これからの美術鑑賞~「文脈」と鑑賞教育

浅草 飴細工 アメシン
(代表 手塚新理)
飴細工の金魚、大きさ7cm

 日本の鑑賞教育は、形や色などの物理的な手掛かりをもとに、主題や意図など作品の内容を考えるのが主流です。でも、形や色と主題の行き来だけでは「もったいないなぁ」と思います。作品を成立させるために不可欠な要素「文脈」(※1)を用いれば、鑑賞活動をより探究的な活動にすることができるからです。

 「文脈」は、例えば、作品にまつわる知識や物語、美術や社会に関する問題、時代性や歴史などです。形や色のように作品から直接は確認できず、主題のように作家が表しているものでもありません。今回は、「文脈」の代表選手「美術館」を取り上げてみます。

美術館

 美術館は、作品を美術品にするための代表的な仕組みです。「美術館には本物がある」「美術館には名品がある」。私たちは、美術館が信頼できる審美眼によって選ばれたものを展示していると思っています。もちろん、それはその通りで、美術館は日々努力しているのですが、それは「美術館に幼児の作品を紛れ込ませても、多くの人々は高名な作家の名作として見てしまう」というシステムでもあるのです(※2)。

壁や空間

 美術館の白い壁面や広い空間も、作品を立派に見せる仕組みです(※3)。それは、美術品を他の要素から切り離し、できるだけ単独に味わうために考え出された方法です。デザインに詳しい人ならお分かりでしょう。よく見せようとするモノがあれば、周りのものをどかして、白か黒い布の上にポツンとおけば、それだけで立派に見えてくるはずです。美術館の壁や空間はそのような働きをしていて、その上で私たちは鑑賞しているのです。

展覧会

 展覧会は、作品をよりドラマチックに味わう仕組みです。学芸員は作品が十分に味わえるようにストーリー性を考えて展示室を構成していきます。人の導線、視線の動き、展示場所やライティングなど、慎重に検討しています。その結果、私たちは順路を追って進めば、学芸員の提示する「美術の物語」を効率よく追体験することができるわけです。それは、「ありのままに作品に出会う」というよりも、「展覧会という方法を通して作品に出会っている」と言えるでしょう。

美術品

 作品自体も美しく見えるように「加工」されることがあります。例えば、ミロのビーナスなどの有名な古代ギリシャ彫刻は、つくられた当時、色鮮やかに着色されていました(※4)。でも時間が立つと色は落ち、真っ白の大理石像になります。そこに「白が高貴な理想の色」という考えが加わり、僅かに残っていた色の痕跡でさえ削り落とされたのです。大英博物館で実際に起こったことです(※5)。私たちは、その「まなざし」を未だに引き継いでいるかもしれません。現代作家のLéo Caillardはギリシャ・ローマ風の白い彫刻にTシャツやジーンズをはかせていますが、その通俗的な姿は、逆に私たち自身の白い大理石彫刻に対する「信仰」に気づかせてくれるでしょう(※6)。

 美術館、壁や空間、展覧会、美術品などは、いずれも私たちの「まなざし」を構成する重要な「文脈」です(※7)。探究的な美術鑑賞を通して、これに気づくことは可能でしょう(※8)。本稿の例で言えば「美術館には素晴らしい本物がある」と信じて疑わない姿勢や、「美術館=美の神殿」という意識を問い直すことができるはずです。今、求められている、クリティカル・シンキングやメタ認知の育成などにも役立つように思います(※9)。発達や習熟度にもよりますが、「風景とは」「自己とは」「女性とは」「子どもとは」など、様々な文脈に着目した鑑賞教育に挑戦してみてはどうでしょうか(※10)。

 

※1:テート美術館「アートへの扉」を参照。ロンドン・テートギャラリー編 奥村高明・長田謙一監訳「美術館活用術 鑑賞教育の手引き」2012美術出版社
※2:美術館の制度性については100年前から批判されている。大聖堂、メディア、商業施設等、今も美術館の存在は、作家や研究者、美術館自身などから問い続けられている。
※3:近代的な美術館として誕生したMoMA(1929年開館)は、無菌室やホワイト・キューブなどと呼ばれ、批判の対象となった。「今もって絶対的な権威」「それ自体がひとつの表現だ」などの指摘もある。
※4:近年の図鑑や絵本などの復元画は、パルテノン宮殿も、大理石の像も「極彩色」である。
※5:「NHKスペシャル 知られざる大英博物館 第2集 古代ギリシャ “白い”文明の真実」NHKエンタープライズ 2015
※6:http://www.leocaillard.com/
※7:私たちは、文化的な生き物であるがゆえ、文脈という仕組みから逃れることはできない。
※8:普段の美術鑑賞で、このようなことを問題にするのは無粋だろう。ただ、経験的にギャラリーツアーなどで鑑賞者が自ら「展示室の作品の配置における学芸員の意図」や「美術館の設置と自然環境の関係」について語り始めることがある。
※9:指導者側が「文脈」に無自覚なまま「作品との純粋な出会い」や「ありのままの自然な対話」を求め続けても、この要求には応えられない。中学校学習指導要領には「自分の価値意識をもって批評し合う」とあり、解説書では「自分の価値意識をもって批評するためには,自分の中に対象に対する価値を明確にもつことが前提」「鑑賞は単に知識や作品の価値を学ぶだけの学習ではなく,知識なども活用しながら自分の中に作品に対する新しい価値をつくりだす学習である」とある。「いくつかの鑑賞の視点を設定」して、探究的な学習の開発を行う実践も求められている。
※10:アートカードを用いた美術館づくりや、キッズ・オークションなどがこれにあたる。オークションについては大分県立別府青山・別府翔青高等学校岩佐まゆみ先生が公的な美術館と収集の問題に関わった興味深い実践を行っている。

