12か月の未来図

©ATELIER DE PRODUCTION – SOMBRERO FILMS -FRANCE 3 CINEMA – 2017

 フランスのパリ郊外、なにかと問題のあるバルバラ中学校に、1年間の期限で、新しい先生フランソワ・フーコー(ドゥニ・ボダリデス)が、赴任してくる。貧困な移民たちの子弟が多く、勉強はあまり出来ない。さまざまな人種からなる生徒たちは、反抗的で、先生への敬意などは示さない。
 映画「12か月の未来図」(アルバトロス・フィルム配給)は、フランソワ先生と、反抗的な生徒たちとの触れあいから、「教育とは何か」をじっくりと考えさせてくれる。教育とは、教え方ひとつ。さまざまな方法論があると思うが、映画で描かれるフランソワ先生は、はじめは高圧的だったが、とにもかくにも、親身になって生徒たちに寄り添おうとする。
 もともと、フランソワは、パリきってのエリート高校で、国語を教えている。父親はピエール・フーコーという著名な作家で、妹も彫金作家として活躍している。フランソワは、父の新著のサイン会で、国民教育省の女性に、ふと持論を漏らす。「問題のある学校には、ベテランの教師を派遣すべきだ」と。その女性は、教育の困難校問題を担当している。
 すぐさま、フランソワは、国民教育省でのランチに誘われる。女性大臣まで登場して、フランソワは、問題のある中学校に、1年間だけの出向を引き受けざるをえなくなる。
 いろんな国からの移民の子弟が多く、教室では騒々しく、反抗的で、教師への敬意などは、ない。若い先生は、問題児は指導評議会にかけて退学させればいいと思っている。フランソワは、生徒たちのレベルを知ろうと、書取りのテストをするが、惨憺たる成績だ。
©ATELIER DE PRODUCTION – SOMBRERO FILMS -FRANCE 3 CINEMA – 2017 フランソワは、いろんな国からの生徒たちの複雑な名前を、覚えきれない。夜中、生徒たちの名前を必死で覚える。
 セドゥ(アブドゥライエ・ディアロ)という問題児がいる。なにかと問題を起こして、教師の間では、退学候補のひとりだ。母親が病気のせいか、学校でも何かと不安定な様子のセドゥを、フランソワは気遣う。
 過去の経験などは通用しない。どうすれば、生徒たちの意識が変わるのか、フランソワは悩む。フランソワは、丸ごと一冊、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を読ませ、「悪から善への歩み」などと説き、小説の成立背景を議論させる。アーネスト・ヘミングウェイのたった6語の小説「For sale : baby shoes, never worn」(「売ります。赤ん坊の靴。未使用」)を教え、その感想を発表させる。
 生徒たちの意識が少しずつ、変化を見せ始める。国語だけでなく、いろんな教科の成績がよくなり始める。同僚からは「カンニングでは」と疑われるほどの向上ぶりだ。
 成績のあがったご褒美に、みんなを連れてベルサイユ宮殿に遠足に行くことになる。ここで、問題児のセドゥが、とんでもないトラブルを起こしてしまう。果たして……。
 生徒たちは、フランスの中学3年生で、日本では、中学2年にあたる。ちょうど、おとなへのとば口で、なにかと難しい年頃だ。エリートの高校生たちに、皮肉を言って指導していた今までとまったく異なる環境だ。だが、フランソワは、悩みながらも、一歩二歩、踏み出していく。やがて、フランソワの奮闘ぶりに、同僚の女性教師も好意を示し始める。やがて、空からは、雪が降ってくる。
©ATELIER DE PRODUCTION – SOMBRERO FILMS -FRANCE 3 CINEMA – 2017 深刻な状況設定の映画だが、悲惨さは微塵もない。むしろ、コメディタッチ、子どもたちの一挙一動、おとなとのふれあいなど、笑えるシーンが多く、爽やかな余韻を残す。また、いじめを隠し通す日本の中学校とちがって、問題校とはいえ、フランスの中学校のありようから学ぶべきは多々。学校の本質は、決して、杓子定規ではないことが、よく分かる。
 フランソワに扮したのはドゥニ・ポダリデス。「コメディ・フランセーズ」の座員で、アルベール・カミュの同名小説を映画化した「最初の人間」では、主人公ジャックに、リセへの道を開いたベルナール先生役で出演していた。また、数々の舞台の演出を手がける、著名な演出家だ。監督、脚本は、もとフォトジャーナリストのオリヴィエ・アヤシュ=ヴィダル。ドキュメンタリーかと思えるほど、子どもたちの演技がのびのびして、自然だ。また、フランソワを、まるで立派な先生として描いていないところが、とてもいい。ことあるごとに妹に相談したり、婚約者がいる同僚に淡い恋心を覚えたりの、一喜一憂する、まことに人くさい教師役を割り振る。
 問題児セドゥの行動に、ドキドキハラハラ、笑っているうちに、エンドロール。メリー・ホプキンの唄う「悲しき天使」が流れるころには、思わず、こみあげてくるものがある。
 日本の中学生はもちろん、少なくとも、「学校の先生」は、ぜひ見ていただきたい映画だ。

2019年4月6日(土)より、岩波ホールほか全国順次ロードショー!

