日本軍隊における私的制裁の相貌

「一大家族」という語り方

 戦時中の日本軍隊は、天皇を頭首と仰ぐ「一大家族」である「天皇の軍隊」とみなされ、中隊を兵営における一個の家とみなし、内務班を基本単位とする「家庭」と位置づけることで成立していました。この内務班は、戦時における戦闘集団であるため、平時において起居を共にする生活のなかで「兵」を兵たらしめる教育の場として軍隊の成否を決定付けました。ここに内務班での教育は、下士官を中心に、「家族主義」の名の下に軍人たるべく、身心にわたる徹底した訓練として展開されました。その訓練は

1)日常生活の一挙一動に軍人精神を具現してこれを訓練し、軍紀に慣熟し、軍人に欠くべからざる各種善良なる品性を形成する訓練
2)上下同輩の間骨肉の至情を以て相親しみ、軍の本義に邁進する共同の目的の下に強固なる団結を完成する家庭的訓練
3)戦時編成に近似する団体内において命令下達・諸勤務の要領・陣中内務に資する訓練
4)命令規則を遵守し、困苦欠乏に耐え、諸勤務に勉励せしむる訓練
5)規律、容儀共に正しく且時間的なる生活訓練
6)礼儀作法に関する躾
7)馬匹の飼養管理、兵器・被服の手入保存等の演習訓練と馬匹の愛護、兵器・被服其他の官物を尊重し常に其員数を整理し置く訓練
8)火災予防・消防・非常呼集等の演習訓練
9)衛生を重んじる躾

 まさに軍隊生活は、日常の起居を共にする団体生活を営むなかで、絶対服従と団結心を心身に刻みこむ精神教育をとおして社会生活の躾をする世界でした。このような軍隊で身につけた生活の知恵を処世訓として生かすことで、その後の人生を上手に送った者にとり、軍隊生活は人生道場でもあったのです。そこでの日々は、良き記憶のみ思い出として残り、軍隊の厳しい訓練と躾をのりこえた己の現在を確認することで、当世の風潮を論難する根拠にもなっております。このような気分は、個性の尊重を説く戦後教育を批判する声をささえ、厳しい躾を強調し、たくましい青少年の育成を期待する風潮をうながしています。はたして内務班教育とは、そこでの規律や躾をささえたものとは、何だったのでしょうか。軍隊生活を認めた日記や文学作品から軍隊に囚われた人間の姿を読み取ることとします。

軍隊という世界

 1933年8月に入営した藤田稔は、15日に「厳正」「鉄石の団結、融和」「滅死奉公」「積極敢為」との部隊長訓示を受け、軍隊生活をはじめます。その日々を認めた『一無名兵士の手記』(みやま書房 1988年)には、脱走して自殺した兵の姿とともに、初年兵として教錬以上に、二年兵等につくす日々の営みが記録されています。

演習が終わると助教や助手のところへ飛んで行って、巻脚絆をといてやる。軍靴を脱がしてやる。それから自分だ。二名分の手入れ時には四,五名分の手入れをやる。襦袢、袴下、沓下がよごれている。洗濯。(8月25日)
「おい、お前はやる気があるのか?」
今村兵長は毛布の中で仰向けに寝たまま、噛みつくように怒鳴った。おれは不動の姿勢で殴られる覚悟をした。が、彼は殴らない。ジワリジワリと攻めてくる。(10月1日)

 中野重治は、二か月ほどの兵隊体験を「第三班長と木島一等兵」において、第三班長島田の姿にたくして軍隊生活をと描いています。

 まっ暗な中で、びしいッという肉を打つ音がしてわたしは目がさめた。
「むゥ、きさま・・・・」
 押さえた島田の声につづいてまたぴしりと鳴った。
「すみません。勘弁して下さい。すみません。勘弁してください。」
 浅岡はうつ伏しになって打たれているらしく、わたしが覚めてからは四回ほど同じことがくりかえされた。

 海軍は、乗組員を軍艦の部品とみなし、その錬度をあげるために制裁を制度化していました。宮内寒彌「艦隊葬送曲」は、「海軍罰直選」で、制裁の数々を描いています。

 ビンタ。そしてこれが動詞になると他は知らぬが呉の方では「ビンタをカチまわす」という。嫌なことばである。「ビンタ一つ飛ばす日はなし秋のくれ」
秋であろうと冬であろうと、一年四季を通じ、これは日常茶飯事だった。それが、いつわが上に来るかと思うと、気が滅入り、殺伐な、やり切れない気持だったが、次第になれてしまった。
 しかし、これも、平手の分は音も明るいし大して痛くないけれど、鉄拳を円盤投げのような格好で左右交互にやられると眼が眩んで倒れる。(略)
 海軍制裁法の王者は、かの「直心棒」または「精神棒」別名「バッタ」であろう。長さ一米余り、直径二寸位の樫か桜の棒が隊の玄関に堂々と飾ってある。これが、時あって満身の力で宙を斬って唸るのだ。この光景は委しく書くに忍びないが、人間の体というものは、臀部というものは案外強いものだ。犬や猿だったら、その場で死んでしまうだろうが、人間は、臀部が紫色と化しても、決して、死ぬものではない。犠牲者もあったが、普通の場合は死なない。これを総員罰直の時は一人平均五本から六本位、個人の場合は、軽いこともあるだろうが、気を失うまで食う。そして、水をかけて蘇生させて、更につづくこともある。

 海軍の制裁は、軍艦という運命共同体を担うものが一体化するための作法として、制度化されたものでした。この制裁作法は、陸軍における私的制裁の様式にもみられるもので、日本軍隊の共通した文化にほかなりません。このような軍隊教育の作法こそは、日本における集団の規律を支えるものとみなされ、現在も運動部をはじめとする世界の練習作法にみられる体罰の原点となったものです。
 学校教育、運動部等に広くみられる体罰は、このような軍隊における制裁を是とした訓練教育の延長にほかならず、人間を戦う部品とみなす日本の近代教育の原像にほかなりません。しかし制裁教育は、兵士の自殺を生み、入営を忌避する風潮を増幅し、反軍気分の温床となったがため、昭和期にその対応が検討されました。次回は、この制裁根絶への取り組みを検証していくことで、現在問われている体罰問題が提起している世界と同じことが論じられていることを読み解くこととします。いまだ日本の教育の根にある帝国軍隊の体臭から自由でない現況を撃つために。

参考文献

  • 大濱徹也『天皇の軍隊』(教育社歴史新書)
  • 大濱徹也・小沢郁郎編著『帝国陸海軍事典』(同成社)


新島襄の初心【大河を読み解くシリーズ1】

「八重の櫻」は何を問いかけたいのでしょうか

新島襄<国立国会図書館ホームページより転載>

新島襄<国立国会図書館ホームページより転載>

 昨今話題の大河ドラマ「八重の櫻」は、戊辰内乱における会津城攻防で奮戦した女性、山本八重を主人公したもので、3・11の東北大震災から立ちあがろうとしている東北への応援歌、会津落城の悲運を乗り越え、新時代に飛翔していく精神のありかを八重の生き方を問うことでさぐり、現在何が求められているかを照射しようとの思いが託されているようです。NHKは、「八重の櫻」のみならず、「日本人は何を考えてきたのか」なる番組においても、強く「東北」にひきよせた目で現在問われている課題を提示しようとしております。ここには、その短絡的にしていささか強引な番組づくりはさておき、東北再生に日本の明日を思い描き、その原点に精神の賦活をうながす魂の拠り所を求めたいとの強き想いが読みとれます。「八重の櫻」は何を現代に問いかけようとしているのでしょうか。会津士魂なるものの原点にある「ならぬ事はならぬものです」と語り聞かされてきた世界こそは、よるべき精神の在りかを忘失したかに見える現在の教育に対するかなめ石とみなし、世間の風浪に立ち向かえる強き心を担いうるものとのメッセージを提示したいのでしょうか。
 私は、山本八重-同志社の創立者新島襄の妻なる女性が巷の話題となり、その相貌が日本のジャンヌダルクなる物語として語り出されたのを目にした時、強い違和感に囚われた一人です。八重を「会津士魂」に引き寄せて語るのではなく、夫新島襄が説き聞かせた世界と重ね、襄が日本に寄せた世界に八重の生き方を読み解くことを期待したことによります。

