道徳科における魅力ある教材開発の実践② ~より効果的な外部講師の活用を目指して~(第6学年)

1.はじめに

 前号の実践では、外部講師を招き、道徳科と学校行事の関連付けについて考察しました。そこで教材開発を含めた道徳科の授業と学校行事を関連させることは、道徳性の育成にとって、非常に効果的であることがわかりました。今回は、第2弾として、リオパラリンピック日本代表銅メダリスト(陸上男子400mリレー)である、多川知希選手をお招きして行った実践事例を紹介します。

2.教材について

 本教材は、リオデジャネイロパラリンピック日本代表として、陸上男子400mリレーで銅メダルを獲得した、多川知希選手を取り上げています。生まれつき右前腕部欠損という障害がある多川選手が、陸上競技と出会い、さまざまな困難を乗り越えながらパラリンピックで銅メダルを獲得するまでの姿を描いた自作教材です。
 5校時の道徳科の授業は、開発した教材と、多川さんら日本代表が銅メダルを獲得したリオパラリンピックの映像も導入に使いながら授業を行いました。事前に多川選手と十分に内容を打ち合わせることで、ねらいに即した展開となり、児童の深い学びを実現することができたと感じます。
 そして、6校時には多川さんから直接お話しを聞きました。多川さんの力強い言葉に、児童も参観された保護者も聞き入っていました。事後に児童が書いたお礼状からは、児童が自分の目標について考えを広げたり、深めたりした様子を読み取ることができました。

3.実践報告

(1)主題名
 「夢への挑戦」  A[希望と勇気、努力と強い意志]

(2)本時のねらい
 多川知希選手の生き方や活躍に触れることによって、困難にあってもくじけず、目標に向かって努力しようとする心情を育てる。

(3)展開例

学習活動
(○主な発問 ・予想される児童の反応)

◇指導上の留意点 ☆評価


1 映像を見て、教材に興味をもつ。

○多川選手の姿から、「目標に向かって努力すること」について考えましょう。

◇多川選手の写真や映像を見せ、児童の教材への関心を高める。また、道徳的価値を提示することで、授業のねらいを明確にする。

◇多川選手に先天性の障害があることを伝える。


2 教材「夢への挑戦」を読み、話し合う。

○健常者の大会に出場して活躍していた多川選手はどのような気持ちだったでしょうか。
・障害があっても自分には関係ない。
・誰にも負けたくない。
・海外でも活躍できる選手になりたい。

◇多川選手の気持ちを考えながら読むように伝える。
◇障害があったにも関わらず、自分自身を成長させるために挑戦を続けた多川選手の心情に共感させ、多川選手の強さを理解させる。

○思い通りの結果が出せなくなってしまった多川選手はどのような気持ちだったでしょうか。
・くやしい。もうやめてしまいたい。
・もうこれまでなのか。
・今まで努力してきたことは無駄だったのか。
・大好きな陸上競技をあきらめたくない。

◇思い通りの結果が出せなくなってしまった多川選手の心情に共感させ、人間は誰しも弱い面があることを理解させる。

◎多川選手は、どのような気持ちから「夢への挑戦」を続けているのでしょうか。

【中心となる発問】

・応援してくれる人々を喜ばせたい。
・他の選手にも、自分にも負けたくない。
・途中で自分の夢をあきらめたくない。
・もう一度海外で活躍できる選手になれるようにがんばりたい。

◇悔しい思いをした多川選手が、もう一度新たな目標に向かって努力を始めた心情に共感させ、困難にもめげずに目標を持って努力することの大切さに気付かせる。

3 今までの自分自身の生活を振り返り、ねらいとする道徳的価値について考えを深める。

○自分の夢について考えてみましょう。どのような努力が必要でしょうか。
・プロ野球選手になるために、しっかりと体力づくりに取り組みたい。
・科学者になるために、身の回りの自然に興味をもって生活していきたい。
・今はまだ夢はないけれど、多川選手のようにあきらめずに努力することを大切に生活していきたい。

◇本時の学習を振り返り、ねらいとする道徳的価値から外れないようにする。
☆困難にあってもくじけず、目標に向かって努力しようとする心情を育てる。


4 教師の説話を聞く。

◇「困難にあってもくじけず、目標に向かって努力する」ことのすばらしさに気付かせる。

道徳科の評価①

 ゴールデンウィークが過ぎ、学校も本来の姿を取り戻す5月ですが、5月病といわれるように体調を崩して学習や仕事がうまくいかなくなる人が現れてくる時期でもあります。

 次のグラフは福島県教育委員会が不登校生徒数と復帰生徒数を月ごとに集計したものです。5月に不登校生徒が急激に増加することがわかります。4月は新しい学校や学級で緊張しながら頑張ってきた生徒が、ゴールデンウィークでほっと一息つくとともに今までの精神的な疲れや肉体的な疲労が噴き出て体調を崩すのでしょう。頑張りすぎてバーンアウトしないように本人自身が心がけることが大切ですが、周りの人が配慮してあげることも重要です。
 私が教諭時代に担当した母子家庭の女子生徒は、学校では熱心に授業に取り組み、クラスの学級委員に推薦されて頑張り、家庭ではキャリアウーマンとして働くお母さんをお手伝いして支えていました。しかし、中学2年生のゴールデンウィークに二人で沖縄に旅行して、青い空と海を眺めているうちに急に学校に戻りたくなくなり、不登校になりました。
 担任として生徒の立派な行動ばかり見ていて、心の中に抱えている悩みや苦しみに気づいてサポートしてあげられなかったことを今でも後悔しています。
 今回からは、道徳科の評価について学んでいこうと思います。道徳が特別の教科となり、見えない心をどのようにして評価するのか、評価をどうやって子供や保護者に通知するのかなど評価の在り方が大きな課題となっていると思います。
 新学習指導要領の評価観も押さえて、道徳科の評価の在り方について考えていきたいと思いますので、先生方の課題解決の糸口としていただければ幸いです。