『12か月の未来図』公式Webサイト

監督・脚本:オリヴィエ・アヤシュ=ヴィダル
出演:ドゥニ・ポダリデス、レア・ドリュッケール
2017年/フランス/フランス語/107分/シネスコ/5.1ch/原題:Les Grands Esprits/英題:The Teacher/日本語字幕:岩辺いずみ
提供:ニューセレクト
配給:アルバトロス・フィルム

こどもしょくどう

(C)2018「こどもしょくどう」製作委員会

 映画のタイトルは、すべてひらかなだが、そもそも「子ども食堂」とは何か。「こども食堂ネットワーク事務局」の釜池雄高さんの書いた映画の資料にこうある。話は2012年8月に始まる。東京の大田区にある「気まぐれ八百屋 だんだん」の店主、近藤博子さんが、地元の小学校の先生から、「朝晩の食事がバナナ一本、という子どもがいる」と聞いて驚く。近藤さんは、「何か出来ないか」と考える。
 「だんだん」はもとは居酒屋だったから、台所はある。八百屋だから、食材がある。近藤さんは、恵まれない子どもたちに、安価で、食事を提供し始める。テレビや新聞で報道され、同じような試みが全国に広がる。支援する自治体が増え、昨年の3月末では、全国で2286ヵ所となり、いまでも増え続けているようだ。近藤さんの思いを尊重して、「子ども食堂」は、「子どもたちが1人でも来られ、地域の人たちが無料または低額で食事をふるまう場所」と、とりあえずは定義されている。
 映画「こどもしょくどう」(パル企画配給)は、「子ども食堂」がどのようにして出来るようになったのかを、食堂を営むある家族を中心に、フィクションで描いた映画だ。
 いじめにあう小学生がいる。学校に行けず、河原に停めた車で、父親と暮らす幼い姉妹がいる。保護者は、子どもたちに食事を作らない。映画は、こういった子どもたちの視点から、淡々と現実を提示していく。
(C)2018「こどもしょくどう」製作委員会 高野ユウト(藤本哉汰)は、小学校の5年生で、「あづま家」という食堂を営む両親と、妹のミサ(田中千空)との4人家族だ。ユウトは、幼なじみの大山タカシ(浅川蓮)と、補欠ながら、野球チームでも仲良しだ。行動ののろいタカシは、学校でも野球チームでも、いじめにあっている。タカシは、母親に育児放棄され、食事を作ってもらえない。そんなタカシに、食堂を営むユウトの父、作郎(吉岡秀隆)と、母の佳子(常盤貴子)は、いつも食事を振る舞っている。
 ある日、ユウトとタカシは、河原で車中生活をしている姉妹に出会う。ユウトは、自分たちのいつも食べている唐揚げなどを、姉妹に届けるようになる。お腹をすかした妹のヒカル(古川凛)は、ユウトの差し入れを屈託なく受け入れるが、ユウトと同じ年くらいの姉のミチル(鈴木梨央)は、どこか醒めている。
 姉妹の現状を見かねたユウトは、ミチルとヒカルを家に招き、両親の作ったトンカツやオムライスといった食事を食べさせてあげる。
 ユウトの両親は、役所に姉妹の保護を頼むか否かを議論し始める。突然、ミチルとヒカルの父親が姿をくらます。河原に停めてあった車は、もう乗れないよう、何者かに壊されてしまう。
 ふだんは、何事にもあまり積極的ではなかったユウトが、立ち上がる。ヒカルがふと漏らした言葉から、ユウトたちは、両親に内緒で、とんでもない行動に出るのだが。
 子どもたちの現実が、くっきり、丁寧に描かれる。ことさら涙をさそうような演出ではない。ミチルとヒカルの姉妹の現実を、微細に写しとっていく。子どもたちのやりとりを丁寧に切り取っているからこそ、その苦しみ、哀切さが、じわりと伝わってくる。
 「子ども食堂」が増えているのは、明らかに、子どもが貧困、つまりは両親が貧困だからだろう。政府は、隠蔽、改竄した統計で、好景気が続いていると言うが、とんでもない。統計などは、政府に都合のいいように改竄され、発表する。つまりは、いかようにも操作できる。
(C)2018「こどもしょくどう」製作委員会 大人たちは、ことに施政者たちは、幅広く、社会の現実、つまりは貧困の現実を見ていただきたい。ほんとうは、「子ども食堂」といった仕組み、施設が存在しない社会が、まっとうな、あるべき社会ではないか。
 一昔前とちがって、いまは地域社会全体が、恵まれない子どもたちに、手を差し伸べることが少なすぎる。なによりもまず、大人たちが、いまの子どもたちの現実に、気付かなければならない。
 優れた映画には、優れたスタッフが結集する。監督は日向寺太郎。黒木和雄監督に師事し、2005年に「誰がために」、2008年に実写版の「火垂るの墓」、2013年に「爆心 長崎の空」、2014年にドキュメンタリーの「魂のリアリズム 画家 野田弘志」などを撮っている。寡作ながら、いずれも気骨ある作風で、高い評価を得ている監督だ。
 撮影が、なんと大ベテランの鈴木達夫だ。1966年、黒木和雄監督の「飛べない沈黙」で長編映画デビュー。以降、日本映画の傑作を撮り続けている。子どもたちの、生き生きしたセリフに満ちた脚本は、「百円の恋」や「嘘八百」を書いた足立紳と、山口智之。編集は、やはり多くの優れた映画の編集を手がけている川島章正。
 ユウトのお母さん役、常盤貴子がいい。大衆食堂のおばさんといった役どころを、いきいきと演じる。また、子どもたちとの距離感が絶妙だ。じっさいに、いろんな裁判を傍聴している女優さんで、社会の底辺を見続けている。
 エンドロールに、俵万智の作詞した主題歌「こどもしょくどう」が流れる。「……食べることは命、食べることは温もり……」と。子どもたちの見た世界は、日本の貧困の現実である。では、おとなたちは、何をすべきなのか。映画を見るべきは、子どもたちに、命と温もりを与えなければならない、おとなたちである。

2019年3月23日(土)より、岩波ホール2週間先行ロードショー、ほか全国順次ロードショー

『こどもしょくどう』公式Webサイト

監督:日向寺太郎
原作:足立紳 脚本:足立紳、山口智之
撮影:鈴木達夫 照明:三上日出志
美術:丸山裕司 録音:橋本泰夫
編集:川島章正 音楽:Castle in the Air(谷川公子+渡辺香津美)
主題歌:「こどもしょくどう」 作詞/俵万智 作曲/谷川公子 編曲・演奏/Castle in the Air
出演:藤本哉汰、鈴木梨央、浅川蓮、古川凛、田中千空/降谷建志、石田ひかり/常盤貴子、吉岡秀隆
2018/日本/カラー/ビスタサイズ/5.1ch/93分
製作:パル企画/コピーライツファクトリー/バップ
配給:パル企画

サタデーナイト・チャーチ -夢を歌う場所-

©2016 Saturday Church Holding LLC ALL rights reserved.

 LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)を指して、「生産性がない」と発言し、世間のひんしゅくをかっている愚かな女性の国会議員がいる。こういった女性議員がいる限り、女性が真に活躍できる社会は来ないだろう。
 閑話休題。映画「サタデーナイト・チャーチ -夢を歌う場所-」(キノフィルムズ配給)は、LGBTの男の子ユリシーズ(ルカ・カイン)が、女性のように美しくなりたいと願う、ミュージカル仕立ての音楽ドラマだ。
 舞台はニューヨークのブロンクス。美しい女性になりたいと願っているユリシーズは、ある日、トランスジェンダーたちと出会い、サタデー・チャーチという教会に誘われる。この教会は、LGBTたちの、いわば憩いの場で、ダンスのコンテストの練習場でもある。ユリシーズは、やっと自分の居場所を見つけられた思いだ。
©2016 Saturday Church Holding LLC ALL rights reserved. ふと、ユリシーズは、ハイヒールを履く。ユリシーズが履いたハイヒールが、弟に見つかってしまう。存在そのものを否定されたと思ったユリシーズは、家を飛び出してしまう。教会の仲間たちが心配するなか、ユリシーズには、さらに過酷な現実が待ちかまえている。
 劇中で唄われる「カム・サン・オア・カム・レイン」という曲の歌詞が、とても、いい。「…人生は一度きり 正直に生きなきゃ 誰にでも困難や 試練は訪れる…」。
 何度も言ったり書いたりしているが、この世には、男性と女性しかいない。仲良くする組み合わせは、たった3通り。どのような組み合わせで仲良くしようと、子どもを産む、産まないを決めるのは、自由である。試練のなか、ユリシーズは、自由を目指す。
 なにより、ユリシーズはトランスジェンダーで、数からいえば少数派、世間の目は冷たい。だから、生きていく上での試練は多いと思う。だが、しかし、ユリシーズは、困難だけれど、自由に、正直に、生きることを選ぶ。
©2016 Saturday Church Holding LLC ALL rights reserved. 脚本・監督のデイモン・カーダシスは、実在するサタデー・チャーチで、ボランティア活動の経験がある。監督自身、同性愛者と名乗っている。監督は語る。「…カミングアウトすることで、自分の考え方を周囲に認めてもらうことができるし、若くして自分とは何者なのかを見極めることもできる…」。
 2002年に公開された「ロバート・イーズ」というドキュメンタリー映画があった。ロバートは、元女性。性転換した後、子宮ガンになる。
 ロバートに寄り添う女性は、元男性のローラで、ロバートの身の回りの世話をする。余命いくばくもないロバートの願いは、ローラと知り合ったトランスジェンダーの大会で、ダンスをすること。ロバートは言う。「大切なのは心よ」。
 若者、熟年の違いこそあれ、性差を超えて、人は愛し合う。自由である。そして、前に進むことである。サタデー・チャーチで唄われる「グッド・バイ」の歌詞にこうある。「…僕はおかしくなんかない 僕は前に進むよ 前に進むよ 前に進むよ」。

2019年2月22日(金)より、新宿ピカデリー他全国公開

『サタデーナイト・チャーチ -夢を歌う場所-』公式Webサイト

監督・脚本:デイモン・カーダシス
出演:ルカ・カイン、マーゴット・ビンガム、レジーナ・テイラー、MJ・ロドリゲス、インドゥヤ・ムーア
2017年/アメリカ/カラー/スコープ/82分/5.1ch/英語/日本語字幕:川又勝利
原題:Saturday Church
配給:キノフィルムズ
レーティング:PG12

山〈モンテ〉

© 2016 Citrullo International, Zivago Media, Cineric, Ciné-sud Promotion. Licensed by TVCO. All rights reserved.

 「山〈モンテ〉」(ニコニコフィルム配給)という映画のチラシには、男が岩山に、大きなハンマーを打ちつけている写真が載っている。いったい、何のために?
 寓話仕立てだが、表現はリアルそのもの。
 舞台は、中世の後期、イタリアの山岳地帯。男の名は、アゴスティーノ(アンドレア・サルトレッティ)という農夫で、妻のニーナ(クラウディア・ポテンツァ)と、息子ジョヴァンニ(少年時代:ザッカーリア・ザンゲッリーニ、青年時代:セバスティアン・エイサス)の3人で暮らしている。
 村は、ちょうど山の影にあって、日光が十分に当たらず、作物が育ちにくい。わずかな収穫を町で売ろうとしても、あまりお金にならない。仲間の小作農たちは、相次いで村を離れていく。
© 2016 Citrullo International, Zivago Media, Cineric, Ciné-sud Promotion. Licensed by TVCO. All rights reserved. こういったアゴスティーノの貧しい暮らしぶりが、淡々と描かれていく。アゴスティーノは、先祖や亡くなった娘の墓があることもあって、この土地を離れることは出来ないと考えている。いまや、周囲の村人たちからも差別され、家族もまた、ばらばらになる。移住を勧められても、アゴスティーノは耳を貸さず、村に留まり続けている。やがて、アゴスティーノは、大きなハンマーを手に、岩山に登っていく。
 いたってシンプルな筋書きだが、映画の訴える意味は、深く、重い。人は、常に安きに流れる。昔から言う。「滅びに至る門は広く、栄えに至る門は狭い」。いまこそ、ぼくたちは、自らの手で、狭き門をこじあけるしかない。
 監督は、イラン生まれのアミール・ナデリ。2016年に開催された第17回東京フィルメックスの特別招待作品として上映されたときに見たが、改めて見ても、その力強さに打たれる。当時の監督のメッセージにこうある。「登場人物たちと私自身にとって、鍵となる言葉は挑戦と持続だ。それなしでは私たちは生きていくことはできない。人間は、不可能と思われることを可能にするチャンスを受けるに値していると私は信じている」。
 自らを信じ、山に挑戦し続けるアゴスティーノの一挙一動を、じっくりと見つめていただきたい。
© 2016 Citrullo International, Zivago Media, Cineric, Ciné-sud Promotion. Licensed by TVCO. All rights reserved. たまたま、昨年の第19回東京フィルメックスで、アミール・ナデリ監督の特集上映があった。「タングスィール」(1974年)、「ハーモニカ」(1974年)、「期待」(1974年)、「マジック・ランタン」(2018年)、脚本を書いた「華氏451」(2018年)の5作品が上映された。どれも映画への愛にあふれた傑作だが、なかでは、「ハーモニカ」がひときわ印象深かった。日本製のハーモニカをめぐって、子どもたちの騒動を描いただけのドラマに、強大な権力への風刺、暗喩が込められている。児童映画の体裁を取りながら、アミール・ナデリ監督のイランへの思いが結実した傑作と思う。いずれも、またどこかで特集上映が開催されると思われるが、機会があれば、ぜひの鑑賞をお勧めする。
 このような映画を撮り続けている監督が、特集上映の折りには、連日、東京フィルメックスの会場ロビーに顔を出す。なんと、「山〈モンテ〉」の公開が決まったので、ロビーにいる観客に、自ら、チラシを配り、PRする。大柄で、眼光鋭く、一見、恐そうなおじさんだが、とても優しく、接してくれる。恐る恐る、チラシにサインを頼むと、快諾してくれた。また、宝物がひとつ、増えたよう。
 アミール・ナデリは、いま、アメリカに住んでいる。故国イランで、再び映画を撮ることが出来るのだろうか。撮ってほしいものだが。

