現代部落問題学習の課題

 これまでに述べてきたことを土台に、部落問題学習のあり方を述べたいと思います。部落問題学習をいかに進めるべきかという問題については、これまでにさまざまな議論があり、確かめられてきた原則や教訓があります。ここでは、それらを踏まえつつも、21世紀に入って20年を過ぎた現在の課題を中心に述べます。

ネットを含めいまの現実から始める

 2016年に部落差別解消推進法が制定されました。この法律が制定された背景には、情報化が進展するもとで、部落差別が新たな形をとるようになってきたという点があります。どこが部落かを示す情報がネット上で流されたり、誰が部落出身であるかを暴露する情報がアップされたりしています。その一方で、結婚差別も後を絶ちません。情報社会が進展するもとで発生している問題の一つは、ネット情報に基づいて結婚を断られたとしても、それが断られた側には分からないまますんでしまう恐れが以前より大きくなったということです。
 前回までで紹介したように、部落の地名やその映像をネット上に流すという問題については裁判でも闘われていますし、政府からも、差別助長に通じる「人権侵害のおそれが高い、すなわち違法性のあるもの」とする文書(権調第123号 )が出されているのですが、「差別行為である」という観点からはいまなお基本的には法律的に罪に問われない状況が続いています。国連からの勧告を待つまでもなく、日本社会の課題は、そういう差別行為を禁止する法律を制定することであり、それを担うことをはじめ、さまざまな人権課題にとりくむ組織として国内人権機関を設置することです。
 このような点を考慮に入れると、これまでの部落問題学習とは異なる視点を持って学習を設定しなければならないと言わざるを得ません。部落問題学習をするにあたっても、差別禁止法の制定や国内人権機関の設置を目標として意識することが求められるようになっているのです。それぞれの学校や自治体の部落問題学習の目標として、差別禁止法の制定や国内人権機関の設置をどのように意識しているかを改めて考えてみるべきです。

身近にある部落差別や被差別部落を教材に

 そのように、大きな目標として差別禁止法や国内人権機関を意識しつつ、部落問題学習を組むに当たっては、身近にある部落差別や身近にある被差別部落を教材化することが求められます。
 部落問題学習は、ともすると、遠い山の中にある小さな村落の問題と思い込まれてしまうことがあります。自分の普段の暮らしとは全く関係のない問題と感じられている例も多いようです。実際には、全国各地に被差別部落があります。また、政府が2019年に行った部落差別に関する全国の意識調査(権調第123号 )によれば、「部落差別」や「同和問題」ということばを聞いたことがある人は全国で77.7%、近畿・中国・四国地方では90%を越え、九州地方でも80%を越えます。ごく身近にある問題として部落問題学習をできるかどうかは、重要な要素だと言わなければなりません。
 ただ、「どこが被差別部落かを授業で取り上げることはできない」という声もあります。私の住む自治体でも、そのことが話題になりました。学校の教員が部落問題学習の実施をためらう理由の一つとして、「『先生どこに部落があるの?』などと子どもから尋ねられたときに答えられない」という意見がありました。これに対して、市内の被差別部落で運動に取り組んでいる人から出たのは、「それやったら、うちにきてくれたらええやん」ということでした。フィールドワークなら、いつでも受け入れるよというわけです。このことを前提にすれば、子どもから「先生どこに部落があるの?」と尋ねられたときの答えは簡単です。「そうか。先生が知ってるから、先生と一緒に行ってみるか。友達にも声かけて一緒にいこか」というのでよいではないかということです。そう返すことによって、質問した子どもの側もいろいろなことを考えることができます。友達に声をかけてみて、どんな返答が返ってくるか。親に話したときに親はどう言うか。そういうことを通して自分自身の問題意識も振り返り、研ぎ澄ますことができるはずです。
 そういう考え方をあちこちで紹介してみると、「いやそれはむずかしい」という声がしばしば返ってきます。「うちの自治体にある被差別部落は、そんな受け入れ体制がない」というわけです。地域によりいろいろな事情があることは分かります。そうであれば、同じ自治体の被差別部落ではないにせよ、見学を受け入れてくれるところを探してみることもできるのではないでしょうか。問題なのは、地元の被差別部落が消極的だという理由をもって、フィールドワークや部落問題学習すべてをあきらめてしまうことではないでしょうか。すぐ近くの被差別部落が無理でも、少し離れたところの被差別部落との信頼関係をつくることはできるかもしれません。また、地元の被差別部落が受け入れてくれないのは、学校が地域との信頼関係をつくれていないからなのかもしれません。部落の人たちの発言から、自分たちの教育実践を問い直すことも必要です。
 身近な問題にという点で考えておきたいもう一つのことは、部落差別事象は、いろいろな場面に顔を出すということです。学校の近くで差別落書きが発生することもあります。親たちの発言の中に差別的な言動が含まれていることもあります。部落出身でなくても、部落問題に取り組んでいる人たちはいます。そういう事例や人物を取り上げることによって、子どもたちが自分にとって身近な問題として部落差別をとらえやすくなることは間違いありません。逆に、そういう面がないまま部落問題学習をすすめれば、偏見や思い込みを助長してしまいかねないのです。

差別をなくそうとする取り組みとあわせて

 部落差別について学ぶときには、この差別をなくすための取り組みとあわせて学ぶ必要があります。どんな差別があるかを知るだけでは、力はわいてきません。悪くすると、無力感を広げるだけに終わります。そうではなくて、部落差別をなくすための取り組みや、取り組んでいる人の姿と合わせて学ぶことによって、力がわいてくる学習になり、展望を感じられる学習になります。
 学校区をはじめ、差別をなくすために活動している人を招いて、自分の取り組みを紹介してもらうことが求められます。ある日突然に来て話してもらうのでは、子どもたちにとっては必然性のない話となり、せっかくの学習が実りに欠けます。一連の学習の流れに位置づけて、子どもたちが抱いた疑問に答え、子どもたちの思い込みを解いてもらうようにして出会いの場を設定することが重要です。
 また、歴史学習でも、差別をなくそうとする取り組みが不可欠です。たとえば「水平社宣言」をきちんと位置づけることです。2022年は水平社が創立され「水平社宣言」が出されて100年です。「水平社宣言」は、つづめていえば<自分たちはこんな体験をし、悔しい思いを重ねてきた。だから自分たち自身で差別をなくしてすべての人が解放されることをめざして立ち上がるのだ>という文書です。子どもたちが自分自身の悔しかった体験を出し合い、その延長線上に「水平社宣言」を学ぶことによって、自分に引きつけて学習することができます。

自分に引きつけながら考えられるように

 その点とも関わりますが、部落問題学習の内容が、子どもたちが今直面している問題につながっているかどうかが問われます。つながる点は様々にあります。
 情報化そのものが、子どもたちから縁遠い事柄ではありません。子どもたちの身近にスマホがあり、PCがあります。GIGAスクール構想が出ているいま、タブレットが子どもたちの身近な存在となっています。教員が知らない間に子どもたちが情報機器を使っていじめをしていたという事例を聞くことがあります。これは部落差別にもつながります。それら情報機器を使っての検索は、子どもたちにとって身近な行為です。「部落」や「部落差別」という言葉を知り、「部落」や「被差別部落」で検索すれば、残念ながら部落の所在地情報にゆきあたり、地域の映像が現れるのです。
 部落差別と自己のつながりを考える手がかりひとつは、自己開示やカミングアウトに関わる問題です。自分のことをいつでもどこでもすべて明かして生きている人はほとんどいません。何かを言わないままに暮らしている人ばかりと言ってもよいほどです。
 私の子どもの頃を振り返ってみると、小学校6年生の頃まで時々おねしょをしていました。これは当時の自分にとってたいへん恥ずかしいことで、誰にも知られたくないことでした。修学旅行はとりわけ心配な行事でした。一泊して、そのときにおねしょでもしたら、一生言われ続けるかもしれません。これは、おとなからすればたわいもないことに映るかもしれませんが、子ども本人にとってはけっこう深刻な問題です。もしも、このような問題とつないで部落差別が取り上げられれば、わたしにとって部落差別は身近な問題として映ったであろうと思います。
 こう述べると、「おねしょと部落問題を一緒にするのか」という疑問や反論を出されるかもしれません。おねしょという問題はあえて出している面があります。そういう問題でも、部落差別と結びつきうると言いたいのです。ましてや、家族の中で対立やけんかがたえないとか、親のことを好きになれない、クラスでいじめられている、といったことがあれば、それは部落差別に直結するような問題です。そのようなことと結びつけて学習を組むことが求められるでしょう。
 上の例は自分自身のこととして述べましたが、これを他の人のことにつなぐこともできます。できるというよりも、することが求められていると言うべきかと思います。部落問題学習を通して、自分の友だちが何かを苦にしているということを知ることができれば、部落問題学習が自分にとっても意味のあるものと感じられやすいでしょうし、部落差別も身近に感じやすいでしょう。

