道徳教育を支える「理論」

 SeasonⅡの連載は、テーマを絞って重点的に何かを述べていこうといったことは特に考えておりません。道徳教育や道徳科の指導について、その時々に思ったことや感じたこと、考えたことをありのままに記していきたいからです。
 今回は、「道徳教育を支える『理論』」ということについて述べてみたいと思います。それは、今、従来の道徳授業の枠にとらわれない様々な道徳科の授業実践が試行されていますが、そのバックボーンとなる「理論」や「論」というものがあまり感じられないからです。前回にも書きましたが、道徳が「特別の教科」となり、今までの指導方法から脱却しようと多様な授業実践がなされています。しかし、どうも「これは!」といった決め手となるような実践事例に出くわすことがありません。失礼な言い方かも知れませんが、従来の指導過程や指導方法とは何か違うもの、今までやってこなかったものを、ということが先行し、その大本にある「理論」や「論」といったものにそれほど言及することなく、「やってみよう」と提案しているような気がしてなりません。「こんな授業を考えている。それは、次のような道徳理論に基づいて考えているから」というような骨太な主張をあまり聞かなくなってしまいました。

 実は、30年ほど前になってしまいますが、明治図書から出されている『道徳教育』に次のような特集が組まれたことがありました。
 一つは、1989年12月号で「道徳教育理論の潮流を授業に生かす」です。もう一つは、1992年8月号で「道徳教育・授業を支える理論」です。前者は78ページの特集、後者も45ページにわたる特集を組んでいます。読み切るにはそれなりの覚悟と努力を要します。そして、難しい。したがって、腰を落ち着けてじっくりと取り掛からなければなりません。しかも3年弱の間に2回も特集しているのです。当時の現場の先生方のニーズの一端がこのようなところにあったのだと思うと妙に感じ入ってしまいます。なぜならば、しっかりとした道徳理論を学んで道徳授業に生かそうという意気ごみを感じるからです。
 今、改めて読んでみると非常に興味深い。また、教科となったこの時期に再び参照してみる価値が十分にあると考えます。あえて紹介させていただきます。

1 各号で紹介されている理論と著者(当時の所属と役職)

(1)「道徳教育理論の潮流を授業に生かす」(1989年12月号)

  • 日本の道徳教育に影響を及ぼした理論  間瀬正次(名古屋商科大学教授)
  • シュプランガ―に学ぶ  村田 昇(滋賀大学教授)
  • アイゼンバーグに学ぶ  菊池章夫(東京工業大学教授)
  • 『論語』の道徳論  高橋 進(筑波大学教授)
  • フレンケルに学ぶ  行安 茂(岡山大学教授)
  • ブルに学ぶ  森岡卓也(大阪教育大学教授)
  • コールバーグに学ぶ  岩佐信道(麗澤大学助教授)
  • デューイに学ぶ  遠藤昭彦(筑波大学教授)
  • デューイに学ぶ  斎藤 勉(新潟大学助教授)
  • 学ぶべきを求めて  井上治郎(東京電機大学教授)
  • 小原国芳に学ぶ  黒田耕誠(広島大学教授)

(2)「道徳教育・授業を支える理論」(1992年8月号)

  • カントの『道徳論』を考える  三井善止(玉川大学教授)
  • 道徳教育・授業を支える理論としての道徳性の発達段階  岩佐信道(麗澤大学教授)
  • ニーチェの道徳批判をめぐって  西野真由美(国立教育研究所研究員)
  • 「価値の明確化」理論を道徳授業にどう生かすか  遠藤昭彦(筑波大学教授)
  • リコーナの「道徳的自立」をめざす教育論に学ぶ  伊藤隆二(横浜市立大学教授)
  • 道徳教育における「五つのE」  伊藤啓一(金沢工業大学助教授)
  • 人間学的・実存的アプローチ  神保信一(明治学院大学教授)
  • シュプランガ―の理論を生かす  村田 昇(滋賀大学名誉教授・京都女子大学教授)
  • ヘーゲル『法の哲学』に学ぶ  小野健知(日本大学教授)

