共通の課題(その2) 明治維新への注目

 さまざまな人権課題にかかわって共通に重要になるテーマの二つめは、明治維新以後に注目します。現代の差別問題について考えるには、明治新政府による新しい社会づくりを抜きにすることができません。たしかに、たとえば部落差別であれば近世(江戸時代)や、さらに遡って中世(平安時代末~戦国時代)からの連続性もありますが、いくら中世や近世における差別を学んでも、それだけでは現代の部落差別を読み解くことはできないといわざるを得ません。現代の部落差別を捉えるには、明治初期の政策やその後の社会形成を読み解くことが必要です。要するに、明治維新に注目するとは、明治時代に形成された社会や政策の在り方に注目するということです。

1.ここでいう明治維新とは?

 明治維新とは、狭義では、幕末期の1864年(第一次長州征伐)から明治初期の1871年(廃藩置県)までを指し、広義には、1841年の天保の改革から1889年の明治憲法(大日本帝国憲法)の制定までを指すとされます。ここでは、どちらかといえば広義の方を取り、1880年代までを明治維新と呼ぶことにします。広義とはいっても、始まりは1860年頃からと考えて書き進めます。「明治維新」という名称そのものに疑問を投げかける研究もありますが、ここでは一応そのままにします。
 明治維新がなぜ起こったのか、どのように進んだのかという点についてはたくさんの研究があり著作があります。ここでは、その全体像をつまびらかにしようとするわけではありません。差別問題とのかかわりでこの時代を捉えようとすることがねらいです。

2.明治初期の課題と政策

 問題意識としてあるのは、現在のさまざまな差別問題の起点となっているのが明治維新なのではないかということです。
 これまでに取り上げてきたさまざまな人権課題も、多くは明治維新になってから性格が変わり、問題が大きくなってきました。この連載第8回でも述べたように、日本社会が資本主義化し、被差別部落が貧困を強いられるようになったのも、1871(明治4)年の「賤民制度廃止令」以後です。この連載第10回で触れている通り、女性差別が日本全体で本格的に強められたのは、明治時代になってからであり、その集大成となったのが1898年の明治民法制定です。アイヌ民族への同化主義的差別が始まるのも明治に入ってからであり、それが法制度化されたのは1899年の「北海道旧土人保護法」制定によります。このような歴史は、この連載第23回で述べています。さらに、連載ではまだ取り上げてはいませんが、ハンセン病患者に対する隔離や断種などの推進は明治時代になってから であり、隔離が法制化されたのは1907年の「癩予防ニ関スル件」が制定されてからです。

3.色覚多様性と明治維新

 これら以外にも、明治初年を起点とする人権問題はあります。たとえば色覚多様性についての問題です。江戸時代まで、色覚が社会的に問題になることはありませんでした。色覚を問題にするようになったのも明治時代になってからです。
 ご存じの通り、明治維新のころに政府が打ち出したスローガンは「富国強兵・殖産興業」です。一環として、日本では1872年(明治5年)に鉄道が導入されました。その3年後の1875年に、スウェーデンで列車事故が発生しました。9人が死亡する事故で、センセーショナルに報じられました。後にこの列車の運転手が「色盲」だったことが原因だと同国の生理学者が主張し、色盲検査が世界各国に広がりました。「色盲」というのはColor Blindnessの訳語ですが、少数色覚者に対する差別的な呼称として使われ始めました。「色を見分けられなかったから、信号の色を識別できなかったのだ」というのです。現在では、この事故には複数の原因が重なっており、仮に運転手が少数色覚であってもそれが事故原因に直結していないことがわかっています。その運転手は亡くなっており、色覚を調べる術はありません。

当時の新聞に掲載された事故現場の様子
スウェーデンの画家カール・ラーション(1853~1919)が、画学生時代に事故現場を見て描いたもの
提供:尾家宏昭氏

 しかし、この事故の報道により、各国で鉄道員などに色盲検査がおこなわれるようになり、イギリスの鉄道システムを採り入れた日本でも「色盲」の人物を列車の運転手にしない方向へと進みました。当時の日本社会では、「脱亜入欧」という旗印の下、欧米に習うこと、優生保護の発想に立って物事を進めることが重視されていました。言い換えれば「劣等な者」は排除すべきだという発想が強かったということです。1909年には、「日本陸軍は色盲者を現役将校に採用せず」と規定するようになりました。「色盲」を排除するには、「正確に色盲を識別する」必要がありました。検査が開発され、1916年に眼科医の石原忍(1879~1963年)が「石原式色覚異常検査表」を完成させました。文部省は学校の身体検査で全児童生徒に色盲検査をおこなうことを決め、1921年から石原が作成した「学校用色盲検査表」(のちに「学校用色覚異常検査表」と名称変更)を使用してこの検査が始められました。こうして、すべての学校で色盲検査がおこなわれるようになりました。しかし、石原式の検査では、どんな色の感じ方をしているかはわかりません。
 この検査により、かつてはさまざまな職業から少数色覚者が排除されてきました。この排除規定は、その後しだいに少なくなっていきます。2001(平成13)年になって、厚生労働省は雇い入れ時健康診断における色覚検査を廃止するとしました。職場における色の用い方を変えていくことによって対応が十分可能だからです。厚生労働省は、色覚検査をするなら、職務内容との関連の説明が必要としています。翌年の2002年になって、文部科学省でも、小学校4年生に残っていた色覚検査を廃止し、学校教員の側の指導の在り方こそが問題だとされるようになりました。ところが、2015年になると文部科学省は、以上のような経過を踏まえず、学校での色覚検査を復活させ、少数色覚者を抜き出し、その子どもたちが不適当とされる職業に就くことのないように指導することを求めました。これでは、少数色覚者の将来を学校教員がかってに制限することになりかねません。もっとも重要なのは、少数色覚者が就職差別に出合うことがないようにすることです
 このあたりについては、元教員の尾家宏昭さんから示唆をいただいて述べています(文責は森にあります)。色覚多様性についてくわしくは、「しきかく学習カラーメイト 」というウェブサイトをご覧ください。
 ここで色覚多様性を改めて取り上げたのは、明治時代が色覚問題の起点としてわかりやすいからですが、さまざまな差別と明治維新との関係をわたしが捉え直すきっかけとなったのが色覚多様性についての問題だったからでもあります。

4.現代と明治維新

 1945(昭和20)年に日本は第二次世界大戦の敗戦を迎え、日本国憲法が制定されるなど、新しい社会に創り変わったと言われることが多いのが実情です。しかし、1945年の前と後とはけっこうつながっています。
 まず、明治初期につくられた戸籍制度が第二次世界大戦後も存続しています。戸籍制度の是非についてはさまざまな意見がありますが、少なくとも現在の戸籍制度がいろいろな差別を助長するものとなっていることについては、大方の意見の一致があると言えるでしょう。お隣の韓国は、2008年の段階で戸籍制度を廃止しています
 明治維新のスローガンが「富国強兵・殖産興業」だったことに触れました。江戸時代の日本では、北海道を除けば対外侵略戦争や大きな内乱はほとんどありませんでした。それが明治になってからは、10年に1度は対外戦争をするような国になってしまいました。北海道のアイヌの人たちに対する民族浄化とも言うべき政策も明治になってから本格的に推進されました。
 第二次大戦後は、日本国憲法がつくられて「平和主義」「戦争放棄」が定められました。第9条では、第1項で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と定めたうえ、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と明文化しています。わざわざ「陸海空軍その他の戦力」と記しており、素直に文面を読めば、現在の自衛隊などは認められないこととなります。
 ところが、結局戦前の政治家たちが戦後も君臨するところとなり、1950年の警察予備隊から始まって、1954年には自衛隊が発足することとなりました。
 財閥も解体されましたが、企業集団として再生されています。財閥と企業集団との共通性と異質性 もさまざまに議論されているところです。しかし、企業集団が、戦前の財閥と同様に、中小企業を傘下に置き、強い立場で日本経済に影響を及ぼしているという点での共通性は言を俟たないと言えます。
 このような点で、現代の日本社会が抱える問題は、明治維新以後の歴史を整理することによって、初めて明確に把握できるようになると言えます。もちろん、日本史のなかで近世以前の歴史は重要ですが、現代日本について考えるうえでは、明治維新以後の歴史の方がはるかに重要です。さまざまな差別についても、明治維新の諸改革によって始まったり、強化再編成されたりしたものがほとんどです。同時に、諸差別に対する反対運動も、明治の諸改革や諸政策に反対する形ですすめられました。ですから、明治以後の歴史をていねいにおさえることが、現代の諸差別にとりくむうえでもたいせつです。

5.明治維新以来の課題を克服するために

 明治維新以後の日本史を整理するうえで、第1のポイントとなるのは、すでに述べてきた明治維新の諸改革と諸政策です。それにより、現代につうじる差別の背景が浮き彫りになります。第2のポイントは、大正期を特徴とする明治時代の政策に対する反対運動をおさえることです。さらに、第3のポイントは、第二次世界大戦後の諸改革でしょう。第二次世界大戦後の諸改革が、明治時代からの社会の在り方とどのように断絶しており、あるいは同質性をもっていたのかを考える必要があります。第4のポイントは、高度経済成長以後の日本社会の在り方です。

【参考・引用文献】

  • 厚生労働省ウェブサイト「わたしたちにできること~ハンセン病を知り、差別や偏見をなくそう~『歴史から学ぶハンセン病』」
  • しきかく学習カラーメイトウェブサイト「少数色覚児童生徒の進路指導はどう進めればよいか」(YouTube)
  • 伊藤順子氏(ライター)「韓国が、男女差別の根源だった「戸籍制度」を一気に廃止した理由」(2022.2.6 PRESIDENT Online)
  • 「【企業集団とは】意味から財閥との違いまでわかりやすく解説」(2020.11.17 リベラルツアーガイドウェブサイト)

共通の課題(その1) 人権に取り組む三つのモデル

 これまでこの連載では、個別の人権課題をテーマに取り上げ、その領域でどのようなことが課題とされ、どのようなことが議論されているのかを紹介してきました。今回から数回にわたっては、様々な人権課題に共通して必要となるテーマを取り上げます。個別人権課題を取り上げるのはいったん中断するわけですが、また、先々に個別人権課題へと戻る予定です。
 今回から数回にわたって取り上げるのは、これまでの連載で紹介したいずれかの人権課題から提起されたテーマです。しかし、それらは、その人権課題だけではなく、様々な人権課題について共通して重要になるテーマだとわたしには思えます。今回は、人権教育や人権問題に取り組むときに考えるべき三つのモデルについてです。

1.障害をめぐる「人権モデル」の登場

 この連載の第15回でもふれたところなのですが、障害者問題に関わって日本では、「障害の個人モデル」(あるいは「医療モデル」)と「障害の社会モデル」を対比して使うことが多かったといえます。一方、最近の国連ではこの二つの対比ではなく、「障害の治療モデル」と「障害の人権モデル」という二つを対比的に使っています。たとえば2022(令和4)年9月に、国連障害者権利委員会が「日本の第1回報告に対する総括所見 」を出しました。障害者権利条約の規定に則って、日本政府が自国の実情や政策について初めて報告しました。それを、国連障害者権利委員会が審査して、全体としてチェックしたのです。この「総括所見」には、「障害の社会モデル」という言葉はまったく出てきません。それに対して「障害の人権モデル」という言葉は7回出てきます。これは日本以外の国に対しても同じです。どの国の報告 に対しても、国連障害者権利委員会は、「社会モデル」ではなく「人権モデル」という概念で総括所見を書いています。
 日本政府に対する「総括所見」で、最初の「一般原則」に位置づけられた懸念事項7項目の1番目(a)、つまり日本政府の法律や政策における問題を指摘するトップに出てくるのは、次の内容です。

(a)The lack of harmonization of disability-related national legislation and policies with the human rights model of disability as contained in the Convention, which perpetuates a paternalist approach to persons with disabilities;

(a)障害に関連する国内法制及び政策が、一貫して障害のある人に対する保護者気取りのアプローチに立っており、本条約に含まれる障害の人権モデルと合致していない。(*1)

(翻訳は森による)

 要するに、日本の法制や政策は、条約の「人権モデル」の立場と相容れないというのです。このように指摘された日本政府としては、「人権モデル」について整理し、それに対して何らかの対応を迫られることになったはず です。ところが、その後の議論で、この点が日本政府によりどのように吟味されたかはよく分からないのが実情です。
 今回の連載では、まずこれらのモデルが何を意味するのかを考えます。日本に対する国連の指摘を受けとめるには、この作業が重要に思えるからです。

障害者権利条約をめぐり、日本政府への審査が行われた会議室で、国連の障害者権利委員会の委員らと一緒に集まった日本の障害者たち(スイス・ジュネーブ、2022年8月 写真提供:共同通信社)