歴史学習は明治時代以後をはずさないで

 部落問題学習と言えば、歴史学習をイメージする人もいると思います。とくにこの30年間ほどは、歴史研究の進展もあって部落問題の歴史学習が盛んになってきました。967年に施行された延喜式に初めて「穢れ」についての記述が登場しました 。中世には、キヨメと呼ばれる人たちが登場して、「穢れ」を清める役割を果たし、畏敬の念をもたれていました。中世の身分は流動的で親子で身分が違ってくるという場合が少なくありませんでした。近世(江戸時代)になって、「えた」と呼ばれる身分がつくられ、代々受け継がれるものとして全国的に制度化されていきました。「えた」身分の人たちのおもな職業は農業で、各地の被差別部落の収入を見ると、農業が過半数を占めている例が多くあります。明治時代になって1871年に「賎民制廃止例」(いわゆる「解放令」)が出され、法律的な身分制度は撤廃されました。このような歴史を学ぶことが部落問題学習だと思っている人もいることと思います。
 しかし、部落問題学習では、近代(明治以後)の部落差別とそれに対する解放運動について学ぶことを大切にするべきです。江戸時代の被差別部落は経済的に豊かな例が多かったのですが、明治時代になって、被差別部落は経済的に貧しくなりました。これは、差別の性格が封建制による差別から、資本主義的な差別へと変化したことを示しています。明治政府は部落差別を助長しています。たとえば戸籍制度が作られ、だれが江戸時代の被差別部落出身者であるかが分かるようになっていました。また、1907年頃に政府が行った全国調査では「特殊部落」という言葉が使われました。そのことによって「特殊部落」という差別的呼称が広く用いられるようになってしまったのです。
 部落差別に限らず、明治政府は侵略と差別を推進する政策を推進しました。江戸時代には260年間ほぼ侵略や戦争はありませんでした。ところが明治時代になると、1870年代には西南戦争、1894-1995年には日清戦争、1904-1905年には日露戦争、1914-1917年には第一次世界大戦、1931-1945には日中戦争・太平洋戦争というぐあいに、ほぼ10-20年に一度は戦争をするという国家になってしまいました。差別についても同様です。江戸時代の日本について、ヨーロッパから来た宣教師や外交官は、男女が平等であることに驚いています。それが、女性差別は1904年に制定された民法によって強化されました。1899年に制定された北海道旧土人保護法により、アイヌ民族への民族浄化政策(民族抹殺政策)が進められました。
 さまざまな差別と部落差別を結んで考えていく上で、明治時代の差別助長政策を位置づけておくことは不可欠です。

 次回からは、部落問題をふまえつつ、他の差別問題を取り上げることになります。

部落差別と同和教育(その3)

 今回は、部落差別と同和教育について論じる第3回となります。前回までの2回を通して、現在の部落差別の実態、法律の制定をはじめ政府や行政の動き、部落差別をなくすための課題と教育の果たすべき役割を紹介してきました。今回は、それらを受けて、同和教育が大切にしてきたことについて述べます。同和教育の取り組みは、日本で人権教育を進めるというときにスタンダードとされるべきです。歴史的に言っても、同和教育が日本の人権教育を牽引してきましたし、実践の枠組みや具体的方法を早くから形成してきたからです。

[1]生活をふまえた仲間づくり

 同和教育のなかで大切にされてきた一つは、生活をふまえた仲間づくりです。なかよしになることと仲間になることとは異なります。なかよしというのは、けんかもせずにニコニコつきあっているという感じでしょう。それに対して仲間というのは、同じ志をもって取り組んでいこうとするという感じです。同和教育の場合、それは「差別をなくす」という共通の志です。今風の言葉で言えば、仲間とはアライ(ally)であり、仲間づくりとはアライを広げることです。
 そういう意味での仲間の必要性は明らかです。いまの社会では、さまざまな差別をはじめ、人と人との関係を断っていくような力が働いています。部落差別もその一つで、関係を引き裂く方向に力が作用しています。そういうなか、部落出身者とそのほかの人たちが力を合わせて部落差別をなくすために取り組み続けるというのは、なかなかにチャレンジングなことです。一つひとつの事象にはさまざまな側面があり、一人ひとりは事象をさまざまな角度から見ているのですから、取り組む人たちの間で対立が発生するのはある意味で当然です。対立を乗り越えて一つの方向をめざします。対立のない仲間というのは、ほとんどあり得ません。対立を乗り越えるすべを身につけることが不可欠です。逆に、対立がないかのように振る舞うことの方が不自然で、ごまかしがあると言ってもよいほどです。
 そういう状況であることをふまえて、お互いの関係を作り直していくうえで、大切なのは、生活をふまえた仲間づくりを進めることです。「生活をふまえた」というのは、一人ひとりを学校のなかで見える一面的な姿だけではなく、家での暮らしも含めてまるごとの姿で捉えようとすることに他なりません。これには、いろいろな方法があります。

①生活ノート

 一つは、生活ノートのやりとりです。同和教育で言う生活ノートとは、教員と子どもの間を行ったり来たりするノートで、そこには子どもたちの生活や、そのなかで考えたり感じたりしていることが書かれているというものです。教員は、子どもたちの書いてきたノートに返事を書いて返します。1クラスに30人とか40人とか、子どもたちがいますから、そのすべてに返事を返すというのは容易ではないと思う人が多いでしょう。いくつかの工夫によって、それが可能になります。
 一つの工夫は、暮らしや悩みを綴らなくても良いノートとして設定しておくことです。自学自習ノートなどと呼んで、家で自習するときに用いるノートにすることです。漢字の練習をしたり、因数分解の問題を解いたりするわけです。もちろん、暮らしや悩みを書いてもいい。こうすれば、悩みの多い子どもたちがどちらかと言えば生活を綴る方向に傾きます。これには返事を書きます。少なくとも、子どもたちの書いた分量は返事として返します。勉強が得意で特段の悩みがないという子どもは教科の問題を解いてくる方に傾くでしょう。教科の問題に取り組んだときは正誤判断も自分でやってもらいますから、こちらには、「見ました」という検印だけでOKです。
 もう一つの工夫は、毎日出さなくてもいい、たとえば1週間に2回出せばいいというやり方です。こうすることで、1日に出すのはクラスの半分ぐらいになります。40人いたとしても20人です。そのうち、勉強の得意な子が勉強に力を入れて書いたとすれば、返事を書く必要が出てくるのは、生活を書いてきた残りの10人ほどということになります。これならいけそうな気がしてきませんか。
 さらなる工夫は、返事の書き方です。生活ノートと言っても、子どもが最初から深刻な悩みを書いてくることはほとんどありません。アイドルのことやテレビドラマのこと、ゲームのことなどばかりかもしれません。これに付き合うのは、大人としてなかなかむずかしい。しかも、変に付き合おうと努力してゲームについての返事を書いたりすると、子どもはさらに喜んでゲーム路線で書いてくるかもしれません。こういうときは、そのテレビドラマやゲームを手がかりに、教員が自分の暮らしをさりげなく書いて返すことです。「その番組の時間帯、先生の家では赤ちゃんがお風呂に入っていた……」などと返すのです。そうすれば、「先生はこんな暮らしをしているんだ」と伝えられますし、「このノートにはこんなことを書いていいんだ」というメッセージを届けることにもなります。
 このあたりになると、疑問を抱く人も出てくるかもしれませんね。教員がそんなに子どもの生活に立ち入ってもいいのでしょうか。いいのです。前回の連載で書いた、プライバシー権についての考え方を思い出してください。プライバシー権とは、自分に関する情報は自分でコントロールできるという権利でした。重要なのは、この点です。子どもたちが自分に関する情報を自分でコントロールできるということです。子どもたちは書いても書かなくても良いのです。書いてみようかと思ったときに書ける状態をつくっておくことが大切です。書いてみて先生からすてきな返事が来たら、ちょっとうれしいかもしれません。それで「また書いてみよう」となるかもしれないのです。現代的プライバシー権は、そういうときに書きたければ書く、書きたくなければ書くのをやめるという判断をできなければ行使できません。
 教員によっては、子どもたちが書いた内容をクラス通信に掲載したりします。他の子どもから内容を受けとめたメッセージが返ってくればさらにうれしいでしょう。このときにも、本人に一つひとつ確かめて掲載を決定しなければなりません。もっとも、毎回確認は大変なので、年度の初めに「このノートに書いたことは学級通信に載ると思っていてください。それは困るというときには、『これは載せないで』と書いてください」と子どもたちに伝えておくことで子どもたちは安心して書きやすくなります。学校だけでは見えなかった暮らしが子ども同士で交流されるようになれば、子ども同士はつながりやすくなります。
 子どもにとって、ときには期待したような答えが返ってこないこともあるでしょう。誤解されてつらい思いをすることもあるかもしれません。でもそれが学級内なら、教員がある程度フォローしたりカバーしたりすることができます。SNSで誰かまったくわからない人から攻撃されるのとは異なります。いわば、守られた空間でやりとりしているのです。だから、そういう思いがけないことによる傷は最小限にとどめることができます。
 こういう活動を重ねることによって、子どもたちには自分で自分の情報をコントロールする力が育っていきます。少し自己開示をしたら、それを受けとめてさらに深いメッセージが返ってきた。そうすれば、またその人に自己開示をしてみたいと思うのではないでしょうか。どういうときに自分の情報を開示すれば良いのか、どういうときにはしない方がよいのか。そういう判断力が育つのです。これはプライバシー権を行使するための力を子どもたちに育む実践だということができます。いわば情報教育の最前線です。
 このことは、生活ノートであれ、SNSであれ基本的に同じです。生活ノートで判断できるようになった子どもたちなら、SNSでも判断できるようになりやすいはずです。自己開示の楽しみと気まずさを味わった人なら、SNSでも気をつけながら、必要に応じて自己開示するというスキルを身につけやすいはずです。逆に、ふだんは自己開示などぜんぜんする機会がないという人が、「匿名だから」とネット上で弱みをさらし、限度なく自己開示をする。そのあげくに誰かから攻撃される。そういう危険を避けやすくなります。