1 形成的評価

「今回からは道徳科の評価について考えていきましょう。まず皆さんは評価と聞くとどのようなことを思い浮かべますか?」
真理「成績かな。」
「通知表の成績。5、4、3、2、1と母の怖い顔です。」
「響君は勉強をさぼっていたの? 通知表の成績は評定といいますが、大学生に評価のイメージを聞くとほとんどの学生が評価を成績と答えますね。近年、アメリカやイギリスなどでは評価についての研究や実践が盛んに行われています。その新しい評価観では、評価には『診断的評価(diagnostic assessment)』『形成的評価(formative assessment)』『総括的評価(summative assessment)』の三つの評価があるといわれています。診断的評価は、入学や学年当初などに、生徒の学力実態や生活体験、興味や関心、どの程度の知識や技能を持っているかなどを事前に把握する評価です。RPDCAのPlan(指導計画)を立てる前に行うResearch(学術調査)に当たるものです。」
真理「積み重ね教科といわれる数学科では、中学1年生の入学時期に小学校の算数のテストを実施して、1年生の学力を分析してその後の指導方法の参考にすることがありますが、それが診断的評価ですね。」
「そうですね! 診断的評価は学習前に実施する評価であることがポイントです。これに対して、学習後に実施する評価を総括的評価と言います。学習のねらいとすることが身についているか、学習の到達度を把握するものです。この評価を基につけられたものが、皆さんが思っている成績(評定)に当たるものです。」
道子「すると形成的評価とは学習中に行われる評価ということですか?」
「形成的評価は授業内の学習活動が意図したとおりの成果をあげているか確認し、成果をあげていないときは指導計画や指導方法の変更を行い、授業を改善していくための評価です。PDCAサイクルのCheck(評価)に当たるものであり、『指導と評価の一体化』を図るために行われる評価とも考えてよいでしょう。しかし、最近になりこの形成的評価がassessment for learning 『学習のための評価』と英訳されるようになりました。その理由は、形成的評価は教師にとっては授業の改善に取り組むための評価であるとともに、生徒自身が学習を改善するための評価でもあるという考えからです。この考えは新学習指導要領改訂の指針となった中央教育審議会答申の『第9章 何が身に付いたか-学習評価の充実-』の中で『学習評価は、学校における教育活動に関し、子供たちの学習状況を評価するものである。「子供たちにどういった力が身に付いたか」という学習の成果を的確に捉え、教員が指導の改善を図るとともに、子供たち自身が自らの学びを振り返って次の学びに向かうことができるようにするためには、この学習評価の在り方が極めて重要であり、教育課程や学習・指導方法の改善と一貫性を持った形で改善を進めることが求められる。』と述べられています。」
道子「新学習指導要領の『主体的・対話的で深い学び』の主体的な学びとは、子供たちが自ら学ぶことですね。」
「そうです。主体的な学びを推進していくためには、学習の主体者である子供たち自身が自らの学びを評価していくことが大切です。答申の『評価に当たっての留意点等』には『評価の観点のうち「主体的に学習に取り組む態度」については、学習前の診断的評価のみで判断したり、挙手の回数やノートの取り方などの形式的な活動で評価したりするものではない。子供たちが自ら学習の目標を持ち、進め方を見直しながら学習を進め、その過程を評価して新たな学習につなげるといった、学習に関する自己調整を行いながら、粘り強く知識・技能を獲得したり思考・判断・表現しようとしたりしているかどうかという、意思的な側面を捉えて評価することが求められる。』とあります。子供たちが自ら学ぶために行う評価であり、そのためには評価活動が学習活動の一つとなる assessment as learning 『学習としての評価』、さらには子供たちの『学びと評価の一体化』が今後求められると思います。」

2 道徳科の評価の在り方

「次に道徳科の評価の在り方について考えていきましょう。響君、新学習指導要領には評価はどのようにすると書かれていますか?」
「『第3 指導計画の作成と内容の取扱いの4』に『生徒の学習状況や道徳性に係る成長の様子を継続的に把握し、指導に生かすように努める必要がある。ただし、数値などによる評価は行わないものとする。』とあります。この評価は『指導に生かす』とあるので、授業者つまり先生が授業改善のために行う形成的評価を意味しているのではないかと思います。」
「そうですね。道徳科における生徒の学習状況や道徳性の成長は、先生の指導によって変わってきますので、授業の評価に基づいて指導計画や指導方法を改善することが求められます。このこと以外にもこの文面からいくつか大切なことを読み取ることができます。その一つは、生徒の道徳性が学期や年間を通してどれだけ成長したかを把握することが求められていることです。生徒の成長は一人一人違います。つまり、他の生徒と比較するのではなく、生徒一人一人がいかに成長したかを積極的に受け止めて、認め励ます個人内評価が大切であることを示しています。また、継続的に把握するということは一時間ごとの評価ではなく、学習活動全体を通して見取り評価するということも表しています。このことは、授業は内容項目を主題として行われていますが、その内容項目ごとに評価するのではなく、大くくりなまとまりとして評価することが求められています。」
真理「岡田先生。もし、授業を通してある道徳的価値への理解が深まり、その道徳的価値を基に自分の生き方について考えるようになった生徒がいたらどのように評価しますか?」
「道徳的価値はよりよく生きるための基盤であり、人格の形成に関わるものですから、そのような場合には、特に顕著な成長として具体的に評価するべきでしょう。」
「なるほど! 数値などによる評価は行わない理由が少しわかったような気がします。僕は数値などで評価しない理由を高校受験などの進路資料として道徳科の評価を使用しないためだと今まで思っていました。成長を評価するには、54321やABCなどではなく、成長の状況を具体的に記述しなければ、何がどのように成長したのかよくわかりませんね。しかし、生徒一人一人の成長を具体的に記述するのは大変だなー。文章を書くことが苦手な僕はコピペ(コピーしてペーストすること)したくなる。」
真理「コピーはだめよ! 生徒は一人一人違うのだから。」
「……。」
「道徳科の評価は、生徒の人格に関する評価であるので、受験の資料にするようなことはあってはならないことです。それではもう一つの形成的評価、生徒自身が自分の学習を振り返り、学びを改善する評価について見てみましょう。このことについては学習指導要領には書かれていますか?」
道子「第3の2 指導に当たって配慮することの(3)に『生徒が自ら道徳性を養う中で、自らを振り返って成長を実感したり、これからの課題や目標を見付けたりすることができるよう工夫すること。』が、生徒の学習評価だと思います。」
「そうですね。生徒が自ら自分の成長を振り返る、つまり自己の成長を評価するという学習者の評価が述べられています。」
真理「自らを振り返るとは、冷静にかつ客観的に自分を見つめ、自分の状況を理解し、メタ認知を深めることだと思います。しかし、このことはとても難しいことだと思います。どのようにすればよいでしょうか?」
「大人になっても自己理解ができない人が確かにいますね! 次回は、『先生は生徒の成長をどのように捉えるか? 生徒は自分の成長をどのように捉えるか?』について議論をしたいと思いますので、考えてきてください。」
「宿題ですか?」
「主体的な学びです。」

 第8回はいかがでしたでしょうか? 今回は評価についての理論や新学習指導要領の考え方について述べましたので、次回は実際に評価をどのように行うか実践的な内容について考えていきたいと思います。ご期待ください。

