「西郷どん」とは何者か 5 ―戊辰で流した血は何だったのか―

承前

 徳川王国を軍事力で制圧した新政府は、「開国和親」をかかげ、欧米列強に対峙しうる国家の創成をめざします。その方途は、「万国公法」が支配する世界秩序の中に新興の日本国が一個固有の場をしめるべく、列国につらなるにふさわしい「文明国」にならねばなりません。ここに国家をあげての「文明開化」が至上命令とみなされたのです。
 西郷は、このような明治国家の在り方をめぐり、政府内で孤立感をふかめていきます。西郷の思いは、庄内藩士らが薩摩に赴き、西郷に教えを乞い、その聞くところを「南洲翁遺訓」として明治23年に荘内で刊行、さらに29年に佐賀に人片淵琢がが『西郷南洲先生遺訓』として東京で刊行されたものに読み取れます。この「遺訓」は、有志によって写し継がれ、そこに記されている言を人びとが口ずさみ、大切に伝えられました。
 荘内藩は、戊辰の際に佐幕藩であった藩の苦境を西郷に救われた恩義に感じ、その徳を慕います。そのため西郷の死を悼み、西郷を祀る西郷神社を建立しています。ここには、「鎮西狂賊兵強大権衰之馬鹿」と「揶揄罵倒」された存在とは全く異質な、西郷隆盛という人物が発した磁力の大きさを見ることが出来ます。この磁場は西郷が問い語る為政者たる者に問われる識見にみることができます。

「政治」を担う者には何が問われるか

 西郷が治者に求めたのは、天道を行う、徳ある者です。「遺訓」第1は政治に関わるものの責任を問うています。いかにも国家に功労あろうとも、適切なる人材の登用が大事なことだと。

廟堂に立ちて大政をなすは天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆゑ真に賢人と認る以上は、直に我が職を譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勳労有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其人を選びて之を授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるる

ここには見果てぬ統治の夢が語られています。西郷はこの夢を体現した者として被治者の心に刻印されていきます。

戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿

 かつ万民の上に立つ者には、人民の模範となり、勤労する民の心に寄りそうことが肝要であるとなし、新政府の創業者の実態を論難、「戊辰の義戦」も私的利益の追及になり、「天下に対し戦死者」に顔向けできないと涙して悲憤慨嘆しています。

 己を慎み、品行を正しく、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きとて、頻りに涙を催されける。

 まさに西郷は、新国家創業をめざす政府の実態に深く絶望し、文明政府の在り方を論難してやみません。その想いは、各国の制度を学び、「開明」に進むにしても、みだりに外国の制度文物を受け入れることではない。まず、日本の「本体」、あるべき姿をみきわめ、徳を以て人を教え導く基本を確立したうえで他国の長所を斟酌すればよいのだと、「文明開化」に狂奔する潮流に釘を刺します。

広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我国の本体を居(す)ゑ風教を張り、然して後徐(しず)かに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼れに倣ひなば、国体は衰頽し、風教は萎靡して匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。

 ここには、他国の文明に向き合ううえでの、基本的な視座が提示されています。西郷には、戊辰の勝利に酔い痴れる「維新の功臣」の姿を目にするにつけ、圧倒的な物量で迫ってくる欧米の奔流に流されていく日本の現状への深い憂国の情がほとばしりでたのです。この思いこそは、戊辰で血を流した同輩の苦境をみるにつけ、国家を壟断する「功臣」の輩への悲憤となり、「問罪」を掲げての決起に奔らせたのです。いわば西郷隆盛の政治哲学は、徳のある政治を実現すべく、天の声に耳傾けねばならないとの想いにこめられているように、統治される被治者の場に寄り添うことを第一義としたものです。その想いこそは、戦乱で苦境にさらされた民にしても、一方で西郷の秘めたる志にある共感をいだき、時と共に苛政からの解放幻想をいだかせることになったのだといえましょう。民衆は、西郷隆盛のなかに、あるべき政治の在り方をみいだし、西郷をかたることで見果てぬ政治への思いを託そうとしたのです。有為なる政治家は、西郷を見つめることで、己の在り方を問い質してきたのですが、昨今はかかる政治家を見出すこともない時勢ではないでしょうか。それほどに政治が劣化しているのが現在なのではないでしょうか。

