「敗戦」に日本・日本人はどのように向き合ったのだろうか

「戦争の惨禍」に向き合うために

 先の8月15日に催された「平成最後」の慰霊祭「全国戦没者追悼式」において、退位を表明した天皇は、「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」と、その想いを吐露した。そこで「西郷どん」の話題をひとまず休み、平成「最後」と喧伝されている現在、「大東亜戦争」と呼称した日本の戦争が終結した8月15日と降伏文書に調印した9月2日に思い致し、「臣民」であった日本人がどのように敗戦という現実に向き合ったかを想起し、その相貌を私の眼で確かめることとします。
 「鎌倉文士」高見 順は、「ひまさえあれば机の前に座り込んで、ノートに何やらちくちく書き」(高見秋子)、敗戦の年1945年(昭和20年)を中心に新聞記事を書き込み、時代人心の動向を克明に記録した日記を遺しています。この『敗戦日記』に描き出されている8月15日前後を紹介し、戦争の時代を生き延びた日本人の一面を読み取ることとします。

原爆投下をめぐる風聞

 広島に原爆が投下された翌8月7日の記事は、東京で原子爆弾投下の話を聞いた時、「原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾が遂に出現したというのだ。-衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった」と。その投下が、「日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという」、「一国の首相ともあろうものが何も黙殺というようなことをわざわざいう必要はない。それこそほんとうに黙っていればいいのだ。まるで子供が政治をしているみたいだ。実際、子供の喧嘩だな」と、慨嘆。作家仲間の今東光とは、「変な爆弾」「新型爆弾」「もしほんとに原子爆弾だったら、もう戦争は終結だがね」云々と、あたりに人がいないにもかかわらず、「声を低く」して話しをした由。
 この日の大本営発表は、「少数の新型爆弾」で「一瞬にして無辜の民多数に残虐なる殺傷」「相当数の家屋を倒壊」等々を「天人共に許さざる暴挙を敢てなした」、「この暴挙に至っては最早や世界の何人も許さざる鬼畜の手段」「日本民族抹殺目指す暴虐なる敵新企画の一切に対しては敢然今ぞ反撥する」と、宣うのみです。そして「由来新兵器には対策なきのためしがないのであり、徒らなる焦燥感にかられることなく、文句なし全力をあげて戦争一本に突進すべきの臍の緒をしむべき」で、謀略にまどわされるなと、「われら一丸」「報復一途」に邁進せよと。
 「天人共に許さざる暴挙」への「報復一途」と声高に叫ばれますが、原子爆弾ということは何も知らされません。この新型爆弾、「仁丹みたいな粒で東京がすっ飛ぶという話から」、「仁丹」といわれた。情報は知らされることなく、高見は文士仲間の談笑で耳にした「敗戦」が近いとの風聞を書き留めています。

「何をか言わんや」

 しかし8月11日の新聞各紙は、毎日新聞の「国体を護持、民族の名誉保持へ 最後の一線守る為 政府最善の努力 国民も困難を克服せよ」との情報局総裁談話に見られる類でしかありません。かつソ連の参戦に陸軍大臣が「事ここに至る又何をか言はん、断乎神洲護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ」「全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀(ばく)直進前すべし」と檄を飛ばしたことにふれ、高見は政府の無為無策を論難します。

「-何をか言はん」とは、全く何をか言わんやだ。国民の方で指導者に言いたい言葉であって、指導者側でいうべき言葉ではないだろう。かかる状態に至ったのは、何も敵のせいのみではない。指導者の無策無能からもきているのだ。しかるにその自らの無策無能を棚に挙げて「何をか言はん」とは。嗚呼かかる軍部が国をこの破滅に陥れたのである。

 陸軍大臣の檄文は、国民を鼓舞するに、湊川で憤死した楠木正成、蒙古襲来に断乎対峙した北条時宗の故事にたくした精神の在り方をみるにつけ、高見のみならず、「何をか言はんや」というほかありません。ここには、「国体」なる言説に民族の存在を託すしかない国家の営みがあり、精神の荒廃が読み取れます。

