「子どもの学力が伸びる」という「言説」

art2_vol3_01 話したいことは山ほどあって、でも筋道立ててまとめる時間がありません。今回も思いつくまま書くことにどうかお許しを。

 今回は、学力の面から考えてみます。自分の経歴を考えれば、学力の面から語ることは避けられないと思うからです。ご存知のように、教育基本法改正を反映し、学校教育法で学力が規定されました。「思考・判断・表現」「知識・技能」「学習意欲」です。これまでは「読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと」「生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと」のようにいくつも示されていました。それをひとつにまとめたのです。
 これはけっこう大事件です。
 このことを法律の安定性と運用の妥当性という観点から考えてみます。
 まず、法律は安定性が必要です。みだりに変わってはいけません。例えば国会で法律が180度変わったらたいへんなことになります。人権や道路交通法で考えればすぐわかるでしょう。「明日から人権変化!」「車は右側通行!」もう大混乱です(※1)。法律は大きく変わらないという安心感が社会を安定させるのです。法律の運用も同様です。行政や国民が拡大解釈してその時々で運用を変えてはいけないのです。では、杓子定規に進めればいいかというと、そうではありません。明治時代にできた法律を当時の考え方のままに運用しても困ります。そこで時代の変遷に応じて解釈し、概ね妥当に運用しなければなりません。学習指導要領が10年に一度改訂されるのも、その一つです(※2)。法的安定性と具体的妥当性、この二律背反を同時に満たしながら進むことが法治国家では大切なのです。
 そんな性格を持つ学校教育法が平成20年に第30条2項として学力条項を示したのです。この改正の意味は大きい。まず百家争鳴だった学力論争を終わらせます。次に学力の質保証の議論が始まります。行政の方策が工夫されたり、議会で学力について議論が行われたりします。何もかも学校まかせだった頃と異なり、予算と執行、その成果が具体的に問われます。図工美術も学力にどう貢献できたのか具体的な証拠が求められます。他の教科とどう関わり合って学力をのばしたのか、相乗効果を出しているかなども視点になるでしょう。教科だけでは考えない。教育課程全体で考える。そういう時代になったのです。

 さて、図工美術で、「思考・判断・表現」に該当するのが「発想や構想の能力」、「知識・技能」に相当する「創造的な技能」です。「鑑賞の能力」は「思考・判断・表現」「知識・技能」を一体としたものです。図工美術は表現と鑑賞を通して学力を育てます。それが最終的に学校教育法の学力に貢献することが求められるのです。
 以上が、学校教育法第30条2項と図工美術の関係です。
 このことをふまえたとき、これから図工美術の時間でどのように学力を伸ばすのか、直接的に他教科と関連するのか(※3)、他教科の学力にどう関われたのかを示していかなければならないということになります(※4)
 しかし国の明確な調査は昭和33年以来、50年ぶりに行われた特定の課題調査のみです。近いうちに実施状況調査も行われるでしょう。しかしこのようなペーパーやパフォーマンスのテストは問題設計や解答の分類が難しく、県などの類似のテストを見る限り、成功例を見ることができません。まだまだこれからの分野です。
art2_vol3_02 一方、現場には興味深い「言説」がたくさんあります。「言説」はコツコツ集めることで何かのヒントになります。実際、私も、これを「うまく証明できればなぁ」と思うことが多くありました。代表的なのが全国の研究指定校の校長先生たちの言葉です。その全員が異口同音に「図工すると学力が上がる」と述べたのです。私は「いや、指定校でみんな先生たちが一生懸命頑張るからですよ」といってにわかに信用しない態度を見せましたが、むこうは真剣でした。

  • 「全国学力調査で地区の底辺だったのに、今トップレベルなんです。特に思考・判断のB問題があがりました。ものをつくるには材質の特徴の把握とか法則の発見とか、けっこう理詰めに考える必要があるから、学力が上がるのは当たり前なんですよ。」
  • 「生徒同士、認め合いの風土をつくるからですね。毎朝子供の様子を玄関で見てきたけど、最初の頃は家からもってきた材料を隠すように校門に入っていました。でも今は胸張って友達に『これ持ってきたんだ』って話しながら楽しそうに登校してきます。」
  • 「図工の時間は先生たちが子どもそれぞれの良さを褒めるでしょう?それは他教科にも広がるんです。そしていつの間にか学校全体が子どものよさをみとめ称賛するようになりました。」
  • 「学校の雰囲気が変わって、非行が著しく減りましたから。」
  • 「一生懸命取り組むようになるんですよ、だって遅刻が激減しました。」