2.障害をめぐる2種類のモデル
~「個人モデル」と「社会モデル」から「治療モデル」と「人権モデル」へ~

 「社会モデル」と「人権モデル」の関係について、様々な人が発信しています。たとえば、アンハラッド・ベケットさん は、アンナ・ローソンさんと連名で、「社会モデル」というのは「障害のモデル」であるのに対して、「人権モデル」というのは「障害政策のモデル」なのであり、両者は相補的な関係にあると言っています。一方、テレジア・デグナーさん は、障害者権利条約は、「人権モデル」を法典化したものだと主張しています。デグナーさんは障害者権利委員会で2014-2018年のあいだ委員をしていました。委員長だった時期もあるとのことです。2016(平成28)年にソウルで行われた「障害者権利条約10周年記念国際シンポジウム 」の報告を読むと、デグナーさんの立場や人柄が浮かびます。デグナーさんによると、「人権モデル」は「社会モデル」が進化して生まれたものだということです。このように、いろいろな意見があるのですが、認識で一致しているのは、現在の国連は「人権モデル」を基本に据えてメッセージを発信しているという事実です。
 わたしなりに、この二つの概念について説明すると、次のようになります。「障害の治療モデル」とは、障害の原因や責任は個人にあるのであり、それを本人や家族が「治療して治す」あるいは「機能訓練する」ことが重要だとする考え方です。それに対して、「障害の人権モデル」は、障害の原因や責任は社会の側にあるとし、障害者を人権の主体と認め、障害者自身の権利主張を尊重するとともに、国際人権基準などに定める水準で、権利を保障する責任が国や社会にあると主張するものです。

3.社会的課題を捉える三つのモデル

 以上のように、障害者に関わっては「治療モデル」と「人権モデル」という概念が掲げられて議論されるようになりました。この連載の第15回でも触れたように、これら二つのモデルも参考に、様々な人権課題に取り組む上で、三つの立場があるとわたしは考えています。
 一つは、「自己責任モデル」です。この発想に立つと、様々な被差別状況や、不利益状況の原因、責任は本人や家族にあると考えることになります。だから、解決のためにも、本人たちが努力することを求めます。障害のある人たちについては、その障害があるのはその人たちの方なのだから、障害をなくすために医学的に治療しようとしたり、隔離してでもトレーニングしたりすることが何よりも必要だということになります。このように、「自己責任モデル」は、「障害の治療モデル」や「障害の個人モデル」と言われていたものに対応しています。
 もう一つは、「人権モデル」です。この考え方に立つと、様々な被差別状況や不利益状況の原因や責任は、社会の側にこそあると考えます。車いすユーザーが、階段しかない駅でホームまで上がれないなら、移動の自由を保障していない社会の側の責任だというのです。だから、エレベーターなどを設置して、すべての人が「移動の自由」(移動権)という権利を行使できるように保障するのが社会の責任だということになります。それを実現する上で重要なのがいわゆる当事者たちの声です。障害者権利条約をつくる過程では、障害のある人たちの声を土台に据えて、社会を変えていくことが求められました。「Nothing about us, without us!」、すなわち、「わたしたちに関することをわたしたち抜きに一つたりとも決めるな」というのが重要な原則となったのです。実現すべき水準は、国際人権条約の各条文に定められていることがらです。このように、ここでいう「人権モデル」は、「障害の人権モデル」とほぼ同じということができます。
 これら二つのあいだに「福祉モデル」があります。福祉モデルの考え方に立つと、どちらの責任が第一かはあまり重要ではありません。「かわいそうな人たちがいるから助けて引き上げてあげるべきだ」ということになります。「わたしも、できることをしてあげよう」という発想です。国連が日本政府の法制や政策について「一貫して障害のある人に対する保護者気取りのアプローチを採用」していると指摘していますが、そこでいう「保護者気取りのアプローチ」という言葉と対応しています。このモデルに対応する言葉として、先に紹介したデグナーさんは「福祉アプローチ」や「慈善モデル」などの言葉を批判的に使い、「慈善ではなく権利を」という障害者運動のスローガンを紹介しています。デグナーさんだけではなく、国連障害者権利委員会も、たとえばフィリピンへの総括所見 において「条約の人権モデルとは全く対照的な医療的及び慈善的アプローチが広がっている」と指摘しています。さらに、デグナーさんは、開発問題に関わる枠組みを引き合いに出し、「開発における⼈権アプローチは、貧困のなかで暮らす人々は、福祉や慈善の対象ではなく、資源の配分やニーズの評価に意⾒がある権利保有者であることを意味する」とも述べています。
 「福祉モデル」か「人権モデル」かを見分けるポイントはどこにあるのでしょうか。その一つは、被差別当事者の意見にどう向き合うかです。「福祉モデル」に立ち、保護者気取りで被差別者に向き合っている人は、相手が自分に対して差別性を指摘したときや、社会に対して権利主張を始めたときに去って行ったり、非難し始めたりします。「人権モデル」に立っている人は、権利主張を始めた人を歓迎し、共に闘う人が増えたことを喜びます。自分の差別性を指摘されたときには、それを受けとめ、立ち止まって自分の言動を振り返ろうとします。そして、自分の加差別性とともに被差別性を考えようとするのです。
 説明の途中で触れたように、この三つのモデルという枠組みは、障害者権利条約で語られる「治療モデル」と「人権モデル」を下敷きにしています。そして、三つのモデルとして捉えることにより、様々な問題に一般化できるようになるとわたしは考えています。

4.部落差別と三つのモデル

 この連載の第15回 では、「個人モデル」と「社会モデル」を女性差別に引きつけて考えました。今回は、三つのモデルの意味を考えるために、部落差別に引きつけて考えてみましょう。ここで注目するのは1922(大正11)年に出された「水平社宣言 」です。
 水平社宣言は、「吾らの爲の運動が、何等の有難い効果を齎(もたら)さなかった」と述べています。さらに、「これ等の人間を勦(いたわ)るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた」としています。これは、様々な融和事業や融和運動を指しているといわれていますが、融和事業や融和運動に当てはまるのが「福祉モデル」(慈善モデル)です。
 また、宣言は「ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた」としています。社会は「と畜や精肉、皮革の仕事をしているから穢れている、または何をするかわからず怖いから差別する」というのです。そんな仕事をしているのが悪いというのですから、先のように言う人たちの行動原理となっているのが「自己責任モデル」だといえます。そのような仕事をしているからという理由づけで差別されてきたことを問題にしています。
 宣言は最後に、「人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである」として「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と締めくくっています。これは、「吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である」という言葉とセットになって「人権モデル」だということができるでしょう。
 このように読んだとすれば、部落解放運動は100年前から三つのモデルを意識していたともいえます。
 女性差別や部落差別だけではなく、様々な差別問題について、この三つのモデルは有効に思えます。現に、デグナーさんは開発問題でも同様の枠組みがありうるとしています。

5.三つのモデルを意識した教育実践

 教育に取り組むときにも、わたしたちは三つのモデルのいずれかに近い考え方をしていることが多いといえます。ときには無自覚のうちにいずれかの発想に立っていることもあります。たとえばある人は、この三つのモデルについて学んだ後、自分の教育実践を振り返って、「自分の考え方は福祉モデルにとどまっていた」と発言しました。
 上のような整理の仕方だけでは、実際の教育実践にどのような意味があるのかよく分からないという人もいるでしょう。その場合には、次のような事例について考えてみるのも一つの方法です。
 以下の例で「自己責任モデル」「福祉モデル」「人権モデル」に立って行う対応はどのように異なるでしょう。例文だけで判断しにくいときには、それぞれの人や、その周りの様子をもっと具体的に想定して考えてください。

事例1Aさんは知的障害があり、たくさんのものから一つを選ぶのは難しい。Aさんが食堂で食べ物を注文するとき、どんな問題状況が発生し、それに対してどうするか?

  • 自己責任モデルの場合……
  • 福祉モデルの場合…………
  • 人権モデルの場合…………

事例2Bさんは、半年前に海外から日本に来て、日本語が十分にできない。Bさんが暮らしていくうえでどんな問題状況が発生し、それに対してどうするか?

  • 自己責任モデルの場合……
  • 福祉モデルの場合…………
  • 人権モデルの場合…………

事例3Cさんは、妊娠して3か月である。Cさんが今後暮らしていくなかでどんな問題状況が発生し、それに対してどうするか?

  • 自己責任モデルの場合……
  • 福祉モデルの場合…………
  • 人権モデルの場合…………

*1:外務省の仮訳によると、総括所見のこの箇所は「障害者への温情主義的アプローチの適用による障害に関連する国内法制及び政策と本条約に含まれる障害の人権モデルとの調和の欠如。」となっている。

【参考・引用文献】

  • 外務省ウェブサイト
  • 特定非営利活動法人日本障害者協議会ウェブサイト
  • NHK解説委員室「障害者権利条約 国連勧告で問われる障害者施策」(NHKウェブサイト、2022.9.30)
  • REDDYウェブサイト
  • テレジア・デグナ―「障害の人権モデル」(公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会情報センターウェブサイト)
  • 加納恵子氏「障害者権利条約10周年記念国際シンポジウム@ソウル報告―第6条「障害のある女性と少女の条項」をめぐって―」(『室報 第58号』(関西大学人権問題研究室、2017.3)
  • 「全国水平社綱領・宣言」(京都大学ウェブサイト)

アイヌ民族と人権(その4)

1.自己の被害性と加害性を捉え直す

 前回の最後に、次のように述べました。

 アイヌ民族と和人がともに自己をふりかえり、和人が加害性と被害性を捉え直すことによってたんなる和人とアイヌ民族との対立を乗り越えることが可能になります。いま行われている教育実践でもそれは行われていますが、この面をさらに強く前に打ち出すことによって新しい人権教育が展開できそうに思えます。

 そのように考えるのは、これまでの人権教育の経験によります。被差別側の人たちの人生に学ぶことによって、加差別側の人たちも自分自身の加差別性とともに、被抑圧性・被差別性を捉え直しやすくなります。それが自由への第一歩だと思います。
 このような点を考えるために、まずはいま行われているアイヌ民族に関わる学習を見ていきましょう。

2.北海道の学校における取り組み

 北海道では、全ての小中学校でアイヌ民族に関わる学習を進めるために、副読本『アイヌ民族:歴史と現在-未来をともに生きるために-』 がつくられ、北海道内にある全ての小中学校に配布されています。同書を編集しているのは、公益財団法人アイヌ民族文化財団 です。同財団のウェブサイトでは、同書のPDF版をダウンロードできますし、ウェブサイトから注文して印刷版で入手することもできます。また、同財団の文化ポータルサイト を訪問すれば、様々な学習者にあわせた多様な教材や資料を知ることができます。

①末広小学校における「アイヌ文化学習」
 こうした資料も参考にしながら、北海道内外の各地の学校で、アイヌ民族に関わる学習が展開されています。たとえば、千歳市立末広小学校 では、都市部の大規模な小学校では唯一、1~6学年の全ての学年において、発達段階に応じた「アイヌ文化学習」 をカリキュラムに組み込んでいます。以下の末広小学校の取り組みに関する記述は、末広小学校にご協力いただき、末広小学校の報告に則して書かれています。
 末広小学校における「アイヌ文化学習」は1996(平成8)年にスタートし、毎年改善しながら途切れることなく積み上げてきました。千歳アイヌ協会と千歳アイヌ文化伝承保存会の会員らが講師として関わる授業は全体の約8割を占め、それを含めた全体の時間数は6年間で110時間を超えます。

②シンボル的存在の「チセ」
 校内にはチセをつくり、「アイヌ文化学習」に供しています。末広小学校の本格的なチセは、千歳アイヌ協会等の協力によって、構想2年・製作半年をかけ完成しました。
 「チセ」とはアイヌ民族の伝統的な家屋のことです。150年以上前のシコツ地方(現在の千歳川流域)に建てられていた標準的なものと大きさも材料も同様のチセでは、学級ごとの授業の際には、実際にアペオイ(囲炉裏)の周りに座って活動ができます。末広小のチセは「アイヌ民族に関する学習」の象徴として関係者や一部の市民に知られ、市内外、国内、姉妹都市などの関係により海外からの見学者も増えてきました。
 本来のチセの床は、土間にチタラペ(ござ)を敷き詰めていました。(校舎内のチセの床はフローリング)
 土は蓄熱性に優れています。チセの中央に必ず設えられるアペオイは、もちろん日々の煮炊きに用いられましたが、たっぷりと砂と灰が蓄えられた炉で常時絶やさず火を焚いていました。土間はこの熱を吸収し、厳寒期も温かく過ごすことができました。ちなみにこのチタラペ(ござ)は、湿生植物ガマの葉の基部を編んでつくります。それは水に浮くためにスポンジ状の構造をしています。柔らかく断熱性・蓄熱性に富んだ素材です。
 板の間ではこうはいきません。樺太から宗谷→江別(対雁(ついしかり))に強制移住させられたアイヌ民族の記録の中に、「明治政府にあてがわれた日本家屋の板の間は寒くて、アイヌ民族たちはすぐにチセを建てなければならなかった」というような文があります。
 常時、火を絶やさないということは、温かいのと煮炊きだけではなく、ほかにも素晴らしい効用があります。ゆっくりと少しずつ立ち上る煙と熱は、食物貯蔵(棚で乾燥・燻製)のためにとても有効でした。燻した食べ物はとてもおいしく、長持ちします。また、煙をあげていると、チセの屋根や壁の基本材料である「キ」(湿生植物ヨシの茎)(地方によっては笹)が黒くコーティングされ耐久性が増します。ほんのりした煙は夏の害虫対策にもなります。
 ですからアペオイにはアペフチカムイがいらっしゃって、私たちを常に見守ってくださると考えられています。アペフチカムイ=炉のお婆様のカムイは、アイヌ民族にとって最も身近で重要なカムイです。全てのカムイノミに際し、人(アイヌ)の言葉を翻訳して、カムイモシリに居られる多くのカムイたちに伝えてくださるお方こそ、このアペフチカムイです。カムイノミでイナウ(木幣)を燃やすのはこのためです。炎と煙とともに翻訳された祈りが、カムイモシリへ届くというわけです。