天皇の声

 重大発表と通知された8月15日正午を前に、高見は「『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね』と妻が言った。私もその気持ちだった」と述べています。この思いは、高見のみならず、当時多くの国民が「臣民」としていだいていたものです。言論界の長老徳富蘇峰は、この「重大発表」を天皇が一死決戦を促すものと思い、赤飯で祝うべく準備させますが、様子がおかしいと中止、放送を聞いて愕然とします。かかる思いこそは、「何かある、きっと何かある」「休戦のような声をして、敵を水際までひきつけておいて、そうしてガンと叩くのかもしれない。きっとそうだ」、と話す姿にもみることができます。かく日本を覆う空気は、「敗戦」という現実を直ちに受けとめられないがため、二重橋前に額ずき涙する民の姿をうみだしたのです。その反対に政府は、「醜敵」「鬼畜」と罵倒した敵の占領下におかれると、一転して占領軍に媚態を示し、「敗戦」の責めを国民に負わせます。
 このような国家の在り方こそは、「何をか言はんや」にほかならず、「唯一の被爆国」を免罪符のごとく強調しながらも、核兵器の廃絶に向き合うこともない現在の日本政府にも流れている世界ではないでしょうか。その営みは、昨今の天変地異、天の怒りに思いを馳せることもない国家の営みにもみることができましょう。それだけに天皇が問い語る祈りは、小さな声ですが、戦後日本の歩みに、ある不安な思いを秘めた問いかけといえましょう。

 

参考文献

  • 高見 順『敗戦日記』 中公文庫 2005年

OECD東北スクール②

1.無数のハードル

 OECD東北スクールプロジェクトは華々しくスタートはしましたが、すぐに壁にぶち当たります。その数も一つや二つではなく、一つの壁の厚みもかなりのものでした。ざっと思いついただけでも以下のようなことを挙げることができます。

①まず、震災後の混乱の中で1月に実施を決め3月に第1回スクール実施と、準備期間が極端に少なく、参加者間で目的を十分に共有することができず、それぞれの理解で集まってきただけでした。この根本的な問題は最後まで影を落とすことになります。

②組織体制も曖昧で、OECDが音頭を取ってくれるものと思っていたら、オーナーシップは日本側でということになり、いつの間にやら福島大学が主催者を引き受けることになってしまいましたが、運営事務局は相変わらず2名と、その準備は全くできていませんでした。

③本省から下りてきた運営資金はプロジェクトのプロセスには使えるものの、パリイベントの経費は自分たちで調達するというのが条件でした。1億円という絶望的な額の資金を、どう調達するのか全く見通すことができませんでした。

図1 未来のイメージを表現するワークショップ

④学校や教育行政に根ざしたプロジェクトでしたが、日本の教育文化とOECDから要求される教育の質の間には大きな開きがあり、主催者は常に板挟み状態となりました。日本は形を重んじる、OECDは実質のみを評価するという具合に。

⑤当然のことながら生徒や教師はそれぞれの学校生活があり、それぞれルールに縛られています。年度末には教員の人事異動があり、生徒は高校受験や大学受験、進学があり、年度を跨いだプロジェクトを進めることで、常に学校との間で摩擦が生じました。

⑥最終的には9つの地域が参加することとなりますが、参加のしくみや進め方もまちまちで、温度差がありました。ICTを使って物理的な距離を超える、とはいったものの、実際には物理的な距離は様々な誤解を生むこととなります。

 いまふり返れば、これらの問題は物事を変えようとする場合に必然的に越えなければならないハードルでした。生徒の問題解決能力を身に付けさせるプロジェクトで、問題解決能力を一番身に付けたのは、私たち大人自身でした。

2.立ちあがるリーダーたち

図2 震災からの心の動きを曲線で表現する

 第2回集中スクールでパリイベントの企画案をまとめることができなかったことから、集中スクール以外にもリーダーを集めて定期的に会議を開催して遅れを取り戻すこととなりました。大人と生徒を別に行うのも煩わしいので、リーダー会のほとんどは生徒と大人の合同会議となりました。このプロジェクトは、生徒の能力を高めるのと同じくらい、教員ら大人も変わることを重視しており、この二つが相互に影響を与え、プロジェクトの質を高めていくものと考えました。その意味では、この合同リーダー会議はとても重要でした。
 集中スクールのワークショップで、生徒たちが時間を守らず、予定した時間内に考えをまとめられなかったのを、ファシリテーターから厳しく指摘されました。すると「もう一度チャンスを下さい! 自由時間も返上します!」と懇願してきた生徒グループが現れました。また、東北の祭には「例外なく死と再生の哲学が入っていること」などを知った生徒たちが「自分たちは何も知らなかったんだ……」としみじみと語りました。困難に直面する度に生徒たちの変化が見えだし、リーダーグループが少しずつ頭角を現すようになってきます。

