地域再生に問われるのは何か(2)

承前

 古橋源六郎暉皃(てるのり)は、開化の風が吹くなかで、「銘々腕稼」による起業家精神がもたらす世界を、「維新開化の今日」という思いにうながされて「明治16年北設楽郡殖産意見書」で次のように描いていました。

普通の学より天文地理経済学に、農工商古今に通じて学ばしめ、哲学科学舎密(セイミ「化学」の呼称)の学をも研究して、数多の元素を詳知して、水より火を取り火より水を取り、或は軽気球を製して空中をも走るべく、又は地質を修めて地層の深底をも探求して地心地皮の功用を弁ずるなど地水火風を自在にし、文法語格に至るまで明にして、交通自在に航海せば自国の不足は他国に取り、自国の余贏は他国に及ぼし、事物百般不足なく、宇宙間を我家の如く成たらんには豈愉快ならずや如此事業進歩の秋にこそ各々開化の風に移りて勧娯をも極むべきなれ

 この思いには、昨今耳にする海底・宇宙探査による資源開発競争、原子力の活用から地熱発電、経済のグローバル化への過剰なる期待、国際共通語としての英語教育等々こそが豊かさを可能にすると、昨今喧伝される政府の国家構想に通じる世界が読みとれます。しかし、暉皃の構想は、明治16年の愛知県北設楽郡「人民生活の状態」を前にして、行き詰まります。

人民生活の状態

 松方財政下で呻吟する北設楽郡内を視察した文部書記官は次のように報告しています。

本郡専ら農耕を業とす。或は商業職工を営すものありと雖も、僅々兼業たるに過ぎず。然り而して郡曠濶、大凡方里内に於て戸数平均80戸6分厘余、人口平均451人7分3厘余なりと雖も、耕地段別は僅に2226町6段18歩、戸数平均5段6畝1歩強にして、其他は皆な山林原野耕耘の施すべきなきものなり。然るに僅々に限りあるの田畝も多くは洞田棚畦にして地味皆薄瘠なり。氣候寒冷極寒に至れば、寒暖器氷点21度に下り、極暑は93度、平均57度の内外を昇降す。是を以て労費夥多にして収獲僅少、終に得失相償はざるの歎を発せしむるのみならず、年間の収穫人口に給足するを得るものは、郡内纔に5分の1にして、其他は皆年の半ばを支ふる能はざるもの多きに居る。是等は皆資を美濃信濃の他国に仰ぎ、以てに其生計を得るに至る。是を以て活路極めて困難、未だ凶歳の声を聞かざるに皆な菜色を帯ぶ所以の者は、蓋曰、常食する所の物、多くは稗、麦、芋、馬鈴薯等の淡白無味滋養に関係薄き麤悪の物資を用ゆるに職由すと云はざるべからざるなり。故に郡内人民の活路を計る、之を田畑に資るの至難なる其斯の如し。是を以て活路を計る、其路他に需むるあるにあらざれば、何によりてか自営の策を求むるを得んや。然るに繭・生絲・茶・烟草・楮・椎茸・馬等の如き産出物なきに非ざれども、頼りて以て活路を計る又難しとす。唯頼りて以て力ありとするものは独山林なり。然るに此の山林にして多くは伐採し尽して顧みず。以て資り難き僅々の田畦に垂頤して以て生計を営まんとする。是れ天に梯すると一般、豈に得べきの理あらんや。故に現今百方奨励勧誘、以て山林の蕃植・製茶・養蚕・産馬改良等の諸業何れも緒に就けり。漸を以て他日其目的を達するに至らば、目今の活路を回復し得るのみならず、陶朱猗頓の如くなるを欲せざるも豈に得べけんや

 土地に相応しい産業こそが「陶朱猗頓」、金満家になる道と説くことで、民富の形成と富村への期待が表明されたのです。ここに古橋源六郎暉皃は、製茶・蚕糸・煙草等の殖産が成果を見いだせない中で、民富形成をささえる原点に民心統一が欠かせないことに想い致したのです。いわば富村は、産業による経済的利益がもたらす以上に、地域を己のものとして担う民心の一致がなければならないとの想いにほかなりません。

