悲愁-大和十津川郷から北海道の新十津川へ

明治22年の山津波

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 日本は、東北太平洋沿岸の津波に次いで、集中豪雨による奈良県十津川の孤立等々、自然の猛威にさらされています。自然の怒りは、日本のみならず世界各地にみられることで、自然を収奪し破壊することで文明を謳歌してきた人間の営みに対する裁きともいえましょう。
 このような災害や凶荒で生きる場を失った人々は、新たな生きる場をもとめ、新天地に移住し、厳しい自然と向き合うことで新しい世界を切り開いております。北海道の大地にはそのような移住者の手になる世界がみられます。北海道樺戸郡新十津川町は、十津川村を母村とし、今回の災害にいち早く村の職員を派遣し、救援活動にあたりました。
 新十津川は、明治22年8月18日未明から20日にかけての未曾有の風雨で山崩れ、山津波に襲われた大和十津川郷の人々が集団移住をして築いた町です。その様は、東京にいる郷土の出身者に救援を求めた次の一文にうかがえます。

雨最も甚だしく、加ふるに電閃雷吼山崩川漲人民或は埋没、或は流亡し老幼は屋上に在りつつ狂浪に捲去れて暗中頻に救援を呼ぶあり。(略)
二十日雨晴るるも河腹尤も肥満し或は後山避けて前山を圧倒し為めに河脈を変ずる処あり。十津川沿岸の聚落毫も旧観を存する所なきに至れり。

 その被害は、十津川郷六か村の戸数2403戸、人口1万2862人、田235町5反、畑596町2反であったが、死者168人、負傷者20人、全壊・流失家屋426戸、半壊家屋148戸、耕地の埋没流失226町8反にのぼり、水田の50パーセント、畑の20パーセントが流亡しました。山林の被害も甚大でした。ここに十津川郷の住民3000人が郷里で生活を再建することが困難な事態となったのです。

北海道移住-新十津川物語の世界

 十津川郷は、太平記が「鳥も通わぬ十津川の里」と記したように、高野山の麓、吉野の奥にある山岳重畳の僻地にあり、南北朝の争乱で護良親王を擁し、南朝後醍醐天皇のために戦った「南朝遺臣」の里たる自負をもって生きてきた村で、勅免地として租税が免除されており、京都での禁裏警備を任としていました。そのため十津川郷士は、明治維新においては尊皇攘夷をかかげ討幕の先駆けたらんと、天誅組に加担し、大和の五条代官所、高取城の攻撃などに参加しました。
 この尊皇愛国の念は、ロシアに対する北方防備の任たる「北門の鎖鑰」を担う者に相応しいとみなされ、永山武四郎北海道庁長官の勧めを受け、北海道に新十津川の創立をうながします。600戸、2489人(移住願は2691人)の移住民は、3回にわかれて郷里を出発し、明治22年10月末から11月初めにかけて順次小樽港に入港、滝川の屯田兵屋で越冬し、滝川で屯田兵に応募した95戸を残し、537戸2230人が23年6月に徳富川流域のトック原野に入地しました。7月には第2次移住者として40戸172人がソッチに入植します。ここにいたるまでの道程は、22年11月から翌23年7月までに96名が死亡しているように、「大和に移住民空知の肥だよ」と囚人が橇引き音頭で歌ったほどに悲酸をきわめたものでした。
 この悲惨な開拓の日々を支えたのは、22年10月18日の第1回移民出発の日に明治天皇が就産資金を下賜するとの特旨を知らされ、「南朝遺臣」につらなる「恩賜の村」たる思いでした。その思いは新しい村づくりにむけた移民誓約書に読みとることができます。

今般我々人民北海道へ移住するもの僅々六百戸に対し、政府より保護を受くるの金額実に十七万五千七百余円の巨額に上ほり、殊に我郷民北海道へ移住の事 聖聴に達するや特旨を以て就産資金若干円を下賜せらる、実に感泣に堪へさるなり、 聖恩の優渥なる政府保護の深厚なる我郷未た曾てあらさるなり、 聖恩斯の如く優渥政府の保護斯の如く深厚なる所以のもの抑も何等に依りて然るか、是固より地方官の具状と要路顕官諸賢の翼賛に依ると雖も又我祖先先輩の遺徳余光にあらずして何そや、即ち我十津川郷民は忠君愛国の情に富み勇敢忍耐の徳を備へ其名声夙に世評に籍々たるを以て証するに足る(略)
若し万一我移住民か因循姑息に流れ、保護の旨趣に違ふ事ありては上政府に対し下我々先祖先輩の遺徳に対し何の面目あつて世に立つへけんや

 入植五年目の明治27年には、移民自作の馬鈴薯を天皇に献上し、黒田清隆、松方正義、三条実美、山県有朋、西郷従道、谷干城らの政府要人にも贈り、移住における手厚い配慮への謝意を表します。「南朝遺臣」につらなる「忠君愛国」の念こそは、北の大地で生きる者の心を支え、新十津川を実現せしめたものにほかなりません。
 この新十津川誕生をめぐる記憶の根は、十津川町の開拓記念館に忠臣楠木正成の家紋である菊水の旗指物を展示し、菊水公園を造成しているなかもうかがえます。「故郷の残夢」なる詩は、十津川を旅立ってからの道程を詠ったもので、「夢な忘れそわらはべよ 家を富すも君の為め 家を富まして大君の 深きめぐみに報はなん 夢な忘れそわらはべよ 村を富すも君の為め 村を富して大君の 深き恵みに報はなん」とむすび、「恩賜の村」なる誉れに生きんとの思いを吐露しております。まさに困苦に生きねばならなかった移住者は、大君の恩愛にすがることで、己の生きている場を確認したのです。
 ここに生きた人びとの苦闘は、両親を失い、姉とも別れた9歳の少女津田フキの生涯に重ねて描いた川村たはし『新十津川物語』全10巻(偕成社 昭和53-63年)に読みとれます。この物語は、NHKの大河ドラマで放映され、町の新十津川物語記念館で追体験することができます。

災害を受けとめて

 北海道は、十津川のみならず、多くの被災地からの移住者によって開拓されてきました。上川郡愛別村には、明治28年に連年の水害と震災から逃れて岐阜団体55戸、明治24年の濃尾大震災の被災者からなる愛知団体が入植。41・2年には、山梨県下の水害罹災者400戸が倶知安村と弁辺村(現豊浦町)に入りました。まさに北の大地北海道は、日露戦争後の東北凶荒、大正12年の関東大震災、米軍の都市爆撃による被災者等々、災害と戦災で生活の場を破壊された者の逃れ場でした。国家は、暮らしの拠点を奪われた人びとを北の大地に送りこむことで、開拓の捨石としたのです。このような国家の施策は現在も続いております。
 まさに新十津川誕生の物語は、「恩賜」という光被で語られているものの、「空知の肥」と囃されたように、北の大地にたどり着いた流亡の民が眼にした世界と変わりがありませんでした。それだけに「恩賜」という幻影に酔わねばならなかったのです。

「新十津川町開拓記念館」紹介ページico_link
「新十津川物語記念館」紹介ページico_link
※共に北海道新十津川町ホームページ内

参考文献

  • 『移住九十周年の回想』(新十津川望郷会東京支部 昭和55年)
  • 『新十津川百年史』(新十津川町 平成3年)


大久保利通の東北開発構想

東北日本への目

国立国会図書館蔵

大久保利通<国立国会図書館蔵>

 大久保利通は、富国開明を目指す明治新政府のなかで、傑出した存在でした。大久保は、維新敗残の東北を「海内一家東西同視」という場から、東北振興策を提示し、東北日本の富を新国家の富とする構想の実現に取り組みます。その構想は、1970年代初頭に日本列島改造計画を提起した田中角栄の世界をこえるものでした。
 「鬼県令」として「悪名」のたかい三島通庸は、東北日本の富をいかに活用するかとの大久保の意向を受け、その東北開発構想を具体化すべく、山形から福島を通って栃木に入る東北縦断道路の開発をはかり、山形を起点に福島から那須につなげ、那須野原の開拓を推進しました。そのために三島は、山県・福島・栃木の三県令を兼務し、在地の利益を代弁する民権派を弾圧したがために、歴史に悪評をのこし、いまだにその国家構想が十分に評価されていません。その富国開明への目は、大久保の東北開発構想とともに、現在あらためて検証されるべきものといえましょう。