2019年2月9日(土)より、アップリンク吉祥寺にて公開!以降全国順次

『山〈モンテ〉』公式Webサイト

監督・脚本・編集・音響:アミール・ナデリ
製作:カルロ・ヒンターマン、ジェラルド・パニチ、リノ・シアレッタ、エリック・ニアリ
撮影:ロベルト・チマッティ
美術:ダニエレ・フラベッティ
衣装:モニカ・トラッポリーニ
装飾:ララ・シキック
録音:ジャンフランコ・トルトラ
出演:アンドレア・サルトレッティ、クラウディア・ポテンツァ、ザッカーリア・ザンゲッリーニ、ジョヴァンニ、セバスティアン・エイサス、アンナ・ボナイウート
2016/107分/伊・米・仏/イタリア語/シネマスコープ/5.1ch
英題:MOUNTAIN 原題:MONTE
配給:ニコニコフィルム

葡萄畑に帰ろう

 寓意と風刺に満ち満ちたジョージアの映画「葡萄畑に帰ろう」(クレストインターナショナル、ムヴィオラ配給)は、幸福とは何かを、じんわりと考えさせてくれる。2018年の年末、この映画に出会えたこと自体が、幸福だろう。
 空から何か、落ちてくる。よく見ると、立派な椅子ではないか。ちなみに、英語のタイトルは「The Chair」(椅子)だ。
 ジョージア郵便局から、国内避難民追い出し省という役所に、大きな荷物が着く。誰も仕事はしていないようなのに、追い出し省の職員は、ローラースケートで省内を走り回っている。大臣の補佐官ダト(メラブ・ゲゲチコリ)が、荷物を開けようとするが、「補佐官の仕事じゃない」と制止する大臣のギオルギ(ニカ・タヴァゼ)。どうやら荷物は、ギオルギが発注したものらしい。
 荷物を開けると、立派な肘置きのついた椅子が出てくる。ボタンひとつで、椅子の高さが自在に変わる。椅子を高くして、満足そうなギオルギ。
 快調な出だしで始まる。権力をからかい、痛烈な風刺を思わせ、あざやかな導入部だ。
 ギオルギに首相からの命令が入る。「避難民を早急に追い出せ」と。さっそくギオルギは、避難民たちのいるところに出向き、実力行使で、避難民たちを追い払おうとする。ギオルギは、逃げまどう若い女性を救おうとして、機動隊に殴られてしまう。
 救急車で意識を取り戻したギオルギは、救った女性の名がドナラ(ケティ・アサティアニ)と分かり、その美しさにうっとりする。
 ギオルギは、妻を亡くしていて、息子ニカ(ズカ・ダルジャニア)と、義理の姉マグダ(ニネリ・チャンクヴェタゼ)、使用人の夫婦と、豪邸に住んでいる。さっそくギオルギは、ニカの英語教師として、ドナラを雇う。ところが、マグダやニカは、ドナラの存在が気にいらない。居場所のないドナラは、やがてギオルギの豪邸から姿を消す。
 万事、要領のいいダトは、ちゃんとドナラの行き先をつきとめ、ギオルギに報告する。ドナラが戻ってくる。父親の心情を察してか、ニカ
もやっと、ドナラを受け入れるようになる。
 落ち着いたのも束の間、ギオルギの属する与党が、野党連合に政権を奪われる。もちろん、ギオルギは大臣職を追われる。
 ドナラとの再婚、独立している娘アナ(ナタリア・ジュゲリ)の存在、ひどい待遇でこき使っていた使用人夫妻の報復、不法取引で入手した豪邸の退去命令、仕事にかまけて無視していた母親……。ギオルギの波乱だらけの人生は、まだ始まったばかりだ。
 では、ギオルギの行くところにつきまとう「椅子」は? ギオルギの住んでいた豪邸は? そもそもギオルギのその後の人生は? ドラマは、良質のユーモアをたたえて、軽快に運ぶ。やがて、権力の座を追われたギオルギ自身が、変貌を遂げ始めるのだが……。
 映画は、権力への風刺、批判を描きながら、なおかつ、ジョージアの人たちの人間讃歌であり、幸福論でもある。日本でもヒットした「百万本のバラ」を作った、ロシアの詩人、歌手のブラート・オクジャワは、画家のピロスマニをモデルにして「ジョージアの歌」を書いた。
 「葡萄の種を熱い大地に埋めて 蔦にくちづけ その房を取ろう 心に実りの喜び響かせ それなくて何の地上の命 友よ僕の宴に集い 話しておくれ 僕が君の何かを 神も僕の罪を許してくれるだろう それなくて何の地上の命……」。
 映画「葡萄畑に帰ろう」は、ワインを愛し、歌と踊りと、人をもてなすのが好きなジョージアの人たちの優しさと敬虔さが、しっかり伝わってくる。共同で脚本を書き、監督したのは、1933年生まれのエルダル・シェンゲラヤ。ジョージア映画の傑作「放浪の画家 ピロスマニ」を撮ったギオルギ・シェンゲラヤのお兄さんだ。もとは、反骨精神が旺盛な政治家で、1983年に撮った「青い山――本当らしくない本当の話」で有名な映画監督だ。
 監督は、自身、厳しい時代を生き抜いたからこそのオマージュを、祖国ジョージアに捧げる。年末年始、必見の映画。

