姓がない王 ― 天皇

姓が無い存在

 天皇はなんという姓・名字なのかと問われたことがありませんか。
 思うに明治天皇が睦仁(むつひと)、大正天皇が嘉仁(よしひと)、昭和天皇が裕仁(ひろひと)、現天皇が明仁(あきひと)、皇太子が徳仁(なるひと)と名乗るものの、姓はありません。日本の王たる天皇は、諸外国の王室が姓を持つのに対し、姓がないことをその特質としています。その存在は、姓が特定されないまま天皇という称号が根づいていくことで、世界で類をみない姓を持たない王としての現在があり、「万世一系」という王朝神話を潤色しつづけているといえましょう。

戸籍の編成と姓

 ヤマトの王権は、三世紀後半ごろから現在の日本列島を倭国(日本)として統合していく過程で、三輪氏、葛城氏、蘇我氏、出雲氏などと地名を名乗る家と、朝廷の軍事力を担う大伴氏、物部氏、神事・祭事を司る中臣氏のように職務分担を姓としたものからなり、それらの呼称が後の姓となる名称となっていきました。その名称は、670(天智9)年につくられた戸籍である庚午年籍で中央と地方の豪族の姓が定立されることで、確立していきます。
 戸籍は、律令で6年に一度の作成となり、古い戸籍を30年で廃棄しました。しかし庚午年籍だけは氏姓の根本台帳として永久保存されることになっています。この戸籍制度が整備されていくことで、天皇と奴婢を除き、民は姓をもつこととなりました。やがて奴婢身分がなくなり、天皇以外の人々は姓をもつことになったのです。

「倭五王」という名乗り

 5世紀、いまだ倭国の王権が世襲されていない時代に、中国王朝を後ろ盾に国内制覇をめざした倭の五王と呼ばれた讃・珍・済・興・武という倭国の王の存在が『晋書』『宋書』『南晋書』『梁書』などの史書に描かれています。その王は、『日本書紀』などの天皇系譜と対比し、「讃」が履中(りちゅう)天皇、「珍」が反正(はんぜい)天皇、「済」が允恭(いんぎょう)天皇、「興」が安康(あんこう)天皇、「武」が雄略(ゆうりゃく)天皇に比定されています。ただし、「讃」と「珍」については、「讃」を応神(おうじん)天皇、「珍」を仁徳(にんとく)天皇に、また「讃」が仁徳天皇で「珍」が反正天皇とみなす説などもあります。
 各王は、中国王朝に朝献し、「安東大将軍」(讃)、「安東将軍倭国王」(珍)、「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍」(済)、「安東将軍倭国王」(興)、「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」「鎮東大将軍」「征東大将軍」(武)などの称号を授与され、倭国による列島支配の確立をしていきます。
 この倭王の「倭」は、『宋書倭国伝』などの史書で「倭讃」とあることより、中国王朝が姓とみなしていたのではないでしょうか。ちなみに同時期に通交していた朝鮮半島の高句麗や百済、やや遅れた新羅などの朝鮮の王朝は高句麗が「高某」、百済が「余某」、新羅が「金某」を名乗り、「高」「余」「金」が各王室の姓となっていきます。なお「余」は百済王が扶余族出身であったことによりましょう。こうした君主の姓は、皇帝も姓を名乗る中国王朝と朝貢関係を確立していくうえで、王の名乗りに必要なものとみなされていたのです。それだけに中国王朝は日本の王の姓を「倭」と認識していたといえましょう。
 しかし倭国日本は、「倭王武」が「大王」として国内統治を確立していくなかで、中国王朝に臣下の礼を取る秩序から離脱し、独自の世界をめざそうとします。しかも478年に「征東大将軍」「倭王武」が朝貢したのを最後に、隋が中国を統一する581年までの一世紀余も中国王朝と交渉しなかったことで、中国風の漢字一文字の「倭」を姓とすることを求められなかったのではないでしょうか。

