目標(夢)に向かって 力強く

世界も認めるレジェンド

 ソチオリンピックの年、私は10年ぶりのW杯優勝を果たした。41歳7か月の勝利はスキージャンプ界の歴史を覆す出来事だ。私はオリンピックのメダルももうすぐだと思った。メダルの方からやってくる、そんな気がした。そして、ついにオリンピック当日がやってきた。朝食前に散歩に出て、遠くに広がるソチの山々を見ながらイメージトレーニングを重ねた。リラックスして過ごしたあと、午後からは軽い筋力トレーニングで体の調整。午後7時ごろ一人で会場に向かった。
 いよいよ私の番の1本目がきた。助走、サッツのタイミング、空中姿勢、何もかもがイメージ通りだった。飛距離は139メートル、得点は140.6。2位につけた。
 2本目。私は集中し、すべてがかみ合ってもいた。飛距離は133.5メートル、得点は136.8。最後の一人カミルを残して飛び終わった。そしてカミルは132.5メートルを飛んだ。結果は、2本目の飛距離も得点も、私はカミルをわずかに超えた。それでも1.5ポイントしか上回ることしかできず、わずか1.3ポイントの差で金メダルを逃した。金メダルに匹敵する結果だった。
 「ク・ヤ・シ・イ!」と私は叫んだ。最大のチャンスだったので、本当に悔しかった。しかし、ついにオリンピックで初めての銀メダルを獲得した。うれしさがあふれるようにこぼれてきた。

3つのギネス世界記録に認定された

 私は7度目の、2014年ソチオリンピック後、3つの「ギネス世界記録」に認定された。「冬季五輪最多7度出場」、「41歳219日、W杯最年長優勝」、「ジャンプ種目の冬季五輪最年長メダル」の3つだ。こうして私はレジェンドになった。人は成功してもどこかでまた失敗するだろう。失敗し最下位に落ちても、諦めずに努力し続ければ必ずよみがえることができるのだ。

もっと遠くへ、ジャンプとの出会い

 私は、1972年、札幌オリンピックの年に北海道北部の内陸の町、上川郡下川町に生まれた。スキージャンプで有名な町だ。亡くなった母の話では、小学校に上がるまでは月の半分は病院へ通っていたほど病弱な子どもだったそうだ。小学校に上がるころからは健康になったので、山や川を飛び回っては、自然を相手に遊んでいた。父に勧められ、マラソンも始めた。冬はもちろんスキー。家の裏にあるスキー場にはジャンプ台が4つ設けられていて、冬になると、ここが遊び場だった。私の柔軟な体と足腰のバネは、下川町の自然に培われたようなものだ。
 スキージャンプとの出会いは、小学校3年生の冬。友達に誘われてジャンプ台のスタート地点に立ったときだ。
 「ウワァ! 怖いなぁ~」アプローチを見下ろしながら、友達と二人で叫んでいた。ものすごく怖いけど、飛びたい。怖いけど、どこまで飛べるのだろうっていう冒険心があった。結局、「よし、行っちゃおう」と着地の方法も知らないまま滑り降りていた。ほんの一瞬、空を舞っているような気分になり、ものすごく楽しかったのをよく覚えている。
 初ジャンプで競技のおもしろさを知ってしまった私は、両親に隠れてジャンプを始め、どんどんのめり込んでいく。「もっと遠くへ飛びたい」、その一心だった。今でもフライングヒル競技は怖いが、あのときと同じ興奮に包まれる。「どこまで飛んでいけるのだろうか、どこまでも飛んでいきたい」と。

多くの人々に支えられて

 ジャンプ少年団に所属し、下川町主催のスキー大会に両親に内緒で出場した。小学校3・4年生部門で2位になり、ますますジャンプばかりの日々を送るようになった。そのころからジャンプ少年団の関係者が訪ねてくるようになり、両親を悩ませた。費用のかかる競技だということはよく理解していた。でも、私はやめたくなかったのだ。姉や妹は「スキー代にお金がかかるから、これからお小遣いやお年玉は無くなるからね」と母から言われていたと姉から聞かされた。母は一生懸命働いてくれていたし、姉も妹も何も言わず、ずっと私のジャンプを応援してくれていた。家族は、今も変わらずずっと陰ながら支え続けてくれている。
 私は高校時代から札幌に出て、東海大四高のスキー部にお世話になった。住み慣れた下川町を離れ、札幌で寮生活だ。私自身、知らない人ばかりの札幌暮らしへの不安もあったが、よき指導者や温かい級友に恵まれ、快適な高校生活を送れた。なんといってもスキーの環境は最高だった。
 上杉監督は世界を相手に競技することを勧めてくれ、高校2年から頻繁に海外遠征を行うことになる。このとき、私はすでに世界を見据えていた。改めて、支援してくれる人たちや級友たちに支えられていたのだと実感する。人は一人では生きることはできない。周りの人々の深い理解、協力がなければ物事は進まないのだ。今も、こうして飛び続けていられることに、本当に心から感謝したい。

新たな夢に向かって歩み続ける

ソチオリンピックで川本副会長と女子ジャンプの応援に

 いいことばかりだったわけじゃない。失敗ジャンプ、2度の鎖骨骨折、それに身内の不幸……。それでもアスリートなら、どんな試練からも立ち直らなければいけない。
 紆余曲折はあったが、土屋ホームの川本謙社長(現副会長・スキー部総監督)との出会いで、私は変わることができた。川本社長は、全社員を巻き込んで社内でスキー部の後援会を作ってくださった。そして、どんなに業績がたいへんなときもスキー部を無くすようなことをせず、しっかり支え続けてくれたからだ。成績が残せないからとやめさせられるという不安から解放され、のびのびと安定した状況のなかで活動することができたのは大きい。素直な気持ちで厳しいトレーニングにも精を出すことができた。
 また社長は、人として荒削りで未熟でガンコ者の男、非礼、無礼、失礼だったかもしれない私に、時には優しく、時には厳しく、時間をかけ、いろいろなことを教えてくださった。オリンピックでメダルを取ることができ、スキー部を支え続け、応援し続けてくれた土屋ホームの社員の皆さんや川本社長に少しだけ恩返しできたような気がしている。
 メダルを取ってからは、また多くの人たちに出会い、スキー以外の多忙な日々を送ることになった。そして、今までとは違う景色を見ている。特に、社会人として礼儀作法、服装、所作、そして、言葉遣いなど、「学び直し」として考え、実践している。これからの新しい選手たちにも伝えていかなければと感じている。
 でも、私にはもう一つ、「金メダルを取る」という仕事が残っている。人はいつも目標(夢)があるから力強く前に歩み続けることができるのだと思う。
 可能性と夢は、いつも自分の歩いていく、すぐ前に残し続けていく方がいい。だから私はここまで来ることができたと思う。
 今、金メダルは夢ではなく、超えていくものの一つだと思うのだ。

写真:土屋ホーム

 

→この記事が掲載されている「教育情報No.7」全編は、当サイトの機関誌・教育情報「教育情報」にて公開中です!