2018年12月15日(土)より、岩波ホール他全国順次ロードショー

『葡萄畑に帰ろう』公式Webサイト

監督:エルダル・シェンゲラヤ
出演:ニカ・タヴァゼ、ニネリ・チャンクヴェタゼ、ナタリア・ジュゲリ、ズカ・ダルジャニア
上映時間:99分
製作国:ジョージア(グルジア)
配給:クレストインターナショナル、ムヴィオラ

選挙に出たい

 李小牧(リー・シャオムー)は、中国の湖南省の生まれ。新宿の歌舞伎町で、外国人相手に、客引きやガイドをしている。日本に来て、もう30年ほどになる。李は、日本は閉鎖的で、外国人にはとても生活がしにくいと実感している。また、「日本人と外国人が、どのように交流すればいいのか」を、長年、考えている。
 日本の国籍を取得した李は、李小牧(りこまき)の名で、2015年、新宿区区議会の議員選挙に立候補する。何のバックアップもない、いわばドブ板選挙だ。このいきさつを描いたドキュメンタリー映画が「選挙に出たい」(きろくびと配給)だ。
 ふだんから、歌舞伎町が第二の故郷、と思っている李は、歌舞伎町で働くいろんな人が繁栄するよう願っている。
 李は新宿のあちこちで、通りすがりの人たちに呼びかける。きちんと李の話を聞く人は、少ない。それでも、李は、ことに若い人たちに訴える。「私に投票しなくてもいい、誰に投票してもいいから、とにかく投票を」と。民主主義ではない国から来た李は、立候補できる喜びとともに、投票率の低さを嘆く。
 李は、故郷の湖南省に里帰りする。中国人でありながら、日本国籍を取得した李は、国を捨てたことになる。ふだんは、開放的で陽気な性格の李の目が、実家の前では、一瞬、うるむ。
 李の周辺にいる仲間たちは、ホストや、ホステス、飲食店の従業員、同性愛者といった、社会的には少数派で、弱者が多い。李は、彼らの声を代弁し、社会的地位の向上に取り組む、と訴える。
 街頭演説で、すれ違う人が言う。「中国の人じゃ、、支持できない」、「日本から出ていけ」、「中国に帰れ」と。それでも、李はくじけない。むしろ、このような発言のあることが民主主義だと、李は、好意的に受け止める。
 故郷では、誰でもが選挙に出ることはあり得ない。日本では、元外国人ですら、国籍を取得すれば、立候補できる。李は、思う。「選挙に立候補できることが、ある意味、勝利だ」と。
 李の選挙に立候補できた喜びが伝わってくる。李の故郷、国を捨てた哀しみが伝わってくる。
 2015年4月26日が投票日だ。投票率わずか38.3%。選挙の結果が出る。定数38にたいして、52名の候補者がいる。李は45位だった。最低で当選した人の票数は1440票。李は、1018票。
 奇をてらうことなく、李に密着した監督は、ケイヒという、まだ若い女性だ。テレビのドキュメンタリーを数多く撮っていて、豊富なキャリアがある。
 一般の人もそうだが、これは、選挙権のある若い人たちに、ぜひとも見てほしい映画だ。

2018年12月1日(土)より、ポレポレ東中野にてロードショーほか全国順次公開

『選挙に出たい』公式Webサイト

監督・撮影・編集:邢菲(ケイヒ)
プロデューサー:海天(ハイ・テン)
カメラ協力:井手口大騎ダグラス
カラーコレクション:デビッド・ヒメネス
映像技術:西村康弘
整音:富永憲一
音楽:アレッサンドロ・アポローニ
宣伝美術:鯰江光二
2016年/中国・日本/78分
配給:きろくびと
協力:テムジン