姓が無いということ

 600年に派遣された第1回の遣隋使は、『隋書』が「倭王で姓が阿毎(あめ)、字(あざな)が多利思比孤(たりしひこ)、号を阿輩?弥(おほきみ)というものが使者を派遣してきた」と記しています。ここで倭王が称した「あめたりしひこおほきみ」は、中国風にすれば、「おほきみあめたりしひこ」となるわけで、「おほきみ」が大王、「あめたりしひこ」が「天降られておかた」の意味で天孫降臨のイデオロギーが投影された倭王の称号にほかならず、倭国として姓名を名乗ったわけでありません。
 しかし隋帝国は、皇帝への儀礼として、姓名を名乗り臣属を求めてきたのだと受け止めました。思うに日本は、倭国として中国王朝との外交関係において、国王の姓を名乗ることがなかったのです。ここには、中華帝国の枠組みに対し、ある一定の距離感をとることで冊封関係が求める儀礼に無知を装った倭国日本の姿がうかがえます。
この営みこそは、結果として、姓を持たない日本の王室を生み出し、やがて無姓であることが世界に冠たる日本の天皇という存在を主張せしめることとなっていったのです。

宮中の大奥

美智子皇后が嫁いだ世界(Vol.26参照)

 天皇の御成婚50年、即位20年を記念する祝賀行事は、美智子妃誕生の晴れやかな往時を再現することで、先行き不安な時代の空気を払拭しようとの思いをうかがわせます。天皇と美智子皇后の営みには、即位にあたり日本国憲法を遵守していくことを誓い、戦争の惨禍に思いをはせる「四つの祈りの日」を大切にし、病者をはじめ被災者に癒しの言葉を親しくかける姿に、「天皇制」という呪縛と異なる開かれた君主制への眼が読み取れます。いわば平成の天皇家は、明治維新時の「行幸」論が説いた人民に敬慕される皇室への道を主体的に歩むことで、その存在を輝かせようとしているようです。ここにいたるまでは、平民として皇室に嫁ぎ、心身を病む労苦を一身に担うことで現在(いま)在る美智子皇后の働き大なるものがあったのではないでしょうか。
 そこで新婚時の美智子妃をさいなんだ宮中の奥と言われる世界、私的な日常空間の営みはどのような世界として形成されていたのかを垣間見るべく、明治天皇をとりまく日常生活の一旦を帝国弘道館編纂『明治聖徳録 完』(明治45年5月)で紹介することとします。

一日の営み

 天皇の起床は午前6時、起床前10分に宿直の舎人が寝殿の雨戸(約1寸角の狐個格子)を開き、女官(権典侍(ごんてんじ)、掌侍(しょうじ)、権掌侍)が火鉢に檜(ひのき)造りの櫓(やぐら)で被いをかけたもので暖めておいた御衣に着替え、厠に入ります。御手水は消毒し、幾度となく白羽二重にて濾した冷水。極寒でも湯を使うことはないという。皇后は湯を用いることもあったそうです。
 天皇は朝風呂を常とし、白羽二重で濾した後に沸かし湯としたものを更に幾度も濾し、塵一つ澱まぬようになったものを檜造りの桶に汲み取って湯殿近くに運び、御前係の女官(判任)が受取って湯殿の入口まで持行き、命婦(みょうふ)が受取って湯殿に入れます。命婦が湯加減をした後、権典侍、掌侍もしくは権掌侍がその旨を天皇に知らせ、入浴となります。背中を流すのは権掌侍か命婦で、入浴後は権典侍、掌侍あるいは権掌侍が捧持せる麻二枚重ねの「御湯上り」にて身体を拭かせ、着替えます。女官が黒塗りの湯桶より菊の紋章のある茶碗に湯を注いで捧げ、角盥(つのだらい)を御前に据え、これで口を漱ぎ、女官が捧げる直径2尺程の盥で顔を洗い、髪を権掌侍か命婦が整えた後に御座所に帰ります。なお、皇后は天皇より30分程早く寝殿を出るのを常となし、後の身の回りは天皇と同様ですが、夏季には毎朝入浴をされたそうです。入浴後の髪は命婦があたり、化粧がすめば洋装が一般的で、運動後に天皇のご機嫌伺いをします。
 7時に賢所参拝、8時前後に朝食、休息後の9時に侍医の検診を受けた後、大元帥服に着替え、10時表御座所に出御、国務を処理、正午に居間に戻りて昼食、その後再び表御座所で政務を総覧。午後7時30分か8時頃に皇后と共に夕食、その後談笑、この時人民より献納の書冊などを閲覧、10時30分より11時の間に寝所に入るそうです。

