Webマガジン:「学び!と美術」Vol.80 “「おえかき」が「壁画」に!~第3回フィリピン・カシグラハン調査報告~” を追加しました。
月別アーカイブ: 2019年4月
「おえかき」が「壁画」に!~第3回フィリピン・カシグラハン調査報告~
フィリピン、カシグラハン地区での「おえかきプログラム」調査(※1)も足掛け4年。低学年だった子どもたちも、もう中学年。今回はNPOソルトパヤタスの支援のもと、子どもたちが「壁画」に挑戦します!
壁画に残したい!
2月初旬、共同研究者の真野先生からメールが届きました(※2)。調査協力校KVES Unit 1の校長先生(※3)からの申し出です。
「おえかきプログラムに参加した子たちに、校舎の壁に絵をかいてほしい。ソルトパヤタスのプロジェクトの足跡を永久に残したい」
なんと光栄な話でしょう。同時に普通の壁画とは違うアプローチが必要だとも感じました。
- 本プロジェクトの目的は「子どもの学力向上」です。下絵を決め、部分を分担してかく内容ではプロジェクトの目的と合致しません(※4)。壁画をかいている時間にも子どもは成長します。現場で、子どもの学力が伸びていくような実践であるべきだと思いました。
- 壁は、その前を子どもや親など多くの人々が通り過ぎます。通る人々は立ち止まって、子どもの発想に共感し、技能の伸びを感じ、教育の大切さに気付いてくれるのでしょうか。それを少しでも実現することが、他ならぬ子どもたちが壁画をかく意味だと思いました(※5)。
日程的に、子どもたちのかく時間は数時間程度しかありません。そこで、2年前に実施した「おえかきプログラム」の中から題材を選ぶことにしました。子どもたちに経験がありますし、「おえかきプログラム」の題材は20分程度で終わるように作られています。壁画で実施したとしても、何時間もかかるわけではありません。「魔法のタネ」、「アルファベットで動物」など、複数の案を提案しました。
実際の交渉や準備、進行などは真野先生とソルトパヤタスの現地スタッフが進めました。KVES Unit 1の本校KVES Mainでも実施したいと希望があり、二人の校長先生にコンセプトを概ね理解してもらったそうです。
でも「よくある壁画ではないので理解してもらえるかな…」「果たしてうまく展開できるかな…」など不安を感じながらフィリピンに向かいました。
着いた翌日、校長先生と打ち合わせを行い、目的やねらいを説明し、快諾をいただきました。次に壁の大きさや表面、参加人数、使える時間などを確認し、題材は「魔法のタネ(※6)」にしました。期待するメリットは以下です。
- 発想を楽しむ中学年にふさわしい題材である。
- 「造形遊び」的な側面があり、子どもたちがそれぞれの思いで展開できる。
- 植物が伸びるように絵が展開するため、鑑賞者が発想の変化や技能の伸びなどを追体験することが容易である。
- すでに実施しているため、ソルトパヤタスと指導のイメージが共有しやすい。
その後、スタッフと「魔法のタネ」を机上で実施し、「子どもの発想を認めるように言葉をかけること」「安全に配慮すること」など指導方法や配慮事項などを確認し、ペンキや梯子の準備物の追加を行って、翌日を待つことにしました。
さあ、壁画に挑戦!