チセの中で語り部の話を聞く子どもたち(千歳市立末広小学校提供) ※写真は一部加工しています。

③アイヌ民族学習の原則
 末広小学校での「チセ」は、本物に触れる学習の場であり、様々な資料に手を触れられる状態の資料室であり、末広小のアイヌ民族を学ぶ学習の拠点・シンボルです。取り組みは、チセをつくっただけではありません。「サケのふるさと千歳水族館」 の協力のもと、伝統漁法「マレク漁」とサケ皮の利用を学ぶ総合学習に、3学年の全児童が取り組んでいます。この水族館は、北海道の恵みのもとである川に住む動植物をメインに据えた珍しい水族館です。
 末広小学校における「アイヌ文化学習」のはじまりは、1996(平成8)年です。そのときの2年生が「世界の歌と踊り」に取り組もうとして、そのなかにアイヌ民族の歌と踊りを組みこもうとしました。保護者のお一人がウタリ協会(当時)の役員で、協力を申し出たのだそうです。ほかの家庭も訪問して学ぶなかで、いろいろなことが分かってきます。かつて、ほんの数十年前には、末広小学校でもアイヌ民族差別が広くありました。「1分1秒でも早くこの学校から出て行きたかった」と話すアイヌの人もいたといいます。差別をした人が保護者になっているという現実もありました。
 そのような実態のなかでアイヌ民族を学ぶために、次のような原則を確認しました。

 「私たちはアイヌ民族の文化を一時的に利用するのであってはならない。郷土の文化として持続して教育に位置づけていくことが、アイヌ民族を理解し尊重し差別を生み出さない基本になるのだ。」

 この考え方を土台にして、先に述べたチセをつくり、全学年にわたる「アイヌ民族を学ぶ」総合学習・生活科カリキュラムの実践を続けています。

④総合学習「伝統漁法マレク漁とサケ皮の利用」(第3学年)
 末広小学校のそばを流れる千歳川は、今も昔もサケが回帰し産卵する川です。そのサケをテーマに学ぶ3年生は、まずは水族館とさけます情報館(孵化場)を見学し、サケの一生を学びます。
 千歳川で生まれたサケは北太平洋を回遊して育ち、数年後に生まれた川へ回帰し、産卵して次の代へと命をつなぎます。それを口にするわれわれ人間は、紛れもなくたくさんの命をいただいていることになります。このことはサケにとどまらず、全ての食べ物についていえることです。アイヌの人たちはそのようなことを象徴的にとらえて、サケを「カムイチェプ=カムイが川を上らせてくださる魚」と呼んでいます。
 3学年の子どもたちは、水族館敷地内の小川に集まって、その朝行われたカムイノミの写真を見て、それを執り行ったエカシ(長老)から直接話を聴きます。どんなことをどのように祈ったのかを聴き、サケに限らず自然の中からいただく場合に必ず思う感謝や誓いを理解してから、サケ漁の学習を始めます。
 子どもたちはマレク(回転式の鉤銛)を千歳アイヌ協会の会員とともに握りしめ、心静かに川の縁に立ち、サケが「この人に獲ってもらおう」と近づいて来るのを待ちます。うまく獲れて岸辺に引き上げられたサケは、エカシがイサパキクニという頭を叩く棒で命をいただき、魂を送ります。その後、サケの体を会員が子どもたちの目の前で解体すると、まだサンペ(心臓)が動いています。川に遡上するサケは何も食べないので、小さくなった胃腸も観察できます。狭い腹の容積をぎりぎりまで卵・精巣に使うことを学びます。そして丈夫な皮から身(魚肉)をはがしとる作業を全児童が代わる代わる体験します。魚皮衣の写真とチェプケリ(サケ皮製のくつ)の実物が傍らに展示してあります。
 別の日にはチェプオハウ(魚の汁物)という有名なアイヌ民族伝統の料理を家庭科室で味わいます。食物を巡る命の繋がりを実感しサケの学習が完結します。
 ある子どもは、この学習の感想文を泣きながらもってきたといいます。そこには、サケへの感謝と食べ物を無駄にしないという言葉が綴られていました。アイヌ民族の考え方・生き方に学ぶことによって、自分たち自身の暮らし方を捉え直したと言える学習です。

⑤全国への「出前授業」
 春、末広小の運動会では、種目の一つとして全校児童と全保護者がグラウンドに大きな輪をつくり、千歳アイヌの伝統的な輪踊り「ホリッパ」を踊ります。輪の中で唄い、独特な掛け声で励ましてくださるのは、日ごろ講師となって教えてくださるアイヌ協会の会員の皆さんです。中央の演台にはエカシがカムイノミの後と同様のエムシ(刀)を掲げた姿で皆を見守ってくださいます。
 近年、末広小から市内外の学校への「出前授業」 が、アイヌ協会と千歳市・市教委の後押しによって盛んになっています。千歳市内の小学校の半数に、アイヌ民族文化財団のアドバイザーとアイヌ協会会員がグループを組んで出向き、末広小での学習のエッセンスと作法で授業を行っています。

3.和人とアイヌ民族との関係を学ぶ

 以上が末広小学校からの報告に則した記述です。前に紹介した「とかちエテケカンパの会」の教育活動は、主としてアイヌ民族の子どもたちを応援し、そこから日本社会を変えようとする活動でした。末広小学校の取り組みは、アイヌと和人の子どもたち両方を応援する取り組みだといえます。アイヌ民族の生活や文化に学ぶことをとおして、和人も含めて全ての子どもが生活や心を豊かにできることを示しています。このような実践をしている学校はまだ少なく、今後も取り組みが広がっていくことを期待したいところです。
 今後の課題として感じる一つは、アイヌ民族のことについていろいろと学ぶことから、和人についていろいろと学ぶことへとどうつないでいくかということです。サケのところで述べたように、わたしたちはサケの命のリレーを受け継いで、その命をいただいています。わたしたち自身も、命のリレーの結果ここにいます。そうだとすれば、アイヌ民族の人たちにも、和人たちにも、そのリレーの歴史があるはずです。そして、それは一人ひとり違っているといえるでしょう。
 アイヌ民族の歴史や文化を学ぶというのは、さきの子どもの感想にもあったように、とりもなおさず、和人が自らの歴史や文化を捉え直すことを意味しているはずです。問題は、アイヌ民族の人たちが自らの暮らしや生いたちを差し出して子どもたちの学習に供しているのに対して、和人の側がそれに見合うように自らを差し出しているのだろうかということです。
 たとえば、北海道にいる和人たちは、そのほとんどが明治になって、北海道以外のところから移り住んだ人たちの子孫です。そういうそれぞれの個人の歴史を捉え直すような学習はどれほどされているのでしょうか。
 北海道の人口変動には特徴があります。人口統計データベース というサイトによると、1869(明治2)年の北海道の人口は58,467人とされています。それ以後、急速に増加し続け、1945(昭和20)年には3,518,389人となっています。北海道の人口が一番多かったのは、1997(平成9)年の5,698,506人です。明治になってから1997年までにおよそ100倍になったということです。これほど増加した都道府県は、ほかにはないでしょう。ちなみに、全国の人口変動でいえば、江戸時代の人口が3000万人ほどですから、だいたい4倍になったというほどの増加にとどまります。北海道の人口増加の多くは、北海道以外からの社会移動によって発生しています。それぞれの子どもたちの家族をたどると、ほとんどの場合、いずれかの時期によそから北海道に渡ってきたということです。
 このような点に焦点を合わせた学習はどれほどなされているでしょうか。圧倒的少数派のアイヌ民族には、先祖代々に関わる歴史や体験を尋ねているのに、圧倒的多数派の和人に対しては、多くの場合、「和人」ということだけでそれ以上に具体的な生いたち学習はなされていないのではないでしょうか。和人というのはのっぺりとした集団で、個々の歴史や体験はないかのようです。これではバランスを欠きます。
 よそから北海道に移ってきたなかには様々な人がいます。移住前の地域で裕福な暮らしをしていたという人ばかりではないでしょう。アイヌ民族から学ぶ学習をかわきりに、それぞれの和人が移住してきた理由などを確かめていく学習へとつないでいくことはできないものでしょうか。
 アイヌの人たちだけが自分のルーツを明かしたり確かめたりするのでは、和人との間でバランスを欠くといえます。和人の側も自分たちのルーツを確かめたり、そこから見えてきたことがらを出していったりすることによって、一方的にならない学習が成立するように思えるのです。そのことによって見えてくるのは、渡ってきた和人のなかにもいろいろな人がおり、日本社会のなかで不利な立場にあった人たちが、北海道開拓を担ってきたという面もあるということです。被害者が加害者になるという事実を共有することにより、新しい発見が出てくるのではないでしょうか。

4.和人にとっての自己解放とは何か?

 一人ひとりの和人が自らの歴史と体験をふりかえり、捉え直すことは、北海道だけではなく、全ての地域で求められることがらです。アイヌ民族について学ぶことから自分たちの歴史と体験を捉え直すという学習も、全ての地域で求められていることがらです。
 そもそも、アイヌ民族の人たちは北海道以外にもたくさんいると思われます。北海道でアイヌの人から話を聴いていると、親戚などが東京・大阪など各地に働きに行ったというエピソードが出てきます。ちなみに、ある人は、わたしの住む大阪に自分の夫が働きに行き、そこで亡くなったと言っておられました。ところが、その大阪では、アイヌ民族の人がカミングアウトするという例がほとんどありません。差別される恐れの方を強く感じて、カミングアウトしてもいいことはないと判断しているからなのかもしれません。もしもそうだとすれば、そういう大阪でこそ、アイヌ民族の歴史や体験をとおして、自分たち自身の歴史や体験を捉え直すという学習が求められているともいえます。実りある形でそれが行えてこそ、アイヌ民族の人たちのカミングアウトも増えていくのではないでしょうか。

 ここまでで、それぞれの人権課題に関する記述を一区切りとし、次回から数回は、個別人権課題について考えるなかで見えてきた共通の課題をご一緒に考えてみることにしたいと思います。

【参考・引用文献】

  • 公益財団法人アイヌ民族文化財団ウェブサイト
  • 千歳市立末広小学校ホームページ
  • サケのふるさと千歳水族館ウェブサイト
  • 北海道統計書(北海道ウェブサイト)
  • 人口統計データベース

アイヌ民族と人権(その3)

1.ウポポイ

 今年(2023年)11月の初めに、北海道を訪れる機会がありました。その際に、前回紹介した木村マサヱさんともお会いしたのですが、あわせてウポポイ も訪れることができました。ウポポイとは、白老町にある「民族共生象徴空間」の愛称です。このなかに、国立アイヌ民族博物館と、国立民族共生公園があります。民族共生空間には、アイヌ工芸づくりなどを楽しめる工房(イカラウシ)や、アイヌの伝統芸能を上演する体験交流ホール(ウエカリチセ)など、さらにさまざまな施設 があります。
 ウポポイを訪れたのは11月3日の「文化の日」です。この日は、ウポポイが無料で公開される日でした。1200円の入場料が免除されていたのです。ウポポイだけではなく、日本にある博物館のなかには、「文化の日」だからということで、この日を無料にしているところがあります。わたしたちは知らなかったので、お得感がありました。無料公開の日だったせいか、どの事業も人が多くいました。博物館を見て回り、体験交流ホールで伝統芸能を見せてもらいました。これらは、どちらかといえばわたしたちは「お客さん」にとどまっていました。工房で木彫体験「イヌイェアン ロ」 をさせてもらって、やや参加意識は高まりました。自分のつくった作品と展示されている作品との間には、当然ながら大きなギャップがあります。それでも、「自分が関われた」感がありました。体験学習館の別館ではアイヌアートショー がありました。これは、アイヌアートの作家さんたちと直接話したり、作品を購入したりできるイベントでした。わたしにとってありがたかったのは、20年ほど前に北海道にちょくちょく訪れていたときにお世話になった結城幸司さん とお会いできたことです。そのおかげで、ウポポイとの距離感が一気に縮まりました。

2.知里幸恵銀のしずく記念館

 ウポポイから自動車で30分ほどのところに「知里幸恵 銀のしずく記念館 」(登別市)があります。これは、市民がつくった民間の博物館です。小さな館なのですが、歴史などについて情報を提供して、心にメッセージを届けてくれます。
 わたしにとっていちばん驚きだったのは、この連載の第23回で紹介した知里幸恵(1903~1922年)の1922(大正11)年7月12日の日記の現物を見ることができたことです。「私はアイヌだ。何処までもアイヌだ……」という文章は、小さなメモ帳のようなノートに小さな文字で書かれていました。ネット上のテキスト で見ていたときは、その力強さを感じていたのですが、現物を見て、力強さだけではなく、小さな文字に込めた願いを感じました。小さな文字を見ていると、知里幸恵がこの日記を綴っている様子が、表情や鉛筆を握る姿まで、映像のように心の中に浮かんできました。
 直筆の原文写真を「記念館」から提供していただいたので、原文をご覧ください。

