「造形遊び」への想い~第3回:造形遊びという縁起

 造形遊びは、友だちや先生、材料や用具、場所など様々な資源によって成り立ちます。そのため教師の手立てとして「造形遊びでは『資源』を広くとらえる必要があります」「生態系のような視点で、材料や場所などの『資源』を準備することが大事です」と言ってきました。でも、その説明だけではちょっと危険だと思います。本稿では、そのことについてお話します。

「立てて、立てて…」

 写真は、以前実施した中学年の造形遊び「立てて、立てて…」の一場面です(※1)。「低学年では『並べる』だから、中学年なら『立てる』だよね」という感じで計画した題材でした。
 例によって、立てる材料も、立てる場所も「自分たちで考えてね~」という乱暴な導入でしたが、子どもたちは、自分たちなりに問題を解決していきます。教師は安全性や妥当性を見守りながら、「すごいね~」「こんな風になったんだ!」と認め、励ましていくという仕事に専念します。
 結果として、子どもたちは、園芸用の支柱を排水溝の蓋に突っ込んだり(写真1)、校庭の樹木にパイプを立てたり(写真2)、孔雀の羽を発泡セメントに立たせて通路に並べたり(写真3)様々な活動を行いました。

写真1写真2写真3

 中には、ペンや消しゴムなどを天井からぶら下げる子どもたちもいました(写真4)。
 「立ててって言ったじゃない」
 そう突っ込むと、
 「先生、逆立ちしてごらん」
と言い返されました。確かに、逆さから見れば、天井からいろんな材料が立っています(写真5)。う~ん、やられた…。

写真4写真5

資源を揃えても造形遊びにはならない

写真6 この造形遊びの資源には何があるでしょう。園芸用の支柱や紙パイプ、文房具などの材料(写真6)、校舎裏の土置き場、通路、庭の樹木、天井などの場所、さらには一緒に活動する友だち、この学習を計画した教師と学習指導案など様々です。
 では、同じ資源を揃えれば、同じような造形遊びになるのでしょうか?「そうじゃない」というのが現場的な実感です。
 まず、資源が同じなら、同じ学習になるという保証はどこにもありません。同じ先生、同じ単元や題材なのに「昨年はうまくいったけど、今年はダメだった」ということはよくありますし、その逆も起こります。「授業は生もの」「学習は生き物」という言い方もするほどです。学習は、何か資源が一つ欠けたり、タイミングが異なったりするだけで大きく変化するのです。
 また、「造形遊びの資源を揃えたら、造形遊びになる」という言い方も、同じ言葉を繰り返しているようで、何か妙です。
 「でも、学習指導案はそうやって書くんじゃないの?」
 ええ、指導案は「このような資源を並べる」ので「このような学習になる」という風に、目標と結果が一致するように記述します。授業を進める資源としては欠かせないものです。ただ、あくまで「計画表」であり、その通りに進める「きまり」ではありません。以前、本連載(※2)で紹介した阿部慶賀先生(2021)は、「これとこれが満たされれば創造的ですよ」のような言い方は「禅問答のようなもの」だと指摘しています(※3)。指導案がお約束的な同義語反復であることには留意した方がよいでしょう。
 それに、指導案だけで実践が完全にコントロールできるわけではありません。「指導案に書いたように学習が進まなかった」とがっかりすることは日常茶飯事で、誰もが経験していることだと思います。教師が資源を揃えただけで造形遊びが成立するというのは少々都合のよい話だと思います。

造形遊びは「因果」よりも「縁起」

 ではどのように取り組めばよいのでしょうか。
 横浜国立大学の有元典文先生(2021)は、教育は「因果」だけでなく「縁起」という視点が大切だと指摘しています。「因果」とは、原因と結果を意味する言葉で、「種を植えたら、花が咲く」「知識技能を学べば、活用できる」のような話です。全くその通りなのですが、物事はそう単純ではありません。

数多くある種のひとつが、たまたま日当たりの良い場所に運ばれて、天候に恵まれ、雨に流されず、鳥についばまれず、人に踏まれず、土壌からの水分と栄養をたっぷり得たので、今ここに花は咲き、育っている(有元2022)(※4)