 

葛西 紀明(かさい のりあき)
北海道下川町生まれ。小学3年生でスキーを始める。2014年W杯最年長優勝(41歳7か月)。2014年2月のソチ冬季五輪では個人ラージヒル銀、団体銅のメダルを獲得。同年3月、W杯最年長優勝、冬季五輪7大会連続最多出場、冬季五輪スキージャンプ最年長メダリストの3つがギネス世界記録に認定される。現在、土屋ホームスキー部選手兼監督。

日常のアート化とコミュニケーション(第2回)

2000年1月より「日常のアート化」をテーマに、バケツを使用したプロジェクトを世界中で開始した。

日常物に、人を介在させて、時間と空間を変容させながら、様々な作品を生み出して来た。

木にバケツをぶら下げた[バケツ・ツリー]から始まり、バケツ×子どものパフォーマンス[バケツ☆キッズ]、バケツ×中高校生のパフォーマンス[コーン♡ギャル]&[コーン★ボーイ]、バケツ×サラリーマン[バケツ・サラリーマン]、バケツ×サッカー[バケツ・キック!]などのヒットすることとなった。

個展デビューは、1999年1月に青山で行った[モーツァルトを絵画する]展。
岡本敏子さんが展覧会を観に来てくれて、それがきっかけで岡本太郎アトリエで仕事を手伝う事となる。

左から、獅子倉シンジ、岡本敏子、荒川修作

そして、2001年末に新宿中央通りにて、アーティストと商店街のコラボレーションという当時としては革新的な試みで、約1ヶ月間の[新宿バケツ☆ストリート]個展を行った。会期中は通りのフラッグすべてに、私の作品をプリントして展示(どのような作品であったかは後に説明)、三度のアートパフォーマンスを行った。

国内だけでなく海外からも取材が殺到し、年末の大きな話題となり、翌年のお正月特別番組「NHKトップランナー・スペシャル」に “2002 NEW WAVE ARTIST” として出演した。

当時の様子を熱心に取材してくれた “The Japan Times” のインタビュー記事を二回(前編・後編)に分けて、皆さんにご紹介したいと思います。

ART
SHINJI SHISHIKURA

Attack of the coneheads

BY JUNJI NISHIHATA
DEC 5, 2001

Picture, if you will, a typical Saturday afternoon in Shinjuku. Throngs of people scurry to and fro, delivery trucks troll by belching fumes, while scooters dart in and out of traffic. This time, though, something’s up.
A crowd has gathered in front of the chic Beams gallery on Chuo-dori. Television crews are milling around, lending a sense of expectation to the atmosphere. Before the gallery stands a wall of multicolored plastic buckets. What could be about to happen?
Suddenly, from within the gallery comes an answer — of sorts. An ominous scraping beat can be heard. Then the crowd surges forward, gasping, as a troupe of schoolgirls emerges.
But these are no ordinary girls, navy-styled uniforms notwithstanding. Safety cones spray-painted a fluorescent pink sit atop their heads, covering their faces. The girls’ feet are adorned with plastic buckets, hence that sound so reminiscent of a marching battalion in old war movies.
As the girls shamble along Chuo-dori, they pause to peer into restaurants much to the consternation of the diners. A man exiting a pachinko parlor stops in amazement as he watches the bizarre procession before him, followed by a crowd now a few hundred strong.
The Cone Girls aren’t modeling the latest in street fashion, though: They’re an art show.
The mastermind behind the happening (who discreetly records the proceedings on video) is Tokyo-based performance artist Shinji Shishikura. Over the past two years, Shishikura has staged similar events in both Japan and Europe. He favors the use of everyday items in his works, particularly plastic buckets. One past show involved a group of schoolchildren drumming on such buckets, then launching a mock attack on Shishikura himself, clad in a giant plastic garbage can.
“The image that Japanese people have of art is too narrow,” Shishikura offered by way of explanation in an interview before his show. “It’s destroying the possibility of creation.”
Shishikura claimed that Meiji-Era mass importation of European culture had created a stagnant legacy for Japan’s artists and their audience. “The Japanese word for art, bijutsu, is made of the characters for ‘beauty’ and ‘technique.’ But what about something that is neither?” he asked. Using everyday materials like buckets and safety cones is an obvious challenge to rarefied notions of what is or isn’t art. Shishikura’s motivation is simple and direct: “I would like to break these invisible walls.”
oxicated men came up to the booth. “Is this some kind of promotion?” they asked the woman behind the counter, who simply smiled and laughed. Some kind of promotion, indeed.

To be continued…

[訳]
 よろしければ、典型的な土曜の午後の新宿を思い浮かべてほしい。大勢の人々があちらこちらで足早に行き交い、配送車は湯気を吐き出し、バイクが勢いよく表通りに走りだし路地へ消えて行く。だが、こんな中で何かが起きようとしていた。

 人だかりが中央通りの沿いのシックなBEAMS前にできていた。テレビ局のクルーたちが辺りを駆けまわり、その場の雰囲気に期待感を与える。BEAMS前には色とりどりのプラスチック・バケツの壁。いったい何が始まろうとしているのだろうか。

 突然、その答え…らしきものがBEAMSギャラリーの中から起こった。何かの前触れのようなスクラップビートが聴こえてくる。すると、あえぐように群衆はどっと前へと押し寄せる。女子高生の一団が現れたのだ。

 だが、彼女たちは濃淡の制服を着てはいるものの、普通の少女たちではない。蛍光ピンク色にスプレーされた工事現場にあるコーンを頭から顔まですっぽりかぶっている。足下はプラスチック・バケツで飾られ、その足音はまるで古い戦争映画の部隊行進を思い起こさせる。

 彼女たちはぎくしゃくと新宿中央通を進む。途中、道沿いのレストラン前で立ち止まって中を覗き込み、食事中の人々を仰天させた。パチンコ店から出てきた男性は彼女たちに驚いて足を止め、目の前の奇妙な光景に目を奪われるが、すでに数百人にも膨れ上がった群衆に呑み込まれて行く。