②班活動を組み立てる

 日本の学校では、班活動はきわめてありふれた存在になっています。最近でも、学生たちに「小中高校で班活動を経験したことがある人は手を挙げてください」といえば、ほとんどの学生が手を挙げます。
 ところが、その班活動のなかみを聞いていくと、さまざまに分かれます。
 ひとつは、掃除当番や給食当番などを決めるための班です。ほとんどの学生たちはそういう班を経験しています。ここであまり説明の必要もないでしょう。
 もうひとつは、子どもたちからやりたいことを出して、それをもとにグループ分けしていくという班です。こちらは、班活動というよりも「係活動」という言葉で知られているかもしれません。たとえば、園田雅春さんは、現役の小学校教員だったころに、子どもたちの要望に基づいて動物園・農協・銀行・新聞社などからなる係をつくって、学級活動を展開していました。こういう班活動を経験している学生は減ってきており、最近では10人に1人ぐらいです。そういう経験をした学生は、だいたい生き生きとそのときの経験を語ります。
 さらにもうひとつの班活動があります。それは、生活班と呼ばれます。子どもたちは、朝登校してから下校するまでをだいたいこの班で過ごします。授業中はこの班で授業に臨み、休憩時間にはこの班で遊びます。この班では生活ノートを回して、子どもたちが互いの暮らしを書いたりします。堅苦しいと思う人もいるかもしれませんね。でも、この活動を重ねることによって、子どもたちが劇的に変わることがあります。同じ班のメンバーの暮らしや思いに触れて、自分の見方が間違っていたことに気づき、その子を応援したり、実情をわかりつつ叱咤激励したりするようになるのです。こういう班活動を経験したことがある学生は2割ぐらいでしょうか。
 同和教育で推奨されるのは、この二つめか三つめの班活動です。あるいは二つめと三つめを組み合わせた班活動という方がわかりやすいかもしれません。
 重要なのは、子どもたちがお互いの生活を知るようになり、そこから相手に対する見方を変え、より深い関係が生まれるように働きかけることです。こんな実践例があります。ある教員から聞いた話です。クラスで目標を定めます。たとえば、「忘れ物ゼロをめざす」などです。このような「全員が……」という目標設定をすると、少なくともはじめはヤル気になることが多いものです。ところが、やり始めると決まった子が宿題をしてこなかったり、忘れ物をしてきたりすることがわかってきます。「あいつがいるせいで……」という気分が出てくる。ここが分かれ目です。放っておけば、その子を非難する声が上がるばかりになるかもしれません。クラス活動の目標は、非難することではありません。すべての子どもが忘れ物をしない状態を作ることです。そのための作戦を立てるよう、子どもたちに働きかけます。たとえば、電話をかけて忘れ物がないかチェックする。それでも忘れ物をしてきたら、登校前にその子の家に行ってチェックする。必要ならば、その子の家に上がり込んで忘れ物がないように一緒に準備します。そういう活動をするようになると、その子の暮らしが見えてきます。なぜ忘れ物をするのかもわかるでしょう。暮らしがわかってくれば、まわりの子どもたちはその子を応援したり、叱咤激励したりしたくなります。ここからも詳しく書けばおもしろい取り組みがいろいろと出てくるのですが、紙幅の関係もあり、ここまでとさせていただきます。

③協働を位置づけた授業

 授業のなかでも仲間づくりが重要となります。近年では文部科学省も「主体的、対話的で深い学習」などと言うようになっています。一人学習、二人学習、グループ学習、全体学習などを組み合わせることの大切さもよく語られます。子ども同士の協力を育むうえで同和教育が重視するのは、どのような子どもを中心に据えて授業を展開するのかという点です。社会的に不利な立場にある子ども、学習面で困難を抱えている子、対人関係が得意ではない子など、さまざまな観点で弱い立場にある子どもたちに焦点を合わせて授業を組み立てるのです。このことは、その子たちが落ちこぼれないようにするためだけではありません。おもな目的は、その子たちのつまずきや問題意識を学級全体で共有することによって、他の子どもたちの問題意識やスキルが高まるようになることです。

[2]次回へ

 思ったよりも長くなってしまいました。まだまだ仲間づくりをめぐって書きたいこともあるのですが、そういうわけにもいきません。部落問題学習についてだけは書いておきたいのです。そこで、次回ではもう1回部落差別をテーマとして、今度は部落問題学習について述べることにします。

部落差別と同和教育(その2)

 前回に予告していたとおり、今回は21世紀に入ってからの課題を中心に述べます。1969年に同和対策事業特別措置法 が10年の時限立法として制定されました。その後、延長などを経て2002年になると、同和対策事業の裏付けとなっていた法律が失効し、同和対策事業としての同和行政展開は基本的になくなりました。同和対策事業がなくなっても、部落差別をなくすための行政、つまり同和行政がなくなったわけではありません。しかし、その後15年間ほど、法的裏付けのない状態が続きました。2016年になって部落差別の解消の推進に関する法律(部落差別解消推進法) が制定され、新たな展開が求められるようになっています。ここでのポイントは、15年間にわたって法律のなかった時期を経て、2016年から新しい法律の下で教育が求められるようになったという点です。

2016年11月17日、国会の衆議院本会議で部落差別解消推進法が賛成多数で可決

[1]部落差別解消推進法の制定とその内容

 2016年12月に部落差別解消推進法が制定されました。同法では、第1条で、次のように述べています。

「この法律は、現在もなお部落差別が存在するとともに、情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じていることを踏まえ、全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり、部落差別は許されないものであるとの認識の下にこれを解消することが重要な課題であることに鑑み、部落差別の解消に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、相談体制の充実等について定めることにより、部落差別の解消を推進し、もって部落差別のない社会を実現することを目的とする」(太字と下線による強調は森による)

 つまり、現在も部落差別が存在し、それは許されないものだから、部落差別をなくすためにこの法律を制定したというわけです。そして、取り組みの柱として、相談、教育・啓発、実態調査という三つが設定されました。
 部落差別という文言を含んだ法律は、日本で初めて制定されました。これまで日本の法律では「部落差別はいけないことだ」というのはもちろん、「部落差別」という言葉そのものを用いた法律はなかったということです。不思議に思う人もいるかもしれませんが、これが日本の法律の実情です。

[2]ネット社会の差別をめぐる課題

 部落差別解消推進法第1条は、「情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じている」としています。この点に関連して述べるべきことは、いまサイバー空間では全国の被差別部落の地名、部落出身者の名前、被差別部落の映像などがさまざまな個人や団体によってアップされているということです。これを何とかするべく法律は制定されたはずなのですが、法律制定後も、事情はあまり変わっていません。
 2021年9月27日には、東京地裁 が、被差別部落の地名を出版しようとした出版社側に対して、6県をのぞく部落地名リストの出版や掲載を差し止め、被告の出版社に対して合計約480万円を原告側約230人に支払うよう命じる判決を言い渡しました。部落地名の出版差し止め対象から外されたのは、6県です。この6県が対象から外されたのは、自ら出身をカミングアウトして活動してきた一部の人について、プライバシー侵害にはならないとされたためだといいます。
 要するに、この判決では、自らカミングアウトした人はいくらでもアウティングされても仕方がないとしているのです。カミングアウトとは、被差別の立場にある人が、問題を訴えるためにあえて自分自身が被差別の立場にあることを明かすことを意味します。アウティングとは、他の人が本人の了解なしに、その人が被差別の立場にあることをあかすことです。
 プライバシー権とは、自分に関する情報を自分でコントロールする権利を軸に構成されています。そのことは、文部科学省が組織した「人権教育のあり方に関する調査研究会議」から2008年に出された『人権教育の指導方法等の在り方について【第3次とりまとめ】 』(以下、『第3次とりまとめ』と略)でも指摘されていることです。『第3次とりまとめ』には、OECD(経済協力開発機構)が1980年に出した「プライバシー保護と個人データの国際流通についてのガイドライン 」が紹介され、その解説として次のように書かれています。

 全22条からなるこのガイドラインにおいては、総論や国際的適用における基本原則などのほか、国内適用の場合についても8項目からなる基本原則が示されているが、それらに共通するのは、自分に関する情報は自分でコントロールするという考え方である。情報化が進む現代社会にあっては、どのような場合に自分に関する情報をどこまで提供するのかを判断できなければ、個人が様々な不利益を被ることになりかねない。これらの原則に関する学習を通じ、プライバシー保護のルールについて理解を深めるとともに、自らの情報を適切に管理する技能を身に付けていくことが求められる
(『人権教育の指導方法等の在り方について【第3次とりまとめ】』実践編 56頁)
(太字と下線による強調は森による)

