「国民の天皇」になるということ

慰霊鎮魂の旅とは

 天皇明仁と皇后美智子は、今年2016年1月26日から30日にかけてフィリピンを訪問、27日に国立英雄墓地で供花し、フィリッピン側の戦没者を慰霊、29日にマニラの南約70キロのラグナ州にある日本が建立した「比島戦没者の碑」に供花、戦没者の遺族代表と懇談されるそうです。この旅は、沖縄、硫黄島、サイパン、ペリリュー島等の戦地訪問につらなるもので、戦後70年を前にした2014年に沖縄・長崎・広島を、2015年という70年の年には太平洋の激戦地であったパラオに、その後関東大震災・東京大空襲の遺骨を納める東京都慰霊堂、観音崎の戦没・殉難船員追悼式に出席、パラオから引き揚げてきた入植者が開拓した山形県蔵王の北原尾地区を訪問しています。
 この戦後入植者への眼は、満洲移民が引揚げ後に入植した栃木県那須の千振開拓地、長野県軽井沢の大日向開拓地への訪問としてすでに実施されてきたことです。パラオ慰霊に重ねての「日本のパラオ」と喧伝された北原尾訪問という演出の見事さに脱帽するのみです。
 現天皇は、とくに「先の大戦」と呼称される「大東亜戦争」、アジア太平洋戦争における激戦地への慰霊に皇后ともども強くこだわってきました。この想いは、沖縄戦終結の6月23日「沖縄県の慰霊の日」、広島に原爆が投下された8月6日、長崎に原爆が投下された8月9日、降伏「終戦」を告げた8月15日の四つを大切な「祈りの日」となし、皇太子らにその日に何処にいようと祈りを捧げるように教えたなかにも読みとれます。
 2014年の沖縄、長崎、広島訪問は、2015年が戦後70年で戦後政治の「争点」として日本の戦争が問い質される渦を避け、かつ政治の争点となっている普天間基地の辺野古移設問題にとりこまれないための政治的配慮であったとも言えましょう。このように行幸啓という営みは、時代の政治的争点に配慮しながら、時代によせる天皇の想いを吐露したものと言えましょう。

水俣の地で

 このような行幸啓に2013年10月27日の熊本県水俣訪問があります。この訪問は、熊本県での「全国豊かな海づくり大会」に出席した際、明仁・美智子が強く希望したものです。二人は、水俣病患者を見舞い、水俣病資料館で患者の声に耳傾け、慰霊、慰藉することに時間をさきました。その日の思いは翌2014年の歌会始に読まれています。

慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり

 水銀汚染の海を埋め立てた親水公園に建立された「水俣病慰霊の碑」には、この歌とともに、訪問での感慨を詠った「あまたなる人の患ひのもととなりし海にむかひて魚放ちけり」が大きく書かれ、「患ひの元知れずして病みをりしひとらの苦しみいかばかりなりし」との3首が刻まれています。
 この天皇の歌には、水俣病によって亡くなった人々、いまだ苦しむ人びとによせる天皇の想い、鎮魂の念が託されているのではないでしょうか。さらに2015年には、富山県での「全国豊かな海づくり大会」に行幸啓した際、イタイタイ病資料館に立寄り、「どういふことでこの病が発生したのか」「どうしてすぐにはわからなかったのだらうか」(河相周夫侍従長談)等と天皇が問われた由。ここには、日本の高度成長が産み出した公害病の被害者に寄りそうことで、己の存在の場を示そうとする姿がうかがえます。
 近くは、東北大震災、関東東北豪雨等による被災地をいち早く訪れ、見舞います。そこでは、「天皇」という上からの目線ではなく、被害者の目線に近づいて、言葉を交わす姿がみられます。この様子は、TVで広く報じられることで、国民の眼にふれ、天皇の「恩愛」と「仁慈」を広く国民の心に刻みこまれ、「国民」によりそう天皇像を増幅させ、「国民の天皇」という言説を広く流布していくこととなります。