大久保利通の東北開発計画

 大久保は東北開発のために7大計画を提起しております。

  1. 北上川を改修して野蒜(宮城県)に築港すること。
  2. 新潟港の改修。
  3. 越後・上野間の道路開削(これが現在の清水トンネルを生む)。
  4. 大谷川運河を開削し、那珂湊(茨城県)に通ずること。
  5. 阿武隈川を改修して白河・福島を海につなげ、野蒜港との一体的運用をはかり、福島地方の振興を実現すること。
  6. 阿賀野川、特に新潟県下の阿賀野川を改修して新潟につなげ、会津地方の振興をはかること。
  7. 印旛沼より東京への通路を開くこと。

 この壮大な構想は、野蒜築港計画の挫折に象徴されますように、画餅に帰します。しかし敗残の汚名に泣く東北では、野蒜築港に故郷の明日をかけようとした宮城県登米地方の人々のように、地域振興への期待大なるものがありました。
 宮城県登米郡は、敗残の身を開港場箱館にさらし、ロシア領事館付き司祭ニコライと出会い、ハリストス正教の伝教師として再生した旧伊達藩士の宣教活動でロシアの国教であるハリストスの拠点となっていました。その一つ佐沼顕栄教会は、半田卯内が設立に力を尽し、町の有力者の大半が教会員となり、ハリストスの町を形成していきます。半田は、町を豊かにすべく、主だった人物によびかけて産業結社広通社を結成、東北の米をはじめとする物産を東京に移出すべく野蒜築港の予定地である海岸に倉庫を建て、登米からの富村富国を構想し、その実現に家産を投じたのです。しかし、明治十四年の松方デフレは、計画を水泡に帰し、佐沼町とその近隣の「有産階級の約三分の二は倒産の憂目を見るの悲惨」(『半田卯内翁小伝』)な境遇におとされました。夢破れた半田は、膨大な借財をかかえ、学校の先生として後半生を生きていきます。この挫折こそは、自力による地域振興への夢に怯え、いまだに国家プロジェクトへの過剰な期待をよせるトラウマかもしれません。

東北三大プロジェクト

 明治の東北には、青森県の三本木開拓、福島県の安積開拓、栃木県の那須野開拓の三大プロジェクトがありました。
 十和田湖の水を疏水とする三本木の開拓は、新渡戸稲造の祖父、新渡戸伝が中心になって行われました。新渡戸伝は南部藩の人で、六十歳のときに開拓に入り、近江商人などの力を借りながら七十九歳まで開墾に従事します。厳しい状況のなかで新渡戸家は貧窮し、そのため稲造は奨学金を得て官費で学べる札幌農学校に行きました。現十和田市には新渡戸記念館があり、傍らの新渡戸神社には稲造も祀られています。
 安積開拓は、旧米沢藩士で福島県典事中條政恒の指導で実現したものです。中条は、安積開拓に各地から集まった人びとの心をまとめるために開成山に遥拝所を設立し、神武天皇祭(4月3日)・天長節(11月3日)に入植者のみならず、近隣の村々の者をも参拝させ、「郡中人民協同一致」をはかろうとします。開成山大神宮の遥拝では「神武天皇祭と天長節のときには村人たちはみな、ここに集まれ。花を持って集まって、花を植えろ。そのときだけは、踏歌(歌を歌ったり踊ったり)し、何をしても自由だ。みな楽しめ」と説かれたのです。このような作法は、「国祖」たる神武天皇、「国帝」たる天皇を知らない「無知無識」な「東奥の民」に「国家」を国家たらしめている存在の何んたるかを教え、「国民」たる自覚をうながそうとした営みにほかなりません。
 この遥拝所が現在「東北のお伊勢様」と喧伝されている開成山大神宮となります。開成山大神宮は、「郡中人民」の社と位置づけられましたが、各地からの入植者はそれぞれの郷里の神様を持ってきています。たとえば鳥取からの入植者は鳥取の宇倍神社、高知の開墾者は八坂神社、棚倉藩の棚倉士族は三柱神社という具合です。それぞれの神様の頂点に開成山大神宮があり、国家神である伊勢神宮につながる精神世界を造形していくことで、東北の「貧民流民愚夫婦」を国家の民に編成していったのです。まさに遥拝所―開成山大神宮―伊勢神宮へとつらなる精神結集の場にほかなりません。
 この開拓地に生きた人びとの姿は、安積開拓の祖たる中條政恒の家で過ごした孫娘中条百合子(宮本百合子)が小説『貧しき人々の群』で描いています。そこには、少女時代の体験をとおし、安積開拓の相貌が読みとれます。
 那須野開拓の特色は、三島通庸の要請を受け、大山巌、松方正義、青木周蔵らの薩摩・長州出身の華族らの農場として開かれたことです。三島農場と別邸があり、開拓の相貌を画家高橋由一の描いた世界にうかがえます。ありし日の名残は、松方農場が現在のホウライ(株)の千本松牧場に、大山農場の大山家墓所、洋風建設の青木周蔵邸等々に現在も忍ぶことができます。

「三島ごばんの目」紹介ページico_link

参考文献

  • 大濱徹也『天皇と日本の近代』同成社 2010年
  • 大濱徹也「大地の祈り」(『年報 新人文学』第4号)北海学園大学大学院文学研究科 2007年


20世紀初頭の東北像

時の敗者東北

 『将来之東北』は、第1章「総論」で、まず戊辰の敗北で旧藩以来の諸産業が衰亡したと「明治維新と東北」で論じ、国家が東北を敵対者とみなす「国家と東北」の関係を問い、「東京と東北」で地方産業を取りこむ大阪に対して政治的消費都市にすぎない東京が東北の市場でない現状を告発し、「横浜と東北」で海外市場の活躍する横浜に東北の産物への保護奨励を期待し、さらに北海道、満洲・韓国から北米へと東北の活路を広げるべしと「北海道と東北」「満韓と東北」「北米と東北」で論じます。ここには、東北の産業を育成し、日本から世界へと飛翔していくことで、東北振興の活路を見いだしたいとの思いが読みとれます。しかし、その東北の現状は、戊辰敗残により、「衰退より滅亡」へと歩んでいると、第2章「現在の東北」で厳しく糾弾されます。

東北の現状

 東北は、「気候の寒冷」にもかかわらず、「農は主として暖国地方より輸入せる作物」にたより、中央山脈の分断で「地理の不統一」、地形による「陸上交通の不便」「東北人は海を視て地獄と為」すがために「海上交通の不便」であるがため、「自から蒔き自から刈り、自から織り自から衣る、是れ東北人の生活法」と、「自給自足」がもたらした「東北社会の単純」を説き、その社会を厳しく論難してやみません。
 産業経済の弱さは、「東北に産物あれども商品なし」「東北の商人は輸入商のみ」「東北は行商の蹂躙する所となれり」「東北には通商発達せず」「東北の事物は摸倣的なり」と、慨嘆されます。敗残の意識は、「家屋の構造は西南に倣へり」「衣服の制も西南に倣へり」「履物の制も西南に倣へり」「食物の制も亦西南に倣へり」「東北人は西南に学んで西南に抑制せらる」「神も仏も西南にあらざれば尊ばず」「名所古跡亦西南にあらざれば賞美せず」と、「西南」日本への劣等感が糾弾されています。その暮らしは、「東北人は火を濫用せり」と火事の多さの告発となり、「東北人は薪炭料の為めに半歳を費す」「東北の自然物は一も利用せられず」となし、「東北の貯蓄は消極的にして物品貯蓄なり」と。
 東北人の性格は、旅行で知見を広めることもない様を「東北人の旅行は徒労なり」とされ、己の小天地にこだわるので「東北人は内に争ふて外の争はず」、「勝者」の位置に立つことのない「東北の歴史は徹頭徹尾失敗の歴史」と位置づけ、敗者のために「東北人は内弁慶にして外味噌なり」で、その現実を直視しないがために「東北人自から其生活の困難なるを知らず」、自給自足的社会の下で「東北人は信用の重んずべきを知らず」、人格の観念乏しく「東北人は人格概して低し」とみなされています。かつ「東北の言語は交際語にあらず」となし、大地主の制圧で「東北にては富者貧者を利害を異にす」「東北人は共同の利益を知らず」、ために「東北人は公共の為めに尽せし人を表彰せず」、「屈辱の文字のみを日本史に留むるは、実に東北の一大恨事」とみなし、「東北には東北の歴史なし」との思いが「東北人心の振はざる」一因だと。
 東北振興に取り組んできた思いが強い半谷は、笛吹けど踊らぬ人心をして、この激しい東北と東北人への糾弾をすることで、東北覚醒をはかろうとしたのです。この言は、現在聞くと、東北差別とみなすものもありましょうが、「白川以北一山三文」とうそぶいた岩手県出身の総理、「平民宰相」原敬の心意にも通じるものでした。ちなみに原は、半谷の求めに応じ、「労働者はなまけ放題、資本家は濡手で粟主義,斯る実況で東北の社会が進歩し発達しやう筈はあるまい」、との厳しい「談話」をよせています。