「西郷どん」とは何者か 2 ―西郷隆盛の死をめぐる流言飛語は何を問うていたのか―

承前

 西郷隆盛一党の決起は、「政府問責」をかかげた「義挙」として迎えた旧士族がいましたものの、戦火の渦にのみ込まれた民衆にとり許されぬ暴挙でした。しかし西郷隆盛という存在は、新政府の開化政策に翻弄される民衆にとり、民の心を代弁してくれるものともみなされてもいたのです。『團々珍聞』は、このような屈折した民衆の西郷によせる想いをして、「茶説(ちゃせつ)」で世間に流布した訛伝を「西郷星之説(さいごうぼしのせつ)」で紹介しております。

人皆云ふ近日東南に出(いづ)る赤星を以て西郷星と称する者は俗人のみ愚者のみ。其説を以て妄とする者は才子のみ智者のみ。且其言(こと)に曰く、星は自ら赤星のみ尋常の行星のみ固より怪むに足らず。其西郷の変身せし者となし桐野(利秋)の化精せし者となすに至ては誣誕虚妄(ふたんきょぼう)笑ふに堪たり。豈人の星と為る理有んや、之を聞さへ汚はしとして耳を洗はんとする許由(きよゆう)先生何ぞ其聞見の浅き胸次(けふじ)の狭きや、余を以て之を観るに其始めて西郷星の説を唱へ出せし人は識者なり通人なり、之に雷同訛伝(らいどうくわでん)するものは愚夫なり児童なり之を駁攻排撃(はっこうはいげき)するものは浅陋(せんろう)なり凡庸なり。夫名士高人の星辰となり列宿に応ずる者(26号 明治10年9月15日)

として、李白が「太白星」にジュリアスシーザーの「怨魂」が天にあらわれており、「紀元緒の年に赫々として日光を奪ふが如き彗星出で教祖生ると云う」とイエスの誕生等々にふれ、偉人英傑が星となってあらわれたという古今東西の話を紹介し、西郷星に託された世界を論じています。

「西郷星」に託して西郷の事蹟を告発す

 「星」となった西郷隆盛は、戦乱が巷に飛び散ったがために、「狂乱」した姿が辛辣な筆致で描かれています。西郷星は、「干戈」武器をつかって多くの血が流されたから、赤いのだとの言を聞いてみましょう。

今西郷暴士は私学星(私学校の生徒)を鎔冶(ようや)して不軌を図り、近国の蜂起星(ほうきぼし)を糾合して新星(しんせい 新政)攻毒(こうどく)の正札を附け西南より東北の方に出現し、大星府(だいせいふ 大政府)に向て闇殺(あんさつ)の廉を尋問し、其邪星(じやせい 邪政)を分ち星体(せいたい 政体)の非を矯さんなどと斗方(とほう)も無き虚星(きょせい 虚勢)を売だしたるに因て、星討(せいとう 征討)の大師を発し百戦の後竟に鎮星(ちんせい 鎮静)の際に及び、賊星(ぞくせい 賊生)大半降伏離叛したるより、巨魁(きょかい)の破軍星(はぐんせい 破軍勢)四海の内身を容るる所なく、魂魄已に天外に飛び世間に対して白昼横行し難き故、夜々暗(あん)に紛れて顔を出すこと疑ふ可らず、其東より南に運(めぐる)るは、初め東京に在て庿堂(びょうどう)の高坐を占め、後本国に帰て躬(みづから)耕し糞桶を担いだる故なり。其色赤きは干戈を動かして、滾(こん)々の血を流せし故なり。其謂れあること亦斯の如し。之を是れ信ぜずして俗説となし、傳会(ふくわい こじつけ)となす者は識無く学無く凡庸の徒たること明矣(あきらけん)。夫れ訛言の興る古より之れ有り詩に曰く民の訛言曾て之を懲すこと莫し。妖言童謡は意無くして言に失ふ其事後に験(しるし)多

 赤く輝く「西郷星」一件は、維新革命を主導し、新政府の実力者となるものの、政策が入れられずに故山にもどり、西郷の下に集う青年に擁立されて叛乱に奔る血塗られた物語として、諧謔を交えた文体でかたられたものです。ここには、「偉人」西郷が負わねばならない宿業をみつめ、その戦乱への怒りがあります。この怒りは何故に西郷は戦争を起こしたのだという問いとなっています。

鹿児島県の人の話

鹿児嶋暴徒追討記〔田原坂の戦〕<国立国会図書館ウェブサイトから転載>

 西郷は、「身を殺しても世の中のためを思ふ」て戦争したのだと、鹿児島県人が話していると『團々珍聞』が紹介しています。この話は、巷の風聞を「鹿児島県人」のうわさ話として創作した類のものでしょうが、不景気な日本を救うための口減らしと、「西郷札」一件にも言及し、「世直し」ともいえる世の不景気救済策であったと指摘することで、政府の無策に一矢報いております。

口を減すは人を殺すより外なく、人を殺すは戦争をするに限る、軍(いくさ)は勝ても負ても世の中の人は減る、せめて十万人を減すと一箇月一人の掛りを三円と見込でも月に三十万円年には三百六十万円は違ふからとて、大食な銭遣ひの荒い若者を扇動(おだてて)戦ひを始めた所が、見込違ひ、官軍と賊で死傷三万人前後だから一割程の人も死なぬ故、是ではならぬと印度の地方え伝染病をかけ亜細亜虎列刺(あじあころり)を呼よせ、先鹿児島で病ひを試し、些(ちと)ばかりでも死だのを見届け、是なら宜と安心し、城山で自分も往生、其処で虎列刺は九月から十月の二十日までに全国の死人が三千七百人、是も思ふ様に往なかつたが、しかし軍のために世間へ落とした金の高は政府(おかみ)斗(ばか)りも四千四百六十三万八千零九十八円九十二銭六厘だといふから、西郷の拵らへた札高24万円引ても四千四百三十九万八千円故それに夫にかかり合て銭を取た者は大助かり、さすが豪傑だけあつて妙な処え気の附く人だと西郷を誉ちぎつて居ました(34号 明治10年11月10日)

 ちなみに西南戦争は、軍艦10余隻2100人、陸軍5万2200人、屯田兵600人、巡査隊1000人など計6万6000人、その他予備軍6万3000人、東京巡査破件700人、戦費4156万円だと、『明治・大正家庭紙年表』(河出書房新社 2000年)が紹介しております。かつ、9月にはコレラの流行で「妙薬」として評判が高かった石灰酸(カルボニックアシッド)が売り切れた由。12月28日には内務省がこれら予防のため、便所・下水などの清掃法を示達しております。

時代の気分

 西南戦争は、「百姓軍隊」と揶揄嘲笑されていた徴兵軍隊が戦力として活用できることを証したものの、民衆に戦闘が死を、戦死というものを強く実体験させ、死の恐怖にさらしたのです。そのため戦争終結後には、徴兵忌避の機運がたかまったがため、分家・分籍・嗣子変更等を出願しての徴兵忌避をしないようにとの布達が出され、徴兵忌避者のための診断書をみだりに発行しないようにと医師の取締が強化されたのです。
「西郷どん」西郷隆盛は、日本人好みの「英雄」と喧伝されてきましたが、同時代人の眼には「無益」な戦乱で民衆を塗炭の苦しみに追いやった張本人だと映っていたともいえましょう。時代の空気に寄り添い、時代を追体験して歴史を読むには、『團々珍聞』が描き出した世界を場に、歴史の闇を問い質す作法も必要ではないでしょうか。

