国語に対峙する日本語への眼を自覚的に問い質したいものです。

内村鑑三がみた日本列島

承前

 吉田松陰は、日本列島の容姿を蝘蜒委蛇(えんえんゐい)となし、「常山の蛇」によせて国家のあるべき政略を論じました。蛇とみなされた列島像は、内村鑑三にとり、「海の端に国があり名を扶桑、俗は風光に与り皆雅でゆったりとして美しい、万古雪を含む富士山頂」云々と日本の地理的景観を讃美し、日本帝国が「蜻蜒洲」なる名称でよばれていると紹介し、その麗しさを讃えてやみません。

日本列島の容姿

 内村は、日清戦争前夜の1894年(明治27)5月に『地理学考』(1897年に『地人論』と改題)を刊行、「日本の地理と其天職」で、「蜻蜒洲」なる名称が次のような列島の構造からきたものだと説きます。

其南北に長くして東西に狭く、中央に太くして両端に尖縮するの状、渠の脈翅虫に類似する処あるが故に若か称せしならん。其頭部は能登半島とせんか、其背部隆起する所を甲、信の高地とせんか、其腹と尾とは伊豆半島にして大島八丈として海に尽る所とせん、其右翼は東北三道并びに北海道にして、其左翼は関西西南の地と見做さん、その後翅後縁に刻入のあるは東海の浜に屈曲港湾多きを示さんか、翅脈に縦横あるは我国山脈の方向を示すが如し、前後両翅の分るゝ所は西南に内海、東北に青森湾のあるが如し、余は実に蜻蜒洲の名を愛するなり、吾人の祖先は卓見なりし、彼等は能く脈翅虫類の構造を極め、帝国地形の概略を示せり、吾人開明に進める彼等の子孫は此詩歌的の名称を廃すべからざるなり。

天女の如き日本国の使命

 日本列島の構造は実に詩的ともいえる世界として描かれています。このような列島の容姿は、「日本国を天女に擬せん」と、天女とみなされます。その容姿は次のようなうるわしい姿だとみなされたのです。ここには、欧米列強に立ち向かわねばならない日本という国に生まれた者として、日本によせる強き愛が奏でられています。

若し日本国を天女に擬せんか、窈窕たる彼女の仙姿は大陸に背し大洋に面し、高麗半島の尽きる辺より加察加(カムサツカ)の南角に至る迄大洋面を掩ふが如し、彼女は頭を北海に擡げ、胸を東北の山野に持し、腹を関東の郊原に据へ、富士山帯を以て帯せられ、尾濃の原野を下腹となし、畿内に下肢となり、山陰山陽の一足を後にし、南海西海の他足を前に進むるが如し、彼女は旭日に面し夕陽に背す、東向して望むが如し、西背して弱者を擁するが如し、彼女の麗姿に声あるが如し、耳あるものは焉ぞ聞かざるを得んや。

 内村は、このように東から昇る旭日に面を向け、夕陽を背にした美しい姿である日本への想いをはせ、嘉永癸丑のペリー来航を「西洋文明の西漸」となし、西洋文明が大西洋からロッキー山脈を横断し、カリホルニアに達し、太平洋に及んできた景観を論じます。それは、イギリスにはじまる産業革命の波動が中国から日本に及び、世界資本主義の環がアジアにもたらした衝撃にほかなりません。日本は、この衝撃に対峙し、「西背して弱者を擁する」想いで中国・朝鮮を位置づけたのです。

日本の天職

 日本は、「支那印度を学び尽」した「同化力」で欧米を吸収し、「其東洋的の脳裡に蓄ふるに西洋的の思想と精神とを」消化し、「西隣未だ一尺の鉄路」を持たないのにもかかわらず、「鋼鉄路の文明」をもち、太陽暦を採用し、「三十年間にして日本は東洋国ならざるに至れり」となし、その立ち位置を「東西両洋の合同」として次のように論じます。