「配電盤」のごとき営み

 このような天皇の在り方―皇室像は、日本国憲法第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定された天皇像を具現したものとみなされましょう。しかし、この営みは、日本国憲法によって創出されたものであるというより、明治維新で誕生してきた「天皇の国」像の底部に流れていた君主像のひとつでもあったのです。
 福沢諭吉は、1882年(明治15)に「帝室論」を著わし、天皇の立位置が果すべき役割につき、「帝室は政治社外のもの」「帝室は万機を統るものなり、万機に当るものに非ず」として、「帝室は人心収攬の中心と為りて国民政治論の軋轢を緩和し、陸海軍人の精神を制して其向ふ所を知らしめ其向ふ所を知らしめ、孝子節婦有功の者を賞して全国の徳風を篤くし」、と述べています。ここに提示された世界こそは、現在にいたるまで、天皇が担わねばならない天皇像なのです。
 現天皇明仁は、皇太子時代に「東宮御所教育常時参与」小泉信三から「帝王教育」を受けました。小泉は、父信吉亡き後、幼少期を福沢諭吉の下で一時育てられました。それだけに小泉には、皇太子教育において、諭吉の「帝室論」を範とすべきもとみなしたのです。まさに「象徴天皇」という在り方は、何も戦後に突然あらわれたのではなく、明治以来の「帝室」の課題を引継ぎ、天皇が時代に同伴するなかで、その時々に表す相貌にほかなりません。現天皇の営みは、鎮魂・慰霊・慰藉という語りかけを表出することで、最も表情豊かに己を提示しているのではないでしょうか。ここには、天皇という存在が時代に合わせた働きによって、あたかも配電盤のごとく、時代状況を体現して歩んでいく姿がうかがえます。「天皇制」なる言説で語られる世界は、このような時代像に重ねて、読み解かねばならないのではないでしょうか。

 

参考文献

  • 伊藤 晃『「国民の天皇」論の系譜』社会評論社 2015年
  • 高山文彦『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子』講談社 2015年

Maikoマイコ ふたたびの白鳥

 外国で活躍する日本人の女性バレリーナは多くいるが、ドキュメンタリー映画「Maikoマイコ ふたたびの白鳥」(ハピネット、ミモザフィルムズ配給)に登場する西野麻衣子もその一人。麻衣子は大阪生まれ。小さい頃から踊るのが大好きで、6歳からバレエを習いはじめる。1996年、15歳でイギリスの名門、ロイヤルバレエスクールに留学する。これだけでもたいへんなことである。本人の才能や努力に加えて、家族をはじめ、周辺の理解、協力がなければ出来ないことだろう。
 1999年、麻衣子は19歳で、オスロにあるノルウェー国立バレエ団に入る。2005年、このバレエ団で、東洋人としては初めて、プリンシパル(バレエ団で、主役を踊る最上位のダンサー)に抜擢され、「白鳥の湖」の主役を踊る。2008年、新国立オペラハウスのこけら落とし公演では、ジリ・キリアンの振付で、モダンバレエの「ワールド・ビヨンド」を踊る。

 映画は、麻衣子の幼いころからのビデオ映像をまじえて、留学時の苦労から、キャリアを積み重ねていく過程を描いていく。麻衣子のバレリーナになる夢を後押ししてくれた母親の衣津栄が、しばしば登場する。麻衣子が今日あるのは、ひとえに尊敬する母親のおかげと信じている。このお母さんの大阪弁が、いい。「くじけたらあかんで」、「すぐに諦めて投げ出しなや」などなど、ホームシックにかかった留学中の麻衣子を叱咤激励する。
 やがて麻衣子は、オペラハウスの音響、映像監督の二コライ、通称ニコと結婚する。共働きで、麻衣子を育てたキャリアウーマンの母親の背中を見て育った麻衣子である。母親の言葉に耳を傾ける。「なにもトップでなくてもええやないか。そろそろ自分の人生を考えや」。いつか母親になりたいと願っている麻衣子は、出産を決意する。