鑑賞はハイブリッド~「視写」のススメ

美術出版サービスセンターの鑑賞学習ボックス。アートカードを用いたゲーム他、様々な鑑賞方法が掲載されている。(※8)

 学び!と美術<Vol.30>で「これからの鑑賞はハイブリッドだ」と書きました。これは「育てたい力は何か」「学習のねらいは何か」などを明確にした上で、いろいろな方法や作品を組み合わせて鑑賞を行おうとするものです。今回はそのための方法の一つ「視写」を紹介します。

 ある美術館では、鑑賞の方法として「模写」を取り入れていました(※1)。美術館内で、子どもたちに鉛筆と紙を持たせて30分程度、好きな絵を写す方法です。学芸員は「まず子どもが集中します。また、思わぬ絵に興味を持っていることが分かります。同じ絵からも違う絵ができるので、子どもがどこを鑑賞しているのかつかめます」と話していました。

 私は、この話を聞いて「厳密にいえば『模写』というより『視写』だな」と思いました。なぜなら「模写」は、美術作品などを「忠実に再現すること」であり、かなり高度な内容です。美大などでも行われる研究方法の一つで、例えば源氏物語絵巻を「模写」することで、材料の性質、道具の使い方、技法、主題などが解明されています(※2)。一方、「視写」は、主に学校教育、特に小学校国語科で用いられます。詩の全文や物語の部分を「そのまま書き写す」ことを通して、文章構成や表現技法の理解、集中力の向上などを図る学習方法です。この美術館の「模写」は形式的には「視写」に近いといえるでしょう。

 次に「写すというのは小中学校の図画工作・美術で嫌われるけど、鑑賞には有効だ(※3)」と改めて思いました。なぜなら、国語の学習で「視写」を取り入れると、子どもたちは読んだだけでは気づかないことを次々と「発見」するからです。例えば、童謡で有名な「ぞうさん」(まど・みちお)を「視写」すると、子どもたちは「先生、ぞうさん、ぞうさんって二度繰り返してるよ!子どもが象さんに呼びかけているんじゃないかな」「象さんは『かあさんも長いのよ!』って、少し怒ってるみたい」などと発言します(※4)。「視写」を行うことで、子どもの発表が言葉を根拠にした具体的なものに変化するのです(※5)。
 また、「模写」は 脳の活性化という観点からも効果的です。例えば字を書いている人の様子を見つめると、自分は書いていないのに、字を書いている脳の部分が働きます。鏡のように映っているという意味で「ミラーニューロン経路」と呼びます。このミラーニューロンは、「模写」をしているときにも働くことが分かっています。またダンスや言葉でコミュニケーションしているときにも同じように働き、これが共感するという感情に結び付くようです(※6)。美術館の子どもたちは「模写」によって、まるで自分が描いたかのように共感的に絵と語り合っているのでしょう。

 鑑賞は、自分の感覚、経験、知識、文化などから、子どもたち自身が意味や価値をつくりだす学習です。その方法は様々で、本稿で紹介した「視写」以外にもいろいろな鑑賞活動があります。例えば
 ・現代、同調、自然、構成などキーワードカードを使って作品鑑賞する
 ・彫刻のつくりだす空間をとらえるために作品の周りからスケッチする
 ・作品から音を見つけて、オーケストラのように「演奏」する etc(※7)

などです。
 鑑賞のねらいや発達を踏まえ、学習テーマを工夫し、いろいろな方法や作品を組み合わせてハイブリッドな鑑賞活動を開発してみてはどうでしょうか。

 

※1:海外の美術館では描くという活動は比較的ポピュラーな方法である。テート美術館編 奥村高明・長田謙一監訳「美術館活用術~先生のための環境教育の手引き」美術出版2012
※2:徳川美術館・五島美術館監修「よみがえる源氏物語絵巻~平成復元絵巻のすべて~」NHK名古屋放送局・NHK中部ブレーンズ 2006。東京芸大の卒業修了展でも毎年「模写」を見ることができる。
※3:「個人」の「創造性」を重視するあまり、「写し」を極端に否定する場合がある。
※4:童謡「ぞうさん」は、「お鼻が長いのね」と悪口を言われた象の子が「一番好きなお母さんも長いのよ」と誇りをもって答えるという内容である。阪田寛夫「童謡でてこい」河出文庫1990 pp.256-257
※5:実際の授業では、「視写」に「音読」や「話し合い」などを組み合わせながら、主人公の気持ちや作品の意図の理解などを深めていく。「ぞうさん」では、小学校2年生でも上記の解釈にたどり着く。
※6:女子美術大学の前田基成先生との対談より。
※7:前掲書1
※8:http://bijutsu.biz/bss_bsc/scope/eureka.html

鑑賞教育~発達と言語活動

 教育は、「計算とか言語とか基礎的なスキルをベースに、思考力や判断力を高めましょう」で終わりがちです。でも、これからは、コミュニケーションとか、人間関係をつくるとか、社会に参画するとか、そのような実践力が求められるでしょう。それは、美術鑑賞が十分に担える部分です。
 このときにポイントになるのは、鑑賞における発達と言語活動です。本稿ではその二つを視点に、低学年、中学年、高学年、中学1年、中学2・3年の特徴を、簡単に説明します。

 なお本稿で紹介した作品は全て、日本初、本格的美術鑑賞のウェブサイト「鑑賞教育.jp」で見ることができます(※1)。サイト中の「鑑賞教育キーワードmap」では、各学年に最適の作品をキーワードで選んだり、プレゼンモードで鑑賞したりすることができるので、ぜひ参考にしてください(※2)。