など様々ですが、確かに訪問するたびに子供の目が穏やかになったり、髪型や服装に変化が出ていたりしました。保護者や地域と仲良くなるという効果もあり、街で児童画展を始めた学校では、徘徊する子どもを地域の人が連れてきてくれるようになりました。そのような具体的な変化があるのは事実です。自分の現場体験からも、作品が単なる思いつきではつくれないことは知っています。知識、経験、目の前の材料、道具、友達の存在などを駆使して新しい解法を導き出しています。そんな様子は「算数によく似てる」と思っていました。解が一つになるか、一人一人になるかの違いだけでしょう。
 今後、上記のような「言説」をデータとして可視化し、それを保護者に、議会にどう説明していくのかが、課題となっていくのかもしれません。まず、その前に、それぞれの現場でコツコツと「言説」を集めてはどうでしょうか。

※1:ただし、沖縄は復帰のときにそれが起きてしまいました。
※2:10年という期間は子供を取り巻く状況はかなり変わります。
※3:管正隆・奥村高明「子どもの作品を生かした楽しい外国語活動-図画工作と外国語活動の協働-」クレパス、2012
※4:もちろん、図工美術はそういうものではない。質の異なる学力をもとめるべきだという意見もあるでしょう。ここで述べているのはあくまで制度論です。


いろんな子どもたちが生きる時間

art2_vol2_01 前回、「図工や美術が今できること」の考える手がかりを提供したいと書いた。大それたことを言ってしまったと、かなり後悔している。しかも、2回以降の内容まで予告している。今回は「いろんな子どもたちが生きる時間」? 苦し紛れに書いたことだが、しょうがない。こうやって自分を追い込んでいくのは悪い癖だ。あきらめて、思い付くまま書いてみよう。

 図工や美術は「いろんな子どもたちが生きる時間」である。
「生きる?いや、どんな時間でも子どもたちは生きてるよ」
「図工や美術だけのことじゃないし…」
 「生きる」には「生存する」「活動する」「生活する」「効果を発揮する」「更新する」など複数の意味がある。文字通り生きて活動するのであれば、その通りだ。ただ述べたいのは、図工や美術が子どもの在りようにどう関わっているかである。「新しい私を生きる」、「ともに生きる」などいろいろ言いたいが、本稿では、「いろんな私を生きる」ということについて取り上げたい。

 具体的に考えよう。ギャラリートークをしていると、よく言われることがある。
「あの子、いつもはしゃべらない子なんですよ。」
 国語の読解とギャラリートークの学習形態はそれほど変わらない。学級担任としては、いつも「発言しない子」がたくさん発表して驚いたようだ。「それが美術のすばらしさですよ」と即答したいところだが、それでは話が終わってしまう。少し丁寧に検討してみる。
 実は、この先生の言葉には「その子は授業中『発言しない子』だ」という前提がある。それは学習の当事者である子ども自身の評価ではない。指導者の実践や学校制度をもとにした評価である。意地悪く言えば、自分の授業は棚上げにしている。授業では問いが方向づけられていたり、解が一つしかなかったりすることが多い。高学年にもなれば、自分が答えられるか、答えられないか、すぐ分かる。そんな学習の状況が、休み時間はおしゃべりな子どもを「語らない子」にしているのではないか。「発言しない子」という言葉は、授業の属性を子どもの属性にすり替えていると考えられないだろうか。
 「私」という概念は、文化や社会、制度や状況などをもとに、その都度、構築されている。例えば私自身、職場では多弁な先生だが、家では寡黙なお父さんだ。留学生は、国語の時間は外国人になるが、体育の時間は普通にスポーツを楽しむ人になる。「私」は流動的で可変的な実践である。そう考えれば、他の授業では「発言しない子」が、美術鑑賞でよく「発言する子」になるというのは、それほど不思議なことではない。
 美術作品には多様な意味が含まれている。解釈の幅があり、その多くは見るものに任せられる。その特性を生かして解釈を創造する現場がギャラリートークだとすれば、よほどでもないかぎり発言は「間違い」にはならない。そのことを、絵を前にした子どもは直観的に分かる。「ああ、何を言っても認められそうだ」「ぼく、いろんなこと考えられるよ」。語る自由を学習の当事者である子どもは知っている。だから「いつもはしゃべらない子」がよく発言する。いろいろ思い付いたことを素直に語る。「発言しない子」にはならずに、いろんな子どもたちが、いろんな「私」になれる。自分も同じように、図工の時間にそういう子どもたちを山ほど見てきたし、体験してきた。
 しかし、今の学校制度では朝から夜まで硬直的な「私」を生きる時間が圧倒的に多い。その外的な属性が、いつのまにか個人の属性として同定していく。それを「解放する時間」というのは言い過ぎだと思うが、図工や美術が「いろんな私を生きる時間だ」くらいは言えるだろう。もちろん、このようなことは他教科でも言えるので断言はできない。
 「美術は分からない」とよく言われる。しかし、それが多義性を意味するのだとすれば、学習として、むしろ重要な要素となっている。多義的に私を生きる時間。そんな時間が、子どもたちには必要だと思う。


