学び!と道徳

学び!と道徳

道徳教育を支える「理論」―その2
2019.04.04
学び!と道徳 <Vol.11>
道徳教育を支える「理論」―その2
大原 龍一(おおはら・りゅういち)

 前号を書き下ろしてから、しばらくご無沙汰してしまいました。言い訳がましくなりますが、各種の仕事に追いまくられていました。特に、主任教諭選考(教職経験8年以上の比較的若い先生を対象とした東京都の任用制度)の関わる職務レポートをどのように書いたらよいのか、その傾向と対策、ならびに、解答例の書き方についての原稿書きに四苦八苦しておりました。これは3月中にある出版社から書籍として販売されている予定です。
 今や主任教諭選考は、東京都の管理職試験やそれに準じる試験のうち一番難しく、倍率も高くなっています。それだけ意欲のある若い先生方が多くなってきた一つの表れでしょう。以前のように管理職への道を忌避する先生も少なくなってきました。「教諭→主任教諭→主幹教諭、指導教諭→教頭、副校長→校長」と徐々にステップアップすることがごく自然になってきたようです。しかし、課題もあります。30歳代のそのような先生から独特な個性(よい意味での)がなくなりつつある、ということです。みな平均的でそつなくこなす先生が増えてきた感がします。表面的な、見える部分ではうまくこなすのです。しかし、なぜそう思ったのか、そうしたのか理由や根拠を聞くとあまり明確な答えが返ってこないことがあります。自分の中に論的背景や理論的根拠に自信がないことが原因のようです。
 このことは、学校における道徳教育の世界でも同じです。以前のように道徳を忌避(もっと言うと否定)する先生はほとんどいなくなりました。積極的に道徳を学ぼうとする先生方が増えました。教科になったこともあり、「どうやって教えたらよいのだろう。どのように授業を進めたらよいのだろう」と必要に迫られていることも確かです。また、研究や研修をやり始めたら面白くなり、そのまま継続して道徳の勉強を進めている先生も多くなりました。私の若い頃とは雲泥の差です。しかし、道徳科の授業の関心がいわゆるハウ・トゥ的なところに終始しているようにも思えるのですがいかがでしょうか。こういう考えを基にして授業構想を立てた、このような理論を授業実践に移してみた、といった理屈が少ないように思います。
 ある校長先生が言っておられました。「最近の若い先生方は本を読むより、スマートフォンの動画を見て授業の流れを学ぶ」と。

1 「論」を大切にする、ということ

 では、私の若い頃の先生方は「道徳教育に『論』はあったか、『論』をもっていたか」と問われれば、「今よりもあった」と思います。なぜならば、論を持っていないと戦えなかったからです。まさに、道徳教育を志す教員はある意味、道徳を反対する先生方と戦わなければならなかった時代だったのです。「道徳(の授業)なんかやらんでいい!」と言って年間に一回も道徳の授業をやらない先生がいっぱいいた時代ですから。学習指導要領にはちゃんと「道徳」があったにもかかわらず……。そんな先生方と渡り合うにはそれなりに理論武装しなければなりません。必死に「論」を学び、我が身に取り込んでいました。受け売りはすぐ露呈してしまうので、学んで自分のものにしようと頑張りました。
「道徳教育」明治図書 そのような時代であったからこそ、30年前に「道徳教育理論の潮流を授業に生かす」「道徳教育・授業を支える理論」といった特集(明治図書「道徳教育」)が組まれたのだと思います。道徳をこれから熱心にやっていこうとする先生方に必要な知識や知見が盛り込まれていたのです。
 しかし、それでもまだ不十分だったのかもしれません。当時明治学院大学の神保信一教授は1992年「道徳教育」の特集の「人間学的・実存的アプローチ」の中で以下のように記しています。

 理論にしたがって道徳の授業を構成し、展開している人はごく少ないのではないだろうか。本誌「道徳教育」をさかのぼって読んでみたが、「この理論によるこの授業」をほとんど見つけ出せなかった。
 私自身は○○の理論に忠実であるのがよいのではなく、○○の理論を生かして①、児童生徒との深まりのある道徳授業が展開されることが大切、と考えている。(番号と下線部は、大原による)

 また、同じ特集では滋賀大学の村田昇名誉教授も「シュプランガーの理論を生かす」の中で次のように述べています。

 今日の教育界では、理論的研究が軽視され、安易にハウ・トゥを求めようとする傾向が強いと思うのは、わたくしだけであろうか。とりわけ道徳の時間の指導は技法に走り、しかも画一化してしまっている。かつては教育哲学に造詣が深く、みずからの人生観・教育観をもっている先生方が少なくなかった。その先生方が指導的役割を果たし、各地で理論に支えられた独創的な実践が講じられていた。本質に支えられてこそ、自由な、独創的な、多様な実践が可能となる②道徳の時間を活性化し、真に効果のあるものとするためには、回り道と思われるかもしれないが、理論的・本質的な探究が肝要③であろう。偉大な教育思想家を尋ね、自らが哲学すること④を学び取ることを進めたい。(番号と下線部は、大原による)

