道徳教育を支える「理論」―その2

 前号を書き下ろしてから、しばらくご無沙汰してしまいました。言い訳がましくなりますが、各種の仕事に追いまくられていました。特に、主任教諭選考(教職経験8年以上の比較的若い先生を対象とした東京都の任用制度)の関わる職務レポートをどのように書いたらよいのか、その傾向と対策、ならびに、解答例の書き方についての原稿書きに四苦八苦しておりました。これは3月中にある出版社から書籍として販売されている予定です。
 今や主任教諭選考は、東京都の管理職試験やそれに準じる試験のうち一番難しく、倍率も高くなっています。それだけ意欲のある若い先生方が多くなってきた一つの表れでしょう。以前のように管理職への道を忌避する先生も少なくなってきました。「教諭→主任教諭→主幹教諭、指導教諭→教頭、副校長→校長」と徐々にステップアップすることがごく自然になってきたようです。しかし、課題もあります。30歳代のそのような先生から独特な個性(よい意味での)がなくなりつつある、ということです。みな平均的でそつなくこなす先生が増えてきた感がします。表面的な、見える部分ではうまくこなすのです。しかし、なぜそう思ったのか、そうしたのか理由や根拠を聞くとあまり明確な答えが返ってこないことがあります。自分の中に論的背景や理論的根拠に自信がないことが原因のようです。
 このことは、学校における道徳教育の世界でも同じです。以前のように道徳を忌避(もっと言うと否定)する先生はほとんどいなくなりました。積極的に道徳を学ぼうとする先生方が増えました。教科になったこともあり、「どうやって教えたらよいのだろう。どのように授業を進めたらよいのだろう」と必要に迫られていることも確かです。また、研究や研修をやり始めたら面白くなり、そのまま継続して道徳の勉強を進めている先生も多くなりました。私の若い頃とは雲泥の差です。しかし、道徳科の授業の関心がいわゆるハウ・トゥ的なところに終始しているようにも思えるのですがいかがでしょうか。こういう考えを基にして授業構想を立てた、このような理論を授業実践に移してみた、といった理屈が少ないように思います。
 ある校長先生が言っておられました。「最近の若い先生方は本を読むより、スマートフォンの動画を見て授業の流れを学ぶ」と。

1 「論」を大切にする、ということ

 では、私の若い頃の先生方は「道徳教育に『論』はあったか、『論』をもっていたか」と問われれば、「今よりもあった」と思います。なぜならば、論を持っていないと戦えなかったからです。まさに、道徳教育を志す教員はある意味、道徳を反対する先生方と戦わなければならなかった時代だったのです。「道徳(の授業)なんかやらんでいい!」と言って年間に一回も道徳の授業をやらない先生がいっぱいいた時代ですから。学習指導要領にはちゃんと「道徳」があったにもかかわらず……。そんな先生方と渡り合うにはそれなりに理論武装しなければなりません。必死に「論」を学び、我が身に取り込んでいました。受け売りはすぐ露呈してしまうので、学んで自分のものにしようと頑張りました。
「道徳教育」明治図書 そのような時代であったからこそ、30年前に「道徳教育理論の潮流を授業に生かす」「道徳教育・授業を支える理論」といった特集(明治図書「道徳教育」)が組まれたのだと思います。道徳をこれから熱心にやっていこうとする先生方に必要な知識や知見が盛り込まれていたのです。
 しかし、それでもまだ不十分だったのかもしれません。当時明治学院大学の神保信一教授は1992年「道徳教育」の特集の「人間学的・実存的アプローチ」の中で以下のように記しています。

 理論にしたがって道徳の授業を構成し、展開している人はごく少ないのではないだろうか。本誌「道徳教育」をさかのぼって読んでみたが、「この理論によるこの授業」をほとんど見つけ出せなかった。
 私自身は○○の理論に忠実であるのがよいのではなく、○○の理論を生かして①、児童生徒との深まりのある道徳授業が展開されることが大切、と考えている。(番号と下線部は、大原による)

 また、同じ特集では滋賀大学の村田昇名誉教授も「シュプランガーの理論を生かす」の中で次のように述べています。

 今日の教育界では、理論的研究が軽視され、安易にハウ・トゥを求めようとする傾向が強いと思うのは、わたくしだけであろうか。とりわけ道徳の時間の指導は技法に走り、しかも画一化してしまっている。かつては教育哲学に造詣が深く、みずからの人生観・教育観をもっている先生方が少なくなかった。その先生方が指導的役割を果たし、各地で理論に支えられた独創的な実践が講じられていた。本質に支えられてこそ、自由な、独創的な、多様な実践が可能となる②道徳の時間を活性化し、真に効果のあるものとするためには、回り道と思われるかもしれないが、理論的・本質的な探究が肝要③であろう。偉大な教育思想家を尋ね、自らが哲学すること④を学び取ることを進めたい。(番号と下線部は、大原による)

 少し解説を加えてみます。

①理論を生かして

J・ピアジェ 画像提供:PPS通信 理論を生かすには、理論を知っていなければなりません。道徳というのは、根本はやはり哲学・倫理学に根差すものです。「哲学・倫理学について深く勉強して専門性を身に付けろ」とは言いませんが、一般的な教養として幾分なりともその中身を知っておくことは必要だろうと思います。今では、高等学校で公民科「倫理」を学ぶ生徒が少なくなっているようです。また、大学での「哲学概論」も必修ではないようです。したがって、それらを履修しないままに先生になってしまうことも多いのではないでしょうか。ですから、現場の先生になってからでもよいので、少しく倫理学や哲学の主張について参照してほしいのです。今の学校現場は忙しいのでそんな時間がないのは分かりますが、機会を見つけて勉強してほしいと思っています。きっと参考となるところがあります。そこを「生かして」ほしいのです。
 また、道徳に限らず、授業についての考え方など授業論についてもハウ・トゥ本ではなく、様々な理論や実践がありますので参照してみて下さい。学級経営や心理学など子供理解や授業づくりについて大いに勉強となります。
 私も、J・ピアジェの道徳判断についての理論から大きな示唆を得ました。彼の書物を読み切るにはかなりの根性とエネルギーを要しますが、長期休業等時間を見つけてじっくりと腰を据えることもどこかで必要だと思います。

②自由な、独創的な、多様な実践

E・シュプランガー 独創的と独善的とは異なります。独善とは、一人よがり、自分だけがよいと思っていることです。少し言い過ぎかもしれませんが、教科となった昨今、この「独善的」と言える道徳科授業がちらほら見える気がしてなりません。また、「自由な実践」についても、「自分勝手、わがまま」な自由ではなく、「本当の自由」による自由な道徳科授業が大切です。まさに、教材「うばわれた自由」における考え方と同様です。
 型にはまらず、自由で、多様な実践が求められることはとても良いことだと私は思います。これからの道徳科研究が大いに発展していく起爆剤となるかもしれないからです。しかし、忘れてはならないことは、【本質に支えられてこそ】なのです。その本質が、「理論」なのです。

③回り道

 正に、「急がば回れ」です。小手先で済ましてはならぬ、ということです。時間をかけてじっくり勉強することが、忙しい先生には特に大切だと考えます。いや、先生の勉強や研鑽のためにも「先生は忙しい」を容認してはならないと思います。先生方の勉強の時間をちゃんと確保するよう社会が認識しなければならないと思っています。教師の質と水準の維持、確保のためにも。そして、先生も成果をすぐに出そうと急いではならないのです。「教師は勉強ができるぞ。」と高等学校の先生に言われて私も教師になりました。まさに、【探究】が大切です。

④哲学すること

 道徳科学習(教師からすれば、授業)は教師と子どもたちが共に「哲学する」時間だと言えます。すなわち、お互いによりよい生き方を考え、求める時間だからです。そのためにも、自らが哲学することを大切にしていただきたいのです。
 例えば、道徳科学習指導案の作成です。特に、「主題設定の理由」における「ねらいとする道徳的価値について」等は教師の深い指導観が求められる所です。それぞれの授業における「内容項目」について先生がどう考えるか、哲学することが大切なのです。

2 「論」を大切にする授業

 では、どのようにすれば「論」を大切にした授業が可能なのでしょうか。一つの示唆として、下記の論述が参考になります。同じく1992年の「道徳教育」の特集に掲載された麗澤大学の岩佐信道教授の「道徳教育・授業を支える理論としての道徳性の発達段階~特にコールバーグについて~」を紹介します。

 実際私自身が参観させてもらう通常の道徳の時間の指導においても、生徒の発言には、明らかに質的なレベルの異なる発言が見受けられるのである。しかし先生に、発達段階の視点がない場合には、高いレベルの発言も、低いレベルの発言も、それぞれ一つの見解として同じように扱われるのである。そして、様々な意見が出されたことでよしとされ、すでに授業は終末に近づいている、というような場合がある。
 しかし、発達段階論の視点からすれば、問題の核心に対して子どもたちのレベルの異なる意見が提出されたところから、本来の道徳の授業が始まるとさえいえるのである。では、そこで何をするかと言えば、レベルの高い意見と、それより低い意見とを取り上げて討論とまではいかなくても、お互いの考えが十分に理解できるよう話し合いをさせることである。(下線部は、大原による)

 いわゆる、私に言わせれば材料だけ並べて、「調理しない」道徳科授業です。教師が発問をし、それに子どもが反応する。そして、板書をする。あらかた発言が終息すると次の発問に移る。そんな一連の授業展開です。結構多いと思います。展開前段から展開後段へのつながりが不自然であるというのも、案外そんなところに要因があるのかもしれません。せっかく子どもたちから出された意見や考えを聞くだけ、黒板に書いただけで授業が終わってしまったら、本当にもったいない授業ではないでしょうか。そのうちに材料が痛んでしまいます。子どもたちから出された意見や考えを板書する、いわゆる、材料が出そろったわけです。今度はそれを調理しなければ料理が出来上がりません。どう調理するか、教師の腕の見せどころです。
 最後に、同じ岩佐先生が1989年の「道徳教育」の特集の中の「コールバーグに学ぶ」で以下のように述べられています。とても参考になるので引用させていただきます。

 第四のステップは、クラス全体での討論である。その際、教師の役割は、つねに生徒同士の話し合いを助長し、子どもたちの意見の背後の理由を聞き、クラスの多くの子どもよりも一段高い次元での発言に注目し、そのような考えが他の生徒によく理解されるような配慮をすることである。
 そのために、教師の行う質問には様々な性質のものがある。
例えば、
①理由を尋ねる質問
②生徒が問題をどのように認識しているかを確認する質問
③生徒の発言の意味を明確にさせる質問
④他の生徒の意見に反応を促す質問
⑤同じ問題を関連した別の面から尋ねる質問
⑥場面中の他の人物に立った場合の考えを尋ねる質問
⑦提案されている意見に従った場合、社会全体にどのような結果がもたらされるかを尋ねる質問
 ①~⑦はフェントンによる