写真1 実施一日目、最初の学校、KVES Unit 1の壁は階段の踊り場です(写真1)。
学校についたら、まず壁面の下部に種をかきました。形は、フィリピンの名産ココナッツをイメージしています。色は、何かが生まれるマグマのような赤にしました。
「これはね、魔法のタネ、ここから不思議な植物が伸びてくるよ…何が出てくると思う?どんな色かな、どんな形かな?」
子どもたちは、説明を受けるとすぐにかきはじめました。なかなかかき始めなかった低学年の頃と大違いです。
植物が伸び始めると、光のような植物が生まれたり、ロケットが登場したりするなど、すぐに自分らしい展開になりました。
しばらくすると、友だちの実践を取り入れはじめます。現地校の先生たちも一緒に参加してくれましたが、そのかき方を取り入れる子どももいました。
想定よりも早く「植物」は育ち、開始から45分程度で壁の上まで届きはじめました。
難しいのは、止めるタイミングです。一般的には、
- 子どもたちが疲れた様子を見せる
- 線や面が荒れてくる
- 6割から8割の手が止まり始める
などがサインとなります。
写真5 壁面の限界と、子どもたちの様子を見て「もう時間ですよ」と伝えましたが、やる気スイッチの入った子どもたちは中々やめてくれませんでした。完成した様子が写真5になります。
実施二日目は、本校KVES(Main)。今度は、子どもたちが登校時に通る校舎の壁です。
前日の反省をもとに、ソルトパヤタスが、袋でつくったスモックやビニールの手袋、たっぷりの水(※7)、幅の狭い筆などを用意してくれました。
展開は、前日とほぼ同じでしたが、発想そのものを楽しむ子どもたちの多かったKVES Unit 1に比べると、重色や立体感など丁寧に技能を開発していく傾向が見られたように思います(写真6~10)。筆などの学習環境の違いによるものだろうと思います。
新しい「ぼく、わたし」
本題材は、ジャズやロックのインプロビゼーションのような即興性が特徴です。即興性は日本の図画工作の教科的な特徴の一つです。「造形遊び」を筆頭に、図画工作の多くの題材に取り入れられています。子どもたちは、友だち、先生、絵の具、壁、空間、光など、そこにある学習資源の全てと対話しながら、表現します。発想の上に発想を重ね、技能から技能を生み出し、その場でプランを組み立てながら、表現を展開させていきます。
同時に成立するのが「ぼく、わたし」です。「ぼく新しいかき方見つけたよ」「私の花すてきでしょう」など新しい発想や技能の開発が起こるということは、そこに新しい「ぼく、わたし」が生まれたということです。
ポイントは、「ぼく、わたし」が、「学習資源と相互行為して能力を発揮した」と考えないことです(※8)。友だち、先生、絵の具、壁など、その子から見える学習資源の全体が「ぼく、わたし」です。表現と自分は、その拡張した空間において、同時に成立するのです。その繰り返しが成長だろうと思います。
横浜国立大学の有元先生は、発達を以下のように定義づけています。
(前略)自分の外で、自分の意思で統御できない他者・世界と共に、自分の輪郭を越えた振る舞いをするうちに、やがてそうした自分が「この自分」というものになっていくプロセス(中略)自分の輪郭がいやおうなく描き直されていく、この自分の外に開かれた共同を、発達と呼ぼう(※9)。
私たちは誰一人として、あらかじめ決められた存在ではありません。そのつどの状況、環境、使用可能な資源などによって変化する可変的な存在です。学びにおいて、子どもや先生は、常に新しい自分になることが開かれているのです(奥村2018)(※10)。
今回の実践で、それが叶ったのであれば、きっと壁の横を歩く友だち、学校に来た親なども、成長や発達、教育などについて考えてくれることでしょう。地域の教育を改善したいという願いから始まった本プロジェクト、その目的に少しでも近づければ幸いです。