 バレエの現場は厳しい。出産のブランクは大きい。出産そのものについては、周囲の理解があり、喜んでくれるが、舞台への復帰は完全に実力である。才能ある若いダンサーたちが、たくさん、控えている。いくらプリンシパルといえども、妊娠中は踊れない。アメリカから来た代役の女性が、ストラビンスキーの「火の鳥」を踊る。身重の麻衣子は、複雑な想いでステージを見ている。
 やがて男の子を出産。麻衣子は現場復帰を願う。ニコは育児休暇をとるなどして、全面的に協力してくれる。出産の前後では体型がかなり異なる。麻衣子は、猛烈に体つくりに励む。復帰作に「白鳥の湖」を選ぶ。もう、7ヵ月しかない。芸術監督は、「代役を立てることもありうる」と告げる。すべて、実力の世界である。
 ノルウェーという国の、福祉をめぐる政策を少し調べてみた。出産に関しては、産前産後ともほぼ無料。医療費も、一定額以上は無料。ただし、消費税は高い。食品は15%、ほかは25%。それでも、労働者の収入は、日本と比べてはるかに多い。しかも、福祉は充実している。国立のバレエ団では、41歳になると年金が支給されるらしい。国の政策だから同列に比べるわけにはいかないが、日本などは見習う点は多いはず。
 女性バレリーナのドキュメンタリー映画ではあるが、母と娘、夫と妻、仕事仲間と本人をめぐるドラマが主軸となる。夢を実現するためには、厳しい現実が横たわっている。実現するための苦労や労力は、はかり知れないほど多い。日本の女性バレリーナの半生を見ることで、さまざまな「教え」を得ることが出来る。麻衣子は、大阪の女性。同じ大阪で生まれて育った身には、それだけで応援したくなる。
 バレリーナとして、現役で踊れる時間は限られているらしい。その日まで、西野麻衣子さんには踊り続けて欲しい。

2016年2月20日(土)、ヒューマントラストシネマ有楽町ico_linkYEBISU GARDEN CINEMAico_linkほか全国順次ロードショー!

■『Maikoマイコ ふたたびの白鳥』

監督:オセ・スベンハイム・ドリブネス
出演:西野麻衣子
2015年/ノルウェー/70分/英語・ノルウェー語・日本語
配給:ハピネット、ミモザフィルムズ

校務と教務の情報化が一体となる時代へ

電子機器の消耗

 平成22年度に始まった総務省のフューチャースクール推進事業(※1)の実証校の一つで、今も当時と変わらぬICT環境の中、継続的に実践をすすめているある小学校では、当時配備された電子黒板や一人一台情報端末に、ある現象が起き始めている。
 全教室に配備されている電子黒板のうちの数台が、ある日パタッと電源が入らなくなったという。情報端末においても、バッテリー機能の低下や交換も多く発生している。確かに、電子機器にまつわる寿命という“必ず起こりうる問題”が、ICTの先進的な学校現場では起きている。部品の交換、修理などが相次いでいるとのこと。ただし、教員が困っているのは、この動かないという現実よりも、使い慣れている電子黒板での授業イメージや指導計画が出来上がっていて、今さら、従来の黒板だけでは成り立たないと頭を抱えているのである。このことからもICTの実践が定着していることが伺える。とはいえ、平成22年度に開始して5~6年が経過している中、教室という環境は、子供たちが電子機器の周辺を元気いっぱいに生活するし、黒板のチョークなどの埃や塵の影響もあるなど、通常の電化製品よりも消耗が早いのが現実だ。事業予算が無くなった現在、学校側も少ない予算を工面して修理・交換を進めている。こういった問題に共感する実践校も少なくないだろう。

ICT環境と格差

 一方、「教育の情報化」政策が推進されている中、ICT環境整備の内容には、校務用や教育用コンピュータ、校内LAN、校務支援システム、電子黒板などがあり、全国の導入状況の実態では地域格差が生じているのも現実である。このことは前号(Vol.22)で述べた。このICT環境整備は、地方財政措置によるところが大きく、一部の整備だけが進むなど、地域においても、全国的にみても一律の動きがとれていない。学校教材や教科書を中心とした学習材は、学習指導要領をもとに内容を検討し編集され一定の基準を保って全国に供給されている。ICT環境も、いずれの地域や学校で整備が均一にされてこそ、本来の効率化にもつながるというものだろう。