明日の東北への思い

 ここに半谷は、このような東北の現状を打開すべく、「将来の東北」像を思い描きます。その第1は、「東北は東北の特性を発達せざるべからず」と、「天然の差異あるを知らず」に「南方に学び、南人に倣ひ、唯南方を摸倣」してきたが、今日求められるのは「東北は東北の特色は如何の点に存するかを研究してその特色を発揮する」「東北は東北自然の大法に則りて進歩発達する所以の道を講せざるべからず」と、「東北自身を研究調査し、其の天然の特色を発揮し特性を発揚」し、「国家富強の主要部分」となる方策を問います。その提言は、稲藁の活用、酒造米となりうる米質をさらに改良し、良酒のみならず、菓子となすなどの工業原料への道を講じ、養蚕の拡張、造林業、牧畜業、果樹栽培、鉱業などの振興を力説しております。その営みは、米作、牧畜、果樹などにみられるように、現在も東北の主要な産業となっています。
 かつ水力、雪、寒気の利用に言及し、東北の自然環境の活用に言及します。空気の乾燥と夏期の清涼は、衛生的にもすぐれており、温泉施設とあわせれば、最適のリゾート地になりうる。しかも山野海岸に自生する「野生植物」は、東北人の自給自足をささえてきたが、これを活用すれば新しい産業を可能とすると力説しております。
 ここに半谷は、「東北の衰頽を回挽界して新生面を開かんと欲せば須らく先ず東北の短所長所は何れの点にあるかを明らかし更に進んで其の本領如何を解釈する」、東北研究のための「東北会」の組織を提言します。この「東北会」は、「東北人自からの任ずべき」もので、東北出身の「思想家経験家等を網羅」したもので組織されねばなりません。この思いは、東北人の手で、東北振興をとの強き志を吐露したものです。
 しかし、このような「東北会」への思いは、1913(大正2)年7月の原敬日記をみれば、渋沢栄一・益田孝・岩崎久弥らの財界人による東北振興会へと変質していきます。東北振興会は、会員を実業家に限定し、産業振興と福利増進を目的となし、まず東京で計画を立て、それから地方の賛同をえるというものでした。それは、東北人による東北振興策を説いた半谷の主張とは異なるものですが、「後進地」東北の振興なくして、国力の充実はありえないとみなす東京の大ブルジョアジーの危機感の表明にほかなりません。
 19世紀初頭の東北論は、現在読みなおしたとき、何を問いかけているでしょうか。いまだ復旧すらままならず、復興への道程すらも提示できない状況下、半谷の厳しい東北論を見つめ直し、新生東北論を提起したいものです。そこでは、東北の声から明日の東北像を提起すべく、東北を場とする歴史の読みなおしが求められましょう。そのためには、国家の目ではなく、東北という大地から明日を思い描く精神の活力たりうるものを己の内なる世界に見い出せるか否かが問われているのではないでしょうか。

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『将来之東北』復刻版
半谷清寿 著
1977年 モノグラフ社 刊
(1906年9月7日 初刊)

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『講談日本通史』
大濱徹也 著
2005年 同成社 刊


『将来之東北』という世界

大震災の下で

 つくばの地で3月11日の地震に遭遇し、その後の始末で手首を骨折したため、連載を中断しました。その間、東北とは何か、東北―東日本から列島の歴史を読み直すといかなる世界が描けるかに想いをいたしました。そのような問いかけは『講談日本通史』(同成社 2005年)でこころみましたが、ここにあらためて東北日本とはどのようにみなされていたのかを問うことにします。

 東日本大震災から早くも3カ月、未だ瓦礫の処理も終わらず、多くの人びとが避難所生活を余儀なくされ、福島原発事故による放射能汚染は拡大の一途をたどり、故郷を追われて暮さねばならない人びとに明日の展望は開けていません。復興再生への歩みは、阪神淡路大震災と比べ遅々たるもので、未だ何も見えてきません。そこには、震災の規模に加え未曾有の原発事故という人災が重なることで、明日を読み取る想像力を欠落したまま、その場しのぎの対処療法しか想い着かない国家指導者の姿のみが眼につきます。このような惨たる情況を問い質すために、日露戦争後の東北を襲った「天保の大飢饉」に比定される「東北の惨状」をみつめ、「将来の東北」像を提示しようとした半谷清寿(はんがいせいじゅ)が明治39年に刊行し、41年に増補再訂された『将来之東北』(丸山舎書籍部)が提示した東北像を紹介します。

半谷清寿の東北

 半谷清寿は、1858(安政5)年に相馬藩士半谷常清の長男として相馬郡小高に生まれ、養蚕による地域振興に尽力、1900年に不毛の原野といわれた夜の森開拓に取り組み、理想の村づくりに努め、その記念として染井吉野の桜樹300本を植えました。現在の福島県双葉郡富岡町の“夜の森公園”と“桜並木”はここに誕生します。現在、富岡町は原発10キロ圏にある原発の町として、その地の住民は故郷を追われています。この惨状は住民の自力更生による村創りをめざした半谷の想いもしなかったことでしょう。

 半谷は、福島県会議員を経て1912年から衆議院議員となり、そこで養った人脈で「将来の東北」を構想し、その実現に努めました。『将来之東北』は、冒頭の「総論」で「明治維新と東北との関係」を次のように提示しています。

 近く四十年間我東北の歴史は、何ぞ其の惨絶悽絶なる。嗚呼、是れ天か人か。看よ、磐梯の噴裂、三陸の海嘯(かいしょう)、三県の凶飢、何ぞ其の悲惨なる。更に遡りて戊辰の役に於ける創痍亦何ぞ深痛なる。斯くの如くにして東北は不振より衰退に入り。衰退より滅亡に赴かんとしつゝありしものなり。去れば今日の東北は独り東北人の昏睡酣眠を許さゞるのみならず、奮然蹶起以てあらゆる艱苦と格闘して、自家の新運命を開き来らざるべからずの時に遭遇せるものなり。

 世人の東北を見る動もすれば以為らく東北は初めより不振の状態に在るものなりと。東北以外の人にして是等の感想を抱くは怪しむに足るなしと謂ども、東北人にして尚ほ之れと同一感想を抱き、東北の常に人後に落つるを甘んぜんとするものあり。惑へるも亦甚しと謂ふべきなり。今専ら産業に就いて言はんに、戊辰以前に於ける東北の産業は、之れを西南に比して優れりと謂ふ能はずとするも亦大に劣れるものにあらず。古来東北には各藩政の下に諸種の産業発達し、各其の部内の需用を充たせしのみならず、他方に輸出の道を開きたるもの亦少なきにあらざりき。然るに王政維新と共に藩政は撤去せられ、日本全国画一の治下に統一せらるゝに至り、其の名は即ち一視同仁なれど、其の実東北の西南に於ける一は敗者一は勝者にして、敗者は不利の地位に落ち、勝者は有利の地歩を占め、茲に優勝劣敗の実を現はし彼は興り是は衰ふるに至れり。

 戊辰の改革は独り東北のみならず西南も等しく百般の事物皆其破壊を受けたりしと謂ども、彼は優者の地位に立ちしを以て威力を挟さんで忽ち旧に倍する建造物を新設し得たりしが、東北は破壊の創痍容易に癒えずして新築造に與かる能はざるのみならず、敗敵を以て遇し犠牲に供せらるゝは之れありとするも、引て以て新企画に参与せしめらるゝが如きは曾つて之れあらざりしなり。斯くの如くにして東北は旧事物は破壊せられ、新舞台には立つ能はざりしを以て、各藩政の治下に漸く発達せし産業の如きも、又破壊の波動に由りて大頓挫を蒙らざるを得ざりき。

内村鑑三が東北に寄せる想い

 戊辰敗者たる東北という眼こそは、政治経済的に国家から放置され、後進地東北という観念を生み育て、東北人を「野蛮粗野」視したといえましょう。内村鑑三は、このような東北像に対し、半谷の求めに応じて「序」に「東北伝道―『将来之東北』へ寄贈せんために稿せる一篇―」を草し、「人は肉と霊とである、肉ばかりではない、亦霊である、霊ばかりではない、亦肉である、故に彼を完全に救はんと欲せば彼の霊肉両つながらを救はなければならない。」と問いかけ、東北人こそが日本人に精神の覚醒をうながす存在であり、その起爆力となりうるとの期待を表明しています。