 

●西郷札とは、西郷軍が軍資金の不足を補うために発行した不換紙幣。実効支配地で軍事力で強要していくらか流通したが、西郷軍の崩壊で無用の紙切れとなった。後に西郷隆盛の人気で「お守り」として大切にした者もいた。なお松本清張が作家としての登場は西郷札を素材にした『西郷札』。

道徳科における魅力ある教材開発の実践① ~道徳科授業と学校行事の関連付け~(第6学年)

1.はじめに

 道徳授業地区公開講座や公開授業などで,外部講師を招いた講演会や実技体験などを,学校行事として開催することがあります。いよいよ2年後に迫った「東京2020 オリンピック・パラリンピック」に向けて,各校でもオリンピック教育の一環として,スポーツ選手をお招きする機会が増えているのではないでしょうか。オリンピック・パラリンピックメダリストをはじめとするスポーツ選手をお招きし,お話を伺ったり演技などを実際に見させていただいたりすることは,児童にとって大変貴重な経験と言えます。その貴重な経験を,その時間限りのものとせず,児童にとってより効果的なものにするために,道徳科授業との関連付けができないか。その可能性を探りました。
 文部科学省『小学校学習指導要領』(平成29年3月)の第3章「特別の教科 道徳」には,「児童の発達の段階や特性,地域の実情等を考慮し,多様な教材の活用に努めること。とくに,生命の尊厳,自然,伝統と文化,先人の伝記,スポーツ,情報化への対応等の現代的な課題などを題材とし,児童が問題意識をもって多面的・多角的に考えたり,感動を覚えたりするような充実した教材の開発や活用を行うこと。」(第3 指導計画の作成と内容の取扱い 3(1))との記述があります。今回は,これらを根拠として開発した教材を活用した道徳科授業実践と,外部講師を招いた学校行事との関連実践報告です。

2.教材について

 本教材は,アンプティサッカー(上肢または下肢を切断した障害のある選手がプレーするサッカー競技)の普及活動に取り組む,古城暁博(こじょうあきひろ)さんを取り上げた自作教材です。1983年に沖縄県で生まれた古城さんは,5のときに交通事故で右ひざから下を切断する手術を受けました。サッカーとの出合いから挫折,そしてアンプティサッカーの普及活動に取り組む現在の古城さんの「よりよく生きようとする」強さや気高さに気付かせる内容となっています。
→教材全文はこちら(PDFファイル:146KB)

3.考察

 5校時に,本教材を使った道徳科授業を実施し,6校時に,学校行事として古城さんご本人からお話を伺ったり,アンプティサッカーの実技体験をさせてもらったりしました。授業後の体験とあって,子供たちはいつも以上に生き生きとした姿を見せてくれました。年間指導計画に基づく,計画的な指導の必要性は言うまでもありませんが,今回の実践で,道徳科と学校行事の関連付けが非常に効果的であることが分かりました。教材開発を含めた道徳科授業と学校行事の関連には大きな可能性が秘められています。今後も,より深い学びとなる道徳科授業実践を行っていきたいと思います。

展開例

○主題名 自分らしく生きる   D「よりよく生きる喜び」

○教材名 アンプティサッカーとともに生きる(自作教材)

○ねらい
よりよく生きようとする古城暁博さんの強さや気高さを理解し,自らもよりよく生きていこうとする心情を育てる。

学習活動(◎中心発問,○主な発問,
・予想される児童の反応)

◇指導上の留意点 ☆評価


1 古城暁博さんについて知り,「自分らしく,よりよい生き方」とはどんな生き方なのかを考える。
○古城暁博さんの姿から,「自分らしく,よりよい生き方」について考えましょう。

◇古城暁博さんの写真や映像を見せ,児童の教材への関心を高める。また,道徳的価値を提示することで,授業のねらいを明確にする。
古城さんがサッカーをしている様子を提示し,教材への導入を図る。


2 教材「アンプティサッカーとともに生きる」を読み, 話し合う。

○公式戦に出場することができなくなった古城さんは,どのような気持ちだったでしょうか。
・目の前が真っ暗だ。
・もうサッカーをやめるしかない。
・このまま生きていくのはつらい。

◇義足で公式戦に出場することができなくなった古城さんの心情に共感させ,人間は誰しも
弱い面があることを理解させる。

○アンプティサッカーに出合った古城さんは,どのような気持ちだったでしょうか。
・またゼロからサッカーをがんばるぞ。
・今まで以上にがんばりたい。
・新しい目標に向かってがんばっていこう。

◇希望がもてるようになった古城さんの心情に共感させ,古城さんの強さに気付かせる。

○古城さんは,どのような気持ちでアンプティサッカーの普及活動に取り組んでいるのでしょうか。
・たくさんの障害者を勇気づけたい。
・障害者スポーツを発展させたい。
・障害者と健常者の壁をなくしたい。

◇自分のためだけではなく,みんなのために競技や普及活動に取り組む古城さんの気高い思
いに共感させる。

◎古城さんのどんなところが「自分らしく,よりよい生き方」だと思いますか。
・体は不自由でも,自分にできることを見つけ,常に挑戦しようとする姿。
・くじけそうになっても,あきらめないで練習を続ける姿。
・自分のことだけではなく,障害者全体のことを考えている姿。

◇導入での発問や,本時の学習を振り返り,ねらいとする道徳的価値から外れないようにす
る。

3 今までの自分自身の生活を振り返り, ねらいとする道徳的価値について考えを深める。
○あなたにとって「自分らしく,よりよい生き方」とはどんな生き方でしょうか。
・自分の良いところを大切にすること。
・生きがいを感じて生きること。
・自分に負けないこと。

◇スポーツ選手としてではなく,古城さんの強さや気高さといった生き方そのものに焦点を
当て,自らの生き方についての自覚を高めさせる。
☆古城さんの強さや気高さを理解し,自らもよりよく生きていこうとする心情を育てる。