 種から花という「因果」が成立するためには、様々な出会いや出来事という縁の連鎖、つまり「縁起」が必要です。「資源を揃えたら、造形遊びができる」という言い方は、まさに因果的な言い方であり、そこに欠けているのは「縁起」なのです。
 造形遊びでは、この「縁起」の在りようを子どもたち自身が見事に見せてくれます。「立てて、立てて…」のAさんを追ってみましょう。
 まず、Aさんは、軍手に木を差し込んだら「立つ!」ということを思い付きます(写真7)。「先生~」と持ってきたので、「それいいね~!どこに立てる?」と言うと、Aさんは、校舎裏の土置き場に立てました(写真8)。おそらく土砂なので立てやすかったのでしょう。ブロックに合わせて横に一列、入口の部分に合わせて2本と、土置き場の形に合わせて構成されています。

写真7写真8

 Aさんは、しばらくそれを見つめていたのですが(写真9)、次に枯れたプランターに立て始めます(写真10)。ここも土ですし、枯れた植物の並び立つ形に誘われたのかもしれません。

写真9写真10

 さらに、何を思ったのか、正面玄関に場所を移して、花がきれいに咲いている植木鉢に、ひとつひとつ立てていきました(写真11)。
 「やばい…研究公開日のために並べた花が…」
 教師は少々焦ります。ただ、よく見ると花の色とゴム手袋の色が重なっています。A子さんは、活動のどこかで、手袋を花だという発想に切り替えたのでしょう。
 そして、最後は、前庭の植木に「手袋の花」を咲かせてくれました(写真12)。

写真11写真12

 「えっ、それは、さすがに…」
 教師は関係各所のお詫びに追われた次第です。用務員さんごめんなさい。
 でも、「手袋の花」の後ろで、同じポーズをとるA子さんの表情は、今も忘れられません。それは、縁の連鎖が結実した喜びでしょう。材料と場所などの資源という「因」だけでなく、様々な出来事や資源同士が関わり合う「縁起」を経て、はじめてA子さんは「果」という実(み)を味わったのだろうと思います。
 有元先生(2021)は、前述に続けます。

種があるから芽が出るという因果律はその通りだが、因果が成立するには非常に多くの要素が関わっている。教育は因果律だけで計画するものではない。学んだことがより良い出会いのご縁の中で花ひらくように、因果律だけでなくいわば縁起律にしたがって進めるものだろう(※5)

 この指摘は、造形遊びに取り組む教師であれば、実感的に分かることだと思います。造形遊びにおいて、教師は子どもたちの学習過程を想像しながら、多様な資源に目を配りつつ、指導計画を作成します。でも、いざ授業が始まったらその子の「縁」に注目しながら、子どもの状況をその都度判断し、臨機応変に材料を提案したり、活動を支援したりします。教師が授業中に実際に行っているのは「縁起律」なのです。
 たぶん「資源」という言い方がよくないのでしょう。それは造形遊びが資源だけで成り立っているような誤解を生むように思います。実際は、資源を配置するだけではなく、見守ったり、手助けしたり、時にはダメ出しをしたり、縁がよりふくらむように子どもたちの造形活動を支えているのが教師です。それは、造形遊びだけでなく、図画工作、さらには学校教育全体を支えている姿だと思います。

※1:奥村高明 宮崎大学教育文化学部附属小学校 研究公開授業より(1999.1)
※2:奥村高明「学び!と美術 <Vol.103> 「ひらめき」が生まれる授業」
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art103/
※3:阿部慶賀 第1章座談会「禅問答みたいな話になっちゃいますが、「創造性ってこうです」って定義した瞬間に、創造的じゃなくなってしまいますね。例えば「これとこれが満たされれば創造的ですよ」っていうと、筋道が決まっちゃうわけです。すると「創造性のための方略」や「創造性のマニュアル」ができてしまいます。でも、それはおかしなことでしょう。」奥村⾼明、有本典文、阿部慶賀編著『ひらめきがうまれる授業』日本文教出版(2022)【近刊】
※4:有元典文 第3章「ひらめく場づくりとしての教室」前掲註3
※5:前掲註4