時代人心に寄せる新島襄の想い

 上州安中藩(現群馬県安中市)江戸詰家臣新島襄(幼名七五三太〔しめた〕)、アメリカにおいてキリスト者となりヨセフの物語をふまえ襄)は、ペリー来航によって生まれた嘉永癸丑(嘉永6、1853年)からの危機の時代、神州の明日に想いを馳せ、欧米列強の植民地にされるのではないかとの激しい攘夷の志にうながされてアメリカに密出国した青年です。青年の心には尊皇なる義に身を捧げた楠正成を追慕する心がありました。
 新島が湊川の正成の廟に詣でたのは、文久2(1862)年12月、備中(現岡山県)高梁藩の船で訓練中、兵庫に入港した際です。湊川の楠公廟に立った新島は、「手洗い口そそぎ、廟前に拝すれば、何と無く古を思い起し、嗚呼忠臣楠氏之墓と記したるを詠みて一拝し、又詠みて一拝、墓後に廻り朱氏の文を読めば益感じ涙流さぬ計り」と感きわまり、「寒風吹来」るなかで、己のこころを「幾とせも尽ぬ香を吹きよせて袖にみたす松の下風」という歌にたくし「吐出」しております。まさに楠公によせる強き思いは、終の棲家となった京都の自宅書斎(京都御所の側、上京区寺町通り)にその拓本「嗚呼忠臣楠氏之墓」の銘文をかかげているなかに読みとれます。この日の感奮こそは心の原点となったものです。この兵庫では、湊川の帰路に平清盛の墓を一見しますが、「甚大なる者なれ共、一拝する気はなかりけり」と、平氏を天皇に背いたものと冷たく見放しています。ここには、頼山陽の『日本外史』が説き聞かせた尊皇の国日本という国のかたちによりそうことで、己の立つ場を確かめる青年の姿がうかがえます。
 新島は、嘉永癸丑以来の危機に対処するためにも、日本を脅かす「夷狄」たる欧米列強を知ること、夷情探索が急務との想いにうながされ、米国行きを決意、函館でその機会をうかがいます。開港場函館の地でロシア領事館が経営する病院の親切な対応に「函館の人民」の心が引き寄せられている状況を見聞した新島は「予切に嘆ず、函館の人民多年魯(ロシア)の恵救を得ば、我か政府を背に却て汲々として魯人を仰かん事を」との強い危機感にとらわれます。その想いは、堤防の小さい穴がやがて決壊して田地人家を流出させるように、「嗚呼我政府早く函館の少しく欠けし堤を収めされば、遂に魯国の水全堤を潰し、人民水に順い流れ、百万其れ塞ぐ能わさるに至らん(嗚呼我の嘆息はゴマメの切歯と同じ事か)」と、ロシアの植民地となるのではないかとの強い危機感でした。この危機感こそは、新しい国のかたちを求め、密出国をさせ、船中で聖書の神に出会い、米国における精神の覚醒に途を開き、キリスト者たる己の場を確かなものとし、新島襄、日本を導くヨセフたらんと決意した新島襄を誕生させたものにほかなりません。

一国を維持する者とは

 帰国した新島襄は、日本にキリスト教主義の大学を創設し、新生日本を担うにたる人物の育成をめざします。この教育への志は、政府が富国強兵をささえる人間を求めたのに対し、国家の富強が人民の道義力にあるとの思いにほかなりません。「同志社大学設立の旨意」(明治21年11月)は一国を維持する上で何が求められているかを次のように問いかけています。

一国を維持するは決して二三英雄の力に非ず、実に一国を組織する教育あり、智識あり、品行ある人民の力に拠らざる可からず、是等の人民は一国の良心とも謂う可き人々なり、而して吾人は即ち此の一国の良心とも謂う可き人々を養成せんと欲す、吾人が目的とする所実に斯くの如し、諺に曰く、一年の謀ごとは穀を植ゆるに在り、十年の謀ごとは木を植ゆるに在り、百年の謀ごとは人を植ゆるに在りと、

 このように問いかける新島は、明治23年の国会開設を前に、「立憲政体を維持するは智識あり、品行あり、自から立ち、自から治むるの人民たらざれば能はず」と、立憲政体が地に根ざすために求められる「人民」像、市民の在り方を説き聞かせています。この「智識あり、品行あり、自から立ち、自から治むるの人民」への期待、この新島の激しき思いは現在実現しているでしょうか。この問いかけに心すれば、昨今聞く「教育再生」とか「美しい国日本」なる言説には、「一国の良心とも謂う可き人々」への目がないだけに、その空虚さのみがめだちます。
 「八重の櫻」は、ここに紹介した夫新島襄の問いかけを八重がいかに受けとめていたか、この視点から八重の激しき生き方を検証してみたらどうでしょうか。「ならぬ事はならぬものです」という世界は、新島が国のかたちの原器を担うとした精神の在り方を場に問い質したとき、明日を生き得る精神の糧を可能にするのではないでしょうか。その際、前回述べた新渡戸稲造が説いた垂直的な思考をする目と重ねて世界を読み解くとき、新島の智識、品行、自立、自治を可能とする私の場が確かなものとなるのではないでしょうか。

参考リンク

参考文献

  • 大濱徹也『天皇と日本の近代』同成社 2010年


新渡戸稲造が問いかけている世界

新渡戸稲造<国立国会図書館蔵>

新渡戸稲造<国立国会図書館ホームページより転載>

 今年は、明治天皇没後100年ということもあり、乃木希典殉死と重ね、明治という時代に想いをはせ、日本という国の容(かたち)を考え、この国の在り方を問い質そうとの言説が多くみられました。このような周年行事に託しての企画は、歴史を想起することで、現在(いま)ある私の場を確かめ、明日を生き抜く糧を手にしようとの試みにほかなりません。そのような想いで時空を旅してみたとき、今年2012年は新渡戸稲造生誕の1862年(文久2)から150年にあたります。その記念行事は、新渡戸ゆかりの地で行われたようで、「太平洋にかける橋」たろうとした新渡戸の志がその「武士道」に重ねて想起されたなかにうかがえます。新渡戸という存在は、このようにして語られてきた世界にあるのでしょうか。
 新渡戸稲造という存在の大きさは、日露戦争後の日本にとり、世界の「一等国」、大日本となったと思いあがっている日本の青年に如何に生きるかを問いかけ、第一高等中学校の選ばれた青年のみならず、実業青年に己の生きて在る場をみつめることから、明日への想いを問いかけたことです。その問いかけは、大日本にふさわしい国民に求められる品格、人間としてどのように生きるかを、相手に応じて語りかけたなかにうかがえます。

「修養」に託した思い

 新渡戸は、第一高等中学校校長でありながら、雑誌『実業之日本』に「修養」を連載したがため、学の内外から批判されました。この「修養」談は、江湖の青年、上級学校への進学を断念して実業に就かざるをえない青年の心を激しく揺さぶり、発奮せしめました。実業青年は、新渡戸が説く人生談に、生きて在る己の場を確かめさせる声を聞いたのです。
 この連載は、明治44年8月に一書となり、年内で14版を重ね、大正2年末までに28版、大正3年に縮刷版となり4年末に46版、5年3月に48版が刊行されるという大ベストセラーとなります。縮刷版は、天金装丁で、縦長の聖書のような装丁となっています。まさに『修養』は、人生の生き方を説いた実用書である以上に、「若し本書にして、一人にても二人にても、迷うものの為に指導者となり、落胆せんとする者に力を添え、泣くものの涙を拭い、不満の者の心をなだめ得るなら、これぞ著者望外の幸」と「序」に認めていますように、己の心を見つめる世界が語りかけた精神の書でありました。
 序で「修養とは何を意味する」かを問い、「修養とは修身養心ということ」、「身と心との健全なる発達を図るのが其目的」で、難しく考えるのではなく、「平凡な務」こそが大切で、「人はややもすれば、職業だとか或は言語だとかを見て、非凡と平凡とを区別するが、併し実際は平生の心掛と品性とを標準として決するが至当」となし、平生からの心掛けと品性の大切なことを説いています。この言は、向上心をもちながらも日々の仕事に追われる青年にとり、己の仕事を勤めることで世界が開けてくるとの思いをいだかせたのです。
 私が出会った日露戦争後世代の老人は、新渡戸の「修養」を読むことで、どれほど世の中が明るくなり、仕事をすることに希望をもてたかを目を輝かして話してくれました。このような新渡戸の魅力、その根にある世界とは何でしょうか。昨今、「品格」を語り、「国家の品格」なる言説が氾濫しているようです。それだけに新渡戸が問いかけた世界にある根に目を向けたく思います。新渡戸は、修養を問い語ることで、青年が世に出る、己の志を立てる、理想に向かって生きる上で何が大切かにつき、「人間は縦の空気をも呼吸せよ」と、説き聞かせています。