 次号からは、道徳科授業の具体について述べていこうと思います。

道徳教育を支える「理論」

 SeasonⅡの連載は、テーマを絞って重点的に何かを述べていこうといったことは特に考えておりません。道徳教育や道徳科の指導について、その時々に思ったことや感じたこと、考えたことをありのままに記していきたいからです。
 今回は、「道徳教育を支える『理論』」ということについて述べてみたいと思います。それは、今、従来の道徳授業の枠にとらわれない様々な道徳科の授業実践が試行されていますが、そのバックボーンとなる「理論」や「論」というものがあまり感じられないからです。前回にも書きましたが、道徳が「特別の教科」となり、今までの指導方法から脱却しようと多様な授業実践がなされています。しかし、どうも「これは!」といった決め手となるような実践事例に出くわすことがありません。失礼な言い方かも知れませんが、従来の指導過程や指導方法とは何か違うもの、今までやってこなかったものを、ということが先行し、その大本にある「理論」や「論」といったものにそれほど言及することなく、「やってみよう」と提案しているような気がしてなりません。「こんな授業を考えている。それは、次のような道徳理論に基づいて考えているから」というような骨太な主張をあまり聞かなくなってしまいました。

 実は、30年ほど前になってしまいますが、明治図書から出されている『道徳教育』に次のような特集が組まれたことがありました。
 一つは、1989年12月号で「道徳教育理論の潮流を授業に生かす」です。もう一つは、1992年8月号で「道徳教育・授業を支える理論」です。前者は78ページの特集、後者も45ページにわたる特集を組んでいます。読み切るにはそれなりの覚悟と努力を要します。そして、難しい。したがって、腰を落ち着けてじっくりと取り掛からなければなりません。しかも3年弱の間に2回も特集しているのです。当時の現場の先生方のニーズの一端がこのようなところにあったのだと思うと妙に感じ入ってしまいます。なぜならば、しっかりとした道徳理論を学んで道徳授業に生かそうという意気ごみを感じるからです。
 今、改めて読んでみると非常に興味深い。また、教科となったこの時期に再び参照してみる価値が十分にあると考えます。あえて紹介させていただきます。

1 各号で紹介されている理論と著者(当時の所属と役職)

(1)「道徳教育理論の潮流を授業に生かす」(1989年12月号)

  • 日本の道徳教育に影響を及ぼした理論  間瀬正次(名古屋商科大学教授)
  • シュプランガ―に学ぶ  村田 昇(滋賀大学教授)
  • アイゼンバーグに学ぶ  菊池章夫(東京工業大学教授)
  • 『論語』の道徳論  高橋 進(筑波大学教授)
  • フレンケルに学ぶ  行安 茂(岡山大学教授)
  • ブルに学ぶ  森岡卓也(大阪教育大学教授)
  • コールバーグに学ぶ  岩佐信道(麗澤大学助教授)
  • デューイに学ぶ  遠藤昭彦(筑波大学教授)
  • デューイに学ぶ  斎藤 勉(新潟大学助教授)
  • 学ぶべきを求めて  井上治郎(東京電機大学教授)
  • 小原国芳に学ぶ  黒田耕誠(広島大学教授)

(2)「道徳教育・授業を支える理論」(1992年8月号)

  • カントの『道徳論』を考える  三井善止(玉川大学教授)
  • 道徳教育・授業を支える理論としての道徳性の発達段階  岩佐信道(麗澤大学教授)
  • ニーチェの道徳批判をめぐって  西野真由美(国立教育研究所研究員)
  • 「価値の明確化」理論を道徳授業にどう生かすか  遠藤昭彦(筑波大学教授)
  • リコーナの「道徳的自立」をめざす教育論に学ぶ  伊藤隆二(横浜市立大学教授)
  • 道徳教育における「五つのE」  伊藤啓一(金沢工業大学助教授)
  • 人間学的・実存的アプローチ  神保信一(明治学院大学教授)
  • シュプランガ―の理論を生かす  村田 昇(滋賀大学名誉教授・京都女子大学教授)
  • ヘーゲル『法の哲学』に学ぶ  小野健知(日本大学教授)

 今回は、間瀬先生の「日本の道徳教育に影響を及ぼした理論」について触れてみましょう。今日の道徳科に至るまでの流れが少し見えてくるようです。

2 「日本の道徳教育に影響を及ぼした理論」

(1)開発教授法と教授段階説

J・H・ペスタロッチ 画像提供:PPS通信 まず、J・H・ペスタロッチの「開発教授法」が出てきます。1870年代のことです。それまでの日本の公教育では暗誦を中心とした授業が主流であったようですが(四書五経の素読など)、子どもの直接経験を媒体としてその心的能力を開発していこうとするものに変わっていったようです。そのねらいは、授業で子どもに直接経験を与えるには、実物(代用品として掛図や図表)などを活用して、経験内容を確かめながら一般的なものを引き出していくために、教師と子どもの間に「問答」を行うところに特色がありました。今日では資料・教材がその実物に代わる任を与えられているのです。また、問答ということから、発問とそれに対する児童の発言という形で進められる授業の原型が表れているようです。
J・F・ヘルバルト 画像提供:PPS通信 そして、次にJ・F・ヘルバルトの「教授段階説」が出てきます(ヘルバルトの教育理論では、学校教育の目的は「強健な道徳的品性の陶冶」にあると明らかにされました)。その段階とは、予備⇒提示⇒比較⇒総括⇒応用の五段階であったようです。今日の道徳指導では、三段階(導入⇒展開⇒終末)になっていますが、この段階説は受け継がれています。

(2)デュウイとマカレンコ

 アメリカのJ・デュウイは、学校の道徳教育は特別の教科を設けずに全教育活動で行われることを前提としています。その指導方法は、道徳に関する概念(徳目)を教えるのではなく、公正な行為に関する実行を体得させることに主眼が置かれていました。このJ・デュウイの道徳理論は、戦後我が国では初め社会科と特別活動を主として、問題解決学習として行われていました。その後、道徳が社会科から分離し単なる経験主義による生活教育とは別種となっていきました。
 一方、ソビエトのA・S・マカレンコは集団中心の訓練主義でした。戦後一時期生活指導における学級づくり理論として一部の現場に根付いていました。この考えが、特別に時間を設けて行う道徳指導と対決する動きがしばらく続きました。道徳科反対の動きの根底にこのような趣旨が根強く残されていたのかもしれません。

(3)ピアジェとコールバーグ

 道徳性の発達段階についての知識と技術をこの二人は提供しました。有名な理論なのであえて詳しくは説明しませんが、J・ピアジェは子どもが年を重ねるに従い、他律的判断から自律的判断へ、結果主義判断から動機主義判断へと移行することを明らかにしました。
 また、L・コールバーグは、J・ピアジェの二段階説を三レベル六段階説に拡張し、いずれの国のどこの青少年にも同じ発達の順序性があると主張しました。しかし、二人とも道徳的判断の発達を中心としており、道徳の行為面や感情面(心情面)への配慮が不十分であると言われています。
 いわゆる道徳性の諸様相における「道徳的判断力」についてはかなり明確にはなりましたが、道徳的心情、道徳的実践意欲や態度については今後の研究が待たれるところです。

(4)特設の道徳指導(道徳の時間)に影響を及ぼした日本人学者の理論

①大平勝馬の段階論と正木正の感化論
 金沢大学の大平勝馬教授は『道徳教育の研究』(昭和35年刊行)において、道徳性の構造を道徳意識(知見・心情・態度)と道徳的行動(規範・意志・適応)との両面から考察しました。特に注目するのは、「道徳」の指導段階です。指導過程を五段階(事前指導⇒導入⇒展開⇒終末⇒事後指導)とし、その内容を子どもの学習の流れと教師の指導の流れの両面から考えているところです。現在でもこの学習指導過程は踏襲されています。
 京都大学の正木正教授の『道徳教育の研究』(昭和38年刊行)は現場の教員によく読まれた本です。正木は道徳教育の心理学的基礎を明らかにしました。そして、道徳教育は、教育的人間関係による「感化」を重視すべきであると述べています。すなわち、学級経営における教師と子どもとの人間関係が基本となると主張しています。

②平野武夫の価値葛藤論と宮田丈夫の資料類型論
 道徳指導も軌道に乗ってはきたものの、マンネリ化も言われるようになってきました。そこで、その平板化を脱し創造性を生み出すためにいろいろと創意工夫がなされました(何か今に通じるようなところがあります)。
 一つは関西道徳教育研究会会長の平野武夫教授です。価値葛藤を生かした道徳指導の展開過程論です。導入の段階で、学習の動機を喚起し問題の意識を共通化したうえで、展開の段階では自己の体験を省察するなどして集団の批判(話合い?)で各自が主体化します。終末の段階では、その結果を一般化したり生活化したりします。しかし、いつも「自分だったらどうするか」というパターンとして繰り返され、意識面での問答に終わるところに課題がありました。
 二つ目は、お茶の水女子大学の宮田丈夫教授の道徳資料の類型論です。道徳的価値の指導に有効・適切な間接教材としての道徳資料が必要である。それには教育的効果を上げるために学年の発達段階や主題の性格とねらいに応じて定着化を図る資料を作成、利用することを目指しました。こうして道徳資料の四つの類型(●基本的行動様式に関する実践資料、●危機的場合を想定し価値の葛藤に直面して判断を高める葛藤資料、●子供が直接経験できない知識や理解を与える知見資料、●道徳的心情に訴えて実践的意欲を喚起する感動資料)が出来上がります。

③勝部真長の内面化論と文部省側の価値化論
 お茶の水女子大学の勝部真長教授と東京都教育庁の宇留田敬一指導主事の唱えた内面化論です。すなわち、週1時間の限られた道徳指導は他領域・他教科等で行われる道徳教育を補充し深化し統合する役割をもつものである。したがって、児童、生徒に内面的自覚を促すことが大事だと言っています。生活から入って生活に結び付ける場合に、資料によって問題の核心に迫り価値を確認し深化して一般化することが求められると述べています。
 今一つは、文部省の教科調査官たちの主張する立場です。顕著な例として、資料即価値論としての道徳の授業は「資料を教える」ことに徹すべき、という考えです(今日的に言うと、「資料を教える」となると国語科的な授業になるので、「資料で教える」ことになるのでしょうか)。すなわち、資料で徳目を教える授業から、資料を教えることで価値を学ばせる授業へと転ずることになります。しかし、これには多くの反論があり、最近(特集が組まれた当時)では、指導過程の展開前段階では、資料で主題のねらいとする価値を基本質問によって追求するが、後段階では資料を離れて各自の主体的に価値を自覚させて「価値の一般化を図る」という方向に変わっていると言うことです。

 ざっと今日に至る道徳教育(とりわけ、道徳授業について)の流れを見てきましたが、種々の曲折を経て今のような「いわゆる一般的な流し方」が生まれてきたと考えます。次号以降もう少し詳しく述べていきたいと思っています。また、具体的な道徳科授業の実践例も紹介したいので、様々織り交ぜて記してまいります。

※デューイの表記については、出典に拠っています。

【SeasonⅡ連載スタート!】今こそ「基本に立ち返った道徳科授業」の実施を!