4 教師の説話を聞く。

◇身近にも「自分らしく,よりよい生き方,誇りある生き方」をしている人がいることに気付かせる。

8.板書計画

PBLのはじまり①

1.PBLの「必要感」

 プロジェクト学習というと、規模が大きく、複雑で、今の学校の現状から遠く離れていると考える先生が多いのではないでしょうか。実際、現場の先生と話しても「そのようなことは学んでこなかった」「経験がない」「今やっている授業で目一杯」という声が聞こえてきます。生徒も先生も必要感を持たず、形式的に進めてもおそらく成果が現れることはないでしょう。
 プロジェクト学習にとって「必要感」は最小の必要条件です。既存の授業ベースで考えればその「必要感」はなかなか生まれてこないかも知れませんが、遠足や学習発表会など学校行事を成功させたいとか、生徒達の雰囲気を変えたいとか、地域学習をして教師自身のフィールドを広げたいとか、少し視野を広げれば様々な「願い」があり、それが洗練されて「必要感」に発展していくことと思います。

2.荒れた学校の中で

図1 壁画の強度実験

 私はもともと中学校の美術の教員でした。私が教員になった1980年代は日本全国が校内暴力で荒れに荒れた時代でした。赴任した中学校も例に漏れず、私は1年間というものほとんど授業らしい授業ができない状態が続きました。学生時代に身に付けた知識や技術は全く役に立たず、授業をエスケープする生徒や遠慮なしに殴りかかってくる生徒に身も心もズタズタになり、何度教員を辞めようと思ったか知れません。しかし、初任者ながらに「この学校をなんとかしたい」、それが私のプロジェクト型実践(プロジェクト学習とは程遠いものでした)の「必要感」でした。
 それから3年後、学校は相変わらず荒れていましたが、私も少しずつではありますが、実践の足がかりをつかみ始めました。あるとき、このバラバラな全校生で1枚の壁画をつくらせたいと思いつきました。「そんなことうちの学校でできるわけがない」と先生方には反対されましたが、生徒達と話し合って実験を行い、職員会議で実行の許可が下りました。

3.集団の中で変わっていった生徒達

図2 壁画をつなぎ合わせる生徒達


図3 生徒達に守られて完成した壁画

 1枚の原画を全校生分360枚に切り分け、一人ひとりがそれをB0版大に拡大してピースを描き、それを360枚つなぎ合わせると校舎を覆うような大きさの壁画が完成し、360分の1の責任と360倍の力を体験することができる、そうなる予定でした。想定外のハイスピードで360枚のピースがそろい、ブロックごとにつなぎ合わせ、後は披露する文化祭当日を待つばかりとなりました。

 当日は朝から小雨交じりで風も吹いています。あきらめようと思いかけたときに雨が上がり風も止み、「今だ!」とばかりに屋上から壁画を下ろし始めました。半分ほど下ろしたところで突然強風が壁画を襲います。もはや失敗かと思ったときに、見守っていた1人の生徒が校舎の中に駆けていき、二階の窓から身を乗り出して、風にはためく壁画をつかんだではありませんか。それを見ていた数十人の生徒が同じように校舎の中に駆け込み、同じように絵をつかみます。さらに数十人の生徒が絵の下をつかみ、風から壁画を守りました。最初に駆け込んだ生徒は当時のヤンキーのボスでした。2番目に駆けていったのはその手下でした。生徒達が必死で絵を守るその姿は、薄っぺらの絵を何倍も厚みをもたらすことになります。当時絵を守った1人の生徒は「自分がそこにいたことを誇りに思う、うちの学校じゃないとこんなことできない」と感想を述べてくれました。

 これ以降、校内で暴力事件は影を潜め、後からふり返るとこの「事件」が学校を大きく変えるきっかけになります。「これが美術教育か?」といった批判もずいぶんいただきましたが、生徒や学校が変わったという事実は事実です。

4.現実から出発して現実を変える学び

 さて、べつに昔話をしようと思って述べたのではありません。1970年代から80年代にかけて学校が荒れていた時代、その荒れを乗り越える数多くの実践が生まれました。それらは校内暴力の対症療法としてではなく、「人」を育てる本質的なエッセンスが染み込んでいると思われてなりません。混乱のなかで、危機的状況のなかで、問題を自分事として考え、失敗を繰り返しながら実践していくこと。歴史の形成過程の中で無数に繰り返されてきたこの実践こそが教育の本質だと思っています。PBLで育てる力とは、まさに現実から出発して現実を変えていく実践なのだと思います。

アール・ブリュットにどう向かう?~「全部はみえない展」

 前回、膳所高等学校のアール・ブリュット(※1)に関する授業の内容を「問い」という視点から紹介しました。一方で、あの実践は、「じゃあ、私たちはどうすればいいのか」という疑問も残します。私自身、2年前に「アール・ブリュットの鑑賞実践報告(※2) 」をしたにも関わらず、腑に落ちないままでした。
 その答えを考える場を、若者たちが与えてくれました。少しばかりのヒントも得たので、そのことを報告します。

「ワークショップお願いします!」

 教育現場や福祉の現場に立ちながら作家活動をする若者たち(※3) から、ある日突然、「展覧会で鑑賞のワークショップをしてほしい」と依頼が来たのは、3カ月ほど前になります。
 展覧会の名称は「全部はみえない展(※4) 」、小学1年生から大人までの、障害のある人たち、子どもたち、現役の現代美術作家など約25名の作品をキャプション、作品名、作家名なしで展示するそうです。来場者の鑑賞活動が展覧会の重要なテーマで、パンフレットにはこうあります。

彼等彼女等の作り出す表現を鑑賞する中で美術教育や障がいのあるなし、年齢やキャリアを超えて「魅力的な作品とはなんなのか」という普遍的な問いを鑑賞者自身が再考する場になることを願います(※5)

 展覧会の主眼が、中身(つまり何を見せるか、何を研究したか)ではなく、鑑賞者にあるのです。自分で感じ考える経験を通して、鑑賞者自身の変化をねらっているのでしょう(※6)
 そういうデザインは「好き(^^)」です。デザインというのは、本来その受け取り手の行為に働きかけ、現実を変えるものだと思っているからです(※7)
 彼らが言うには、美術には「教育的な側面」「作業療法的な側面」さらには「美術的な側面」があるけれども、ともかく鑑賞で何か変わるんじゃないかと、そんな場をつくってみたい、それで調べるうちに私にたどり着いたということでした。
 「う~ん、、、私を選んだのは間違いかもしれないぞ、、、」と思いつつ、「日頃の仕事や実践を通して感じている疑問を解決したい」という姿勢に共感して引き受けてしまいました(ああ、無謀、、、)。