 東北の特産物は意志でなければならない、霊魂でなければならない、即ち地より得る所が薄いから天より獲る所が厚くなければならない、爾うして是れ決して空想ではない、世界何れの国に於ても我が東北地方の如き地位と境遇とに置かれし国に取ては霊を以て肉に勝つより他に勝を制する途はないのである。(略)

 東北は真理の浄土となるにあらざれば関西併に西南地方に対立することはできない、若し薩州の産は其軍人であり、長州の産は其政治家であり、江州の産は其商人であるとすれば、東北の産は其正直なる高潔なる神の人であるべきである、若し東北の山野が其預言者を以て日本の天下を制すことが出来ないならば東北は実に永久西南人の奴隷として存せざるを得ない。

 かく説く内村の言説は、経済至上主義で奔ってきた現在日本を鋭く告発したものであり、東日本大震災に喘ぐ東北人に依って立つべき精神の在りかを提示しているのではないでしょうか。「真理の浄土」たれとの問いかけこそは現在まさに震災の闇に沈み泣く人びとに、明日の光をともすものといえましょう。次回はこの問いが語りかける世界を読み解くこととします。

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『講談日本通史』
大濱徹也 著
2005年 同成社 刊


鴨長明が見た地獄

元暦2年の地震

 3月11日の巨大地震、東日本大震災がもたらした世界、日々伝えられる震災地の相貌は、鴨長明が「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし」と語り出す『方丈記』の世界を想起させました。『方丈記』は長明が四十余りの春秋を送れる間に見聞した大火、台風、遷都、飢餓、地震の様相を深い諦観で認めたものです。澹澹(たんたん)と描かれた元暦2年(1185)7月9日の京都で起きた大地震は現在眼前にみる世界にほかなりません。

おびたゝしく大地震振(おほなゐふ)ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋(うづ)み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟(だうじゃたふめう)、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。かくおびたゝしく振る事は、しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしは絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若しは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種(宇宙の一切の物体を構成する元素とみなされている地、水、火、風)のなかに水火風は常に害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず。(方丈記・大地震より)

 この地震は平家物語が次のように記しています。

七月九日ノ午ノ剋計ニ大地震(ヲビタヽ)シク動イテ良久シ。怖シナンドモ愚也。(略)上ガル塵ハ煙ノ如シ。崩ル音ハ雷ニ似リ。天闇(クラ)クシテ日ノ光モ不見、老少共ニ魂ヲ消シ、鳥獣悉ク心ヲ迷ハス。遠国近国モ又如此。山崩テ河ヲ埋ミ、海傾テ浜ヲ浸ス。興(ヲキ)漕舟ハ浪漂ヒ、陸行駒ハ足の立所を迷ハス。

平家滅亡の下で

 この地震の年は、源義経が平家を屋島で破り(2月19日)、壇ノ浦で亡ぼし、安徳天皇が神剣とともに海に身を投じ(3月24日)、頼朝の覇権が確立する年です。この間の動きを年次でおってみます。

4月4日 義経、平氏討滅を奏す。11日 義経が発した壇ノ浦の戦状と平氏勦滅の報、鎌倉に達す。27日 頼朝、従二位。
5月7日 頼朝、義経に平宗盛以下の捕虜を率いて鎌倉に下らしむ。15日 頼朝、酒匂駅に着いた捕虜を北条時政に迎えさせ、義経の鎌倉入りを停める。24日 義経、腰越に止まり書(腰越状)を大江広元に致し頼朝の憤をとくことを請う。
6月9日 頼朝、再び義経に宗盛らを京師に、重衡を南都(奈良)に送らせる。21日 平宗盛を近江篠原に、23日 重衡を南都に斬る。
7月9日 大地震、月をこえて止まず。家屋の倒壊、人畜の圧死夥し。
8月16日 義経、伊予守となる。
9月2日 頼朝、梶原景季を京師に遣わし、源行家・義経の行動を偵察させる。
10月6日 景季、鎌倉に帰り、行家・義経の反状を報告。11日 行家が頼朝に叛し、義経これに組みし、院宣を奉じて頼朝を討たんことを請う。17日 頼朝追討の宣旨を義経に下す。18日 頼朝追討の院宣を行家・義経に下す。この月、建礼門院大原寂光院に移徒す。
11月3日 行家・義経、西国に赴くが、6日 風浪に遭遇して党類離散。12日 義経の官職を削る。9日 後白河法皇、密使を頼朝に遣わす。11日 官、義経の名を義行と改める。12日 院宣を諸国に下し行家、義経の捜捕せしむ。22日 義経、大雪を侵して多武峰に逃れ、その愛人静は山僧に捕えられる。29日 守護地頭を諸国に置く。

 ここには、平氏討滅で名をあげた武将義経が政治的に敗北し、頼朝が東国に武家の政権を確立していく動乱の世が展開しています。壇ノ浦における平氏の末路には、劇作家木下順二が『子午線の祀り』で描いたように、天の非情さが読みとれます。「世の常ならず」と記された大地震は、悍(おぞま)しい天の営みですが、新時代の到来を告げる予兆でもありました。
 年表に読みとれる地震・津波・噴火・大風等々の自然の営みは、それがいかに悍しい惨たる世界を現出していようとも、人知をこえた問いかけに、天の非情な想いに、歴史の闇を読み取る作法を気づかせてくれるのではないでしょうか。この天の問いかけに応じたのが、己の心と向き合い新しい精神の地平を切り開いた法然をはじめとした人々です。
 東日本大震災をどのように受けとめるかは、これら先人の声に応じ、私の心をいかに問い質すかにかかわってくるのではないでしょうか。我想いを確かめるためにも、『方丈記』の世界を足場に、非情なる天の営みを歴史に問うてみませんか。

時代を突破する精神の活力

 想うにこの大震災がもたらした惨状に人身おののき、卒業式の自粛をはじめとし、「自粛の風」が世を蓋うています。日本の最高学府を自他ともに任じている東京大学は学部学生の代表者のみによる「簡素な卒業式」であった由。無定見そのものです。この状況であるからこそ、可能なかぎり卒業式を営み、学の長たるもの、最高学府の長たる日本を代表する「知者」として、日本を揺るがす危機にいかに対峙するか、明日を切り拓くための哲学を問いかけ、いかに生きるかを説かねばならないのではないでしょうか。知の荒廃ここに極まれりとの感がします。
 かって日本敗戦の翌昭和21年(1946)2月11日の紀元節に東京帝国大学総長南原繁は「新日本の創造」を問いかけ、敗戦下の学生を鼓舞し、明日を生きる精神の糧を提示しました。
 遠き日に『方丈記』が描き出した世には時代を突破する精神の覚醒をうながす人々の働きがみられました。まさに現在求められるのはこのような精神の活力ではないでしょうか。まさに非情なる天の想いに向き合い、己の場を確かめたいものです。


「北方領土」といわれる世界 3

承前

金刀比羅神社(撮影:Toto-tarou)

金刀比羅神社(撮影:Toto-tarou)

 北海道庁は、総力戦体制下の昭和10年代に国家の意向をうけ、「海陸無限に包蔵せる資源を開発すべき処女地」千島列島の調査をします。そこでは、開拓精神を発揮させるうえで信心信仰がもたらす精神的活力が注目され、島々に祀られている神社や寺院教会の所在調査が実施されました。なかでも神社は、厳しい自然に対峙し、困苦にみちた日々を生きる開拓移住者にとり、開発に耐えさせる精神的な糧として、かつ住民の協同性を支える器になりうるものとみなされました。北海道神社庁は、昭和14年の調査報告等をふまえ、このような神社の所在と現況調査をサハリン州立郷土博物館との共同研究として実施し、『北方領土の神社-千島・北方領土社寺教会日露共同調査報告書-』を平成17年に刊行しております。この報告書が問い語る北方の島々に生きた人びとの精神の営みは、北海道開拓にみられたものであり、遠く日本列島における神社創成の物語に連なるものです。