低学年

 子どもが鑑賞している姿は、大人とはずいぶん違います。大人は一対一で対決するように美術作品に出合いますが、低学年の子どもはむしろスッと一体化します。そこから、何か感じて、発言します。視覚だけでなく、触覚や聴覚なども活発に働かせています。私はよく「鑑賞は全身運動」と呼んでいるのですが、例えば、高村幸太郎の《手》に出合ったら、子どもたちはすぐに、あの複雑な手の形を真似ようとします。マイヨールの《夜》の前で、同じポーズをとります。言語活動的には、全身で感じ、考えたことが言葉になれば、それだけで十分でしょう。

中学年

 この学年で特徴的なのは、想像の世界、物語の世界がどんどん膨らんでいくことです。東山魁夷《道》だと、道の真ん中に立って「向こうに何がある」「外国に行ける」とか、いろんなことを言います。絵の中に入り込んで、その世界を見渡すように語ります。子どもにとって作品は、作品というよりも、目の前に広がる世界なのです。言語活動的には「この形がきれい。この動きが面白い」のように、原因と結果を分けることができるようになります。進行役は、子どもの意見の「根拠」を丁寧に押さえるように進めると、絵と関係のない話に広がって、収集がつかなくなってしまうことはありません。

高学年

 高学年は、かなり分析的、論理的に鑑賞するようになります。「どこからそう思ったの」という質問にもはっきり答えられますし、謎解きとか推理とか、話し合いそのものを楽しむ特徴をもっています。例えば古賀春江《海》について、いろいろ話し合った後に、「じゃあこの作品に題名をつけましょう」というと「私はね、《空想と現実の世界》、それは、女の人が、潜水艦が、、、、」と話すことができます。鑑賞を進める側としては、形や色などの造形的な要素をしっかり取り出して、一緒に謎を解いてみるような姿勢がよいでしょう。

中学1年生

 中学生は、自分を見つめる年齢です。自分にこだわったり、周りの目を気にしたりしはじめます。それは同時に、「作家は何を考えたのだろう」という問いが成り立つということです。「作家について語る」は「自分について語る」と同じことですから。例えば、アントニー・ゴームリー《反映/思索》で、「過去の自分と今の自分を比較して人生について考えている」などのような発言ができるようになります。また、日本文化について考えたり、現代作家の社会に対するメッセージを読み解いたりすることもできます。テーマを決めてディベートや小グループでのディスカッションなど、いろんな方法を試すといいでしょう。

中学2・3年生

 美術は、「これを美術として見ましょう」「それをこのような方法で担保しましょう」という約束事や制度の側面があります。それは、国の歴史や社会背景などで、かなり違います。そのことが、中学2・3年生にもなると理解できるようになります。例えば、モーリス・ドニ《雌鶏と少女》を見て、縦書きのサインとか縦長の画面構成などから日本らしさを見つけ、文化的な影響について考えることができます。「学芸員が作品を配置した意図」「美術館が美術を定義する」などのような難しいテーマに挑戦するのもよいでしょう。

 これからは、単に、学力を高めるということだけではなく、社会を生き抜く力を高める、あるいは自分の気付かない能力を覚醒させる、などが求められるようになるでしょう。そのために美術館に行ったり、美術鑑賞をしたりするということが、美術の一つの「役割」になるかもしれません。その際に、発達や言語活動に配慮して、育てたい力にそった鑑賞活動を行うことが大事だと思います。

 

※1:「鑑賞教育.jp」
平成24~26年度科学研究費基盤(B)「美術館の所蔵作品を活用した鑑賞教育プログラムの開発」研究代表:一條彰子(東京国立近代美術館)の成果報告である。奥村は研究分担者で、特に「鑑賞教育キーワードmap」の原案作成に携わっている。本稿はその骨格部分を解説したものである。
※2:「鑑賞教育キーワードmap」
「担当している学年には、どんな作品を鑑賞させたらいいの?」「この作品を鑑賞するには、どんな方法があるの?」などの疑問を解決するきっかけとなるよう作成されたウェブサイト。美術館での学習において、児童生徒の反応が高かった作品を選択し、各学年の鑑賞の特徴、作品解説、鑑賞方法・実践例や子どもの言葉とともに紹介している。キーワードや作品解説、プレゼンモードでの鑑賞など、教員や学芸員が美術館・博物館の所蔵作品を活用し、鑑賞教育プログラムを考案・指導する際の手助けとなる。