 ちなみに、この[コーン♡ギャル]は最新のストリート系ファッショショーのモデルたちではない。彼女たちはある芸術的パフォーマンスの最中なのである。

 この一連の出来事との仕掛人は、東京を拠点にパフォーマンス等で国際的に活躍するアーティストの獅子倉シンジである。過去、2年以上に渡って、獅子倉は日本・アジア・ヨーロッパなどで同様なイベントを手がけて来た。彼は自身の作品であるプラスチック・バケツのような日常生活用品を好んで用いる。

 実際、これまでにも、このプラスチック・バケツを打ち鳴らす小学生の楽隊[バケツ☆キッズ]を同様の企画に登場させており、このとき、獅子倉自身も大きなプラスチックのゴミ箱に身を包んでいる。

 このイベントに先立つインタヴューで獅子倉は自説を述べている。「日本人が美術に抱くイメージはあまりに狭過ぎますし、かえって創作の可能性を損なっています。」

 また、獅子倉は「明治維新以降のヨーロッパ文化の極端な導入が日本の芸術家やその愛好家に淀んだ負の遺産を残している。」と主張する。

 さらに、獅子倉は「そもそも “ART” を表す日本語の “美術” という言葉は “美” と “術” という漢字からできているが、それではそのどちらにも当てはまらないものは何なのか?」と疑問を投げかける。

 したがって、プラスチック・バケツや工事現場にあるコーンのようなごく日常的なオブジェを自身の作品に用いることは、芸術か否かと言った高尚な概念に対する獅子倉の明らかなる挑戦である。獅子倉の創作意欲の原点は単純にして明快。すなわち「目に見えない壁を打ち破りたいのです。」

次回(後編)に続く。

獅子倉シンジ・プロフィール / SHINJI SHISHIKURA Profile
多摩美術大学卒業。世界各地(東京~パリ~ミラノ~ヴェネツィア~フィレンツェ~オランダ~ニューヨーク~上海)でアートパフォーマンス&展覧会を行っている。
第1回横浜トリエンナーレ、水戸芸術館「C.A.F.E. in Mito」、国立国際美術館「フルクサス裁判」、2002 FIFAワールドカップ記念文化催事、金沢21世紀美術館開館記念、養老天命反転地、東京国際フォーラム(アジア最大のアートフェアにて個展とオープニングパフォーマンス)、coba Live!、NHKハート展、BEAMS ARTS、アメリカ大使館、アンスティチュ・フランセ(日仏文化協力90周年)、NHKトップランナー、NHKワールドプレミアム出演。
現在美術教育にも力を注いでいる。

日常のアート化とコミュニケーション(第1回)

子どもの頃から、絵を描いたりモノを作ることが好きだった。

高校生になって、進路について真剣に考えていたときに、レオナルド・ダ・ヴィンチの本を読み、ミケランジェロの作品を美術館で観て感動した。

しかし、ルネッサンスマンにあこがれはしたものの、当時はマンガ、映画、ロックに夢中で、どうしても時代のズレを感じていた。

そのときに、生まれて初めて会った日本人のアーティストが岡本太郎である。

彼の考え方は明快だった。「本当の進路は、一流企業や大学に入る事ではなく、どのように生きるかだ。」

目からウロコが落ちた。方法論ではなく、人生が一枚の絵であることを知った。

2000年1月から「日常のアート化」をテーマに、アート活動「バケツ・プロジェクト」を開始した。

最初に展示を行ったのは、当時、アシスタントをしていたアーティスト・折元立身プロデュースの「TOKYO TATAMI SPACE」展で、日本よりヨーロッパで話題になった。

彼の自宅の庭の木にバケツを吊るした「バケツの木」のアート作品がそれである。

そして、バケツの木から生まれた[バケツ☆キッズ(BUCKET KIDS)]へとストーリーは続く。

『日常物のキーワード、大量消費社会のアイコンとしてプラスチックのバケツ、コーン、ボールを選んだ。

美術の中から作るのではなく、日常から素材を選び、再構成して日常の中に戻し、元々の意味を変えていく。

歴史をひもとくと、日本では約60年前に初めて商品化されたプラスチック・バケツ。

新し過ぎず、古過ぎず、生活になくてはならないモノ。

また、どこへ行ってもあるが、地域により微妙にデザインが異なっている点に、その国の文化・歴史が隠されている。』

アート(美術・ヴィジュアルアーツ)の言葉は「色・形・空間」である。

アートは世界共通語である。

アートを使ったコミュニケーション。

国・人種・性別・年齢・職業・ジャンルを超えて、美術館という聖域のみならず、日常空間をアートで埋め尽くし、そして観客を取り込んでいく。

バケツプロジェクトは、どこまでアートか? アートとは何か? という観客(社会)に対する問いで、夢で、希望である。

人と人をつなぐバケツアートにより、私の世界への旅は始まった。

次回は、実際にどのようにアートパフォーマンス&展覧会を行っているかを話しましょう。

獅子倉シンジ・プロフィール / SHINJI SHISHIKURA Profile
多摩美術大学卒業。世界各地(東京~パリ~ミラノ~ヴェネツィア~フィレンツェ~オランダ~ニューヨーク~上海)でアートパフォーマンス&展覧会を行っている。
第1回横浜トリエンナーレ、水戸芸術館「CAFE in Mito」、国立国際美術館「フルクサス裁判」、2002 FIFAワールドカップ記念文化催事、金沢21世紀美術館開館記念、養老天命反転地、coba Live!、NHKハート展、BEAMS ARTS、アメリカ大使館、アンスティチュ・フランセ(日仏文化協力90周年)、NHKトップランナー、NHKワールドプレミアム出演。
現在美術教育にも力を注いでいる。

フューチャースクールの“その先”へ(後編)

1.学校現場の不安

 総務省「フューチャースクール推進事業」と文部科学省「学びのイノベーション事業」の実施以来、新たな教育の情報化の可能性が広く認識され、導入に向けた取組みが全国各地で進んでいます。しかし、学校現場には不安もあります。パソコンに詳しくない自分でも本当に使うことができるのか? 本当に必要なのか? 今までの授業の良さがなくなってしまうのではないか? などです。普通教室という日常の学びの場にコンピュータがやってくるインパクトの大きさを考慮すると、これらの不安は当然のことです。フューチャースクールの実証校でも同じような不安がありました。どのようにして取組みを定着させたのでしょうか。3年間の実践を通じ、定着に向けた3つの成功の鍵(ポイント)が明らかになりました。