 西隣未だ自由の一声をも揚げざるに、釈迦の印度は属隷国の恥辱に沈み、孔子の支那は満洲掠奪者の占有物たるに際し、亜細亜の日本に已に欧米的の憲法ありて自由は忠君愛国と共に併立し得べしとの証例を世界にあげぬ。
 日本をして米亜の文明に接せしめしものは無論其地理学上の位置に依れり、之をして亜細亜的の統一に耐へしめしものは其軸脈の南北して一国の統御を易からしめしが故なり、而して西洋主義の輸入に会して直に之に応ずるに至らしめしものは東西の横断脈ありて統一の下にありて已に自治割拠の制に馴致せしが故なり、東洋的の君主主義も我に施し得べし、西洋的の自由制度も我は施行し得べし、我の制度は両洋に則れり、南隣若し西洋を学ばんと欲するか、必らず我より之を学ばん、東隣若し東洋の長を取らんとするか、必ず我に於て之を認めん、両洋我に於て合す、パミール高原の東西に於て正反対の方角に向ひ分離流出せし両文明は太平洋中に於て相会し、二者の配合に因りて胚胎せし新文明は我より出て再び東西両洋に普からんとす。

 内村は、「二者の配合に因りて胚胎せし新文明は我より出て再び東西両洋に普からん」と説かれた東西両洋を結びつける世界として、1907年の「初夢」に認めています。それは、富士山頂に降りた「恩恵の露」が全世界をおおいつくしていくというもので、日本のキリスト者鑑三の信仰が吐露されています。この壮大な夢は、「外交政略論」に重ねて読めば、「八紘一宇」なる世界につながるともみなせましょうが、どのように読みますか。

恩恵の露、富士山頂に降り、滴りて其麓を霑し、溢れて東西の二流となり、其西なる者は海を渡り、長白山を洗ひ、崑崙山を浸し、天山、ヒマラヤの麓に灌漑ぎ、ユダの荒野に到りて尽きぬ、その東なる者は大洋を横断し、ロツキーの麓の金像崇拝の火を減し、ミシシピ、ハドソンの岸に神の聖殿を潔め、大西洋の水に合して消えぬ、アルプスの嶺は之を見て曙の星と共に声を放ちて謡ひ、サハラの砂漠は喜びて蕃紅の花の如くに咲き、斯くて水の大洋を覆ふが如くエホバを知るの知識全地に充ち、此世の王国は化してキリストの王国となれり、我れ睡蓮より覚め独り大声に呼はりて曰く、アーメン、然かあれ、聖旨の天に成る如く地にも成らせ給へと。

国家独立への模索

松陰の世界認識

 松陰は、日本列島を「常山の蛇」に倣い、欧米列強の侵出に対峙しうる「皇国」の政略を「幽囚録」に描いております。その政略は、危機の時代を的確に把握し、世界認識を提示したものです。

神州の東を米利堅(メリケン)と為し、東北を加摸察加(カムサツカ)と為し、隩都加(オコツク)と為す。神州の以て深患大害と為す所のものは話聖東(ワシントン)なり、魯西亜なり。(略)
今急に武備を修め、艦略具はり礮(ほう「砲」)略足らば、即ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満洲の地を割き、南は台湾・呂宗の諸島を納め、漸に進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺国を守るは、即ち善く国を保つと謂ふべし。

 この論は、欧米列強がアジア・アフリカを植民地にしていく帝国主義の時代に対峙し、日本の独立をいかに守るべきかとの想いを述べたものです。この言説は、松陰を帝国主義につらなるものとみなし、その尖兵と論難されがちですが、日本が欧米の植民地となることへの危機感にうながされた政略にほかなりません。松陰には、日本の独立、国権を確立して、「民を愛し士を養ひ、慎みて辺国を守るは、即ち善く国を保つと謂ふべし」と、民権への強き想いがありました。
 ここにみられる松陰の言説は、「開国和親」をかかげる文明化という近代国家の形成を、万国公法といわれた国際法の秩序下、欧化による主権国家としての独立をめさねばならないなかで、日本のとるべき戦略として具体化されていきます。それは、欧米列強が構築した万国公法を旨とする国際秩序のなかで、避けて通れない選択とみなされたのです。

万国公法という秩序

 木戸孝允は、万国公法を主権国家間の調整統合をはかるためのもので、キリスト教文明を基盤とする規範体系であるとみなし、「兵力調わざるときは万国公法も元より信ずべからず。弱に向かい候ては大いに公法を名として利を謀るもの少なからず。ゆえに余、万国公法は弱国を奪う一道具」(木戸孝允『日記』1868年11月8日)と論断しました。まさに国際法は、欧米列強の侵出に向き合う日本にとり、「キリスト教国、白皙人種、ヨーロッパ州」という「特権掌握的国民」が己の権利を主張し、アジア・アフリカを植民地とするためのものでしかありません。このことは、後に陸羯南をして、「国際法なるものは実に欧州諸国の家法にして世界の公道にはあらず。この家法の恵を受けんと欲せば、国を挙げて欧州に帰化するよりほかに復た手段あるべからず」(「原政治及国際論」)と論難させます。いわば日本近代化への道は、このような万国公法といわれた国際法の秩序に棹をさし、欧米列強に対峙しうる独立国家の構築をめざす営みです。