※1:本調査は、NPOソルトパヤタスと、アジア開発銀行チーフエコノミスト澤田康幸先生、慶應義塾大学総合政策学部中室牧子先生、一橋大学経済学研究科真野裕吉先生達が中心になって進めています。現時点では、低学年「おえかきプロジェクト」、中学年「読み聞かせ」、高学年「Eラーニング」の介入を実施し、「親には教育の重要性を伝えるとともに、子どもの進学に備えて貯蓄を促し、子には教育プログラムを実施するグループ」「子どもに学習プログラムを実施するグループ」「何も実施しないグループ」で、学力や生活態度などの変化をランダム比較試験(*)という方法で調査中です。筆者の担当は「お絵かきプロジェクト」のプログラム開発です。クレヨンと紙だけでできる比較的簡単な「魔法のたね」「クレヨンでおしゃべり」など20以上のプログラムを実施しました。
*ランダム化比較試験(RCT:randomized controlled trial)とは、ある介入(試験的操作)を行うこと以外は公平になるように、対象の集団を無作為に複数の群に分け、その試験的操作の影響・効果を測定する。http://jspt.japanpt.or.jp/ebpt_glossary/rct.html
これまでの経緯は、以下で報告しています。
・学び!と美術<Vol.43>「フィリピンの貧困地域における鑑賞教育の可能性」(2016.03.10)
・学び!と美術<Vol.53>「おえかき」から学力を伸ばす ~フィリピン貧困地域カシグラハン調査報告:第2回~」(2017.01.10)
※2:今回のプロジェクトのコーディネイトは一橋大学真野准教授です。
※3:調査対象校の一つ、カシグラハン地区の公立小学校KVES Unit 1。
※4:それは手順がしっかりして、先も読めますが、あまりに作業的過ぎます。
※5:「まあ、きれいね」であれば、大人が描けばいい事です。「すべて先生の指示通りにかかせる壁画」でも無理なことです。大人の思う「子どもらしさ」や「たどたどしさ」を愛でるような壁画も避けたいところです。
※6:「魔法のタネ」に似たアプローチを持つ教科書題材に、低学年「ふしぎなたまご」、中学年「まぼろしの花」などがあります(新版教科書日本文教出版より)。
※7:この時期、カシグラハンは取水制限と水不足だったのです。
※8:評価や法的には全くそうなのですが。
※9:香川秀太・有本典文・茂呂雄二 編著『パフォーマンス心理学入門 共生と発達のアート』新曜社(2019)144p
※10:奥村高明『マナビズム―「知識」は変化し、「学力」は進化する』東洋館(2018)64p
第35回近畿色彩教育研究会
第35回近畿色彩教育研究会を追加しました。
Webマガジンまなびと:「学び!と道徳」Vol.11
Webマガジン:「学び!と道徳」Vol.11 “道徳教育を支える「理論」―その2”を追加しました。
道徳教育を支える「理論」―その2
前号を書き下ろしてから、しばらくご無沙汰してしまいました。言い訳がましくなりますが、各種の仕事に追いまくられていました。特に、主任教諭選考(教職経験8年以上の比較的若い先生を対象とした東京都の任用制度)の関わる職務レポートをどのように書いたらよいのか、その傾向と対策、ならびに、解答例の書き方についての原稿書きに四苦八苦しておりました。これは3月中にある出版社から書籍として販売されている予定です。
今や主任教諭選考は、東京都の管理職試験やそれに準じる試験のうち一番難しく、倍率も高くなっています。それだけ意欲のある若い先生方が多くなってきた一つの表れでしょう。以前のように管理職への道を忌避する先生も少なくなってきました。「教諭→主任教諭→主幹教諭、指導教諭→教頭、副校長→校長」と徐々にステップアップすることがごく自然になってきたようです。しかし、課題もあります。30歳代のそのような先生から独特な個性(よい意味での)がなくなりつつある、ということです。みな平均的でそつなくこなす先生が増えてきた感がします。表面的な、見える部分ではうまくこなすのです。しかし、なぜそう思ったのか、そうしたのか理由や根拠を聞くとあまり明確な答えが返ってこないことがあります。自分の中に論的背景や理論的根拠に自信がないことが原因のようです。