 OECDがいうプライバシーは、「自分に関する情報を自分でコントロールする」という考え方を基本にしているのです。この考え方に立てば、アウティングがプライバシーの侵害になるということは明らかです。
 この連載の第3回でも紹介したように、日本政府は2018年に「人工知能(AI)に関する7つの基本原則」をまとめ、2019年には「人間中心のAI社会原則 」としてそれを発表しています。その第1原則は「AIは人間の基本的人権を侵さない」です。人間が人権について正確に理解し、それを使いこなせるようになっていなければ、「人間の基本的人権を侵さない」ようにAIを製作し、調整することはできません。ここでは、カミングアウトとアウティングの区別を人間が正確に理解し、それを使いこなせるようになるということです。そのような時代に、さきの東京地裁のような判決が出るということをどう考えればよいのでしょう。
 このことに関連して、国際連合は日本に対していくつかのことを繰り返し勧告 しています。一つは、部落差別を国連の人種差別撤廃条約の対象とすることです。国際的に、人種差別撤廃条約の対象には、もともとインドのカースト制度なども含まれています。同様に、日本の部落差別も人種差別撤廃条約の議論に含むべきだというのです。二つには、この連載の第4回でも触れた差別禁止法を制定することです。日本政府は人種差別撤廃条約に参加するとき以来、同条約第4条を留保し、同条に規定された差別禁止法の制定はしないとわざわざ断ってきました。三つには、差別禁止法を実のあるものとするためにも国内人権機関を設置することです。部落差別解消推進法のつぎに求められるのは、そのような点でしょう。

[3]教育の課題

 部落差別をなくす教育にとりくむには、少なくとも、ここに述べたようなことは前提として認識しておく必要があるということになります。具体的には、次のような事柄です。
 第1に、現在の部落差別の現実について、改めて捉え直す必要があるということです。部落差別解消推進法では、「情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じている」と述べています。サイバー空間で被差別部落の所在地や被差別部落出身者の名前などの情報がアップされたりしていることに関連して、問題を整理して捉えられるような学習が求められます。ネット上で差別が広がっているという問題は、部落差別に限ったことではありません。
 第2に、ネット上の差別とリアル世界での差別との関連を考える必要があります。部落差別があるのはネット上にだけではありません。現実世界でも、結婚差別や就職差別、差別落書きなど、さまざまな差別が発生しています。また、ネット上の情報が現実世界の差別を助長している面があります。現実世界での差別を踏まえつつ、それとネット上の差別との関連を整理することが求められます。この点も、部落差別だけではなく、さまざまな差別との関連で整理することが求められます。
 第3に、こうした面での学習の土台として、自分に関する情報を自分でコントロールするという現代的プライバシー権を行使できるようになるための学習が必要だということになります。具体的にはどのような学習が求められるでしょうか。
 最後に第4として、こうした学習を、他の差別問題との関連で整理する必要があります。例えば、女性差別や外国人差別が強まったのは、明治以後のことです。女性差別については、江戸時代まで武士社会にあった女性差別の考え方や仕組みが、明治時代になって民法のなかに明確に位置づけられ、全国民に行き渡るようにされました。たとえば、親権は父親にのみ認められるようになりました。外国人についても、江戸時代には海外侵略はなかったのに、明治になってからは繰り返し対外戦争をすることになっていきました。他の差別についても同様の面があります。それらとの関連で、部落差別の歴史を捉え直す必要があります。
 こうした点について、学校ではどのようにしていけば良いのでしょうか。こうした点については、次回に取り上げることにします。

部落差別と同和教育(その1)

 個別人権課題に最初に取り上げるのは、部落差別(同和問題)と同和教育です。2016年12月に「部落差別の解消の推進に関する法律 」(部落差別解消推進法)が制定されて、部落差別への取り組みは新たな段階を迎えました。それはどのような意味なのでしょうか。また、新しい時代に即した教育はいかにあるべきなのでしょうか。今回は、部落差別をなくすために展開されてきた同和教育の様子を紹介し、次回に現代的課題に焦点を絞って論じることにします。

[1]部落差別および同和教育とは?

 部落差別とは何でしょう。部落差別についての定義は「部落差別解消推進法」にはありませんが、政府関係の文書では、同和問題と同義であり、「人権教育・啓発白書」において用いられてきた同和問題に関する説明を基本的に用いることが合理的とされています。ちなみに『令和3年版人権教育・啓発白書』 は、次のように述べています。

「部落差別(同和問題)は、日本社会の歴史的過程で形作られた身分差別により、日本国民の一部の人々が、長い間、経済的、社会的、文化的に低い状態に置かれることを強いられ、同和地区と呼ばれる地域の出身者であることなどを理由に結婚を反対されたり、就職などの日常生活の上で差別を受けたりするなどしている、我が国固有の人権問題である」(同48頁)

 一方、同和教育とは、「部落差別を中心に、あらゆる差別をなくすための教育」をさします。同和教育という概念は、戦後では1953年に文部省が「同和教育について」という次官通達を出したのが広がるきっかけの一つです。本格的に広がったのは、1953年に全国同和教育研究協議会(現在の全国人権教育研究協議会 )が結成されて、全国各地から同和教育に取り組む人たちが集まるようになってからのことといえます。そこから同和教育の歩みが始まったといってもよいでしょう。ここでは、同和教育の歴史を大きく分け、1970年頃までの原則確立の時期、2000年頃までの取り組み拡大の時期、2000年から最近までの人権教育の中核としての展開の時期というぐあいに時期を区切って説明していきます。時期区分の仕方はさまざまに可能です。ここでは、この連載のねらいに則しての区分であることをご承知おきください。

[2]同和教育の歴史

①原則確立の時期(~1970年)
 第二次世界大戦が終わって間もない頃、部落差別をなくすための教育活動は、さまざまな名称で呼ばれていました。高知県では福祉教育、岡山県では民主教育、和歌山県では責善教育などです。それぞれに由来や特徴がありますが、ここではそれは省きます。誰かが概念を整理し、理論を打ち立てて、それに基づいて実践が展開されていたというわけではありません。地域に根ざして取り組みが始まっていたのです。それぞれに個性がありました。
 全国同和教育研究協議会が結成された後にも、同和教育で何を大切にするべきかについては議論がありました。一方に、「差別意識をなくしていくことが同和教育の目標だ」という考え方がありました。部落差別は意識の問題だという捉え方です。それに対して他方に、「部落の生活に表れている困難状況を部落差別の表れと捉え、それを改善し、克服していくことが同和教育の目標だ」という考え方がありました。部落差別は生活のなかにあるという考え方です。二つの流れの議論から、次第に後者の考え方が中心に座るようになりました。
 戦後間もない頃、学校に行けない長期欠席や不就学の子どもたちがいました。そしてそれは、被差別部落など厳しい生活を強いられているところに集中していました。同和教育の最初の課題は、そういう子どもたちが学校に来られるようにすることでした。そのため、教員は家庭訪問を繰り返し、何に困っているのかを確かめ、解決のための手立てを打つことが求められました。たとえば、傘がないために雨が降ったら学校にいけない子どもには、学校で傘を準備したという学校があります。経済的に家庭を支える必要のある子どもには、生活保護などの制度を活用して、家族みんなが暮らせるよう応援した学校があります。当時は小中学校の教科書が有償で、教科書を買えない子どもたちもいました。地域の保護者などとともに教職員が教科書無償化に取り組みました。これが、1963年の「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律 」につながっていきます。こうした取り組みは、現代的に言えば、スクールソーシャルワークそのものです。アメリカにおけるスクールソーシャルワーカーの活動も、不就学児童生徒の出席督励から始まっています。
 こんな取り組みのなかから1965年になると、後者に軸足を置きながら、両方の考え方を一つに含み込んで、同和教育の原則が確立されます。その原則とは、「部落差別の現実から深く学び、生活を高め、未来を保障する教育を確立しよう」というものです。観念的に「差別はいけない」といくら言っても、それだけで差別がなくなるわけではありません。部落の生活実態のなかに差別があることを見いだし、そのなかで生き抜いてきた地域の人たちの生いたちや体験や生き方に学んで、教員としてのありかたを考え、教育を生み出していこうというのです。
 この原則の具体化として、仲間づくり、学力保障、進路保障など、幅広い領域で実践が展開されるようになりました。これらが具体的に展開していくのは、第2の1970年からの時期となります。「仲間づくり」とは、単なる仲良しを広げるというのではなく、差別をなくすという共通の目的意識をもった仲間を広げていくことをさします。「学力保障」とは、単にテストの点数を上げる学力向上ではなく、教育内容のあり方を根本から問い直して、新しい教育内容を構想し、それをすべての子どもが獲得できるよう教育を組み直すことを意味しています。「進路保障」は、進路指導とは異なります。「あなたの学力で行けるのはあの学校だ」というぐあいに、学力などに応じてすすめる進路を指導するのが進路指導だとすれば、それに対して進路保障では、すべての子どもたちが自分のめざす進路へとすすむことができるよう保障しようとするものです。就職差別などの現実があったからこそ生まれた概念と言えます。仲間づくりや学力保障など、同和教育のすべてが進路には関わります。だから「進路保障は教育の総和である」と言われました。