2.コントロールする

 教育の情報化の最大の不安は、人と情報通信技術(ICT)の主従関係が逆転することです。ICTに人が「使われる」状態に陥り、これまでの教育で大切にしていたことが失われてしまうのではないかなど、ICTとの向き合い方によっては、これらの不安は現実のものになるかもしれません。それを避けるためには、ICT環境(システム)の安定性とシステムを思い通りに操作する利用者の技能(リテラシー)の習得が第一に求められます。この2つは車の両輪です。一体に取組むことで初めてICTを主体的にコントロールできるようになります。新たな機能や性能より誰もが簡単に自由に安定して使えるシステムを導入すること、そのシステムを利用するための技能やノウハウを習得できるサポート体制をつくることが重要です。

3.成功体験を積み重ねる

 児童・生徒の学力、クラス環境等といった様々な要因により指導方法は変化します。ICTは授業を画一化する道具ではなく、多様化する道具として捉えるべきです。金太郎飴のような同じ授業ではなく、環境変化に応じた多様な授業をするための道具として、ICTを活用することが重要です。そのためには、誰かが考えたICTを活用した授業方法をそのまま取り入れるのではなく、その取組みを参考にしつつも、現場の教員が自ら考え、試行錯誤することが求められます。教員が主体的に取組むためには、何よりモチベーションを維持することが重要です。短期間に成果を求めるのではなく、小さな成功体験を積み重ね、その成果を確認しながら、一歩ずつ定着を図るアプローチが求められます。

4.組織として学び・成長するサイクルをつくる

 教育の情報化の最終段階は、組織への定着です。組織への定着とは、どのような状態を指すのでしょうか? それは、組織的な取組みとして活動し、振り返り、より良いものにするためのアイディアを生み、新たに活動する、「学び・成長するサイクル」が形成されている組織であることです。その実現にあたっては、データの蓄積と学習の継続的な取組みが土台になります。まず、個人の知識・ノウハウを組織全体で共有できる環境を構築します。自作のデジタル教材や指導案等の活動記録を学年、教科、単元などに応じて整理し、サーバなどで共有することで、個々人の知見を組織全体の財産にすることができます。次に、蓄えられた情報をもとに研修等を通じて教員間で学び合うことで、知識・ノウハウの定着を図るとともに、意見交換により気づきを促し、新たな指導方法等のアイディアを創発し、新たな活用を図り、その情報を共有する、「学び・成長するサイクル」を形成することができます。これらを一過性のものではなく、継続的な取組みとして定着させることが重要です。一部のフューチャースクールの実践校では、教員による自主的な研究会を週1回20~30分程度、継続的に実施することで活動の定着をはかりました。ここでも個人の取組みと同じく、一歩ずつ着実に積み重ねることが重要な鍵となります。

 これらの3つのポイントには、共通して心掛けることがあります。それは、教員自らがワクワクし、「楽しむ」ことです。その思いは、児童・生徒にも伝わり、取組みを活性化し、学習効果を高めることでしょう。教育の情報化は、効果的に教科を教えることだけを目的とするものではありません。「学び」の楽しさを教えるための、新たなコミュニケーション基盤として活用することが、より本質的な目的になります。教員が自ら「学び」の楽しさを再発見し、「学び」の楽しさを実感できる授業を実践することこそが、教育の情報化を大きく前進させる原動力となるのです。

 

蛯子 准吏(エビコ ヒトシ)
北海道大学公共政策大学院教授
ボーズ株式会社入社、長野オリンピック冬季競技大会組織委員会情報通信部通信課主事への出向を経て、富士通に入社し富士通総研出向。内閣府地方分権改革推進委員会事務局上席政策調査員出向

フューチャースクールの“その先”へ(前編)

1.「一人一台」時代の幕開け

 「一人一台の情報端末」の環境のもと実施された大規模な実証調査事業、総務省「フューチャースクール推進事業」と文部科学省「学びのイノベーション事業」。これらの事業では、一般的な公立の小学校の普通教室に、一人一台のタブレットPC、電子黒板、無線LAN、クラウドなどで構成されたICT環境が構築されました。当時は、タブレットPCも一般的なものではなかったため、大きな驚きとともに、少し遠い未来の取組みとして捉えられていたように思います。
 4年間に渡る実証校の創意工夫による取組みは、従来のパソコン教室とは異なる、新たな情報通信技術(ICT)を活用した授業モデルを産み出しました。誤解を恐れずに言えば、ハイテクなイメージを抱かせない、コンピュータを普段使いの道具として活用する実践的なモデルです。ICTの特性に合わせて授業をするのではなく、授業の目的に合わせてICTを活用する。そして、何よりも子ども達がいきいきと楽しく学べるようICTを活用する。実証校でみられたこれらの取組みが、教育現場における新たなICT活用の方向性を示したのだと思います。上記の事業は、教育の情報化のあり方を大きく転換させる契機となりました。

2.ICTを活用した新たな授業モデル

 新たな授業モデルとして、3つの学習形態が提示されました。指導者が多数の学習者に対して一斉に指導する「一斉学習」、個々の習熟度に応じて学習する「個別学習」、そして新たな学習形態である、学習者同士が教え合い・学び合う「協働学習」です。
 一斉学習では、主に電子黒板を、黒板と併用して活用します。黒板には、授業の内容を最初から最後まで俯瞰できるよう、ポイントや小課題(めあて)を板書します。電子黒板には、個々のポイントをより効果的に伝達するため、市販のデジタル教材、教員の自作教材、書画カメラの映像等を表示します。電子黒板は、黒板を置き換えるものではありません。その場に「残る情報(黒板)」と「残らない情報(電子黒板)」の特性を踏まえ、両者を使い分けることが重要だということが明らかになりました。
 個別学習では、手書き入力が可能なタブレットPCの特性を活かし、漢字や計算等のドリルを、個々の進捗に合わせて学習することができます。個別に指導することが困難な漢字の書き順などの指導を、コンピュータが代替します。学習履歴を管理することで、苦手な問題を繰り返し解くなど、学習効果を高めることができます。
 協働学習では、タブレットPCと電子黒板を主に活用します。個々のタブレットPCに書き込んだ「考え」は、瞬時に電子黒板に集約し、表示することができます。活性化するコミュニケーション活動を授業の目的に沿ってどのようにコントロールするのか、新たな課題が生じました。初めての取組み故、試行錯誤を重ねましたが、基本形とも呼べる一つのモデルが生み出されました。“課題をつかむ→個人の考え→グループの考え→全体の考え→まとめ”という展開を基本としたモデルです。今までのICT活用とは異なる、コミュニケーション活動に着目した新たな学びのモデルです。