図3 生徒大人合同リーダー会の様子

 そこには、東北以外のチームも大きな役割を果たしました。東北スクールにははじめから東北の外の東京チーム、奈良チームも参加していました。当事者である東北の生徒だけでは自分たちの状況を突き放して見ることができません。「よそ者」の視点から、東北の意味や課題を見つけ、東北に学びつつ的確にサポートしてくれる外部者が必要でした。この、「何でもかんでも自分たちでやろうとしない、外に助けを求め、巻き込んでいくこと」は、日本の教育文化にはありませんが、プロジェクト全体を通して最も大切な教訓といえます。
 参加生徒たちには賛同企業から貸与されたタブレットが手渡されました。生徒はSkypeやFacebookなどを駆使し、頻繁にコミュニケーションを取るようになり、プロジェクトの形が少しずつ見えるようになってきました。

3.わずかな、確実な前進

 いつまでたっても自分たちで行動を起こすことができないでいた生徒たちに、2012年末に二つの出来事がありました。一つは、文科省等が主催するサッカーのチャリティーマッチに東北スクールが招待され、そこでJリーグ選手らからたくさんのチャリティーグッズをいただきました。これをネットオークションにかけ、初めて自分たちで資金をつくりました。
 もう一つは、大手衣料メーカーで初めての資金調達のためのプレゼンテーションを行い、6000枚ものTシャツの提供を約束され、初陣を飾りました。加えてその場で、その企業が主催するアイディアコンテストに参加を促され、わずか1週間でプランをつくり提出したところ、670アイディアの中で4位という信じられない成果を収めることができました。

図4 伊達チームのゼリー開発をOECDのシュライヒャー氏が激励

 福島県の伊達市は特産品が果物でしたが、原発事故による放射能汚染、風評被害により出荷できない状況となっていました。伊達チームの生徒の祖父が、手塩にかけて育てた柿を捨てているのを見て「自分たちの手で何とかできないものか」と考えたことがきっかけとなって、JAと協力して果物ゼリーを開発することになりました。生徒たちは何度も何度もJAと交渉し、パッケージも自分たちでデザインして完成させ、販売にこぎ着けました。生徒たちの取り組みは地元の多くの大人たちを勇気づけ、いくつものマスコミに取り上げられました。
 生徒たちは、少しずつ成功体験を積み重ね、自分たちの足で前に進み始めたのです。

モアナ 南海の歓喜

©2014 Bruce Posner-Sami van Ingen. Moana © 1980 Monica Flaherty-Sami van Ingen. Moana © ℗1926 Famous Players-Laski Corp. Renewed 1953 Paramount Pictures Corp.

 昨年の秋、第18回東京フィルメックスの特別招待作品で、「モアナ サウンド版」という、映画を見た。このほど、岩波ホールほかで一般公開となる。タイトルは、「モアナ 南海の歓喜」(グループ現代配給)と変更された。
 映画の舞台は、南太平洋、ニュージーランドが委託統治するイギリス領サモア諸島のひとつ、サヴァイイ島。1923年、ロバート・フラハティという映像作家が、妻のフランシスと子どもたちとともに、サヴァイイ島を訪ねる。近代化が進むとはいえ、島にはまだ、昔ながらの生活、風習が残っている。フラハティとフランシスは、島の人たちの生活をフィルムに収める。もちろん、サイレント映画だから、音声はない。時々、字幕が出て、どのようなシーンなのかが分かる。当時のタイトルは、「南海の美女の愛の生活」だった。

©2014 Bruce Posner-Sami van Ingen. Moana © 1980 Monica Flaherty-Sami van Ingen. Moana © ℗1926 Famous Players-Laski Corp. Renewed 1953 Paramount Pictures Corp.

 1975年、フラハティの娘モニカが、フラハティ作品のカメラマン、リチャード・リーコックとともにサヴァイイ島にやってくる。モニカは、幼いころの記憶をたどって、父の撮った映像に「音」をつける。島の人たちの会話、波の音、歌声、生活の音……。気の遠くなるような作業だが、1980年、いわゆるサウンド版が完成する。このほど公開されるのは、このサウンド版を、2014年にデジタル復元させたものである。
 島の人たちは、素朴で、寛大で、もてなし好きである。ふだんの生活が、淡々と描かれる。大きな葉をとって、束ねる。主食のタロイモを穫る。ワナを仕掛けて、イノシシを捕まえる。木のツルを切って、ツルの水を飲む。
 集落は、サンゴ礁に囲まれた海辺にある。カヌーで沖に出て、魚や貝を捕る。樹皮から布を作り、白檀の種をつぶした染料で染める。子どもは、高いヤシの木に登って、実を落とす。
 海は荒れ、大きな波が押し寄せる。それでも、カヌーを漕ぎ出す人たち。岩のあいだにカニがいる。火をおこして、カニを捕まえる。荒れた海に出て、ウミガメを捕まえる。甲羅は、高価な装飾品となる。
 ココナツをほぐして、ミルクにする。熱した石で、パンノキの実やタロイモ、グリーンバナナを焼く。