社会に生きる人間に何が問われているか

 新渡戸は、社会で生きていく上で、人間同士の横の関係だけではなく、人間以上のあるものとの垂直の関係に目を向け、「人間は縦の空気をも呼吸せよ」と説いてやみません。ここには社会関係を読み解く目が提示されています。

人生は社会のホリゾンタル(水平線)的関係のみにて活るものでないことを考えたい。ホリゾンタル―多数凡衆の社会的関係を組織して居るその水平線―に立つて居れば、多数の間に其頭角を抜き、其名利を恣にし、又指導することも出来るであろうが、併し一歩を進めて人は人間と人間とのみならず、人間以上のものと関係がる、ヴァーチカル―垂直線的に関係のあることを自覚したい。我々はただに横の空気を呼吸するのみで、活きるものでなく、縦の空気をも吸うものであることを知って貰いたいのである。人間と人間との関係以上というと、何だか耶蘇教の神らしいことになる、併し僕は必らずしも神と限るのではない。仏教の世尊でも、阿弥陀でもよい、神道の八百万の神でも差しつかえない。僕は何の宗教ということを、ここで彼れ是れいうことを好まぬ。只人間以上のあるものがある。そのあるものと関係を結ぶことを考えれば、それで可いのである。此縦の関係を結び得た人にして、始めて根本的に自己の方針を定めることが出来る。

 この問いかけは、横の人間関係に翻弄されて己の場を見失うのではなく、人間ならざる大いなる者に目を向けることで、社会を相対化し、己の場を確認することこそ明日への活力となるとのメッセージにほかなりません。ここには、水平的思考ではなく、垂直的思考こそが社会を読み切る目に問われていることを示唆しております。
 新渡戸が修養談に託して説いた世界は、日露戦争後の「大国」日本で水平的な横の関係で他者との距離をはかり、己を位置づけ、優勝劣敗に心騒がせる在り方への鋭い批判でありました。しかし日本社会は、垂直型の思惟への目を身につけることなく、他国、他者を秤として己の位置を確かめ、己を失ってきたのではないでしょうか。新渡戸稲造生誕150年にあたり、明治末年の日本に問いかけたメッセージに耳を傾け、垂直的な目、見えざるものの声に耳を傾けたいものです。

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『修養』
新渡戸稲造
2002年 たちばな出版 刊


歴史に何を想い描きますか

承前-歴史に向きあいたいもの

 日本と中国の関係は、国交回復40年の現在、政府の尖閣国有に反発する反日デモにみられますように、かってないほどの厳しい状況に追い込まれています。中国政府は、日本の歴史認識の欠落、日本が近代化をめざすなかで中国をはじめとするアジア近隣諸国に何を為したかについて全く認識していないことを問い質しています。この告発は、中国のみならず、韓国政府も共に糾弾していることです。この歴史認識をめぐる問題は、過去の出来事を現在(いま)どのように己の問いとして受けとめ、明日を思い描くかということにかかわることで、日々の判断の根を規定するもとにほかなりません。日本人は、この知的営みが稀薄である、己の歩みを見つめてない、歴史に無知なる民族との烙印をおされたといえましょう。ここには、日本における歴史教育が過去の出来事を歴史事項として教え、その知識を覚えさせることにのみ意を尽し、過去の営みが何を問いかけているかについての眼が欠落していることがもたらした歴史への無知が読みとれます。その無知が露呈したのが今回の「国有化」問題といえましょう。
 国有化を公表するのにあたり、関係者はどれだけ起こりうる問題を検証したのでしょうか。9・18は、柳条湖の爆破にはじまる満洲事変がやがて盧溝橋事件へと、中国との全面戦争となり、中国が「国恥記念日」として民族の誇りを確認し、日本の侵略、列強に支配されてきた自国の歴史を実感し、偉大なる中華の民たる明日を想い描く原器になるものです。中国の民は、このような9・18の前夜に日本の「国有化」を聞いたわけで、「日本帝国」への悪夢、再び「侵略」との感情に火をつけたといえましょう。野田首相はじめ関係閣僚は9・18に想い致していたのでしょうか。全く無知だったのではないでしょうか。
 為政者に問われるのは、歴史への知であり、歴史を知ることで己の統治を検証し、いかなる明日を構築するかに想い致す構想力です。荻生徂徠は、今の世に生まれて数千年の昔のことを読み取り、見聞広く事実を認識する学問が歴史であるとなし、事実をふまえた想像力が為政者には問われていると、為政者が身につけるべき知に歴史への眼を説いております。毛沢東は二十四史を読むことで、その権力を維持しました。昨今の為政者にはこのような歴史に学び、己の統治を検証し、その判断をする人物が見い出せません。たしかに「美しい国」日本を言挙げする人物はいますものの、神話と歴史の区別もなく、神話に酔い痴れているのみの貧困な知性に哀れを感じるだけで、こんな漢に代表される日本に困惑する昨今です。

歴史に遊ぶこころみ

 こんな愚痴をこぼしたくなる昨今だけに、歴史に遊ぶ―時空間を旅し、現在からほぼ一世紀、90余年前の1920年に時代人が見た百年後の世界をながめてみることとします。『日本及日本人』は、「百年後の日本」を各界諸名士に問いかけ、臨時増刊(第780号 1920年4月5日)を刊行。この1920年は、第1次世界大戦による労農ロシア-ソヴィエトの登場による世界秩序の再編下、戦後恐慌がはじまり、労働社会問題が時代をゆるがせるなか、「栄光」の明治を体現した明治天皇を祀った明治神宮が東京代々木に完成し、明治という時代が「神代」になっていく年です。この「百年後の日本」という問いかけは、前代の栄光がもたらした翳にどう向き合うかを問いかけるこころみなのでしょうが、応答者は時代の空気をどのように読み取り、明日を思い描いたのでしょうか。なお、雑誌『日本及日本人』は、1907年に『日本人』と新聞『日本』が合併し、三宅雪嶺が主宰した雑誌。
 ソヴィエト誕生を目にした社会主義者堺利彦、大逆事件後の厳しい冬の時代を売文社によって生きのびた「主義者」の「頭目」には、明るい明日、搾取のない世界が展開しています。

「一百年後の日本」は社会主義の経済的変革が成就されてから、もう余ほど長く立つた頃でせう。愛国主義者や、国粋主義者や、国威国光宣揚主義者や、有らゆるウヌボレ者、偽善者が跡形もなく消えうせてゐるでせう。そして貧富の別もなく、都会と田園との別もない、筋肉労働と脳力労働の別もない、平和な社会が現出してゐるでせう。

 社会主義者は、労農天国と喧伝されるソヴィエト出現に明日の世界を楽天的に謳歌し、現実を見つめることがないようです。それは、山川菊枝が「幸福な男女の生活」を「貧民窟もなければ富豪の城郭もなく、あるものは美しい自然と、簡素な、そして気持ちのいゝ個人の家と、壮麗な会堂や美術館」と、思い描く世界にも見られます。ここには、国家の強権による厳しい監視下に生きる「主義者」にとり、人民の天国を説く社会主義を信仰として生きるしか術がない姿がうかがえます。
 このような「主義者」の信仰に対し、現実を受けとめることで一歩先取りした文学者菊池寛は、「幸福になるか疑問」となし、「人類の真の幸福と云ふものは、社会改造論者などの手で、ヒョイヒョイと生れるものでせうか」と、痛烈な一矢を放っています。この菊池の眼が現在求められます。そのためには、時代を突破する想像力が問われましょう。そのような言説は文学者に読みとれます。詩人である室生犀星は、「明るい女が殖える」と己の想いを投影し、「総ての女性が食物の進化(主として肉類などから)に順つて非常に美しい繊細(デリケート)な明るい女が殖えるだらうと思ひます」「思想的にももつと自由で、もつと肉感的(文明的)な女がふえるだらう」と、現在巷を闊歩しているような女性像を描いています。