 

参考文献

  • 山田済斎編『西郷南洲遺訓 附 手抄言志録及遺文』岩波文庫 1939年

OECD東北スクール①

1.はじまりのはじまり

 大震災の2011年、子ども支援ボランティアの統括をして土日もない生活をしていた11月、パリからOECD(経済協力開発機構)教育スキル局が福島大学に来るので、これまでの取り組みをプレゼンできるよう準備しておくように、という指示が降りてきました。大げさではありますが、この出会いが、私ばかりか、私と出会う多くの人たちの運命を大きく動かすことになります。
 今回のOECD来日の目的は、同年4月にグリア事務総長が来日時に約束した「東日本大震災の復興支援」を具体化することでした。しかし、OECDは世界最大のシンクタンクと呼ばれ、世界各国の様々なデータを集め政策提言を行う国際機関で、一国の災害復興を行うような機関ではありません。お金や人、物の支援は一切なく、アイディアとコネクションの提供でした。

図1 OECD東北スクール参加市町村

 OECDの描くストーリーは、世界の各地で大きな災害が起きると、そこから新しい教育が生まれる、東日本大震災は1000年に一度の大災害と呼ばれ、これを機に新しい教育が生まれるはず、これを日本の教育改革に結びつけていこう、というものです。
 OECDの提案するプロジェクトは、後に「OECD東北スクール」と呼ばれる、被災地の中高生を復興支援の担い手として育てる約3年にわたる教育プロジェクトでした。OECDが被災地に課すミッションは「2014年にパリから世界に向けて東北の魅力をアピールする」イベントを開くことです。あまりに巨大で、どこから手をつければいいのか全くわからない難問だらけのプロジェクトでしたが、できる範囲内でいいから協力してほしい、と言われたので「あくまでもできる範囲内で」と返したのでした。

2.OECD東北スクールがめざしたもの

 2012年の3月に、OECD東北スクールの第1回集中スクールをいわき市で開催することが決定し、私の身辺がにわかに忙しくなってきました。「できる範囲内で」とは言ったものの、スクールの事務局を福島大学に置けないかと要請され、いつの間にやら私はプロジェクトマネージャーとなっており、採用したばかりの七島事務局長、アルバイトの3人の大学院生とでにわか仕立ての事務局をつくりました。

図2 OECD東北スクールスケジュール

 毎週のようにOECDと文部科学省を結んだ電話会議を夜遅くまで開き、第1回集中スクールの打ち合わせを重ねました。しかしこのときまではまだ、スクールのワークショップはすべてOECD側で準備してくれるので、こちら側はロジスティクスを、いわば裏方だけを担当すればいい、と考えていました。しかし、参加者リストには、福島・宮城・岩手三県の生徒や学校教員以外に、文部科学省から前副大臣の鈴木寬氏や文部科学審議官の山中伸一氏、テレビでお馴染みの池上彰氏・増田ユリヤ氏らが参加し、グリアOECD事務総長や吉川OECD日本政府代表部大使らがビデオレターを寄せられるという、こちらの想像をはるかに超えたスケールで、裏方のたいへんさに強い不安を覚えます。
 それだけではありません。同じリストには、様々な企業関係者や聞いたことのないNPO、フランスのアーティストやフランス大使館関係者、シンガポールの小学校の校長先生、加えて東京や奈良の高校生も含まれています。何がどうなっているのか、理解できませんでした。
 OECDの思惑は次のようなものでした。地域復興をめざす生徒達に必要なものは「21世紀型」と呼ばれる能力、その能力を身につけさせる教育方法はプロジェクト学習(PBL)、プロジェクト型の学習を組織するには学校のみならず、企業やNPO、自治体、研究者などの様々なステークホルダーによるネットワークが必要、そのネットワークづくりこそがこのOECD東北スクールの真の目的だったのです。いわばこのプロジェクトはOECDのアクション・リサーチであり、新しい教育をつくる社会実験なのです。このような基盤は日本にはなく、本当にこのようなことが成功するのかどうか、OECD内でも相当な議論があったと言います。