 「はじめまして」と言いましょうか、お久しぶりと言いましょうか。「学び!と道徳」を担当させていただいておりました「大原龍一」です。再び連載させていただきます。もう少し早くに再開する予定でしたが、ずぼらな性格と筆不精が災いしこの時期になってしまいました。申し訳ありません。
 今後、少し気合いを入れて頑張りますので、「どうぞ、よろしくお願いいたします。」

1 「特別の教科 道徳」の開始!

 小学校においては、今年が道徳の教科化元年となります。4月から、どこの学校においても、どこの教室においても「教科書」が使われ、毎週(?)、道徳科の授業が行われているのではないでしょうか。かれこれ半年が経ちました。学校によっては通知表に道徳科の評価を記述された先生もいらっしゃると思います。
 この評価を含めて初めてとなる道徳科。皆さんの学校ではいかがでしょうか。

(1)この4月から…

 この4月からの様子を見ていて感じることは、道徳科授業についての研修会を実施する学校が増えたことです。大変喜ばしいことです。校内研究として「道徳科」を取り上げ、少なくとも年間を通して研究をする学校、さらには2年間の研究奨励等を受けて研究をする学校、そこまでには至らないものの校内の研修の一環として道徳を実施する学校等が以前よりも多く見られるようになりました。そして、どの学校も熱心に取り組んでおられるな、というのが私の第一の印象です。これも、教科にしたことによる効果だと思います。
 一方、気になることもあります。私なども講師として呼んで下さり、道徳科の授業改善に取り組んでおられる学校はよく分かるのですが、そうでもない学校も少なからずあり、「どうなんだろう?」と他人事ながら心配になってしまいます。大きなお世話だと言われてしまえば、それまでなのですが。
 東京都では長年「道徳授業地区公開講座」を実施しています。それは、都内の全ての小・中学校が年に1回道徳の授業を保護者や地域に公開する取り組みです。そもそもそれが始められたきっかけは、道徳の授業が各学校できちんと行われていないという現状があったからです。また、家庭や地域にも道徳の授業に対する関心がそれほど高くはなかった故、少しでも関心をもってもらおうとの意図もあったのではないでしょうか。ここ十数年の間に学校や家庭、地域の意識もかなり変化してきましたが、なんといっても教科化へのうねりは道徳の授業の充実に大きな力となりました。ほぼすべての小・中学校が道徳の授業の公開を何の躊躇も反対もなく実施しています。
 しかし、問題はその中身です。教科になった現在も、依然として「これが道徳科?」という授業も時々見受けられます。まるで国語科のような読み取り、教材の分析が中心となった授業や、特別活動の学級活動にみられる適応指導が中心となった授業、あるべき行為・行動を身に付けることが重点となった生徒指導的な道徳科授業です。
 さらには、一見道徳科風なのですが、変にこねくり回して子どもが混乱している授業も見られます。これは、研究を一生懸命やっているような学校で時々見られます。教科になったので、何か新しいものを提言しなくてはならないと思っているのでしょうか。

(2)今こそ「基本に立ち返った道徳科授業」の実施を!

 「考え、議論する道徳」は、それをやってこなかった学校が取り組むべき課題で、以前からやっている学校は「今まで通りでよい」と聞いたことがあります。教科化の話題が沸騰していた数年前は、「問題解決的な学習とは?」「道徳的行為に関する体験的な学習とは?」などと盛んに言われていましたが、最近はそれほど声高に聞かれなくなりました。「議論!議論!」の声はまだ聞きますが、それも今まで通り行ってきた「話合い」と考えれば特段新しいことでもありません。今までごく普通にやってきた話合い活動で十分事足ります。もちろんより充実させることは大切ですが。
 そもそも道徳を教科にする第一義は、「道徳の授業を毎週きちんと行いましょう!」にあると私は考えています。残念ながら、それだけ実施されていなかったというのが実状だったからです。教科にして学校現場に強くお願いしよう、そうしないといつまでもやってくれないから、が正直なところではないでしょうか。ですから、私は教科になってことさら新しいことを志向しなければならないとは考えていません。それよりもむしろ、道徳の授業【道徳科の指導】を基本に立ち返って、そして、特質に即してきちんと実施することが重要だと考えます。
 そのような意味も含めて、今回は道徳科の基本に立ち返った学習の在り方を押さえていただこうと思い、「友の肖像画」を具体例にした「一般的な道徳科学習指導案」を掲載させていただきます。東京都一水会・一水教育研究所に、私が投稿しました。それに加筆修正を加えたものです。
 各学校現場で活用されることを願っています。

2 一般的な「道徳科学習指導案」について(高学年教材「友の肖像画」を例として)

第○学年 道徳科学習指導案

日時、学校名、学年・組、指導者㊞ 等

1 主題名

  • 本時の授業テーマ。一時間の学習について端的な言葉でスパッと言い表したもの。子どもにも分かる、理解できる、考えることのできる「言葉」で表現する。
  • 時に、「導入」や「展開後段」での発問にもなり得るもの。

「信じ合う友」 B 友情、信頼

★主題名の後ろに、内容項目の柱(A~D)及び内容項目を「端的に表した言葉」を記しておく。

2 ねらいと教材

(1)ねらい

  • 内容項目に記載されている学年毎のねらいを記載する。

友達と互いに信頼し,学び合って友情を深め,異性についても理解しながら,人間関係を築いていくこと。

(2)教 材

  • いわゆる教材名。出典の明記 を忘れない。

「友の肖像画」(昭和55年 文部省資料)

3 主題設定の理由

  • (1)~(3)の順は問わない。指導要領解説や教科書指導書などを参考にし、しっかり自分で考え、考察して記す。それを、教師の「指導観を明確にする」と言う。借り物ではいけない。

(1)ねらいとする「内容項目」について <ねらいとする道徳的価値>とも言う。

  • 道徳の内容項目(ねらいとする道徳的価値)を、このように捉え、このように考え、このように指導していく、という自分の見識をしっかり述べる。その際、各学年(低・中・高別)の内容をよく吟味する。いわゆる、授業者自身が内容項目を「哲学」する所(見識:自分なりのとらえ、考え)。

(2)教材について

  • なぜこの教材を選んだのか、どんな意図でどのように提示するのか、どこを中心として考えさせるのか、また、それをどのような方法で考えさせるのか等を記述する。

(3)児童について

  • 一般的な児童の実態ではなく、ねらいとする内容項目に即した実態を記す。日頃の観察、日記や作文、アンケート調査等各種情報を参考とする。このようにしたいと言う教師の思いや願いを記す。

(1)ねらいとする内容項目(価値)について
 人間関係を結び付け、社会生活を成長させる基本は「信頼」である。友達同士が互いに助け合い、信じ合うことは、友人関係をさらによりよいものにする基盤と考える。そのような関係を築くには、相手の立場に立ち、…(略)
(2)児童の実態
 本学級の児童は、友達を大切に思っている児童が多い。また、高学年になり仲間意識を強くもつようになってきた児童が多い。5月の運動会では、友達と協力してソーラン節に取り組んだ。休み時間には、教室で曲を流し、…(略)
(3)教材について
 (略)…この肖像画の前に立った時の、正一への不信感をもってしまったことへの和也の自責の念を考えさせたい。帰りの電車の中で目をつぶった和也に共感させ、正一への思いを考えさせることで、真の友情の素晴らしさを感じとらせたい。

4 学習指導過程

(1)本時のねらい

  • この教材で学習するこの時間ならではのねらいを設定する(その意味で「2 ねらいと教材」とは異なる)。本時でしか通用しないねらいなので、以下3つの部分から成り立つよう作成する。
    ・教材に関わる部分(教材の登場人物等の心的状況や変化等を自分事として受け止めさせる)
    ・各学年の内容項目に即した学習部分(内容項目の一部または全部を引用する場合が多い)。
    ・道徳性の諸様相(道徳的判断力、道徳的心情、道徳的実践意欲と態度)で文末を締める。

正一との真の友情を確かめた和也の気持ちの変化を自分のこととして受け止め(教材)、互いに信頼し合い、友情を深めていこうとする(内容項目)道徳的心情を養う(諸様相)。

(2)学習指導過程 
※いわゆる展開の概要である。決まった形はないが、一般的な例を示す。

学習活動 ○教師の発問や働きかけ
・予想される児童の反応
□指導上の留意点
導入部分 ●導入の役割

①ねらいとする内容項目への導入
②教材への導入
③上記①②をミックスした導入
④雰囲気を高める導入

□(留意点として左記①~④を記入)
□導入発問がある場合は、その発問をする意図を述べる。

「親友」について考えることや登場人物について知る。

○今日は、「親友」について一緒に考えていきましょう。
○教材の登場人物を紹介する。

・ねらいを明確にする。
・主人公の焦点化を図り、教材への導入とする。

展開部分(前段)
主たる教材に基づいて、ねらいとする「内容項目」について考える。
●教材提示

・「道徳授業の成否は教材提示で決まる」ほど重要
・教材提示の工夫により児童を登場人物に自我関与

□教材提示の方法を記述。

・教師の範読 ・BGMの活用 ・紙芝居 ・PP
・TTによる劇化 等

●「発問」について

①(「教材分析表」の作成が前提となるが)本時のねらいを達成するために、一番ふさわしい場面から「中心発問」と「予想される反応」を設定する。
②中心発問に至るまでの「基本発問」と「予想される反応」を設定する(2~3発問)。中心発問の後に基本発問が来る場合もある。
③「予想される児童の反応」は、思いついたままランダムに記するのではなく、道徳性の発達等の順序性に従うなど整理した状態で記述したい。