民心の協力一致を求め

 ここに古橋源六郎暉皃は、茶業崩壊に直面するなかで、山間地にある稲武にとり、「唯頼りて以て力ありとするものは独山林なり」との指摘を想起、地域の資源に目を向け、『富国の種まき』をはじめます。この『富国の種まき』は、明治11年の東海巡幸の記憶を想起し、開化の風になびいた起業を反省し、神の贈り物である山幸たる山林経営による富村富国への想いを吐露したものです。

明治11年東海御巡幸を拝せむと、道を足助に取て行くは10月24日也、既にして伊勢賀見の嶺(現伊勢神峠)に登り、遙に神宮を拝し、西に尾海を望み、東に駒山を顧るに、山相土性東西自然に異なるを見る、其東にあるは山色萃黛肥潤耕土乾燥嶮峻、其西にあるは山相赭色枯瘠耕土平坦沢饒、下りて明川に至り親その実を知り、行々これを察するに益西して益然り、尾張に至りては殊に平坦大沃、山を見ること無きに至る、それ田圃肥饒なる地は山力薄く、耕土薄瘠なる地は山力盛なるは何の為に然らしむるや、これ蓋し天神造化の妙機にして、天下の黎衆(アオトビグサ)をして各其所を得せしめ給はむか為也

 先の所信表明演説は、ここに表明した暉皃の言説を都合よくパクリ、上っ面を利用したものにすぎません。製茶等の起業による地域再生の挫折こそは風土に根ざす山林への回帰となったのです。その山林経営は、植林から100年先を待たねばならない事業であるだけに、強き精神を共有しうる民心がもとめられます。そのため暉皃は、「自然天理人道に叶へば、神明も恵みたまひ、幸へたまひて、事業隆盛、子孫長久、人々安楽の基を開くべきなり、然るに眼前の小利にのみ汲々して、永遠の計を為さざるものは、啻に敬神愛国の心無きのみならず、また其祖親を忘れ、妻子を顧ず、而して又其身を捨る所謂自棄自亡の人なり。神明何ぞ憎悪み給はざるべき。災害必ず其身に及ぶものなり、深く恐れて、固く慎まるべけんや」(『報国捷径』)と説き聞かせ、「敬神愛国の心を全くして、必要の事業に勉強すべきこと」を強調したのです。
 ここには、平田門国学者暉皃の面目が躍如としていますが、起業による経済的利得ではなく、住民の協同一致を可能とする精神の拠り所となりうる器なくして地域再生への途がないことが問いかけられています。現在、問い質すべきは、地域再生を担うにたる精神の器、その器の場をいかに蘇生し、住民の協同一致を実現していくかではないでしょうか。そこに求められるのは、交付金を給付し、金の力で民心を買い取り、煽動していく方策ではありません。暉皃の言説を宣揚するのであれば、その言説に託された想いを読み解きたいものです。

ボストン美術館浮世絵名品展 北斎

諸国瀧廻り「木曽路ノ奥阿弥陀ヶ瀧」/天保4年(1833)頃
William Sturgis Bigelow Collection
Photograph © 2014 Museum of Fine Arts, Boston. All rights reserved.