3.参加した生徒達

図3 第1回集中スクールの様子


図4 チーム〈環〉が誕生した瞬間

 2012年3月25日、4泊5日に及ぶOECD東北スクールの第1回集中スクールが始まりました。約100人の中高生が狭い会場を埋め尽くし、グリア事務総長や吉川大使らの挨拶がビデオで流されます。金沢工業大学の三谷宏治先生や池上彰氏のワークショップが続き、生徒達はこれまでにない知的興奮を味わいます。

 参加した生徒達は、自ら参加した者もいましたが、多くは「パリに行けるから(実際はその確約などはなかった)」と安易に飛びついた者や、自治体からの要請で訳もわからず参加したという者も少なくありませんでした。被災地の中高生と言っても、実際に近親者や友達を津波で亡くした生徒や津波に巻き込まれ九死に一生を得た生徒もいましたが、多くは直接的な被災はなく、自分が被災者なのかどうなのかわからないと悩む生徒、震災直後は何もできなかったからここでできることをやりたいという生徒が大半を占めていました。いわば、「普通の生徒」達によって、OECD東北スクールは成り立っていました。
 彼らが自分たちのチームにつけた名前は〈環〉でした。生徒と大人、被災者と非被災者、日本と海外が環流することを願ってつけた名前でした。

表1 第1回 集中スクールのワークショップ一覧

はじめまして!
過去から今を生きる
東北けんみんショー!

池上彰(フリージャーナリスト)

「発想力・探究力」

三谷宏治(金沢工業大学)

過去をふり返る

三浦浩喜(福島大学)

未来の自分、未来の東北、未来のニホンは?

Edmund Lim(シンガポール小学校長)
池上彰

自分のシルエットで未来予想図を描こう!

磯崎道佳(アーティスト)

バーチャルパリ旅行
チームに名前をつけよう
役割を分担しよう

Gad Weil(国際イベントプロデューサー)

誰に伝える? どう伝えようか?

梛木泰西(テレビマンユニオン)

任務遂行にはビジョンと戦略が必要!
各チームで実行計画づくり

内田和成(早稲田大学)

チームによる発表&フィードバック

鈴木寬(前文科副大臣)
丸山邦治(丸山海苔店社長)
内田和成、三浦浩喜

ゲンボとタシの夢見るブータン

©ÉCLIPSEFILM / SOUND PICTURES / KRO-NCRV

 「あなたは幸せですか」との問いは、永遠の問いだろう。経済的、物質的に恵まれていても幸せでない人は多い。逆に、経済的、物質的に恵まれていなくても、幸せな人は多い。
 「人間はだれ一人として幸福を求めないものはない。……ただ、幸福の内容はどんなものか、また、いったいこの世で幸福を見い出せるかどうかという点で、人々の考えが一致しないだけである」。アランの「幸福論」を持ち出すまでもなく、要は、気持ちの持ちようだろう。ふと、そんなことを思い出しながら、ドキュメンタリー映画「ゲンボとタシの夢見るブータン」(サニーフィルム配給)を見ていた。
 ブータン。鎖国を解除した1971年以来、行ってみたいなあと強く思う国だ。
 ブータンの首都ティンプーから、バスで15時間ほどのブムタンにある小さな村。代々続いた大きな寺院で暮らすゲンボは、16歳の男の子。寺院を継ぐために学校を辞め、規則の厳しい僧院学校に進むべきか、悩んでいる。妹のタシは15歳。まるで男の子のように振る舞い、サッカーの代表チーム入りを夢見ている。タシは、心優しい兄ゲンボを慕っていて、サッカーを教えてくれるゲンボが、遠く離れた僧院学校に行かないことを願っている。

©ÉCLIPSEFILM / SOUND PICTURES / KRO-NCRV

 父のテンジンは、当然ながら、子どもたちが幸せになることを願っている。いつも、ゲンボには、仏教の教えがいかに大切かを説いている。タシには、男の子のように振る舞うことなく、女の子らしく生きていくこと望んでいる。
 母のププ・ラモは、将来、寺院に来る観光客たちに、ゲンボが英語でガイドが出来るよう、いましばらくは学校で英語を学ぶことが重要と考えている。
 ゲンボもタシも、思春期である。近い将来、どのような生き方を選ぶか、いまだ明確な答えを持っていない。
 テレビや、インターネット、スマホが普及し、社会資本が整備され、ブータンの近代化が急速に進みつつある。親と子の想い、願いは、なかなか一致しない。ゲンボとタシは、いったい、どのような未来を選択するのだろうか。
 ゲンボたちの住む村は、標高2000mほど。夏は過ごしやすいが、冬の寒さは厳しい。ゲンボとタシの兄妹は、よく「寒くなってきた」と言い合う。また、数々のブータンの伝統や風習、事物が、次々と紹介されていく。鮮やかな色の民族衣装で、チャムという仮面舞踏を踊るシーンが出てくる。その躍動感に驚く。
 ケーブルテレビでは、ヨーロッパのサッカーの試合を見ることができる。そういったブータンのいまが、きめ細かく、丁寧に描かれて、飽きない。