 今回は、間瀬先生の「日本の道徳教育に影響を及ぼした理論」について触れてみましょう。今日の道徳科に至るまでの流れが少し見えてくるようです。

2 「日本の道徳教育に影響を及ぼした理論」

(1)開発教授法と教授段階説

J・H・ペスタロッチ 画像提供:PPS通信 まず、J・H・ペスタロッチの「開発教授法」が出てきます。1870年代のことです。それまでの日本の公教育では暗誦を中心とした授業が主流であったようですが(四書五経の素読など)、子どもの直接経験を媒体としてその心的能力を開発していこうとするものに変わっていったようです。そのねらいは、授業で子どもに直接経験を与えるには、実物(代用品として掛図や図表)などを活用して、経験内容を確かめながら一般的なものを引き出していくために、教師と子どもの間に「問答」を行うところに特色がありました。今日では資料・教材がその実物に代わる任を与えられているのです。また、問答ということから、発問とそれに対する児童の発言という形で進められる授業の原型が表れているようです。
J・F・ヘルバルト 画像提供:PPS通信 そして、次にJ・F・ヘルバルトの「教授段階説」が出てきます(ヘルバルトの教育理論では、学校教育の目的は「強健な道徳的品性の陶冶」にあると明らかにされました)。その段階とは、予備⇒提示⇒比較⇒総括⇒応用の五段階であったようです。今日の道徳指導では、三段階(導入⇒展開⇒終末)になっていますが、この段階説は受け継がれています。

(2)デュウイとマカレンコ

 アメリカのJ・デュウイは、学校の道徳教育は特別の教科を設けずに全教育活動で行われることを前提としています。その指導方法は、道徳に関する概念(徳目)を教えるのではなく、公正な行為に関する実行を体得させることに主眼が置かれていました。このJ・デュウイの道徳理論は、戦後我が国では初め社会科と特別活動を主として、問題解決学習として行われていました。その後、道徳が社会科から分離し単なる経験主義による生活教育とは別種となっていきました。
 一方、ソビエトのA・S・マカレンコは集団中心の訓練主義でした。戦後一時期生活指導における学級づくり理論として一部の現場に根付いていました。この考えが、特別に時間を設けて行う道徳指導と対決する動きがしばらく続きました。道徳科反対の動きの根底にこのような趣旨が根強く残されていたのかもしれません。

(3)ピアジェとコールバーグ

 道徳性の発達段階についての知識と技術をこの二人は提供しました。有名な理論なのであえて詳しくは説明しませんが、J・ピアジェは子どもが年を重ねるに従い、他律的判断から自律的判断へ、結果主義判断から動機主義判断へと移行することを明らかにしました。
 また、L・コールバーグは、J・ピアジェの二段階説を三レベル六段階説に拡張し、いずれの国のどこの青少年にも同じ発達の順序性があると主張しました。しかし、二人とも道徳的判断の発達を中心としており、道徳の行為面や感情面(心情面)への配慮が不十分であると言われています。
 いわゆる道徳性の諸様相における「道徳的判断力」についてはかなり明確にはなりましたが、道徳的心情、道徳的実践意欲や態度については今後の研究が待たれるところです。

(4)特設の道徳指導(道徳の時間)に影響を及ぼした日本人学者の理論

①大平勝馬の段階論と正木正の感化論
 金沢大学の大平勝馬教授は『道徳教育の研究』(昭和35年刊行)において、道徳性の構造を道徳意識(知見・心情・態度)と道徳的行動(規範・意志・適応)との両面から考察しました。特に注目するのは、「道徳」の指導段階です。指導過程を五段階(事前指導⇒導入⇒展開⇒終末⇒事後指導)とし、その内容を子どもの学習の流れと教師の指導の流れの両面から考えているところです。現在でもこの学習指導過程は踏襲されています。
 京都大学の正木正教授の『道徳教育の研究』(昭和38年刊行)は現場の教員によく読まれた本です。正木は道徳教育の心理学的基礎を明らかにしました。そして、道徳教育は、教育的人間関係による「感化」を重視すべきであると述べています。すなわち、学級経営における教師と子どもとの人間関係が基本となると主張しています。

②平野武夫の価値葛藤論と宮田丈夫の資料類型論
 道徳指導も軌道に乗ってはきたものの、マンネリ化も言われるようになってきました。そこで、その平板化を脱し創造性を生み出すためにいろいろと創意工夫がなされました(何か今に通じるようなところがあります)。
 一つは関西道徳教育研究会会長の平野武夫教授です。価値葛藤を生かした道徳指導の展開過程論です。導入の段階で、学習の動機を喚起し問題の意識を共通化したうえで、展開の段階では自己の体験を省察するなどして集団の批判(話合い?)で各自が主体化します。終末の段階では、その結果を一般化したり生活化したりします。しかし、いつも「自分だったらどうするか」というパターンとして繰り返され、意識面での問答に終わるところに課題がありました。
 二つ目は、お茶の水女子大学の宮田丈夫教授の道徳資料の類型論です。道徳的価値の指導に有効・適切な間接教材としての道徳資料が必要である。それには教育的効果を上げるために学年の発達段階や主題の性格とねらいに応じて定着化を図る資料を作成、利用することを目指しました。こうして道徳資料の四つの類型(●基本的行動様式に関する実践資料、●危機的場合を想定し価値の葛藤に直面して判断を高める葛藤資料、●子供が直接経験できない知識や理解を与える知見資料、●道徳的心情に訴えて実践的意欲を喚起する感動資料)が出来上がります。