「そうはいっても、鑑賞するのは大人だ、、、」

 さて、当日。大した準備もせず、ワークショップ会場に向かいました。作品に対する先入観がない方がいいと思いましたし、一人の観客として来場者と一緒に驚いたり、感じたり、考えたりしたかったので、、、いえ、本当は行き当たりばったりです。「始めれば何とかなるか~」という九州人のノリです。主催者さん、ごめんなさい(^^;)。
 会場に行くと、6畳ほどの空間に、B5からA3程度の小品が壁一面にびっしりと展示されていました。第一印象は「無理な大きさで大人の好みで作られた大作がない」「これでもかこれでもかという作品がない」というものでした。つまり、いい意味で圧倒されないのです。アール・ブリュット展などに伺うと、それはそれで素敵なのですが、とても圧倒されるのです。圧倒しないといけないというか、、、。そんな「美術のドグマ(美術固有の信念)」みたいなものを感じて苦しくなることがあるのです。
 キャプションも、作品名も、作家名もありません。作品以外、まったく情報はありません。そのような方法はこれまでもいくつかの美術展で行われていますが、大作や名作などの文脈で構成されています。「全部はみえない展」は、小品ということだけでなく、画材や支持体も画用紙や水性ペンなど普通に手に入るもので制作されているので、プロなのか小学生なのかが本当に分からない状態になっていました。
 ただ、「境界を問い直したい」って言っても、見るのは大人です。「美術館に行って、美術にとらわれないように鑑賞しましょう」というのはある意味で矛盾を抱えています。様々な概念を学習して世界を意味づけている大人に、「あなたの頭の中には『境界』があるのですよ、概念にしばられていますよ」というのも難しいでしょう。世界が分節化されていない子ども、つまりそもそも境界がない子どもだったら可能かもしれませんが、もう子どもではない大人にいまさら子どもに戻れと言っても無理な話です(※8)

「ワークショップ、スタート!」

 まあ、いろいろ考えてもしょうがないので、ともかく鑑賞活動から入ることにしました(※9)

(1)「大事なもの交換」をして自己紹介します。身に着けている大事なものを隣の人と交換して、お互いに「大事な理由を探り合う」という鑑賞活動のウォーミングアップです。

(2)一枚の絵で「対話型鑑賞」をします。定番の方法ですが、いろいろ意見を述べることを通して、目の前の絵の「見え」が変化していくので、それを体験してもらいます。

(3)次は「感覚の詩」です。数名のグループをつくって、取り上げた絵(※10)から「聞こえるもの」「匂うもの」「味」「手触り」そして「見えるもの」の5つを出し合い、一つの詩にまとめます。その詩を読み上げながら、絵を見ます。例えば、以下です。「ゴツゴツ ザラザラ 土の匂い 石たちの相談 鉄棒の味」「ゴロゴロ ビリビリ 土属性 味気ない土の味 3つのシーンの息苦しさ」。「絵を見ること」とは、当人が気付かずとも「自分の体全体の感覚を働かせていること」ですから、それを自覚してもらうねらいです 。

(4)最後に「抽象―具象」です。概念を問うアクティビティです。一本の線の両端の片方に「抽象」、もう片方に「具象」と書きます。次に取り上げた(※11)絵を見た第一印象で、その直線状のどこに作品が位置付くかを記入します。最初の位置は人それぞれです。例えば、「6つの顔が並ぶところに抽象性を感じた」ので抽象よりの人もいれば、「無表情に見えたけれども、よく見ると表情が豊かだ」と具象寄りの人もいます。次に、位置づけた理由を発表し合って、さらに作品の若干の背景情報を得た後に、作品の位置を再考します。位置が変わらない人もいれば、大きく位置が変わる人もいます。このような活動によって絵が概念で鑑賞されていること、それが可変的であることを体験します。

 このように書くといかにも計画的な感じですが、広さや参加者の数、私のノウハウなど、その場所で可能なことは、この程度だったというインプロビゼーション(Improvisation=即興)です。
 4つの鑑賞活動が終わった後に、30分程度の簡単な講義を行いました。まず、滋賀県立膳所高等学校のアール・ブリュットに関する学習を紹介しました。ポイントは二つです。

  • 「新聞記事や論文等の資料」「講師の先生や生徒同士の対話」「実際の制作活動」という三つの資源をもとに自分の「問い」を発展させる学習だったこと。
  • 生徒たちの「問い」が「アール・ブリュットとは何を意味しているか」という素朴な問いから「アール・ブリュットという枠組みは私たちにとって必要か」という本質的で永続的な問いに発展したこと。

 この膳所高校の学習から導き出せる教訓は、「私たちは大人である以上『問い続ける』ことでしか境界を問い直すことはできない」という点です。ただ、「問い続ける」というのも酷な話です。
 次に、子どもが大人とは違う感じ方や考え方をしている具体例、子どもの鑑賞の三大特徴「体全体で見る」「体験で見る」「論理的に見る」の解説を行い、子どもの鑑賞の具体について紹介しました。

子どもは、まるで作品と同化するかのように、全身の感覚を働かせて作品を見る傾向がある。子どもは文化に染まりきっておらず、彼らの周りの世界は不思議に満ちている。常に限られた自分の知識や経験を総動員しながら世界を見つめ、意味を見つけ、その都度価値づけながら生きている。自分のこれまでの経験を再構成し、自分の生き方を作り直し、これからを見つめている(※12)

 先ほどの鑑賞活動と結びついているので、「気づいていないかもしれないけれど、実は大人も子どもと同じように鑑賞している」という話になります。

とりあえずの現在地

 ワークショップを通して、作品と対話したり、アクティビティしたりするうちに、キャプションのない違和感は取れていました。また、参加者が、どれが作家の作品か、障害者の作品かなどに興味を持っているようにも見えませんでした。目の前の作品と相互行為する鑑賞活動に没頭し、いつの間にか境界が失われていたということかもしれません。それは、参加者の声に表れていましたが、司会をする私も同様でした(※13)
 それは感覚的というより事実で、ワークショップが終わってから、私は間違いなく小学生の絵だと判断して用いた作品が、実はプロの作家だったということがありました。長年児童画にかかわり、「子どもの絵の見方(※14)」という本を出しているのに、、、。案外、自分が能力だと思っていることも、画材や大きさ、場などのデザインを変えられてしまえば、役に立たないのかもしれません。

 「『境界』のない『場』をつくりたい、そこから何か生みだしたい」という、主催者のねらいは成功していたと思います。今のところ「私たちはどのようにアール・ブリュットや美術に向かうべきなのか」という問いに対する答えは、以下のようなものです。

(1)大人である以上「問い続ける」
(2)鑑賞を通して「子どもに戻る」

 「境界を超えるために、常に「問い続ける」ことも大事だけれど、作品を鑑賞することそのものが「子どもだ、プロだ、障害者だ」という枠組みを忘れさせてくれるということです。単純かもしれませんが、「鑑賞」という行為は本来そういうことなのでしょう。

 写真は、会場前の舗装道路の路面です。大人にとっては、ただの路面です。子どもはときおり、道端に座り込んで見つめています。親に「なぜ?」と聞くこともあるかもしれません。その子どもに戻るためには、「鑑賞」すればいいのでしょう。「なんでこの路面はこのような形をしているのだろう」「なんで交互にずれているのだろう」「なぜ色の違うブロックがあるのだろう」。何かのきっかけで路面と対話すれば、境界が溶けて、世界を楽しむことができそうに思うのです(※15)