これからの美術鑑賞

 先日ある人と鑑賞教育について話していました。私はおおむねこんな話をしました。
 「この20年、美術鑑賞をめぐる環境はずいぶん変わりましたね。美術館との連携は特別なことではなくなり、アートゲームや対話によるギャラリートーク、○○型鑑賞、VTSなど、様々な学習方法が話題になりました。特にこの10年は『ずいぶん変化したなあ』という実感があります(※1)。現実的には、いろいろ問題もあるのですが、鑑賞教育は結果的に充実してきたと思います」
 そのとき、「では先生、これからどうなるのでしょう?」と質問されました。私は、「ハイブリッドかな…」と答えました。とっさに出た言葉なのですが、本稿ではこのことについて考えてみたいと思います。
 ハイブリッドとは、これまでの資源をもとに新しい方法を加えながら複合的に発展するという意味で使った言葉です。まず、これまでの資源、つまり代表的な学習は続きます。国語で考えれば分かりやすいかもしれません。国語の物語文の読解、あるいは作文などは、今も教育現場で実践や研究が続けられています。これからもなくなることはないでしょう。同じように、アートゲームや対話をもとにしたギャラリートークなどは、代表的な方法、いわゆる定番として、これからも実践や研究が行われていくでしょう。
 ただ、国語では「物語文だけを読み込むだけ」「説明文だけ」という学習は少数派です。読解したことを新聞にしたり、同じ分野の本を読んだり、様々な指導法を組み合わせるのが一般的になりました。美術も同じとすれば、「一つの作品だけを読み込む」「アートカードだけ」という学習は、少数派になっていくでしょう。それぞれの特徴を生かして、複数の方法を組み合わせた学習が当たり前になってくるかもしれません。そこに、さらに新しく開発された教育方法が加えられていくのではないでしょうか。
 その参考になる例を紹介しましょう。東京国立近代美術館の一條学芸員を中心としたグループは、海外の先進的な事例を調査しています(※2)。そこで経験したのは、テーマをもとに学習する方法でした。「アイデンティティ」「ジェンダー」など、テーマやトピックなどを明確にして、それに基づいて作品を選択し、その上で対話や解説、ディスカッションなどを複合させながら進行する方法です。館によっては、その中に簡単な材料を用いて何かつくったり、ゲームをしたりする活動もありました。「テーマ・ベース」「トピック・ファースト」など呼び方はいろいろでしたが、育てたい力を明確にし、テーマにそって最も効果的な手法を組み合わせる鑑賞でした。
 美術館自体も美術愛好者だけを対象とするだけでなく、より多層な人々の多様な活動に貢献していこうとしていました。ビジネスマン向けの有料セッションや、アルツハイマーに対するプロジェクトが行われていました。教員の研修がポイント制になっていて、美術館で学習するとそのポイントが得られるというシステムもありました。鑑賞によって子どもの問題解決能力を向上させる研究も行われていました(※3)。日本でも、スポーツ博物館、科学博物館と垣根を越えた実践が広がっていますし、私個人も美術鑑賞の方法論を生かした科学博物館の理科の研究に参加しています(※4)。鑑賞教育は、その方法も、場も、対象も、より「ハイブリッド」になっていくのでしょう。
 ここまで読まれて、「あれ?以前からそうではなかったっけ?」と思われる方もいるでしょう。その通りです。美術館は、訳せばMUSEUM、それは博物館、動物園等を含み、法律的に、組織的に、幅広い概念です。昔から多様な層を相手に、様々な鑑賞方法に取り組んできました。企業や学校を対象にした研修会を実施し、ゲーム的な方法を取り入れた子ども向けの美術展が各地で行われています。学校教育でも、昔からいろいろな鑑賞教育に取り組んできました。学校における対話による鑑賞は昭和40年代からありますし(※5)、私自身、昭和50年代に「気候や風土と絵の関係」というテーマ・ベースで日本と西洋の絵を比較鑑賞しています。
 おそらく、今回の文章は「何をいまさら」でしょう。でも「美術鑑賞が盛んになってきたがゆえに、本来多様であったものが固定的に見えてしまう」という危惧があるのも事実です。何かの方法だけがベスト、そういうわけではないと思うのです。もっと柔らかに考えて、肩の力を抜けば、今までも、これからも、ずっと鑑賞はハイブリットだと思います。

 

※1:私自身が、美術館と学校の連携、アートカードの普及、対話によるギャラリートークの推進などに関わっていたので、現場の実践が毎年変化していく様子を肌で感じていた。
※2:科学研究費助成事業基盤(B)「美術館の所蔵作品を活用した鑑賞教育プログラムの開発」(平成24~26年度、研究代表者:一條彰子(東京国立近代美術館)筆者は研究分担者として加わっている。
※3:グッゲンハイム美術館の「Learning Through Art」プログラム
※4:科学研究費助成事業挑戦的萌芽研究「ミュージアム展示を科学的思考力育成の場に変える発問群による教育実践モデルの開発」研究代表者:中山迅(宮崎大学)テート美術館「美術館活用術」の「アートへの扉」を用いた科学博物館における理科学習における発問の構築
※5:上野行一(帝京大学)の調査より

メタ認知を鍛える図画工作・美術

 以前、<Vol.25>「子どもの見方」で、「つくっている」ものと「子ども」は一体で、「作品はその子自身だ」という話をしました。今回は、そこから、もう少し話を進めてみたいと思います。

もう一人の「リトル自分」

 「子どもたちはつくっている作品と一体化する」それは、その通りなのだろうと思います。あたかも自分をつくり出しているように作品をつくります。大人もそういうところがあります。料理や工作など、つくっているときは夢中です。ときには子どもの持っているブロックを取り上げて、自分のものをつくっています…あぁ、大人げない。

 でも、いつも「つくっている作品と自分は一つ」ではないのです。人は、つくりながら、すっと体を引いて、自分の作品を見る瞬間があるのです。それは、自分のつくっている作品から、一度自分を外すような行為です。筆者の調べる限りでは、幼児も行う行為です。例えば、写真のA子ちゃんがそうです。段ボールの家の壁に、色セロハンの洗濯物を干していたのですが、1mくらい後ずさりして、その状態でじっと洗濯物を見つめます。その直後に、この子は色を取り換え始めました(※1)。つくっている作品と距離をとる。自分の体を引く。この行為には、どのような意味があるのでしょうか。
 まず、子どもたちは夢中になって、作品をつくります。つくっている作品になりきり、作品の中で遊ぶようにつくります。このとき、作品は間違いなく「自分」でしょう。では、作品から体を引いて、作品を見つめる自分は? それも自分です。ただし、作品と一体の自分ではありません。そこから距離をとった自分です。おそらく、「色はこれでいいかな」「形はもっとかっこよくならないかな」と考えているはずです。自分の作品を冷静に見つめている「もう一人の自分」、サッカー日本代表の本田選手に倣って言えば「リトル自分」です(※2)。図示するとこうなるでしょう。