 葛飾北斎(1760~1849)は、江戸時代後期に活躍した絵師です。20歳前後で浮世絵師としてデビューし、90歳で亡くなるまで浮世絵の範疇にとどまることなく、さまざまな画風に挑戦し作品を描き続け、その作品は世界中で高い評価を得ています。
 生前は勝川春朗(かつかわしゅんろう)、戴斗(たいと)、為一(いいつ)、画狂老人卍などというように、画号を30回以上も変更したことが分かっており、今日、一般的に称される北斎もそのうちの一つなのです。そのほか、生涯で93回も転居を繰り返したという記録も残っており、強い個性の持ち主であったことがうかがわれます。この展覧会は、そんな北斎の作風の変化を年代順に概観できるのが特徴です。
 1820年頃、北斎は為一の号を使い始めます。為一期の北斎は大判錦絵の名作を多数制作しており、ここを北斎の絶頂期とする研究者もいるほどです。その頃の作品といえば、富士山の見える風景を大胆な構図で描いた「冨嶽三十六景」、諸国の橋をさまざまな視点で捉えた「諸国名橋奇覧」などが挙げられます。
 本展覧会ではそういった有名作品に加えて、その時期に描かれた「諸国瀧廻り」シリーズ全8枚も展示しています。日本全国8か所の滝をモチーフに、多彩な水流の描き分けに主題を置いて組まれたシリーズです。白、水色、紺という少ない色数で表現される水の描写は北斎ならではの非常に独創的なものになっています。教科書掲載の「下野黒髪山きりふりの滝」では木の根のように枝分かれしながら滝壺に至る水の流れの表情を、ここで紹介する「木曽路ノ奥阿弥陀ヶ瀧」では、円形の滝口より真っ暗な奈落へと落下していく水の様子を描き出しているのが特徴です。そのほかの作品でも垂直に落下する滝、落下距離の短い滝、岩伝いに滴り落ちる滝などというように、さまざまな滝における水の表情を見事に描き分けています。
 北斎は、それ以前に出版した「北斎漫画」(1814頃)などの絵手本帳や、晩年の傑作、「上町祭屋台天井絵《男浪図》《女浪図》」(1840年代中期)でも水をモチーフにした作品を描いています。水を描くことが北斎にとって大きなテーマであったことは間違いありません。

(編集部)

 

<展覧会情報>

  • ボストン美術館浮世絵名品展 北斎
  • 東京展 2014年9月13日(土)~11月9日(日)

展覧会概要

  • 葛飾北斎の約70年にわたる画業を約140点の作品で紹介する展覧会です。全体は3章構成になっており、第1章では111点の作品を年代順に並べて、北斎の業績全体を概観できるのが特徴。続く、第2章では摺物や版本、第3章では肉筆画および版下絵といった貴重な作品や資料を見ることができます。
  • ボストン美術館の浮世絵コレクションの多くは近年までほとんど公開されたことがなかったため保存状態がきわめて良好です。いま摺り上がったかのような美しい色彩も見どころのひとつです。

上野の森美術館ico_link

  • 所在地 東京都台東区上野公園1-2
  • TEL 03-5777-8600(ハローダイヤル)
  • 休館日 10/20(月)、10/27(月)

<次回展覧会予定>

  • 進撃の巨人展
  • 2014年11月28日(金)~2015年1月25日(日)

その他、詳細は上野の森美術館ico_linkでご覧ください。

日常のアート化とコミュニケーション(第1回)

子どもの頃から、絵を描いたりモノを作ることが好きだった。

高校生になって、進路について真剣に考えていたときに、レオナルド・ダ・ヴィンチの本を読み、ミケランジェロの作品を美術館で観て感動した。

しかし、ルネッサンスマンにあこがれはしたものの、当時はマンガ、映画、ロックに夢中で、どうしても時代のズレを感じていた。

そのときに、生まれて初めて会った日本人のアーティストが岡本太郎である。

彼の考え方は明快だった。「本当の進路は、一流企業や大学に入る事ではなく、どのように生きるかだ。」

目からウロコが落ちた。方法論ではなく、人生が一枚の絵であることを知った。

2000年1月から「日常のアート化」をテーマに、アート活動「バケツ・プロジェクト」を開始した。

最初に展示を行ったのは、当時、アシスタントをしていたアーティスト・折元立身プロデュースの「TOKYO TATAMI SPACE」展で、日本よりヨーロッパで話題になった。