「知里森舎提供」

 『アイヌ神謡集』(1923年)の序文などは、書籍として出版するときの序文ですから、ほかの多くの人たちが読むことを前提に書かれています。また、書いていた場所は金田一京助(1882~1971年)の自宅です。金田一京助はアイヌ文化についてそれなりに理解のある人だったといえますが、同時に、アイヌ民族のヤマト文化への同化を推進する人でもありました。「同化」と言っても、それは単に日本語を話すようになるということを意味するのではありません。アイヌの文化を捨て去ること、つまり民族の「浄化」を推進する立場の人です。だから、『アイヌ神謡集』の序文も、さまざまな配慮のうえに成り立った文章だと思った方がよいでしょう。それに対して日記の文章は、自分で自分のために書いている文章だといえます。ある意味「こっそりと」書いていたのではないでしょうか。これは推測でしかありませんが、いろいろな可能性を考えても、この日記の方が、知里幸恵の思いをストレートに綴っていると考えられるでしょう。
 それをわたしたちは読んでいるということになります。小さなメモ帳ぐらいのノートに書かれたこの文章は、書かれたときには他の人に見られる可能性を考えていなかったと思った方がよいとすれば、それを読むわたしたちには、責任や志が求められるように思えます。読んだうえでどうするのかということが問われるということです。

3.「被抑圧者の教育」と「抑圧者の教育」の接点

 「知里幸恵銀のしずく記念館」は、ある意味で、アイヌ民族の一人である知里幸恵に焦点を合わせて、被差別の立場にあるアイヌ民族の側から歴史を解き明かした博物館です。先の日記の文章もそうなのですが、館全体として、展示にはアイヌ民族が抑圧されていった過程が刻印されています。アイヌ民族の人たちがここを訪れれば、自分と同じ立場の人が100年も前にこういう文章を綴っていたことに力をもらえるのではないでしょうか。一方、和人がここを訪れれば、力をもらえる面もあるかも知れませんが、それにも増して、和人とアイヌとの関係を考えることになるのではないでしょうか。わたしも和人の一人として、自分の責任を改めて考えました。
 こういう議論をするときに、「罪の意識」という概念を土台に据えて議論する場合があります。そして、それに対して「昔の人がやったことで、自分がしたわけでもないのに、罪の意識を持つ必要はないのではないか」という意見が聞こえてきます。そういうときには、「罪の意識ではなく、自分たちの責任として考えてみてはどうでしょう」と応えてみることをおすすめします。
 確かに、わたしたち自身が北海道開拓を進め、アイヌ民族をもとの居住地から追い出し、文化を剥奪していったわけではありません。しかし、わたしたちがその恩恵を被っていることは明らかです。ほとんどの場合、わたしたちが食べている北海道の産品は、和人が侵略して北海道に暮らすようになって得られたものです。「侵略の恩恵」を受けているわたしたちは、フェアな関係を築き直すという責任を負っていると考えるのです。
 その構図を考えると、同時にわたしたち自身がいまの社会のなかで不利益を強いられているという面にも気づきます。自分たちの加害性と被加害性という両面から問題に迫るのです。
 和人の多くは、ふだんから自分が和人であるとはあまり自覚していないのではないかと思います。かくいうわたしも、30年ほど前まではあまりそういう自覚を持っていませんでした。一方のアイヌ民族の側では、自分たちがアイヌ民族であるということをくりかえし思い知らされています。一方がくりかえし思い知らされるのに対して、他方はその自覚さえないというのはあまりにアンバランスです。このままでは、知らず知らずのうちにでも、和人は差別する側に回ってしまいかねません。これは加害性の面から考えたときに見えてくる問題です。
 一方、明治時代以後に北海道に渡った和人の多くが、移住前は、安定した暮らしをしていたわけではないと思われます。さまざまな事情があって、北海道に渡っていったと思われるのです。
 アイヌ民族と和人がともに自己をふりかえり、和人が加害性と被害性を捉え直すことによってたんなる和人とアイヌ民族との対立を乗り越えることが可能になります。いま行われている教育実践でも、それは行われていますが、この面をさらに強く前に打ち出すことによって新しい人権教育が展開できそうに思えます。
 次回は、そのような発想にもとづいての提案をする予定です。

【参考・引用文献】

  • ウポポイウェブサイト
  • 「北海道アイヌ協会理事 結城幸司さんインタビュー」(MouLa HOKKAIDO、2023.10.17)
  • 知里幸恵 銀のしずく記念館ウェブサイト
  • 青空文庫「日記(大正11年6月1日) 知里幸恵」

アイヌ民族と人権(その2)

1.「とかちエテケカンパの会」

 北海道の帯広に、「とかちエテケカンパの会」という子ども会があります。「エテケカンパ」とは、アイヌ語で「手をつなぐ仲間」という意味です。1993(平成5)年に木村マサヱさん芦沢満さん が中心になって始めました。この子ども会で育ち、この子ども会から巣立っていった人は多いといえます。
 2003年、「とかちエテケカンパの会」が中心となり、実行委員会を立ち上げて先住民ワールド・ユース・キャンプが開催されました。私は、このキャンプに学生6人と一緒にお邪魔してキャンプ支援のボランティアをさせていただきました。ちなみに、このときに学生として参加した一人が、現在北海道大学に勤務しているジェフリー・ゲーマンさん です。ワールド・ユース・キャンプは、国際先住民年(1993年)から10年を記念して企画されたイベントです。ニュージーランドからマオリ、ノルウェーからサーミ、アメリカからフパの若者たちが参加しておこなわれました。いずれの民族も、先住民としての自覚を高める運動を展開し、政府からも支援を得ています。日本のアイヌ民族にもウタリ対策という事業はおこなわれていましたが、先住民族としての権利を認めたうえでの事業ではありませんでした。
 「とかちエテケカンパの会」は、もともとアイヌ民族の子どもたちに学校の勉強を教える会として始まりました。しかしまもなく、子どもたちが学校などで差別事象にくりかえし出合っていることが分かりました。学校の勉強という問題だけではなく、差別と闘うこと、なかんずくアイヌ民族としてのアイデンティティを確立することが課題だと明らかになったのです。
 子どもたちがアイヌ民族として確かなアイデンティティをはぐくむにはどうすればよいでしょうか。この筋道は決して一つではないでしょう。「とかちエテケカンパの会」では、ふだんからアイヌ民族の文化を活動に位置づけるとともに、諸外国の先住民族と交流することを通してこの課題に取り組もうとしました。
 たとえば、1995年に初めてカナダへヘイルツク民族との交流に出かけました。参加者であった一人の若者は、このときの感想を次のように述べています。

「ヘイルツク民族の同年代の男の子と話して、学校で嫌なことがあったとか、同じような境遇にあるのを知った。それから互いの踊りを披露したんだけど、ヘイルツクの子が上半身裸で声を張りあげて踊る姿がカッコよすぎた。俺、何やってんだろうと思ったね。」

nippon.comの記事 より)

 さきに紹介した先住民族のワールドユースキャンプに大阪から参加した私や学生たちは、諸外国から来た先住民族の若者たちに出会うことができました。その体験は、先の感想にもあるとおり「カッコよすぎた」というのが一番大きな印象です。もちろん私のような和人と先の感想を述べたアイヌ民族の若者とでは、出会いのインパクトとその意味は異なるにちがいありません。(今回の文末に掲載している「暫定的提言:教育」は、このワールド・ユース・キャンプで生まれた提言です。)

2.被差別・被抑圧の立場にある人たちの成長の筋道

 ワールド・ユース・キャンプに向けての取り組みのなかで、私は部落差別に関連する取り組みを紹介する機会をいただきました。その際の印象深いことがらの一つは、次のようなことです。
 私は、部落差別に関連して、「差別と全般的不利益の悪循環」について説明しました。部落差別は、結婚や就職など重要な人生の場面で表れますが、それだけではなく日常生活に出てくるものです。その影響により、部落出身者はそれぞれの場面で生き生きと暮らしにくくなります。それだけではありません。前のステージが後のステージに影響を及ぼして、人生全般が制約されます。この悪循環により、①被差別側の生活機会が制約されます、②被差別側が自分自身・親・周りの人たちを否定的に見やすくなります、③周りの人たちの人間観がゆがみます、④社会全体が人材を失います、などの影響が発生するのです。差別を放置するのは、被差別者はもちろんですが、社会全体にとって、すべての人にとってマイナスだということです。
 このような説明をしたうえで、「アイヌ民族の場合はどうでしょうか?」と質問したときです。一人の参加者は、「アイヌにそんな悪循環はない」と発言しました。それに対して、木村マサヱさんは「そんなことあるもんか。私たちが苦しんでるのは、これと同じ悪循環があるからじゃないか」と発言しました。
 その後の調査によって統計的に見ると、この点は明らかでした。北海道大学アイヌ・先住民研究センターが2008年に調査をおこなっています。その結果によると 、平均世帯年収は全国平均の566.8万円や北海道平均の440.6万円に対して、アイヌ民族は369.2万円です。生活保護率も北海道全体では3.9%であるのに対して、アイヌ民族では5.2%となっています。雇用関係でも不安定なものが多く、常時雇用者は北海道や全国の半分ほどでした。さらに、アイヌ民族の大学進学率 は、2006年で17.4%であり、北海道民平均38.5%の半分以下となっていました。
 このようなもとで、アイヌ民族の子どもたちのなかには、くやしい思いを重ね、肩身の狭い思いをしながら生きている人たちがいます。そのような子どもや若者たちが成長していく筋道は様々になるでしょう。私が「とかちエテケカンパの会」の活動を通して学んだのは、アイデンティティの確立が様々なことに影響を及ぼし、自信を持って生きていくことを支えるということです。

3.被差別・被抑圧の子どもたちが成長するために

 もう1枚のイラストがあります。このイラストは、アイヌ民族に関わる活動から生まれたものではありません。おとなの識字運動に関連して話し合うなかで生まれた図で、識字とは何をしようとしているのかを端的に表しています。

 図の左から右へと時間は移っていきます。一番左にあるのは、幼い頃から様々な理不尽な体験や肩身の狭い思いを重ねるなかで、小さくなって過ごすことを強いられやすいことを表しています。背景にある山脈は、いまの社会の構造を表しているのですが、その山脈の上の方からは、さまざまな重石が子どもたちの頭にふってきます。重石が重なるたびに、子どもたちはズンズンと縮められる思いがすることになります。育つうちに、「自分の未来は狭い」と思ったり、自分で自分を枠にはめて「こんな風に生きていくしかない」と思い始めたり、「負い目」を抱きながら成長していくようになったりすることがあるのです。
 教育はこのような状況に働きかけて、その重荷を解き、自分の人生にはめていた枠をほどき、負い目を解消していくことをめざします。
 そのための具体的な取り組みと変化が、中程の矢印に描かれています。重要なのは、それぞれの子どもが体験してきた事実を土台に据えることです。事実をていねいにふりかえり、それを文章につづったり絵に描いたりします。そのことを通して自分の体験や思いを客体化するのです。これによって、自分を縛っていたものから少し自由になります。生いたちをふりかえる活動をほかの人たちと一緒に重ねることによって、それぞれが抱えさせられてきた重荷を共有できるようになるといえます。なぜ自分たちにそのようなことが発生しているのか、社会の仕組みと関連付けて学ぶことにより、世の中の見え方がさらに変わっていいきます。このプロセスでは、自分に先立ってアイデンティティ確立を果たしている人との出会いが重要になるでしょう。「自分だけじゃない」と思い始めることによって絆が広がり、重石だったものがしだいにエネルギーの源へと変わっていくのです。自分たちが発見し、獲得したものを社会に発信することにより、支配の山脈を崩す一翼を担うようになります。こうして、未来への創造と構想をつくりだすのです。
 このようにして成長した人たちは、夢や希望を抱くようになり、自らに課していた枠を崩し、誇りや自信を取り戻して、自由になっていきます。かつて重石だった生いたちは、いまや宝物としてその人を支えているのです。
 もちろん、これほど単純に物事が進むわけではないでしょう。進んだり戻ったりが繰り返されます。そんななかで、さあっと道が開けることがあります。道筋は、一人ひとり違うことでしょう。しかし、違いはあっても、前へと進む手がかりは得られるはずです。
 「とかちエテケカンパの会」に参加した子どもたちも、このような筋道に近い道をたどったのではないでしょうか。その際に、自分たちの前を歩く、先輩たちの姿が大きな力となります。そういう出会いを設定することが、求められる大きな仕事一つとなるといえます。

 2020(令和2)年、「とかちエテケカンパの会」はアイヌ民族文化財団の文化奨励賞 を受賞しました。また、2022年には会長の木村マサヱさんが吉川英治文化賞 を受賞しました。

【参考・引用文献】

暫定的提言:教育

先住民ワールドユースキャンプ2003(十勝)
2003年8月11日18:00

 私たち、フパ・マオリ・サーミの代表、および日本の先住民であるアイヌのメンバーは、世界の先住民の若者たちによるネットワークを広げるために、ここ日本の十勝に集まった。私たちは、アイヌの教育、アイヌの未来を拓くための教育について話し合った。アイヌは日本の先住民である。アイヌの子どもや若者は、先住民として権利を保障されなければならない。参加国の先例にならえば、アイヌの若者は権利として社会的にいっそう支援されるべきだと私たちは確信するものである。私たちはアイヌ文化振興法についても学んだ。同法にある文化の定義に加えて、教育それ自体が文化の一部であると考える。そして、次のような手立てをすすめるよう強く求めるものである。