島々の営み

 千島列島はアイヌの人びとが居住し、ラッコ猟などによる毛皮はロシアや日本との交易品として重宝されていました。18世紀後半の天明寛政期頃からは、アイヌを使役した場所請負の下で鮭鱒の〆粕生産が中心となります。この間、松前藩が直接扱った交易品である「軽物」といわれた毛皮や鷲羽のための猟もわずかながら営まれています。寛政11年(1799)に高田屋嘉兵衛が択捉航路を開き、北の島々が開拓されていきます。
 国後場所を経営した村山伝兵衛は国後島泊に弁財天を祀ったといわれています。高田屋嘉兵衛は、文化3年(1806)に金刀比羅神社を島々への拠点となる根室と択捉島振別と有萌に創祀した由。北の島々は、18世紀末から19世紀初頭にかけて「和人」といわれた日本人が進出して開拓していくなかで、漁場を中心に神社が誕生していきます。
 明治維新後は、歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島へと日本人の移住入植が展開していくなかで、先に述べたような行政組織が整えられ、官庁が整備されていきます。そこでの産業は、9割が漁業と水産加工業で、他には林産・農畜産・鉱産などが営まれていました。調査時の昭和14年の水産物漁獲高の81%は昆布を中心とした海藻類、魚類が9%、水産動物が7%、貝類が3%。
 各島の特色は、色丹島で捕鯨や海藻採取、国後島で農業と牧畜業が営まれ、森林資源がある国後島と択捉島では林業も行われていました。昭和期には、国後島で金銀・硫黄などの鉱物採掘も実施されています。
 北部中部千島は、明治初期にラッコやオットセイが乱獲された後、大型独航船による北洋漁業が盛んとなり、占守島などには水産加工工場が造られ、夏場の出稼ぎでにぎわいました。いわば北方の島々は、開拓定住するよりも、漁期における出稼ぎの場とみなされていたのです。それだけに千島開拓が叫ばれた昭和10年代の課題は移住者の心をまとめ困苦欠乏にたえる「不退転の精神」の育成にほかなりません。北海道庁社寺兵事課の中村貞吉は千島調査の「復命書」でこの思いを次のように吐露しています。

民心の融和統一を計る上に於て神社を中心とするは最も便宜なり又本島の如き未開僻陬の地にありて何等の慰安もなく困苦缺乏に耐へ開発事業に従事するには不退転の精神こそ宗教に依りて培はるべし(略)
開発は生産力の拡充にのみ重点を置くことは不可なり宜しく物心両方面より為さざるべからず。而して精神的開発を先きにする必要あるとし神社宗教を開発の先駆たらしむる

 中村は、千島開発を成功させる上で、神社や寺院説教所を公費で支える必要があるとみなしたものの、制度的に不可能であるから、住民が祀っている神社を活用して精神生活をうながしていくほかないと述べています。開拓移住者は、生活を支える祈りの場として、生業の守護神をはじめ郷土の産土祭祀をもちこんでいます。それらは国家の祭祀体系からみれば許されるものではありませでした。しかしこのような民の営みこそは日本列島の住民が守り伝えてきた祈りであり、精神の絆でした。このような祈りのシステムは、北海道開拓をささえ、北方の島々にも展開していました。それは日本人の原初的な信心の在り方にほかなりません。

祈りの場

 島々に所在する神社の祭神で一番多いのは金刀比羅大神で、水晶島(1)、勇留島(1)、志発島(3)、多楽島(1)、色丹島(6)、国後島(13)、択捉島(8)の33社です。金刀比羅大神は、香川県の金刀比羅宮に連なるもので、漁業繁栄・航海安全への思いが託されたものです。ついで稲荷大神が7社で、択捉島に4社、水晶島、志発島、国後島が各1社。国家神である天照大神も7社で国後島3社、択捉島2社、色丹島と中・北千島に各1社となっています。ここには、千島列島における行政の拠点ともいうべき国後島に国家神の社があるように役場所在地にみられるものの、多くの島々は金刀比羅や稲荷を祀っており、漁業移住者からなる島の様相がうかがえます。
なお、敗戦時の昭和20年現在における神社一社あたりの住民人口をみると、最少が秋勇留島の神社で人口88人、最大が国後島で7,364人に対して30社、1社あたりの住民数242人です。国後島は、昭和14年の調査時における神社が14社であることからみて、国策による開発にうながされた移住者が官社にみられる国家の祭祀体系にかかわりなく己の社、民社を創祀していることがうかがえます。このような様相こそは、北海道開拓における村の形成と神社の創建にもみられたことで、日本人の心の在り様をものがたるものです。
 なお、北方の島々の名称はアイヌ語を和語に置き換えており、これらの地にはアイヌの人びとの世界が展開していたのです。
 歯舞 ハボマイ 流氷が漂着する海域
 水晶島 大きな波かぶりの岩
 勇留島 ユリトウ 鵜の島 秋勇留島 勇留島を兄と見立てて弟の鵜の島
 志発島 シボツトウ 鮭が群生する所
 多楽島 タラクトウ 鱈を取る小島
 色丹 シコタン 大きい村落
 国後 クナシリ 草の地

 島々に「和人」である日本人が刻した歩みはきわめて短く、1930年代に千島開発調査をしたように北の島々に向ける国家の目は弱かったようです。ここに読みとれる世界から「北方領土」とは日本にとって何かを考えたいものです。


2011年から時空を旅すれば

大濱徹也

大濱徹也

 2011年は、2010年の政権交代が新しい時代の幕開けの予告とはなりませんでした。沖縄の基地撤去をめぐる日米関係の問い質しへの視点は失われ、北方領土をめぐる日露交渉もままならず、「平成の開国」なる言説が空虚に響いています。そんな中、日米、日露、日中関係だけではなく、国家が強く閉塞感にとらわれるなかでの幕開けのようです。
 そこで今回は、新年に際し2011年という年から、50年、100年、150年、200年と時代をさかのぼってどんな世界が展開しているかを読み取る作業をなし、歴史のミューズであるクレイオの相貌をかいま見ることで、歴史の闇や歴史が問いかける非情なる罠を、自分自身の眼で確認する旅をしてみませんか。

ロシアへの怯え―恐露病という世界 (200年、150年前)

 海に広く開かれていた日本は、中華帝国の枠組みに規定されるなかで己の位置をたしかめてきました。しかし18世紀以後の日本は、1873年に工藤平助が『赤蝦夷風説考』で描いたように、ロシア帝国がシベリアへ目をむけ、欧亜にまたがる大帝国への道を歩み始めるのと遭遇し、その力に怯え、恐露病といわれる病にとりつかれていきます。近代日本の外交はロシアとどのように距離をとるかで時に迷走していきます。まさに現在の政権はその迷路に佇んでいるかのようです。
 そこでまず200年前の世界から旅をして行くこととします。

 1811年5月26日千島諸島と満州沿岸測量の命を受けた海将ゴロヴニンは、ディアナ号で薪水・食糧補給のためラショアアイヌのオロキセの案内でクナシリ島トマリ沖に到来、6月4日にトマリ上陸、クナシリ会所で調役奈佐瀬左衛門と会見中に逃走、捕縛されます。7月2日ゴロヴニンら8人が南部藩士に護送されて箱館(現・函館市)に到着します。その後8月25日に福山へ到着します。
 ゴロヴニンは、1813年にロシアに戻ることができますが、幽閉中にロシア語を教え、その間の見聞を『日本幽囚記(にほんゆうしゅうき)』に認めています。そこでは、日本社会の様相や役人の気風などが紹介されており、表情のない婦人を死者の顔とも称しています。この言は、感情を現すことを未熟とみなす儒教の倫理がもたらした世界を、特に女性の厚化粧と口紅が「笹色紅」といわれるものであったことを端的に表現したものです。
 ちなみに1811年の箱館市中と付属村々6場所の戸口は、計2419軒・10622人。松前・江差と、同付属村々が計5263軒・19708人。東蝦夷地クナシリ・エトロフ共が12753人。西蝦夷地カラフト共が11014人、総計7682軒・54097人(「丙辰剰綴」「丙辰雑綴」)の由。
 1861年2月3日、ロシア艦ポサドニックが海軍根拠地設置を目的に対馬に来航し、停泊の許可を対馬藩に求めます(対馬事件)。6月3日、艦長ビリフレは芋崎付近の土地租借など12か条の要請書を対馬藩に提出しますが、藩はこれを拒絶します。7月9日、イギリス公使オールコックと英国東インドシナ艦隊司令長官ホープは、老中安藤信行と会談し、英国の力でロシア艦を退去させる旨を伝えます。同23日、ホープはイギリス艦2隻を率いて対馬に行き、ロシア艦に退去を要求します。同26日にロシア艦オプリニックが来航します。8月15日にはロシア艦ポサドニック、同25日にオプリニチックが対馬を去り、ひとまずことなきを得ました。この間、5月28日には、江戸東禪寺の英国公使館が水戸浪士の襲撃をうけています。
 北方の地では、3月に箱館奉行村垣範がロシア人の北蝦夷地南下で雑居のおそれがあるとして、国境画定が急がれると建議します。8月20日にロシア艦隊司令官リカチョフと領事ゴスケヴィッチは箱館奉行村垣範正と北蝦夷地国境画定を商議し、村垣はその急務を幕府に建言します。10月に幕府は、遣欧使節竹内保徳にカラフト国境を北緯50度として交渉するようにと訓令します。まさにロシアとの関係は、イギリスの軍事力に援護されながら、薄氷を踏むが如き歩みといえましょう。この対馬事件をはじめとする日露関係には、尖閣諸島への領有権を主張する中国への対応をめぐり、右往左往する現政府のうろたえぶりをどこか想起させる世界がうかがえるのではないでしょうか。
 なお、ロシア領事館付き司祭としてニコライが6月2日に来航します。ニコライは、後に戊辰内乱で敗残者となった東北諸藩士の心をとらえ、東北日本にロシアの国教であるハリストス正教を広げます。やがて東京のお茶ノ水に聖堂(ニコライ堂)を建て、全国に布教を展開します。