②取り組み拡大の時期(1970年~2000年)
 1965年に「内閣同和対策審議会答申 」、それを受けて1969年に「同和対策事業特別措置法 」が制定されました。「同和対策事業特別措置法 」は対象地区の環境改善などを目標としており、部落差別をなくすことを正面から目標として掲げていたわけではありませんが、部落差別をなくすための教育を展開するうえで大きな力となりました。部落差別をなくす教育は、生涯学習としての体系を整えていきました。
 全国同和教育研究協議会は、1971年に子どもたちへの学力保障のために、「四認識」という枠組みを打ち出しました。これは、それまでの同和教育の取り組みが、ともすると学力向上と部落問題学習に分裂してすすめられていたことへの反省に立っています。それまでの同和教育では、一方で、教育目標や教育内容、教育方法などを問うことなく、学力不振だった同和地区の子どもたちの成績を上げることが追求されていました。学力向上というだけでは結局、学校教育全体のカリキュラムが問われることがなくなります。その一方で、確かな部落問題認識を育てようと、社会科などでの授業が組み立てられました。部落問題学習というだけでは、社会科など、一部の教員の取り組みに終わりかねません。「四認識」という枠組みを打ち出したことによって、すべての教科と領域において同和教育がすすめられるようになりました。
 「四認識」とは、教育内容を四つの領域に分けて考え、それらを総合する形で子どもたちの力を育もうとする考え方です。ここでいう「認識」は知識を得るという意味だけではなく、本質をつかみ、確かなスキルを身につけて使いこなすことも含んでいました。教育の土台にあるのが言語認識です。ことばや数などの認識を培い、それによって社会や自然を捉え直し、自分を表現する土台を獲得します。その土台の上に、社会認識と自然認識が培われます。これら三つの領域を中核に据えて、自己表現の力を育むべく、芸術認識が培われるのです。この枠組みによって、あらゆる教科・領域と同和教育とがつながっていることがはっきりしました。すべての教職員が関わりやすくなっていったのです。
 部落問題から始まった同和教育の取り組みは、1970年代になって、取り組む課題を広げていきました。
 ひとつは在日韓国・朝鮮人問題です。戦前からの差別により、在日の子どもたちは通名(日本風の名前)を使うなど、日本社会への同化を強いられ、在日として学校内で立ち現れることが難しくなっていました。それに対して、「本名(民族名)を呼び名乗る」というスローガンのもと、まわりの子どもたちが在日の子どもたちの背景や生いたちを学び、在日の子どもたちの本名を知り、その本名でその子たちを呼ぶことをめざしました。もちろんこれは、在日の子どもたちの側の、在日としての自覚が高まることと同時並行ですすみます。韓国・朝鮮の言語や文化もここでは重要な役割を演じます。
 障害者の教育保障も重要な課題となりました。すでに1950年代から脳性マヒ者の運動体、青い芝の会などが教育保障の運動を展開していましたが、そことつながりながら同和教育のなかで原学級保障がすすみました。「養護学級」で子どもたちが過ごすのではなく、地域から通う他の子どもと同じ学級で毎日を過ごし、そのなかでお互いが成長することをめざしたのです。
 さらに、平和教育も同和教育の課題となっていきました。大阪などから広島や長崎に修学旅行で訪れ、被爆地で被爆者から話を聴くという活動が重ねられました。その際重要なのは、「戦争は大変だ」「自分たちは平和な時代に生まれて幸せだ」で終わるのではないということです。「戦争は仲間や親子を引き裂く」「被害者であるはずの被爆者が、差別を受けて生きてきた」といったことを知り、その被爆者の人たちが、自らの人生をかけて平和を訴えていることを学ぶのです。体験を語る被爆者からは、爆心地で「友だちを見捨てて逃げた」という痛恨の体験を明かされ、子どもたちに「君らはそういうときにも仲間としてつながっていられるような絆をもっていてほしい」「君たちにはそういう仲間がいるか?」と問いかけられるのです。

③人権教育の中核としての展開(2000年~)
 1995年から2004年は「人権教育のための国連の10年」でした。この世界的流れを受けて、日本でも2000年に「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律 」(人権教育・啓発推進法)が制定されました。2002年には「人権教育・啓発に関する基本計画 」が策定され、国内の人権課題として、女性、子ども、高齢者、障害者、同和問題、アイヌの人びと、外国人、ハンセン病元患者やHIV感染者、刑を終えて出所した人、性的マイノリティなどがあげられました。2003年からは「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」が組織されました。同会議は、2008年には「人権教育のあり方について【第3次とりまとめ】 」を発表しました。ここに初めて、日本政府につらなる組織による人権教育の提言が行われるに至ったのです。このような動きを中心になって推進してきたひとつが同和教育運動や部落解放運動でした。
 ここに至って同和教育には、あらゆる人権問題を包括する教育をつくることが課題とされるようになったと言ってよいでしょう。連載の次回では、この時期の取り組みを中心に紹介していきます。

[3]改めて同和教育とは?

 以上のような、簡単な歴史記述から、同和教育について確かめられることがあります。それは次のようにまとめられます。

①同和教育は「仲良し教育」ではなく、「差別をなくすための仲間づくりの教育」である。
 同和教育と言えば、「みんななかよく」という言葉を連想する人がいます。けれども、同和教育の歴史を見ていくと、単に「なかよく」するというのではなく、差別をなくすためにともに取り組む関係を培おうとしてきたことがわかります。人と人とが集まれば、何らかの対立は起こるものです。それを解決しながらさらに絆を強めていこうとすることこそ、同和教育の観点に立った仲間づくりです。はじめから「みんななかよく」というだけでは、人間社会に発生する対立を見ないようになってしまいかねません。それでは「差別がある」と問題提起することそのものも否定されがちになります。

②「差別してはいけない」ではなく、「差別の現実から深く学ぶ」ことを大切にしている。
 同和教育の初期には、「差別してはいけない」と子どもたちにわからせることを教育の第一目標にしていた人たちもいました。けれども、その後、生活のなかに差別があるという認識が広がりました。そこから、差別がどのように表れているのかを学び、そこから教員が自分自身を問い、教員としての確かな生き方を築いていこうとすることを大切にするようになっていきました。差別の現実から学ぶことによって、教職員が差別や偏見、さまざまな思い込みなどにとらわれていたことに自ら気づきます。そこから解放されていくことこそ重要だと語られました。

③同和教育は、仲間づくり・学力保障・進路保障など体系的な実践をつみあげてきた。
 もしも同和教育が、「差別してはいけない」と説教することを目標にしていたら、それは日本の教育を変える力にはならなかったでしょう。差別の現実から出発した同和教育は、部落の親や子どもたちが追い込まれている現実から学び、日本の教育全体を変えていく必要があると考えるようになりました。そのために、あらゆる教科や領域を問い直し、教育制度のあり方に問題提起するようになっていきます。全体を問題にする総合的な教育になっていったのです。

④同和教育は部落差別から出発してさまざまな課題へと取り組みを広げてきた。
 特に1970年代からは、部落差別だけではなく、在日韓国・朝鮮人、障害者、平和などに取り組みを広げていきました。その後、児童養護施設で育つ子どもたち、女性、LGBTQなど取り組む課題はさらに広がりました。広がるうえで、同和教育が基本的な理念と枠組みをもっていたことが、プラスに作用しました。

⑤同和教育は、日本における人権教育を推進する重要な役割を果たしてきた。
 以上の結果、20世紀の終わり、国際的な動向を受けて日本に人権教育の政策や実践が広がるというときに、同和教育は重要な役割を果たしてきました。この段階の課題と取り組みは、連載の次回(第6回)でご一緒に考えます。

個別人権課題に取り組む意義

 この連載の第1回で、人権教育に取り組むうえでの現代的ポイントを説明しました。そのさい、文部科学省が2021年3月に出した「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]補足資料」(以下、「補足資料」と略)をとりあげて、その主張を3点にわたって論じました。第1は新学習指導要領と人権教育は緊密な関係にあること、第2は個別人権課題に重点を置くこと、第3は行動力こそが現代的な目標であることです。このうち第2の個別人権課題に重点を置くということについて、補足しておきたいと思います。第4回以後は個別人権課題を取り上げていくのですが、なぜそうするのかという点について、あらかじめていねいに押さえておく方が迷いなく進んでいけると考えてのことです。

①文部科学省が2008年と2012年に全国の人権教育取り組み状況を調査

 文部科学省は、2008年に「人権教育の推進に関する取組状況調査」(以下、取組状況調査と略)を実施しました。調査の中には、都道府県や市町村の教育委員会を対象としたものもあります。ここでとりあげるのは、学校を対象に実施した調査で、全国の小・中・高校2000校程度が対象となっています。回収率87%ですから、かなり回収率の高い調査であると言えるでしょう。これは、人権教育の実施状況について政府がはじめて全国的な実態を把握しようとする調査でした。調査が実施された2008年と言えば、その年の3月に「人権教育の指導方法等の在り方について【第三次とりまとめ】」(以下、「第三次とりまとめ」と略)が出されており、この「第三次とりまとめ」の内容を土台として取り組み状況調査は組み立てられました。いわば、「第三次とりまとめ」の観点に立って日本の人権教育を診断しようとした調査だと言ってよいでしょう。
 同調査が実施された4年後、文部科学省は、2012年度に第2回調査を実施しています。対象や規模、おもな内容は前回と同様でした。
 ここでは、この二つの調査から1つだけ質問を取り上げて内容について解説したいと思います。取り上げるのは、「指導内容の構成」に関する調査項目です。これは2008年の調査では問12として位置づけられており、2012年の調査では問14として位置づけられています。ここでは、2014年の調査に従って問14として質問文とその選択肢をあげます。なお、それぞれの選択肢の後にかっこ書きしたのは、選択肢を略して表記するための略称で、森が記した文言です。たとえばアの選択肢の最後には(諸概念の知識-知識)とあります。これは、このアの選択肢に森が「諸概念の知識」とラベルをつけたということで、それが知識、技能、価値観・態度という柱のうちでとくに「知識」領域に関わる項目だということを表しています。
 問14の質問文と選択肢を読んでください。