このことは、学校における道徳教育の世界でも同じです。以前のように道徳を忌避(もっと言うと否定)する先生はほとんどいなくなりました。積極的に道徳を学ぼうとする先生方が増えました。教科になったこともあり、「どうやって教えたらよいのだろう。どのように授業を進めたらよいのだろう」と必要に迫られていることも確かです。また、研究や研修をやり始めたら面白くなり、そのまま継続して道徳の勉強を進めている先生も多くなりました。私の若い頃とは雲泥の差です。しかし、道徳科の授業の関心がいわゆるハウ・トゥ的なところに終始しているようにも思えるのですがいかがでしょうか。こういう考えを基にして授業構想を立てた、このような理論を授業実践に移してみた、といった理屈が少ないように思います。
ある校長先生が言っておられました。「最近の若い先生方は本を読むより、スマートフォンの動画を見て授業の流れを学ぶ」と。
1 「論」を大切にする、ということ
では、私の若い頃の先生方は「道徳教育に『論』はあったか、『論』をもっていたか」と問われれば、「今よりもあった」と思います。なぜならば、論を持っていないと戦えなかったからです。まさに、道徳教育を志す教員はある意味、道徳を反対する先生方と戦わなければならなかった時代だったのです。「道徳(の授業)なんかやらんでいい!」と言って年間に一回も道徳の授業をやらない先生がいっぱいいた時代ですから。学習指導要領にはちゃんと「道徳」があったにもかかわらず……。そんな先生方と渡り合うにはそれなりに理論武装しなければなりません。必死に「論」を学び、我が身に取り込んでいました。受け売りはすぐ露呈してしまうので、学んで自分のものにしようと頑張りました。
「道徳教育」明治図書 そのような時代であったからこそ、30年前に「道徳教育理論の潮流を授業に生かす」「道徳教育・授業を支える理論」といった特集(明治図書「道徳教育」)が組まれたのだと思います。道徳をこれから熱心にやっていこうとする先生方に必要な知識や知見が盛り込まれていたのです。
しかし、それでもまだ不十分だったのかもしれません。当時明治学院大学の神保信一教授は1992年「道徳教育」の特集の「人間学的・実存的アプローチ」の中で以下のように記しています。
理論にしたがって道徳の授業を構成し、展開している人はごく少ないのではないだろうか。本誌「道徳教育」をさかのぼって読んでみたが、「この理論によるこの授業」をほとんど見つけ出せなかった。
私自身は○○の理論に忠実であるのがよいのではなく、○○の理論を生かして①、児童生徒との深まりのある道徳授業が展開されることが大切、と考えている。(番号と下線部は、大原による)
また、同じ特集では滋賀大学の村田昇名誉教授も「シュプランガーの理論を生かす」の中で次のように述べています。
今日の教育界では、理論的研究が軽視され、安易にハウ・トゥを求めようとする傾向が強いと思うのは、わたくしだけであろうか。とりわけ道徳の時間の指導は技法に走り、しかも画一化してしまっている。かつては教育哲学に造詣が深く、みずからの人生観・教育観をもっている先生方が少なくなかった。その先生方が指導的役割を果たし、各地で理論に支えられた独創的な実践が講じられていた。本質に支えられてこそ、自由な、独創的な、多様な実践が可能となる②。道徳の時間を活性化し、真に効果のあるものとするためには、回り道と思われるかもしれないが、理論的・本質的な探究が肝要③であろう。偉大な教育思想家を尋ね、自らが哲学すること④を学び取ることを進めたい。(番号と下線部は、大原による)
少し解説を加えてみます。
J・ピアジェ 画像提供:PPS通信 理論を生かすには、理論を知っていなければなりません。道徳というのは、根本はやはり哲学・倫理学に根差すものです。「哲学・倫理学について深く勉強して専門性を身に付けろ」とは言いませんが、一般的な教養として幾分なりともその中身を知っておくことは必要だろうと思います。今では、高等学校で公民科「倫理」を学ぶ生徒が少なくなっているようです。また、大学での「哲学概論」も必修ではないようです。したがって、それらを履修しないままに先生になってしまうことも多いのではないでしょうか。ですから、現場の先生になってからでもよいので、少しく倫理学や哲学の主張について参照してほしいのです。今の学校現場は忙しいのでそんな時間がないのは分かりますが、機会を見つけて勉強してほしいと思っています。きっと参考となるところがあります。そこを「生かして」ほしいのです。