日本の内と外(100年、50年前)

 1911年2月21日日米新通商航海条約・付属議定書が調印され、念願であった関税自主権を確立します。7月13日、第3回日英同盟協約は米国を対象から除きます。ここには、日露戦争の勝利で世界の大国たる地位を手にした日本が、太平洋の覇権をめぐり、米国と対立していく兆しが読みとれます。
 韓国を併合して朝鮮とした天皇は、10月24日に朝鮮総督府へ教育勅語を下付し、教育を天皇の下におきました。総督府は、翌12年1月19日に謄本を管内学校に頒布する旨の訓令を出して日本の教育を徹底し、朝鮮人を良き臣民とする道に邁進していきます。
 中国では、1911年10月10日に清朝の打倒を目指す辛亥革命が始まりました。12月25日に上海に帰着した孫文が、29日に中華民国臨時大総統に選出されます。ここに中国は新しい歴史の渦に身を投じ、日本はその奔流に抗いながら流されていくこととなります。
 日本国内では、3月29日に初の労働立法である工場法が成立しましたが、資本家の抵抗で1916年9月1日まで施行されませんでした。大日本帝国は、国民に過酷な労働を強いることで、一等国の体面を取り繕いながらアジアの覇者たる道を歩み、アジアの怨嗟に曝されていきます。まさに100年前の1911年は、日露戦争の勝利を背に韓国を併合しました。そして、関税自主権を回復した日本は、名実ともに欧米的帝国として自立した道を走りだした年であっといえましょう。

 50年前の1961年は、所得倍増を掲げた池田内閣の下で、6月12日に農業生産の選択的拡大・生産性の向上・構造改革・流通合理化を掲げた農業基本法が制定されました。そして農村が資本の渦にまきこまれ、旧き農村が大きく変質していく道を歩み始めた年でもあります。こうして現在の農村は、再生への方策も提示されることなく、「平成の開国」なる国際化の波涛に翻弄され、漂流していくのです。
 2011年の年頭に立ち、時空の旅でみえてきた世界は、200年、150年、100年、50年前の世界を輪切りにした時、そこから想起できる世界が現在にみられることに気づかされませんか。
 まさに歴史をどう読み解くかは一人ひとりに問われているのです。


「北方領土」といわれる世界 2

 北海道庁は、昭和14年2月に千島調査実施案の作成と開発計画案を審議するために、道庁内に千島調査準備委員会を設置し、4月23日に紗那郡(しゃなぐん)紗那村に北海道庁千島調査所を設置、25日に千島開発委員会を発足させ、28日午前に第1回千島調査準備委員会を、午後に千島開発委員会で3カ年にわたる千島の総合的調査を承認しました。この調査報告書は、「千島調査資料 昭和14年度」としてまとめられています。この調査に従事した学務部社寺兵事課勤務の中村貞吉は、国後島・択捉島・色丹等の現況を次のように指摘し、人心結集が急務であると問いかけています。

 今や時局下諸般産業の資源開発と新天地開拓により生産拡充の要切なる秋に当り南千島は海陸無限に包蔵せる資源を開拓すべき処女地として取残されたるが為目下これが開発を計画されつつあり。而して開発は人によらざるべからず。即ち精神力発揮に最も密接なる神社宗教を盛んならしむるは本島開発の為に最も緊要なりと痛感す。

 住民が「困苦欠乏に耐へ」開発事業に従事するには不退転の精神を以て猛進せねばならず、この「不退転の精神」は宗教によって培養されると説きます。開発は物心両面よりなされてこそ、はじめて可能となることを力説してやみません。調査時の国後島と択捉島は次のような世界でした。

国後島の現況

学び!と歴史vol44_01 島の地勢は細長く、中心となるべき役場所在地は一方に偏しており、唯一の交通機関たる道路は悪く馬を主とし、海路には客船もない。そのためある地方では、死亡者の診断書を得るために屍体を運ばねばならず、数日を費して漸くこれを得る有様で、しかも僧侶がいないまま葬儀を営むこともあるように、何から何まで不完全不充分な暮らしであったそうです。
 そのために開発の為に第一にしなければならないことは、「交通の関係と村治の中心点を変更して村の支配をより敏速にしより完全になさしむるを急務と信ずるものなり、斯くして開発の目的達せられ生産力の拡充は行はるべし、開発は生産力の拡充にのみ重点を置くことは不可なり、宜しく物心両方面より為さざるべからず。」と、国後島の状況を報告しています。島の面積は97方里、人口8,184人。

択捉島の現況

 択捉島は、面積203方里余、国後島の97方里に比べて遥かに大きいが、戸数が812戸余で国後島の1,400余戸より少ない。海岸線が長く、人口が希薄で1方里当り僅かに4戸に過ぎない。しかも人家は海岸にのみ点在しており、まとまった集落を形成することが困難であるため、役場所在地の戸数も100戸内外である。海岸にはいたるところに鮭、鱒などの漁場があり、漁期中には多の漁夫が入るためにいずれも番屋があり、缶詰工場を有する大きな番屋がみられたそうです。
 1875年に戸長役場が置かれた蘂取村は、択捉島の東端で、日本の行政区画の最も東に位置し、択捉島で交通が最も不便で、恵まれない地形です。その地形は、拳のように西南より東北に突出し、西北にオホーツク海、東南に太平洋に臨み、東15浬を隔てて得撫島に対し、西南牛首の所で隣村の沙那村を境界とする面積48方里610。中央に山脈が走り、諸方に山岳があるが、傾斜の緩やかな西海岸に交通が開け、漁場が相接して展開して水産業が発達している。しかし東海岸は、巖壁屹立(がんぺききつりつ)して交通が不便で、波浪の高い太平洋岸のために産業が振るわなかったそうです。
 これらの漁場経営者は函館などに本拠を置く資本家であるため、利潤は他所に流出してしまう。そのため雇用関係は季節雇いで、漁期が終われば皆帰国する。農業は気候の関係で「殆んど絶望的」で、鉱業・植林事業の見込みがなく、放牧業も振るわないという。小学校は蘂取(しべとろ)市街にあるのみで、村医1人で、産婆もいないという極めて不便な地域です。
 紗那村は、択捉島の東西両海岸に跨る二級町村で、島のほぼ中央に位置しており、西南より東北は山岳で囲まれ、散布岳に接し、西北はオホーツク海に臨み、土地の起伏が多く、紗那川が村の中央を流れており、面積62方里2、東西14里南北13里で蘂取村より広い村落です。比較的に人口の多いい集落は、紗那市街652、内岡259、有萌83、別飛403、シヤマンベ52人で、総人口1,448人で1方里当り23,2人。この統計は海岸部の漁場人口を含めたもので、蘂取村と同様に漁業が中心の村ですが、島の統治の中心として官公衙が多い地域です。
 留別村は、択捉島の南部に位置し、東北より西南にわたり、長さ34里、幅が狭い所で4里、面積92,7方里で島の総面積の約2分の1弱を領し、北はオホーツク海、東は太平洋に面し、西は国後水道で国後島と相対しています。戸数450余戸、人口2,600人余。