彼の自宅の庭の木にバケツを吊るした「バケツの木」のアート作品がそれである。

そして、バケツの木から生まれた[バケツ☆キッズ(BUCKET KIDS)]へとストーリーは続く。

『日常物のキーワード、大量消費社会のアイコンとしてプラスチックのバケツ、コーン、ボールを選んだ。

美術の中から作るのではなく、日常から素材を選び、再構成して日常の中に戻し、元々の意味を変えていく。

歴史をひもとくと、日本では約60年前に初めて商品化されたプラスチック・バケツ。

新し過ぎず、古過ぎず、生活になくてはならないモノ。

また、どこへ行ってもあるが、地域により微妙にデザインが異なっている点に、その国の文化・歴史が隠されている。』

アート(美術・ヴィジュアルアーツ)の言葉は「色・形・空間」である。

アートは世界共通語である。

アートを使ったコミュニケーション。

国・人種・性別・年齢・職業・ジャンルを超えて、美術館という聖域のみならず、日常空間をアートで埋め尽くし、そして観客を取り込んでいく。

バケツプロジェクトは、どこまでアートか? アートとは何か? という観客(社会)に対する問いで、夢で、希望である。

人と人をつなぐバケツアートにより、私の世界への旅は始まった。

次回は、実際にどのようにアートパフォーマンス&展覧会を行っているかを話しましょう。

獅子倉シンジ・プロフィール / SHINJI SHISHIKURA Profile
多摩美術大学卒業。世界各地(東京~パリ~ミラノ~ヴェネツィア~フィレンツェ~オランダ~ニューヨーク~上海)でアートパフォーマンス&展覧会を行っている。
第1回横浜トリエンナーレ、水戸芸術館「CAFE in Mito」、国立国際美術館「フルクサス裁判」、2002 FIFAワールドカップ記念文化催事、金沢21世紀美術館開館記念、養老天命反転地、coba Live!、NHKハート展、BEAMS ARTS、アメリカ大使館、アンスティチュ・フランセ(日仏文化協力90周年)、NHKトップランナー、NHKワールドプレミアム出演。
現在美術教育にも力を注いでいる。

地域再生に問われるのは何か(1)

所信表明の虚実

 安倍晋三首相の所信表明演説の「おわりに」は、三河稲橋村(現愛知県豊田市)の古橋源六郎暉皃(ふるはしげんろくろうてるのり)が「植林、養蚕、茶の栽培など、土地に合った産業を新たに興し、稲橋村を豊かな村へと発展させることに成功しました」と紹介し、「“地方”の豊かな個性を活かす」物産開発で、「前に進もうではありませんか」、と問いかけています。
 ここで特筆された古橋暉皃は、芳賀登が1960年末に古橋家を訪問、翌年8月から木槻哲夫らと延々半世紀近くにわたり調査をし、時代を生きた古橋家と村の営みを世に問い、そこで紹介した古橋家中興の祖といえる人物です。私は、この調査にある時期まで参加し、明治における村落再生を検証し、「明治10年代における農村と自力更生運動」(『日本歴史』246、247号 1968年)等を発表しました。所信表明演説は、古橋暉皃が家と村の再生、富家・富村を問うた想いに眼をむけず、短絡的に「土地に合った産業」開発で成功した事例とのみみなしています。
 しかし暉皃は、養蚕・製茶に失敗したがために、山村に相応しいものとして100年先に眼を向け、植林を位置づけ、平田篤胤没後門人として神祇による村民の精神的覚醒をうながし、民心の結集をはかることで富村への途を切りひらきました。思うに、首相のみならず、昨今の地域再生論には、暉皃が村に生きる者としての哲学を説いた志を思いみることなく、経済合理主義から何か利を生む産業さえあれば、起業家精神で何とかなるとの拝金宗があからさまに説かれています。そこで、まずは暉皃の事蹟を紹介し、地域再生には現在問われているかを考えることとします。

暉皃の生いたち

 暉皃は、1813年(文化10)に古橋義教の次男として生まれ、1831年(天保2)19歳で家政を担い、名主を勤め、徹底した倹約策で家政改革を推進、家政再建を果すなかで、天保の飢饉に対応、家財を投じて村の救済にあたり、勤勉倹約を旨とする村づくりをなし、村の地主としての地位を固めていきます。この天保の飢饉体験は、村落指導者暉皃にとり、家と村を一体として自家の安定と繁栄をめざす豪農古橋家の責任意識、名望家たる原点となります。その思いは、家政再建の途上にありながら、「己を責て人に施すは今の時也、仮令我家貧困いかに谷(きは)まるとも、衆と休戚を共にせん」と、村人と一体になった危機への対応に読みとれます。
 村落の更生撫育にあたる暉皃は、指導者たる己をささえる内的規範を求めるなかで、徳川斉昭の「告志篇明君一班抄」を読み、国事公益に励む決意を固めていきます。この思いは、「志を誠正にし善事を積むにしかすと、偶本居宣長御大人の著述せし直毘霊を読み大に感する所あり、益国書の尊きを知り暇日あれは熟読せり」と、宣長が説く「真心」による「神ながらの国」への期待となります。
 暉皃は、黒船来航による外患の危機下、安政大獄、桜田門の変と続く政治的激動のなかで醸されてきた尊皇攘夷の空気にうながされ、1863年(文久3)に平田篤胤の没後門人となります。この入門は、『夜明け前』の青山半蔵、島崎籐村の父親正樹など、在地に生きた名主などの村落指導者が村を改革する精神的な器を平田国学に求めていく軌跡、「草莽の国学」誕生につらなるものです。
 かれら「草莽の国学者」は、1863年3月に孝明天皇が加茂神社に行幸、攘夷決行を祈願したのを受け、平田門国学者が古史伝出版の資金集めで全国を行脚する動きに応じたものです。暉皃は、このような時代の子であり、国学関係の書籍を収集し、南朝遺臣や神武天皇への関心を強めていきます。ここには、御一新―維新をささえる精神文化運動の一端が読みとれます。暉皃はこのような時代を生きた名望家の一人でした。