奥を担う女官 「お早番」「おゆるりさん」

学び!と歴史vol30_01 宮中大奥に奉仕する女官は、典侍、権典侍、掌侍、権掌侍、命婦、権命婦等の階級に分かれ、その中に御服掛、御膳部掛、御道具掛等の諸役があり、その下に仲居、雑仕(ざふし)等というような者がおり、それらの総数は百余名にのぼったそうです。その呼称は、典侍が「スケサン」、権典侍が「ゴンスケサン」、掌侍が「ナイシサン」、権掌侍が「ゴンナイシサン」と唱され、同じ官名の場合はその上に本姓か源氏名をつけ、大正天皇の生母柳原愛子を早蕨の「スケサン」、小池道子を柳の「ナイシサン」などと呼んでおります。
 この女官の称号は、新樹(高倉寿子)、花松(千種任子 第3皇女史滋宮、第4皇女増宮生母)というような二文字名が華族出身者、柳、樗(あふち 中山栄子)などの一文字が士族出身者で、出身の族籍によって分けられていたそうです。この称呼は、上級の女官同志のもので、その下の者は上官に対しは「旦那サン」をもってし、「旦那サン」より部屋子を呼ぶには「誰それの針命(しんめい)」と言うのが常でした。
 この「旦那サン」といわれる者は、毎日毎夜の交替でそれぞれの勤務に服し、午前8時に出仕して午後10時まで大奥に勤める「お早番」と、10時から翌朝の午前8時の「おゆるりさん」からなり、退出時には各御付の針命が時間を見計らって出迎えました。
針命は、毎朝5時に起床、「旦那サン」の目覚めるまでに部屋一切の掃除、化粧道具の配列等をなし、毎日少しの遺漏なきように整頓しておきます。旦那さんが起床し、縮緬もしくは羽二重等の座布団に座すのを待ち、先ず恭しく一礼し、それよりお化粧に1時間以上を費やし、漸く食膳に向かったとのことです。
 女官生活では、天皇に奉仕するものとして、何よりも心身の清浄が重視されていました。そのため針命の中では、「御清サン」「御次サン」と、腰より上と腰より下に手を触れることで区別されておりました。ちなみに足袋を持った手で袴の紐を触れば叱責され、直ちにこれを清めさせたといいます。そのため旦那さんの御服替は針命の苦心一方ならず、その御用を務めるには膝にて歩くのが習いであったそうです。袴の紐を締めるには、長い紐を5廻り6廻りもくるくると膝にて歩き廻ることの辛さは並大抵のことではなかったとかたられています。

大奥という呪縛

 宮中は、天皇の公務にかかわる表の世界ではなく、ここに垣間見た奥によって日々が営まれていました。そこには徳川大奥物語として描かれた世界が想起されましょう。いわば明治の復古革命は雲上人の世界を巷に開放しようとした宮中革命とはいえ、明治天皇を中心とする立憲君主制を裏で支えた世界は、表の介入しえない「奥」の世界、大奥という世間の窺い知れぬある種の「闇」の存在でした。
 戦後の宮中改革は、奥をいかに開き、国民の眼にさらすかということでしたが、長い因循の帳に風穴を開けるには時間が必要でした。民間出身の美智子妃にはこの帳がいかばかり重いものであったかは想像を絶するものだったことでしょう。その心労こそは新婚早々にして病み疲れた姿にうかがえます。こうした奥の場から「天皇制」と称される日本の君主制を問い質してみてはいかがでしょうか。


ルイス・フロイスが見た日本 2

前号(Vol.28)に続き、「ルイス・フロイスが見た日本」をお送りします。

男の相貌

ルイス・フロイス像

1)ヨーロッパ人は概して身長が高く体格が良い。日本人は概して身長も体格もわれわれに劣っている。

 日欧の差異は身長や容貌に見出せます。ローマを訪れた遣欧少年使節は、身長が中位よりもやや低く、これが日本人の「本性」で、長大になることはないと紹介されていました。こうした日本人の身体は、16世紀の宣教師のみならず、19世紀後半、明治維新後の1878(明治11)年に来日したイギリス人のイザベラ・バードが横浜上陸後の初印象として、街頭で出会った日本人を小柄で、醜くしなびており、がに股、猫背で、胸がくぼみ、貧相と認めているように、西洋人に対する肉体的劣等感を抱かせたものにほかなりません。ちなみに1900年の北清事変に出兵した日本兵は列国軍隊の中で最も小さな兵隊でした。日本人が西洋人なみの体格にいくらか近づくのは、1945年の敗戦後のことで、パンと肉の食文化が日常化してきた最近のことといえましょう。