③勝部真長の内面化論と文部省側の価値化論
 お茶の水女子大学の勝部真長教授と東京都教育庁の宇留田敬一指導主事の唱えた内面化論です。すなわち、週1時間の限られた道徳指導は他領域・他教科等で行われる道徳教育を補充し深化し統合する役割をもつものである。したがって、児童、生徒に内面的自覚を促すことが大事だと言っています。生活から入って生活に結び付ける場合に、資料によって問題の核心に迫り価値を確認し深化して一般化することが求められると述べています。
 今一つは、文部省の教科調査官たちの主張する立場です。顕著な例として、資料即価値論としての道徳の授業は「資料を教える」ことに徹すべき、という考えです(今日的に言うと、「資料を教える」となると国語科的な授業になるので、「資料で教える」ことになるのでしょうか)。すなわち、資料で徳目を教える授業から、資料を教えることで価値を学ばせる授業へと転ずることになります。しかし、これには多くの反論があり、最近(特集が組まれた当時)では、指導過程の展開前段階では、資料で主題のねらいとする価値を基本質問によって追求するが、後段階では資料を離れて各自の主体的に価値を自覚させて「価値の一般化を図る」という方向に変わっていると言うことです。

 ざっと今日に至る道徳教育(とりわけ、道徳授業について)の流れを見てきましたが、種々の曲折を経て今のような「いわゆる一般的な流し方」が生まれてきたと考えます。次号以降もう少し詳しく述べていきたいと思っています。また、具体的な道徳科授業の実践例も紹介したいので、様々織り交ぜて記してまいります。

※デューイの表記については、出典に拠っています。

「西郷どん」とは何者か 7 ―死せる西郷は時代を奔る―

承前

 テレビの「西郷どん」は何とも珍妙なドラマ。配役の問題もあるし、演出の故か、時代考証の軽佻浮薄もあるのでしょうか、西郷隆盛なる人物の存在感がみえてきません。敵役とされている大久保利通や岩倉具視が何とも陳腐なピエロ。作者が語る女の視点なるものも読み取れません。この作品は何を伝えたいのでしょうか。
 ちなみに1939年の東京帝国大学学生は西郷隆盛を「崇拝」「尊敬」する人物の筆頭にあげています。西洋人ではナポレオン。西郷は日本のトップエリートを魅惑した人物。なお西郷はナポレオン帽をかぶる肖像でナポレオンと一体化されてみられたこともあります。
 このような西郷隆盛像を解体するために「西郷どん」を創作したのならまた一興。が、どうもそうでもないようです。この連載では日本人が尊敬する人物の筆頭にあげる人間がもつ磁場を問い質してきました。この問いを終わるにあたり、時代を超えて奔り続けている西郷隆盛の魅力、日本人の記憶に埋め込まれた西郷に託した日本人の幻影を瞥見することとします。

西郷は生きている

 1891年(明治24)3月、新聞各紙は南洲西郷隆盛が生きているという鹿児島の風聞を「鹿児島の訛言」「鹿児島近傍の風聞」等の見出しで掲載、その噂を追っています。新聞「日本」は鹿児島新聞の記事を「露艦の来朝等の時事によりて浮み出でたる想像なるべくも南洲翁が我が儕と快呼したる昔日の思ひ出でて興あることなれば茲に掲ぐ」として、次のように紹介しています。

 西郷翁以下の通り驍将(ぎょうしょう)が岩崎谷にて戦死(うちじに)のことはかねがね大に疑ひおり候處頃日(このごろ)風説するところに拠れば西郷翁を始め桐野利秋、村田新八、淵辺高照らの諸将は今に存生(そんじょう)なりとのことなり。今茲に聞こみしままを報道せんに西郷翁以下の諸将は城山没落の前々夜重囲を脱して串木野なる島平浦に到り同所より和船にて甑島に渡り同島桑浦にて魯国(ろこく)の軍艦某号に乗りくみ同国ウラジオストック港に上陸し西比利亜(しべりあ)の一兵営に潜み魯兵(ろへい)の訓練に従事(じゅうじ)し居りしに去十七八年頃黒田清隆氏が欧州巡回の際其の事を聞こまれ窃(ひそか)にその兵営を訪ひて面会し大に日本将来の事を謀議し約するに明治24年(初期国会開設の翌年)帰朝の事を以てしたり。是を以て西郷翁以下の諸将はその約を以て履(ふ)みて帰朝せんと欲し魯国政府にその事情を告げしに同国政府も諸将の同国を去るを惜むといへども諸将が故国を懐ふの情を以て察し然らば軍艦を以て護送せんとて其の名を皇太子の漫遊に藉り数艘の軍艦を以て護送し来る筈なりとの事なり云々