 子どもが自覚しているかどうかは別として、これは「メタ認知」の一種ではないでしょうか。「メタ」とは、高次の、超えた、後ろの、などの意味で、「メタ認知」は「認知を(超えて)認知する」こと、いわば「もう一人の自分が、自分の思考や行動を把握したり、認識したりする」ということです。これを遂行できる能力が「メタ認知能力」です。
 子どものつくる作品は、学習課題という意味では計算問題や文章題と同じです。でも、それらとは異なり、作品は立派な「自分」として成立しています。その作品から体を外すことは、まさに「自分」から「もう一人の自分」が生まれた瞬間です。そして、作品を見つめる行為は、「もう一人の自分」が今の「自分」ついて考える姿にほかならないでしょう。

メタ認知が働きやすい図画工作・美術

 現在、「メタ認知」は、クリティカル・シンキング、リフレクションなどと並んで、育てたい力として着目されています。それは世界が多様で複雑になり、文化的なすれ違いに満ちているという意味で切実な課題です。単純な判断をしてしまうと、致命的なトラブルを起こしかねません。冷静に自己を見つめるまなざしが求められているのです。ただ「言うは易く行うは難し」、自分の思考や行動のモニタリングは簡単ではありません。
 図画工作や美術では、目の前に「作品という自分」と、それを見つめる「もう一人の自分」がいます。「メタ認知」は働きやすいでしょう。「メタ認知能力」を鍛える図画工作・美術、それは楽しく、かつ実効性のある学習活動だと思うのです。

 

※1:このような体を引く場面は、ベテランの先生がとらえるのが得意です。なぜなら、その次に、それまでとは違うことを始めることが多いからです。ベテランの児童理解のポイントの一つですね。
※2:2014ユーキャン新語・流行語大賞(現代用語の基礎知識選)の候補50語にサッカー界から「リトル本田」が選出されています。これは、日本代表FW本田圭佑選手が、1月にACミランへ移籍した際の入団会見で「心の中のリトル・ホンダに聞きました。そうしたら『ACミランでプレーしたい』と答えた。それが決断した理由です」とコメントしたことに由来しています。これはマンチェスター・UのFWロビン・ファン・ペルシー選手の入団会見の引用と言われています。

ホントは厳しい図画工作・美術

 教育課程改訂の時期が近付くと、「美術や図画工作は楽しい」「子どもたちが大好きな時間が少ないのはいけない」などの発言が増えます(※1)。でも、本当に楽しいのでしょうか?子どもの姿から考えてみましょう。

1.図画工作・美術は厳しい!

「100gの世界」

 まず、子どもは、自分で主題を見つけなければなりません。題材は先生が決めるとしても、そこから「何を」描くのかは子ども自身が決めることです(※2)。例えば、「運動会」が題材だとしても、どの場面を描くのかは、その子が決めなければなりません。また、そこには「その子らしさ」も求められます。参考作品として提示された作品や、友達と同じ作品はつくれません。「与えられた条件から、他者と異なる自分の課題を発見する」。それは決して容易なことではないでしょう。

 次に、自分の思いついたことを、「どこに」「どのように」描くかという「問題の解決」が求められます。でも、材料や方法などの資源は、すべてが正しい顔をして目の前に広がっています。そこから、「クレヨンと絵の具どちらにするか」「色はどうするのか」「箱をどう組み立てるのか」「何と何を接着するのか」など、自分が必要だと思うものを選択し、決めることになります。

 しかも、状況は、一瞬たりとも同じではありません。例えば、絵に色を一筆入れただけで画面の動きや表情は変化します。次々と立ち現われる問題を把握し、そこから、色の選択、線の決定など、場面に応じて細やかな手を打たねばなりません。その過程では、周りの友達の発言や様子、製作の過程から情報を取り出し、それを作品の実現に生かすというコミュニケーション力も必要です。

 何より、途中でやめることができません。最後までやり遂げない限り、作品という「自己」は実現しないのです(※3)。「この問題は分かりません」とあきらめることはできません。自分で決めたゴールまで、やり遂げる責任を果たしてはじめて作品は完成するのです。ある企業関係者が「うちは美大生を喜んで採用する。なぜなら、彼らに仕事を任せると最後までやり遂げる。しかも、自分の水準を下げない。」と言っていました。分かるような気がします。

2.厳しいけど楽しい?

 このように、図画工作や美術で子どもたちが行っているのは、決して楽なことではありません。自分で課題を見つけ、自分で発想し、材料や方法を組み合わせ、技能を発揮しながら、オリジナルな作品をつくりあげるという大変厳しいことをやっています(※4)。先生の提示した問題を、先生の提示した方法で解いて、みんな同じ答えになることの方が本質的には楽でしょう(※5)。
 でも、子どもたちは図画工作・美術で「楽しい」表情をします。それは、能力が活性化しているのを実感しているから、あるいは自分らしさが実現できたからだろうと思います。その表情を見て、大人は図画工作・美術を「楽しい時間」と一括りにするのでしょう(※6)。
 それは、形の観察力に優れ、微妙な色の差異に気付き、論理的に方法や構成を組み立てている子どもに失礼な話ではないでしょうか。ホントは「厳しい」活動を「楽しく」やっている子どもの姿や、思考力や実践力を育んでいる子どもの力を、もっと具体的に語るべきだと思うのです。

 

※1:この手の意見は「そんなに楽しいなら学校にいらない、外でやればいい」という反論に答えられません。
※2:Vol.27で述べたように、場面や構図などまで先生が決めているのは題材とは言えないでしょう。
※3:このことについては、Vol.25で詳しく述べました。
※4:小学校4年生ぐらいから、そのことに気付くので図画工作嫌いが増えていきます。それは、当たり前で、悪いことではないのです。それを単純に「描き方が分からないから教え込む」とか「図画工作はいらない」ではいけないと思います。
※5:「できる・できない」という選別される厳しさはあるでしょう。
※6:「絵が好きだから繊細」とか、「図画工作や美術で感受性が豊かになる」など、曖昧な言説も多い。