□何を、どのように考えさせるのか、その中身を明確に。
□「気持ち」を聞くなら「具体的にどんな気持ち」に共感させたり、考えさせたりするのか。「思い」や「考え」についても同様である。
□指導上の「手立て」についても記しておきたい。

「あふれる涙で版画がかすんでしまった時の和也はどんな気持ちや思いだったのでしょう。」(中心発問)
・正一君も仕方なかったんだ。
・こんなぼくのことを考えてくれていたんだ。
・ごめんね、疑ったりして。
・自分勝手に考えていて、友だちに対して悪かった

・正一の和也に対する思いの深さに気付くとともに正一を疑ってしまい、後悔する気持ちからさらに友情を深めていこうとする和也の気持ちに共感させる。

④してはいけない発問例。
・「もしあなたが○○だったらどうしますか。」といった仮定の発問。<無理になり切らせてはいけない>
・「なぜ」「どうして」など理由を聞く発問。<読み取り発問>

□教材提示で十分自我関与していればこんな発問は不要。
□理由を本文から探し始める。読み取り、読解授業になる。

●「話合い」活動(「議論する道徳 」)

★話合いの基本は、「聴き合い」の指導の徹底から。
★教師の「待つ、聴く、受けとめる」姿勢で子供の発言を促したい。
★話合いを通して、物事を多面的・多角的に見る。

①ペアによる対話、グループによる議論(会話)。
②一問一答の授業も立派な話合い活動である(教師のコーディネート力が求められる)。

●「動作化」や「役割演技」の導入(体験的な学習

★動作化と役割演技を混同しないこと。
動作化:動きや言葉を模倣して理解を深める。
役割演技:特定の役割を与えて即興的に演技して普段気付かない心情や心理を掘り起こす。

□ペアやグルーブでの話合いを取り入れる場合、その必然性を述べる。
□話合いによってどのような児童の変容を期待するのか。

□演技を行う前に必ずウォーミングアップを取り入れる。また、中断法により途中に話し合う場面を設けること。役割を交代すること。

展開部分(後段)
自己の生き方についての考えを深める。
●教材から離れて、子どもに自分自身のことを語らせる。発問⇒発表や話合い、書く活動など。

○これからもっと友情を深め、親友を大切にしていくには、どんな気持ちや思いが大切でしょう。
・親友の気持ちを理解し、相手を大切にしたい。
・学び合って、助け合う。

・子どもたち一人一人がこれまでの自分を振り返り、親友について考えられるように支援する。
・ワークシートに書く

終末 教師がまとめるのではなく、子どもたち一人一人が各自の思いや考えをまとめることが大切。 □説話、家族からの手紙、スライドショー、GT 等。

教師の説話を聞く

○教師の説話を聞かせる。
・離れていても、相手のことを思い、お互いに頑張れる友達について話す。

・余韻をもって終わる。

5 評価 ※評価については、以下のように2つの観点から記述することが望ましい。

(1)指導者の立場からの評価(教師の指導について評価し、次なる指導に活かす)

・授業者自身の授業方法や学習過程について評価する(・発問 ・板書 ・話合い ・説話 等)。

(2)学習者の立場からの評価(子どもたち一人一人の道徳的な見方・考え方がどのように伸びたか)

・ねらいに即して、子どもたちの道徳性の高まりについて評価する。道徳性の諸様相(道徳的判断力、道徳的心情、道徳的実践意欲と態度)から。

6 板書計画 ※板書について留意したい視点を以下示す。

(1)目に見えない「心の在り様」を見える化する。
(2)学習指導過程と板書計画は一体のもの。
(3)子どもに分かりやすい板書を。
(4)学習活動に刺激を与える板書を。
(5)「心の多様性を際立たせる」板書を。

「特別の教科 道徳」における「評価」について

 さて、本論稿も今回で一つの区切りといたします。続きは、今秋あたりからと考えています。最近Web「my実践事例(道徳)」もアップされました。4月から相当数の事例がさらにアップされる予定です。そちらも、ぜひご覧ください。

 第8回は「評価」について少し述べてみたいと思います。現場(学校)ではかなり切実な課題・問題であるようです。どこへ行っても評価についての質問を必ず受けます。道徳の教科化が言われ始めたころ、道徳の時間に評価はなじまない、だから教科にして評価するのは「けしからん!」という声をよく聞きました。また、大学でも、講義が始まった初回あたりに学生から「道徳の教科化には反対です!」という勇ましい発言にも出くわします。「あ!誰かに習ってきたな!」と直感します。「どうして?」と聞くと、「心の問題を評価(おそらく、A.B.Cなどの評定のことを言っています)することに違和感があります。してはいけないと思います。だから、反対です」と返答が返って来ます。私が「え! これまでも評価しているよ。学習指導案にも【評価の欄】がありますよ」、「授業である以上、評価しないなんてありえないでしょう?」と問い返すと、初めて気がつくようです。講義も終盤になると、ほとんどの学生は評価することの意味、さらには、道徳を教科にすることの意義を理解するようです。反対が賛成にまわります。
 平成30年度から、小学校では「特別の教科 道徳」の完全実施が始まろうとしています。評価に関することを始め、教科になることについて正しく認識されているだろうか不安になることもあります。

1.何のための評価?

 今の、学校現場における「道徳科の評価」の最大の関心事は、指導要録や通知表に何を、どのようにして記述すればよいのか、ということではないでしょうか。そして、そのためにはどうするのがよいのか、ということです。初めてのことで先例もありません。そして、学校現場は忙しいときています。道徳の評価ばかりやっているわけにもいきません。だから、「評価文例集」なるものがもてはやされます。これは今に始まったことではありません。学期末になると、必ず「所見文例」を特集した雑誌が出回り、大いに売れるのが現実なのですから。平成30年度の学期末には、「道徳科評価文例集」がよく売れるのではないかと皮肉な予想を立てています。
 もう一度考えてみましょう。「何のための評価なのでしょう」。その前に、教科にして(指導要録や通知表に)評価をすることになったのはなぜでしょう。そのあたりのことをよく吟味する必要があります。
 (指導要録に)評価欄を設け、記述式にせよ評価することになった背景には、道徳科の授業の完全実施という切実な「思い」が込められています。今まできちんとやってこられた先生方は問題ないのです。残念ながら、そうは言えない先生方も中にはおられるようだから「こうすれば、ちゃんとやってくれるだろう」という強い願いが込められているのです。問題・課題は教師の側にあると言っても言い過ぎではないと思います。
 何のための評価?これも教師の問題です。一言で言えば、「評価と指導の一体化」です。すなわち、「児童のよい点や進歩の状況などを積極的に評価するとともに,指導の過程や成果を評価し,指導の改善を行い学習意欲の向上に生かすようにすること」が評価の大前提となっていることに、今一度留意したいものです。
 毎週の道徳科の授業をきちんと行い、さらによりよい授業創りのための授業改善への不断の努力をしましょうよ!ということです。

2.「学習指導要領」では…

 小学校学習指導要領解説「特別の教科 道徳編」における評価についての記述についておさらいしてみましょう。まずはここが基本になりますから。(※以下、引用下線部は大原)

「第5章 道徳科の評価」の構成です。

第1節 道徳科における評価の意義
 1 道徳教育における評価の意義
 2 道徳における評価の意義 
第2節 道徳性の理解と評価
 1 評価の基本的態度
 2 道徳科に関する評価
 3 道徳科の授業に対する評価
  (1)道徳科の学習指導過程に関する評価の基本的な考え
  (2)指導の諸方法を評価する観点
  (3)学習指導過程に関する評価の工夫
  (4)評価の工夫と留意

 まず、第一に「道徳教育における評価の意義」について、教育活動全体を通じて行う道徳教育の評価の重要性を言っています。特に、「他者との比較ではなく児童一人一人のもつよい点や可能性などの多様な側面,進歩の様子などを把握し,学年や学期にわたる児童の成長という視点を大切にすることが重要であるとしている。道徳教育でもこの考え方は踏襲されるべきである。」と述べられています。
 また、小学校学習指導要領解説総則編の第3章、第1節、2道徳教育では、各内容項目が道徳の時間だけのものではなく、全教育活動を通して充実・徹底を図るものですよ、ということを言っています。もちろん各教科等にはそれぞれの押さえるべき特質があるので、それらを押さえた上での話です。その上での評価であることを再度確かめておきたいものです。現在の学習指導要録の「行動の記録」なども、考え方として一部該当すると思います。

 第二に、「道徳科における評価の意義」です。これまでの踏襲になりますが、「数値などによって不用意に評価してはならないこと」が大前提であります。詳しく述べる必要はありません。それに続き、「それぞれの指導のねらいとの関わりにおいて児童の学習状況や成長の様子を様々な方法で捉えて,それを児童に確かめさせたり,それによって自らの指導を評価したりするとともに,指導方法などの改善に努めることが大切である。」と述べられています。つまり、子どもの成長の様子をとらえましょう、そして、授業の改善につなげましょう、ということです。現行の解説編では、その方法として、観察や会話による方法、作文やノートなどの記述による方法、質問紙などによる方法、面接による方法、その他の方法(事例の検討や各種テスト利用)が例示されています。

3.「道徳性の理解と評価」について

 第2節の内容です。少し詳しく見てみましょう。

(1)評価の基本的態度
 まず、「道徳性」について、「人間としてよりよく生きようとする傾向性であり道徳的判断力,道徳的心情,道徳的実践意欲及び態度内面的資質である」と規定しています。これも従来と変わりません。そして、内面的資質であるからこそ道徳性が養われたか否かは、容易に判断できるものではないということです。道徳性は、人格の全体に関わるものであるからでしょうか。しかし、その後に、「道徳性を養うことを学習活動として行う道徳科の指導では,その学習状況を適切に把握し評価することが求められる」と続きます。すなわち、養われたか否かは容易に判断できるものではないが、学習状況を適切に把握し評価しなければならないのです。そのためには、授業改善が大切であると続きます。これは、当然のことです。
 問題は、「学習状況」の中身ではないでしょうか。どうしても、道徳性の諸様相と見てしまいます。現行小学校学習指導要領解説「道徳編」(平成20年6月)の第8章、第2節、2(1)評価の観点でも以下の記述が見られます。「道徳性は本来,児童の人格全体にかかわるものであり,いくつかの要素に分けられるものではない。しかし,その理解や評価に当たっては,指導の目標,ねらいや内容をその窓口とするが,それとともに,道徳的心情,道徳的判断力,道徳的実践意欲と態度及び道徳的習慣などの観点から分析することが多い。」
 このことは、かなり難しい! おそらく新採教員を含め現場レベルでこの見取りを真剣にやろうとすることは相当の労力と研究を必要とします。一部には、道徳性の発達段階説に即して子どもの成長の様子を見ようとし、また、それを評価に取り入れようとする向きもありますが、あくまでも指導のための評価であり、評価・評定のための評価ではありません。したがって、「児童の成長を見守り,努力を認めたり,励ましたりすることによって,児童が自らの成長を実感し,更に意欲的に取り組もうとするきっかけとなるような評価を目指すことが求められる」というところに落ち着いているのではないでしょうか。