現在を手にするために

 百年後を語ることは、現在生きている場から明日を予見する営みだけに、己の信仰や想いが端的に吐露されます。学者では、後に「風土」論で日本を位置づける若き和辻哲郎は「私には解りません」とし、「想像に浮ぶ未来の日本」を「非常に盛大になつた日本と滅亡した日本とが共に想像」できるが、「馬鹿々々しから止します」と。ここには現在をどう読み、いかなる明日をめざすかという想像力の断念がうかがえます。
 このような応答に読みとれる人間の歩みとは何なのでしょうか。人間の歩みは、「人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることができない」(エレミヤ)ことを自覚し、大いなる存在に向きあうなかに過去の営みを見つめ、問い質し、時代を切る裂くことで明日を手にしうる世界ではないでしょうか。それは、「百年後」の語りではなく、己が築くべき明日を歴史に読み解き、現在を手にする営みです。この作法は、混迷の渦に呑込まれることなく、私の場を確かなものとしましょう。


晩年の明治天皇

明治天皇没後100年ということ

明治天皇『天皇四代の肖像』(毎日新聞社)より

明治天皇『天皇四代の肖像』(毎日新聞社)より

 今年2012年は、712年に太安万侶が編集した古事記が献上されてより1300年、1872年の湊川神社創立より140年、1912年の明治天皇崩御より100年、1972年の沖縄返還より40年という年にあたります。神社界では、古事記1300年、明治天皇崩御100年を記念することで、日本の国のかたちに想いをはせ、いかなる国家をめざすべきかを問うています。ここに楠正成を祀る湊川神社140年を重ねれば、国家創成の物語に維新復古革命をうながした精神的道統をふまえた明治天皇の国造り在り方が読みとれましょう。かつ、沖縄返還40年は、基地沖縄を己のこととして見つめるか否かで、どのような国家を思い描くかが異なってきましょう。それだけに、このような節目の年に日本とは何かを考えたいものです。
 しかし日本という国はいかなるかたちなのかが問い質されないまま現在があるがゆえに、現在何をなすかが見えておりません。ここに戦後日本の混迷があり、明日の日本を思い描かない苛立ちのみを募らせているのではないでしょうか。かといって古事記が提示した世界に「美しい日本」の原像を求め、明治日本の国造りに範を求めていけばよいのでしょうか。否、国のかたちが視えない現在ほど己の眼で歴史を問い質すことが問われているのではないでしょうか。そこで明治日本を造型した明治天皇という存在に接近するために、その日常の営みを窺うこととします。
 明治天皇に統治された近代日本という国のかたちは、天皇の強き個性に彩られ、その言動が「臣民」と位置づけられた国民の規範となっておりました。しかし生身の天皇の姿は、時代とともに神秘の帷帳の覆い隠され、神格化されていきます。その死は、教育勅語不敬事件で日本国中に身を置く場を失った内村鑑三ですら、「天皇陛下の崩御は哀悼に耐へません、自分の父を喪ひし如くに感じます、明治時代は其終りに来りつつあります、昼と呼ばれる中に働かうではありませんか」「天地が覆へりしやうに感じます」と認めているように、悲痛な思いを国民にあたえております。この天皇は、死を眼前にし、いかなる相貌を呈していたのでしょうか。

天皇の老い

 明治天皇の侍従であった日野西資搏は、明治天皇紀編纂のために応じた談話で、日常身近に接した天皇の日常を問い語っています(『明治天皇の御日常―臨時帝室編集局に於ける談話速記―』)。日露戦争後の天皇は、伊藤博文が暗殺されたこともあり、心身の衰弱が進んだようです。

全体日露戦争後、伊藤公の遭難がございました。その時には特に御力落しでございましたが、その事がありまして御段が御つきあそばされたやうに御老境に入らせられたかのやうに、御側の者には拝察致したのであります。四十三年の岡山の大演習の時に御統監中、御野立でたびたび御小水に成らせられました。どうも御小水がいつものやうに御快通がございませぬ。それにもかかはらず三十分経つか経たぬかに御小水に御出であそばしたい御気味があつても御出にならなかつたのであると思ふ。
また大本営還御後も、非常に御疲れの御様子でございまして、いつもでございますればそのまま御椅子にでも御掛けになるのでありますが、その時は直ぐに御召更所(めしかえじょ)へならせられまして、なかなか御出ましにならぬ。御独りで御坐りになつて御膝や御腰を撫でて御ゐでになる、といふことがたびたびございまして(略)
その時分から、御表では決して仰しやいませぬが、御奥では「どうもわしが死んだら世の中はどうなるであらう。もうわしは死にたい」といふことを能く御沙汰になつた。

 ここには老いにさらされた老人の姿がうかがえます。天皇は医者嫌いで、皇太子(大正天皇)の生母である二位の局柳原愛子が「皇太子殿下も洵に御病弱の御身体であるし、もし玉体に万一のことがありましては、日本国中の者が非常に心配を致しますから」と、医者の診断を受け、養生をされるように「直諫」すると、「御腹立ちで、脇へ往つておしまひになる」有様であったという。そこで、忠臣蔵の「大石良雄が主人に薬を勧める蓄音器の譜、そういふものを上げまして、それとなく薬でも召上るやうにと」と、さまざまな苦心を重ねた由。天皇は、風邪にかかれば、「生姜の砂糖湯とか橙湯(だいだいゆ)」ですませたという。ここには、大元帥陛下として軍服をまとった天皇像の底に、西洋医学を嫌悪する夷狄感がひそんでいることをうかがわせます。しかし嗜好品では、シャンペンやベルモット等々を愛飲していたとのこと。

酒の好み

 天皇は、甘いものに目がなく、「牡丹餅で酒を飲むやうな者でなければ本当の酒飲みではない」と話していたように、大の酒好きでした。

日本酒・葡萄酒・「シャンペン」・「ベルモツト」、あるひは保命酒・霰酒のようなものが御好きで、保命酒・霰酒は奈良・岡山に出張しまする時には特に御沙汰で御買上げになる。そうしてそれは御自身の御手近に御置きになつて時々ちよいちよい召上る。平素は主に葡萄酒ばかりでございました。日本酒も召上ることがありますが、雉酒とか鶏酒とか鴨酒とかいふやうな、日本酒にその肉を入れて御吸物のやうにしてさし上げますので、御盃で日本酒を召上るやうなことは、何か御祝ででもないとめつたになかつた(略)ともかくも御酒は御好きでございましたから、注いでさし上げれば、それこそ何杯でも召上る(略)「シャンペン」が最も御好きでございまして、ある時などは、二本も召上つたことも

 このために「御足を御取られになる」ので、なるべくシャンペンは差し控えた由。また、「お酒を少し召上りますと、ちよつと御話が縺れて」「御口が少し横に歪みます。そうなると少し召上り過ぎたのであります」と。なお、黒田清隆のような、「臣下の中で先に酔い潰れる者」が出ると、天皇は警戒して酔わなかったと。「御上の方が先に御酔ひなるとちよつと始末に困」つたとのこと。この風景は、天皇と臣下の交わりというより、昨今でも宴会でみられる上司と部下の関係ではないでしょうか。天皇制といわれる日本の君主制をこのような日常卑近な世界から読みなをしていくことで、骨の髄までからめとられた天皇制の呪縛を解き放す作業をこころみ、己の眼で日本という国のかたちをたしかめたいものです。

参考文献

  • 大濱徹也『天皇と日本の近代』(同成社 2010年)


新しい大地で生きるということ

 東日本大震災で海岸地域から高台への移転を余儀なくされた人々には、生活再生に向けての経済的問題のみならず、移住者の協同一致を生み育てる精神的活力を引き出せる場をいかに構築しうるかが問われているのではないでしょうか。そこで維新革命で誕生した新国家が営んだ最大の国家事業である北海道開拓では、日本列島の各地から移住入植した人々にとり、何が問題であったかを検証してみることとします。そこには、安積開拓における開成山大神宮の設立を官が主導したのと異なり、新しい天地で生きようとする入植移住者が己の場を求めた営みがありました。それは日本人の原初的な心の軌跡ともいえるものです。このような心の営みをみつめることなく、大震災で生きる場を失った人々が協同性の場を取もどし、生きて在る場を確立することは困難なのではないでしょうか。