描き込み指導の失敗と教訓

 前回、発達を無視して技能を教え込んでも、「創造的な技能」は伸びないという話をしました。今回はそれを思い知らされた私の失敗談です。

1.中学校から小学校へ

 昭和62年、27才、都市部の中学校で美術科の教員として4年働き、次に、人口2000人、全校児童145人の山間部の小学校へ異動しました。初めての小学校は大変でした。小学生に分かる言葉で話せず、板書も苦手、小学生に筆順の間違いを指摘され、保護者から「先生が担任になって子どもの字が下手になった」と言われました。国語も算数も家庭科もなかなか上手くいかず、学校の中で一番教え方の下手な先生だったと思います。隣の先生の授業を見て、本を買って、早く一人前になろうと必死でした。ただ、図工だけは、周りの先生たちが専門家扱いしてくれました。材料のこと、絵の発達のことなどいろいろ尋ねてくれました(※1)。

2.美術の虫が疼く

 2年目は4年生の担任、半年ほど過ぎた頃、美術の虫が疼いてきました。「自分の知っている知識や技能を子どもたちに教え込んだら、どんな子になるだろう」という気持ちです。題材は「友達の顔」、四つ切画用紙に水彩絵の具で描かせることにしました。そして、子どもたちに構図、技法、彩色、順番など徹底的に指導しました(※2)。次のような具合です。

○顔の下書き
 先生「目を描く位置は、顔の半分」
 先生「目と目の間は、もう一つ目が入る分空けなさい」
 先生「鼻は、小鼻のふくらみを描くこと、鼻の両脇に縦線はいれません」

○目の彩色
 先生「目をみてごらん、何がみえる?」
 児童「先生、黒いところと茶色いところがある!」
 先生「そうだね、だから真ん中は黒く、周りは茶色に描きなさい」
 児童「先生できました!」
 先生「だめだめ、もっとよく見て、何が見える?」
 児童「光っています」
 先生「そうだね、そこには白を入れなさい」

○髪の彩色
 先生「自分の筆では塗りません。先生が細い筆を貸してあげるから、それを使って、根元から毛先まで、一本、一本生えているように描きなさい」

○背景の彩色
 先生「画用紙の上に直接青と黄色の絵の具を載せなさい。それを水で薄めながら塗りなさい」

 12月から2月まで20時間はかけたと思います。完成したのが写真の絵です。教室や廊下に全て張り出すと、保護者や先生たちから驚嘆の声が上がりました(※3)。隣のクラスの先生は、「児童画展に出したら」と言ってくれましたが、さすがに、「これは邪道ですから、、、」と出品しませんでした。どこかに後ろめたさがありました。それに、児童画展に選ばれるのはもっと「児童画らしい絵」だということを知っていました。

3.子どもたちの現実

 さて、新学期。子どもたちは5年生、担任が変わります。受け持つ先生は「図工の時間が楽しみだなあ、奥村先生の後だからきっと楽だろうな」と言っていました。でも、それは失望に変わります。ある日「おれ、絵の指導が下手なのかな、全然子供たちが描けない」と職員室に戻ってきました。教室に行くと、そこには普通の小学5年生の絵がありました。私が教え込んだはずの描き方、混色の方法などはいっさい使われていませんでした。
 子どもたちは「普通の5年生」に戻ったのです。「そうか、そういうことか」と腑に落ちました。主題も、描く内容も、描く順番も、決めたのは全部「先生」です。子どもたちは素直だから、先生の言うとおりに描いてくれました。でも、出来上がったのは「子どもの絵」ではなく、「先生の絵」だったのです。私の美術的な欲望に裏付けられた実践は、次のようなごく当たり前の結論に終わりました。
 「発達を無視して一方的に教えても、その内容は身につかない(※4)」
 「子どもが子ども自身で工夫することが大切」
 「発達に応じて、適切な時期に、適切な内容を学習することが教育」

4.教訓

 10年後、この件をある研究会で発表しようと当時の学校に子どもたちが絵を持っていないか探してほしいと依頼しました。数名の子どもたちがこの絵を大切に保管してくれていました。その子たちにとっては、先生と絵を一生懸命に描いたことがとても楽しかったそうです。
 確かに、私には失敗であったからといって、その子どもたちにとっても失敗だというのは失礼な話です。そういえば、若くて、うまく教えられなくて、苦労していたときほど「子どもたちが自分についてきてくれた感」がありました。逆にベテランになり、うまく教育できるようになると、子どもたちとの距離を感じるようになりました。うまくいかないときほど人は必死になります。子どもは指導技術や方法よりも、その必死さを食べてくれる生き物なのかもしれません。
失敗を失敗として教えてくれるのは子どもたちです。そして、失敗を成功に変えてくれるのも、また子どもたちだと思います(※5)。

 

※1:まあ、ちょっといい気になっていたというわけです。
※2:「子どもが描けないのは描き方を知らないからだ」と単純に考えていました。
※3:でも、心の中では眉をひそめていたかもしれません。
※4:この実践は小学生にとっては役に立っていません。でも、それ以上の学年、例えば高校生や大学生相手にやり方を工夫すれば有効だったかもしれません。
※5:失敗、失敗、たまに成功、また失敗。たまの成功がうれしくて、この仕事を続けてきました。教育はそんなものだと思います。

よくある質問~「技能」の指導はどうする?