「主権線」「利益線」という論理

 松陰の門下生山県有朋は、1890年の第1回帝国議会における総理大臣演説「外交政略論」で、欧米列強に対峙するなかで国家独立の方途を確立しようとした近代日本の方途を提示しました。この「外交政略論」は、「国にして自衛の計なきときは国其国に非るなり、苟も国勢傾危にして外其侮を禦くこと能はす」となし、「臣民」たる国民が「各個の幸福」を保持するために「国の独立を維持振張」をはからねばならず、党派を超えて「同心協力」せねばならないと、国家独立自衛の道を説いたものです。

国家独立自衛の道二つあり、一に曰く主権線を守禦し他人の侵害を容れず、二に曰く利益を防護し自己の形勝を失はず。何をか主権線と謂ふ、彊土(きょうど 国境)是なり。何をか利益線と謂ふ、隣国接触の勢我か主権線の安危と緊した相関係するの区域是なり。凡国として主権線を有たざるはなく、又均しく其利益線を有たざるはなし。而して外交及兵備の要訣は専ら此の二線の基礎に存立する者なり。方今列国の際に立て国家の独立を維持せんとせは、独り主権線を守禦するを以て足れりとせず、必や進で利益線を防護し常に形勝の位置に立たざる可らず。利益線を防護するの道如何。各国の為す所苟も我に不利なる者あるときは我れ責任を帯びて之を排除し、巳むを得ざるときは強力を用ゐて我が意志を達するに在り。蓋利益線を防護すること能はざるの国は其主権線を退守せんとするも亦他国の援助に倚り纔かに侵害を免るる者にして仍完全なる独立の邦国たることを望む可らざるなり。今夫れ我邦の現況は屹然自ら守るに足り何れの邦国も敢て我が彊土を窺覦するの念なかるべきは何人も疑を容れざる所なりと雖も、進で利益線を防護し計を固くするに至ては不幸にも全く前に異なる者として観ざることを得ず。

 かく説かれる政略は、シベリア鉄道が完成すれば、ロシアの圧力で朝鮮が独立を脅かされ、かつイギリスをはじめとする欧州強国の前に「東洋の遺利財源は肉の群虎の間に在るか如し」という国際状況をふまえたものです。日本が当面する方途は、このような「東洋の事情縦横錯綜して一朝我邦をして平和の地位に立つの困難を感ぜしむる」との認識から、朝鮮を恒久中立国となし、清国との関係を回復し、日本の利益線を保護する外交をなし、この間に軍事力を整備強化することで主権線を守護し、利益線の防護をはかることだと。かつ「国民愛国の念」を養成保持する教育、なかでも国語と国史教育の必要性が力説されました。この口説き昨今耳にする、山県と同郷の総理が語る世界に似ていませんか。
 ここに山県が説いた主権線、利益線の政略は、日本が国家独立から世界帝国へと歩むなかで、対外膨張の論理となります。そこでは、松陰が説いた「民を愛し、士を養ひ」という想いが後景に退けられたのです。やがて日本は、「主権線」「利益線」なる論理を使い分けることで、島嶼国家から大陸国家へと直走り、アジアの殖民帝国となっていきます。

日本列島という世界

承前

 江戸時代、「徳川の平和」がもたらした「読み書き」の文化は、日本の近代化をささえる原動力となり、日本国民を育成する器を用意しました。ここに展開された国民教育は、日本列島の多様性を一元化し、国家が各地域の固有性を強権的に剥奪していくことで可能となったものです。その営みは、「母乳とともに呑みこんできた愛国心」と評されたような民族主義を生み育て、日本国民を「愛国心」中毒にすることにもなりました。
 このような日本人の姿は、東北学院の創立に尽力した宣教師ホーイが日本人の「愛国心なるものは確かに病的で、「我が国」というかの病的な一句が、「われらの父なる神の御国」よりも、もっと包括的」(1891年6月6日付書簡)との嘆きに読みとれます。日本のキリスト者は、内村鑑三が二つのJ-JesusとJapan-にたくして己の信仰を問い語ったように、強く愛国心に囚われた存在でした。
 この病理は、プロレタリアの国際連帯が使命であるにもかかわらず、1922年に開催されたコミンテルン主催の極東民族大会に出席した日本の共産主義者が排外愛国主義に冒されていることに対し、ジノヴィエフが「母乳とともに飲みこんできた愛国心」と論難した言動にも見ることができます。まさに日本国民は、キリスト者にせよ共産主義者にしても、「愛国主義」の虜ともいえる存在だったのです。この「愛国主義」は、「大東亜戦争」の敗北を受け、戦後教育で問い質されました。しかし戦後70年の現在、「愛国主義」の病理がもたらした世界を凝視することなく、戦後体制からの脱却を大義とする「愛国心」なるものが声高に説かれております。