©ÉCLIPSEFILM / SOUND PICTURES / KRO-NCRV

 ブータンは、「幸せな国」というイメージがあるが、少なくとも、「幸せな国」になりたい、なりつつあるというのが伝わってくる。もちろん、映画で描かれるのは、ブータンのすべてではない。だが、ブータンという国は、近代化を成し遂げながらも、物質的な幸福よりも、精神的な幸福を希求する国であることが分かる。
 このような「幸せな」ドキュメンタリー映画を撮ったのは、ブータンでドキュメンタリー番組を制作しているアルム・バッタライと、ハンガリーで、短編のドキュメンタリー映画を撮っているドロッチャ・ズルボーという女性。近代化が進めば進むほど、家族愛や兄弟愛、他人への思いやりは希薄になっていくものだ。ブータンもまた、そうなりつつあるかもしれない。ふたりの監督が提示するのは、ブータンにとどまらない、現在の家族の典型的な姿、形だろう。
 息子に、文化を守ることを期待はするが、無理強いはしない父親の苦悩が、全編ににじみ出ている。そして、その苦悩を象徴するような、エンド・クレジットで流れるブータンの音楽が、こころに沁みいってくる。
 映画を見終わって、また、アランの言葉を思い出した。「若干苦労して生きていくのはいいことだ。波瀾のある道を歩むことはよいことなのだ。欲するものがすべて手に入る王さまはかわいそうだと思う」。

2018年8月18日(土)より、ポレポレ東中野ico_linkほか全国劇場ロードショー

『ゲンボとタシの夢見るブータン』公式Webサイトico_link

監督:アルム・バッタライ、ドロッチャ・ズルボー
2017/ブータン、ハンガリー映画/ドキュメンタリー/ゾンカ語/74分/英題 The Next Guardian
後援:ブータン王国名誉総領事館/ブータン政府観光局/駐日ハンガリー大使館
協力:Tokyo Docs/日本ブータン友好協会/日本ブータン研究所/京都大学ブータン友好プログラム
字幕:吉川美奈子/字幕協力:磯真理子/字幕監修:熊谷誠慈
配給:サニーフィルム

全国大会と教師の学び

 日本の先生は、よく学びます。各学校が自主的に行う校内研修にはじまり、教員研修センター等で行われる公的な研修、さらに教育団体の都道府県大会、地方ブロック大会、全国大会等…そこで得た「何か」を自分の明日の授業に結び付けています。本稿では全国大会を取り上げてどのようなことが学ばれているのかを検討します。

不思議な「主事ペン」

 赤と黒の2本のボールペンをテープでくっつけています。ずいぶん使い込まれ、テープは黄ばんでいます。二色ペンや三色ペンが販売されている時代に、どうしてこのようなペンをつくったのでしょう。
 「主事ペン」と呼ばれるこのペンは、2000年代前半ごろまで長野県で普通に見られました。用いていたのは指導主事や校長先生など、授業研究会で授業参観の後に指導講評や指導・助言をする人々です。彼らは、授業参観中に子どもの様子や教師の様子などを書き分けるために「主事ペン」を用いていました(※1)
 二色ペンや三色ペンは、色を変えるために一度持ち替えて指先でノックすることが必要です。このペンなら、クルッと回すだけで色を変えて書き分けることができます(※2)。彼らは、ペンを持ち替えるわずかな時間も惜しかったのです。
 主事ペンに出会ったのは長野県で行われた全国大会でした。長野県といえば信濃教育会に代表される教育県。このペンから、長野県の教師たちが子どもの事実を根拠に、指導の改善を導き出していたことが分かります。全国大会に参加して得られる財産は授業や研究発表からだけではありません。ちょっとした小物からその地域独自の教育メソッドが見つかります。