ガンジスに還る

©Red Carpet Moving Pictures

 人は、いつか死ぬ。そして誰しもが願う。悔いのないよう、最後の時を迎えたい、と。インド映画「ガンジスに還る」(ビターズ・エンド配給)は、死期を感じた老人が、付き添う息子とともに、ガンジス河の流れる聖地バラナシに向かい、死を受け入れようとするいきさつを、静謐に、淡々と描いていく。
 「死期の訪れを感じている」と、老人ダヤ(ラリット・ベヘル)は言う。そして、「ガンジス河のあるバラナシへ行く」と。
 仕事一筋の息子ラジーヴ(アディル・フセイン)、妻のラタ(ギータンジャリ・クルカルニ)、娘のスニタ(パロミ・ゴーシュ)は、ダヤの言葉に驚くが、ダヤは本気である。仕事を休んだラジーヴは、渋々、父に付き添うことになる。
 バラナシでは、死を迎える人たちが滞在する「解脱の家」に宿泊することになる。ここは、原則として15日しか滞在できないが、名前を書き直すなどで、もう18年も滞在している老女もいる。
 滞在者たちは、施設の掃除をし、神の名を記したり、河岸でヨガをしたり、身を清めるべく、河に入ったりする。
©Red Carpet Moving Pictures 施設では、自炊である。食事の最中でも、ラジーヴは、携帯電話で仕事の話をしている。「食事中くらい、切れ」とダヤ。父子のぎくしゃくした関係は、ずっと続いたままである。
 ダヤが熱を出す。ラジーヴはガンジス河の水を汲み、ダヤに飲ませる。ラジーヴは、バラナシに来るよう、妻に電話をしたり、「解脱の家」の施設長、ミシュラ(アニル・ラストーギー)に、葬儀の相談をする。
 ベッドのダヤは、介抱するラジーヴに言う。「わしは才能を伸ばしてやれなかった。どうか父さんを許せ」と。父子は、抱き合う。
 ダヤが滞在して12日目。ラタとスニタがやってくる。大麻の入ったラッシーを飲んだラタとスニタは、上機嫌だ。河岸で、華やかな祭礼が始まる。祈りを捧げる人がおおぜいいる。
 父と子の確執だけでなく、異なる世代の価値観の相違が、きめ細かく描かれる。さらに、スニタの結婚話など、家族の抱えるさまざまな問題が出てくる。そんななかで、果たして、ダヤはどのような死を迎えるのだろうか。
 インド映画だからといって、突然、踊りだしたり、唄ったりはしない。死を迎える老人の話だからといって、決して、深刻な表現ばかりではない。ごくごく、普通の家族の、普通のやりとりである。あちこちにユーモアをたたえて、微笑ましくもある。
©Red Carpet Moving Pictures 輪廻転生とはいえ、来世はまた人間とは限らない。カンガルーであっても、ゾウであっても構わない。
 連日、ガンジス河のほとりに、オレンジの美しい布に包まれた死者が運ばれ、荼毘にふされる。火がつき、煙があがる。
 沢木耕太郎の「深夜特急」の第二便「ペルシャの風」のなかに「死の匂い」という一節がある。
 「…いま新たに持ち込まれた死体は、金糸銀糸の刺繍も美しいきらびやかな布に包まれている。近親者のひとりが、突然、その布を剥ぐと、白く粉を吹いたような黄土色の老人の顔が現れる。近親者はその顔をガンジスの水で何度も洗ってやるのだ。この老人は、このような歳まで生き、このような美しい布に包まれて死んでいかれる。…」
 まだ若いうちは、自らの死について深く考えることは少ないだろう。だが、人は、必ずいつか死ぬ。どのように死ぬかは、どのように生きるかでもある。悔いのないよう、日々を生きよう、そんな思いを伝えてくれた監督は、脚本も執筆、まだ20代のシバシシュ・ブティアニ。2016年、ヴェネチア国際映画祭のビエンナーレ・カレッジ・シネマ部門で、エンリコ・フルキニョーニ賞を受けている。映画大国インドならではの、若いけれど、才能豊かな監督と思われる。

2018年10月27日(土)より、岩波ホールほか全国順次ロードショー

『ガンジスに還る』公式Webサイト

監督・脚本:シュバシシュ・ブティアニ
出演:アディル・フセイン、ラリット・ベヘル、ギータンジャリ・クルカルニ、バロミ・ゴーシュ
2016年/インド/99分/シネスコ/英題:HOTEL SALVATION
配給:ビターズ・エンド
協力:エア インディア

モアナ 南海の歓喜

©2014 Bruce Posner-Sami van Ingen. Moana © 1980 Monica Flaherty-Sami van Ingen. Moana © ℗1926 Famous Players-Laski Corp. Renewed 1953 Paramount Pictures Corp.

 昨年の秋、第18回東京フィルメックスの特別招待作品で、「モアナ サウンド版」という、映画を見た。このほど、岩波ホールほかで一般公開となる。タイトルは、「モアナ 南海の歓喜」(グループ現代配給)と変更された。
 映画の舞台は、南太平洋、ニュージーランドが委託統治するイギリス領サモア諸島のひとつ、サヴァイイ島。1923年、ロバート・フラハティという映像作家が、妻のフランシスと子どもたちとともに、サヴァイイ島を訪ねる。近代化が進むとはいえ、島にはまだ、昔ながらの生活、風習が残っている。フラハティとフランシスは、島の人たちの生活をフィルムに収める。もちろん、サイレント映画だから、音声はない。時々、字幕が出て、どのようなシーンなのかが分かる。当時のタイトルは、「南海の美女の愛の生活」だった。

©2014 Bruce Posner-Sami van Ingen. Moana © 1980 Monica Flaherty-Sami van Ingen. Moana © ℗1926 Famous Players-Laski Corp. Renewed 1953 Paramount Pictures Corp.

 1975年、フラハティの娘モニカが、フラハティ作品のカメラマン、リチャード・リーコックとともにサヴァイイ島にやってくる。モニカは、幼いころの記憶をたどって、父の撮った映像に「音」をつける。島の人たちの会話、波の音、歌声、生活の音……。気の遠くなるような作業だが、1980年、いわゆるサウンド版が完成する。このほど公開されるのは、このサウンド版を、2014年にデジタル復元させたものである。
 島の人たちは、素朴で、寛大で、もてなし好きである。ふだんの生活が、淡々と描かれる。大きな葉をとって、束ねる。主食のタロイモを穫る。ワナを仕掛けて、イノシシを捕まえる。木のツルを切って、ツルの水を飲む。
 集落は、サンゴ礁に囲まれた海辺にある。カヌーで沖に出て、魚や貝を捕る。樹皮から布を作り、白檀の種をつぶした染料で染める。子どもは、高いヤシの木に登って、実を落とす。
 海は荒れ、大きな波が押し寄せる。それでも、カヌーを漕ぎ出す人たち。岩のあいだにカニがいる。火をおこして、カニを捕まえる。荒れた海に出て、ウミガメを捕まえる。甲羅は、高価な装飾品となる。
 ココナツをほぐして、ミルクにする。熱した石で、パンノキの実やタロイモ、グリーンバナナを焼く。

©2014 Bruce Posner-Sami van Ingen. Moana © 1980 Monica Flaherty-Sami van Ingen. Moana © ℗1926 Famous Players-Laski Corp. Renewed 1953 Paramount Pictures Corp.