2)われわれの鼻は高く、あるものは鷲鼻である。彼らのは低く、鼻孔は小さい。

 西洋では、ギリシャ彫刻にみられるように、鼻梁の線が直線の直鼻(ギリシャ鼻)、ローマ鼻といわれる釣鼻、段鼻、ユダヤ鼻といわれる鷲鼻などが一般的です。それに対し日本人の鼻は、団子鼻で、鼻孔も小さいものです。フロイスは、このことについて「われわれは拇指または食指で鼻孔を綺麗にする。彼らは鼻孔が小さいために小指を用いておこなう」とも紹介しています。

3)われわれの間では顔に刀傷があることは醜いこととされている。日本人はそのことを誇りとし、よく治療しないので一層醜くなる。

 顔面の刀傷は、戦場で勇敢に戦った証とみなされ、「向疵(むこうきず)」といわれ名誉とされてきました。背後から切りつけられた疵は、相手に背をむけて逃げた行為を表すもので、「後疵(うしろきず)」といわれ、卑怯の証、恥辱とみなされたのです。ここには、武士の習い、人殺しを生業とする「サムライ」文化が直裁に表明されています。
この「サムライ」文化は、向疵に「男」の代紋を読み取るやくざの世界、暴力団が受け継いでいるのではないでしょうか。その意味では「サムライ日本」なる呼称にある晴れがましさを感じ、日本人たることを誇るのはいかがなものでしょうか。

女の相貌

4)ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは、貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる。

5)ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格におこなわれる。日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける。

 処女の純潔や貞操の観念は、キリスト教の信仰によってもたれされたもので、宣教師が説き聞かせ、風俗矯正に力を尽くし、キリシタン信徒に純潔や貞操の観念が根付いていったのです。この観念は、キリスト教文明を至上の価値とした欧化としての近代の論理を受け入れることで、近代日本の建前とみなされていきます。しかし日本の男女間には、「色好み」の文化という古層が地下水としてあり、4)5)のような世界を肯定する気分が未だ強く息づいているのではないでしょうか。

心の在り方

6)われわれは唯一のデウス、唯一の信仰、唯一の洗礼、唯一のカトリック教会を唱導する。日本には十三の宗派があり、そのほとんどすべてが礼拝と尊崇において一致していない。

7)われわれはどんなことにも増して、悪魔を憎んでいる。坊主らは悪魔を崇拝し、悪魔のために寺院を建て、多くの供物を捧げる。

8)われわれの聖像は美しく、敬虔の念を誘う。彼らのものは火中に焼かれる悪魔の形状をしていて、醜悪で恐怖の念を起こさせる。

9)われわれは唯一万能のデウスに対してすべて現世および来世の幸福を希う。日本人は神に現世の幸福を求め、仏にはただ救霊のことだけを希う。

 ここには日欧の精神文化の差異が端的に描き出されています。ロドリーゲスは『日本大文典』で法相、三論、倶舎、成実、律宗、華厳、天台、真言、禅宗、浄土宗、日蓮、時宗を仏(ホトケ)の十二宗派としていますが、フロイスは書簡などでも十三の宗派と記しています。最も哲学的な宗派にして、宗論における難敵とみなしていた禅宗を臨済と曹洞に分けたいたのではないでしょうか。
悪魔崇拝とみなしたのは、閻魔や天狗、風神や雷神を境内に祀り、密教の本尊とされた中央に不動、東西南北に降三世(ごうざんぜ)・軍荼利(ぐんだり)・大威徳・金剛夜叉の五大尊明王に護摩を焚き、魔の調伏を祈願する営みを指しています。その営みは、宣教師にとり、護摩壇で焚かれた護摩木の煙にいぶされた不動像や明王像の不気味さとともに、まさに悪魔崇拝そのものとみなされたことでしょう。不動明王は、魔を調伏するがゆえに右手に降魔の剣をもち、憤怒の相を帯びていたのですが。

 まさにキリシタンの宣教師は、日本人は神に現世を、仏に来世を祈るとフロイスが指摘しているように、日本人の心を解析し、伝道を模索していました。その成果こそは、日本人の心をとらえ、16世紀をして「キリシタンの時代」となさしめ、徳川禁教下に隠れ潜み信仰を堅持させることを可能にしたのではないでしょうか。ここで指摘された世界は、現在も広く見られる日本人が捉われている信仰の相貌であり、日本と日本人とは何かを問い質す原点となるものです。