(2)「道徳科に関する評価」について
 ここにおいて、このように指導要録等に評価しましょう、という視点が明示されています。

・数値による評価ではなく,記述式であること。
・他の児童との比較による相対評価ではなく,児童生徒がいかに成長したかを積極的に受け止め,励ます個人内評価として行うこと。
・他の児童生徒と比較して優劣を決めるような評価はなじまないことに留意する必要があること。
・個々の内容項目ごとではなく,大くくりなまとまりを踏まえた評価を行うこと。
発達障害等の児童についての配慮すべき観点等を学校や教員間で共有すること

 このことを踏まえ、まとめると、「(道徳科の時間における)児童の学習状況の把握」と「道徳性に係る成長の様子」を記述しましょうということだと私なりに考えています。したがって、これらのことが個々の子どもの状況によっても違ってきますし、あくまでも「個人内評価」であるので「それぞれみんな違う」ものであります。「評価文例集」等によって仕訳した分類を基にそれを子どもに当てはめて記述する教員が出ないことを祈るばかりです。
 次に、子どもの学習状況の把握の仕方です。前回の小学校学習指導要領解説「道徳編」(平成11年5月)から評価の方法について抜粋させていただきます。

(ア)授業中の児童の発言内容の変化を分析する。
(イ)授業の終末に配布するワークシートに「この時間に、新たに学んだこと、思ったこと(感じたこと)、考えたこと、これからしようと思っていること」などを記入し、児童自身が自らの内面で起こった変化のプロセスを振り返れるようにする。
(ウ)授業の事前と事後に質問紙法による自己評価方式のアンケートを行い変容を確かめる。
(エ)授業前後の児童の学校生活の様子を観察し比較する。
(オ)授業後の日記や道徳ノートで、授業の反応や学習が発展しているかなどを確かめる。

 最後に、子どもの学びの「何を」評価すればよいのでしょうか。赤堀博行氏(文部科学省初等中等教育局教育課程課教科調査官)も講演等資料で記されています。解答は、これも「解説」に載っています。周知のことですが、あえて掲載します。

①道徳的諸価値の理解
 ・価値理解  道徳的価値のよさ、素晴らしさ
 ・人間理解  道徳的価値の実現の難しさ
 ・他者理解  道徳的価値の多様さ
②自己を見つめる
③多面的、多角的に考える
④自己の生き方についての考えを深める

 このあたりのさらなる具体化は、学習指導要領解説「特別の教科 道徳編」を参照しながら各学校で規準が作られることを願っています。

 なお、(3)学習指導過程に関する評価の工夫、(4)評価の工夫と留意点については、今回は触れることができませんでした。またの機会に記してみようと思っています。

「道徳的実践力」における「態度」と「道徳的実践」における「態度」について

 今回は、今までも非常に紛らわしいと言われてきた言葉「(道徳的)態度」について少し考えてみたいと思います。態度を広辞苑で調べてみると、「状況に対応して自己の感情や意志を外形に表したもの」と記され、「具体的な行為、行動」のことを指しています。しかし、道徳の授業においては、そのようなとらえ方はしません。「内面的な資質」として考えています。本当に紛らわしいと私も思います。
 上記のことをお話しする前に、次期学習指導要領では使われなくなった「道徳的実践力」について、「道徳的実践」との比較で明らかにしておかなければなりません(次期学習指導要領では「道徳性」という言葉が使われるようになります)。そんなことは「自明だ!」とおっしゃる道徳に熱心な先生方からおしかりを受けるかもしれませんが、あえて記させていただきます。これも態度と同様、言葉の使い方として紛らわしいからです。

1.「道徳的実践力」と「道徳的実践」

 これらの言葉について、現行の学習指導要領解説「道徳編」から引用させていただきます。(P.30 下線部は大原)

(1)道徳的実践力

 道徳的実践とは,人間としてよりよく生きていく力であり,一人一人の児童が道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め,将来出会うであろう様々な場面,状況においても,道徳的価値を実現するための適切な行為を主体的に選択し,実践することができるような内面的資質を意味している。それは,主として,道徳的心情,道徳的判断力,道徳的実践意欲と態度を包括するものである。

★道徳科(道徳の時間)は、子どもたちの内面的な資質(道徳的心情,道徳的判断力,道徳的実践意欲と態度)を育てる時間であります。

(2)道徳的実践

 道徳的実践は,内面的な道徳的実践が基盤になければならない。道徳的実践が育つことによって,より確かな道徳的実践ができるのであり,そのような道徳的実践を繰り返すことによって,道徳的実践も強められるのである。道徳教育は, 道徳的実践と道徳的実践の指導が相互に響き合って,一人一人の道徳性を高めていくものでなければならない。

★道徳的実践とは、ある意味「目に見える具体的な行為、行動」といってよいでしょう。因みに、小学校学習指導要領解説「特別の教科 道徳」から、「道徳性」についての記述も引用しておきます。(P.19 下線部は大原)

 道徳性とは,人間としてよりよく生きようとする人格的特性であり,道徳教育は道徳性を構成する諸様相である道徳的判断力,道徳的心情,道徳的実践意欲と態度を養うことを求めている。

★新しい学習指導要領では、「道徳的判断力」と「道徳的心情」の順序が入れ替わりました。もっとも、現行の前の学習指導要領では、道徳的判断力が先にありました(もとに戻ったと言うべきでしょうか)。

 これらのことを図式化してみます。
 左図は、海面に浮かぶ氷山です。海面上の氷山、すなわち目に見える部分を「道徳的実践」と呼び、具体的な行為、行動を表しています。反対に、海面下、目に見えない部分を「道徳的実践力」と言い、いわゆる心の中、目に見えない「内面的資質」としています。
 道徳の時間、道徳科ではこの内面的資質である「道徳的実践力」を育成するのが目的です。したがって、「態度」と言ってもあくまでも内面的資質である「目に見えない」ところを育てるのです。よく道徳の時間で、本時の目標(ねらい)に「○○という態度を育成する」と書かれている指導案を見ます。協議会でも「態度形成をねらう」とか「態度化」ということが論点になることがありますが、今一度「道徳的態度」についてきちっととらえ直すことも大切ではないでしょうか。

2.道徳的実践力(「道徳性」)の諸様相

 以下、道徳的実践力についての解説を現行の学習指導要領解説「道徳編」から再び引用させていただきます。(P.26~27 下線部は大原)

(1)道徳的心情

 道徳的価値の大切さを感じ取り,善を行うことを喜び,悪を憎む感情のことである。人間としてのよりよい生き方や善を志向する感情であるともいえる。 それは,道徳的行為への動機として強く作用するものである。

(2)道徳的判断力

 それぞれの場面において善悪を判断する能力である。つまり,人間として生きるために道徳的価値が大切なことを理解し,様々な状況下において人間としてどのように対処することが望まれるかを判断する力である。的確な道徳的判断力をもつことによって,それぞれの場面において機に応じた道徳的行為が可能になる

(3)道徳的実践意欲と態度

 道徳的心情や道徳的判断力によって価値があるとされた行動をとろうとする傾向性を意味する。道徳的実践意欲は,道徳的心情や道徳的判断力を基盤とし道徳的価値を実現しようとする意志の働きであり、道徳的態度は,それらに裏付けられた具体的な道徳的行為への身構えということができる。

(4)道徳的習慣

 長い間繰り返して行われているうちに習慣として身に付けられた望ましい日常的行動の在り方であり,その最も基本となるものが基本的な生活習慣と呼ばれている。これがやがて,第二の天性とも言われるものとなる。道徳性の育成においては,道徳的習慣をはじめ道徳的行為の指導重要である。

★そうです! 「態度」と言っても、「具体的な道徳的行為への身構え」なのです。道徳の授業は、具体的な行為、行動の仕方を身に付ける時間ではないのです。グループエンカウンターやソーシャルスキルを取り入れた道徳の授業を拝見することがありますが、「ちょっと待てよ」ということになってしまいます。

3.「いじめをなくそう」の学習から

 さて、第5回の本稿で論じました「いじめをなくそう」の学習です。第一時「道徳」の学習課題が「いじめをなくすためにどう行動するか考えよう」となっています。中心発問では「同じ場面に居合わせたとき、どのように行動したいかを考え、話し合う」。そして、いわゆる展開後段(自分自身を見つめる段階)では「議論の後、いじめをなくすためにどのように行動するか、自分の考えを書くように伝える」と問いかけています。
 まさに、「行動化」オンパレードです。先ほどの図の「目に見える氷山(海面上)」の部分の学習活動が主としか思えないのは私だけでしょうか。「いじめを許さない」基本的な行動様式を身に付けさせるための授業としては可ですが(教科等がはっきりしませんが)、道徳の授業にはなり得ていないと言うのが私の率直な意見です。
 最後に、小学校学習指導要領解説「道徳編」から「道徳の時間の指導」の「指導の基本方針」から(1)道徳の時間の特質を理解するを引用します。(P.79 下線部は大原)

 道徳の時間は,児童一人一人が,一定の道徳的価値の含まれるねらいとのかかわりにおいて自己を見つめ,道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを発達の段階に即して深め,内面的資質としての道徳的実践力を主体的に身に付けていく時間である。このことを共通に理解して授業を工夫する。

「道徳科」における「補充(補ったり)、深化(深めたり)、統合(相互の関連を考えて発展させたり統合させたり)」について

 あと13カ月ほどで小学校では「特別の教科 道徳」が完全実施の運びとなります。4月からは教科書会社の見本本が出揃い、教科書採択が行われます。「いよいよ!」という感がします。このところ、道徳の研究発表会に行くと、どこの会場にも多くの人があふれています。それだけ現場の「道徳の教科化」への関心は高いものと実感します。とても喜ばしいことです。
 そして、どこに行っても聞こえるキーワードは、「『考え、議論する道徳』への質的転換」「物事を多面的・多角的に考える」「問題解決型の学習」「体験的な学習」「評価のありかた」等です。それらの文言を全面に押し出した書物等もよく売れていると聞いています。
 もちろんそれらの事項について明確にし、理解しておくことはとても大切なことです。しかし、道徳の時間の機能について再度おさらいしておくことも必要なことと思われます。そこで、今回は全教育活動を通して充実・徹底を図る道徳教育の「要(かなめ)となる道徳科」の役割である【補充、深化、統合】について私の考えを述べさせていただきます。前号の実践例で疑問を呈したところでもあります。