Q.「切る、貼る、彫る、描く、、etc、『技能』が育ちきっていない子どもへの指導はどうしたらいいのですか?」

A1.「道具」に浸れる時間と場を工夫しましょう

 「技能」の指導を考える上で、大切なのは「道具」です。「切る⇔ハサミ」、「彫る⇔彫刻刀」など、技能は必ず「道具」とセットになっています。なぜ「道具」に括弧をつけたかというと、ノコギリや彫刻刀などの文字通りの「道具」だけでなく、描写や筆算などの認知的な「道具」も含むからです。例えば、私たちが普通に計算や描写するときにも「道具」は用いられています。どちらも鉛筆だけでなく「位をそろえて縦に並べる」「立体を透視的に平面化する」などの文化的な「道具」が必要です(※1)。そして、これらの「道具」を使いこなすためには一定の時間が必要です。特に新しい「道具」では、2時間、4時間と「道具」に浸る時間が求められます。年間指導計画の中で十分な時間と場が設定されているかどうか検討しましょう(※2)。

A2.発達に応じた「道具」を用意しましょう

 次のポイントは発達です。「道具」が子どもの「その時点」の成長や発育の状態にふさわしいかどうか検討する必要があります。例えば、小学校の中学年の子どもが釘を打つ場合を考えてみましょう。まず、金づちの柄が長すぎると上手く振ることができません。次に、金づちの重さは170~190gくらいが適切です。それ以上だと子どもはコントロールしにくくなります。また、金づちが使える高さや広さなどの視点も大事です。釘を打つのに机が高すぎては脇が開いてしまいますし、逆にしゃがんで打つと自分の肘が足に当たりとても危険です。子どもの身長、手の大きさや握力、思考や判断の発達などに応じて「道具」を用意することが大切です(※3)。

A3.「創造的な技能」を伸ばしましょう

写真1

 単純な「技能」の向上で終わるのではなく、「創造的な技能」を高めることが重要です。そのためには、夢中になって一つの「道具」に浸りながら、そこで思いついたことが技法や作品につながるなど、自然な流れで造形活動が発展していくことが大切です(※4)。例えば、写真1は小学3年生の題材で生まれた作品です。「とにかく打ってみよう!」から始まって、この子は釘を300本も打ちました。よく見ると、木目に沿って打ち込んだり、打ち込む深さを変えたり、いろいろな工夫をしています。「クギササリスギッチ」という生き物で、作品にもなっています。釘の打ち方が向上しただけでなく、その子なりに技法が編み出され、新たな表現となって昇華したことが分かります(※5)。他に、画用紙をひたすらいろんな切り方で切って、そこで生まれた形を組み合わせて作品にする(なる)という題材もあります(写真2)。

写真2

 まとめれば、子どもたちの成長には、「作品や仕上がりのための技能」よりも、「技能の経験や獲得のプロセスそのもの」が大切だということです。そのために、教師は、「創造的な技能」という意識を持ち、そこから「どんな活動が必要か」「題材をどう展開するのか」と考えることが求められます。これが逆になると「こんな作品を作らせたい」から「こんな技能が必要」ということになります。それを否定するわけではありませんが、往々にして「先生の指示通りにするだけの技能」「発達を無視した技能」に陥りがちです。それは「ある特定の場所に近づけるための従属的な技能」「作品至上主義に埋没した技能」です。素直な子どもたちは先生に合わせてくれますが、それでは「創造的な技能」は伸びません。次回はそれに関する私の失敗談を書きましょう。

 

※1:「道具」については昔からいろいろ言及されていますが、 有元 典文 岡部 大介 著『デザインド・リアリティ―半径300メートルの文化心理学』2008 北樹出版 が参考になるでしょう。
※2:例えば「自分の感覚や感じ方を頼りに試行錯誤できる時間」「自分でやって、自分で確かめるような場」など。「学び!と美術 <Vol.23>」でも述べましたが、この質問も子どもの個別の問題というより、教育課程で解決すべき問題でしょう。
※3:「学び!と美術 <Vol.19>」も参照してください。
※4:小学校では特に必要な配慮事項ですが、中学校では文化的な資源として、「道具」を題材の中で効率的に用いることがポイントです。
※5:「学び!と美術 <Vol.04>」で紹介した版画の題材もその一種です。

「子どもの見方」

 今回は、筆者自身の「子どもの見方」が変わったささやかな出来事を紹介しましょう。

1.「本当に入っていけたらなぁ」

画像1

 20数年前のことです。一年生の造形遊びを見ているときでした。三人の子どもたちが画像1のように水溜りに島をつくっていました。雑草や枯れ枝を植え込んで、それはもう、本物の島のようになっていました。「面白い」と思って子どもたちにカメラを向けた時です。一人の子が、こうつぶやきました。
「あーぁ、本当に入っていけたらなぁ」
聞き流せば、そのまま通り過ぎた言葉でしょう。でも、何度も頭の中でリフレインするのです。聞いた言葉が繰り返すということは、そこに何か意味があるということでしょう。
 考えてみました。まず、子どもは「本当に入っていけたら」と言っています。「本当に」ということは、気持ちの上では「中に入っている」わけです。言い換えれば、子どもたちは「島の中で遊ぶようにつくっている」のです。でも、実際は島の中に入れません。そこで「本当に(体が小さくなって、島の)中に入っていけたらなぁ」と言ったのではないしょうか。そうだとすれば、この言葉は、島の中で走り回っている気分になってつくっていた子どもが、ふと、我に返り「実際は入れない、残念だなぁ、入れたらいいのに……」という宣言だと思われます(※1)。

2.見方の転換

 そう思った時、先輩たちの言葉が一斉に私の中で意味を持ってつながり始めました。それは、以下のような言葉です。
「作品は、その子そのもの」
「作品ができた時、新しい私が生まれる」
「子どもは、まるで自分をつくるように作品をつくる」
 それまで、私は、つくっている「子ども」と、つくられている「作品」を分けてとらえていました(画像2)。つくっている「主体」があって、その「対象(作品)」があってというわけです。でも、この子たちは、島の中で走り回るように、まるで、「作品」と一体化するようにつくっていました(画像3)。そうすると、作品は、その子たちの「対象」というよりも、「その子そのもの」と呼んだ方が適切でしょう。さらに言えば、作品をつくるという行為は、その子自身をつくる実践ということになります。そのことを、先輩たちは独特の言い方で述べていたのです。
 これをきっかけに、私の見方が変わりました。まず、子どもと作品は一体的だということを前提に、子どもを見るようになりました(※2)。その上で、子どもから指導法や指導の改善を考えるようになりました。それが、今も続く私の「子どもの見方」です。