問14 貴校では、人権教育の指導内容として、どのような資質・能力を身に付けさせることに力を入れていますか。次のア~セのうち特に力を入れているものを、5つまでの範囲で選び、記入用紙に該当の記号を記入してください。

 自由、責任、正義、個人の尊厳、権理、義務などの諸概念についての知識(諸概念の知識-知識)
 人権に関する国内法や条約等に関する知識(法律・条約の知識-知識)
 人権発展の歴史や人権侵害の現状等についての知識(歴史・現状の知識-知識)
 人権の観点から自己自身の行為に責任を負う意志や態度(自分の行為への責任感-態度)
 自己についての肯定的態度(自尊感情など)(自己肯定感-技能)
 適切な自己表現等を可能とするコミュニケーション技能(コミュニケーション技能-技能)
 自他の違いを認め、尊重する意識、多様性に対する肯定的態度(多様性肯定感-態度)
 他者の傷みや感情を共感的に受容できるための想像力や感受性(想像力や感受性-技能)
 人間関係のゆがみ、ステレオタイプ、偏見、差別を見きわめる技能(差別や偏見などをみぬく技能-技能)
 合理的・分析的に思考し、公平で均衡のとれた結論に到達する技能(批判的思考技能-技能)
 対立的問題に対しても、双方にとってプラスとなる解決策を見いだすことのできるような建設的な問題解決技能(対立・問題解決技能-技能)
 自他の人権を擁護し、人権侵害を予防したり解決するために必要な実践的知識(人権についての実践的知識-知識)
 自己の周囲、具体的な場面において、人権侵害を受けている人を支援しようとする意欲・態度(被害者支援の意欲・態度-態度)
 正義、自由、平等などの理念の実現、社会の発達に主体的に関与しようとする意欲・態度(社会参加の意欲・態度-態度)

*カッコ内の太字体文言は、グラフとしてまとめるために引用者が付加した。

②日本の人権教育は一般的で情緒的な内容に偏ってきた

 この項目の調査結果を示したのが、図4-1です。2008年と2012年の調査で大きな違いはありませんので、主として2012年の数字に則って説明します。最も高いのは、「キ 自他の違いを認め、尊重する意識、多様性に対する肯定的態度」(86.0%)で、8割以上の学校が「特に力を入れている」内容としてこれを選んでいます。以下、2番目に多い項目として「オ 自己についての肯定的態度(自尊感情など)」(75.4%)、3番目として「ク 他者の傷みや感情を共感的に受容できるための想像力や感受性」(73.8%)とつづき、態度領域の項目が並んでいます。4番目に多い項目として「カ 適切な自己表現等を可能とするコミュニケーション技能」(66.2%)が表れ、技能領域の項目がようやく出てくることになります。けれども5番目に多い項目は「エ 人権の観点から自己自身の行為に責任を負う意志や態度」(41.0%)であり、再び態度領域の項目となります。このように、上位5項目は、態度領域に含まれる項目が多いと言えます。
 逆に、2012年の調査で最も低いのは、「イ 人権に関する国内法や条約等に関する知識」(2.5%)、次いで「コ 合理的・分析的に思考し、公平で均衡のとれた結論に到達する技能」(3.5%)、「セ 正義、自由、平等などの理念の実現、社会の発達に主体的に関与しようとする意欲・態度」(9.1%)、「サ 対立的問題に対しても、双方にとってプラスとなる解決策を見いだすことのできるような建設的な問題解決技能」(10.3%)、「ケ 人間関係のゆがみ、ステレオタイプ、偏見、差別を見きわめる技能」(12.8%)となっています。比率や順位に多少の変動があるとは言え、2008年と2012年とでほぼ同じ結果になっていることがうかがえます。これらの多くは技能領域に属する項目です。こうして、下位5項目は、技能領域の項目が多いのです。
 具体的に項目を挙げるのは避けますが、中位の項目の多くは知識領域に含まれることがわかるかと思います。

 この調査結果を見て、調査の設計に当たった「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」では、日本の人権教育がどちらかと言えば情緒的内容に流れていて、確かな知識やスキルがおろそかになっているのではないかと話し合いました。
 その問題点は明らかです。もしもこの教育が実際に影響を及ぼしているとすれば、それを学んだ子どもたちは、平等や他者の尊重が大切だと感じるようになっても、その裏付けとなる知識がないまま、行動する力も持てていないことになります。「ダメだ、何とかしなければ」と思いながらも、なぜそう感じるのかを説明できず、行動することもできないのです。これでは、よくても子どもたちは引き裂かれた状況に追い込まれます。悪くするとそういう体験が積み重なり、無力感にさいなまれることになります。

③行動力を育む

 上のグラフからも導かれるとおり、実践的な行動力を育む必要があります。「差別してはいけない」ということそれ自体は、多くの人がわかっています。
 たとえば、わたしの住む大阪府が2020年に府民の人権意識調査をしています。質問の一つが「差別は人間として恥ずべき行為であり、私たち一人ひとりが差別しない人にならなければならない」という文に同意するかどうかです。この問に対して「そう思う」と答えた人は92.6%となっています。その一方、人権侵害事象にふれたことのある回答者に対して「どう対応しましたか」とたずねたところ、「抗議、反論した」と答えた人は16.7%にとどまりました。
 また、日本政府が「部落差別解消推進法」第6条に基づいて2019年に部落差別の実態に係る全国調査を実施しました。その調査で、部落差別の内容を知っている人たちに「あなたは,部落差別が不当な差別であるのを知っていますか」と質問しています。その結果、不当な差別だと「知っている」と答えた人が85.8%に及んでいます。では、この人たちはどんな行動をとっているのでしょう。残念ながらこの調査では、部落差別をなくすために自分は何をするかという点について尋ねてはいません。
 大阪府の調査結果を見ると、行動する人はかなり限られていると言わざるを得ません。全国調査から考えると、調査する側も、行動に力点をあまり置いていないのかもしれません。いまの日本における課題の一つは、行動力を育むことなのです。そしてこれは、現在の学習指導要領にも通じます。差別や人権に関わる問題を考え、その解決策を求め、自分が何をするかを考えることは、学習指導要領が求める生きた学習になるはずなのです。

④個別人権課題法から差別禁止法へ

 この10年ほどの間に、個別の人権課題に関する法律は続々と制定されています。2013年6月に障害者差別解消推進法、2016年6月に反ヘイトスピーチ法、同年12月に部落差別解消推進法、2019年4月にアイヌ民族支援法となります。法律制定以外にも、2019年7月には首相談話によりハンセン病家族国家賠償請求訴訟の判決の受入れが決まりました。
 このような変化は、文部科学省の人権教育施策にも反映しています。文部科学省は、令和3年度向け「人権教育研究推進事業公募要領」で、重点課題として「同和問題」、「アイヌの人々」、「外国人」、「ハンセン病患者等」を指定しています。学校や地域が人権教育研究の研究指定を受けようとするならば、応募に当たってこれらの課題に取り組むことを明示する方が採択されやすいということです。
 それぞれの人権課題法は重要な内容を含んでいます。とくに障害者差別解消推進法は、合理的配慮をしないことも差別と規定しています。2013年6月の制定当初、合理的配慮は行政に対してのみ法的に義務化され、民間事業主には努力義務とされていましたが、同法は2021年5月に改正され、民間事業主に対しても合理的配慮の提供を法的に義務付けるようになりました。同法に則して考えると、たとえば電鉄会社が無人駅を増やして、そこで車いすユーザーが乗り降りしにくい状態をつくったとすれば、それ自体が問題を含むということになります。その状態で車いすユーザーが利用を求めてきたときには、当該駅の駅員による車いすユーザーの移動支援に替わる手立てを用意しなければなりません。別な駅の駅員が移動して支援するという方法があります。また、エレベーターなどをその駅に設置して、車いすユーザーが移動できるようにするという方法もあります。もしも利用者が車いすユーザーであることを理由として、電鉄会社やその職員が利用を拒んだとすれば、それは差別だということになるのです。本人との対話を抜きにし、個別の事情を考慮せずに「我が社は○○の手立てを打っているから差別はしていない」と主張するのも同様に問題です。
 障害者差別解消推進法は、現在の日本の法律の中でも差別について一歩進んだ内容を明確に規定していると言えます。同法は、国連の採択した障害者権利条約 に則ってつくられています。障害者の権利条約では、第2条の定義で「合理的配慮の否定」も差別に当たると明確に定めています。この条約を追い風に、日本国内の障害者運動に関わる人たちが取り組んで制定されたのが障害者差別解消法なのです。
 これまでの人権条約では、「必要に応じてとられる特別措置は、人種差別とみなさない」(人種差別撤廃条約 第1条4項)、「締約国が男女の事実上の平等を促進することを目的とする暫定的な特別措置をとることは、この条約に定義する差別と解してはならない」(女子差別撤廃条約 第4条1項)としていましたが、特別措置を行わないことそれ自体が差別だとまでは定めていませんでした。しかも、民間事業主に対しても合理的配慮を求めているのです。このような点で、障害者権利条約や障害者差別解消推進法は画期的な意味を持っています。
 このような動きをふまえて、日本社会は新たな課題に向き合っています。それは、差別行為を処罰する規定を含んだ法律を制定することです。差別行為を処罰する法律を制定するならば、何をもって処罰の対象とするのかをていねいに整理しなければなりません。また、規制にあたっては、国内人権機関 を設置して、それが取り組みをリードする必要があります。国内人権機関は政府から独立して人権確立に動く組織で、人権教育についても責任を担う可能性があります。このように法律制定までにはクリアすべきいくつかの重要な課題がありますが、もしもそういう法律が制定されたなら、法律自体が市民一人ひとりの反差別の行動を応援することになるでしょう。
 そのような社会的課題を見据えつつ、教育の場では、個々人の知識や行動力を育成することが求められます。
 この連載の次回からは、いよいよ個別人権課題について論じることになります。