1.「補充、深化、統合」について

 このことについて、現行の小学校学習指導要領解説「道徳編」(平成20年8月)から主な部分をひろってみます。

(2)学校の教育活動全体で行う道徳教育を補充,深化,統合する
 (中略)すなわち,各教育活動において行われる道徳教育を,全体にわたって調和的に補充,深化,統合する時間である。
 (中略)道徳の時間は,このように学校の諸活動で考える機会を得られにくい道徳的価値などについて補充する役割がある。(中略)道徳の時間は,このように道徳的価値の意味やそれと自己とのかかわりについて一層考えを深化させる役割を担っている。更に,多様な道徳的体験をしていたとしても,それぞれがもつ道徳的価値の相互の関連や,自己とのかかわりにおいての全体的なつながりなどについて考えないままに過ごしてしまうことがある。道徳の時間は,それらを統合し,児童に新たな感じ方や考え方を生み出すというような役割もある。(P.29~30抜粋 下線部は大原)

 「各教育活動において行われる道徳教育を,全体にわたって調和的に補充,深化,統合する時間」と言うことから、それぞれの教育活動で(意図的、無意図的にかかわらず)行われている道徳教育を「要る(かなめる)」のが「道徳の時間=道徳科」であります。言うまでもありませんが、補充したり、深化したり、統合したりするのはあくまでも「道徳の時間(道徳科の授業)」において行うことです。
 同様に小学校学習指導要領解説「特別の教科 道徳編」(平成27年7月)からも引用してみます。「補充,深化,統合」という言葉は使われていませんが、考え方の基本は全く変わっていないことがお分かりになると思います。

 特に,各教科,外国語活動,総合的な学習の時間及び特別活動における道徳教育としては取り扱う機会が十分でない道徳的価値に関わる指導を補うことや,児童や学校の実態等を踏まえて指導をより一層深めること相互の関連を捉え直したり発展させたりすることに留意して指導することが求められる。
 道徳科は,このように道徳科以外における道徳教育と密接な関連を図りながら,計画的,発展的な指導によってこれを補ったり深めたり相互の関連を考えて発展させ,統合させたりすることで,道徳的諸価値についての理解を基に,自己を見つめ,物事を多面的・多角的に考え,自己の生き方についての考えを深める学習を通して,道徳性を養うことが目標として挙げられている。(P.15抜粋 下線部は大原)

 もう一度、それぞれについてまとめてみます。
(1)補充【補う】
 学校生活全般で行われる道徳指導の足りない点を補い、さらに徹底を図ろうとする働きです。
 道徳科において意図的・計画的に授業実践を行わなければ、指導内容(内容項目)に偏りが生じてしまいます。また、しつけやきまりに終始しがちな(どうしても目につきやすい)内容項目の指導が多くなり、これもまた偏りが出来てしまいます。これらを是正し、普段の生活ではあまり見られない、扱うことの少ない内容項目を意図的・計画的にきちんと学習させなければなりません。
 いわゆる「補充する(補う)」と言うことです。
(2)深化【深める】
 日常的な指導では徹底しにくい道徳的な見方、考え方を【一単位時間という授業枠を使って】一層深めたり、広げたりして指導の徹底を図ろうとする働きです。
「表面的なとらえ方」を「内面的なとらえ方」に、「固定的なとらえ方」を「幅広いとらえ方」に深めると言うことです。
(3)統合【相互の関連を考えて発展させたり統合させたり】

 随所随所で行われている指導だけでは、子どもにとってまとまりのないものとなり、十分な効果を上げることが出来ないので、(道徳科の授業において)それをまとめ、筋道をつけて指導の徹底を図ろうとする働きです。
 例えば、「礼儀」の指導1つとってみても、子どもに対して校内外で様々礼儀に関わる指導や働きかけが行われています。子どもにとってみればその時々については認識し理解しているにしても、それらを一つのまとまりとして受け止めているわけではありません。したがって、道徳科の授業で礼儀についてしっかりと学習することでいくつか受けた指導や働きかけは「礼儀ということで1つにまとめられるな」と関連、統合して主体的に自覚させることが必要なのです。

2.やってはいけない「補充、深化、統合」について

 このことについて、現行の小学校学習指導要領解説「道徳編」(平成20年8月)から主な部分をひろってみます。

図1

図2

※上図における  は、全教育活動における道徳教育。

 【図1】は、健全な「補充、深化、統合」の姿です。「補充、深化、統合」という役割が「道徳の時間(道徳科)」に向けられているからです。すなわち、全教育活動において行われる道徳教育が「道徳の時間(道徳科)」において「要られる」ような図式になっています。生活科や特別活動、その他の教育活動において学んだ道徳的な価値を「道徳の時間(道徳科)」において「補充、深化、統合」するようになっているのです。
 しかし、【図2】は違います。やってはいけない「補充、深化、統合」なのですが、意外と現場では行われているようです(やってはいけないと言うよりも、もともとこれを「補充、深化、統合」とは言いません)。
 たとえば、特別活動の宿泊行事をとって考えます。みんなで力を合わせてよりよい移動教室にしようと教師が念じ、(事前に)「集団生活の充実」という内容項目で道徳科の授業をやっておこう、また、自然に親しむために「自然愛護」も必要だ、そして、それぞれの仕事も一生懸命やらせたい、そうだ「勤労」もやっておかなければならない。このように考え、意図的・計画的に移動教室の事前指導として道徳科の時間を使って強化することは避けなければなりません。
 ひどい場合、「○○移動教室」と言った単元構成に、特別活動や他教科といっしょに道徳科も組み込まれてしまった事例を見たこともあります。前号の「いじめをなくそう」という単元構成に道徳科がくみこまれていることは私にしてみればNGです。いじめをなくす「行為を身に付けさせる」ために、「相互理解・寛容」の道徳科の授業をやるわけではないのですから。魅力ある道徳科の授業を毎週丹念に行い、子供たちの道徳性を高め、その結果いじめへの抑止力が育つならばよいと考えます。

道徳授業、こんなのも、あり?!

 先回の第4号において、特質を押さえた道徳の授業について少し述べました。小学校では、道徳科の完全実施まであと1年ほどとなりました。このところ色々なところでいわゆる「新しい道徳科の授業」に関する実践を散見します。表題にも挙げましたが、「こんな道徳授業があっていいの?」と思われるほど、さまざまな実践事例が報告されているのも状態です。
 そうした状況の中で、少しばかり道徳教育の研究に携わってきた者として、危惧観と危機感を感じざるを得ません。「教科化なんでもあり」の機運の中で、「もう手遅れ…」になってしまわないように、問題点を洗い出しそれを考えておこうと思います。
 事例を挙げてお話いたします。

1.「小学校第4学年 道徳・特別活動」の実践事例(注1)

 本事例は、道徳と特別活動(おそらく、学級活動)という2領域を合体させた単元構成です。
(1)単元名 「いじめをなくそう」
(2)単元を通して身に付ける力

いじめをなくすために行動しようとする態度

(3)指導計画(4時間扱い)

①第1時
【本時】

ア.「道徳」 相互理解・寛容
イ.<いじめのない楽しいクラスにしよう>
ウ.自分の周りでいじめが起こったとき、どのように行動するかを考える。

②第2時

ア.「道徳」 個性の伸長
イ.<その人らしさをさがそう>
ウ.いじめを生まないためには、互いの「その人らしさ」を受け入れ、認め合うことが大切であることに気付く。

③第3時

ア.「特別活動」
イ.<コミュニケーション力を高めよう>
ウ.言葉で伝えることに加え、相手の動きや表情をよく見て、相手が話したいことを知ることの大切さを学ぶ。

④第4時

ア.「特別活動」
イ.<気持ちのコントロールをしよう>
ウ.いらいらするなど「嫌な気持ち」になったときの心の変化について知るとともに、具体的な対処方法を学ぶ。

(4)本時の指導(道徳)
①【本時で身に付ける力】自分の周りでいじめが起こった時の対応を考えることができる。
②学習指導過程

ア.導入

○課題を把握する。

いじめをなくすためにどう行動するか考えよう

イ.展開

◎教材を視聴し、話し合う。
教材(いじめを傍観してしまった14人の子供たちが、何もできなかったことについて、一人ずつ言い訳をしていく内容。)
○周囲で見ている子の気持ちを考える。
★登場人物のいじめを傍観している15人目になったつもりで考える。
○いじめられている子の気持ちを考える。
★傍観者の心情を十分に考えた上で被害者の視点に転換することで、いじめられている子の心の痛みへの気付きを促す。

◎自分自身がどうするか話し合う。
○同じ場面に居合わせたとき、どのように行動したいかを考え、話し合う。
★2~3人のグループで考えを共有し、それぞれの発表を基にして議論につなげる。
○学習を振り返り、考えをまとめる。
★議論の後、いじめをなくすためにどのように行動するか、自分の考えを書くように伝える。

ウ.まとめ

○絵本の読み聞かせを聴く。
★自分や友達、それぞれのよさを認め、受け入れることの大切さを印象付け、第2時につなげる。

2.この事例から感じたこと、思ったこと

 本事例は、何があっても「いじめは許さない!そして、させない!」という強い決意と信念を感じる実践であることに、まずは敬意を払います。いじめることは、「弱いものをいじめてはなりませぬ」と言う会津藩校の「日新館」の教え(什の掟)を引き合いに出すまでもなく、何があっても許されることではありません。「ならぬことは、ならぬ」のです。
 ただ、道徳の授業実践として見た場合いくつかの疑問を感じます。今回は私の素朴な疑問を記すに留めておきます。
(1)道徳の時間(道徳科)と他教科等とで単元構成をすること。それと同時に、道徳の時間の本来の役割である「補充、深化、統合」について。
(2)単元の目標「いじめをなくすために行動しようとする態度」における「態度」と道徳の時間で育てる道徳的実践力の「態度」との整合性。
(3)本時の主題である「イ.いじめのない楽しいクラスにしよう」は道徳の主題ではなく、特別活動「学級活動」の主題でではないだろうか。また、本時のねらいである 「ウ.自分の周りでいじめが起こったとき、どのように行動するかを考える。」が道徳の時間のねらいたり得るだろうか。道徳の時間では、あくまでも「内面的資質である道徳的実践力(道徳科では使わなくなるが)」であります。
(4)上記と重なるが、「どのように行動するか」すなわち、「行動の仕方を見出すこと」が道徳の時間となってよいのでしょうか。
(5)道徳の時間、いや、他の学習においても「いじめを傍観している15人目になったつもり」をやらせてよいものだろうか。あえていじめの傍観者に(むりやり)ならせることに疑問を感じるのは私だけでしょうか。
(6)「自分の周りでいじめが起こったとき、どのように行動するかを自分のこととして捉え、考えている」が評価規準となっている!道徳の時間において、具体的な行動の仕方を評価するのでしょうか。

3.次回、私の見解を述べます

 これをお読みになられた方はどのように感じられましたでしょうか。次回は、私が抱いた疑問を基にして、私の見解を述べさせていただきたいと思います。いよいよこの連載も終盤を迎えます。もう少しおつきあいをお願いいたします。

 

注1:実践事例については、「平成28年2月 東京都多摩地区教育推進委員会第21次計画報告書」より引用させていただきました。

道徳授業、今だからこそ、再び「原点」に戻りましょう!