移住者の想い

 北海道への移住者を勧誘する移民募集の担当者がその困難さを次のように証言しています。この証言は、北海道開拓地で奉仕している田舎神主が北海道神職会の会議でその見聞を報告したものですが、故地を捨てた移住者にとり、新天地での協同一致を育む器の有無が大きな関心ごとであったことをうかがわせます。

移民募集員と称する人と汽車に同乗せることありて、移民募集の易々たる事業にあらざることを聞けるが、中に第一神社のなき土地又は其設立準備なきけ所には応募困難なることを力説致し居り候、中秋の候新開の山間僻地を通過する際、粗造の草屋点々たる一方に普通民家に用ゐる神棚などを木の切株に安置し、割合大なる黒木に鳥居を建て老幼男女四十人或は五六十人芝生に団欒し嬉々として宴飲放歌し或は競馬角力等の催をなすを数次実見せる事候き、やがて両三年を経過して視ればこの神棚の一小祠宇となり、この点々たる草屋の普通住宅と改る頃にはこの一小祠宇は更に殿堂となり、然して附近の天然林は伐採せられて只この社地に於てのみ蓊鬱たる浄地を残し、やがてこの部落の公園と成り申候、これらの実例は山手方面皆皆然る事に候、遠く古国を離し猛獣怪鳥の声より外に音なき山間に入りて開拓に従事するもの、如何にしても我運命を依託するものなくてはこれあるまじく候、殊に終日耕耘にのみ従事するもの一定の慰安日を要求するは人間の通有性に候、前者は即ち無願神社となり後者は即ち祭典と相成る事に候、然してこの切株神社の無願神社は移住民に安定を与へ其祭典は一致協力の機会を授け拓殖上軽々に付すべからざる神徳を認めらるるのみならず自然其の敬神崇祖の観念を涵養する枢機に触れつつある事と信じ候

切株神社の世界

多寄神社

 開拓移住者は、入植した原生林を開き、火をかけ、腰丈の根が残された大地に種を蒔き、収穫します。収穫後には、残されていた見栄えのする切株(きりかぶ)や棒杭(ぼうぐい)に故地から持参した神棚や母村などの鎮守社から下された神札などを安置し、収穫祭を営みました。この切株・棒杭をめぐる空間は、切株・棒杭神社といわれる聖なる場とみなされ、開拓村の祭りが営まれ、移住者の心の器となっていきます。その場には、時を経て開拓が進むなかで、小祠と鳥居が備えられ、やがて社殿が建立され、神社としての様相がととのえられていきます。いわば移住者は、故国を偲ぶ神祀りを執り行うことで生活の場における「一致協力」を確かめ、明日を生きるための生活をささえるハレの営みをなし、明日への祈りをささげたのです。この作法には日本人の神祀りの原初的形態が読みとれましょう。
 このような神祀りは、移住者が負うてきた歴史を凝縮したもので、その記憶を確かめる営みにほかなりません。そのため移住地の神祀りは移住者の故地に規定されていたため、北海道の神社の祭神には、故地の神が先ず祀られました。ちなみに江別市の野幌神社は、新潟県から団体移住である北越殖民社が「降神之処」神標を建てた棒杭神社にはじまります。秩父別町の集落では京都の伏見稲荷の神霊を大木の切株に安置して祀っています。このようにして成立した神社は、移住者が勝手に祀ったものとみなされ、国家に神社たる願書を届け出て認可された神祠でないがために「無願神祠」と位置づけられ、時とともに国家の厳しい統制を受けることとなります。
 しかし旧藩主が主導した入植移移住地や華族農場では様相が異なっております。旧亘理伊達藩が入植した伊達市は鹿島天足和気神社を、加賀藩士による前田村(現札幌市手稲前田)は藩祖前田利家を祀る前田神社を、長州藩士の大江村(現仁木町大江)は藩祖毛利敬親と毛利の祖大江広元を祀る大江神社を祀り、藩士の結集をはかっております。また華族農場では、松平農場(現鷹栖町)が出雲神社と松江神社を勧請するとともに、出雲松平家の始祖松平直政を祭神とする社を、加藤泰秋子爵の留寿都農場(現留寿都町)が旧領の伊予国大洲藩の久米村八幡神社の分霊で留寿都神社を建立していますように、農場主にゆかりの祭神が祀られたのです。

国家神との相克

 このような開拓地の神祀りは、無願神祠への統制が展開するなかで、雨龍開拓の中心となった蜂須賀農場の国瑞彦(くにたまひこ)神社が村社雨龍神社となっていくように、近隣集落の開拓時の祭祀が統合されていきます。国瑞彦神社は、農場主である蜂須賀家中興の祖蜂須賀家政を祭神となし、国瑞彦神社の分霊を勧請したものです。その創建前に、徳島県阿野村出身の小作人が故地の鎮守二ノ宮八幡宮を祀っていました。また戸田農場では、富山県新川郡内山村の出身者が内山八幡宮を、兵庫県淡路島出身者が三原郡の広田八幡宮を追分八幡神社にしておりました。追分八幡神社は、移住者の「淋しさを慰すべく、又不祥事をさくるため」に、「大木の切株の上に割板をもつて屋根を拵へ小さき祠を設置」した切株神社でした。
 これらの祭祀は、切株・棒杭神社に代表される無願神祠(無願神社)から村社雨龍神社として国家神の末端にとりこまれることで、その存在の場を見出したのです。雨龍神社は、主神を天照大神となし、蜂須賀家政、戸田農場主戸田家中興の祖松平康長、各集落の八幡神を応神天皇として祭神となし、各入植地の祭祀を取り込むことで雨龍の総鎮守たる村社の場を確保できたのです。いわば入植地の切株・棒杭神社は、農場主の祭祀下に組み込まれ、やがて国家神たる天照大神を頂点とする国家の祭祀体系に位置づけられていきます。しかし切株や棒杭に託した民の想いは、国家の祭祀体系を逸脱し、故地の神に連なる世界にありました。
 想うに日本の神信仰は、世に喧伝される「国家神道」なる言説でなく、切株・棒杭的世界にこそ民たる者がよせた精神の器がありました。現在問われているのは、移住者が日々の暮らしの場で心をよせうる器とは何かを、それぞれの記憶に眠る世界をみつめることで手にしていくことではないでしょうか。

参考文献

  • 大濱徹也「大地の祈り」(『年報 新人文学』第4号 2007年12月 北海学園大学大学院文学研究科)
  • 村田文江「開拓村と切株・棒杭神社」(『悠久』第119号 2010年10月 おうふう)


みちのく・東北のお伊勢さま

開成山大神宮

開成山大神宮

 福島県郡山市の開成山大神宮は、明治9年9月18日に皇大神宮(天照大御神)の分霊を祭神として奉遷し、大槻原開墾と安積原野の開拓守護神とした神社の由来から、現在「みちのくのお伊勢様」「東北のお伊勢様」として親しまれています。その誕生は、安積郡大槻原開墾のために、開拓入植者に協同一致の精神の器を備えんとした営みがあります。この営みは、大槻原開墾から猪苗代湖疏水開鑿による安積原野開墾を可能となし、現在の郡山市発展の基礎を築いたものです。この誕生記には、東日本大震災により、新たな大地を造営していくうえで、民心をささえる器の存在が欠かせないという物語が読みとれます。

大槻原開墾への想い

 大槻原開墾は、福島県令安場保和が企図し、旧米沢藩士中条政恒が中心となって実施したものです。中条は、「各富豪なりと雖も邑の為め国の為め尽す所なくんば守銭奴の侮辱免るべからず」と、郡山の富商を説得して開墾に参画させます。かつ戊辰の内乱で「朝敵」となり生活の術を奪われた旧二本松藩士族を入植させ、開墾の第一歩を踏み出します。
 中条は、明治6年3月に大槻原の現地を視察、出磬山(でけいさん)頂より安積原野を望み、開墾への決意を詠みます。

明治六年春正午(めいじろくねんはるしょうご)
夕陽立馬望平原(ゆうよううまをたててへいげんにのぞむ)
誰図華府中天月(だれかはからんかふちゅうてんのつき)
長照英雄一片魂(ながくてらすえいゆういっぺんのたましい)