「職員室」と「教室」という関係

 これからの「教育の情報化」を左右するのは、ICT環境整備内容で言われるところの校務支援と教務(授業)支援の二つの領域の一体化ではないだろうか。ICTと言われる以前のアナログの頃から、校務では名簿管理などの手書きによる作業であったり、教材は紙媒体による一方向の活用という別々の扱い方で進んできた。つまり、職員室と教室という別々のフィールドがあり、この二つはそれぞれの領域で業務が行われてきたということだ。校務と教務は一体化できないのだろうか。そもそも、学校における業務は、そのすべてを校務と呼ぶものではないのだろうか。
 実はこの二つの一体化は、ICT環境が推進される中において、俄然注目される。共にデータがデジタル化されることで、あらゆる面で情報が共有化され、再利用再確認ができるなどの効果が発揮される。たとえば、学習記録データに評価の記録が加わって、校務の情報管理につながっていく。
 職員室というフィールドは言わば校務である。教員の業務効率や、情報共有を含めた有効活用の向上を図る校務支援の整備が課題に挙がっている。教室というフィールドは教務である。授業のさまざまな学習スタイルに合わせた各種情報端末や校内LAN、インターネット回線などのインフラやハード面の整備と、教員の指導や児童生徒の学習に活用するデジタル教材などソフト面の整備という課題がある。これらは、双方がリンクし合うことで効果が表れることは、一目瞭然である。これこそ、これからのリアル教育の情報化だ。
 逆に言うと、どちらかの整備が遅れると、せっかくの情報化も効果が低くなるとも言える。ただし、環境は整備しても、実際にそれを使う人が使いこなせるかということも、現実問題として挙げられているようだ。そのために、文部科学省では、教員のICT活用・指導力の向上についても長年継続して推進している。
企業における情報活用については、申すまでもなく研究・開発、営業・販売、総務・経理に至るすべての部門で当然の環境として成立し、そのシステム管理や情報セキュリティ面など、常に最新の環境に対応している。
 同様に考えるならば、職員室も、教室も、そこに在籍する教員をはじめとした全職員と、学習者である児童生徒が存在する一つの「学校」という組織である。ある一面の整備ということでは、中途半端だと言わざるを得ない。
 校務支援で求められるのは、名簿や出席管理、成績処理に始まり、指導要録などの情報管理全般のデジタル化である。いまだに手書きによる作業も残されているという。これらは、日々教室で行われている教員の指導や、学習者の学びが履歴として接点を持ち、さらには評価資料となりこれらのデータがつながりあい、一つのサイクルとして管理運営が実現できる。今後の次期学習指導要領の論点にもなっている、充実したカリキュラムマネジメントへの活用の上でも不可欠なことだろう。
 この校務支援と授業支援という領域が互いに整備されてきた経緯を、今こそ見直して検討すべき時にきたのではないだろうか。

データ活用の時代

 よく言われる話ではあるが、「教材は整備したが電子黒板がない」。その逆で、「ネットワークは整備できたが、そこで扱うソフトウエアが無い」ということでは、鶏が先か卵が先か、である。校内LANなどのネットワークにおいても、校務、教務で使用する端末や回線が違うというし、緊急連絡などの校内放送の回線がさらに別に存在していて、既存のネットワークと新たに開設する回線との混在などを整理されることが望まれる。ひとつの認証で情報活用できる時代である。もっと言うと、スマートフォンなどのモバイル端末一つで、すべてを管理することができても不思議ではない時代である。
 授業で蓄積された学習データや評価データは、児童生徒の一年間であり、過去数年間の学びを振り返る資料として、また、指導者が自らの指導形態の見直しや、指導計画の立案に貢献し、さらに教員の異動、担任替えでのデータ共有など、多くの面で有効的なのは言うまでもない。データ化されることで活用の幅は広がるのだ。その意味において学校は、多くの個人情報があることも注意すべき点だ。情報セキュリティについても一律で整備することが大きな課題であろう。
 ある報道によれば、教員の平均労働時間は13時間だという(※2)。確かに、授業だけではなく、放課後と言われる時間帯の生徒指導、部活動なども含めて業務にかかる教員の労働体制に、前述したようなICT整備を成し遂げることで教員の負担が減ることが本来の効率化だと言えよう。一部だけのデジタル化を推進していたのでは、いつになっても本来の効率化は実現されない。

 2020年(平成32年)告示と言われている新しい学習指導要領が、いま策定へ向けて着々と協議・検討が進められている。「チーム学校」の推進による効果的・効率的な教育力の向上へ向けて、校務・教務が一体化された整備がその一躍を担い、大きな成果を上げることと思われる。かくしてその実態は、校務・教務の“データ活用”という、教育の情報化の新しい局面が始まる一年になりそうな気がしてならない。

(山口 亮)

 

※1:総務省フューチャースクール推進事業(総務省Webサイトより)
※2:「教職員の働き方・労働時間の実態に関する調査」(連合総合生活開発研究所“連合総研”)より