 「学び!と道徳」第4号です。
 このところずっと話題にしていました「全国小学校道徳教育研究大会 愛媛大会」(全小道研全国大会)も無事終わりました。公開授業、研究発表、指導講話、記念公演のどれをとっても中身の濃い充実した内容でありました。愛媛県で道徳教育の振興に尽力されている先生方の叡智が結集された大会でした。
 「大会主催者の皆様、本当にお疲れさまでした。」

 いろいろな方のご挨拶の中で、「よくぞ言ってくれた」というものがありました。大会二日目の会場となった「松山市総合コミュニティセンター」のロビーでは図書販売のブースが設けられており、今話題の書籍が所狭しと並べてありました。それらの書籍群を指し、「今、道徳の教科化のうねりの中で様々な本が売られている。しかし、それらの中には、買っていいものと買わなくていいものとがある。中々見分けがつきにくいと思うので、先ずは『小学校学習指導要領解説 総則編』と『特別の教科 道徳編』を熟読玩味することだ」とおっしゃいました。まさにそうです。もっと言うならば「買わなければならないもの」と「買ってはならないもの」とがあるということです。特に、問題解決的やら体験的活動等の言葉がタイトルについているとつい手にしてしまいがちですが、「ちょっと待てよ」というものが結構あるような気がします。時流に流され本質を見誤ってしまう危険性があると言ってしまっては言い過ぎでしょうか。

1.教科になったら、そんなに変わるの?

 道徳の時間が「特別の教科 道徳」になったらそんなに変わるの?そんなに変えるの?という主張や授業事例が最近多くなったような気がします。私も何人かの仲間に聞いてみました。「最近何か変!という授業が結構あるんだよね」という声がささやかれます。また、「それ、道徳(の授業)?」といった道徳授業の特質をどこかに置き忘れてきたような授業にも出合うことがあります。特に、「『議論する道徳』への転換」が声高に言われ、あたかもそれが目的になってしまったような授業が見受けられるのは実に嘆かわしいことです。子どもたち一人一人の内面に根差した道徳性の育成がどこかに行ってしまい、騒々しく(あえてそういう表現をします)意見を主張し合うディベートのような授業がよい道徳の授業だと勘違いしているのです。
 道徳は、平成30年度から(中学は31年度)教科として生まれ変わるのだから、新しい方向性を追求していかなければならないということはわかります。しかし、だからと言って着ているもの全てを新調しなければならないのでしょうか。決してそんなことはありません。そして、「新しいもの、新しいもの」といって踊らされている傾向もありはしないでしょうか。今まで培ってきた歴史があるからこそ、これからの未来があるのです。脈々と築きあげられてきた道徳の授業実践があるからこそ、これからの展望を持つことが出来るのです。

2.道徳が「教科」になる背景を、今一度考えよう

 背景には、いじめ問題と道徳授業の完全履行が挙げられます。それだけ、全国の学校で道徳の時間がキチンと行われていなかったのです。残念ながら惨憺たるものだと思います、一部の熱心な学校を除いては。ですから、新しい試みを模索するよりも、先ずは特質を押さえた道徳の授業をちゃんとやりましょう!ということの方が先決問題だと私は考えます。
 特質を押さえた道徳授業の敷衍こそ今まさに求められることではないでしょうか。それが出来ないのに新しいことばかり先行し過ぎることは、まさに砂上の楼閣のごとく崩れ去ってしまいやしないかと心配してしまいます。基礎が出来ていないのですから。
 全国の先生方がちゃんとした普通の道徳の授業を確実に実施して下されば「それでいい」と私は考えます。先鋭的な試みは研究指定校等で鋭意研究を深められれば良いと思います。新しいことばかりをあたかも競争のごとく生み出していかなければならないと思っている先生方に私は言いたい。「早く目を覚ましてください」と。

3.「もし、自分だったら…」の発問は、愚問か

 最近この手の発問をする学習指導案をよく見かけます。結論から言うと、愚問です。特に、展開前段(いわゆる資料、教材にかかわる部分)で、「もし、あなたが『(およげない)りすさん』だったらどんな気持ちになりますか?」「もしあなたが『ロベーヌ』だったらどのように考えますか?」という類の発問をよく見かけます。
 なぜ愚問なのか。それは、言うまでもなく、道徳の時間の指導における発問はすべからく「もしあなたがりすさんだったら」「もしあなたがロベーヌだったら」を前提として聞いているわけですから。りす、あるいはロベーヌになり切っているということが当然であるのです。りすやロベーヌになり切って、りすやロベーヌに託して自分の思いや気持ちを発言しているのです。ですから、あえて「もし~~だったら」と聞くまでもないと言うのが私の意見です。
 そのために、資料提示、教材提示が大切になってくるのです。入念な提示によってクラスの子どもたちを「およげない りすさん」や「最後のおくり物」の世界に誘(いざな)うのです。「資料提示で道徳の授業の成否は決まる!」ということはこういうことなのです。「ここではりすさんになりきって考えましょう!」と声かけしている先生、もう一度自分の資料提示、教材提示を見直してみましょう。
 先日、大学の講義(道徳教育指導法「初等」)で「友のしょうぞう画」を扱いました。パワーポイント(P・P)による電子紙芝居にBGMをかぶせ朗読する手法で資料提示を行いました。以下、学生の声をいくつか紹介します。

●BGMの変わり目でなんとなく(物語の)次の展開の予想がつきます。また、大きなスライドを視聴していると物語の中に引き込まれました。主人公である和也になったようにずっと聴いていられ、様々な感情や思いが私の中に生まれました。

●今日の「友のしょうぞう画」という資料提示でP・PとBGMを使っていてすごく物語に引き込まれました。子どもを物語に引き込むことは、道徳の授業において最も大切なことだと改めて感じました。

●資料提示の仕方には色々な方法があることがわかりました。授業の内容に合わせて工夫したいと思います。今回、先生が行ったのはP・PとBGM、朗読でした。聞いていると、ストーリーが視覚からも聴覚からも入ってきて心にすとんと落ちていきました。児童が自分のこととして教材を考えるようになるためには、語る際にいかに入り込みやすく環境をつくるかが大切だということを実感しました。最後に、BGMだけを流していたところで(余韻をつくる)自分の内面を見ることが出来たので音楽の効果はすごいなと思いました。

 教師になったらぜひこの体験を子どもたちにもさせてあげてほしいと願ってやみません。

アクティブ・ラーニング、それは「議論する」道徳授業!?

 「学び!と道徳」第3号をお送りいたします。
 先月号で紹介いたしました松山市での「全国小学校道徳教育研究大会」(全小道研全国大会)では、会場校の一つであります「松山市立潮見小学校」で「道徳の時間」における定番資料「手品師」を扱った授業が公開されます。
 有名な資料(教材)なので何度か授業を拝見する機会に恵まれますが、難しいので授業者もそれなりに苦労されているようです。私も何度か挑戦してきましたが、なかなか「うまくいった!」という感触を得るには至りません。授業をするたびに悩んでしまいます。
 先日もこの資料を扱った授業研究会にお邪魔しました。びっくりしたのは、資料を途中で切ってしまったことです。授業者は「分割(中には、分断という人もいる)」と言っていましたが、「まだこんなことやっているんだ!」というのが私の率直な感想でした。(「まだ」と言ったのは以前このような授業が盛んに行われていました。しかし、最近もこのような授業事例が再び見られるようになり、「またか!」というニュアンスかもしれません)

1.資料(教材)を途中で「切って」しまうこと

 先の「手品師」の授業では、手品師が「大劇場に出演しないか?」との友達の電話に迷ってしまう場面でいったん資料提示を終えてしまいます。そして、「もし、みなさんがこの手品師だったらどうしますか」と発問するのです。なぜそのようなことをするのか尋ねたところ、結論がわかっていないので話し合いが活発になり、道徳の授業が活性化するからだと言われました。確かに、「大劇場に出る」「男の子との約束を守る」と二手に分かれて子どもたちは盛んに話し合っていました。しかし、結論の一致点は当然見られません。
 議論が一段落したところ、なんと授業者は「この問題(状況)を解決するにはどうしたらよいでしょう。また、その理由を考えましょう」という中心発問を発しました。いわゆる、問題解決的授業の実践だそうです。「どうしたらよいでしょう?」と問われたものですから、子どもたちは具体的な解決方法を必死に考え始めます。「どのようにするか」といった方法論に陥った議論が始まります。男の子に連絡を取って謝る、後日その子を呼んで手品を披露する、その子を見つけ出して一緒に大劇場に連れていくなど様々な解決方法を発表していました。さんざん議論した後、教材の後半部分を提示します。
 「なあんだ、結局大劇場にはいかなかったんだ」「その方(大劇場に行かない)が道徳的だもんな」「本当は行きたかったんじゃない?」
という子どもたちの声が聞かれます。そして、先生は「それでは、たった一人の男の子の前で手品を演じている手品師に手紙を書きましょう」と展開後段の学習活動を促します。
 はっきり言って、これって道徳の授業?と思います。ねらいとする道徳的価値は「誠実」であったはずです。先生の授業運び自体が誠実ではありません。なぜならば、二手に分かれてさんざん子どもたちに議論させておいて、あらかじめ分かっている結論を後から提示するのですから。「正しいのはこれだよ」というように。相手にも自分にも「誠実でありたい」というこの授業のねらいはどうなってしまうのでしょう。
 一つ気になること。話の顛末を隠すことによって活発に話し合いをさせたいと教師は願っていますが、子どもたちは教室備え付けの道徳副読本を結構読んでいるものです。特に、お話し好きの子どもはしょっちゅう読んでいます。「この後こうなるよ」と話している声も聞きます。本当の意味で全員の子どもたちが初めて資料に出会うとは言い切れない現状もあるということです。
 さらにもう一つ気になること。「もし、みなさんがこの手品師だったら」の発問です。「もし~~だったら」という仮定において、子どもたちは本当に手品師の状況に立てるものでしょうか。私は立てないと考えます。立てないのに立ったことにして考えさせ、それを発表し、みんなで話し合わせることに疑問を感じます。自分の身に火の粉が降りかからないことを重々承知の上で危機的状況における身の処し方を問うていることと同じです。それよりもその場面における登場人物の気持ちについてじっくりと語り合うほうがよっぽど道徳の時間としての価値があると考えます。

2.編集の段階で資料(教材)が切られている!