戦後教育の転換

 戦後教育は、「大東亜戦争」の敗北を痛覚となし、教育勅語を失効させ、新たな教育の指針を1947年に教育基本法で定めました。その前文は、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にして個性ゆたかな文化の創造をめざす教育の普及徹底」を高く掲げ、人間の尊厳を説き、閉ざされた愛国心からの脱皮をめざすものでした。
 しかし戦後教育の原点であった教育基本法は、2006(平成18)年に全面改定され、「教育の目標」として、「伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」を新たな教育の指針として提示します。この改定は、「占領体制」を継承した戦後の枠組みからの脱却をめざしたもので、最終的に日本国憲法を根本的に創りなおすことをめざす第一歩にほかなりません。ここに学校教育では、「愛国心教育」が説かれ、「公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育の推進」と、「公共の精神」が声高に説かれることとなりました。
 この「公共の精神」は、「我が国と郷土を愛する」とした「愛国心」を担わせることを意図し、「個人の尊厳」を呑みこむものにほかなりません。それだけに現在問い質すべきは、「我が国と郷土を愛する」と説かれた「愛国心」と「愛郷心」が同一のもとしてありうるか否かを、日本列島の住民がいかにして「日本国民」となり、「母乳とともに飲みこんできた愛国心」の持ち主に造形されたかを歴史として読み解くことではないでしょうか。そこで先ずは、日本列島なるもの在り方がどのように認識され、その住民が何時「日本国民」となったのかを読み解くことにします。

吉田松陰の眼

 江戸時代は、地域が異なれば、東国を旅する長州藩士吉田松陰が言葉の通じないことに困惑しましたように、異質な世界でした。列島という空間は、各地に固有の言葉が飛び交い、方言といわれることとなる言語様式が日常的な世界でした。このことは、亜寒帯から亜熱帯におよぶ日本列島の構造がもたらした文化の落差にほかなりません。
 この列島は、千島から琉球列島に連なる弓状の弧状列島で、その容(かたち)がはなづな(花綵)のようだとして、後に花綵列島と称されます。列島の住民は、黒船が来航する状況下に噴出した危機感にうながされ、日本とは何かを自覚的に問うこととなります。
 NHK大河ドラマの主人公吉田松陰は、下田沖の米艦に搭乗、密航を企図した責めを負わされた囚人として、萩の野山獄に幽閉されました。ここで認めた『幽囚録』は、下田踏海の一挙を決意した己の志を顧み、鎖国日本に迫りくる列強の圧力を前に、日本を「皇国」とみなし、その容を「常山の蛇」と位置づけ、危機に対峙する想いを吐露しております。

夫れ神州は東北は蝦夷に起り、蝘蜒委蛇(えんえんゐい)として西南のかた対馬・流求(りゅうきゅう)に至る、長さ千里に亙りて広さ百里に過ぎず。是れ常山の蛇に非ずや。首至り尾去る、豈に其の術なからんや。蓋し機内は所謂六合(りくごう)の中心にして万国の仰望する所、皇京の基、万世易はることなし。

 松陰は、列島の容が蛇のようにくねくねと曲がったものだとの認識をもとに、孫子が説いた「常山の蛇」を想起し、「其首を撃てば則ち尾至り、其尾を撃てば則ち首至り、其の中を撃てば則ち首尾俱に至る」と説き、日本独立を論じます。まさに蛇の如き日本列島像は、宇宙から日本を捕えたもののごとき映像にほかならず、列島を「常山の蛇」とするために一個固有の愛国心によって首尾一体となる絆を深めざるを得ないことを実感せしめます。まさに列島の住民は、日本という大地に生きる者として、日本国民に相応しい精神の共有性を身に帯びた存在であることが求められたのです。この「精神の器」こそは、他国と異なる日本の固有性へのこだわりであり、「皇国」という幻想にほかなりません。ここに病的なる愛国心の根があると言えましょう。