 1891年は、89年の大日本帝国憲法発布、皇室典範制定を受け、90年の教育勅語で国家の精神的規範が提示され、帝国議会の開会で立憲君主国日本の門出を謳歌する時代の気分が横溢していました。この新時代到来という空気は、欧米列強に連なる文明謳歌の潮流がある一方、文明化に呑み込まれることへの危機感が醸成され、国粋を説くナショナリズムの風潮が時代を染めていきます。ここには立憲国家として発足したばかりの日本の前途への不安があります。この不安感こそは、西郷が「明治24年帰朝」と約定したとの言説を生み、大国ロシアへの猜疑心にうながしたといえましょう。
 この潮流こそは、文明開化を大義とした明治政府の欧化路線に異議を唱え、廟堂を去り、遂に「政府問責」を掲げて決起した西郷隆盛生存伝説を生み出させて心意でないでしょうか。そこには、シベリア鉄道起工式出席のために漫遊中のロシア皇太子ニコライが来日するというニュースに怯える人心の動揺がありました。日本の人心は、「恐露病」といわれるほどに、大国ロシアの陰に怯えていました。この想いこそは、西郷がロシア皇太子一行と共に来るとの言説を生み、廟堂を牛耳る顕官に鉄槌を下してくれるとの密やかな言動を増幅させたのです。まさに城山で死んだ西郷は、国家の在り方を突破する活力とみなされ、時代の空気を引き裂き奔りぬける存在にほかなりません。

「西郷翁」が生める幻想

 新聞雑誌は「西郷存命説」という言説を多々論じてあきません。何が死せる西郷への幻想を生んだのでしょうか。そこには、先に紹介した「西郷星」によせた人心の帰趨に通じる屈折した心理が読み取れます。「毎日新聞」は「人傑の払底 T、T生」なる論評で西郷幻想を論じています。

 西郷隆盛は十年の役に没せしにはあらで遠く露国に渡り這般露国皇太子の来遊に扈(こ)して帰朝すると、是済東人の野語ならん、先西郷の存否如何は別として兎に角我が国民が久しく英傑の士に渇したることは是等無稽の伝説を家毎に唱し人毎に和するを見ても知らるべし、余輩は今の世に一人の政治家なしとは謂はず、先朝に在りては井上(馨)伯の如き後藤(象二郎)伯の如き青木(周蔵)子の如き皆国家棟梁の材ならん、立憲政治を運施するに有用の人ならん、然るを我が国民は是等の諸君を度外視して捲々南洲翁の再来を喃々するものは何の故ぞ、蓋翁のごときは詐する立憲的政治家を以てす可からざるも、共に度量濶大にして能く衆を容れ、廉潔高風指を財利に染めざること「不為児孫買美田」の詩句其の一端を見るに足れり、当世の立憲的政治家と称する人誰か此の意気を負ふ者ありや、夫渇者を思ひ、飢者食を思ふ、此の人傑払底の時、特に廉潔の風、地を払ふの今日、我が国民が今更の様に翁を慕ふ至情の深きも「時艱憶偉人」の古言に違はずとや云はんが、されど翁の存否奈何は余輩の問ふ所にあらざるなり

 ここには、立憲政治なるものも民の声に耳かたむけず財利と名誉欲にとらわれた政治でしかないのだとの思いみなし、その対極に「子孫のために美田を買わず」との言にみられる西郷像、名利を求めない南洲翁へ熱い思いがうかがえます。この南洲像は、「宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華」に身を託す「文明の徒」に対する根源的な批判者、野にある暮らしの営みへの愛着を表明したものにほかなりません。まさに西郷隆盛は、大地にたたずみ、民の目線を代弁し、己の一身を顧みることなく、国家に異議申し立てをしてくれる土の香りを帯びた永久革命家とみられたのではないでしょうか。その相貌には、どこか中国革命の雄毛沢東と共有しうる臭気が漂い、死してなお生者を奔らせる磁場が漂っていると想うのですがいかがでしょうか。

※「斉東人」は愚か者のこと

参考文献

  • 仙橋散史『贈正三位陸軍大将西郷隆盛君生存記』 井ノ口松之助 1891年
  • 大濱『天皇と日本の近代』2010年 同成社

小学校 生活:「生き活きうぃーくる」公開

小学校 生活:「子どもがかわる 授業がかわる『生き活きうぃーくる』」の連載をスタートしました! 授業や学級経営などに活かせるヒントや手立てを小学校の現場でご活躍の先生方によるリレー連載でご紹介します。第1回は「なぜ、諸感覚を使った活動をするのか? ~きく技編~(さとえ学園小学校 山中 昭岳 教諭)」です。