 ある日、これも使用頻度の高い「ロレンゾの友達」という資料を調べていたときです。恥ずかしながら、私はこの資料で授業をやった経験がなかったのでよく知りませんでした。ある会社の副読本に掲載されているものを読んでみると、何となく尻切れトンボです。途中で話が切れています。「変だな」と思って他の会社の資料を調べてみると、なんとほぼ半分のところで切れています。後半が全く掲載されていないのです。「これで作者はよく了解したなあ!」と思います。改めて送られてきた学習指導案を見ました。一言で言うと国語科の「話し合い」の授業です。厳密に言ったら国語科としての授業でもないかもしれませんが。しかし、明らかに道徳の授業ではありません。「困ったな」と思っていろいろと実践事例を検索してみると、ほぼ同じような学習展開(道徳の授業になりえない)です。副読本の指導書を見ても同様です。そして、この資料が活用されている頻度が高いということ、道徳の授業になりえない学習展開が全国で展開されていることを知り、改めてびっくりしました。
 罪を犯したとされるロレンゾが故郷に帰ってくるにあたり三人の友達は再会を楽しみにする一方、どのように友に対応するか悩んでしまう。かしの木の下でそれぞれの主張は述べるが結論は出ない。結局その話は間違いだったということになり、旧知の四人はあらん限りの力で抱きしめ合い友情を確かめ合う。しかし、その帰り道、三人の友達はかしの木の下で話し合ったことは口にしなかった。
 前出の副読本では、三人の主張が述べられているところで終わってしまいます。そして、「みなさんは、どの登場人物の考えと同じですか? また、そのわけを考えましょう」と問います。「もし、みなさんだったらどの人の立場をとりますか?」と発問した授業も見たことがあります。そして、ネームカードなどを張りながらそれぞれの立場や考えを述べ合います。いわゆる、議論し合います。活発に議論します。授業者は満足気です。いい加減議論がなされたところで、「考えが変わった人はネームカードを張り替えましょう」と促し、張り替えた子どもにどうして変えたのかその理由を述べさせます。その理由を他の子どもたちと共有します。最後に「本当の友達とは、どのような友達を言うのだろう?」と問いかけワークシートにまとめさせます。やはり、国語科の「話し合い」の授業としか思えません。
 確かに、子どもたちは「友情・信頼」についてよく考え議論し合います。ワークシートにもよくまとめます。しかし、「自己の生き方についての考えを深める」授業になっていたかと問われるとなっていません。「批評、評論し、頭の中で概念を子どもなりにまとめた」という授業になってしまわないか不安です。私は、最後の「三人とも口にしなかった」が中心発問になると思いますが・・・・。

教材は心をこめて「語る!」ことが大切なのです

 「学び!と道徳」第2号を掲載させていただきます。
 ただ今この原稿は「松山市」で執筆しています。松山市は、今年度の「全国小学校道徳教育研究大会」(全小道研全国大会)開催地です。11月10日(木)に松山市立久枝小学校、潮見小学校で公開授業と学年別分科会、11日(金)に会場を移して課題別分科会、講演等が行われます。全小道研にかかわっていた者として多くの皆様のご参加を期待しております。(詳しくは、全国小学校道徳教育研究会のホームページをご覧ください(※注1)。今年度より大会参加申し込みがインターネット申し込みとなりました。)
 実は、私、この2月に会場校となる潮見小学校で授業を3コマやらせていただきました。後の号で触れたいと思っています。

1.これからの道徳は、アクティブ・ラーニング…!?

 次期学習指導要領改訂の目玉は「アクティブ・ラーニング」です。当然道徳科においてもそれが強く求められます。他教科においては、自主的、主体的な学習ということで、今までも問題解決的学習、体験的学習ということでやってきたのでなんとなくイメージがつきやすいのですが、道徳科においては今一つ明確になりません。「考える、議論する」ということが盛んに言われていますが、今までも考えさせたり、議論させたりはしてきました。
 中教審のワーキンググループ部会報告によりますと、子どもたちの「主体的・対話的で深い学び」をアクティブ・ラーニングの視点にすると記されてあります。このことについて、教育課程企画特別部会では、

(1)習得した知識や考え方を活用した「見方、考え方」を働かせながら、問いを見出して解決したり、自己の考えを形成し表したり、思いを基に構想、創造したりすることに向かう「深い学び」が実現できているか。
(2)子ども同士の協働、教員や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ、自らの考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できているか。
(3)学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連づけながら、見通しを持って粘り強く取組み自らの学習活動を振り返って次につなげる「主体的な学び」が実現できているか。

 これらの学びを促す道徳の時間の創造は今までも取り組んできたことですが、より一層アクティブ・ラーニングの視点を生かそうということと捉えたいと思います。要は具体的な授業構想を上記3つの視点から問い直そう、そして、授業もこの3つの視点から評価しようということが大切となります。具体的な道徳授業について、この3視点から考察する機会も、今後もってみようと考えています。

2.道徳科におけるアクティブ・ラーニング、それは「教材提示」から始まる!

 私は、道徳科におけるアクティブ・ラーニングの根底に「教材提示の工夫」を据えたいと考えています。上記3つの視点を重視した授業づくりの前提となるアクティブ・ラーニングです。
 全小道研大先輩の荻原武雄先生はその著書「あたたかい道徳授業をつくる(※注2)」において「資料提示(道徳科においては、教材提示)に心を込める」とおっしゃっています。教材に深く浸れば浸るほど子どもたち一人一人がもつ豊かな思いが心の中で躍動し始めるのです。そして、子どもたちの側に立って考え、子どもたちも教師も心が躍るような教材提示の工夫に全力を傾けることが必要なのです。教材提示は道徳の授業の極めて重要なポイントであり、この成否が道徳の授業の成果の鍵であるとおっしゃっています。思いを基に構想、創造したりすることに向かう「深い学び」、自らの考えを広げ深める「対話的な学び」(教材との対話的な学びをも含む)や「主体的な学び」も教材提示によって大きく左右されるのではないでしょうか。
 そのためには、何度も言いますが、教材は心をこめて「語る」ことが大切なのです。

 私も最近各地の学校で飛び入り授業をさせていただく機会をもっています。初めて出合った子どもたちと道徳の授業をする緊張感は何ともいえないものがあります。もちろん子どもたちの実態やクラスの雰囲気など事前に情報は何も得ておりません。しかし、授業はそれなりの水準以上をクリアすることが出来ます。なぜでしょう…?
 それは、「教材提示」です。教材提示で子どもたちを教材の世界に誘うことが出来ればほぼ授業のねらいは達成できます。教材提示で子どもたちの心が躍っていれば、躍動していれば当然のことながら子どもたちはよく考え、議論の深まりが見られる授業となってくるのです。
 そして、私は言いたい。教材提示の工夫にはこれからの道徳の授業においてもっともっと創意・工夫を凝らしていただきたい。道徳の教材は提示後の話し合いのための単なるテキストではないのです。一つの「作品」と心得ていただきたい。読めばいいというものではなく、朗読の域にまで近づける努力を教師はするべきだと考えます。そんな道徳の時間を子どもたちは好きになり、待ち焦がれるものとなるでしょう。楽しく魅力ある道徳の時間であれば自然と子どもたちの(道徳の)学力=道徳性は身につき高まるはずです。
 道徳科におけるアクティブ・ラーニング、それは教材提示から始まる。誰も言わないので、私が一人声高に主張し続けたいと考えています。

3.忘れられない資料提示、「泣いた赤おに」

 もう7、8年前になります。若い2年目の先生が市の研究会・道徳部会で「泣いた赤おに」の研究授業をすることになりました。学年は2年生です。感動的な資料なので、感動的な資料提示が求められます。問題はどのようにすれば子どもたちに感動を呼び起こさせることが出来るか、です。山形県・高畠町の浜田広介記念館(※注3)で聴いた朗読はまさに圧巻でした。淡々とした語りから深い感動の世界に引き込まれました。それはまさにプロの技です。一般の教員には難しいです。その域に達するには何十年とかかります。
 その若い女性教員に助言しました。資料を暗記して子どもたちに語ろう、そして、少し身振り手振りを入れて一人芝居風にやってみよう、と。もちろんBGMも忘れないで。しかし、最後のクライマックスが難しい。青おにの手紙を読んで「戸に手をかけて顔を押し付けてしくしくと涙を流して泣く」場面です。彼女は「私、実際にこの情景を赤おにになったつもりで泣いてみます。」と提案してきました。やってみるとそれなりに様(さま)になっています。それから彼女の気合いの入れ方が変わってきました。授業づくりへの執念というか気迫が並々ならぬものへと変わってきました。
 当日の授業では子どもたちも最初のあたりでは担任の一人芝居に慣れないせいかくすくす笑う子もいましたが、終盤のクライマックスまでくると全員の子どもが「泣いた赤おに」の世界に完全に引き込まれてしまいました。提示が終わった後もその世界に浸り込み、結局その後の学習活動も資料の世界に入り込んだまま流れていきました。
 赤おにを通して自己を見つめ、自己の生き方についての考えを深める授業が進められました。もちろん、まだ2年目の先生なので不十分な点は多々ありましたが、総じてよい授業、感動的な授業でした。ある面、相当の経験者でも到達できない授業であった、というのが率直に感じたところでした。

 

※注1 全国小学校道徳教育研究会 http://zenshoudouken.com/
※注2 「小学校 あたたかい道徳授業をつくる」荻原武雄著(2007/9 明治図書出版)
※注3 「まほろば・童話の里 浜田広介記念館」 http://hirosuke-kinenkan.jp/
浜田広介は、山形県高鼻町出身の童話作家で「日本のアンデルセン」とも呼ばれています。日本の児童文学の先駆け的存在で、作家人生50余年の間に、約1000編もの童話や童謡を世に送り出しました。代表作品として「泣いた赤おに」「りゅうの目のなみだ」「よぶこどり」「むくどりの夢」などがあります。(ホームページより)