また、道徳に限らず、授業についての考え方など授業論についてもハウ・トゥ本ではなく、様々な理論や実践がありますので参照してみて下さい。学級経営や心理学など子供理解や授業づくりについて大いに勉強となります。
私も、J・ピアジェの道徳判断についての理論から大きな示唆を得ました。彼の書物を読み切るにはかなりの根性とエネルギーを要しますが、長期休業等時間を見つけてじっくりと腰を据えることもどこかで必要だと思います。
E・シュプランガー 独創的と独善的とは異なります。独善とは、一人よがり、自分だけがよいと思っていることです。少し言い過ぎかもしれませんが、教科となった昨今、この「独善的」と言える道徳科授業がちらほら見える気がしてなりません。また、「自由な実践」についても、「自分勝手、わがまま」な自由ではなく、「本当の自由」による自由な道徳科授業が大切です。まさに、教材「うばわれた自由」における考え方と同様です。
型にはまらず、自由で、多様な実践が求められることはとても良いことだと私は思います。これからの道徳科研究が大いに発展していく起爆剤となるかもしれないからです。しかし、忘れてはならないことは、【本質に支えられてこそ】なのです。その本質が、「理論」なのです。
正に、「急がば回れ」です。小手先で済ましてはならぬ、ということです。時間をかけてじっくり勉強することが、忙しい先生には特に大切だと考えます。いや、先生の勉強や研鑽のためにも「先生は忙しい」を容認してはならないと思います。先生方の勉強の時間をちゃんと確保するよう社会が認識しなければならないと思っています。教師の質と水準の維持、確保のためにも。そして、先生も成果をすぐに出そうと急いではならないのです。「教師は勉強ができるぞ。」と高等学校の先生に言われて私も教師になりました。まさに、【探究】が大切です。
道徳科学習(教師からすれば、授業)は教師と子どもたちが共に「哲学する」時間だと言えます。すなわち、お互いによりよい生き方を考え、求める時間だからです。そのためにも、自らが哲学することを大切にしていただきたいのです。
例えば、道徳科学習指導案の作成です。特に、「主題設定の理由」における「ねらいとする道徳的価値について」等は教師の深い指導観が求められる所です。それぞれの授業における「内容項目」について先生がどう考えるか、哲学することが大切なのです。
2 「論」を大切にする授業
では、どのようにすれば「論」を大切にした授業が可能なのでしょうか。一つの示唆として、下記の論述が参考になります。同じく1992年の「道徳教育」の特集に掲載された麗澤大学の岩佐信道教授の「道徳教育・授業を支える理論としての道徳性の発達段階~特にコールバーグについて~」を紹介します。
実際私自身が参観させてもらう通常の道徳の時間の指導においても、生徒の発言には、明らかに質的なレベルの異なる発言が見受けられるのである。しかし先生に、発達段階の視点がない場合には、高いレベルの発言も、低いレベルの発言も、それぞれ一つの見解として同じように扱われるのである。そして、様々な意見が出されたことでよしとされ、すでに授業は終末に近づいている、というような場合がある。
しかし、発達段階論の視点からすれば、問題の核心に対して子どもたちのレベルの異なる意見が提出されたところから、本来の道徳の授業が始まるとさえいえるのである。では、そこで何をするかと言えば、レベルの高い意見と、それより低い意見とを取り上げて討論とまではいかなくても、お互いの考えが十分に理解できるよう話し合いをさせることである。(下線部は、大原による)