3.一人一台が変えたこと

 ICTは授業にどのような変化をもたらしたのでしょうか。主に3点があげられます。
 第一に「情報量の増加」です。教科書などの紙の教材に加え、紙では表現できない音声、動画などのマルチメディア教材を活用することで、理解を深め易くなりました。また、図形の問題をタブレットPC上で試行錯誤を重ねるなど、体験を通じて学ぶこともできるようになりました。
 第二に「時間の有効活用」です。ICTが持つ、転送・表示が瞬時に行える特性を活かし、資料の準備・提示・配布・回収などの時間を、大幅に短縮できるようになりました。例えば、今まで45分間かかっていた内容の授業を40分間でできるようになり、新たに生まれた5分間を、振り返りや、次の授業のための説明などに使うことができるようになりました。
 第三に「コミュニケーションの活性化」です。やり取りが増える量的な変化のみならず、質的な変化もありました。それは今まで実現できなかった、思考過程の可視化です。課題の「答え」だけでなく、その答えに至ったプロセス、すなわち「何故そのように考えたのか」を限られた時間の中でも共有できるようになりました。学習効果を高めるだけでなく、お互いをより知ることにつながり、ある実証校からはいじめがなくなったとの話もうかがいました。これは、事業開始時に予想もしなかった効果です。ICTというと、機械的な冷たい印象がありますが、人と人とのつながりといった、暖かい部分での効果があったのだと実感しています。

 

蛯子 准吏(エビコ ヒトシ)
北海道大学公共政策大学院教授
ボーズ株式会社入社、長野オリンピック冬季競技大会組織委員会情報通信部通信課主事への出向を経て、富士通に入社し富士通総研出向。内閣府地方分権改革推進委員会事務局上席政策調査員出向

電子教科書の現在とこれから

1. 電子教科書の動向

 近年、学校の教科書を電子化し、タブレットPCなどで見て学習する「電子教科書」の動きが加速しています。文部科学省は2011年に「教育の情報化ビジョン」を発表し、2020年までに初中等教育で電子教科書を使えるようにする目標を揚げました。また、「学びのイノベーション事業」で全国で20の小・中・支援学校を対象に実証実験を行いました。
 こういった動きは日本だけではありません。韓国では2008年に実証実験をはじめ、2015年末には全国の小中高に電子教科書を導入する計画です。中国、台湾、フィリピン、シンガポールなどのアジア諸国も導入に向けた検討や実験を進めています。ヨーロッパでも、イギリス、ポルトガル、フランスなどが導入を進めており、アメリカのいくつかの州では実験がはじまっています。

2. 電子教科書で学力が低下する?

 電子教科書を巡っては、さまざまな反対意見もあります。その理由として、「学習が画一的になる」「正解を求める学習に偏りがちになる」「書く機会がなくなるので学力が低下する」「先生と生徒のコミュニケーションが途絶する」などがあります。
 もちろん、こういった危険性もあります。しかし、「紙の教科書だから多様な学習を展開できる」とも限りません。「正解を求める学習に偏る」のは、電子媒体だからでしょうか?これらは、授業をどのように展開するかを先生方が決め、生徒に何を求めるかによって決まってくるものです。電子教科書は、学びの場におけるツールや環境であって、学び自体を形作り、展開していくのは、結局は先生方の技量や経験に大きく依存しているのです。
 ただ、今まで授業で使ってきた紙媒体が電子媒体に切り替わることに、不安を抱く方も多いと思います。昨年、筆者は教員の更新講習にタブレットPCを持ち込み、先生方に使っていただきました。当然、使い慣れるにはそれなりの時間がかかります。しかし、使いこなせるようになり、PCならではの便利さを実感された先生方も多くいらっしゃいました。「なるほど、こう使えばいいのか」という安堵と、「でも紙を離れるのは…」という漠然とした不安を両方お持ちの先生方が多かったと思います。

3. 「先生が楽になる電子教科書」を目指して

 現在の学校は、先生方にとって楽な勤務環境ではありません。残業も多く、週末も様々な仕事や行事に時間を費やす必要があるのが現状です。これに加え、電子教科書を導入して更に負担が増えるという事態は、できる限り避けたいのが本音だと思います。
 導入の初期には、環境の変化により混乱が生じる危険性があります。しかし中長期的には、先生方の負担を減らす様々な工夫を、電子教科書に盛り込むことが可能ですし、そうあるべきだと考えています。
 例えば、簡単なクイズであれば、PCのプログラムを使って自動的に正誤判定をしたり、間違えた生徒にヒントを提示することができます。宿題も、サーバーに集めることによって自動的に一覧表示し、提出状況をまとめられます。また、支援学校の拡大教科書や読み上げなども大幅に省力化できます。こういった機能により、現在は人手をかけざるを得ないルーティーンワークの多くを自動化できるのです。これにより、「先生が本当に時間をかけるべき」生徒に、より多くの時間を使うことができます。言い換えれば、導入されるPCやサーバーを、先生方の「助手」として使っていただき、定型的な処理はそれらに任せ、先生方でなければできないことに時間を使っていただきたいのです。
 現在さまざまな機関で、電子教科書の機能に関する議論が行われています。日本では、文部科学省や総務省が議論や試作開発を進めていますし、CoNETSでも議論が進んでいます。国際の場でも、ISOがeラーニングの規格を議論するSC36で電子教科書の規格検討をしており、またIDPF(国際電子出版協会)がEDUPUBという規格の議論を2013年から開始しています。メンバーの多くは、現在の教育現場の問題点を捉え、それを解決したいと考え、ボランティアで議論に参加しています。こういった状況を踏まえ、先生方にも「電子教科書のあるべき姿」の議論に参加していただけると幸いです。
 「学校の現場で、教科書や資料が紙媒体から電子媒体に移行する」ことについては、上にも書きましたように様々な賛否両論があります。技術面から見た場合、現在の紙媒体の資料が一気になくなる、ということはないと思います。紙のノートに書き込んだ方が理解が進む科目や単元があります。電子媒体に置き換えても、まだ機能が不十分で、学習に使えない、ということも多くあるでしょう。その一方で、電子媒体に置き換えると学習効果が高まる科目や単元もあります。学習内容を吟味し、効果があがるところから徐々に電子媒体に置き換えていく、というのが、学校の現場における進め方ではないかと、個人的には考えます。電子教科書の導入は、「媒体を電子化する」ことが目的ではなく、「より学習効果を高める」ことが目的です。その意味で、技術面に関わる人間として、現場の先生方と意見交換を行いながら、「より良い学習」を目指していきたいと考えています。