©2014 Bruce Posner-Sami van Ingen. Moana © 1980 Monica Flaherty-Sami van Ingen. Moana © ℗1926 Famous Players-Laski Corp. Renewed 1953 Paramount Pictures Corp.

 モアナという若者が、ファアンガセという女性と結婚することになる。ファアンガセは、モアナの体に香油を塗る。モアナは、一人前の男になるために、体にタトゥーを施される。そして、いよいよ儀式が始まろうとする。
 もとの映像は、1923年当時のものである。再現してもらった映像とはいえ、島の人たちの一挙一動が、あざやかに撮られている。大人は子どもを、男性は女性を、常に他者を思いやり、寄り添う。後半の儀式での、シヴァという舞踏が圧巻である。
 いま、サモアはどのように近代化を遂げているのかは分からないが、著しい変化はないように思いたい。それほど、「モアナ 南海の歓喜」の映像、音声は、美しく、素朴。
 文明という名のもとに、先進国の人たちが忘れ去っていった多くの「コト」、「モノ」が、この映画には確かに存在するようだ。
 ちなみに、当初の映像を評した文章に「ドキュメンタリー」という言葉が出てきたらしい。ここから、ロバート・フラハティを「ドキュメンタリー映画の父」と呼んでいる。未見だが、フラハティ作品に「極北のナヌーク」(1922年)、「アラン」(1934年)、「ルイジアナ物語」(1948年)などがある。機会があれば、見てみたいものだ。

2018年9月15日(土)~10月12日(金)、岩波ホールico_linkにてロードショー、以降全国順次公開

『モアナ 南海の歓喜』公式Webサイトico_link

監督:ロバート・フラハティ
共同監督:フランシス・フラハティ、モニカ・フラハティ
1926、1980、2014年/アメリカ/モノクロ/スタンダード/モノラル/98分
原題:MOANA with Sound
配給:グループ現代
協賛:福岡アジア文化センター
後援:日本オセアニア学会
※「極北のナヌーク」を特別上映(1日1回)

藤本智士インタビュー(前編)~「編集」という創造活動

 先日、秋田の全国大会で編集者の藤本智士(※1)さんのお話を拝聴しました(※2)。これからの造形・美術教育にいろいろな示唆を含む内容でした。より深くお話をお聞きしたいと思い、インタビューをお願いしました。

「編集」という概念

奥村「秋田大会で、『編集』についてお話されましたが、その概念が造形とか美術に近いなと思いました。例えば、様々な素材から必要なものを選び出してそれを論理的に組み立てない限り(※3)、ただ一つの美術作品も出来上がりません。そこで発揮されている能力は『編集』と言い換えられませんか?」
藤本「確かに、そうだと思います。例えば僕は、小説家になろうと思っていたのですが、活動を続けるうちにフリーペーパーを発行するようになりました。時期的には『イラストレーター』『フォトショップ』などのコンピュータのツールが登場しはじめた頃。コンピュータがあれば、一人でいろいろなことができるようになってきた時代です。なので必然的に、自ら執筆をするだけでなく、デザインもしたり、広告営業をしたり、一人であらゆる役割を担っていたんですね。そういった僕の個別の役割を内包する言葉としては、『編集』という言葉がまだしも一番適しているように思いました。」
奥村「狭義の編集者、つまり『つくらない人』ではなくて、藤本さんの場合、文やイメージを『つくる人』でもあります。デザイナーという感じでしょうか?」
藤本「デザインという言葉は広義に用いられるようになりましたが、僕にとっては『編集』の方がしっくりきます。例えば「街をデザインする」なんて言葉が使われたりしますが、僕にとってはそこで使われるデザインは限りなく『編集』に近いと感じています。街にあるさまざまなモノやコトやヒト。それらを適材適所にディレクションしたりしながら理想の街を描いていくのは、編集そのものだと思うので。」