アートクラブグランプリ中学校美術部の甲子園「思う存分に格闘した中学生にしかできない表現がある」

 「甲子園で負けると涙を流します。それは、その子の成長につながる『いい涙』だと思います。その『涙』を大人が寄って集ってつくり出しているのです。『甲子園』は社会的な『学校』だと言えるかもしれません。美術にもそんな場があっていいと思います」
 2005年、堺市のある教育関係者から“政令指定都市に移行する記念事業”について相談されたときに話したことです。今回は堺市から生まれた「美術部甲子園」についてお話ししましょう。

1.全国的な展覧会状況

 当時は、全国規模の児童画展が減っていく時期でした。主な理由は出品数の減少による事業の見直しです。背景には児童生徒数の減少や図画工作・美術の時数減があります。学校で絵を描くこと自体が減っていたのです。以前は学校に複数いた中学校美術の先生は一人以下になり(※1)、中学校美術部の活動も停滞気味でした。子どもが図画工作や美術で活躍する場や美術に対する社会的な認知も弱くなっているようでした(※2)。
 一方で「まんが甲子園」(※3)「俳句甲子園」など(※4)地方主催で文化的な全国展を開く動きもありました(※5)。多くは「地域づくり」と結びついていますが「甲子園」と称するところがポイントです。高校野球のように大人とほぼ同じルールで競い合い、頂点はたった一つ、負けたら泣きます。涙を流すほど本気で、それを通して生きる力を身につけるということでしょう。
 「甲子園」には賛否両論ありますが、莫大な予算と大人が関わってつくりだされた「成長の場」であることは間違いありません。そこで「中学生の美術でも甲子園のように実力を発揮する場があってもいい」と助言したのです。

2.美術的な期待と課題

 美術に対する期待もありました。美術は本来先鋭的で私たちの価値観や概念を広げてくれます。時に哲学を可視化し、美や科学を現前させます。芸術家は自らと社会を問い直し、身を削るように作品をつくっています。それが彼らの「生き様=作品」だとすれば、その発露はすでに中学生にあるはずです。
 中学生は大人と社会の狭間にいます。自分と社会、文化などがせめぎ合う中で、考えたり、悩んだりしています。中学生が生み出す作品は彼らと世界のコミュニケーションです。同時に、社会の課題を切り出してくれる鏡でもあるでしょう。そうだとすれば「中学生の作品は、私たちの『今』を見せてくれるのではないか」「彼らにしかできない表現が『世界』を見つめ直すきっかけになるのではないか」そういう思いです(※6)。
 ただ、普通の全国展では勝手悪さが残ります。なぜなら全国展は数多くの児童生徒を対象とするので、製作時間や紙の大きさ、技法などに一定の制限がかかるのです。発達にそぐわない「達者な絵」は避けられる傾向があります(※7)。それは一つの作品を何十時間もかけて描く美術部員にとっては不都合です。中学生が思う存分に表現できる場、彼らにしかできない作品を発表する展覧会があってもよいと思ったのです。

3.堺だから生まれる意味

 「美術部甲子園」はどこでも可能というわけではありません。堺には、20年以上の「堺市中学校美術作品展」いわゆる「部展」の伝統があります(※8)。大会開催のノウハウや教員組織、教育委員会や地域的な支援はすでに成立しており、これを発展させればできるというのが原点です。
 そこに「全国」という高い環境を持ち込めば、堺の子どもたちは今以上の力を発揮することでしょう。同時に全国の子どもも育てることになるでしょう。「堺の子どもを全国と競わせ、どちらも大きく育てる」「子育て文化を地方からつくりだす」実に志の高い事業になります。また、線香に自転車など「ものの始まりなんでも堺(※9)」にはぴったりです。政令指定都市への移行記念にこれほどふさわしい事業はありません。
 また、「美術部甲子園」が開催されれば、中学校美術全体が元気になるだろうと思いました。全国の中学生が大きさや技法、時間などを気にせずに描いて競い合うのです。先生たちは自分の専門性を活かし、学習指導要領に縛られることなく指導できます。子どもたちの才能や能力だけでなく、美術教師の指導力も高められるのです。
 しかし「言うは易し、行うは難し」。関係者にとって実現は容易ではなかったと思います。コンクールは審査員でその「格」が決まります。高名なアーティストを選ぶ必要があります。また文部科学大臣賞が出ることは必須条件です。参加校や参加都道府県の数も大切です。他にも予算をどうするのか、協賛企業は、メディアは、審査方法は、出品や返却は……具体化するほど難問は増えていきます。でも関係者は「部展」と堺の伝統を基盤に、これらの難題を次々と解決していきました(※10)。