いわゆる、私に言わせれば材料だけ並べて、「調理しない」道徳科授業です。教師が発問をし、それに子どもが反応する。そして、板書をする。あらかた発言が終息すると次の発問に移る。そんな一連の授業展開です。結構多いと思います。展開前段から展開後段へのつながりが不自然であるというのも、案外そんなところに要因があるのかもしれません。せっかく子どもたちから出された意見や考えを聞くだけ、黒板に書いただけで授業が終わってしまったら、本当にもったいない授業ではないでしょうか。そのうちに材料が痛んでしまいます。子どもたちから出された意見や考えを板書する、いわゆる、材料が出そろったわけです。今度はそれを調理しなければ料理が出来上がりません。どう調理するか、教師の腕の見せどころです。
最後に、同じ岩佐先生が1989年の「道徳教育」の特集の中の「コールバーグに学ぶ」で以下のように述べられています。とても参考になるので引用させていただきます。
第四のステップは、クラス全体での討論である。その際、教師の役割は、つねに生徒同士の話し合いを助長し、子どもたちの意見の背後の理由を聞き、クラスの多くの子どもよりも一段高い次元での発言に注目し、そのような考えが他の生徒によく理解されるような配慮をすることである。
そのために、教師の行う質問には様々な性質のものがある。
例えば、
①理由を尋ねる質問
②生徒が問題をどのように認識しているかを確認する質問
③生徒の発言の意味を明確にさせる質問
④他の生徒の意見に反応を促す質問
⑤同じ問題を関連した別の面から尋ねる質問
⑥場面中の他の人物に立った場合の考えを尋ねる質問
⑦提案されている意見に従った場合、社会全体にどのような結果がもたらされるかを尋ねる質問
①~⑦はフェントンによる
次号からは、道徳科授業の具体について述べていこうと思います。
Webマガジンまなびと:「学び!とシネマ」Vol.157
Webマガジン:「学び!とシネマ」Vol.157 “12か月の未来図”を追加しました。
12か月の未来図
©ATELIER DE PRODUCTION – SOMBRERO FILMS -FRANCE 3 CINEMA – 2017
フランスのパリ郊外、なにかと問題のあるバルバラ中学校に、1年間の期限で、新しい先生フランソワ・フーコー(ドゥニ・ボダリデス)が、赴任してくる。貧困な移民たちの子弟が多く、勉強はあまり出来ない。さまざまな人種からなる生徒たちは、反抗的で、先生への敬意などは示さない。
映画「12か月の未来図」(アルバトロス・フィルム配給)は、フランソワ先生と、反抗的な生徒たちとの触れあいから、「教育とは何か」をじっくりと考えさせてくれる。教育とは、教え方ひとつ。さまざまな方法論があると思うが、映画で描かれるフランソワ先生は、はじめは高圧的だったが、とにもかくにも、親身になって生徒たちに寄り添おうとする。
もともと、フランソワは、パリきってのエリート高校で、国語を教えている。父親はピエール・フーコーという著名な作家で、妹も彫金作家として活躍している。フランソワは、父の新著のサイン会で、国民教育省の女性に、ふと持論を漏らす。「問題のある学校には、ベテランの教師を派遣すべきだ」と。その女性は、教育の困難校問題を担当している。
すぐさま、フランソワは、国民教育省でのランチに誘われる。女性大臣まで登場して、フランソワは、問題のある中学校に、1年間だけの出向を引き受けざるをえなくなる。
いろんな国からの移民の子弟が多く、教室では騒々しく、反抗的で、教師への敬意などは、ない。若い先生は、問題児は指導評議会にかけて退学させればいいと思っている。フランソワは、生徒たちのレベルを知ろうと、書取りのテストをするが、惨憺たる成績だ。
©ATELIER DE PRODUCTION – SOMBRERO FILMS -FRANCE 3 CINEMA – 2017 フランソワは、いろんな国からの生徒たちの複雑な名前を、覚えきれない。夜中、生徒たちの名前を必死で覚える。
セドゥ(アブドゥライエ・ディアロ)という問題児がいる。なにかと問題を起こして、教師の間では、退学候補のひとりだ。母親が病気のせいか、学校でも何かと不安定な様子のセドゥを、フランソワは気遣う。