生き方や社会をつくりだす「編集」

藤本「『編集』は、これから多くの人々に必要な能力だと思います。『編集』を本や雑誌をつくることだと狭義な意味に嵌めてしまうと、そのゴールが本にすることや記事にすることになってしまう。そうではなくて、理想のビジョンがまず最初にあって、そのビジョンの実現こそがゴールだと認識した上で、そのためにはどういう手を打つべきか? と考えるべきだと思うんですね。その答えが本づくりなこともあれば、商品づくりのときもあるし、ときには展覧会やイベントをやった方が効果的な場合もある。それらの一手一手が僕にとっては『編集』なんです。」
奥村「社会をつくりだす感じでしょうか?」
藤本「そんなだいそれたことは思っていませんが、『編集』というものをこのようにとても広義にとらえてもらえれば、主婦の方だって、お店をされている方だって、みんなが『編集者』なんだって思うんです。」
奥村「我々の世代と藤本さんの世代では、そもそも感覚や考え方のギャップがあるように思います。」
藤本「僕らの年代以降は、高度成長やバブルなどを、そもそも知らないんです。『大きな何かに頼る』『何か一つにすがる』という感覚はないですね。実際、大企業が次々と破綻していて、『大きな船』で安心する時代ではないでしょう? これからは『大きな船』より、『小さな船』を自分の中にたくさん持っていたほうがいいと思います。インターネットに象徴されるように、今、個人が発信力を持てるようになりました。副業も当たり前な時代になっているのはそういうことです。自分の好みを大事にしながら、たくさん『小さな船』を持って、自分の生き方や取り巻く社会を『編集』していけばいいと思います。」
奥村「『編集』はその人の生き方でもあるんですね。」
藤本「今の若い人には肩書とか居場所とか、あるいは生きる方法とかを『一つにしぼらなくていい』と言ってあげたいですね。」

「そういうもんやねん」「どういうもんやねん」

藤本「実際、20代の若者から学ぶことは多いです。例えば、彼らは次々と疑問をぶつけてくるんですが、僕自身は40代なので、若いひとたちにとっては古い感覚も持ち合わせています。だから若い人の『なんでなの?』って質問に対して、思わず『そういうもんやねん』と答えている自分がいました。でも、そう言われたって、きっと質問してる子にとっては、『いや、そういうもんって、どういうもん?』って思いますよね。そう考えた時に、もう『そういうもん』って答えはしないようにしようって思ったんです。」
奥村「『そういうもん』という言葉は、言い換えれば、その世代が共有する価値観とかしきたりですよね。それを持ち出して『そういうもんやねん』と言ってしまったとたん、自分の社会的な『共感』を相手に『強要』することになりますね。」
藤本「疑問は何かが生まれるための種なんです。でも『そんなもんやねん』という姿勢は、その貴重な疑問にふたをしてしまいます。『そんなもん』は教養でも、知恵でもない。それを教育に持ち込んだらいけませんよね。もし、美術と『編集』が共通するとしたら、ある意味、全員が正解になるところだと思います。『先生の言うとおりにやったらいい』『そんなもんやねん』になってしまったら、山本鼎の自由画運動以前の美術教育と同じになってしまう。」
奥村「『大人の思う児童画』『印象派的な表現』などを押し付ける『そんなもん』が造形や美術の世界にもあります。自分もかつてやったことがあるので、耳が痛いお話です。」
藤本「今の若い人には、スマートフォンやインターネットなど、進化したツールがあります。漢字とか歴史とか、細かな知識は知らなくても、自分たちの中で答えに到達していく力は、ぼくらよりよっぽどあると思います。」
奥村「私も強くそのことを感じます。今、目の前に見えているものは、どうやら『今まで自分が見てきたことと同じ』ではなさそうです。若い人に対してリスペクトを持ちたいですね。」

 こちらの質問を受け取りつつも、そこに含まれる概念を一つ一つ広げてくれる藤本さんの丁寧な話し方が印象的でした。内容が豊富だったので、今回はここまで! 次回は、ローカルというアドバンテージ、秋田出身の版画家 池田修三の発掘などについて語ってくれます。

 

※1:有限会社りす代表取締役/編集者 藤本智士。1974年生。兵庫県出身。雑誌Re:S[りす]編集長を経て、秋田県発行フリーマガジン「のんびり」、webマガジン「なんも大学」の編集長。著書「魔法をかける編集」インプレス、「風と土の秋田」「ほんとうの日本に出会う旅」リトルモアほか、手掛けた書籍多数。
※2:秋田大会の記念講演「藤本智士×井野秀隆×青谷明日香」
※3:幼児の造形行為も含めて、筆者は造形活動を子どもの論理的な活動の帰結だと考えている。