色丹島の現況

 島の総面積は16,514平方里、25,700余町歩の内114,000町歩が国有林野となっていますが、林帯のない草原で、農耕適地5,000町歩も大部分が国有林野で、この外放牧適地が100町余あるものの、農畜林業等にはみるべきものもなく、水産業のみ盛んであったそうです。
 地勢は、山岳丘陵起伏多く、所々に小平野を形成し、沿岸は到る所厳しくそびえ立つ断崖が多く、海岸線が出入りしているため、船を入れるたる港湾が20あり、人家は海岸にのみ点在しており、総戸数177世帯、人口1,300人余。

 国後・択捉・色丹の島々は、総力戦体制下での資源開発をめざすなかで、眠れる富が注目されました。しかし島民のくらしは、その富が外部資本に奪われるだけで、島民の暮らしに還元されることなき内国植民地としての様相を呈しています。この地で生きた住民は、国策に翻弄されながら、漁業を足場に生活を切り拓き、過酷な状況下で己が暮らしを築いたことがうかがえます。それだけに島を追われた島民の想いは、遠く故郷の島を望見するにつけ、激しく望郷の念を募らせることでしょう。千島調査報告が問い語る世界と併走することで、島民の想いを考えてみたいものです。


「北方領土」といわれる世界 1

 ロシア大統領の国後島訪問で北方領土問題は、竹島や尖閣諸島をめぐる韓国や中国の紛糾とも相まって日本の国民感情を逆なでし、強権的な民族主義の昂揚をうながす趣きをもった論調で語られています。それだけに、こうした危機感に右往左往することなく、まずは立ち止まって、北方領土と言われる世界を自分の眼でとらえるための基礎作業が必要でないでしょうか。

松前とカラフト・千島の交易

 海禁政策(領民の海上利用を規制する政策)をとる徳川将軍家が統治する日本は、「鎖国」下で世界への窓口として長崎口(オランダ・清国)、対馬口(朝鮮)、薩摩‐琉球口(東南アジア)とエゾ松前口(蝦夷地・ロシア)という四つの窓をもっていました。松前藩や幕府は、18世紀半ばまで、カラフト・千島を交易船の派遣されないエゾの奥地とみなしていました。松前からの交易船は、1739(元文4)年頃の「蝦夷商賈聞書(えぞしょうこききがき)」によれば、北がソウヤ(現稚内市)、東がクナシリ(国後島)であり、カラフト・現北海道のオホーツク沿岸から千島列島へ及んでいません。カラフトは、南半分が主にカラフトアイヌ、北半分がウルタイや二ヴヒの居住地でした。
 千島列島は、北千島・中千島が主に千島アイヌ、南千島が北海道アイヌの居住域でした。ソウヤは、このような状況下で、現北海道のオホーツク沿岸のアイヌや「唐物」をもたらす「カラプトノ蝦夷」が参集し、クナシリにはそれより「奥」のアイヌが「荷物」を運んで来ました。
 いわばカラフト・千島のアイヌは、松前からの交易船の限界地において、和人との交易を行っていたわけです。千島アイヌは、ラッコなどの豊富な海獣資源を活かし、ラッコ皮などを生産し、カムチャツカ方面に南下してきたロシア商人や北海道アイヌと松前からの交易船によって日本との交易を営んでいました。その営みは、18世紀になると南下して来るロシアの影響が強まり、ロシア国教である東方教会に連なるハリストス正教を受容し、ヤサーク(毛皮税)を貢納するようになり、ロシアの統治下にくみこまれていきます。その一方では、道東の北海道アイヌとも通婚しており、ロシアと日本との重層的関係をもっていました。

幕府の対応

平成18~23年度用「中学生の社会科 地理 世界と日本の国土」より

平成18~23年度用「中学生の社会科 地理 世界と日本の国土」より

 クナシリは、安永年間から飛騨屋久兵衛が経営していましたが、アイヌを脅迫し強制的に使役して鮭・鱒の〆粕生産をしたために、1789(寛政元)年にアイヌが蜂起しました(クナシリ・メナシの戦い)。1792年にはロシア使節ラクスマンが漂流民大黒屋光太夫を伴い日本に通好を求めて根室に来航、1797年にはイギリス艦が蝦夷地に来航するなど、ロシアの南下をはじめ蝦夷地近海が騒がしくなります。ここに幕府は、同年に目付渡辺糺を蝦夷地巡視に派遣、1799年に近藤重蔵(じゅうぞう)をエトロフに派遣し、ロシアの南下に備えました。近藤は、ロシアに対処すべく、アイヌの和人化をはかります。かつ幕府は、1802(享和2)年に東蝦夷地を直轄領となし、エトロフのアイヌがウルップ(得撫島)以北に行くことを禁止し、北のアイヌがウルップ以南に来ることを禁止して、アイヌの千島交易ルートを遮断することで、ロシアの南下に対応していきます。こうして千島アイヌのアッケシ来航、クナシリアイヌのウルップ出稼ぎが不可能となり、千島アイヌはロシアとの交易のみで生活を営むこととなったのです。いわば日本は、エトロフ以南を支配し、北部・中部千島に眼を閉ざしたのです。

日本の行政区として

 1855(安政元)年の日露和親条約は、こうした状況をもとに、エトロフとウルップの間を日露の境界としました。ついで明治新政府は、1875(明治8)年の千島樺太交換条約により、全千島を領有します。そこで1884年に北千島のアイヌ97人を色丹島に移したため、シュムシュ島からウルップ島までがほとんど無人状態となりました。
 ここに国後島・択捉島は、1869年の国郡制で千島国となり、国後島は国後郡として開拓使の直轄としますが、1871年まで久保田藩の分領支配に置かれていました。択捉島には4郡がおかれ、択捉郡(彦根藩)・振別郡(ふれべつぐん・佐賀藩、のち仙台藩)・紗那郡(しゃなぐん・仙台藩)・蘂取郡(しべとろぐん・高知藩、のち仙台藩)のそれぞれ分領支配地となりましたが、72年に開拓使根室支庁の直轄となります。色丹島は根室国花咲郡に組み込まれました。
 1875年の千島樺太交換条約で得撫島までが日本領となったことで、76年に得撫郡・新知郡(しむしるぐん)・占守郡(しゅむしゅぐん)を千島国に編入し、開拓使札幌本府直轄としたが、78年に根室支庁の管轄となり、85年に根室国花咲郡から分離した色丹郡が成立。
 千島国は、1876年の北海道大小区制で第26大区となりますが、その廃止により79年に振別・択捉・紗那・蘂取の四郡役所が振別に置かれ、国後・得撫・新知・占守の四郡は根室に置かれた根室外八郡役所に属しました。85年に振別・択捉・紗那・蘂取の四郡役所が振別から紗那に移転し、国後・得撫・新知・占守の四郡は色丹郡とともに根室外九郡役所の所管となります。千島国は、82年の廃使置県で根室県に属し、86年の廃県置庁で北海道庁の管轄となりました。さらに97年の郡役所廃止で紗那・振別・択捉・蘂取の四郡は紗那支庁、国後・得撫・新知・占守・色丹の五郡は根室支庁の管轄となります。
 色丹島は、町村制で87年に斜古丹村戸長役場、1923(大正12)年の二級町村斜古丹村に、1933(昭和8)年に色丹村と改称。国後島のトマリ・ヘトカ・トウブツ・チフカルベツの各村は、1875年頃までに泊・来戸賀・東沸(とうふつ)・秩苅別(ちぷかりべつ)となり、80年に留夜別(るよべつ)の五村となり、戸長役場を泊村に設置。95年には、留夜別村に秩苅別村から分かれた大滝村とで留夜別外1ヶ村戸長役場、泊・来戸賀・東沸・秩苅別の四村が泊外三ヶ村戸長役場を設置します。さらに1923年には、泊・来戸賀・東沸・秩苅別の四村、留夜別と大滝の二村がそれぞれ合併して二級町村の泊村と留夜別村となります。
 択捉島南西部のルベツ・フウレベツ・ヲイト・ナイボ・タンネモイの各村は75年に留別・振別・老門(おいと)・内保(ないほ)・丹根萌(たんねもえ)となり、85年に振別外4ヶ村戸長役場が置かれ、翌86年に留別外4ヶ村戸長役場となりましたが、87年に内保村と丹根萌村が分かれて内保外1ヶ村戸長役場を設置。1923年には、沙那郡留別村・振別郡振別村・老門村・択捉郡内保村・丹根萌村が合併し二級町村留別村が成立します。
 択捉島中部のシャナ・アリモイの各村は1875年に沙那・有萌・別飛となり、75年に沙那外2ヶ村戸長役場が置かれ、1923年に紗那郡有萌村・別飛村・沙那村が合併して二級町村紗那村が成立します。
 択捉島北東部のシベトル・ヲトイマウシの各村は、1875年に蘂取・乙今牛となり、84年に蘂取村に戸長役場を設置、1923年に両村が合併して二級町村蘂取村が成立します。
 ここには、千島を領有した日本が新天地の開拓をめざす移住者の定住にともない、行政組織が整備されていく様相がうかがえます。「北方領土」といわれる世界は、江戸幕府が蝦夷地に向けた眼差しをふまえ、近代日本国家が北の島々を内国植民地として経営すべく、統治組織をどのように確立していったかを問い質すとき、はじめて視えることができるのではないでしょうか。そこで次回は北の島々の住民の相貌をうかがうこととします。