 少し解説を加えてみます。

①理論を生かして

J・ピアジェ 画像提供:PPS通信 理論を生かすには、理論を知っていなければなりません。道徳というのは、根本はやはり哲学・倫理学に根差すものです。「哲学・倫理学について深く勉強して専門性を身に付けろ」とは言いませんが、一般的な教養として幾分なりともその中身を知っておくことは必要だろうと思います。今では、高等学校で公民科「倫理」を学ぶ生徒が少なくなっているようです。また、大学での「哲学概論」も必修ではないようです。したがって、それらを履修しないままに先生になってしまうことも多いのではないでしょうか。ですから、現場の先生になってからでもよいので、少しく倫理学や哲学の主張について参照してほしいのです。今の学校現場は忙しいのでそんな時間がないのは分かりますが、機会を見つけて勉強してほしいと思っています。きっと参考となるところがあります。そこを「生かして」ほしいのです。
 また、道徳に限らず、授業についての考え方など授業論についてもハウ・トゥ本ではなく、様々な理論や実践がありますので参照してみて下さい。学級経営や心理学など子供理解や授業づくりについて大いに勉強となります。
 私も、J・ピアジェの道徳判断についての理論から大きな示唆を得ました。彼の書物を読み切るにはかなりの根性とエネルギーを要しますが、長期休業等時間を見つけてじっくりと腰を据えることもどこかで必要だと思います。

②自由な、独創的な、多様な実践

E・シュプランガー 独創的と独善的とは異なります。独善とは、一人よがり、自分だけがよいと思っていることです。少し言い過ぎかもしれませんが、教科となった昨今、この「独善的」と言える道徳科授業がちらほら見える気がしてなりません。また、「自由な実践」についても、「自分勝手、わがまま」な自由ではなく、「本当の自由」による自由な道徳科授業が大切です。まさに、教材「うばわれた自由」における考え方と同様です。
 型にはまらず、自由で、多様な実践が求められることはとても良いことだと私は思います。これからの道徳科研究が大いに発展していく起爆剤となるかもしれないからです。しかし、忘れてはならないことは、【本質に支えられてこそ】なのです。その本質が、「理論」なのです。

③回り道

 正に、「急がば回れ」です。小手先で済ましてはならぬ、ということです。時間をかけてじっくり勉強することが、忙しい先生には特に大切だと考えます。いや、先生の勉強や研鑽のためにも「先生は忙しい」を容認してはならないと思います。先生方の勉強の時間をちゃんと確保するよう社会が認識しなければならないと思っています。教師の質と水準の維持、確保のためにも。そして、先生も成果をすぐに出そうと急いではならないのです。「教師は勉強ができるぞ。」と高等学校の先生に言われて私も教師になりました。まさに、【探究】が大切です。

④哲学すること

 道徳科学習(教師からすれば、授業)は教師と子どもたちが共に「哲学する」時間だと言えます。すなわち、お互いによりよい生き方を考え、求める時間だからです。そのためにも、自らが哲学することを大切にしていただきたいのです。
 例えば、道徳科学習指導案の作成です。特に、「主題設定の理由」における「ねらいとする道徳的価値について」等は教師の深い指導観が求められる所です。それぞれの授業における「内容項目」について先生がどう考えるか、哲学することが大切なのです。

2 「論」を大切にする授業

 では、どのようにすれば「論」を大切にした授業が可能なのでしょうか。一つの示唆として、下記の論述が参考になります。同じく1992年の「道徳教育」の特集に掲載された麗澤大学の岩佐信道教授の「道徳教育・授業を支える理論としての道徳性の発達段階~特にコールバーグについて~」を紹介します。

 実際私自身が参観させてもらう通常の道徳の時間の指導においても、生徒の発言には、明らかに質的なレベルの異なる発言が見受けられるのである。しかし先生に、発達段階の視点がない場合には、高いレベルの発言も、低いレベルの発言も、それぞれ一つの見解として同じように扱われるのである。そして、様々な意見が出されたことでよしとされ、すでに授業は終末に近づいている、というような場合がある。
 しかし、発達段階論の視点からすれば、問題の核心に対して子どもたちのレベルの異なる意見が提出されたところから、本来の道徳の授業が始まるとさえいえるのである。では、そこで何をするかと言えば、レベルの高い意見と、それより低い意見とを取り上げて討論とまではいかなくても、お互いの考えが十分に理解できるよう話し合いをさせることである。(下線部は、大原による)

 いわゆる、私に言わせれば材料だけ並べて、「調理しない」道徳科授業です。教師が発問をし、それに子どもが反応する。そして、板書をする。あらかた発言が終息すると次の発問に移る。そんな一連の授業展開です。結構多いと思います。展開前段から展開後段へのつながりが不自然であるというのも、案外そんなところに要因があるのかもしれません。せっかく子どもたちから出された意見や考えを聞くだけ、黒板に書いただけで授業が終わってしまったら、本当にもったいない授業ではないでしょうか。そのうちに材料が痛んでしまいます。子どもたちから出された意見や考えを板書する、いわゆる、材料が出そろったわけです。今度はそれを調理しなければ料理が出来上がりません。どう調理するか、教師の腕の見せどころです。
 最後に、同じ岩佐先生が1989年の「道徳教育」の特集の中の「コールバーグに学ぶ」で以下のように述べられています。とても参考になるので引用させていただきます。

 第四のステップは、クラス全体での討論である。その際、教師の役割は、つねに生徒同士の話し合いを助長し、子どもたちの意見の背後の理由を聞き、クラスの多くの子どもよりも一段高い次元での発言に注目し、そのような考えが他の生徒によく理解されるような配慮をすることである。
 そのために、教師の行う質問には様々な性質のものがある。
例えば、
①理由を尋ねる質問
②生徒が問題をどのように認識しているかを確認する質問
③生徒の発言の意味を明確にさせる質問
④他の生徒の意見に反応を促す質問
⑤同じ問題を関連した別の面から尋ねる質問
⑥場面中の他の人物に立った場合の考えを尋ねる質問
⑦提案されている意見に従った場合、社会全体にどのような結果がもたらされるかを尋ねる質問
 ①~⑦はフェントンによる

 次号からは、道徳科授業の具体について述べていこうと思います。