 モアナという若者が、ファアンガセという女性と結婚することになる。ファアンガセは、モアナの体に香油を塗る。モアナは、一人前の男になるために、体にタトゥーを施される。そして、いよいよ儀式が始まろうとする。
 もとの映像は、1923年当時のものである。再現してもらった映像とはいえ、島の人たちの一挙一動が、あざやかに撮られている。大人は子どもを、男性は女性を、常に他者を思いやり、寄り添う。後半の儀式での、シヴァという舞踏が圧巻である。
 いま、サモアはどのように近代化を遂げているのかは分からないが、著しい変化はないように思いたい。それほど、「モアナ 南海の歓喜」の映像、音声は、美しく、素朴。
 文明という名のもとに、先進国の人たちが忘れ去っていった多くの「コト」、「モノ」が、この映画には確かに存在するようだ。
 ちなみに、当初の映像を評した文章に「ドキュメンタリー」という言葉が出てきたらしい。ここから、ロバート・フラハティを「ドキュメンタリー映画の父」と呼んでいる。未見だが、フラハティ作品に「極北のナヌーク」(1922年)、「アラン」(1934年)、「ルイジアナ物語」(1948年)などがある。機会があれば、見てみたいものだ。

2018年9月15日(土)~10月12日(金)、岩波ホールico_linkにてロードショー、以降全国順次公開

『モアナ 南海の歓喜』公式Webサイトico_link

監督:ロバート・フラハティ
共同監督:フランシス・フラハティ、モニカ・フラハティ
1926、1980、2014年/アメリカ/モノクロ/スタンダード/モノラル/98分
原題:MOANA with Sound
配給:グループ現代
協賛:福岡アジア文化センター
後援:日本オセアニア学会
※「極北のナヌーク」を特別上映(1日1回)

ゲンボとタシの夢見るブータン

©ÉCLIPSEFILM / SOUND PICTURES / KRO-NCRV

 「あなたは幸せですか」との問いは、永遠の問いだろう。経済的、物質的に恵まれていても幸せでない人は多い。逆に、経済的、物質的に恵まれていなくても、幸せな人は多い。
 「人間はだれ一人として幸福を求めないものはない。……ただ、幸福の内容はどんなものか、また、いったいこの世で幸福を見い出せるかどうかという点で、人々の考えが一致しないだけである」。アランの「幸福論」を持ち出すまでもなく、要は、気持ちの持ちようだろう。ふと、そんなことを思い出しながら、ドキュメンタリー映画「ゲンボとタシの夢見るブータン」(サニーフィルム配給)を見ていた。
 ブータン。鎖国を解除した1971年以来、行ってみたいなあと強く思う国だ。
 ブータンの首都ティンプーから、バスで15時間ほどのブムタンにある小さな村。代々続いた大きな寺院で暮らすゲンボは、16歳の男の子。寺院を継ぐために学校を辞め、規則の厳しい僧院学校に進むべきか、悩んでいる。妹のタシは15歳。まるで男の子のように振る舞い、サッカーの代表チーム入りを夢見ている。タシは、心優しい兄ゲンボを慕っていて、サッカーを教えてくれるゲンボが、遠く離れた僧院学校に行かないことを願っている。

©ÉCLIPSEFILM / SOUND PICTURES / KRO-NCRV

 父のテンジンは、当然ながら、子どもたちが幸せになることを願っている。いつも、ゲンボには、仏教の教えがいかに大切かを説いている。タシには、男の子のように振る舞うことなく、女の子らしく生きていくこと望んでいる。
 母のププ・ラモは、将来、寺院に来る観光客たちに、ゲンボが英語でガイドが出来るよう、いましばらくは学校で英語を学ぶことが重要と考えている。
 ゲンボもタシも、思春期である。近い将来、どのような生き方を選ぶか、いまだ明確な答えを持っていない。
 テレビや、インターネット、スマホが普及し、社会資本が整備され、ブータンの近代化が急速に進みつつある。親と子の想い、願いは、なかなか一致しない。ゲンボとタシは、いったい、どのような未来を選択するのだろうか。
 ゲンボたちの住む村は、標高2000mほど。夏は過ごしやすいが、冬の寒さは厳しい。ゲンボとタシの兄妹は、よく「寒くなってきた」と言い合う。また、数々のブータンの伝統や風習、事物が、次々と紹介されていく。鮮やかな色の民族衣装で、チャムという仮面舞踏を踊るシーンが出てくる。その躍動感に驚く。
 ケーブルテレビでは、ヨーロッパのサッカーの試合を見ることができる。そういったブータンのいまが、きめ細かく、丁寧に描かれて、飽きない。

©ÉCLIPSEFILM / SOUND PICTURES / KRO-NCRV

 ブータンは、「幸せな国」というイメージがあるが、少なくとも、「幸せな国」になりたい、なりつつあるというのが伝わってくる。もちろん、映画で描かれるのは、ブータンのすべてではない。だが、ブータンという国は、近代化を成し遂げながらも、物質的な幸福よりも、精神的な幸福を希求する国であることが分かる。
 このような「幸せな」ドキュメンタリー映画を撮ったのは、ブータンでドキュメンタリー番組を制作しているアルム・バッタライと、ハンガリーで、短編のドキュメンタリー映画を撮っているドロッチャ・ズルボーという女性。近代化が進めば進むほど、家族愛や兄弟愛、他人への思いやりは希薄になっていくものだ。ブータンもまた、そうなりつつあるかもしれない。ふたりの監督が提示するのは、ブータンにとどまらない、現在の家族の典型的な姿、形だろう。
 息子に、文化を守ることを期待はするが、無理強いはしない父親の苦悩が、全編ににじみ出ている。そして、その苦悩を象徴するような、エンド・クレジットで流れるブータンの音楽が、こころに沁みいってくる。
 映画を見終わって、また、アランの言葉を思い出した。「若干苦労して生きていくのはいいことだ。波瀾のある道を歩むことはよいことなのだ。欲するものがすべて手に入る王さまはかわいそうだと思う」。