  1. アイヌ文化を振興し、アイヌの子どもたちを勇気付けるためには、アイヌの教員が不可欠である。彼らは、その存在自体が積極的な役割モデルとなるだろう。私たちは、アイヌの教員が稀にしかいないことを知っている。教員養成系の諸大学は、クオータ制(割当制)を含む積極的な差別撤廃政策をとるべきである。
  2. ニュージーランド・ノルウェー・カナダ・アメリカ合衆国の例にならえば、特にアイヌの子どもたちのためのオルタナティブ教育(*1)を実現することに向けて真剣に話し合うべきである。
  3. アイヌに関する教育カリキュラムを検討し、歴史的に見て正しい記述となり、現代のアイヌ文化を含むように、改め発展させていくべきである。公教育では、アイヌの言語をはじめ、歌や踊りなどアイヌの文化を教えるべきである。
  4. 教員への支援が必要である。それらの支援は、政府関連の教育機関において、教員養成や研修といったかたちですすめられるべきである。すすめるにあたっては、アイヌの人たちが認める研究組織や個人と連携することを土台に据えるべきである。
  5. わたしたちは、アイヌの子どもたちに対して、文化的でかつコミュニティ(*2)に根ざした教育活動が必要だと認識している。その活動は、学業達成(学力や学歴)を支える上でも決定的に重要である。
  6. アイヌの教育的ニーズに合致するよう、上記すべての項目に対する財政的支援が政府から提供されるべきことは最も重要である。

(正文は英語です。日本語版は、今後の検討によって変わる可能性があります。)

*1:従来の公教育制度にとらわれず、一部の公教育に新しく取り入れられた新スタイルの学校を指すことば。たとえばアメリカでは、市民団体が様々な特徴を持つ学校を設置し、それを教育委員会が公認して資金を出すチャータースクールなどがある。
*2:英語のコミュニティということばには、空間的に定義される地域的共同体だけでなく、空間にとらわれない精神的共同体という意味合いもある。ここではその両方の意味合いを込めている。

アイヌ民族と人権(その1)

 日本には、先住民族としてアイヌやウィルタなどの人びとが暮らしています。アイヌ民族は、北海道からサハリン、千島、東北北部などに住んできた民族です。ウィルタは、おもにサハリンに住んできた民族で、日本にはごく少数が住んでいます。ここでは、アイヌ民族をおもなテーマとして述べることにします。今回は、第二次世界大戦までの歴史が中心です。

1.アイヌ民族をめぐる歴史

 日本の歴史では、古代から東日本に住む人たちを指して「蝦夷(えみし)」という言葉が使われてきました。坂上田村麻呂(758~811年)を将軍として大軍を東北に送り、アテルイ(?~802年)などの指導者を捕虜とし、支配を強めたと言われます。しかし、この「蝦夷」がアイヌ民族であったかどうかは定かではありません。現在の考古学によると、アイヌ民族が成立したのは12世紀から14世紀とされています。
 アイヌ民族は、狩猟・採集の他、洋上を舟で渡り日本国内だけでなく中国やロシアなど、大陸との交易を担ってきました。この交易という側面は、アイヌ民族を考えるときに抜きにできないのですが、わたしたちが教えられてきた「アイヌ=狩猟・採集民族」という従来からのイメージとずれているため、軽視されがちです。
 東北北部にいわゆるアイヌ語地名があることが知られています。ある地名がアイヌ語地名として認められるには、①アイヌ語が話されていた時代の記録があること、②それがない場合、北海道各地のアイヌ語地名と同様のものが周辺に集中して存在すること、③そうした地名と地形の結びつきが確認できること、といった条件を満たす必要があります。たとえば、青森県にある三内丸山遺跡 です。「三内」という地名がそもそもアイヌ語 で解釈すれば理解できます。「サンナイ」とは、アイヌ語で「流れ出す川」という意味になります。「雨が降ると鉄砲水が出る」という地名です。このように、アイヌ民族の歴史を学ぶ と日本史に関わるイメージも変わる可能性があります(*1)
 現代とのつながりで考えるとき、アイヌ民族の歴史と関連して特に重要なのは、明治時代(近代)になってからの動きです。明治政府は「富国強兵・殖産興業・脱亜入欧」を掲げ、北海道開拓にも乗り出します。江戸時代(近世)までは、アイヌ民族の存在を前提に交易をしています。それが明治時代になって変わるのです。1871(明治4)年、明治政府は、北海道開拓のためアメリカからホーレス・ケプロン(1804~1885年)を招きます。ケプロンはアメリカの農務省長官だった人で、北海道に小麦栽培を広げたり、札幌農学校(現・北海道大学)の開設を進言したりするなど、北海道の開拓に貢献したとされる人物です。札幌の大通公園には彼の銅像も建っています。同時にこの人は、アメリカ先住民を居留地へと追いやり、厳しい生活を強いた人でもあります。日本に来て、アメリカで先住民に対して行ったのと同じような政策をアイヌ民族に対して進めようとした のです。これは厳しい同化政策(*2)でした。ケプロンの政策が「富国強兵・殖産興業・脱亜入欧」という明治政府の政策に合致していたということであり、明治政府の政策がどんな性格のものだったかを端的に示しています。
 江戸幕府は、「蝦夷と呼ばれる人たちが住む地域」を蝦夷地(えぞち)と呼んでおり、自分たちの土地ではないことを名称としても認めていたことになります。ところが明治時代に入ると、明治政府は「アイヌモシリ」(アイヌ語で「人間の大地」)を「北海道」と呼ぶようになり、日本国の土地としました。同時に、その土地に住む人びとは、明治政府の政策に従わなければ生きていけなくなりました。ことばや服装など民族文化が禁止され、和人文化への同化を求められました。戸籍制度が敷かれると、和人と同じように「氏名」(*3)というスタイルの名前を使うことを強制されました。このような明治政府の政策を法律として固定化したのが、1899(明治32)年の北海道旧土人保護法 です。
 この時代にアイヌ民族の和人への同化を担ったアイヌのリーダーもいます。アイヌ民族の生活改善などのためです。その一人、吉田菊太郎(1896~1965年)は、アイヌ民族の同化を担いながら、結局アイヌ民族がいなくなり、アイヌ文化も途絶えてしまうことを嘆きつつ、十勝の幕別町に蝦夷文化考古館という博物館を建てました。その博物館の中には、彼が1961(昭和36)年に書いた「蝦夷文化考古館におもう」という文書が掲げられています。(句読点を加えた箇所はありますが、段落換えを含め、基本的に文面を変えてはいません)

(幕別町教育委員会提供)

 蝦夷文化考古館におもう

 その昔、北海道は蝦夷、即ちアイヌ民族の自由の天地であり、大自然に恵まれて何不自由なく楽しく住んでいた。蝦夷ヶ島北海道は、急激なる拓殖政策の強化に伴い、古潭は村に町にと拓け、世は限りなく発展を示しつつあるのに反し、激しい生存競争に耐えられぬ同族の中には世の敗残者として家財を失い、古潭を離れてその行方さえ知れぬものが少なくない。
 又、進化向上した者は事業のため其の他により都会に移り、古潭に停る者も生活様式の改善により、あるいは和人との混血により、同族本来の姿は年々薄れ、古潭は一般和人部落に変りつつある現状にして、おそらく近い将来には全くアイヌ人の姿はこの世から歿し去ることであらう。斯くて先祖が起き伏し、日頃意を通ずるために用いた言葉や、荘厳に行われたカムイノミ(祭典儀式)も殆ど忘れられていることは誠に遺憾の極みである。また、鎌倉時代から蝦夷ヶ島北海道開拓のため移入する内地人の奴僕となって、重荷を背負い、深い茨を分けて道しるべの役となり、或は河に丸木舟を操って交通運輸に努め、開拓移民の先駆者として、文字通り犬馬の労に身命を曝す。
 その酬いとして与えられた品々及び熊の皮、鹿の角など、物々交換により求めた諸々の物を宝ものとして保存し、又自ら作った生活必需品など之等貴重な文化財が薄れゆくアイヌ民族と共に失はれ、このまま放置せんか、古潭にアイヌ文化財は全く消え失せるであらうことを嘆く吉田菊太郎は、一族と共に奮起したのである。
 而して、先祖の遺した文化財を蒐集して一堂に収め、永く正しく保存することが、先祖に対する餞であり、また向後の考古資料にも役立つであらうと考え、先ず之等を保存する館を建設するに当り、菊太郎は資金造成のためアイヌ文化史なる冊子を発刊し、之を道内外に行脚して販売す。尚家族の私財を含めても足りず、然るに幕別町を始め江湖諸賢の御賛助に与り、昭和三十四年深秋、首尾良く蝦夷文化考古館の完成を見るに至る。以来文化財の蒐集に渾身懸命に努むるや、幸い篤志家の御協力と相俟って、徐ろに収容しつつあり、必ず初志の目的を完遂する信念に徹す。茲に念願するは、菊太郎亡き後の蝦夷文化考古館の維持管理は幕別町において當られるよう切に望むのである。
 嗚呼、思いを後世に転ず。既に蝦夷は亡く蝦夷文化考古館の一堂のみが往時先住民族アイヌ人居住の跡として此の地に残るのであらう。
 吾は、先祖と共に蓮華の蔭から蝦夷文化考古館を見守る。合掌。

昭和三十六年五月五日(一九六一年)
北海道十勝国中川郡幕別町字千住(元チリロクトウ古潭)
蝦夷文化考古館建設者 アイヌ人 吉田菊太郎
明治二十九年七月二十日この地に生る

 ここには、心ならずも同化政策を担いながら、アイヌ民族の文化が途絶えかねないことを嘆くアイヌ民族の一リーダーの声があります。吉田菊太郎という名前は和人風につけられた名前です。彼のアイヌ名もあるはずなのですが、それはわたしには分かりません。
 この幕別のコタンに住んでいた人の話を聞いたことがあります。2005(平成17)年前後ですが、その頃その人は、65歳ぐらいだったかと思います。幼い頃、フチ(おばあさん)たちがおしゃべりしているところによちよちと歩いて行こうとしたら、そのおばあさんたちは「やめよう、やめよう、おしゃべりは。子どもにアイヌ語がうつってしまう」と言っておしゃべりをやめて離れていったのだそうです。おばあさんたちにとってよちよち歩きぐらいの子どもは、孫のような存在でかわいかったことでしょう。そんな子どもともアイヌ語で話せない状況を強いられたということです。
 このような政策は沖縄でも行われ、その後、台湾・朝鮮など、日本が海外侵略を進めるときに引き継がれていきました。このように、明治に入ってからの日本の歴史は、明治の初め頃につくられたさまざまな制度を維持し、拡大していこうとする歴史だったと言えます。北海道の開拓で進められた政策を引き継ぎ、海外侵略も、戦争をくりかえしながら進んでいったと言わなければなりません。このプロセスが現代までも強い影響を及ぼしており、わたしたちの暮らしやものの感じ方を左右しています。

2.アイヌ民族の闘い

 このような動きに対して、古代から蝦夷やアイヌ民族の戦いはありました。8世紀末から9世紀初めにかけての「アテルイの戦い」、1457年の「コシャマインの戦い」、1669年からの「シャクシャインの戦い」、1789年の「クナシリ・メナシの戦い」などです。近代になってからは、アイヌ民族はさらに厳しい生活を強いられ、抵抗の動きも続きました。アイヌ民族であることに誇りを持って生きようとする人たちが登場します。
 『アイヌ神謡集』を書いた知里幸恵(1903~1922年)は、1922年7月12日の日記のなかで次のように書いています。文中に出てくる「シサム」とは和人のことを指しています。

「私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのやうなところがある?! たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないといふ事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在をすら知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知ってゐる。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けてゐる。それは感謝すべき事である。
 アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分のウタリが見下げられるのに私ひとりぽつりと見あげられたって、それが何になる。多くのウタリと共に見さげられた方が嬉しいことなのだ。
 それに私は見上げらるべき何物をも持たぬ。平々凡々、あるひはそれ以下の人間ではないか。アイヌなるが故に見さげられる、それはちっともいとふべきことではない。
 ただ、私のつたない故に、アイヌ全体がかうだとみなされて見さげられることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。
 おゝ、愛する同胞よ、愛するアイヌよ!!!」

知里幸恵の日記(大正11年7月12日) より

 知里幸恵は、言語学者の金田一京助(1882~1971年)に見いだされ、彼の誘いで東京に移り住んで『アイヌ神謡集』(1923年)を著しました。才能を見いだされたアイヌ民族の子どもが1922(大正11)年5月に東京へと移り住み、同じ年の9月に19歳で亡くなったのです。わたしは、アイヌ神謡集を初めて読んだときに、そういう背景があったことを知りませんでした。
 知里幸恵以外にも、アイヌ民族として誇りを持って生き抜いた人たちがいます。違星北斗(1902 ~1929年)は、『コタン』(1930年)を発刊し、アイヌ復興への思いを和歌に託しました。知里幸恵の弟である知里真志保 (1909~1961年)は、アイヌ語をはじめアイヌ民族文化の保存と整理に努めました。これらの人たちは、誇りを持って生き抜いた人たちのほんの一部です。吉田菊太郎の憂いを乗り越え、現在も、アイヌ民族としての誇りを引き継いで生きている人たちがたくさんいます。