ルイス・フロイスが見た日本

フロイスの軌跡

ルイス・フロイス像

 イエズス会宣教師ルイス・フロイス(1532-97年)は、ポルトガル人、16歳でイエズス会に入り、インドでゴアの聖パウロ学院に学び、フランシスコ・ザビエルから日本事情を聞き、日本伝道への志を抱き、1562(永禄5)年にパーデレとして日本に赴任して来た人物です。
 北九州で布教後、64年に京都に上り、京畿で働き、69年に織田信長に拝謁して厚遇を受けることとなります。78(天正6)年からは豊後の大友義鎮のもとで4年間を過ごし、81年には巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが信長と会見した際の通詞を務めた。86年には大坂城で豊臣秀吉の歓待を受けましたが、87年の「伴天連追放令」後は加津佐・長崎などに在住し、96(慶長元)年11月には長崎で「26聖人殉教」を目撃し、その年65歳で歿しました。

 フロイスは、イエズス会の宣教師として、文書記録を担っていたようで、日本宣教の詳細な報告書を認めたのみならず、『日本史』で同時代の政治経済情勢のみならず、日本の思想・宗教・文化・社会、生活風俗を具体的に描いています。

 1992(平成4)年に放映されたNHK大河ドラマ「信長 King of Zipangu」(Vol.024 2009年3月号)は、『日本史』を素材にフロイスの目を通して描いたものです。ここに紹介する『日欧文化比較』は、1585(天正13)年に加津佐でまとめられたもので、日欧の衣食住をはじめとする生活文化から信仰習俗の差異を比較対照して簡潔に認めたもので、日本理解の手引書にほかなりません。こうした日本への目は、ザビエルが日本布教を日本人に合わせる順応策となし、日本に派遣する宣教師に、日本語の習得と日本の生活や文化を学ぶことを課したことによります。

 日本に派遣された宣教師は、ここにまとめられた世界をマカオの神学校で学び、ついで日本に着任する中で身につけた知識をふまえ、日本の生活文化に寄り添いながら日本人の心を開く営みをなし、イエスが説いた福音-隣人への愛の実践-を戦乱の巷で生きる糧として問いかけました。この働きかけこそは16世紀を「キリシタンの世紀」となさしめたものにほかなりません。

 フロイスは、宣教の実践で直面した日欧の生活文化の落差を直裁に問い質し、「ヨーロッパの人々の習慣とこの日本の国の人々の習慣との間にある若干の対照と差異について述べた小冊子」と冒頭に記していますように、日本の日常的な生活風俗をきわめて具体的に描いています。そこには、日本人にとってみればきわめて日常的で当たり前のことだけに、はじめて気付かされる世界が読みとれます。それは、観念の比較文化でなく、日常卑近に見聞した世界にほかなりません。

 まさにフロイスの問いかけは、己と異質な他者に対する日本人の身構えであり、自己防衛の一形態でもある仕草を媒介に日欧の比較対照をなし、日本文化の深層構造を解析する素材となります。

男と女の表情をめぐり

  1. ヨーロッパ人は大きな目を美しいとしている。日本人はそれをおそろしいものと考え、涙の出る部分の閉じているのを美しいとしている。
  2. われわれの間では白い目を奇異に思うことはない。日本人はそれを奇怪に思い、彼らの間では希有のことである。
  3. ヨーロッパでは、顔の化粧品や美顔料がはっきりと見えるようでは、不手際とされている。日本の女性は白粉を重ねる程、一層優美だと思っている。

 日本では、男女ともに表情をあらわにすることを嗜みのない者として軽蔑されます。喜怒哀楽を押し殺し、いかなる状況でも泰然自若としているのが男とみなされてきました。心があらわに出るのは修養が足りない証にほかなりません。日本人の「無表情」は儒教が説き聞かせてきた修養の論理が心身に刻みこまれてきたが故です。そのため相手を知るには、「胸の内をさぐり」、「腹を読む」ことが求められたのです。「白眼視」「白い目で見る」という表現は、ヨーロッパにないもので、他者を貶める一つの作法です。目が合うことは、「眼(がん)をつけた」なる「言いがかり」があらわすように、人間関係で緊張が走る場面です。