4.アートグランプリの現在

実行委員会の審査風景

 全ての問題を乗り越えた2007年。第1回「アートグランプリin SAKAI~堺から発信するアートの甲子園『全国中学校美術部作品展』」が開催されました。大きさは50号(116.7×116.7cm)以内、油絵やコラージュなど表現方法は多様で自由です。何十時間、何百時間かけてもよく、1年生か3年生かも関係ありません。中学生が思い切り自分の表現を追求できるのです。大人と同じように作品だけが勝負、「美術部甲子園」の誕生です。
 審査員は芸術家や美術評論家、教育関係者です。学校教育の文脈だけで審査は行われません。例えば、教育関係の審査員が「丁寧に時間をかけて描いています」と言うと、美術関係の審査員が「まとまり過ぎ、ここまで完成した作品はつまらない」と反論します。同一校の重複や出品者再受賞(※11)も妨げないので「この子、昨年の方がいいわ」と出品者の成長が求められることもあります。児童生徒作品展で最も厳しい審査だと思います(※12)。
 第1回は375校,2363点、当初は何回続くだろうと心配していましたが、関係諸氏の努力もあり、2016年は記念すべき第10回を迎えます。埼玉、長岡、長野、福井と通算17か所の全国巡回展を開くまでに発展しました(※13)。2015年の出品は511校から4598点、ほぼ全国の都道府県政令市から参加しています。「あの展覧会に入賞するのが夢なんです」と熱く語る美術の先生もいます。今ではすっかり全国の美術部教師の目標になっています(※14)。
 これに歩調を合わせるように、600人台だった堺市の美術部員の数は1000人を超え、男子生徒の姿が目立つようになってきたそうです。同じようなことが各地でも起きていると伝え聞きます。当初の目論見通り「堺市の子どもたち」と「全国の子どもたち」が切磋琢磨しながら同時に育つ展覧会になったといえるでしょう。

5.中学生の表現する姿(保護者の声から)

 保護者の声を最後に紹介しましょう。2015年「アートクラブグランプリ」第3席入賞者から実行委員会に寄せられた声です(※15)。世間では、スポーツの努力ばかりもてはやされますが、絵を描くことにも、こんな壮絶な姿があるのです。

神奈川県東海大学付属相模高等学校中等部2年 遠藤 一
「優しい時間(もやい)綱」堺市議会議長賞(第3席)

 アートクラブグランプリの事務局の皆さま
 日々益々ご清祥のことと存じます。この度は息子が堺市議会議長賞を頂きまして誠にありがとうございます。息子共々嬉しい限りでございます。
 ある日、2人でゴールデンウィークにアートクラブグランプリの画題を港へ探しに行きました。本当は港湾の美しい風景を描こうか?と辺りを散策していたところ、廃船が息子の目に留まりました。
 「このロープは何なの?」
 ここからこの絵を描くことが決まったのです。
 しかし、その後、絵画を制作する約4ヶ月の間に、指、腕、足首と三度の骨折に見舞われました。ギブスと松葉杖生活、往復3時間の登下校が精一杯。部活で絵を描く体力気力など残っていない様子でした。
 「部活をやめる。もう、絵は描けない。」
 「ならば絵などやめてしまえ。」
 荒れ狂う息子に手を焼く日々が続きました。
 痛みがひどく夜泣いていた時、一番使いやすいと大切にしていた熊野筆を放り投げてへし折りました。よほど悔しかったのでしょう。
 二度目の骨折の時は先生から「鉛筆画で出そう。色は無理だろう」と勧められたそうです。でも、翌日、船体にサビ色を塗ってしまったと聞きました。息子は「色を塗らないで出したら一生後悔する」と言ったそうです。その後、締め切りに間に合わせるため、夜、自宅で自分のパレットで色合わせをして、翌日このパレットを学校へ持ち込み同色をつくる、こんなことを毎日やっていたそうです。
 息子はいろいろコンクールに出展していますが、この全国アートクラブグランプリが最高峰と思っているようです。