 

田村 恭久(タムラ ヤスヒサ)
上智大学理工学部 教授
1961年東京都生まれ。1987年 上智大学大学院修了。同年 日立製作所勤務。1993年 上智大学理工学部助手。同講師、助教授を経て、現職。日本eラーニング学会、アスカアカデミー等理事。ISO SC36 e-Textbook Project co-editor

特別支援教育と「インクルーシブ教育システム」

障害者の権利条約の批准とインクルーシブ教育システム

 マスコミで大きく報道されることはなかったが、我が国は2014年1月20日に国連の「障害者の権利に関する条約」を批准した。この条約は人権条約であり、インクルーシブ教育の推進とも深く関わっている。本条約を批准すると、「障害に基づくあらゆる差別の禁止」、「障害者の社会への参加・包容の推進」、「条約の実施を監視する枠組みの設置」などの措置が求められることになる。そのため、批准に向けて関連国内法の整備が慎重に進められてきたが、2007年に署名してから実に6年あまりの歳月を費やしたことになる。世界で141番目の批准であった。
 この条約にはインクルーシブ教育システムの理念が示されている。このシステムは、「障害のある者と障害のない者が共に学ぶ」仕組みであり、「障害のある者が教育制度一般(※1)から排除されない」というものである。このことは、見直された改正障害者基本法にも反映され、「可能な限り障害者である児童及び生徒が障害者でない児童及び生徒と共に教育を受けられるよう配慮する」という条文で示されている。我が国のこれからの小中学校の教育にとっても極めて重要な内容だといえる。

インクルーシブ教育システム構築のプロセスとしての特別支援教育

 我が国では、長い間、障害の種類や程度によって教育の場を細かく分けて手厚くきめ細かい教育を行う仕組みを「特殊教育」として保持してきたが、2007年(平成19年)4月からは、特別な支援を必要とする幼児児童生徒が在籍するすべての学校において実施される特別支援教育が推進されることになった。特殊教育の対象だけでなく、知的な遅れのない発達障害も含めてそれぞれのニーズに応じてきめ細やかに対応していく体制に転換した。それにより校内委員会、コーディネーターなどの整備がなされ、小中学校での取組が進展したことは周知のとおりである。
 今後のインクルーシブ教育システムの充実に向けた対応については、中央教育審議会初等中等教育分科会において議論され、2012年(平成24年)7月に報告がまとめられた(※2)。この報告においては、共生社会の形成に向けてインクルーシブ教育システムの理念が重要であることを確認した上で、「可能な限り障害者である児童及び生徒が障害者でない児童及び生徒が同じ場で学ぶことを追求する」とともに「小中学校における通常の学級、通級による指導、特別支援学級、特別支援学校と連続性のある多様な学びの場を用意しておくことが必要であること」が示された。こうした方針に基づいて、就学基準に該当する子どもは特別支援学校に原則就学するという従来の就学の仕組みは改められ、最終的には教育委員会が判断するものの、本人・保護者の意見を最大限尊重し、専門家の意見等もふまえて総合的な観点から決定する仕組みとなった。また、多様な学びの場で、障害のある子どもが他の子どもと平等に学んでいくためには、必要かつ適当な変更・調整を行うことが不可欠であり、それが「合理的配慮」として位置づけられた(※3)。インクルーシブ教育システムを構築するためのプロセスとして特別支援教育が位置づけられたと理解できる。

誰のためのインクルーシブ教育システムか

 我が国は、条約の批准により「共生社会」の実現に向けて舵を切ったわけであるが、「相次ぐ障害者ホーム反対」という報道にも接した。国では共生社会実現の一環として障害者の地域生活の支援を推進するためのグループホーム等の整備を進めているが、反対運動のために、それがとん挫している地域が少なからずあるというのである。とくにこの報道では、障害者と接する機会が少ないことがこうした動きの背景にあるのではないかという識者のコメントも紹介されていた(※4)。特別支援教育がインクルーシブ教育システムの構築に向けたプロセスであるという位置づけが、いっそう重視されていかなければならないことを痛感したニュースであった。学校は知育の場であると共に人間形成の大事な場でもある。子どもたちが将来の社会を担っていく構成員の一人であるという視点に着目すると、共生社会の形成の基礎として学校の役割は重要である。
 そして、何よりも重要なことは、インクルーシブ教育システムの構築は、障害がある子どものためだけではないということである。先の報告には「障害のある子どもにも、障害があることが周囲から認識されていないものの学習上又は生活上の困難のある子どもにも、さらにはすべての子どもにとっても、良い効果をもたらすことができる」(※5)とも記されている。例えば障害があるAさんへの「合理的配慮」は、他の子どもたちにとっても有用であるなどの利点が大いにありうる。インクルーシブ教育システムは、障害がある子どもにもない子どもにも双方に利点があるものにしていかなければならない。特に小中学校での特別支援教育ではそうした視点を大事にしたい。

インクルーシブ教育システムの構築に向けた特別支援教育の充実のために

 インクルーシブ教育の理念は、障害がある人とない人が互いにつながりあうという点では望ましいものの、専門性の継承、同じニーズのある子ども同士の交流や指導の継続という点では不安もある。インクルーシブ教育システムの構築をめざした特別支援教育ではそのことに留意して展開していくことが肝要であろう。そのためには、小中学校では、校長のリーダーシップの下、校内支援体制を確立し、地域の関係機関等との連携を深め、チームで対応していくことが必要となる。また、域内の学校が連携して共通の活動に取組むことも有効であろう。本特集ではその好事例が紹介されている。また、特別支援学校には、専門性を蓄積、継承、発展させて、真に小中学校を支援する力をつけてもらわなければならない。
 さらに、柔軟で多様な対応をしていくために、これからはICTの活用も欠かせない。ICTを有効活用することにより個別学習や協働学習がより充実したものとなる。ユニバーサルデザインという観点からもICTの活用は大いに期待できる。
 最後に、将来を見通すと、とくに通常の学級で多様な子どものニーズに的確に応えていくためには、特別支援教育支援員の充実とともに学級の規模の改善を図っていく必要があることを記しておきたい。因みにOECDの調査によると、小学校の教員に一人あたりの児童数は日本では18.1人となっているが、フルインクルージョンを建前としているイタリアは11.7人である(※6)。