「経済之百年(よわたりのもと)」問い語ること

 暉皃は、死の直前の1892年(明治25)に「経済之百年(よわたりのもと)」で、松方財政下の不況時を回想、村落更生への想いを認めています。それは、松方デフレ、「日本の原始的資本の蓄積期」がもたらした不況下、秩父事件等に象徴される困民党等の決起をうながした窮乏下の社会、己が村をいかに再生し豊かにするかを述べたものです。先の所信表明演説は、ここに述べた世界の一端にふれたものですが、暉皃の想いを受けとめたものではありません。
 72歳の暉皃は、己が老躯に鞭うって戦った1885年(明治18)の天保の飢饉体験に重ね、「郡民の飢苦」に向き合う己の場を問い質します。

 治に乱を忘れず。豊に凶を思ふ、故賢の戒を、年来、心に守れるを、過し明治18年は、天明8年の大飢饉より百年、天保8年の、大凶作より50年、に当れる年なるを、麦の登熟も、思ひ、よりは、おとれりしかば、殊に焦心苦慮しをり、当時の郡長、佐藤啓行ぬし、郡内巡回とて、我家を訪はれしかば、共に憂談けらく、かくて、秋作相違せば、郡民の飢苦しまむこと、眼前なり、とやせまし、かくやせまし、など談合つゝも、天の降す災は、人力の及ぶべきに非ざれば、各其独を慎むことを、専一として、内に者、奴婢等が、食物の煮炊に心を用ゐ、外また、山を焼て畑を興し、蕎麦大根等、かてものを作らせ、田は水の加減肝要なれば、我身七十有三歳なれど、若人に魁て、朝夕灌漑を巡視て、里人を励さむと、朝の露に起出、夕霧に立帰りて、田の水を、かけみ、おとしみ、する程に、持病疝痛に堪ずして、臥籠りたる、

 このように時代と向き合った暉皃は、「勤倹」二字による村づくりの弊を批判され、「銘々腕稼」での殖産勧業をもくろみ、製茶勧業で民富をきずき、富国をめざします。しかし、1878年からの茶価下落で「茶株も殆んど全廃」「嗚呼これ誰が過ぞや」と慨嘆、徒に「物産興隆の一途にのみ着目」し、「人民各自の快楽嗜好を恣にせむことを以て鼓舞」したが故と、欲望充足を旨としたことが失敗の原因となし、「道義に従ひ天理によりて国益を成さむことを誘導」せねばならないことに気づきます。ここには、「銘々腕稼」という市場原理主義による競争原理がもたらす荒廃をみつめ、「道義に基きて事業を起さしめむ」と、事業をささえる精神の在りかが問われることとなります。
 思うに地方再生―地域振興に問われるのは、「銘々腕稼」という利益至上の競争原理ではなく、「道義に従ひ天理によりて国益を成さむ」というような、ある種の精神性にささえられた地域の連帯、協同がもたらす世界への眼ではないでしょうか。暉皃は、製茶等が無に帰したなかで、どのような構想で村の再生をはかるかを次号で検討します。

 

参考文献

  • 芳賀 登 編『豪農古橋家の研究』(雄山閣 1979年)