 日本女性の化粧法は、白粉を厚くぬり、目と口を小さく描きます。それは、喜怒哀楽が表情に表れるのを無作法、「はしたない」行為とみなしたことによります。幕末日本に幽閉されたロシア人ゴロウニンは婦人の無表情な容貌を「死人」のようだと述べていますが、武家などの上流婦人の化粧法は「死化粧」といわれるものでした。それは、白粉を厚く塗り、口紅を挿した唇が笹色となったことによります。この「笹色紅」は、無表情な「死化粧」を演出し、武家婦人のたしなみとみなされていました。

 その一方、元禄頃からは、白粉など塗らないで、紅を挿すだけの町娘が登場します。こうした町娘の「素化粧」は、浮世絵に描かれましたが、「蓮っ葉女」とみなされたのです。いわば「死化粧」が物語る表情やしぐさ、化粧作法には、人欲の否定を是となし、修養を説く儒教的モラルに囚われた日本人の身体観が直裁に読みとれます。

「無表情の美学」の果てに

 ここにみられる「無表情の美学」は、明治の文明開化にはじまる日本の近代化がいかに急速に展開されようとも、日本国民の心を呪縛しておりました。戦死者の母や妻には、人前で涙を見せることが恥とされ、「健気」に耐え忍ぶことが「愛国の作法」として求められました。この心身を密封してきた日本文化の構造こそは、西洋人のみならず外国人が「顔のない日本人」と揶揄し、日本人の無表情が再々話題とされてきた根にある世界です。

 日本人の身体表現がこうした「無表情」の帳を脱却するのは、1945年の敗戦を経て、1960年代の高度経済成長がもたらした生活、消費文化の展開を待たねばなりません。

 かくて女性は、己の「個性」を化粧で表現し、「羞恥心」なる言葉を掃き捨て、他者の存在を顧みない「勝手気儘」な振る舞いを自己表現とみなすこととなったようです。

 昨今は、男も女も「無表情」を何よりも嫌悪するかのごとく、「あからさま」に己をさらけ出すのが「美学」と心得ている節があります。いわば心身の開放は、所かまわず化粧に励み、肌をさらし、男女を問わずアクセサリーを身に着けるなど、他者との差異性を主張するのが自己主張であると思いみなす文化を生み育てているのではないでしょうか。そこに展開する様相には、お互いが了解しあえる協同社会が崩壊し、他者を他者と意識せず、身に纏った鎧を脱ぎ捨て、勝手放題にふるまうことが許された小宇宙をして、世間一般の風潮となさしめたとの観すらうかがえます。

 ここにある落差を読み解くためには、ルイス・フロイスをはじめとする来日外国人の眼が日本と日本人をどのように見つめていたかを解析し、日本人の自画像を己の眼で確かめて見ることが問われているようです。

ヨーロッパ文化と日本文化

ヨーロッパ文化と日本文化
ルイス・フロイス 著
岡田章雄 訳注
1991年 岩波文庫 刊


時代像を提示する「歴史用語」とは何なのだろう

歴史に想像力をとりもどしたい

 歴史の授業は、歴史教科書に出てくる時代の、ある「出来事」に付けられた名称だけにすぎない「歴史用語」をひたすら暗記する教科とみなされ、自らの眼で世の出来事を読みとり、歴史的事実と位置づけ、歴史を描いていくという知的にして、創造的な営みであることが忘れられているのではないでしょうか。
そこで教科書がある時代を問うときに、自明として記してきた時代を象徴的に表明するとしている名称を検証し、ある「歴史用語」を成立せしめ、歴史像を固着させたのは何かを問い質し、歴史学に問われる想像力を取り戻したいものです。
ここでは、その作業のために、「江戸時代の三大改革」なるものがいかに問い語られてきたかを検討してみます。

「通史」に読む「江戸時代の三大改革」像

 日本史の教科書が自明のごとく記している徳川八代将軍吉宗による「享保の改革」、松平定信の「寛政の改革」、水野忠邦の「天保の改革」なる名称はいつから登場したのでしょうか。吉宗のみならず、定信も忠邦も自分が主導する治世を「改革」などと称していません。明治以後の代表的な「通史」もこのような名称でその時代を位置づけませんでした。