 

(注)
※1:原文では「general education system」
※2:「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進」(報告)
※3:「体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」という前提がついているものの「合理的配慮」の否定は、障害を理由とする差別に含まれるとされていることに留意する必要がある。
※4:「相次ぐ障害者ホーム反対の背景は」
http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2014_0127.html
※5:「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進」(報告)
※6:Average class size, by type of institution and level of education(2011)
http://www.oecd-ilibrary.org/education/education-at-a-glance-2013/indicator-d2-what-is-the-student-teacher-ratio-and-how-big-are-classes_eag-2013-26-enico_link

 

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大内 進
国立特別支援教育総合研究所視覚障害教育研究部盲教育研究室長、教育支援部部長等を歴任。
視覚障害教育・心理、特別支援教育制度、イタリアの障害児教育などの研究に従事。
文部科学省「学びのイノベーション推進協議会」特別支援教育WG主査。

学校を生き生きとした人間教育の場に

1 道徳教育は平和な国づくりの根本

 道徳教育が、いよいよ動き出します。と言いますと、警戒心を持つ人がいます。
 では、お聞きします。戦後のわが国は、日本国憲法において、世界の平和と人類の福祉に貢献できる国づくりを、世界に向かって高々と宣言しました。それをどのように実現していくのでしょうか。いうまでもなく、国民一人一人の自覚と実践によってです。そのためには、一人一人の生き方に問いかける指導が不可欠です。それが、道徳教育です。日本は民主主義国家です。過去の過ちを繰り返さないためにも、生き方の根幹を育む道徳教育を中核として教育を確立しなければならないのです。
 平成18年に改正された教育基本法は、そのことを明確に示しています。国民一人一人が生涯にわたり人格を磨き、そのことによって豊かな人生を送ることができるような教育のあり方を提案しています。豊かな人生とは、幸せな一生であり、共に幸せに生きられる社会を創ることです。その根幹に人格の形成・錬磨があるというのです。その人格の基盤が道徳性であり、その道徳性の育成を計画的・発展的に行うのが道徳教育なのです。そして、その要に道徳の時間が位置づけられているのです。

2 特別の教科「道徳」提案の意図

 では、その道徳の時間が学校現場において機能しているのでしょうか。確かに、道徳の時間を学校ぐるみで取り組んでいる学校はありますし、そこでは確実に成果を上げています。しかし、ほとんどの先生方が、学校間格差や教師間格差に気づかれているはずです。
 教育の根幹を担う道徳教育がそのような状況でいいのでしょうか。何とか改善を図らねばなりません。その大きな対応策として道徳の教科化が提案されるようになりました。
 道徳の教科化ありきではないのです。道徳教育を充実させ、学校教育の本来の役割を果たせるようにするには、どうしても要となる時間の充実が不可欠だというのです。いじめなどの子どもたちの問題行動の多発もこのことに起因していると捉えます。そして同時に、教科化することによって、様々な充実方策を行うことができます。例えば、教科書の発行や予算の確保、指導者及び指導者養成の充実、評価観の改善などです。
 しかし、懸念も考えられます。教科にすることによって、他の教科と同様に知識理解や実践指導を重視した授業になるのではないか。教科書を使うことで今まで開発してきた資料が使えなくなるのではないか。免許を持った教師だけの指導になってしまうのではないか。点数による評価が行われるのではないか、等々。これらは道徳教育の根幹にかかわる問題でもあります。こういった懸念を払しょくするためにも、特別の教科「道徳」という名称が提案されているのです。

3 特別の教科「道徳」はどのようなものか

 そもそも道徳教育は、一般に言われる教科とは異なります。教科はそれぞれに専門分化したものですが、道徳教育は総合されたものです。道徳教育の要である道徳の時間も同様です。したがって、道徳は、各教科全体を包み込んで人間として生きる根幹となる道徳的価値の自覚を計画的発展的に図るという意味で特別の教科なのです。そのために、どのようなものにしていくべきなのか。道徳の時間の実態をも考慮しながら考えていく必要があります。

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押谷由夫
昭和女子大学大学院教授・放送大学客員教授
1952年滋賀県生まれ。広島大学大学院卒業(教育学博士)、高松短大、高知女子大学、文部省・文部科学省、国立教育政策研究所等を経て、現職。日本道徳教育学会会長、小さな親切運動本部顧問。現在文部科学省「道徳教育の充実に関する懇談会」の副座長を務めている。

人と人を結ぶ

 「三保松原逆転登録」の立役者として,その名を広く報じられた前文化庁長官の近藤誠一さん。今年7月に退官したのちも,世界遺産に関する取材や交渉術に関する講演など依頼が相次ぎ,身を休めるヒマがないという。「登録決定後,三保松原へは何度か足を運んだものの,未だ富士山を拝めてないんですよ」と笑う近藤さんに,あらためて世界遺産の価値とは何か,外交に必要とされるものとは何かを伺った。

世界に認められた美意識

 2013年6月,富士山の世界文化遺産登録が決まった。事前に国際記念物遺跡会議(イコモス)から「除外すべき」と勧告を受けていた三保松原が構成資産のひとつとして認められたことを受けて,逆転劇と大きく報じられた。当時,文化庁長官として世界遺産委員会に出席していた近藤さんが,その立役者として多数のメディアに取り上げられたことは記憶に新しい。
 「富士山は,ヨーロッパの印象派に大きな影響を与えた広重や北斎の浮世絵をはじめ,日本人を触媒に素晴らしい文化芸術を生み出してきました。その価値が認められたということは,日本人の美意識が世界に認められたということにほかなりません」
 いにしえから脈々と受け継がれてきた日本人特有の自然観や思想を脇に追いやり,経済第一で急成長を遂げた近代日本。その勢いが失われ停滞している現代において,日本人はよりどころを失い,自信をなくして
うつむいている。そんな中,日本人の心の象徴とも言うべき富士山が世界遺産として登録されたことは,自然と共に生きてきた日本人の誇りを回復するきっかけになるのではないかと近藤さんは語る。
 「世界遺産としての正式な登録名は『富士山-信仰の対象と芸術の源泉』です。自然遺産ではなく文化遺産。『顕著な普遍的価値を有する出来事(行事),生きた伝統,思想,信仰,芸術的作品,あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある』という世界遺産条約の下にある登録基準(vi)が登録への足掛かりでした。富士山が日本人に与えている影響という,目に見えにくい,明文化しにくい価値観を委員国の方々に認めてもらうには,やはり武器と戦略が必要です」