徳川の平和 Pax Tokugawana

 江戸時代は、鎖国日本として、士農工商といわれる身分秩序に固定され封建的な秩序そのもので、閉ざされた自己完結的な世界とみなされ、否定的に評価されてきました。このような江戸時代像は、徳川将軍家を打倒し、薩摩・長州などの西南雄藩による下級武士が「ミカド」等と呼称されていた天皇を擁立した復古革命、明治維新にはじまる新時代の到来を正当化するための歴史像にほかなりません。こうした江戸時代像は、日本が経済大国を謳歌していくなかで問い質され、日本の固有な歴史を強調していく風潮に棹をさす流れにのり、「徳川の平和 Pax Tokugawana」なる言説とともに、17世紀からの江戸時代を日本近代の先駆けとみなすことともなります。この「平和」をささえたのは何でしょうか。そこには、寺子屋の隆盛にみられる「もの学び」、教育への期待がありました。

高きもいやしきも皆物書たまへり

 徳川将軍家による統治は、武力による直截的支配ではなく、法と礼によることがめざされ、戦乱のない平和、徳川の平和をもたらしました。その様相は、ローマ帝国による「平和」に擬えられ、「徳川の平和 Pax Tokugawana」と評価されることとなります。このような秩序を可能にしたのは、寺子屋等の普及にみられる世界が展開していたことによります。
 世間では、17世紀初頭、すでに武具ではなく、文具が重んじられていました。仮名草子の作者三浦淨心(1565-1644)は、大御所家康が豊臣秀頼の大坂城攻略を命じた慶長19年(1614年)の序をもつ江戸の世相を記録した「慶長見聞集」で時代の空気を次のように描いています。ちなみに浄心は、北条氏の家臣で、小田原落城後に江戸で商人となった人物です。

廿四五年以前迄諸国におゐて弓矢をとり治世ならす、是によつて其時代の人達は手ならふ事やすからず、故に物書人はまれにありて、かかぬ人多かりしに、今は国治り天下太平なれは、高きもいやしきも皆物を書たまへり、尤筆道は是諸学のもとといへるなれば誰か此道を学ばざらんや

 このような気風は、江戸にかぎらず「天下の台所」として繁栄していく大坂においてみれば、5代将軍綱吉、生類憐みの令で再々にわたり「徳治」を問いかけた貞享7年(1694)、井原西鶴が『西鶴織留』に認めた世界にも読み解くことができます。村里で「老先のたのみなれ」と、子供に手習いを教授、「我ままそだちの草を刈」と躾け、いろはの「角文字」から教えていきます。そこで奈良育ちの老人、村の童と言葉が通じないがため、謡をならい、その符節でなんとか教えようと苦労しております。住む土地の違いで話し言葉が通じない世界でした。

其年より夫婦内談して、「兎角銀がかねをもふくる世なれば、せつかくかせぎて皆人のためぞかし、外聞を捨て、身のたのしみこそ老先のたのみなれ」と、奈良草履屋を二足三文に仕舞て、大坂を離れ、女房の在所、住吉の南、遠里小野に身を隠し、夕暮よりは油を売、すこし手を書を種として、所の手習子ども預り、我ままそだちの草を刈、野飼の牛の角文字よりおしへけるに、謡しらねば迷惑して、日毎に大坂へ通ひ、むかしの友にならひて、又里の子におしへける

書筆之道は人間万用達之根元

 ものが書けるかどうかは、世間に出て、己の才覚で生きていく必須とみなされていきます。17世紀末の「商売往来」は、身につけておくべきこととして、「商売持扱文字、員数、取遣之日記、証文、注文、請取、質入、算用帳、目録、仕切之覚也、先両替之金子、大判、小判、壱歩、弐朱、貫、目、分、厘、毛、払迄」「雑穀、粳(うるち)、糯(もち)、早稲、晩稲、古米、新米」等々の項目をあげています。そして、商家に生まれた者は、幼時より、まずきちんとした字を書き、算用を身につけること肝要なことであると。歌、連歌、俳諧、立花、茶湯、謡、舞、琵琶、堤、太鼓、笛、琵琶、琴などの稽古ごとは、家業に余力があれば「折々心懸、可相嗜」ことだと、説いています。
 香月牛山は、こうした時代の要請に応じるべく、元禄16年(1703)に日本で最初の育児書ともいうべき『小児必要養育草』を著し、求められる教育の作法を説きました。