Society5.0により必要となる人権教育

1.Society5.0のユートピアとディストピアを左右するもの

 SDGsは、国連が提唱している取り組みの中でも、とくに世界が注目し、積極的に関わろうとしていると言えます。日本でもその点は同じで、最近では、企業をはじめ、SDGsへの関わりを表明している団体 がたくさん出てきています。
 文部科学省もその一つと言えます。しかし、最新の中教審答申「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申) 」(2021年1月26日)では、「SDGs」ということばが4回登場するのに対して、「Society5.0」ということばは21回登場します。文部科学省の問題意識がどちらにあるかをうかがえるかもしれません。また、AIが支配する社会について楽観的な見通しをもっていることも答申から感じられます。
 AIの支配する社会については、さまざまな危惧の声があります。2018年3月に亡くなったホーキング博士も、ゆくゆくは、人間とAIとの対立や戦争が起こりかねないと考えていたとのことです。それ以外の人たちの主張を読んでも、2030年代には特化型AI(特定領域をコントロールするAI)が広がり、2040年代になると汎用型AI(社会全体をコントロールするAI)が登場するといった予測があります。こうなってくると、映画の『ターミネーター』や『バイオハザード』などの世界が現実のものとなってしまいかねないということになります。すでに、マイクロソフト社がつくったAI「TAY」が、ツイッターとの対話を通して人種差別主義的反応を示すようになり、マイクロソフト社は「TAY」の電源を切ったと2016年3月に報じられています。
 この段階で重要になるのは、AIのプログラムの根底に人権擁護を組み込めるかどうかではないでしょうか。そして、そのためには、人間が人権についてしっかりと整理し、使いこなすことができるようになることが不可欠です。ここでも結局、人権や人権教育が人類の存続を左右するだろうということです。
 現に、日本政府は2018年12月13日に「人工知能(AI)に関する7つの基本原則」という文書を発表しており、その第1は「AIは人間の基本的人権を侵さない」と定めています。原則のトップに人権が置かれていることは重要です。しかし問題は、どういうふうにすればそれを具体化できるかという点です。ここでも、わたしたち人間自身が人権についてしっかりと整理し、人権をAIの土台の土台に組み込めるほど使いこなせなければ、到底それを望むことはできないということなのです。

2.人権に関連して整理されるべき課題

 では、人権に関わって整理されるべき課題として、どのような事柄があるのでしょうか。ここでは、いくつかをあげて論じることにしましょう。
 人権と関連して整理されるべき事柄はさまざまにあります。たとえば、「まだ死にたくない」と言っている人が老衰によって死んだなら、その人は「生命への権利」(世界人権宣言第3条)を冒されたと言うべきでしょうか。医師になりたかったのに、医師国家試験に落ちてなれなかった人は「職業選択の自由」(世界人権宣言第23条)を奪われたことになるのでしょうか。このように、人権に関わって重要なテーマでありながら、ふだんはあまり議論されていない事柄がいろいろとあります。こういう議論は、人権論にあっては初歩的なテーマなので、すでに整理はされているのですが、とくに子どもたちにとっては未整理感の強いテーマに止まっているのではないでしょうか。教員の間でも、ひょっとすると未整理な場合があるかもしれません。人権を天賦人権説のようにあらかじめ与えられ、疑問を差し挟む余地のない理念と考えていたり、文字面だけで人権を理解したりしていると、こういう議論が深まりにくいものです。こういうテーマで議論してみることによって、人権論の整合性や的確性がわかってくるようになる面があります。
 さまざまにテーマがある中で、近年特に大きな議論の的になっている問題として、ネット上の差別メッセージという問題があります。日本社会は、たとえば「言論の自由」や「営業の自由」と「差別の禁止」との関係を整理する明解な論理をどう持ち合わせているでしょうか。これまで、日本では、部落差別や民族差別などの差別を法的に処罰するという法律はありませんでした。その根拠となってきたのは、「営業の自由」や「言論の自由」です。
 一方、国連では、1965年に採択された「人種差別撤廃条約」のなかで次のように定めています。

第4条
 締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。
(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。
(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。
(c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。

 以上の引用からわかるように、国連では、人種差別行為だけではなく、人種差別を宣伝・扇動することも含めて法律的に処罰の対象とすべきだと主張しています。ここでは、「言論の自由」や「営業の自由」よりも「差別の禁止」を上に置いていることが明らかです。人種差別を宣伝・扇動するような「言論の自由」や「営業の自由」はないということです。
 近年、日本国内では、部落差別などに関連してネット上で差別的メッセージの広がりが問題として指摘されています。とくに、同和地区の住所を記した上で、その地域の映像を流しているという問題が大きく指摘されています。そのような問題も、人種差別撤廃条約の第4条に従うなら、法律的規制の対象とされるべきだということになります。
 日本も人種差別撤廃条約に1995年に参加しているのですから、条約に従って差別の宣伝や扇動を禁止してもよいはずです。ところがそうなってはいません。同条約に参加するにあたって日本政府は同条約第4条(a)及び(b)を留保し、現在に至ってもそれを継続していることに関わります。
 そもそも、日本政府は、部落差別は人種差別ではないという立場をとり続けています。この点は、人種差別撤廃条約の立場と対立しています。同条約の第1条1は、人種差別を次のように規定しています。

第1条
1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。

 この条文の中の「世系」ということばは、インドにおけるカースト制度などを想定しています。インドのカースト制も国連の文脈では人種差別の中に含められているということになります。国連では、当然のごとく部落差別についてもこの人種差別の枠組みに含まれると考えています。しかるに日本政府はそれを認めないまま4分の1世紀が過ぎました。国連の人種差別撤廃委員会は、2018年8月30日の総括所見 で日本政府に対して、次のように勧告しています。

人種差別に関する法的枠組み
7.委員会は,前回の勧告(CERD/C/JPN/CO/7-9, パラグラフ8-9)にもかかわらず,日本国憲法における人種差別の定義が,いまだ本条約第1条に沿うものではないこと及び人種差別を禁止する包括法が締約国に存在しないことを遺憾に思う。(第1条及び第2条)
8.委員会は,締約国が,人種差別の定義を,本条約第1条第1項に沿ったものとするよう確保し,民族的又は種族的出身,皮膚の色及び世系に基づくものを含むものとするべきとの過去の勧告を強調する。また,委員会は,締約国が,本条約第1条及び第2条に沿った直接的及び間接的な人種差別を禁止する個別の包括的な法律を制定することを要請する。

 人権に関わる問いは他にもあり得ます。
 このように、人権について考えることの重要性は、Society5.0を構想するうえでも欠くことはできません。それでは、わたしたち人間自身が人権をそれほど使いこなせるようになっているでしょうか。次回からは、個別の人権課題に即して考えていくことにしましょう。

SDGsと人権教育のつながり

 第2回では、SDGsに焦点を合わせて人権教育を論じてみたいと思います。近年、日本政府は、Society5.0とSDGsを学校改革の出発点としてあげることが増えています。Society5.0は次回に取り上げるとして、今回は、SDGsについてご一緒に考えましょう。

1.SDGsの17目標

 多くの方もご存じの通り、SDGsは2015年に国連が定めた2030年までの目標です。図1にあるSDGs17の目標を記したロゴは、見たことがあるでしょう。しかし、このロゴを一目見て、17あるSDGsの諸目標の関連性が即座にわかるという人は少ないだろうと思います。

図1 持続可能な開発目標(SDGs)
https://www.un.org/sustainabledevelopment/news/communications-material/

2.SDGs目標の相互連関

 SDGsは2015年9月25日第70回国連総会で「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」という文書として採択されました。その採択されたときから、17の目標は人間・地球・環境・平和・パートナーシップという5つの枠組みで説明されていました。その枠組みを使い、これら17の目標の相互関連を示す図があります。それは次のもので、国連情報センターから発信されています。