 この詩は、アメリカの首都ワシントン―華府に重ね、英雄ワシントンの治績に想いをはせ、開墾地大槻原の困難な開墾事業の実現への心情を吐露したものです。まさに中条は、この壮図を実現すべく、郡山の富商を開墾事業の推進力として「開物成務」をはかるべく、開墾地を一村となし、出磬山に連なる小丘「放森(はなれもり)」を「開成山」と改称します。

遥拝所の設立

 ここに中条は、開成山上に遥拝所を設け、「山上山下花卉を植え遊園」となし、「郡民の気を和らげ」て協同一致の精神を生み育て、民心の結集をはかろうとします。この遥拝所建設に託した想いは次のように問い質されています。

今や万国と往来交通人民稍く天地の公道を知ると雖も未十分の一二も至らず、輦下に居て皇帝の御諱を知らず、其国に居て其国の元祖を知らず、実に無知無識の民と謂はさるへけんや、通交の諸国我を侮り我を笑ふは或は之に由る残念至極の儀に非ずや、其内取分け東奥の民は久敷覇政に漱染し、今日維新の隆時に会して尚未だ国帝を尊び国祖に報ゆるを知らざるに似たり、嗚呼是般開成山に於て遥拝所を設け、貧民流民愚夫婦と雖も此大義に遵行せしむる所以の大旨なり、四月三日神武帝の御祭事に歓欣鼓舞して遥拝式を行はヽ、皆以て国祖に報ゆるを知り、十一月三日天長節に逢ひ抃舞揚踏して遥拝を行はば、皆以て国帝を尊ぶを知るべし、大教於是て明かに東奥覇政の癖習遂には絶するを得へし、未開の民を教ゆるには此等の作用に非ずんば何ぞ戸々に渉り人々に及すを得んや、(略)
大凡新置の村は其民散じ易く其家亡し易し、必竟品物器具日用常務多く備らず、其地寥々として人心不愉快を生ずる故也、人楽めば村も亦盛なるべく、(略)新村をして快楽ならしむるは新村のすわりを堅くする所以

 開成山の遥拝所は、開墾地の民心結集のみならず、安積郡内の人民が協同一致する器となり、東奥の人民を国家の民にする場と位置づけられたのです。ここに明治6年11月3日の天長節の遥拝式は、山上に官吏正副戸長、神官僧侶等々が列座し祭式を営み、「近村隣郷老を携ひ、幼を提げ、或は一隊旗を翻すの壮者あり、或は綺羅群を為すの学校生徒あり、或は弦鼓舞踏の一連あり」と、歌い舞う者、「雑劇山車至る所人山を為す」にぎわいで、「来観する者皆耳目を驚かす」有様で、「此祭三日間に亘り集まる者無慮六万人に下らず」と、報じられています。

開成山大神宮の創建と移住者の心

開成山大神宮

開成山大神宮

 いわば開墾地の民心結集をめざした開成山の遥拝所は、天長節と神武天皇祭を営むことで、安積郡民の祭りの場にとどまらず、東奥の人心結集の器たろうとしたのです。ここに大槻原開墾の展開をふまえ、遥拝所でなく開成山上に開拓所神社を創建し、皇大神宮の分霊を奉祭する岩代大神宮となし、さらに安積原野の開墾へと発展させ、東北の「頑民」に国家の恩沢を及ぼそうとの壮図がおこります。この岩代大神宮構想は、国名を用いることが許されないとして、開成山大神宮として明治9年8月4日に認められました。「みちのくのお伊勢さん」誕生です。
 大久保利通内務卿は、明治9年6月の明治天皇の奥羽巡行の先発として東北各地を視察し、大槻原開墾による桑野村を検分して心動かされ、安積野開拓と猪苗代疏水開鑿(安積疏水)を国家プロジェクトで実現してほしいとの要請を受けとめ、事業の実現に力をつくします。ここに開成山大神宮は、国家事業としての安積野開拓の推進をめざし、「某等商人元来好んで開拓を為す者に非ず、県庁の諭告に従ひ、成否を試みんと欲し、之に従事し、遂に大金を投ずるに至」ったと言う商人等の想いをして、国家の回路に位置づけ、「小村一部落に及び一国一郡の名あるも其民殆んど呉越の思を為す」「互に党を結び鍬鎌を振て闘ふ、秣場の喧嘩水の紛争」が絶えない状況を克服し、村民・郡民をして、県民・国民にしていく、国民育成に相応しい精神の要となることで、その存在を輝かせていきます。
 しかし入植した移住士族は、故地の神を勧請し、その精神の器としております。旧久留米藩士は福岡県御井郡瀬下町鎮座の水天宮、広谷原の鳥取開墾地は鳥取県の国幣中社宇倍神社、対面原の棚倉藩士族は三柱神社からそれぞれの分霊をなし、開拓に従事しました。いわば開成山大神宮は、安積野の総社と位置づけられたものの、入植地ごとの地域的党派性に強く規制されていたのです。ここには日本の神信仰の在り方が読みとれましょう。このような在り方をみつめるとき、東日本大震災で故地を追われた人びとが明日を生きる上で、いかなる精神の器を用意できるかが、復興再建の要であることに想いをいたしたいものです。
 なお、この開墾地に生きた人びとのの相貌は、祖父中条政恒の家で少女期をすごした中条・宮本百合子の作品「貧しき人々の群」に描かれています。

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『貧しき人々の群 ほか』
宮本百合子名作ライブラリー
宮本百合子 著
1994年 新日本出版社 刊


被災地の社寺が問いかけていること

 東日本大震災はこの3月11日で1年が過ぎたのに、被災地の住民はいまだに明日への歩みを手にしていません。被災地に取り残された老人の餓死が報じられるなかに、人びとをめぐる協同性の崩壊が行きつくところにいった姿がうかがえます。人間が人間として生きていけるのは、単身者としての存在ではなく、ある協同性のなかにおいてです。現在、復興で問われるのは、経済的物質的支援もさることながら、被災地の人びとの精神を賦活せしめる精神の器ではないでしょうか。この精神の器を担い、住民の協同性を支えてきたのは神社であり、寺院でした。震災地の寺社等は、震災・原発事故でその存在の場を奪われたがために、住民の心に寄り添うことすらできない状況に追いこまれています。

被災地の神社

 神社本庁総務部震災対策室は、地機関誌『若木』の別冊「東日本大震災」で、地域祭祀を担ってきた神社の被災状況を次のように報告しています。

 宮城県・福島県・岩手県の東北三県では、八名の神職が犠牲・行方不明となっている。また、地震及び津波による神社施設の被害は一都一五県に亘り、本殿、幣殿、拝殿等主要神社施設が全壊、半壊した神社は、三〇九社の外、社殿以外の建物の損壊や鳥居、塔籠等の工作物の損壊に至っては、実に四、五八五社にも及んでいる。太平洋沿岸部に鎮座する神社においては、高台で辛うじて津波の被害を免れても、氏子区域が津波により壊滅的被害を受け、今後の神社運営に多大なる支障を来し、神社存立の基盤が失われかねない危機に面している。
 更に福島県においては、原発事故により立入りが出来ない警戒区域が設定され、当該区域内に鎮座する二四三社もの神社は、被害の状況すら確認できない状況にあった。

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東日本大震災前の延喜式内社?野(くさの)神社

 福島県双葉郡浪江町請戸の延喜式内社?野(くさの)神社は、毎年2月の例祭「安波祭」海上安全と豊漁を祈る神輿の海中渡御が行われ、五穀豊穣を願う「請戸の田植躍り」などが奉納され、地域住民の心をささえてきた精神の器でした。この津波で宮司夫妻と禰宜夫人が犠牲となり、禰宜の安否が確認されていません。しかも鎮座地は原発の警戒区域に指定されたがため、氏子らが県内外に避難したため、神社復興の目途も立てられない状況です。これが被災地の神社や寺院が置かれた姿といえましょう。
 このような状況下、?野神社では、宮司の三女が父の後を継いで宮司就任の決意をし、2月19日の例祭日に宮司就任奉告を兼ねた復興祈願祭が斎行された由。その祭りは、基礎のみ残る鎮座地に置かれた「小社」を仮社殿となし、白い防災服をまとっての執行でした。新宮司は「避難生活を余儀なくされている多くの氏子の方々に必ずや希望の光と復興への勇気を与えるものと確信している」(『神社新報』平成24年3月5日)と、その想いを問い語りかけたそうです。
 この想いは、被災地の民とともにある神社人の心を述べたものにほかなりません。しかし神社復興への途は多難です。氏子たる地域住民の流失は、神社再建を困難にしているのみならず、神社維持への方途も難しいものとしています。かつ、神社本庁に参加していない法人格すらない多様な神社、民社ともいえるものは住民が流出していくなかで土地に放置されたままになっていることでしょう。その様相はいまだ明らかにされていません。