作品から見えるこれからの図画工作・美術

 図画工作・美術では、全国大会で作品展を同時開催することが慣例となっています。他教科と異なるのは、この作品展から今後目指したい学びの姿を見つけることができる点です(※3)
 先日行われた秋田大会の提案は「わたしを問い、発信する造形活動」でした。「問い」は、あまり図画工作・美術では聞かれない言葉ですが、これからの学びを考える上で重要です(※4)。秋田県造形教育研究会では、友達や材料などとの対話を繰り返しながら、子ども一人ひとりが主体的に「問い」を生み出し、これを発展させる深い学びを目指しました(※5)
 その姿が作品展でも確かめることができます。取り上げるのは6年生の『3階から見下ろした階段』です。これを見た人は思わず「自分もこうした」という体験を思い出すことでしょう。この子は、その奥行きや形の面白さなどを表すために、手すりを広がるように角度を変えて並べ、階段を次第に狭まるように重ね、さらに手を広げて声を出す友達を小さく置いています。
 おそらく題材の「問い」は「造形的な視点で見直したときに発見できる新しい日常」でしょう。新学習指導要領のポイント、『造形的な見方・考え方を働かせる』が説明できる作品だと思います。

「全国大会準備」という名の教育力育成

 全国大会はたいてい3年の準備期間があります。それは地域の先生を育て、お互いの授業力を高める貴重な機会になっています。
 来年の全国大会は愛知、その中核となる名古屋市教育会(※6)の名古屋市造形研究会では、毎年夏休み中に「夏の造形研修会」を開いています。研修会は模擬授業及び協議と教育講演会で構成されています。
 興味深いのは、小学校低・中・高、中学校、それぞれのチームで作成された指導案をもとに行われる模擬授業です。
 先生役は「ここがまだ検討中ですが……」「この指示の意図は……」などの解説も加えながら授業を進めます。参加者は子ども側から学習内容を体験し、その後の協議で意見や改善点を述べます。
 指導案は机上の空論になりがちです。授業を実際行うことで題材の妥当性や発達への適切性などは検討できます。でも、子どもを実験台にはできません。そこで模擬的に授業を行うことで、適切な授業に昇華させようとします。また、模擬授業では、先生の声の大きさ、指示の明瞭さなど、教師のスキルも検討されるので、教員養成の研修としても役立ちます。
 全国大会では、どのように大会準備を行ったか、研究会をどう運営したかなども報告・発表されます。大会を通した教育力向上の試みは、全国大会で得られる貴重な情報の一つです。

 全国大会からは、地域独自の教育メソッド、作品に実現された学習、大会で育つ教育力などについて学ぶことができます。それぞれの地域に帰った参加者は、一人ひとりが起点になって、地域の教育力を高める存在となります。この一連のプロセスこそ日本が誇れる財産だと思うのです。

 

※1:「主事ペン」とは呼ばれていませんが、20~30年前秋田県でも同様なペンを作製し多くの先生が用いていたようです(秋田県関係者談)。
※2:2、3色ペンよりインクが長持ちし、なくなると中身だけ交換しやすいという利点もあるようです(同上)。
※3:時折、大会発表と作品展の内容に不整合もありますが、秋田大会では研究発表と実際の作品が見事に一致していました。
※4:参照:学び!と美術 <Vol.68> 「問い」から考える「主体的・対話的で深い学び」
※5:新学習指導要領では、子ども自身が自分の発揮した資質や能力を自覚することが重要です。秋田大会では、その機会がポートフォリオや振り返りなどで確保されていたことが高い評価を受けていました。
※6:名古屋市教育会の前身は1881年創立の名古屋区教育会です。1900年に名古屋市教育会となり、戦時中の教育諸団体の統合を経て、1948年に名古屋市教育会として活動を再開します。『名古屋市教育史Ⅰ 近代教育の成立と展開(明治期~大正中期)』『名古屋市教育史Ⅱ 教育の拡充と変容(大正後期~戦時期)』『名古屋市教育史Ⅲ 名古屋の発展と新しい教育(戦後~平成期)』名古屋教育史編集委員会