2018年8月18日(土)より、ポレポレ東中野ico_linkほか全国劇場ロードショー

『ゲンボとタシの夢見るブータン』公式Webサイトico_link

監督:アルム・バッタライ、ドロッチャ・ズルボー
2017/ブータン、ハンガリー映画/ドキュメンタリー/ゾンカ語/74分/英題 The Next Guardian
後援:ブータン王国名誉総領事館/ブータン政府観光局/駐日ハンガリー大使館
協力:Tokyo Docs/日本ブータン友好協会/日本ブータン研究所/京都大学ブータン友好プログラム
字幕:吉川美奈子/字幕協力:磯真理子/字幕監修:熊谷誠慈
配給:サニーフィルム

子どもが教えてくれたこと

© Incognita Films-TF1 Droits Audiovisuels

 難病を抱えている、幼い子どもたち。病気と闘いながら、必死に生きている。ドキュメンタリー映画「子どもが教えてくれたこと」(ドマ配給)には、撮影当時、5歳から9歳までの子どもたち5人が登場する。みんな、厄介な病気と向き合っている。
 いちばんの年長は、アンブルという、きれいな金髪をした9歳の女の子。動脈性肺高血圧のため、肺動脈を広げるためのクスリを注入するポンプを、いつも背中のリュックに入れている。
 8歳になるテュデュアルという男の子は、神経芽腫という神経細胞にできるガンで、3歳のときに受けた手術のせいで、目の色が、右と左で異なっている。
 おなじ8歳の男の子のシャルルは、表皮水疱症で、皮膚に水疱ができたり、剥がれたりする。
 7歳の男の子のイマドは、アルジェリアからフランスに、腎不全の治療のために移住してきた。
 いちばん小さいのは、5歳になる男の子、カミーユで、骨髄にできた神経芽腫と闘かっている。
 映画は、5人の子どもたちの治療風景や、病院での暮らしぶりなど、どのように病気と闘っているかを、丹念に掬いとっていく。いずれも難病であるにも関わらず、子どもたちは、元気である。

© Incognita Films-TF1 Droits Audiovisuels

 芝居の大好きなアンブルは言う。「悩みごとは脇に置いていくか、付き合っていくしかない」、「運動はあまりしてはいけないが、なんとかやっている。だって、人生を楽しんでいるから」と。
 カミーユは、サッカーが大好きで、パパとの練習に励んでいる。自分の病気のことをよく知っていて、「赤ちゃんだったときに、ママが全部、説明してくれた」と言う。
 「学校に行きたい、ただそれだけ」と言うテュデュアル。目の色が異なっている理由も、ちゃんと説明できる。
 腎不全で腹膜透析の必要なイマドは、「結婚はしない、今はまだ小さいから」などと、おとなびた物言いをするが、表情は7歳の男の子そのもの。
 週末しか家に帰れないシャルルは、「ぼくの皮膚は、チョウの羽みたいに弱い」と言う。自分の病気に、正面から向きあっている。ふだんは、同じ病気仲間のジェゾンという男の子と、病院じゅうを駆け回っている。
 子どもたちの、変化に満ちた表情や、眼差し、仕草が、とてもよく捉えられている。難病だと分かるシーンも、いくつか。ママに、消防自動車の話をしていたイマドは、透析の時間になると、ママに抱きつく。皮膚の脆いシャルルの表情は、時折、呆然としたようになる。テュデュアルはモルヒネのせいで、絵を描いていても集中できず、苛立つ。

© Incognita Films-TF1 Droits Audiovisuels

 子どもたちのセリフの、ことごとくが、自然で、とてもいい。難病なんのその。病気と闘うたくましさに、おもわず声援を送りたくなる。
 子どもたちの周囲にいるおとなたち、ことに医者や看護士の対応が、親身である。難病の子どものいる友人によると、病状の詳しい説明や、治療方法の詳細を教えてくれないらしい。まして、患者本人の子どもが理解できるように、分かりやすく説明などは皆無らしい。フランスとの落差は、はなはだ大きい。
 監督は、アンヌ=ドフィーヌ・ジュリアンという女性ジャーナリストで、ふたりの女の子を、異染性白質ジストロフィーで亡くしている。
 映画のラスト近くで流れるのは、ルノーの唄う「ミストラル・ガニャン」で、すばらしい歌詞、曲である。砂糖菓子を引き合いに出して、父親が、娘とともに人生を語るといった歌詞が付いている。直訳すると、「勝利の北風」、「当たりの北風」。これでは、なんのことか分からないが、ルノーが子どものころにあった、当たりくじ券の付いた砂糖菓子の名前が「ミストラル・ガニャン」だそうだ。
 子どもたちは、難病を抱え、ありのままの日常を受け入れながら、瞬間瞬間を懸命に生きている。常に、人生の行方を決めるのは、自分自身である。かつて子どもであったおとなこそ、じっくり見るに価するドキュメンタリーだろう。

2018年7月14日(土)より、シネスイッチ銀座ico_linkほか全国順次公開

『子どもが教えてくれたこと』公式Webサイトico_link

監督・脚本:アンヌ=ドフィーヌ・ジュリアン
出演:アンブル、カミーユ、イマド、シャルル、テュデュアル
2016年/フランス/フランス語/カラー/80分/ヴィスタサイズ/DCP
日本語字幕:横井和子/字幕監修:内藤俊夫
原題:「Et Les Mistrals Gagnants」

後援:在日フランス大使館、アンスティチュ・フランセ日本
配給:ドマ
厚生労働省社会保障審議会特別推薦児童福祉文化財
文部科学省特別選定(青年、成人、家庭向き)
文部科学省選定(少年向き)
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