移転復興の壁

 このような神社の在り方は、寺院にもみられることで、住民の集団移転ともかかわるだけに、移転が急務の課題となっています。寺院神社は、檀家や氏子が移転するのにともない、新開地に移ることが経済的に困難な状況においこまれています。この問題は、読売新聞(2月28日 夕刊)が「寺社移転支援及び腰 「政教分離」悩む自治体」で取り上げられています。仙台市若林区荒浜地区は、750世帯の家屋の大半が流失し、海岸から約500メートルに所在していた浄土寺本堂が流失、約140人の檀家が死亡。ここに住民の大半は約3キロの内陸部に集団移転をはかろうとしていますが、寺の移転は資金的に困難の由。石巻市桃浦地区の洞仙寺は、住民の4割が移転を希望しており、先祖代々世話になってきた寺が移転出来るどうかは不明とのこと。
 宮城県山元村の八重垣神社は建造物がすべてが流失したため、高台に移転するに必要な資金の宛もないと宮司は嘆いています。神社や寺院は、集落の要として、地域住民の精神的結集の場として、精神の器として生きてきました。それだけに地域の復興には、精神を賦活させ、明日を生きる活力を生み育てる寺社の存在が欠かせません。
 しかし寺社移転に必要な費用は、檀家や氏子の負担とみなされ、移転費用の公的な支援がありません。その背景には、集団移転が住まいの安全確保を目的にしているために、寺などの宗教施設が対象にされていないことによります。ここには、住民移転にともなう寺社の移転を支援するために公有地を斡旋し、敷地等を無償で貸与するという方策がとれない、という「政教分離」という信教自由の原則を強調する教条的解釈の壁があります。
 想うに寺社、なかでも神社は、集落の祭祀を担い、地域住民の暮らしのかたちである文化をささえ、記憶を継承していく場として存在してきました。この精神の器が崩壊することは、地域社会の連帯を維持する場の喪失にほかならず、協同体が世間の潮流に翻弄され、流亡していくことにほかなりません。信教自由は、他者の信仰と生き方を尊重し、己の信仰を絶対視して、「政教分離」なる言説で他者の営みに干渉することではありません。地域の復興と再生には、集落が移転するのであれば、その集落を成り立たせていた世界の総体が新天地で生きていくための方策が求められているのではないでしょうか。それだけに集落の核となってきた神社や寺院の働きが新開地で生きる移住者の心の糧となることに想いをいたしたいものです。
 そこで次回は、精神の器とは何かを歴史にたどるべく、明治維新で流亡の民となった人びとが新天地に生きる場を築いていく物語を、「東北のお伊勢さん」と親しまれている福島県郡山市の開成山大神宮創世記に読みとることにします。

うつくしま電子事典「苕野(くさの)神社-安波祭-」紹介ページico_link


荻生徂来にみる、指導者が問われること

荻生徂徠のこと

『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』(有朋堂書店)より

荻生徂徠『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』(有朋堂書店)より

 江戸時代の儒者荻生徂徠は、5代将軍綱吉の側用人柳沢吉保に仕え、吉良邸に討ち入りをした赤穂浪士を「名分論」でなく秩序紊乱者として処分することに道をつけました。朱子学を信奉していた綱吉の死後は、柳沢吉保が隠居したこともあり、柳沢邸を出て、江戸茅場町に私宅を構え、「茅」の同義語である「蘐」により「蘐園」と称し、宋学の呪縛を脱却し、古文辞学をたちあげます。徂徠は、当時の儒者のなかでもっともよく中国の口語に通じており、儒学を原典から読み解くことができました。そのため8代将軍吉宗は、享保6年9月頃、島津吉貴(よしたか)から献上された『六諭衍義』に訓点を付けることを徂徠に命じました。
 この『六諭衍義』は、明の太祖洪武帝が民衆教化のために頒布した「孝順父母(父母に孝順にせよ)」「尊敬長上(長上を尊敬せよ)」「和睦郷里(郷里に和睦せよ)」「教訓子孫(子孫を教訓せよ)」「各安生理(各々生理に安んぜよ)」「母作非為(母に非為をなすなかれ)」という六つ徳目に、范鋐(はんこう)が平易な口語で註解をしたものです。徂徠は、この訓点をなすことで吉宗の下で政務の機密事項にかかわる「隠密御用」を仰付けられ、政務の具申をなし、『政談』を献上しております。『政談』は、後に「享保の改革」と称されることとなる吉宗の治世に期待し、政治が法と制度で運営されるべきであるとの思いを述べたもので、現在においても聞くべき政治哲学が認められています。かつ徳川の治世をささえた政治の眼が読みとれます。

執政たる者とは

 昨今の日本は、「失われた20年」云々と、政治の混迷が語られ、国家指導者に人を得ていません。そこで徂徠の言に耳を傾け、指導者たる者には何が問われるかを考えてみませんか。この営みは、一過性のマスコミを舞台に、愚にもつかない「タレント」と称する輩が発するその場その場の世間受けする言動に踊らされることなく、明日を己の眼で見極めるためにも、現在まさに求められていることです。徂徠は指導者たるべき者には何が問われるかを「重き役人の挙用のこと」として述べております。

 執政の臣は言語・容貌を謹み、下へ向き慮外をいわず、無礼なる事のなきを第一とすべし。聖賢の深き戒也。疎そかに心得るべからず。俗了簡には、才智さえあらば、言語・容貌は構わでも苦しかるまじきと思えども、さにはあらず。執政の臣は外の役儀とは替り、古の大臣の職也。「赫々たる師尹(しいん)、民ともに爾(なんじ)をみる」といえる『詩経』の文を、『大学』にも引きたるにて、聖賢の道には甚だ重き事にいえり。執政の臣は重き職分なれば、その人の詞・行作をば、下よりは万人常に心を付けて見る事なる故、一言一事をも世上にて評判し、遠国までも伝え聞きて、天下に隠れなし。されば御役を重んじて、上の御為を大切に思入れたらんは、言語・容貌に心をつけ、慎まずして叶わざる事也。
 元禄の比までいずれもこの嗜(たしなみ)ありて、言語・容貌も見事なりしに、正徳の比よりこの風衰えて、今は重々しき身持の人なしと承る。その事の起り、不学なる人の了簡はまわり遠なる事を嫌い、近道に御用を弁ぜんとし、殊に才智のある人は、その才智を働かさんとするより、容貌・言語の慎み崩るる事也。されども執政の職は己の才智を働かさず、下の才智を取用いて、下をそだて、御用に立つ者の多く出るようにする事、職分の第一なり。己が才智を働かす事は有司の職にて、執政などの職分には非ず。何ほど才智を働かせたりとも、下の才智を用いざる時は、己が才智ばかりにてたる事に非ず。然るを手前の才智を働く事、執政の臣の上にはかえっ職分の筋に違いて、畢竟不忠になる事を知らぬは、不学の過(あやまち)なり。
 言語・容貌を嗜む事は、我が身を重々しく持ちなして、外をつくろうように不学の人は思えども、これまたさにはあらず。職分重ければ身持も重々しき事第一当然の宜しき也。さようの人をば重んじ敬う事、これまた自然の道理なり。人の重んじて敬う人を上にすえて下知さする時は、下よくこれに従う。これまた自然の道理也。これにより役儀重ければ言語・容貌を嗜む事、古よりかくある事にて、全く外をつくろう筋にはあらず。言語・容貌粗末にて、下へ向きて無礼をする人は、下の才智をそだてぬ心入れなる上に、さようの人には下の心心服せざる故に、必ず政務の滞りとなり、上の思召しの筋も下へ行き渡らぬ事也。