3.現代の課題につなぐ

 このような流れを受け、第二次世界大戦後も取り組みは進みました。詳しくは次回に譲りますが、政府は「ウタリ対策事業」を実施するとともに、1997(平成9)年には「アイヌ文化振興法」、2019(令和元)年には「アイヌ民族支援法」を制定してきました。これらのいずれも、上に述べてきたようなアイヌ民族に対する日本政府の同化政策を反省し、先住民族としての権利を十分に認めるものではないという意見もあります 。次回は、現代的課題を中心に論じます。

 本稿執筆にあたり、幕別町教育委員会の担当者にアドバイスを頂きました。ここに記すとともに感謝したいと思います。なお、本稿の最終的な責任は森にあります。

【参考・引用文献】

  • 文化庁ウェブサイト「ぶんかるNews002」(2021.8.3)
  • 中川 裕氏(千葉大学文学部教授)「北海道の激ムズ地名「重蘭窮」どうやって読む? アイヌ語の地名は基本的に地形を説明している」(東洋経済オンライン 2021.2.12)
  • アイヌ文化振興・研究推進機構『アイヌ民族:歴史と現在―未来を共に生きるために―』(第6版 アイヌ民族文化財団ウェブサイトより 2015.7)
  • ノエミ・ゴッドフロア氏(フランス国立東洋言語文化学院日本言語文化研究所)「明治時代におけるアイヌ同化政策とアカルチュレーション」(国際交流基金ウェブサイト)
  • 「〔旧〕北海道旧土人保護法について」(北海道ウェブサイト)
  • 青空文庫
  • 東村岳史氏(名古屋大学大学院国際開発研究科教員)「いま、なぜ「アイヌ新法」なのか : 「日本型」先住民族政策の行方」(nippon.comウェブサイト)

*1:アイヌ民族と和人
 アイヌ民族の歴史を意識して、奈良や京都、東京に成立した政権について考えると、さまざまなことが違って見えてきます。たとえば、アイヌ民族との関係で、それ以外の日本人を一括するとき、和人という言葉が使われます。弥生時代以前に日本列島にやってきたのは、アジア各地のさまざまな地域に住んでいたさまざまな民族だと言われます。その後、奈良時代や平安時代から始まる政権を担ってきたのは和人と呼ばれるグループです。江戸時代のさまざまな身分の人たちは、だいたい和人だったということができます。現代では、さまざまな国からさまざまな民族の人たちが日本にやってきていますが、主流となっているのは和人だと言えるでしょう。ところが、日本に住む和人の多くは、ふだんから自分たちが和人だとは意識していないかもしれません。「日本は単一民族だ」という発言をする人などは、その典型です。沖縄の人たちは、和人のことを「やまとんちゅ(大和人)」と呼びます。沖縄から日本の歴史を考えることによって、これまた異なる歴史と社会が浮かび上がります。
*2:「同化政策」について
 同化政策とは、支配集団が被支配集団を自分たちの文化や制度に従わせようとする政策を指しています。しかし、同化政策という言葉の使われ方は幅広く、支配集団の言語を習得することだけをもっぱら指すという場合もあれば、言語・名前・生活様式など幅広く文化をすべて支配集団の通りにさせることを指す場合もあります。この後者は、民族浄化政策とも呼ばれます。民族浄化とは、特定民族の文化全体をなくしていこうとする政策で、住んでいる場所から特定の民族などの集団を排除し、追い出し、住めないようにすることを含みます。ジェノサイドという言葉もありますが、こちらは「集団虐殺」と訳されることも多く、民族集団の生命そのものを直接に奪うというところに力点があります。
*3:「氏名」について
 そもそも、和人の間に「氏名」という枠組みが創られていったのは明治維新からです。江戸時代まで、和人の名前はさまざまでした。武士も、「氏名」という枠組みではありませんでした。たとえば、江戸時代の名奉行として知られる大岡忠相(1677~1752年)のフルネームは、大岡越前守忠右衛門忠相となります。忠相は諱(いみな)であり、この諱はもともと忠義(ただよし)でしたが、後に忠相となりました。諱で本人に呼びかけることは失礼とされていましたので、彼が「忠相」と生前に呼ばれることはほとんどありませんでした。忠右衛門は通称です。通称は求馬から始まり市十郎と変化し、忠右衛門となりました。ですから、生前に彼が「大岡忠相」と呼ばれることなどなかったのです。諱の忠相を勝手に使って、わたしたちがいまの氏名という枠組みに当てはめて彼を呼んでいるのです。一方、百姓身分にも多くの場合、名字はありました。ただ、公的な場所で名乗ることはできませんでした。明治時代になって1870年に「平民苗字許可令」が出ても、人びとの多くは名字を届け出ませんでした。公的に名字を明かせば処罰されると思っていたからです。「氏名」という枠組みで戸籍を編成し、すべての国民を管理しようとした政府にとって、これは見逃せないことです。そのため、のちに「苗字必称義務令」(1875年)などを出し、名字を義務づけました。
 このように、江戸時代までの名前は、①氏名という枠組みではなく、②成長とともに変化し、③さまざまな要素を含んでいた、ということになります。そして、それらを一括して管理するために、明治時代になって「氏名」という制度が創られていったのです。「氏名」という制度の下では、生まれたときにつけられた名前を一生変えることができず、「氏名」以外の要素を使うこともできません。こういう枠組みの名前制度をもっている国はほとんどありません。わたしたちは、氏名という制度一つをとっても、明治時代に作られた枠組みに縛られているのです。そのため、外国生まれの人でも、日本国籍を取得するなら「氏名」という枠組みにあわせるよう求められます。「帰化」とは、こういう面も含めて日本の社会や制度などに従うことを認めるという制度だと言えます。

学校におけるカミングアウトと自己開示(その2)

2023東京レインボーサミット(2023年4月、東京都)

 前回は、部落差別などとも関連して、同和教育の歴史のなかで議論されてきたカミングアウトについて論じました。カミングアウトには、いくつかの性格分けがあり得ると述べて、①助けを求める、②親友に嘘をつきたくない、③自分を捉え直せたから語る、④自分という事例をとおして社会的問題を語る、といった分け方をしました。学校における自己開示などについては、この連載の第7回や第8回でも述べています。ここでは、LGBTQに関わる問題に立ち戻って、カミングアウトについて考えてみます。

1.部落差別等とLGBTQとの違い

 部落差別とLGBTQとの間にはいろいろな違いがあります。その一つは、部落差別の場合には、家族みんなが被差別の立場になることがほとんどであるのに対して、LGBTQに関わっては、ほとんどの場合、LGBTQに属するのは個人だけであり、親などの家族は性的マイノリティではないということです。
 そして、しばしば親は、LGBTQの立場にある人にとって大きな厚い壁となります。親がLGBTQの本人を否定したり、産んだ自分、育てた自分を責めたりすることが少なからずあるのです。この点で、部落差別に関わって被差別部落出身の子どもに関わる問題を保護者と話し合うときとは異なる配慮が必要です。この点を考慮して、政府関係の文書の一つ『生徒指導提要【改訂版】』(2022年) でも、「性的マイノリティ」に対する学校の対応のあり方について論じた箇所で、たとえば次のように述べています。

 性的マイノリティに関する大きな課題は、当事者が社会のなかで偏見の目にさらされるなどの差別を受けてきたことです。少数派であるがために正常と思われず、場合によっては職場を追われることさえあります。このような性的指向などを理由とする差別的取扱いについては、現在では不当なことであるという認識が広がっていますが、いまだに偏見や差別が起きているのが現状です。

(文部科学省『生徒指導提要【改訂版】』(2022年)264ページ)


他の児童生徒や保護者との情報の共有は、当事者である児童生徒や保護者の意向などを踏まえ、個別の事情に応じて進める必要があります。

(同上、265ページ)


 保護者が、その子供の性同一性に関する悩みや不安などを受容している場合は、学校と保護者とが緊密に連携しながら支援を進めることが必要です。保護者が受容していない場合にも、学校における児童生徒の悩みや不安を軽減し問題行動の未然防止などを進めることを目的として、保護者と十分に話し合い、支援を行っていくことが考えられます。

(同上、266ページ)

 ただ、これだけでは具体的にどう対応すればよいのか、はっきりとしないままでしょう。以下では、カミングアウトに焦点を合わせつつ、できるだけ具体的な対応が分かりやすいように述べていくつもりです。
 親から否定されることはきついものです。そのため、「保護者へのカミングアウト」はいちばん最後でいいと言われます。しかし、一方で、親が味方になってくれるならば、これほど強い味方はないかもしれません。この振れ幅は大きいと言わなければなりません。
 この点を考えるとき、学校の果たせる役割や責任は重要です。子どもから相談を受けた教職員は、可能な範囲で他の教職員にも情報共有し、学校のチームとして取り組むことが望ましいと考えられます。しかしこれも、本人の意思を尊重することが最優先されなければなりません。まずは、相談を受けた教職員が相談者と信頼関係を築き、そのなかから次の手立てを打つ必要があります。場合によっては、医療機関との連携 が必要になります。

2.学校でのLGBTQのカミングアウト

 学校でのLGBTQの生徒のカミングアウトは、多くの場合、信頼できる一人か数人の友だちから始まるようです。大学生などから聞いていると、このカミングアウトは「①助けを求める」というよりも「②親友に嘘をつきたくない」つまり、信頼しているから話すという性格の方が強いと思います。前回の説明に従えば、第1のカミングアウトよりも、第2のカミングアウトという性格が強いということです。
 教員にまずカミングアウトするという場合には、学校のあり方について変えてほしいと思っている場合が多いようです。たとえばトランスジェンダーの人が制服やトイレなどについて変更を求める場合です。これは、第1の「助けてほしい」という性格が強いと言えるでしょう。「助けを求める」というよりも「しかるべき対応を求める」と言った方が的確かもしれません。この①②のカミングアウトを受けた生徒や教員がアライ となるかどうかはその後を大きく左右します。教員の場合には、日頃からの言動がアライであると示すことにつながるようありたいものです。たとえば、さりげなくレインボーリストバンドを着けている、レインボーバッジを着けている、などです。それ以前のこととして、日頃からの言葉遣いや話題がLGBTQへのハラスメントになっていないかも重要です。
 LGBTQのカミングアウトを考える場合、「③自分を捉え直せたから語る」や、「④自分という事例をとおして社会的問題を語る」という性格が強いカミングアウトをどう考えるかが特に重要ではないでしょうか。①②と③④の間には、重要な違いがあるように思えます。①②のカミングアウトでは、一人から数人を相手とします。それに対して、③④では大勢を前にカミングアウトすることが多くなります。特に「④自分という事例をとおして社会的問題を語る」という性格の強いカミングアウトでは、聴き手のなかにどんな人がいるかあまり分かっていない状態で自分のことを語ることになります。それでも語るというのはなぜでしょうか。いくらかのリスクがあったとしても、それを超えるプラスがあると確信できるからではないでしょうか。また、リスクが現実のものとなった時にも、受けとめてくれるコミュニティが自分にあるからではないでしょうか。
 このように考えると、①②と③④の間に必要となるものは、大きく分ければ三つあると思います。
 一つは、自分と同じようなLGBTQの人たちとの出会いです。なかまのコミュニティがあると思えることによって、多くの人に自分を語れるようになるのです。さらに言えば、自分が苦しい思いをしていたときに話してくれた先輩のような存在に自分もなれるかもしれないと思えるからこそ、語れるようになるのです。
 言い方を変えれば、①②のようなカミングアウトを受けた側、とりわけ教員は、その生徒といわばモデルとなる人との出会いを設定することが望まれるということです。先に述べたように、部落差別や在日外国人などへの差別であれば、家族をはじめ、たいていの場合、まわりに同じ立場の人がいます。ところが、LGBTQの場合には、そういう人が周りにいないことの方が多いのではないでしょうか。一人で苦しい思いをしているとき、同じ経験をしてきた人と出会うことは何よりの力になります。特にその人が自分と同じ状況を乗り越えてきたという人ならば、その人から学べることはたくさん出てくるでしょう。その人の存在そのものが希望なのです。学校で言えば、このようにしてつなぐことは、まず教職員に期待されることでしょう。
 二つには、LGBTQについての学習です。以前に比べれば、LGBTQは社会的に認知されるようになってきましたから、本人が自己否定の思いを強く持つことは減ってきていると思われます。しかし、LGBTQユースは自殺念慮が高い という指摘もあります。周りの生徒たちも偏見にとらわれている場合が多いと言わなければなりません。LGBTQの生徒本人だけではなく、同じクラスの生徒たちがLGBTQについて正しい認識をもつことが必要です。なにより、「あいつはヘンだ」とか「きもい」とか言われたりすることのないようにしなければなりません。仮にそういう発言が出たとしても、アライとなった仲間たちがその発言に対して向き合える存在になってほしいものです。
 このための学習では、医学的知見だけではなく、社会的な従来からの差別の実態 、それを乗り越えようとしている、いわゆる当事者団体の取り組みを学ぶ必要があります。さらに、LGBTQの本人に来てもらって、堂々と生きている姿に触れることが不可欠の要素です。学級のなかですでに、LGBTQの生徒が全員に対してではなくともカミングアウトしている場合には、その本人たちと相談しながらこの学習を進めることが必須です。最近では、LGBTQに関わる学習を支援する団体 も増えてきています。そのなかでは、LGBTQ本人たちからのメッセージ も出てきます。
 三つには、クラスのなかでさまざまな自己開示がやりとりされるような状況をつくり出すことです。このための具体的方法は、この連載の第7回で述べたことが参考になるでしょう。生活ノートや班活動などで、生徒同士が暮らしをとおしてつながることを大切にするのです。
 このように取り組んでくれば、教室で起こるさまざまな自己開示とLGBTQのカミングアウトが絡み合ってきます。教室にはさまざまな子どもがいて、自分の生活のなかで悩みとともに暮らしています。でも、そういう悩みをいつも出せている人ばかりではありません。出せば孤立するのではないか。周りからいじめに遭ったりするのではないか。そもそも自分の悩みは自分が悪いのであって、誰かに助けを求める筋合いのものではない。大学などで授業を担当してきて、そんな風に感じながら過ごしている人もまだまだいるとわたしには思えます。