部落差別と同和教育(その2)

 前回に予告していたとおり、今回は21世紀に入ってからの課題を中心に述べます。1969年に同和対策事業特別措置法 が10年の時限立法として制定されました。その後、延長などを経て2002年になると、同和対策事業の裏付けとなっていた法律が失効し、同和対策事業としての同和行政展開は基本的になくなりました。同和対策事業がなくなっても、部落差別をなくすための行政、つまり同和行政がなくなったわけではありません。しかし、その後15年間ほど、法的裏付けのない状態が続きました。2016年になって部落差別の解消の推進に関する法律(部落差別解消推進法) が制定され、新たな展開が求められるようになっています。ここでのポイントは、15年間にわたって法律のなかった時期を経て、2016年から新しい法律の下で教育が求められるようになったという点です。

2016年11月17日、国会の衆議院本会議で部落差別解消推進法が賛成多数で可決

[1]部落差別解消推進法の制定とその内容

 2016年12月に部落差別解消推進法が制定されました。同法では、第1条で、次のように述べています。

「この法律は、現在もなお部落差別が存在するとともに、情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じていることを踏まえ、全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり、部落差別は許されないものであるとの認識の下にこれを解消することが重要な課題であることに鑑み、部落差別の解消に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、相談体制の充実等について定めることにより、部落差別の解消を推進し、もって部落差別のない社会を実現することを目的とする」(太字と下線による強調は森による)

 つまり、現在も部落差別が存在し、それは許されないものだから、部落差別をなくすためにこの法律を制定したというわけです。そして、取り組みの柱として、相談、教育・啓発、実態調査という三つが設定されました。
 部落差別という文言を含んだ法律は、日本で初めて制定されました。これまで日本の法律では「部落差別はいけないことだ」というのはもちろん、「部落差別」という言葉そのものを用いた法律はなかったということです。不思議に思う人もいるかもしれませんが、これが日本の法律の実情です。

[2]ネット社会の差別をめぐる課題

 部落差別解消推進法第1条は、「情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じている」としています。この点に関連して述べるべきことは、いまサイバー空間では全国の被差別部落の地名、部落出身者の名前、被差別部落の映像などがさまざまな個人や団体によってアップされているということです。これを何とかするべく法律は制定されたはずなのですが、法律制定後も、事情はあまり変わっていません。
 2021年9月27日には、東京地裁 が、被差別部落の地名を出版しようとした出版社側に対して、6県をのぞく部落地名リストの出版や掲載を差し止め、被告の出版社に対して合計約480万円を原告側約230人に支払うよう命じる判決を言い渡しました。部落地名の出版差し止め対象から外されたのは、6県です。この6県が対象から外されたのは、自ら出身をカミングアウトして活動してきた一部の人について、プライバシー侵害にはならないとされたためだといいます。
 要するに、この判決では、自らカミングアウトした人はいくらでもアウティングされても仕方がないとしているのです。カミングアウトとは、被差別の立場にある人が、問題を訴えるためにあえて自分自身が被差別の立場にあることを明かすことを意味します。アウティングとは、他の人が本人の了解なしに、その人が被差別の立場にあることをあかすことです。
 プライバシー権とは、自分に関する情報を自分でコントロールする権利を軸に構成されています。そのことは、文部科学省が組織した「人権教育のあり方に関する調査研究会議」から2008年に出された『人権教育の指導方法等の在り方について【第3次とりまとめ】 』(以下、『第3次とりまとめ』と略)でも指摘されていることです。『第3次とりまとめ』には、OECD(経済協力開発機構)が1980年に出した「プライバシー保護と個人データの国際流通についてのガイドライン 」が紹介され、その解説として次のように書かれています。