 

※1:アール・ブリュットの定義については前号学び!と美術<Vol.68>「「問い」から考える「主体的・対話的で深い学び」」を参照。
※2:学び!と美術<Vol.44>「アール・ブリュットの鑑賞実践報告」を参照。
※3:全部は見えない展実行委員会 村松祐樹、工藤春香、岡野珠里、内田百合香
※4:詳細はhttps://twitter.com/new_exhibition
※5:全部は見えない展実行委員会「全部はみえない展 BOOK(会場用パンフレット)」より。
※6:海外の美術館の学芸員もよくそう言います。「来館者に変化を及ぼさなければ私たちは何もしたことにならない」など。
※7:展覧会は一種のデザイン。「デザインには、物理的な変化が、アフォーダンスの変化が、ふるまいの変化が、こころの変化が、現実の変化が伴う。」(有元典文 岡部大介著「デザインド・リアリティ―半径300メートルの文化心理学」北樹出版2008)。
※8:2005年から講演で自己紹介代わりに使っていますが、大人は私がよく使う喩えのように「『ピ力ソ』と『学力』の共通点は?」という問いに引っかかってしまいます。答えは「カ」で、カタカナ列や漢字列が分かる大人ほどひっかかります。(初出は奥村高明「子供の絵の見方~子どもの世界を鑑賞するまなざし~」東洋館2010)。あるいは、美術館では、通気口やコンセントなど、思いがけないものを鑑賞したり、のぞき込んだりします。そのような姿は、美術館の文脈が分かる大人から生まれません。
※9:アクティビティについては、学び!と美術 <Vol.34>「探求的な鑑賞~探究活動を基盤とする美術鑑賞「Inquiry Based Appreciation」」2015.06.10を参照。グッゲンハイム美術館エデュケイターのシャロンの実践を参考にしています。その他に学び!と美術 <Vol.30>「これからの美術鑑賞」2015.02.10学び!と美術 <Vol.33>「これからの美術鑑賞~「文脈」と鑑賞教育」」2015.05.11。
※10:村松佑樹の作品 たまたま取り上げただけなのですが、後で主催者の作品!と分かりました。
※11:中山恵美子の作品

※12:筆者の講演スライドから。
※13:エビデンスは参加者の感想しかありませんが、例えば「美術鑑賞について感覚的な思い違いをしてた自分に気がついた。グループワークがすごくわかりやすくて楽しかった。鑑賞のことをなんにもわかってない自分。壁には最高な絵がいっぱい。子どもも大人も平等に、いい緊張感。素敵でした。」「文脈で作品を見るという鑑賞とは別に、問い続けることによって前者で起こりがちな凝りを打破していく鑑賞方法があることをWS中に実感できてよかった。自問自答以外のすべを知らなかった為、他者とのコミュニケーションの取り方を工夫すれば『問い』のバリエーションもより豊かになることを知った。」など。
※14:前掲注8
※15:そういえば、私は以前から「美術館には一枚だけ子どもの絵を紛れ込ませればいい、そうすれば大人の文脈で見たまま、キャプションに近づいたときに子どもの作品であったことに気づかされ、自分の『美術館に美術を見にきている』という概念をいっぺんに問い直せるのに」と言ってきました。賛同したのは国立新美術館館長だけでした。美術館は研究発表の場でもありますから、そんないたずらをする場所ではないことは分かりますが、誰かやってくれないかなあ、、、。

道徳科の指導法②

 新しい年度が始まりひと月が経とうとしていますが、先生方は如何お過ごしでしょうか? 入学式、学年・学級開き、様々なガイダンスなどが終わり、やっと落ちついた学校生活に戻られたのではないかと思います。道子たち早稲田大学道徳教育研究会MOSの仲間も新しいメンバーを加えて12人になりました。本年度初めての集まりでは、今年は2週間に1回、研究授業と研究協議会を自主的に行い、授業力の向上を図ると意気込んでいました。
 前回に引き続き、イギリスの学校の授業をもう一つ紹介しようと思います。写真は中学生の化学の授業です。学校は、1576年に設立された公立の男子校で、11歳から18歳までの生徒が学んでいます。かの有名なロックスター「ミック・ジャガー」の母校でもあります。生徒たちは科学者のように白衣を着て、実験室で真剣に考え、活発に発言していました。授業の内容は物質の質量でした。日本の学校では、先生が初めに質量とはこのようなものですと定義を説明することが多いですが、この授業では、重さが同じだが大きさ、形、素材などが違ういろいろな条件での事例をもとに先生があれこれと質問して、生徒自身が質量の定義を納得するまで考えます。このように先生と生徒が問答を続けていく指導方法は、哲学者のソクラテスが、弟子たちに教えるのではなく、問答を通して自分たちで考えさせた方法で、「ソクラテスメソッド」と言われます。イギリスの先生は、「ティーチャー」よりも生徒に考えさせる「ファシリテーター」です。
 それでは、今回も道徳科の授業について学んでいこうと思います。学習指導要領で、考える道徳、議論する道徳が求められていますが、イギリスで行われているような生徒自らに考えさせる授業も参考になるのではないかと思います。