図2 SDGs諸目標の関連
国連グローバル・コミュニケーション局

 いろいろな説明の仕方があるのですが、一番わかりやすかったのは、次のような説明です。図2の上にある「人間People」は図1の上段、目標1-6に当てはまります。これら6つの目標は、直接人間と関係が深く、「あらゆる形態の貧困と飢餓に終止符を打ち、尊厳と平等を確保する」とされています。人権諸条約など国際的な人権文書との関わりも強いと言えます。
 図2の右側にある「豊かさProsperity」は、図1の中段、目標7-12に当てはまります。これらは、社会の経済的発展との関連が強く、経済的発展が持続可能であるために何が必要かを示しています。「自然と調和した、豊かで充実した生活を確保する」という説明が付されています。
 左側の「地球Planet」は、図1の下段にある目標13-15に特に関わります。環境との結びつきが深い項目です。「将来の世代のために、地球の天然資源と気候を守る」と説明があります。
 これらに加えて、目標16に当たる「平和Peace」、すなわち「平和で公正、かつ包括的な社会を育てる」という項目があります。最後に、目標17「パートナーシップPartnership」があり、「確かなグローバル・パートナーシップを通じ、アジェンダを実施する」とされています。
 このような説明を学ぶと、SDGsというのはよくできた目標だと感じます。一度に17個の目標を示されるだけだとわたしは圧迫感さえ感じたのですが、それを5つに分けて相互の連関を示してもらえると、わたしの場合は、「なるほど」と思えました。
 これら17の目標はすべて、人権と深い関わりがあります。諸目標と人権との関わりについては、ヒューライツ大阪のウェブサイト をご覧ください。
 ここで特に示したいのは、人権教育にとくに関連が深い、目標4であり、そのなかの4.7です。

3.SDGsのターゲット4.7

 SDGsのなかでも、人権教育にとりわけ関係が深いのは、目標4「教育」です。目標4に含まれるターゲットの全文 については、リンク先のウェブサイトをご覧ください。ここでは、とりわけ関わりの深いターゲット4.7を取り上げて説明します。

4.7
2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする。

 前回も紹介した「人権教育・研修に関する国連宣言」(以下「人権教育宣言」と略)は、前文ですべての人の教育を受ける権利(=「人権としての教育」)を確認した上で、第2条で、人権教育には「人権に関する教育」「人権を通じた教育」「人権をめざす教育」が含まれていると定めています。SDGsも同様の構成となっており、ターゲット4.1から4.6までですべての人の教育を受ける権利を規定した上で、ターゲット4.7で教育の内容や質を重視した事柄を定めています。この内容は、人権教育と深く関わるものです。
 ターゲット4.7を読むと、現代的人権教育は、人権について学ぶだけではなく、持続可能な開発のための教育(ESD)、男女平等、平和と非暴力、グローバル・シチズンシップ、多文化共生、開発教育などと結びついて進められるべきだということになります。

4.SDGsへの批判

 このように、国連の提唱したSDGsは世界に広く受け入れられつつあります。日本では、外務省のウェブサイトに「SDGs推進企業」として300近い企業の名前が挙がっています(2021年6月20日現在)。SDGsに積極的に取り組んでいる企業がこんなに出てきているのです。
 しかし、SDGsに対して批判もあります。さきのSDGs推進企業の一つは、最近のイベントで「耳障りのいい言葉を装いながら、その矛先はビジネスチャンスや金儲けに向いていたり、SDGsのためのSDGsがあまりに礼賛されている風潮があります」と述べて、日本におけるSDGsのあり方に疑問を投げかけています。逆に、「国連がそんな目標を提唱しても、実現するのは無理」という悲観的な声もあります。研究者にもさまざまなスタンスがあり、斎藤幸平さんなどは「SDGsは民衆へのアヘンである」と述べて、SDGsを強く批判しています。
 こうした様々な意見を受けとめつつ、SDGsに関わる教育は進めなければならないということになります。SDGsに依拠して進める利点は、なんと言っても日本政府がこれを全面的に支持しているという点にあります。文部科学省などから支持を得やすいですし、逆に批判は向けられにくいと言えます。また、その中に人権もきちんと組み込まれていますから、人権教育としても進めやすいはずです。さらに言えば、批判の声も紹介しながら学ぶことによって、SDGsを越えた発想や具体的取り組みを考えられることにもなります。

「第三次とりまとめ【補足資料】」の示唆するもの

著者近影 この連載では、SDGsや新型コロナウィルス、世界各地での差別事象と人権運動の広がりなどを受けて、これからの人権教育がいかにあるべきかを考えていきます。2011年に国連の採択した「人権教育・研修に関する国連宣言」においても人権教育とは「人権に関する教育」「人権を通じた教育」「人権をめざす教育」といった側面があるとされています。すなわち人権教育とは、教育内容だけではなく、教育の方法や環境、教育目標(行動力)などをカバーするものだということです。国連などの動きも受けて、日本国内でもいろいろな動きが生まれています。この連載では、そうした国内外の動きを味方にしつつ現代的人権教育のあり方を考えることが課題です。
 2021年3月、文部科学省は「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]補足資料」(以下、「補足資料」と略)を発表しました。2008年に「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」(以下、「第三次とりまとめ」と略)が発表され、注目されてきました。それから12年がたち、国内外にさまざまな動きがあるもとで、「第三次とりまとめ」を現代的に読み解く必要が出てきました。それを文書化したのが、この「補足資料」です。
 したがって、「補足資料」には、「第三次とりまとめ」には出ていなかった論点がさまざまに盛り込まれています。この連載の第1回では、「補足資料」を手がかりとしながら、現代的人権教育がいかにあるべきかを3つの観点から論じたいと思います。

①新学習指導要領と人権教育は緊密な関係

 第1の観点は、学習指導要領と人権教育との関係がどうなっているかという問題です。「人権教育に取り組もうとしてもどの教科や領域で取り組めばよいのか?」といった疑問がよく出されます。工夫している学校では、すでにさまざまな時間を活用して人権教育に取り組んでいるのですが、文部科学省はどう考えているのかがここでは問題です。
 この点について、「補足資料」(4ページ)は「第三次とりまとめ」の次の箇所を紹介しています。

教育課程においては、各教科等の形で「人権教育」が設定されていないため、学校における人権教育は、各教科や「特別の教科 道徳」、総合的な学習(探究)の時間、特別活動、教科外活動等のそれぞれの特質を踏まえつつ、教育活動全体を通じて行うこととなる。

 また、現在の学習指導要領に関連しては、新学習指導要領で初めて「前文」がつけられ、そのなかで次のように述べられている箇所(4~5ページ)を引用して、「人権教育の理念とも共通している」と論じています。

これからの学校には、こうした教育の目的及び目標の達成を目指しつつ、一人一人の児童(生徒)が、自分のよさや可能性を認識するとともに、あらゆる他者を価値のある存在として尊重し、多様な人々と協働しながら様々な社会的変化を乗り越え、豊かな人生を切り拓き、持続可能な社会の創り手となることができるようにすることが求められる

 さらに、次の3つの領域と課題について特に必要とされる内容も論じています。3つの領域と課題とは、(1)人権教育の充実を目指した教育課程の編成、(2)人権尊重の理念に立った生徒指導、(3)人権尊重の視点に立った学級経営や学校づくり、のことを指しています。
 これらのことからわかるのは、人権教育は人権学習だけを指すのではなく生徒指導や学級経営をも含むということ、新学習指導要領は「第三次とりまとめ」と軌を一にしているということ、学校は組織を上げて人権教育に取り組むよう文部科学省から求められているということです。

②個別人権課題に重点

 第2の観点は、個別人権課題に重点を置くということです。文部科学省は、2008年と2012年の2回にわたって全国の小・中・高校を対象に「人権教育の取組状況調査」をおこないました。この2回の調査で浮き彫りになったのは、日本における人権教育が、ともすれば自己肯定感や多様性尊重など、情緒的ともいえる点を重視して進められ、知識やスキルを軽視しているのではないかということです。この点については、調査の中心となった「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」の席上でも危惧の念が表明されました。
 それに対して「補足資料」では、個別人権課題をとりあげ、それぞれについて近年の動向を振り返っています。それらのうちでも、部落差別、アイヌ民族、在日外国人、ハンセン病については、令和3年度向け「人権教育研究推進事業公募要領」において、次のように述べています。

 本事業において取り扱う人権課題については、全ての事業で「子供」を必ず取り扱うこととする。本項(1)④及び(2)④で扱う重点課題は、「同和問題」、「アイヌの人々」、「外国人」、「ハンセン病患者等」とし、重点課題を取り扱う企画提案書を優先的に採択する(以下「優先採択」という)。なお、重点課題以外の人権課題について企画提案することを妨げない。

 つまり、文部科学省が推進する人権教育にあっては、これら「同和問題」を筆頭とする4種類の課題に積極的に取り組むことが奨励されているということです。

③行動力育成こそが現代的課題

 第3の観点は、行動力こそが現代的な目標だということです。従来、人権教育の目標は「差別してはいけない」と教えることだと誤解されてきた面があります。先に述べた情緒的目標の端的な例です。1947年に日本国憲法が施行されて以来、「差別してはいけない」ということそれ自体は多くの国民にとって「常識」となってきました。「教えられなくてもわかっている」事柄になったということです。それ以後の人権教育の課題は、「差別してはいけない」ということではなく、どうすれば差別をなくせるのか、そのために自分が何をすればよいのか、といった点を学ぶことになりました。子どもたちの側はそのような内容を期待しているにもかかわらず、学校の人権学習では「差別してはいけない」という結論にとどまることが多いのが実情です。近年になればなるほど、教員と子どもとのこのギャップが大きくなっているようです。
 これからの人権教育では、身の回りで差別的な言動が起こったときに自分がどうすればよいのか、社会のどういう面に差別の根っこがあるのか、差別のある社会を変えるために自分に何ができるのか、といった点を考えるべきだということになります。

 「補足資料」では以上のような点を特に重視しています。では、わたしたちの学校では、具体的にどうしていけばよいのでしょうか。これがこの連載の課題です。その点を考えるために第2回では、SDGsについて論じてみたいと思います。