【新連載スタート】本連載の方向と、ささやかな志

奥村高明

著者近影

 「図画工作科・美術科にできることとは何ですか?」
 以前から、よくそんな質問を受けた。今も、そのような話題になることは多い。
 行政的に答えることは容易である。図画工作科・美術科でできることは、学習指導要領が示す目標と内容であり、育てる能力は4観点である。それ以上でもなければ、それ以下でもない。それぞれの学校で教育課程を編成し、実施し、評価して、指導の改善を行う。それが正当だ。
 「いや、そうじゃなくて…」
 質問をした側は、その回答では満足しない。
 ただ、そうなると、先ほどの質問は教育課程とは別の話ということになる。話題は多岐にわたるし、焦点をどこにおくかで話は変わる。果たして自分に答える能力があるのか、そういう立場なのか、自信がなくなってしまう。そこで、そんな時は自分の気持ちを答えるようにしている。
 「私、図画工作科・美術科のために仕事をしているつもりはないです。でも、今、学校から図画工作がなくなったら、子どもが学校でうまく生きられなくなると思っています。だから図画工作科・美術科が必要だと思うし、応援しています」
 もちろん、この言い方が曖昧な言説で、図画工作科・美術科と他教科の二元論だということは承知の上だ。同じことは他教科でもいえるし、本質的に図画工作科・美術科は、教育課程の一つに過ぎない。しかし、こう答えると質問者の多くは安心した顔をしてくれる。そう、質問というものはたいてい「実際に質問したこと」は聞いていない。質問の奥には違うことがある。この質問の場合、図画工作科・美術科のこと以上に自分の存在意義を確かめようとしているのだろう。

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南台湾先住民ガラス工房にて(作業中の脇に筒に立ててあるガラス棒を上から撮影)

 でも、そろそろ「図画工作科・美術科に、今できることとは何か?」について本腰を入れて考える必要がある。なぜなら、もうじき曖昧さに逃げられない時期になるからだ。今、中央教育審議会はもっぱら大学教育について議論している。いわば大学の季節なのだが、おそらく数年後には幼・小・中・高などについて議論する季節になるだろう。
 そこで、本連載では、図画工作科・美術科に関わる人々が「図画工作科・美術科が今できること」について考えるための手がかりを提供したいと考えている。「図画工作科は子どもの何に役立つのか」「美術科は世の中の何に貢献するのか」など。もちろん、このテーマはあまりにも大きく広く深い。様々な角度から論じることができる。それに資することなど、とうてい無理だ。私の能力も、手元にある資料も知れている。
 ただ、一応30年以上図画工作科・美術科に関わってきた。自分自身が勇気づけられたエピソードもある。講演などで繰り返し紹介した思い入れのある事例がある。また、最近の調査には、図画工作科・美術科によって高められる力を明らかにしようとするものもあって、それはそれで有効かもしれない。本連載は、それらを、脈絡なく、思いつくままに羅列するだけの内容になると思うが、何かしらのヒントになれば、読者の方と一緒に考えていければ、と考えている。

 2回以降予定している内容は以下である。

・図画工作はいろんな子どもが生きる時間
・国籍が不可視化される図工の時間
・図画工作科・美術科は子どもを認める時間
・他者とともに自分をつくりだす教科
・美術は、哲学や思想を一瞬で伝える
・作品一枚で社会や文化について深く考えることができる
・ものをつくるときには多層な判断や思考の輻輳がおきる
・日本の図画工作科は世界的にみたら日本だけ