現在、「節南山」が問いかけること

 『詩経』の引用は、無道の臣を重用する幽王を風刺した「節南山」によるもので、「厳粛であるべき大師(天子の師)の位に尹氏が在る、天下万民がそのありかたをみている」と。「詩」は、「その姿をみれば、人々の心は憂いで灼かれ、戯れの言葉すら発する気持ちになれない、国はすでに傾き衰え乱れている、どうして顧みることをしないのであろう、天意に適わず、大師に相応しくない者を用いて天の禍乱を招き、国家民衆を空乏させてはならない、」云々と、政治の乱れを糺し、国家人民を安んじるのが政治の要道だと説いたものです。徂徠は、上に立つ者に問われる器量をはかるに、己の才智によらず、下の者の「才智」をみぬき、それを用いる力量に求めました。「言語・容貌」を慎み、下の者を大切にし、その力をふるわせる作法こそは指導者たる者が身につけておかねばなりません。
 さらに徂徠は、家康が「重き御役人を仰付けらるるには、必ず下の沙汰を御聞きありて、下にてその役になるべしと沙汰する人を必ず仰付けられた」ことをあげ、「人の善悪は上よりは見えかぬる物なり」となし、下の者の眼が大切だとも説いております。
 これらの言説には、家康が創始した徳川の治世が幾多の困難がありながらも、260有余年の「平和」の世をもたらした鍵があるのではないでしょうか。現在想うに、「言語・容貌」のない人物、己の小さな「才智」に溺れた者が政治のみならず、日本の各界を跋扈しているとの感のみつのります。それだけに徂徠が説き聞かようとした指導者像、その政治哲学に学びたく想う次第です。

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『政談』
荻生徂来 著
辻達也 校注
1987年 岩波文庫 刊


内村鑑三「飢饉の福音」が問いかけること

「ガンバレ」を問い質す

内村鑑三<国立国会図書館蔵>

内村鑑三<国立国会図書館蔵>

 3月11日以後の日本は「東北ガンバレ」の声におおわれました。この声高な応援メッセージは被災地に生きねばならない人びとの励ましになっているのでしょうか。日本では、何かというと「ガンバレ」「ガンバレ」とエールを送り、これに唱和するかのごとく「ガンバリマス」というのが、連帯を表す作法であるようです。この作法は如何なものでしょうか。被災地の人びとは、日々を生き抜くために、懸命にその日の営みをされています。「ガンバレ」「ガンバッテ下さい」なるかけ声は、励ましではなく、明日をどう生きるかに思い苦しむ者を鞭打つものではないでしょうか。

 私は、何かというと「ガンバレ」「ガンバリマス」という応答が日常的に氾濫している世間の風潮になじめず、強い嫌悪感を抱く者です。「がんばる」という作法は、「がん」が頑固であり、「ばる」は突っ張り、意地を張ることで、己を問い質す心のゆとり、理性的判断力を失わせるものでしかありません。突っ張れば切れるだけです。近年巷でおこる「無差別殺傷事件」とみなされるものは、「ガンバッタ」がために心身が切れ、突発的ともいえる行動に奔らせたものといえましょう。日本人が好む「ガンバレ」という主義、「ガンバリズム」は、昔「皇軍」と称揚された日本の国軍をささえた精神が横溢していれば出来ないものは無いという精神主義の残飯でしかなく、理性を狂わせるものでしかありません。
 東日本大震災以後の日本社会を蓋う閉塞感は、この「ガンバリズム」が列島に横溢することで、日毎に深まり、日本を出口のない迷路に追いこんでいるようです。この迷路を打開するには何が問われているのでしょうか、先人は、このような自然災害とどのように向き合い、人間としての生きる命を学ぼうとしたのでしょうか。そこで日露戦争後の東北凶災をみつめ、何が国民に問いかけられているかを説き語ったキリスト者内村鑑三の声に耳を傾けたく思います。
 内村は、青森県弘前に東奥義塾を創立した本多庸一の要請を受け、明治36年5月11日に東京神田のYMCAで開催された東北救済のための演説会で「飢饉の福音」を語りました。現在(いま)この声に耳を傾けたとき、明日を生きるには何が問われているかを読みとる精神の糧を手にしうるのではないでしょうか。

天災飢饉をどのように向き合うか

 「飢饉の福音」なるメッセージは、まず「飢饉は或る意味から云へば神の下し給ふ刑罰」と語りだし、天災飢饉にどのように向き合うかを問い語りかけたものです。その声に耳を傾け、内なる声を聞きたく思います。

 飢饉は或る意味から云へば神の下し給ふ刑罰であります、之れは民の懶惰を懲らさんが為めか、又は為政家の怠慢を責めんが為めに、神が人に加へ給ふ鞭であります、夫れ故に飢饉其物は決して喜ぶべき幸福なる事ではありません。(略)然しながら凡の災害を其正当の意味に於て解釈しますれば災害は返て我々に多くの福音を伝ふるものであります、素々神の意志より出たる災害でありますから其苦き杯の中に甘き訓戒が有るべき筈であります、飢饉を単の災害として受くべき乎、或は之を変じて幸福の泉となすべきかは我々の之に加ふる註解如何に由ります。

一、飢饉に依て我等は我等の平常の用意の足らないのを覚るのであります(略)
二、飢饉に由て我等は政治家の無能怠慢と社会組織の不完全を覚るのであります(略)
三、飢饉は人に取つては災害でありますが、土地に取つては幸福であります。
四、言ふまでもなく凡ての災害は人の冷却せし同情推察の情を起すものであります、爾うして茲に特に注意すべきことは災害なるものは多くは悪人其者の上に直に来らずして、真固の悪人以外の者の上に来ることであります、今年の我邦の飢饉の如き若し其民の罪悪の度合から申しましたならば、之れは西南の薩摩か長州に来るべき筈のものであります、又彼等の罪悪を助けた者は肥後の教育家と文人とであります、故に若し罪悪応報が飢饉の目的でありますならば之れは重に西南地方を襲ふべき筈のものであるやうに見えます。然るに実際は全く之に反して比較的に罪少き東北人の上に臨み来つたのは如何にも惨酷であるやうに見えます。(略)

 明治政府の犯した罪悪に最も関係の少ない東北の民が或は海嘯に罹り、或は飢饉に苦んで此政府の如何に思慮なき、如何に無慈悲なる、如何に不公平なる、如何に頼むに足らざる政府である事が能く判るのであります、爾うして斯く観じ来つて我々は一層明白に此等罹災民に対する我々の責任が分かるのであります、即ち彼等は重に彼等の罪のためではなくして日本全国民、特に薩長の偽善政治家のために苦みつゝあるのであるのを見まして、我等は殊更に深い同情を是等の窮民に向つて表さなければならないことが判ります。

 内村は、天災飢饉を人間の生き方、社会の在り方の問題ととらえることで、現在をいかに生きるかを問いかけます。この告発には、薩長政府の在り方、教育勅語を主導した元田永孚らによる国家の営みに対する厳しい批判が託されていますが、災害を単に自然現象とみなすのではなく、いかに生きるかという問いかけが託されています。

生きる力とは

 多様な被災地の復興には、当面の物質的支援もさることながら、被災者自らが生きる力を如何に身につけるか、自力への内的活力が問われているのではないでしょうか。しかし現在目にするのは、いまだに内村を慨嘆させた世界、「政府の如何に思慮なき、如何に無慈悲なる、如何に不公平なる、如何に頼むに足らざる政府」に右顧左眄するのみで、「ガンバレ」「ガンバッテ」という声しか耳にしません。明日に向かっていかに生きるかを問い質すメ―セージを発信する存在がいないところに現在の日本に貧しさがあるのではないでしょうか。それだけに明治末年、日露戦争の勝利に酔い痴れていた日本国民にもたらされた飢饉を国民精神覚醒の起爆剤ととらえることで、新生日本の明日をみつめようとした内村鑑三の声を己の内なる世界で問い返したく思います。思うに日常の暮らしに追われているからこそ、私たちには日々の営みを厳しくみつめ、己を律する何かが求められています。その何かを見いだせない限り、明日は手にしえないのです。この課題を「飢饉の福音」から学びたいものです。

内村鑑三

  • 「飢饉」(『万朝報』明治35年8月18日 『内村鑑三全集』10巻 岩波書店)
  • 「飢饉の福音」(『聖書之研究』40号 明治36年5月28日 同全集11巻)
  • 「戦勝と飢饉」(『新希望』71号 明治39年1月15日 同全集14巻)
  • 「天災と天罰と天恵」(『主婦之友』7巻10号 大正12年10月1日 同全集28巻)