画像2

画像3

3.大人も同じ

 この話には後日談があります。ある大学で学校の先生対象に講演があり、その中でこの話を紹介しました。すると、会場校の先生がやや興奮したように話しかけて来ました。
「いやぁ、今日はいい話を聞きました。私の研究室に来てもらえますか?」
そして、研究室に行くと
「あなたは、この図面の意味がわかります?」
と難解な建築の図面を見せられました。
「いや……申し訳ありません。さっぱり分かりません」
「そうでしょう?そうですよねぇ、でもね、僕はね分かるんですよ!ここは窓でね、ここはドア……それでね、これを描いている時に、体を動かすんです」
「え?」
「『窓は少し高いかな』と外を覗くように体を伸ばしたり、『このドア、開きが狭いなあ』と体をくねらせたり……。つまりね、今日の話と同じなんです。『僕』と『図面』はね、一体なんですよ!」
 なるほど、大人の根幹にも、つくっている「作品」と一体化する「自分」がいるのでしょう。

 

※1:そこには、自分たちの造形活動を引いて見つめる視線も感じられます。
※2:もちろん、幼児でもつくっているものから、すっと体を引いて確かめるように眺めることはあります。「子どもと作品は完全に同化している」と考えるのは危険です。

よくある質問~「立体」と「工作」の違いは?

焼成で粘土とガラス片を一緒に焼くと、ガラス片は溶けて水のようになります。そこから水をテーマにつくりたい形を考えるという高学年の題材です。

 夏、研修会のシーズンです。よくある質問の答えを書いてみましょう。形式上、断定的なQ&Aで書きますが、本来「答え」には、個人、学校、地域、年度、雰囲気等々、その「問い」が生まれた特定の状況が含まれます。オールマイティの「答え」はないことを踏まえて、読んでください。

Q.「立体」と「工作」の違いを教えてください。

A.ねらいと評価が違います。

 「立体」は、「自分の感じたことや思ったことなどを表す」というねらいがあります。自分の思いがふくらんで「船をつくっていたら、お城のようになって…」ということもおこります。一方、「工作」は、使うもの、伝えるもの、遊ぶものなど、意図や用途が明確です。筆立てをつくりながら、思いが広がってロボットのようになったとしても、筆立ての機能は必要です。

 でも、その子が表している瞬間で、両者を毅然と分けるのは難しいでしょう。また「夢を入れる箱」「私の○○な椅子」など、用途と思いが交錯する題材もあります。それもあって「絵や立体、工作に表す」とまとめて示しているわけです。低学年では「絵や立体、工作」と「造形遊び(※1)」が分けにくいことも起きます。実際に、教科書には、工作だけど「造形遊び」の要素がたっぷり入っている題材もあります。だからといって、工作ではなく「造形遊び」で評価するわけではありません。指導者は、題材のねらいを見失わず、評価がぶれないように配慮する必要があるでしょう。

Q.指導案の目標は1つですか?4つですか?

A.どっちでもかまいません。学校で決めましょう。

 指導案の形式は全国いろいろです。地域、市町村、小学校と中学校、附属学校と公立学校などで形式が異なります。題材目標だけ見ても「1つにまとめて書く」「評価規準にそって4つ書く」など様々です。目標の数に決まりはありません。指導案の書き方については、学習指導要領、教育委員会の方針、造形教育研究会の研究主題などをもとにしながら、各学校でしっかり考えてください。その際の協議こそが、貴重な校内研修になるでしょう。

 なお、国立教育政策研究所教育課程研究センターの「評価規準の作成、評価方法等の工夫改善のための参考資料(小学校 図画工作)」では、題材目標を包括的に1つにまとめて記述しています。理由は、4つにすることで、「題材で必ず4つ」というメッセージを出したくなかったからです。あの資料では「年間を通して4つ育ててください。そのために題材に軽重をつけてください」と言っています。そこで題材目標を1つにして、「特にこの題材でめざすもの」をはっきりさせました。

Q.子どものイメージを膨らませる方法は?

A.子どもの行為(ながら)が大切です。

 思考だけでイメージを膨らませるというのは相当難しいことです。イメージは、どこかに「あるもの」ではなく「生まれるもの」ととらえた方がよいでしょう。

 低学年であれば、材料にふれる、材料や用具を操作する、やぶる、ならべるなど「行為からイメージを発生させる」ことが大事です。中高学年でも「糸鋸で切りながら」「板を掘りながら」など、行為(ながら)は大切です。その上で「中学年では、想像を楽しむことを大切にする」「高学年では、自分で取捨選択できるようにする」など、発達に応じて考えることが基本です。周りとおしゃべりするとか、向き合って座るなど、学習形態を工夫することもポイントです。

 要はワークシートだけでなんとかしようとしないことです(※2)。子どもの頭の中の操作に閉じ込めるのではなく、動きや行為にイメージ、道具にイメージ、材料にイメージと考えた方がよいでしょう。なお〔共通事項〕で、イメージは「子ども」自身の、という前提がついています。子ども自身が思い描けるような手立てを工夫したいものです。

 

※1:今の指導要領で「造形遊び」は正式な用語となりました。教育課程、授業などに正しく反映してほしいものです。
※2:題材に応じて「マインドマップ」「論理構造をはっきりさせたワークシート」「簡素な画用紙一枚」など、どのような方法が有効か吟味する必要がある。