手習い勤め候事は、朝十返、昼三十返、晩十返習うべし、手本ひとつを十五日とさだめて、五日に一返づつ清書をなして、三度めの清書を諳書(そらがき)にすべし、諳書とは中におぼえて書く事なり、和俗近来、童をして、手習い師匠にまかせて手習いをさする事なれば、その勤め方は、その師匠の教えにまかすべきなり、また近きころは、女の童をも、七、八歳より十二、三歳までは、手習い所につかわすなり。
謡を習わしむべきなり、謡は日本の俗楽とはいいながら、小歌・浄瑠璃の類の鄭声とは格別にして、都鄙ともに符節を合わせたるがごとくにして、相替わる事なく、古今不易の音楽なれば、知らぬはかたくななるべし

 この学習の作法こそは、徳川日本に根づき、日本の教育の原点ともいうべきものとなり、つい近年までみることができたものではないでしょうか。かつ謡の「符節」は地域ごとの固有の話し言葉がもつ壁はでのりこえる方便として役立ったのです。ここには標準語としての「国語」成立前夜の営みが読みとれます。まさに「徳川の平和」は、このような教育の普及、それは明治維新後における日本列島を一元化していく国民教育の普及をささえる基盤となったものといえましょう。

地域再生に問われる器とは(2)

承前

 佐藤清臣は、村落再生の器として、古橋源六郎暉皃(てるのり)の意を受け、神社を中心とする村づくりに励み、「敬神村」「敬神郡」の建設をめざしました。しかし、その歩みは、松方財政下の民心荒廃に翻弄され、土地の特産を活かす物産開発の方途を見いだせないまま、神祇信仰をことさらに説き、民心の結集をめざすものとなっていきます。
 しかし不況下で流亡していく民の心は、諸教派を一元的に管理した大教院の下で始められた大教宣布を担った教導職による国民教化体制が破綻し、1882年(明治15)に神宮教、大社教、扶桑教、実行教、大成教、神習教、御嶽教、黒住教等の八派が宗派として認められ(一宗特立)、各派の布教が展開していくなかで、民衆を基盤とした講社による御嶽教等の教派に取りこまれていきます。このような状況下、神祇を典礼として村に根づかせ、神社を中心とする村づくりをめざす暉皃・清臣の構想は危機にたたされたのです。

奔流する人心

 清臣は、後に「教派神道」と位置づけられた諸教派が展開していく奔流に呑込まれる民の在り方を糾弾してやみません。そこには、窮乏化の人心が丸山講や御嶽講にとらわれ、救済をまつ姿が描かれています。清臣は、それらの布教者を無学文盲の徒を罵り、そこに救済を求める人びとを愚民、無頼の徒と蔑み、現世利益を求めた「常世虫」の再来と、危機感を募らせております。

近来八教に別れしより神道は八派の私有物の如く大道は糊口の資の如く成下り、無学の教職無稽の説を以て愚夫愚婦を蟲惑し詐欺百端或は神符神水と称して病者に水を飲ましめ或は毉(くすし)の方角を指し其所行へとして乞盗の醜態ならざるは無し、就中人心に行政に妨害の甚きは丸山御嶽の両教也、
御嶽の如きも其徒或教正大講義訓導試補など我郡内なるは多く目中一丁の文字無き者或不品行或無籍無頼の輩、たまたま籍あるも杣木挽等我賜はり持たる辞令は更也、郵便はがき一枚読むこと不能者、神道御嶽教「或教正大講義訓導試補訓導」など書る旗、甚しきは神道御嶽講一心行者などの幟をかつぎまわり火渡り中坐(なかざ)などの祈祷に夫婦の不和も睦くなり啞も言ふことを得、聾も聞くこと得、貧者も富み、老人も壮になる、みなこの御祈祷のおかげ也、と愚民等迎送して謂ふまにまに無頼の奸民従て利を射んと所在を煽動すること古昔の常世虫(※1)に異ならず、如斯大道を汚し、聖勅に違ふ無稽無法の言行よりして神道教導職はすへて乞食の如く蔑視せらる故にたまたま謹て大道を説くも乞食まめざうの話の如く相成候、念ひてここに至れば慷慨悲奮寝食を忘る、既に宗教視せらるるだに慨嘆に堪ざるに今またここにいたる、此弊を正さずんば何そ天下の信を得ん、天下の信を得されば宣教を勤るも徒に無功に属するのみならず何ぞ大道を汚し聖勅に違ふの罪を免んや