過去の経験などは通用しない。どうすれば、生徒たちの意識が変わるのか、フランソワは悩む。フランソワは、丸ごと一冊、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を読ませ、「悪から善への歩み」などと説き、小説の成立背景を議論させる。アーネスト・ヘミングウェイのたった6語の小説「For sale : baby shoes, never worn」(「売ります。赤ん坊の靴。未使用」)を教え、その感想を発表させる。
生徒たちの意識が少しずつ、変化を見せ始める。国語だけでなく、いろんな教科の成績がよくなり始める。同僚からは「カンニングでは」と疑われるほどの向上ぶりだ。
成績のあがったご褒美に、みんなを連れてベルサイユ宮殿に遠足に行くことになる。ここで、問題児のセドゥが、とんでもないトラブルを起こしてしまう。果たして……。
生徒たちは、フランスの中学3年生で、日本では、中学2年にあたる。ちょうど、おとなへのとば口で、なにかと難しい年頃だ。エリートの高校生たちに、皮肉を言って指導していた今までとまったく異なる環境だ。だが、フランソワは、悩みながらも、一歩二歩、踏み出していく。やがて、フランソワの奮闘ぶりに、同僚の女性教師も好意を示し始める。やがて、空からは、雪が降ってくる。
©ATELIER DE PRODUCTION – SOMBRERO FILMS -FRANCE 3 CINEMA – 2017 深刻な状況設定の映画だが、悲惨さは微塵もない。むしろ、コメディタッチ、子どもたちの一挙一動、おとなとのふれあいなど、笑えるシーンが多く、爽やかな余韻を残す。また、いじめを隠し通す日本の中学校とちがって、問題校とはいえ、フランスの中学校のありようから学ぶべきは多々。学校の本質は、決して、杓子定規ではないことが、よく分かる。
フランソワに扮したのはドゥニ・ポダリデス。「コメディ・フランセーズ」の座員で、アルベール・カミュの同名小説を映画化した「最初の人間」では、主人公ジャックに、リセへの道を開いたベルナール先生役で出演していた。また、数々の舞台の演出を手がける、著名な演出家だ。監督、脚本は、もとフォトジャーナリストのオリヴィエ・アヤシュ=ヴィダル。ドキュメンタリーかと思えるほど、子どもたちの演技がのびのびして、自然だ。また、フランソワを、まるで立派な先生として描いていないところが、とてもいい。ことあるごとに妹に相談したり、婚約者がいる同僚に淡い恋心を覚えたりの、一喜一憂する、まことに人くさい教師役を割り振る。
問題児セドゥの行動に、ドキドキハラハラ、笑っているうちに、エンドロール。メリー・ホプキンの唄う「悲しき天使」が流れるころには、思わず、こみあげてくるものがある。
日本の中学生はもちろん、少なくとも、「学校の先生」は、ぜひ見ていただきたい映画だ。
2019年4月6日(土)より、岩波ホール
ほか全国順次ロードショー!
■『12か月の未来図』公式Webサイト
監督・脚本:オリヴィエ・アヤシュ=ヴィダル
出演:ドゥニ・ポダリデス、レア・ドリュッケール
2017年/フランス/フランス語/107分/シネスコ/5.1ch/原題:Les Grands Esprits/英題:The Teacher/日本語字幕:岩辺いずみ
提供:ニューセレクト
配給:アルバトロス・フィルム
小学校 生活:「生き活きうぃーくる」第14回
小学校 生活 ブログ:「子どもがかわる 授業がかわる『生き活きうぃーくる』」第14回
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小学校社会副読本:わたしたちの大阪 更新
小学校 社会:副読本「わたしたちの大阪 3・4年上」の採用校様向けコンテンツ「児童用デジタル資料集・副読本紙面データ・評価テスト例」を更新しました。
中美特設サイト更新
中学校美術の先生応援サイト「中美 チュービ」:「全国美術室探訪」vol.05 “長野市立信州新町中学校”
、「授業づくりのABC」題材のポイント vol.12 “<表現>金属を加工してつくる”
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