1 考える道徳・議論する道徳

真理「岡田先生、これからの道徳科では、考えたり、議論したりする授業が求められていますがどうしてですか? 今までの授業でも先生が質問して生徒が考え、先生と生徒、生徒同士が話し合う授業をしていたと思いますが……。」
「確かにそうですが、本当に深く考えたり、議論したりしていたでしょうか? 例えば、前回取り上げた『人形』では、老夫婦の立場を尊重することが大切だという道徳的価値には多くの生徒は気付きますが、なぜ相手の対場を尊重しなければならないのか、相手を尊重するということはどういうことか、自分は日ごろ相手を尊重しているだろうかなどについて考えを深めなければ、単なる教材の読み取りだけに終わってしまいます。学習指導要領には道徳科の目標として、『よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため、①道徳的諸価値についての理解を基に、②自己を見つめ、③物事を広い視野から多面的・多角的に考え、④人間としての生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる。』と、考えるための視点が具体的に述べられています。特に、考えを深めるためには広い視野から多面的・多角的に考えることが挙げられています。(番号・下線:筆者)
 道徳的価値について自分の理解が浅いことや自分の考え以外にも多様な考えや価値観があることに気づかせるには、友達と話し合うことがとても有効です。このことが、議論する道徳が重視されている理由の一つでしょう。」
真理「自分を見つめることはとても難しいと思います。私は友達と話しているうちに、自分の課題に気づくことがあります。」
「そうですね! 自分を冷静に見ることは、大人でもなかなか難しいものです。反抗期の真っただ中にいる中学生に、『あなたは相手を尊重していますか?』と聞くと、『また先生のお説教か!』と逆効果になってしまうことがあります。心理学にはメタ認知という言葉があります。一つ上の次元から自分の認知状態を見つめることで進む自覚や自己理解のことです。メタ認知は他者と話し合うことにより深まります。『私たちは日ごろ相手のことを尊重して行動しているだろうか?』と対象者や視点を広げて議論することが大切です。」
道子「議論することが大切なことはわかるのですが、生徒たちは授業になるとなかなか発言してくれません。どのようにすれば議論するようになりますか?」
「議論を上手にさせるには、いくつかのポイントがあります。一つは、議論をする前に考える時間を与えて自分の意見をもたせることです。意見がないと人の話を聞いているだけで話し合いに参加できません。また、意見をワークシートや付箋に書かせておくことも有効です。二つ目は、話しやすい雰囲気をつくることです。座席が隣とか前後の人は日ごろから話すことが多いのでそのペアで議論するバズセッション。誰もが発言できる4人ぐらいのグループ・班で行うグループワーク。生徒同士が向かい合うように机をコの字型に並べて座り意見を言い合うディベート。机を端に寄せて円を作って座り、発言者はボールを持って話し、次の発言者にボールを渡すサークルタイムなどがあります。三つ目は、話し合いのルールを決めておくことです。司会者を決めて、司会の指示に従い発言すること。初めに全員が一人一人順番に自分の考えを発表して、意見交換をすること。友達への質問や感想は意見交換が終わった後に行うことなどを事前に決めておくとよいでしょう。」
道子「社会科では、考えを深めるためにディベートを時々行います。しかし、ディベートでは勝敗を決めますが、普遍的な道徳的諸価値について学ぶ道徳科でも可能ですか?」
「確かにゲームのように簡単に勝ち負けを決めるわけにはいきませんね。『人形』では、作者の小林秀雄さんは『もしだれかが人形についてよけいな発言でもしたら、どうなっていたであろうか。』と最後に述べています。ここで作者のように話をしない側と何か話をするべきである側に分かれてディベートをすると、話さない側からは、ねらいとする道徳的価値である『相手の立場の尊重』が出てきますが、話す側からは、黙って食事をするのは失礼だと道徳的価値の『礼儀』が出てきます。ともに生きていくのに大切な道徳的価値ですから、当然、甲乙を付けるわけにはいきません。このようなことは私たちの生活でもしばしば起きることです。どうすればよいか考え、最善の対処方法を考えていくことが大切です。このことが学習指導要領で道徳科において育成する資質・能力として、道徳的な判断力を一番に挙げている理由だと思います。道徳的な判断力は、様々な状況下において人間としてどうのように対処すればよいかを道徳的諸価値の理解を基に考え、理性的に判断する能力です。この能力を育成するためには、道徳科において生徒が自ら考え判断する授業をすることが求められます。」
「音楽では美しいメロディーやハーモニーを聞いて感動しますが、なぜ美しいのか理論的に考えるよりも、まず、美しいと感じる感性が大切です。判断力は大切ですが、道徳的な心情も大切ではないでしょうか?」
「響君のように美しいとか善いと感じたり、『人形』の老夫婦の苦しさや悲しさを察したりできることはとても大切です。しかし、人間は時としてその場の雰囲気や感情に流され、発言や行動をして後悔することがあります。常に冷静に考え、判断することはよりよい人生を送るためにはとても大切なことだと思います。」

2 主体的・対話的で深い学び

道子「新しい学習指導要領では、主体的・対話的で深い学びを実施することが求められていますが、道徳科ではどのように考えたらよいですか?」
「『主体的・対話的』は、生徒が自分で考えたり、友達と議論したりする考える道徳・議論する道徳に通じると思います。『深い学び』については、道徳科の指導で配慮する事項として、『(5)生徒の発達の段階や特性等を考慮し、指導のねらいに即して、①問題解決的な学習、道徳的行為に関する②体験的な学習等を適切に取り入れるなど、指導方法の工夫をすること。その際、それらの活動を通じて学んだ内容の意義などについて考えることができるようにすること。また、③特別活動等における多様な実践活動や体験活動も道徳科の授業に生かすようにすること。』と述べられています。(番号・下線:筆者)」
真理「問題解決的な学習は、具体的にどのように行えばよいでしょうか?」
「学習指導要領の解説には、『道徳科における問題解決的な学習とは、生徒一人一人が生き る上で出会う様々な道徳上の問題や課題を多面的・多角的に考え、主体的に判断し実行し、よりよく生きていくための資質・能力を養う学習である。』とあります。これは生徒が道徳的諸価値を基に、適切な行為を自ら選択し、実践しようとする意欲や態度を育成することです。また『人形』を使って考えてみましょう。老夫婦と相席になった場面で、『皆さんがこのような場面に遭遇したらどうしますか? その理由も併せて考えてください。』というような課題を生徒たちに与えて、グループで議論させてみたらどうでしょうか? 生徒たちは道徳的諸価値を基に、実行可能な最善の解決策を具体的に考えると思います。」
真理「体験的な学習等を取り入れるとは、どのような指導をすればよいのでしょうか?」
「学習指導要領の解説には、具体的な道徳的行為の場面を想起させ追体験させることや、教材に登場する人物等の言動を即興的に演技して考える役割演技など疑似体験的な表現活動を取り入れた学習が紹介されています。『人形』において、老夫婦と相席している場面を写真のように役割演技させてみたらどうでしょうか? さらに演じた生徒に実際に体験してみてどのようなことを思ったか感想を発表させることにより、教材を読むだけでは気づかない登場人物の思いをクラス全体で共有するができます。ただし、体験的な学習では演じさせるだけで授業を終わりにしてしまったら、ねらいとする道徳的価値の理解や意義などについての考えが深まりません。演じて気が付いたことや考えたことを、必ず振り返らせることを忘れないようにしてください。」
「特別活動などで行った活動を道徳科の授業に活用するのは、例えば合唱コンクールで体験したことを授業の題材にするようなことですか?」
「そうですね。役割演技などの疑似体験と違って、生徒たちも自分たちが実際に体験したことなので、考えや議論が深まると思います。合唱コンクールは、役割と責任や協力などの体験として道徳科の導入や展開で活用すると効果的でしょう。ただし、学級活動の反省会にはならないように注意してください。新しい学習指導要領ではカリキュラムマネジメントが重視されています。総合的な学習の時間で行われる『職場体験』と道徳科の『勤労観』をクロスカリキュラムで実施するような工夫も今後さらに考えていくことが大切でしょう。」

 第7回は授業づくりの参考になりましたでしょうか? 次回は教科化で先生方がおそらく一番心配されている「道徳科と評価」について考えていきたいと思います。ご期待ください。