 「この『もやい綱』は、ここの審査員の先生にみてもらうんだ。他のコンクールではだめなんだ」と始終口にしておりました。
 そして完成。梱包・発送を1人でやり遂げた後、息子は生徒会役員に立候補し、なんと当選しました。そうして作品も入賞です。息子の自信がみなぎる様子には、目を見張るものがありました。
 このコンクールがなかったら、このような成長が遂げれなかったかもと考えると、皆さまに感謝してもしきれない気持ちになり、思わずメールした次第です。
 息子は「頑張れば夢は叶う、諦めたらそこで終わる」ということをアートクラブグランプリから学んだのだと思います。
 「今しか描けない絵を描く」
 このコンセプトが胸にささります。本当にありがとうございました。益々の貴コンクールのご発展、祈念しております。

 

※1:昭和の頃は一つの中学校に美術の先生が2名はいたものです。今は一校に一人いるかいないか、あるいは数校掛け持ちで一人という状況になります。専任から非常勤に代わることも多くあります。
※2:展覧会の意味や効果についてはこちらを参照してください。『学び!と美術<Vol.39>児童画コンクールQ&A』 『学び!と美術<Vol.40>「展覧会」は面白い!』
※3:「全国高等学校漫画選手権大会」(主催:高知県、「あったか高知」まんがフェスティバル実行委員会、財団法人自治総合センター)第1回は1992年
※4:「全国高校俳句選手権大会」(主催:社団法人松山青年会議所、NPO法人俳句甲子園実行委員会)第1回は1997年、第8回大会から文部科学省より学びんピックに認定されています。
※5:同時期に生まれたコンクールに愛媛の「書道パフォーマンス甲子園」「スイーツ甲子園」「はんが甲子園」「花の甲子園」などありますがほとんど高校生対象で、中学生だけを対象としたものは聞きません。小学校対象としては京都の「至高の動くおもちゃづくり」トイ・コンテスト グランプリ in KYOTO(主催:京都こどもモノづくり事業推進委員会、京都市図画工作教育研究会、京都理科研究会、京都市教育委員会、第1回は2006年)があります。
※6:ネオ・ジャポニズム、環境問題、災害など審査員の間では毎年作品と時代や社会と作品の関わりについて話題になります。
※7:「教室で生まれた作品」「子どもらしい表現」が前提になるため、例えば中学2年生の美術は年間35時間、完成に20時間かかる作品はちょっと…となるわけです。また、上手だといって選ぶと大人や先生が手を入れた作品ほど入賞することになってしまいます。悩ましい問題です。
※8:2006年時点ですでに23年間続いていました。
※9:貿易都市・商業都市として栄えた中世の堺、堺で生まれた多くのものが、堺の職人・商人によって全国各地に広がっていきました。伝承も含めて堺が発祥の地として、鉄砲、自転車、タバコ、包丁、線香、私鉄-阪堺鉄道、木造洋式燈台、瓶づめの酒、学生相撲、三味線、堺緞通、金魚、水練学校、傘、チベット探検、商業定期 航空、ショベル・スコップ、鳥毛・菱垣廻船、謡曲、機械縫製足袋、堺更紗、医書大全、セルロイド工場、足踏み回転脱穀機、江戸浄瑠璃、隆達節、銀座、大筒、国道第一号、鉛丹、朱座、頼母子講、紙箱などがあります。参照「ものの始まりなんでも堺」
※10:これまでの実績や志の高さが認められて本展では第一回から文部科学大臣賞が出ることになりました。文部科学大臣賞は数年の全国展実績や実施母体の信頼性が求められるので極めて異例です。またこの時期文部科学大臣賞自体を減らす動きもありました。
※11:展覧会では、できるだけ多くの子どもたちに機会を提供する意味で慣習的に行われます。
※12:ある審査員は「毎年、子どもたちに会いたくなる作品展」だと述べています。子どもたちの本気と今が見えるのが楽しいのでしょう。
※13:巡回展まで含めると7000名以上の来場者になります。
※14:筆者のFacebookでは美術教師同士が本展への出品について語り合っています。全国の図画工作・美術の指導主事が集まる場でも本展について話し合う指導主事の姿が見られます。美術教師の全国的なつながりが生まれています。
※15:プライバシー保護の観点から一部校正や簡略化をしています(掲載許諾済)。