平安時代、皇位継承の闇

桓武天皇の治世

 平安京に新たな王朝を築いた桓武天皇の治世は、

「宸極に登りてより、心を政治に励まし、内に興作(新都造営)をこととし、外に夷狄を攘(はら)う。当年の費といえども、後世の頼みなり」

と、『日本後紀』が位置づけています。その営みは、平安京の造都と蝦夷征討、造作と軍事が多大な費用であったが、後世の基礎を築いたものだと評価されたのです。
 軍事は、志波(現盛岡市付近)をふくむ胆沢(現水沢市付近)地方を天皇の国家に取り込み、征夷大将軍坂上田村麻呂が802年から胆沢城を、翌803年に志波城を造営しました。投降した蝦夷の指導者アテルイは、陸奥に帰すべきとする田村麻呂の意見を無視して、見せしめとして処刑されました。現在その顕彰碑は田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺に建立されています。
 ちなみに征討軍10万は、当時の人口約600万人、うち兵役を負担する正丁(せいてい[律令制で二十一歳以上六〇歳以下の健康な公民男子])が約110万人とすれば、一度の軍事行動に全正丁の一割が動員されたことになります。これらの軍勢は坂東諸国からの徴兵と物資の徴発であったため、その疲弊は国家をおびやかしました。かつ長岡京と平安京の二度にわたる造都で諸国の正税の三割が費やされたと三善清行は指摘しています(意見封事一二箇条[914年に醍醐天皇に提出した政治意見書])。
 桓武天皇は、その重病が早良親王(追号[死後に生前の功績をたたえて贈る称号]して崇道天皇)の怨霊によるものとして苦悩し、心血をそそいだ造作と軍事を続行するか否かを、805(延暦24)年に渡来人の血を引く菅野真道と光仁天皇の即位に功績のあった藤原百川の子緒嗣に問い、中止を説いた藤原緒嗣の意見をいれて、蝦夷征討と平安京造営を中止しました(徳政相論[天下の徳政はいかにあるべきかを議論させること])。桓武は、この徳政論争の3ヶ月後、806(大同元)年3月に70年の生涯を閉じました。桓武の王朝は、天武王朝に代わり、平安京に新しい歴史を切り拓いたのです。

平城と嵯峨の確執

 桓武の子、安殿(あて)親王が即位し、第51代平城(へいぜい)天皇となります。平城は、同母弟の神野親王(のちの嵯峨天皇)を皇太弟にたてました。平城には、阿保親王や高丘親王がいましたが、母の身分が低いために皇太子に立てられなかったことによります。807年、伊予親王(桓武と南家藤原是公(これきみ)の娘、藤原吉子の子)が謀叛の罪で幽閉されて自殺しました。
 平城は、藤原種継暗殺に連座したとして自害した早良親王の怨霊に悩み、ここに伊予親王の自殺もあり、治世4年にして809年に弟の神野親王に譲位、上皇となります。嵯峨天皇は平城の子高丘親王を皇太子とします。
 譲位した平城は、藤原薬子をつれて平城京に行き、遷都をはかろうとします。ここで嵯峨は、薬子と兄藤原仲成を死に追いこみ、平城の企図を断ちます(薬子の変)。これは、『日本後紀』が「二所朝庭」と記したように、天皇と上皇が同等の権力をもっていたがためにおこったことです。このような問題は、孝謙・淳仁の対立による孝謙が重祚して称徳となったように、起こりうることでした。

嵯峨・淳和の下で

 嵯峨は、薬子の変で皇太子高岳親王を廃し、嵯峨天皇の異母弟大友親王(のちの淳和天皇)を皇太子とします。これは嵯峨に子がいなかったことによりますが、やがて正良(まさよし)親王(のちの仁明天皇)が生まれます。嵯峨は823年(弘仁14)に譲位し、大伴皇子が即位(淳和天皇)。淳和の後は嵯峨の子正良が仁明天皇となります。
 仁明(にんみょう)天皇は、淳和天皇が嵯峨上皇の娘正子内親王を母とする恒貞親王を皇太子とします。皇位の継承は、父子の関係でなく、伯父と甥の関係で展開していきます。
 こうした皇位継承は、嵯峨と淳和、淳和と仁明がお互いに牽制しあい、微妙な権力のバランスの上で営まれていました。ここには、薬子の変のような事態をさけ、権力の安泰をはかりたいとの思惑があったのではないでしょうか。こうした兄弟の相関図は、840年(承和7)に淳和上皇が、ついで842年に嵯峨上皇が亡くなったことで、崩れていきます。
 仁明天皇は藤原冬嗣の娘順子との間に道康親王(のちの文徳天皇)をもうけており、道康は皇太子恒貞より二歳年下でした。恒貞は、皇太子の座が父淳和の力によるものだけに、父上皇の死で皇太子たる場がゆらぎます。道康親王の母順子の兄藤原良房が権力をもつなかで、恒貞は孤立していきます。ここに伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)が恒貞を擁立し、東国で叛乱を企図しているとの謀叛が発覚します(842年 承和の変)。伴と橘らは逮捕され、その自白をもとに恒貞親王は皇太子の地位をうばわれ、道康親王が皇太子となります。事件後、藤原良房は大納言に、源信は中納言となります。さらに866年には、応天門が放火され、左大臣源信が犯人として訴えられます。しかし犯人は伴善男の子中庸(なかつね)が放火犯として告発され、善男父子が配流され、名門の伴氏は没落します(応天門の変)。事件後に源信は出仕しなくなります。事件は藤原良房の仕掛けた謀略ともいわれましたように、その権勢は大きなものとなりました。

父子の継承への道

 850年(嘉祥3)、仁明天皇が亡くなり、皇太子道康親王が即位(文徳天皇)。即位直後、良房の娘明子を母とする文徳の第四皇子惟仁親王が誕生します。皇太子は、第一皇子惟喬親王(母は紀名虎の娘静子)がなるべきを、良房によって惟仁とされました。858年(天安2)文徳の死で、惟仁が9歳で即位(清和天皇)します。ここに仁明・文徳・清和と父子の皇位が継承され、兄弟相続がもたらす皇位継承の抗争が回避されることとなります。かつ、父子継承は幼帝の即位をもたらし、外祖父藤原氏による摂関政治への道を開いたのです。
 このような王権を強化するには、桓武天皇が天壇の祭祀で固有の王権を主張したように、唐の皇帝になぞらえる措置がもとめられたのです。それはやがて天皇の服装を唐風にしていく作法となります。天皇は、聖武天皇が神にならう白い服をまとい中国風の冠をかぶり、儀式を営みました。この様式は、820年(弘仁11)以後、神事において今までと同じに白でしたが、元日の朝賀で中国皇帝にならい龍の模様がある服と冠をまとい、定例の朝儀や外交儀礼では櫨と紅花で染めた黄色に少し赤みのある黄櫨染(こうろせん)という皇帝にのみ許された色の服を着ております。いわば神事には神として臨み、中国皇帝の衣冠で政事を営んだのです。政治の唐風化により、王権を粉飾し、天皇の存在を輝かせていきます。そこには、天皇位をめぐる骨肉の争い、血ぬられた王権を唐様の帳で覆うことで、父子による継承の安定をはかろうと想いがあったのではないでしょうか。血まみれた王権の抗争は、政治的敗者の怨霊を跋扈(ばっこ[のさばり、はびこること])させ、御霊会(ごりょうえ[思いがけない死を迎えた者の御霊による祟りを防ぐための、鎮魂のための儀礼。御霊祭])を営ませることとなります。

参考文献

  • 川尻秋生『揺れ動く貴族社会』小学館 2008年
  • 吉川真司編『平安京』吉川弘文館 2002年