人と人との長期的な“つながり”

 近藤さんが外交官時代を含めて築き上げてきた人脈が,ロビー活動の武器となった。近藤さんはまず世界遺産委員会の権威4人と接触し戦略を練り,イコモスの勧告を尊重すべきとする「最も厳しい国」の委員と会食。三保松原と富士山の関係性を説明し,三保松原を構成資産に含めることに対して「反対しない」という言質を取り付けた。
 「幸い,最初に接触した4人も,厳しいと見られていた国の委員も,それぞれ知己の仲でした。あらゆる分野の人と付き合い,普段から貸しを作り,借りを返し,国を超えて人間同士として付き合い,信頼を得ていく。ほとんどムダのように思えるけれども,いざというときに強力な後ろ盾となる。これが外交力です」
 最も厳しい国が態度を軟化させたことで,他国との折衝が格段にラクになったと近藤さん。
 「結局,最後は長期的な人間関係がものを言います。人間関係を長続きさせるには,時間と,手間と,少しのお金が必要です。これは外交に限った話ではなく,一般的な人間関係においても同様ですよね。相手のことを知りもしないのに,お願いだけ押し付けても聞き入れてくれるわけがありません」
 ただし,と近藤さんは言葉をつなぐ。
 「いくら気心知れた仲だと言っても,外国人に“ 目に見えない価値”を理解してもらうのはとても難しいことです。世界遺産は基本的に物的証拠が第一。今後,登録を目指すものについては,その基本をあらためて押さえていくべきでしょうね」

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近藤誠一
1946年神奈川県逗子市に生まれる。1971年東京大学教養学部教養学科イギリス科を卒業。同年東大大学院法学政治学研究科に進むが,在籍中に外務公務員採用上級試験に合格。1972年大学院を中退し外務省に入省。1973~1975年イギリス・オックスフォード大学に留学。広報文化交流部長を経て,2006~2008年ユネスコ日本政府代表部特命全権大使。2008年9月より駐デンマーク特命全権大使。2010年7月30日,文化庁長官に就任。2013年7月8日に退官。著書に『ミネルヴァのふくろうと明日の日本』『外交官のア・ラ・カルト』など。

日常に芸術を

 文化庁長官の任を退き,しばらくのんびりするつもりが,講演や取材依頼など予定は年末までギッシリだと苦笑する近藤誠一さん。そんな多忙極める近藤さんに,富士山の世界文化遺産登録の際にも発揮された外交手腕についてはもちろんのこと,芸術の担う役割や昨今の美術・社会科教育に至るまで,忌憚なく語っていただいた。その模様を2回に分けてお届けする。

心が豊かになる瞬間

 「先日,新幹線で移動する際に,赤ちゃんを抱く若い母親と隣り合わせました。にぎやかな道中になるだろうかと身構えたところで,不意にその母子と上村松園の『母子』とが重なって見えた。もちろん,母親が着物姿だったわけでも,ましてや髪を結っていたわけでもありません。赤ちゃんを慈しむ母親の穏やかな表情が,昭和初期から平成へ,時代を超えてつながって見えたのです」
 『母子』を知らず,脳裏に浮かばなければ,近藤さんは身構えたままの車中となったかもしれない。いつの世も変わらない子を思う母の佇まいが,近藤さんの心に温かい火を灯したのだ。“ 芸術は人生を豊かにする”とはよく言われる言葉だが,こうした瞬間にこそ“豊かさ”が潜んでいる。
 「今,学校現場では,図画工作や美術の授業時間は減る一方です。英語や数学などの比重が高まり,芸術に触れる機会が減っている。そんな状況だからこそ,むしろ積極的に芸術に触れる時間を作るようにしてほしいと思いますね。家庭でも気軽に芸術の話ができるように,親も普段から芸術に接する機会を持つようにするといい。幸い,テレビやインターネット,雑誌やCDなど,芸術を取り扱うメディアは私たちの身の回りにあふれていますからね」

芸術が内包する力

 芸術とひとくちに言っても,その内容はさまざまだ。詩や小説などの文芸,絵画やデザイン,写真,映像,建築などの美術,音楽や書道など多岐にわたる。マンガやアニメも芸術だ。
 「私も昔は,マンガやアニメなどに眉をひそめる大人でした。初めてしっかりとアニメを見たのは,娘とフランスで見た『千と千尋の神隠し』でしたね」
 映像が醸し出す日本の空気感と,文芸の素晴らしさ。近藤さんの中で凝り固まっていたアニメに対する偏見は,ふわりと溶けて消えた。そして,国外で初めて肌で感じた,日本のマンガやアニメに対する熱狂。
 「日本語は“感性の言語”です。一方,フランス語は“理論の言語”の最たるものと言えるでしょう。そんな理論派のフランス人が,日本のマンガやアニメを通して,日本人特有のあいまいでわかりにくい自然観や思想を理解し,価値観を共有している。これはすごいツールだと目からウロコが落ちる思いでした」
 固定観念や常識から自由になれる。感動を分かち合い,社会を変える力になる。それが芸術の内包する力だと近藤さんは言う。表現することでコミュニケーションが生まれ,互いを高め合い,才能を認められることで自己を肯定し,生きる意欲にもつながっていく。
 「日本には才能ある人が多く,文化財も多数存在し,成熟した文化を抱えています。しかし教育現場では芸術を学ぶ時間が減っているように,一人ひとりの才能を磨く場が少なく,そもそもその才能に気付かない。また文化財に触れたり,学んだりする機会もシステムも不十分です。せっかく外国人も感嘆する文化芸術をはぐくんできたのですから,国際的な競争力としてもっと活用していくべきですよね」

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近藤誠一
1946年神奈川県逗子市に生まれる。1971年東京大学教養学部教養学科イギリス科を卒業。同年東大大学院法学政治学研究科に進むが,在籍中に外務公務員採用上級試験に合格。1972年大学院を中退し外務省に入省。1973~1975年イギリス・オックスフォード大学に留学。広報文化交流部長を経て,2006~2008年ユネスコ日本政府代表部特命全権大使。2008年9月より駐デンマーク特命全権大使。2010年7月30日,文化庁長官に就任。2013年7月8日に退官。著書に『ミネルヴァのふくろうと明日の日本』『外交官のア・ラ・カルト』など。