 全22条からなるこのガイドラインにおいては、総論や国際的適用における基本原則などのほか、国内適用の場合についても8項目からなる基本原則が示されているが、それらに共通するのは、自分に関する情報は自分でコントロールするという考え方である。情報化が進む現代社会にあっては、どのような場合に自分に関する情報をどこまで提供するのかを判断できなければ、個人が様々な不利益を被ることになりかねない。これらの原則に関する学習を通じ、プライバシー保護のルールについて理解を深めるとともに、自らの情報を適切に管理する技能を身に付けていくことが求められる
(『人権教育の指導方法等の在り方について【第3次とりまとめ】』実践編 56頁)
(太字と下線による強調は森による)

 OECDがいうプライバシーは、「自分に関する情報を自分でコントロールする」という考え方を基本にしているのです。この考え方に立てば、アウティングがプライバシーの侵害になるということは明らかです。
 この連載の第3回でも紹介したように、日本政府は2018年に「人工知能(AI)に関する7つの基本原則」をまとめ、2019年には「人間中心のAI社会原則 」としてそれを発表しています。その第1原則は「AIは人間の基本的人権を侵さない」です。人間が人権について正確に理解し、それを使いこなせるようになっていなければ、「人間の基本的人権を侵さない」ようにAIを製作し、調整することはできません。ここでは、カミングアウトとアウティングの区別を人間が正確に理解し、それを使いこなせるようになるということです。そのような時代に、さきの東京地裁のような判決が出るということをどう考えればよいのでしょう。
 このことに関連して、国際連合は日本に対していくつかのことを繰り返し勧告 しています。一つは、部落差別を国連の人種差別撤廃条約の対象とすることです。国際的に、人種差別撤廃条約の対象には、もともとインドのカースト制度なども含まれています。同様に、日本の部落差別も人種差別撤廃条約の議論に含むべきだというのです。二つには、この連載の第4回でも触れた差別禁止法を制定することです。日本政府は人種差別撤廃条約に参加するとき以来、同条約第4条を留保し、同条に規定された差別禁止法の制定はしないとわざわざ断ってきました。三つには、差別禁止法を実のあるものとするためにも国内人権機関を設置することです。部落差別解消推進法のつぎに求められるのは、そのような点でしょう。

[3]教育の課題

 部落差別をなくす教育にとりくむには、少なくとも、ここに述べたようなことは前提として認識しておく必要があるということになります。具体的には、次のような事柄です。
 第1に、現在の部落差別の現実について、改めて捉え直す必要があるということです。部落差別解消推進法では、「情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じている」と述べています。サイバー空間で被差別部落の所在地や被差別部落出身者の名前などの情報がアップされたりしていることに関連して、問題を整理して捉えられるような学習が求められます。ネット上で差別が広がっているという問題は、部落差別に限ったことではありません。
 第2に、ネット上の差別とリアル世界での差別との関連を考える必要があります。部落差別があるのはネット上にだけではありません。現実世界でも、結婚差別や就職差別、差別落書きなど、さまざまな差別が発生しています。また、ネット上の情報が現実世界の差別を助長している面があります。現実世界での差別を踏まえつつ、それとネット上の差別との関連を整理することが求められます。この点も、部落差別だけではなく、さまざまな差別との関連で整理することが求められます。
 第3に、こうした面での学習の土台として、自分に関する情報を自分でコントロールするという現代的プライバシー権を行使できるようになるための学習が必要だということになります。具体的にはどのような学習が求められるでしょうか。
 最後に第4として、こうした学習を、他の差別問題との関連で整理する必要があります。例えば、女性差別や外国人差別が強まったのは、明治以後のことです。女性差別については、江戸時代まで武士社会にあった女性差別の考え方や仕組みが、明治時代になって民法のなかに明確に位置づけられ、全国民に行き渡るようにされました。たとえば、親権は父親にのみ認められるようになりました。外国人についても、江戸時代には海外侵略はなかったのに、明治になってからは繰り返し対外戦争をすることになっていきました。他の差別についても同様の面があります。それらとの関連で、部落差別の歴史を捉え直す必要があります。
 こうした点について、学校ではどのようにしていけば良いのでしょうか。こうした点については、次回に取り上げることにします。

Webマガジンまなびと:「学び!と人権」Vol.06

Webマガジン:「学び!と人権」Vol.06 “部落差別と同和教育(その2)” を公開しました。