 ここには、徳川王国に代わる天皇の国として新国家の樹立をめざし、「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴、朝旨遵守」の三条教則に基づく天皇の道を説く大道に代わり、明日をも知れぬ人心が現世の利益を説く教えに取りこまれていく様相が読みとれます。清臣は、このような時勢を常世虫の再来とみなし、危機感を募らせたのです。

孤寥の内に

 かくて佐藤清臣は、このような時代閉塞がもたらした危機感にうながされ、神祇による村づくりに己の身を投じます。この神祇は、暉皃・清臣にとり、皇統連綿・天壌無窮たる国体を体現する世界にほかなりません。それは、神道八教にみられる宗教ではなく、国家の典礼とみなされていました。まさに清臣は、このような神祇を精神の器となし、村の再生をはかろうとしたのです。そのために村々を巡回し、神祇を説き聞かせもします。ここに明治末年の地方改良運動では神社を中心とした村との評価をえることとなります。
 しかし神社を中心とする村づくりは、暉皃がめざした地の利を活かす富村富国への道をして、敬神愛国という精神主義という隘路に墜ちこんで行くことでもありました。晩年の清臣は、「何事も世におくれたりほととぎす初音も人のこと伝にして」「秋かぜにとくちらましをはずかしの杜の木かげに残るもみじ葉」と詠ったように、若き日よりめざしてきた世界が虚ろであるとの思いにとらわれていきます。そこには、神祇が精神の器としたとき富村から富国への道が開けると説き聞かせながら、民心と乖離していく己の姿があり、亡び行く者たる己をみていました。
 このような清臣の姿は、皇統連綿・天壌無窮なる日本、この美しい日本という神話をあるがままに信じて生きたがため、日本を相対化して問い質す目をもたない日本人の原像ともいえましょう。それだけに現在求められる精神の器は、あるがままの日本への信仰、「美しい国日本」なる言説によりそうのではなく、日々の暮らしの営みをささえる世界から己の場を問い質せる世界を公共財としていくことではないでしょうか。この営みは、地域協同体から個を析出分離していくのではなく、個の連帯を可能とするなかに、個が負うべき責務を確認するなかに連帯と自立を可能とする精神に担われる協同体への眼ではないでしょうか。
 先の所信表明演説は、古橋暉皃を話題としておりますが、どれだけ暉皃の苦闘を理解してのことでしょうか。そこには、「美しい国」を言挙げすることで、あるがままの歴史への信仰にとらわれ、他者の存在に目が及ばないものの姿があります。それだけに、彷徨の果に稲橋に安住し、孤寥の内に老いた清臣に重ねて時代の闇を凝視したく思います。

 

※1:常世虫は、日本書紀巻24皇極天皇3年秋7月の記事、虫を「常世神」として祭れば富を長寿を得るとした「常世虫」の信仰が広まったこと。この常世虫は蚕。

地域再生に問われる器とは(1)

承前

 古橋源六郎暉皃(てるのり)は、土地柄を生かした地域の再生、暮らしの場である稲橋の村づくりを山林に託すとともに、村民に求められる精神的活力の育成が急務とみなしていました。冨村への途は、単なる経済的利益によるのではなく、松方財政がもたらした不況下で荒廃した人心を賦活させる精神の器が問われたのです。ここに暉皃は、民心教導の使命を、維新革命の夢が敗れた失意の国学者、平田篤胤の没後門人佐藤清臣に託します。

荒廃する人心

 『東京経済雑誌』は、1884年に頻発した困民党などの暴発にみられる社会人心につき、1885年の年頭論説「明治18年社会面目の一新」で、「顧りて明治17年1歳の事情を通覧するに、農商式微を極め社会の人心最も衰零に達したりき。社会の内部に顕はれたる諸現象は潰裂濫離の事情なりき」、と松方正義が西南戦争の戦費捻出で濫発された不換紙幣の整理をめざした財政策がもたらしたデフレで現出した不況下の相貌を伝えています。この「潰裂濫離の事情」といわれる情勢は、前田正名が政府に建言した「興業意見」においても、「農家は充分に肥料を入るへきの力なきより、収益を盛時の半に減じ、類年負債の為めに典却したる田畑山林も之を償ふこと能はす、甚しきに至りては納租の道全く尽きて、挙村公売処分を受けんとするものあり」と。
 このような状況下、愛知県では、「農家は負債の為めに所有の土地凡そ3分の1を其抵当とせり。然るに此抵当たる、啻に己の所有に復すること能はざるのみならず、爾後猶ほ其多きを加ふるに在らんことを恐るるなり。県下の現況は夫れ此の如く惨状を呈はせり。其詳細に至りては筆紙の能く尽すへき所にあらず」、と。この「筆紙」に尽せぬ惨状は、捨児、餓死者の増大、自殺、生活困窮から田畑の作物、穀類、食料品等々の窃取、詐欺、持ち逃げ等々の軽微な犯罪の横行にも読みとれます。
 この様相は、経済的不況下の時代において、労働意欲のある者でも長期の失業から犯罪に走る、と分析したE・ゼーリッヒ『犯罪学』が提示した世界にほかなりません。思うに、ここにみられた世界は、昨今目にし、耳にする世間の話題に通じるものです。この荒廃した人心を覚醒するには、日々の暮らしの立て直しとともに、生きる想いをどのように説き語れるかが問われています。