3.LGBTQが光となって

 LGBTQの生徒がカミングアウトすることにより、他の生徒も自分の問題を捉え直せるようになることがあります。自分が悪いと思っていたところから、社会のあり方にこそ問題があると捉え返せるようになります。実はそういう変化を起こせるのは、LGBTQの人たちだけではありません。従来から、部落出身の生徒や在日韓国・朝鮮人の生徒がそういう役割をしてきた面があります。さらに言えば、学級のなかでさまざまな生徒が自分のことを捉え直せるようになっていくならば、だれもがそういう役割を果たせるようになることでしょう。
 ただ、くりかえしになりますが、カミングアウトをめぐって最も大切にされるべきことは、周りに強いられて行う筋合いのものではないということです。それぞれの場面や相手との関係がどのようなもので、その関係をどのようにしたいのか、そのような点に関する本人の判断を土台に据えて進められなければなりません。教職員は、的確な情報提供をする責任がありますが、本人が言う必要がないと感じている場面でカミングアウトを求めるのは間違いだということです。

【参考・引用文献】

  • 「生徒指導提要(改訂版)」(文部科学省ウェブサイト 令和4年12月改訂)
  • 「LGBT当事者が安心して行ける医療機関とは?【vol.2】医療現場の多様な性を考えよう ―患者がLGBTだったら、どう対応する?―」(メディカルサポネット 2019.12.4)
  • Job Rainbow編集部「アライ(Ally)とは?【LGBTQでなくても、今日から活動できる】」(JobRainbowMAGAZINE 2022.10.10)
  • 認定NPO法人ReBitアンケート調査「LGBTQ子ども・若者調査2022」(PRTIMESウェブサイト 2022.10.20)
  • NHKウェブサイト「LGBT当事者アンケート調査~2600人の声から~」
  • ReBitウェブサイト

学校におけるカミングアウトと自己開示

1.プライバシーとは何か?

 自らの生活を綴り語ることは部落解放をめざす教育で大切にされてきましたが、これに反対する声もありました。反対者の意見にはいくつかありました。ひとつは、プライバシーに反するということです。たとえば学校の教員などが、子どもの私生活にそんなに踏み込んでよいものなのかという意見です。もうひとつは、生活苦など自分の努力で乗り越えるべきものだという考え方です。たとえば「ほんとうに苦労した人間は、苦労したことなど語らないものだ」という人がいます。
 このうち、ひとつめのプライバシーに関する意見は、基本的に現代的プライバシー観 を理解できていないために発生していると言わなければなりません。かつてはプライバシーと言えば「自分の生活をのぞき見られない権利」でした。情報化が進むなかで、そのような消極的捉え方では情報化社会を生き抜けないということで、1980(昭和55)年にOECD(経済協力開発機構)が「プライバシー8原則」を打ち出し、そのなかで「自分に関する情報は自分でコントロールすることができる権利」と捉えなおされました。OECDのプライバシー8原則については、文部科学省の『人権教育等の指導方法等の在り方について【第三次とりまとめ】』の「指導のあり方編」(第2章第2節4(2))同「実践編」(2.2.3.(3)参考) で紹介されています。この8原則は、2013(平成25)年に改訂 されていますが、その「第2部 国内適用における基本原則」にあるとおり、基本精神に変わりはありません。このように捉えれば、もしも誰か他の人に関する情報を本人の了解なく他の別な人に提供するとすれば、それはプライバシー権の侵害だということになります。こう考えれば、カミングアウトとアウティングの違いが明確になり、アウティングがなぜ問題かも明らかになりやすいでしょう。
 もうひとつの「苦労人」のお話は、苦労を個人的な問題と捉えるか社会的問題と捉えるかという問題に関わります。現代社会では、貧困なども社会の問題だ とされるようになりました。学校も貧困問題などにどう関わるかが重要になり、スクールソーシャルワーカーなどが配置され、「チーム学校」としてこれに取り組む ことが提唱されるに至っています。以下では、社会的なものだという考え方に基づいて論じています。

性的指向や性自認を第三者に暴露する「アウティング」を禁止する都道府県初の条例を全会一致で可決した三重県議会(2021年3月)

2.自分を綴り語るさまざまな場面、さまざまな意味

 生活を綴り語る意義は一色ではありません。少なくとも、次の4種類ぐらいには分けて考えた方が整理しやすいといえます。人はどういうときに自らを綴り語るのかという問題です。

①助けを求める

 人が自分の困難について綴ったり語ったりする第1の場面は、誰かに助けを求めるときだと言えます。わかりやすいのは、お金を借りようとするときでしょう。お金を誰かに借りようとするとき、わたしたちは自分の直面している困難を語ります。それによって誰かから借財しようとするのです。お金の問題だけではなく、何らかの意味で助けを求めて、わたしたちは自分のことを語ったり綴ったりします。たとえば、精神的支えです。
 この裏返しが、自分の苦労を自慢げに語るときです。困難な状況を何らかの方法で自力により乗り越えたというとき、その苦労話は自慢話に変わります。「ほんとうに苦労した人間は、苦労したことなど語らないものだ」というのは、苦労を乗り越えた本人はそんな話をしようとは思わないものだし、周りの人もそういう自慢話は聞きたくないということでしょう。ここでは、「苦労」は個人的な問題と捉えられています。自慢話をするのは、その個人的困難を自分は乗り越えたと言いたいときです。助けを求めることは、自分の直面する困難を個人的な問題とみている場合でもありえます。苦労自慢と助けを求めることというふたつが互いに「表裏」の関係になるのは、その困難な状況を個人的なものとして捉えている点で共通している場合です。
 LGBTQの人たちの体験を聞いていると、「自分は何者なんだ」と悩んでいる間は、苦しくてなかなか人に語れないという例が多いように思います。その段階でも語るときがあるとすれば、何らかの意味で助けを求める場合だと言えるでしょう。
 このような意味で誰かからその人自身のことを相談されたときは、「自分にできることは何だろうか」と思いながら話を聴くことになるでしょう。語ってくれた本人に対して直接「自分にできることがあれば、言ってほしい」などと返すことになるかもしれません。また、状況にもよりますが、「あなたの責任ではない」というメッセージを返すことが重要です。

②親友に嘘をつきたくない

 自分の直面した困難を綴ったり語ったりする第2の場面は、「黙っているのが嘘をついているようで嫌だ」という場面です。親友と呼べる人ができたとき、その人にだけは自分が母子家庭で育った、被差別部落出身である、在日韓国朝鮮人だといったことを語る場合があります。親友と思える人に対して何か隠し事をしているのは、相手に対して申し訳ないという気持ちになっているということです。語ることで相手が自分を差別したり、自分から遠ざかったりする恐れもあります。しかし、そのように考えること自体が、相手を信頼していないことにもなりますし、語ろうとする相手に対しては「そんなやつじゃない」と思えていることが多いものです。それで語るのです。これは別に助けてほしいと思っているわけではありません。語ることが誠実だと思えるから語るのです。
 こういうときは、語られた側としても嬉しいものです。自分を信頼したから話してくれているのだと感じられます。返す言葉も「話してくれてありがとう」ということばが基本になりそうに思えます。より深い関係を期待して語っている面がありますから、それに応えるとすれば「じゃあ、もっと信頼し合えるようになるね」と信頼に応え、「実は自分もこんな状況のなかで生きてきたんだ」というふうに、自分のことを自己開示して返すという場合もあるでしょう。一人が語ったことに対してそれと重なるように相手が自分のことを返すというやりとりを「自己開示の返報性の原理」などと呼びます。
 こういうときに語った側として聞きたくない感想は、「そんなの関係ない。これまでと同じでいこう」に終わる感想だといいます。自分が悩んできたことそのものを否定されているような気持ちになるからです。もっとも、それまでの関係に十分満足しており、このことを話せば相手が離れていくのではないかと心配しつつのカミングアウトである場合には、「これまでとかわらない。あなたはあなただ」という返答に「ほっとした」という人もいます。

③自分を捉え直せたから語る

 自分を綴り語る第3の場面は、自分を捉えている問題が実は社会的な事柄だったのだと気づいたときです。学校教育などのなかで、子どもたちが自分自身のことを綴ったり語ったりする一番多い場面はこれであるように思えます。たとえば、学校で人権学習をして、その結果、自分を取り巻く課題がはっきりと見えてきたというタイミングがあります。先生の話を聴いて社会問題と自分がつながったという例は少ないかもしれません。多くの場合は、同級生たちの感じたことを聴き、同級生の生いたちや暮らしを聴くなかで自分の背景にも社会的な問題があると感じ取れるようになるものです。この場合には、自分のことを語っている人自身が、気づかせてくれたみんなに「ありがとう!」という気持ちで語っているのではないでしょうか。
 聞かせてもらっている側としても嬉しいでしょう。そして「一緒に乗り越えよう」「共に闘おう」と言いたくなるのではないかと思います。ここで起こっていることは、単なる「自己開示の返報性」によるものではなく、「自分自身や自分の家族のせいだと思っていたけれども、社会に原因があったのだ」と、自分を捉え直す活動が、広がっていく波のように学級などの集団で相次いで生まれていることによるものです。
 これは、ジュディス・ハーマン(1942~)が『心的外傷と回復』(中井久夫訳、みすず書房、1994年)で提唱した「トラウマからの回復3段階説」 にも通じることがらです。その第3段階がクラスで発生しているような状態です。ただ、大きく異なるのは、ジュディス・ハーマンが提唱した集団は基本的に同じような困難や体験を抱えた人たちであるのに対して、学校のクラスというのはさまざまな子どもたちが一緒にいる場所だという点です。ジュディス・ハーマンの提唱している第3段階よりもむずかしい取り組みをしているのだということになります。ただし、もう一つの違いは、ジュディス・ハーマンが対象としている問題よりも傷は浅い場合が多いという点にもあります。しかし、いろいろな子どもがいる集団で取り組もうとしているのだという点は忘れてならないことでしょう。
 この、ある意味でむずかしいことがらがクラスで発生するには、人権学習などが重要な役割を果たします。次に挙げるような、ゲストなどによる体験談が大きな意味を持つこともあります。

④自分という事例をとおして社会的問題を語る

 第4の場面は、自分という事例をとおして社会的な問題を訴えようとするときです。社会的な課題を一般的・抽象的に語っても、なかなか多くの人の心をつかむことができません。個人の体験してきたことをとおして語るとき、社会問題の意味が人びとの心に届きやすくなります。また、一面的なステレオタイプに止まらない形で問題を捉え直すことも可能になります。
 この例としてあげるべきは、被爆者の人たちが被爆体験やその後の人生を語る場面です。わたしの知っている人物で言えば、被害者である被爆者の人のなかに、爆心地を逃げるときに助けを求める人の手を払って逃げたという体験を語る人 がいます。親戚から「うつるから」と家に入れてもらえず、助けてもらえなかったと語る人 がいます。
 こういう話を聴いたときには、「ありがとうございます」と思いつつ、聴き手として自分の体験のなかに重なることがらを見つけ、それを言いたくなるものです。それは被爆とは異なる体験ではあれ、「助けを求める人の手を振り払って逃げた」というような経験です。たとえばいじめられている友だちを見捨てたという経験です。あるいは、自分がいじめられたときに、友だちに相談したら「おまえも直した方がいいところがある」とだけ返されたりしたときのことです。語ってくれた被爆者の人に返したくなるのは、そういう体験とともに、「自分も仲間と一緒に生きていきます」といったことばになりそうに思えます。これらの思いは、話を聞いてすぐに出てくるわけではないことも多いでしょう。自分のなかで咀嚼して、消化することによって初めて生まれる思いです。
 学校での人権学習では、被差別部落出身者や在日韓国朝鮮人、被爆者や障害者、LGBTQの人などさまざまな人が語ってくれることがあるでしょう。ときとして教員が、その人たちに「頑張ってください」と返すことをよしとしているように思えることがあります。そうではなく、子どもたちのなかに、「特にこの子に聴いてほしい」と教員が思う子がおり、そのこの思いを受けとめるまわりの輪が広がることを願って聴き取り学習を位置づけたいものです。