 明治期では、田口卯吉の『日本開化小史』(1877-82年刊)が本文中に「8代将軍吉宗中興」と記しているものの、寛政の改革、天保の改革に関する言及がありません。1890年刊行の重野安繹・久米邦武・星野恒の『稿本国史眼』には、吉宗の治世を本文中で総括する用語がなく、「寛政の改革」を小見出しで「松平定信ノ政治」となし、「天保の改革」を小見出しで「水野忠邦ノ改革」となし、本文中に「水越ノ改革」と記述しています。

 大正期では、吉田東伍『倒叙日本史』第5巻(1913年)が「八代の中興」其一.其二の章、「松平越中の新政」という小見出し、「革政無効」の章の小見出しで「水野越前」「水越失敗」として書いています。1916年刊行の池田晃淵『徳川時代史』下(改定増補大日本時代史)には、「革新の修正時代」の章の小見出しに「享保の修正政治」、節名に「吉宗の文武奨励」などがあり、「全盛時代」の章に「家斉の初政と松平定信」の節があり、さらに「閣老権威の失墜及び水野越前の改政」とされています。内田銀蔵の『近世の日本』(1918年)では、「徳川吉宗」「松平定信」「天保の改革」の章がそれぞれに立てています。「天保の改革」なる用語はここに初めて見ることができます。

 昭和期になると徳富蘇峰(猪一郎)が、『近世日本国民史』において、各巻を『吉宗時代』(1926年)、『松平定信時代』(1927年)、『天保改革篇』(1928年)として刊行しております。1932年刊行の高須芳次郎『江戸時代爛熟期』(国民の日本史第十一篇)には「吉宗の民政振興と財政整理」「吉宗時代の経済的発展」「寛政の内政更革と外交政策」「大塩騒動と天保改革」という章があり、栗田元次『江戸時代史』(1933年)では「文治政治の反動」なる章に「所謂享保の中興」という節、「幕政の停滞」の章に「寛政の改革」「天保の改革」という節がおかれています。国史研究会編『岩波講座日本歴史』には、中村考也が「江戸幕府政治(二)」(1933年)で「所謂享保時代の政治」「享保政治」「寛政の改革」を論じ、井野辺茂雄が「江戸幕府政治(三)」(1934年)で「名高い天保の改革」として把握しました。1903年以降の講述を増補修訂して1944年に刊行された三上参次『江戸時代』は、「八代将軍吉宗の治」なる章の一節に「天和の政治と吉宗の改革」があり、「寛政の改革」という章についで、「天保時代」の章の一節で「天保の改革」を論じています。

元号による「改革」の表示が意味すること

 時代を代表した「通史」は、江戸時代をかく時、現在の教科書で自明とされている「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」なる「三大改革」を論じるに、治世の担当者である八代将軍吉宗の政治であり、松平定信の新政、水野忠邦の改革とみなしていました。このような人名を冠した用法は、昭和になり、1930年代に元号で価値付けをして語る用法が定着したことをうかがわせます。このことは、一世一元制の下で、御一新といわれた明治の革命を「明治維新」となしたように、天皇の治世を証する元号で朝廷に対峙する幕府の統治を位置づける風潮が一般化したことにほかなりません。

 このような元号表示で江戸時代のみならず、時代を位置づけるようになったのは、1930年代という時代の空気、国体明徴の奔流に流され、「昭和維新」が声高に説かれる時代の閉塞感を打開する器として、天皇―皇室にある種の「開放」を託そうとの想いがあったからではないでしょうか。ここには、日本の歴史を天皇の存在と結びつけて描く作法に囚われ、歴史を読み解いてきた相貌があります。このような視点は、戦後の歴史学でも克服されることなく、いまだに強く息づいています。それだけに歴史を読み直すには、自明とされてきた「歴史用語」が時代の気分や空気を代弁したものであることに想いいたし、ある種の学問的粉飾で提示されている時代を価値づけた名称や用語を検証したいものです。

 「大化の改新」をはじめ「国風文化」「鎌倉新仏教」「建武の中興」等々の用語の登場はいつ頃なのでしょうか。どのような想いがその名称にこめられていたのかを、授業の前に一時立ち止まり、時代を読み直してみたら面白い世界が見えてくるのではないでしょうか。ちなみに「建武の中興」と「建武の新政」では、その問いかけに何が異なるのか、そこに込められたイデオロギーを問い質してみるのも一興ではないでしょうか。