「敬神」の村をめざし

 暉皃は、平田門人として、「村民合同」の基点に神社を位置づけ、村民を神葬祭にみちびきました。この神祇による村づくりは、「山間僻地頑陋之風俗」という地域の迷蒙を開くためにも、学制頒布に先立つ学校設立と一体なものとして展開されていきます。この教育を担うことになったのが佐藤清臣です。
 清臣は、「年貢半減」をかかげて東山道先鋒として江戸をめざした赤報隊の一員でしたが、薩長が主体の維新政府から「偽官軍」として処斷されたとの報に接し、逃亡。暉皃は、失意のうちにある清臣を稲橋の地に招き、学校「明月清風校」の要とします。学校は、「稲橋義校」「稲橋郷学校」とも称され、和洋漢の三学からなるカリキュラムとはいえ、神祇を旨とする国学の精神で貫かれていました。教科では、佐藤信淵が説いた「農業」「物産」が重視され、「算術」が軽視されていました。その教育では、算術計算による事業計画への眼ではなく、敬神という精神教育が重視されていたのです。
 このような思いは、佐藤清臣にとり、学制がもたらした教育を「学校は徒に書算の劇場となりて子弟は進級を競て行を不修父兄は試毫の甲乙算術の遅速をのみ看て心術謙譲の礼儀に於ては不称に至ん、近来此郷党を見るに人心率いて狡猾」に遷り敦厚の心を失ふ事吾初来るの年に較れは一年は一年より甚しこれ教化の不及自愧る」、と批判し、辞意表明となります。ここには、知育と成績を至上となし、徳育を疎かにした学校教育への怒りがあります。この怒りは、近代日本の学校教育を問い質す言説として、現在でもよく聞かされることではないでしょうか。

自力更生をめざし

 ここに清臣は、学校が知育の場になったことをふまえ、村の神官として神祇による民心教化に励むこととなります。その思いは、敬神村稲橋を起点に、北設楽郡を敬神郡としていく村づくりにほかなりません。この村づくりは、『報国捷径』が説く「敬神愛国」の念による民心統一をはかるべく、産土講社の結成をめざすこととなります。この産土講社は、「潰裂濫離」といわれる地域協同体の崩壊に対処すべく、各郷村社の氏子を講社に編成することで、産土祭祀―村鎮守による地域住民の結集を強化しようとしたものです。そこでは、「勤倹貯蓄申合規約」を結ばれるなかで、講社「社中集合之節、社長副社長より忠孝節義殖産上の談話せしむる」と、殖産を説き聞かせ、勤労への眼を育てることが企図されたのです。
 「勤倹貯蓄申合規約」は、「勤勉時間」を増加するとして、「勤休時間表」「年内休暇日」を設定、「無益の時間を消費せざる様注意」「霊祭忌明祭等に用ふる献饌」をはじめ、婚姻帯祝、湯治等々を規制、日常の衣類を「麻衣綿布」となすなど、日々の暮らしの調度等につき詳細に取り決めています。いわば「殖産」への想いは、このような村規約と一体となった勤倹精神として説かれたがために、「神祇の村」づくりという精神主義の隘路におちこむことともなります。清臣は、このような山村の教化を担うなかで、勤倹・貯蓄・分度をかかげる政府の「三要点」運動にのみこまれていったのです。ここには、富村への具体像を説き得ないまま、自力更生の要とされた産土講社による神祇の村づくりという思いのみが独り歩きし、地味たる山林の富に期待することで、殖産への眼が閉ざされていく相貌が読みとれる。それだけに地域を賦活させるに相応しい精神の糧とは何かがいまだ問われているのではないでしょうか。