3.分類する理由

 もちろん、この4種類への分類は手がかりに過ぎません。分類する目的はいろいろあります。ひとつは、これらを手がかりとすることによって、自分がカミングアウトする場合であれ他の人からカミングアウトされた場合であれ、その意味を的確に把握し、的確に対応しやすいからです。
 また、4種類のあいだには、さまざまなグラデーションがあります。たとえば、学級担任をする人が年度初めに自分の生いたちやそこにねざした願いを語ることがありますが、これは社会的な問題を訴えるというだけではなく、子どもたちに生いたちや体験を綴る呼び水となることを願っているからだと言えるでしょう。そうすることにより第1や第2の類型で子どもたちから自分のことが出てきやすいようになるかもしれません。
 また、このような整理につながったのは、部落解放をめざす教育をとおしてなので、LGBTQに関わる取り組みでは、別な点がポイントになる可能性があります。ここでは、学校教育に論点を絞って整理しようとしてみました。以前に、もっと広く社会で起こるカミングアウトについて論じた ことがあります。それも参考にしていただけると幸いです。

【参考・引用文献】

  • 森 実「アイデンティティとカミングアウトについて」(冊子『わたしをいきる』(2012年)まえがきから 大阪府ウェブサイト)
  • 文部科学省ウェブサイト
  • 堀部 政男氏、新保 史生氏、JIPDEC氏、(野村 至)氏 仮訳「プライバシー保護と個人データの国際流通についてのガイドラインに関する理事会勧告(2013)」(日本情報経済社会推進協会ウェブサイト 2014.5.7)
  • 政府広報オンライン「“こどもの貧困”は社会全体の問題 こどもの未来を応援するためにできること」(2023.3.24)
  • 山野 則子氏「担任、養護教諭、ソーシャルワーカー…『チーム学校』で不登校激減。家庭の貧困や社会的孤立、虐待を防ぐ『学校の潜在力』を引き出す研究開発」(社会技術研究開発センターウェブサイト)
  • フェリアンウェブサイト「トラウマからの回復の三段階モデル(ハーマン、1994)」
  • YouTube広島平和記念資料館公式チャンネル
  • 森 実「アイデンティティとカミングアウト~自己・他者・社会との関わりのなかで~」(冊子『わたしをいきる』(2012年)大阪府ウェブサイト)

LGBTQとSOGIESC(その2)……制度的問題とカミングアウト

①法律的な結婚などをめぐる問題

 LGBTQにかかわって検討すべき課題がさまざまにあります。法律的な結婚が認められていないという問題も重要です。法律的に結婚が認められていないことにより発生する不利益 は数多くあります。不利益の具体的な事例 も報じられています。自治体によっては同性パートナーシップ を認めている例がありますが、結婚は国としての法律が整備されていないため、自治体では対応できていません。同性婚などLGBTQの権利について、世界各国では取り組みが進み、法律 などもつくられています。

 2021(令和3)年3月17日、札幌地方裁判所は同性婚について重要な判決 を出しました。「同性同士の結婚を認めないのは憲法違反である」という判決です。結婚制度の根本は子どもを産み育てることにあるとした国側の主張に対して、結婚制度の本質はカップルが継続して共同生活を営むことにあると述べました。憲法第24条の解釈など課題はありますが、同性婚を認めることについて大きな一歩を踏み出したといえます。

札幌地裁での判決後、記者会見する原告(2021年 札幌市)

 世の中には、同性同士の結婚を認めることに抵抗を感じる人もいます。世界には同性婚を認めている国も少なからずあり、特にG7諸国ではすべて認めている なかで、日本で同性婚への結婚に抵抗を感じることがあるとすれば、それは明治時代以後の「家(イエ)制度」に縛られているからではないかと考えられます。「日本の古来の伝統」などと呼ばれるものの多くができたのはこの時期です。この連載の第8回の最後の箇所でも触れておきましたが、明治以後の差別助長政策につないで考えることが求められます。各種のアンケート調査によると市民の間では過半数の人たちが賛成している にもかかわらず、一部の人びとの間で抵抗が強いのも、つまるところ「家(イエ)制度」を崩すことにつながるという点に不安や恐怖があるのかもしれません。
 LGBTQをめぐって法律的・制度的な問題は、ほかにもさまざまにあります。この点は読者に委ねることとし、ここでは、LGBTQに関わって重要になる問題の一つ、カミングアウトとアウティングについて考えたいと思います。

②カミングアウトとアウティング

 カミングアウトとは「coming out of closet=押し入れから出てくる」という意味合いから使われるようになったことばです。一方、アウティングとは、誰かのSOGI(性的指向・性的自認)など差別につながりやすいその人に関する情報を本人の了解や許可なく他の人が伝えることを指します。アウティングによる被害は大きく、ときには被害者が自死するなどにつながります。そのため、アウティングは「してはならない行為」とされるようになりました。2022年から全面施行された「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律 」(以下、パワハラ防止法)の第9章「職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して事業主の講ずべき措置等」と関連して厚生労働省の出した文書「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和2年厚生労働省告示第5号)【令和2年6月1日適用】 」のなかで、「労働者の性的指向・性自認や病歴、不妊治療等の機微な個人情報について、当該労働者の了解を得ずに他の労働者に暴露すること」、つまりアウティングをパワハラの事例としてあげています。
 カミングアウトは、1970年代にアメリカで同性愛者が「自分は同性愛者である」と他の人に告げることを指していました。アメリカでは、肌の色による差別など見ればわかる(わかったつもりになりやすい)特性に基づいた差別が中心だったため、それ以前には自分から自分の被差別性を打ち明けることがあまり大きな問題になりませんでした。多くの場合、自分から言うまでもなく周りにわかることだったからです。実際には、肌の色が「白」い「黒人」 もいますが、そのことについて正面から大きく取り上げられることは少なかったと思われます。そのような歴史的経過とも関連して、アメリカでは同性愛者に関わって初めて広くカミングアウトやアウティングの問題が大きく取り上げられることになったといえます。

③部落差別など日本におけるカミングアウト

 いっぽう日本では、部落差別に関連して自分が部落出身であることを告げることや、誰かによって暴かれることが重要な問題としてくりかえし論じられてきました。近年でいえば、被差別部落の地名や出身者の名前などをネット上にアップすることに関わる裁判があり、被差別部落の地名や住居を含む風景などを載せた映像が、YouTubeを経営するGoogleによって削除される という動きがありました。最近新しく制作された『破戒 』という映画がテーマとしている一つもその点です。瀬川丑松は、親から「部落出身であることを明かしてはいけない」と教育されてきました。この戒めを破るということがこの映画のテーマです。映画では、彼が部落出身であるということを隠しながら、小学校の教員として働き、生きていくことについて悩み考える姿が描かれます。原作となった島崎藤村の同名小説の最後は丑松が子どもたちに自分が部落出身であることをカミングアウトするのですが、子どもたちに「隠していた」ことをわび、アメリカのテキサスへと移民するという終わり方でした。この終わり方に対する批判がずっとあり、新作の映画では違った形が追求されています。
 在日韓国・朝鮮人の場合も、特に2世以後については、日本風の通名を使っている限り、外見やことばからは在日であることがあまりわからず、自分が在日であることを知られることなく暮らせる可能性がありました。ここでも、部落出身者と同様にカミングアウトが重要なテーマとなってきました。
 教育実践のなかでは、部落出身者や在日韓国・朝鮮人のカミングアウトがくりかえし取り組まれてきました。このようなことから、日本ではカミングアウトに関する蓄積がかなりあったということができます。
 わたしの知る限りでは、そういう経過のなかで、日本ではカミングアウトについてある程度整理もされてきました。もっとも、そこでは「カミングアウト」ということばではなく、「出身者宣言」とか「本名宣言」、あるいは「立場宣言」といったことばで語られることが多かったといえます。また、被差別の立場にある人だけではなく、さまざまな生活を抱えている人たちが自分のことを綴ったり語ったりすることも位置づけられてきました。
 以前から論じられてきたそうした概念について、1960年代頃から次第にその意義が整理されていきました。いま、その頃から整理されてきたことを述べると、どのようになるか。この点については、次回以後で述べたいと思います。論じるにあたって問題の枠をやや広げ、「生活を綴り語ることの意義」として述べていく予定です。

【参考・引用文献】

  • NPO法人EMA日本ウェブサイト「結婚による法律上の効果と根拠法の一覧」「不利益の実例」
  • 内閣府男女共同参画局資料「地方公共団体におけるパートナーシップに関する制度の状況」(令和4.2.7)
  • プライドハウス東京ウェブサイト
  • 安田 聡子氏(インターナショナル&ライフエディター)「『同性婚を認めないのは、憲法に違反する』判決はどう導かれたのか?」(HUFFPOSTウェブサイト 2021.3.22)
  • ウェブサイト「公益社団法人Marriage For All Japan – 結婚の自由をすべての人に」
  • Magazine for LGBTQ+Ally PRIDE JAPANウェブサイト「多くのメディアが同性婚やLGBTQの権利に関する世論調査を一斉に実施し、賛成が最高で72%、20代では9割超にも上りました」(2023.2.20)
  • e-Govポータル(https://www.e-gov.go.jp
  • 厚生労働省ウェブサイト
  • 「PASSING白い黒人」(映画.com 2021.11.10)
  • 「ユーチューブの被差別部落の地名や風景の動画を削除 グーグル」(NHKウェブサイト 2022.12.2)
  • 映画「破戒」特別サイト(東映)

LGBTQとSOGIESC(その1)……基本的概念

ブラジルのリオデジャネイロで開かれたLGBTQ文化をたたえるプライドパレードに参加する人たち(2022年11月)

 今回から数回にわたってLGBTQをめぐる課題を取り上げます。別な言い方をすれば、SOGIESC(ソジエスク)に関わる課題ということになります。これは、Sexual Orientation and Gender Identityに、ジェンダー表現(Gender Expression)および性的特徴(Sexual Characteristics)を加えた言葉ということになります。この領域について国際的には、2006年に「ジョグジャカルタ原則 」が出され、それを更新するかたちで2017年には「ジョグジャカルタ原則プラス10 」という文書が発表されています。これらは、国際人権基準を土台にLGBTQの人権を整理・発展させたものです。日本学術会議も、日本の現状に即して2017年に提言 を発表し、さらに2020年にも提言 を出しています。
 これらの文書からもわかるように、この領域はとくに問題の捉え方がどんどん発展しています。そこで、まずは概念についての整理をしておきたいと思います。いずれの概念も急速に変化してきており、ここでの紹介内容も変化することは必至なのですが、それでも取り上げることには意味があると考えています。それは、以下に挙げる諸要因により差別を受けやすい人たちがおり、しかも偏見やバイアスを含んだコメントがさまざまに出されているためです。状況をできるだけ的確に理解する上で、概念の的確な把握は不可欠です。ここでは、誤解が発生することのないよう努めつつ、できるだけ簡単にまとめようと試みています。
 なお、LGBTQは性的マイノリティとも言われます。このときの「マイノリティ」という言葉は、「少数派」と訳されることもありますが、より正確には「被差別者」のことをさします。たとえば、かつてアパルトヘイト下の南アフリカでは、白人が2割ほど、黒人が8割ほどを占めていましたが、数で言えば多数派の黒人の側がマイノリティグループと呼ばれました。差別されてきたのは黒人の側だからです。同様に、男性との対比で女性が「マイノリティ」と呼ばれることもあります。ここでも、女性がマイノリティとされるのは女性が被差別側にあるからです。また、「マイノリティグループ」(被差別集団)の対になる反対概念は「ドミナントグループ」(支配的集団)です。「マジョリティグループ」と呼ばれる場合もありますが、これも「多数派集団」という意味ではなく、「支配的集団」や「主流派集団」という意味です。

①ジェンダー(gender)とは何か?

 女性差別に関わってジェンダーという言葉がよく使われます。ジェンダーの辞書的定義は、多くの場合次のようになっています。
 第1にあげられるのは、欧米などの言語における文法上の性別システムのことです。欧米の多くの言語では、名詞の性別が決められています。しかも、それは生物学的なオスやメスとは関係なく定められています。そして、名詞の性別がどう定められているかによって、さまざまな文法的要素の変化が発生します。たとえば、ドイツ語では「太陽」は女性名詞とされ、「die Sonne」と綴ります。dieというのは女性名詞につく主格の定冠詞です。この定冠詞は、文のなかでの位置などによって主格・所有格・目的第1格・目的第2格(=1格・2格・3格・4格)と変化しなければなりません。女性名詞なら、これがdie/der/der/dieと変化するのです。一方、「月」はドイツ語では男性名詞とされ、「der Mond」と綴ります。derというのは、男性名詞に付く主格の定冠詞です。女性名詞と同様に、格によってこれもder/des/dem/denと変化します。英語なら、定冠詞は名詞の性別に関係なくtheで、格による変化もありませんからドイツ語ほど面倒はありません。英語は、ドイツ語などの言語が抱えているさまざまな文法的規則からある程度自由になった言語です。
 定冠詞の変化 というのは、ドイツ語文法のなかでも初歩中の初歩です。他にも言語におけるジェンダーの影響はさまざまにあります。ドイツ語などのヨーロッパ言語を学べば学ぶほど、この文法的な意味でのジェンダーに振り回されることになります。
 ドイツ語に対して、フランス語では、「太陽」のことを「soleil」というのですが、これがドイツ語とは逆に男性名詞になるのです。他方の「月」は「lune」で女性名詞です。つまり、ドイツ語とフランス語とで、「太陽」と「月」の性別が逆になっているのです。この二つの言語を比べるだけでも明らかですが、太陽や月の性別など、本来無用なものです。もしも太陽や月に人格があってドイツ語やフランス語ではこうなっているなどということを知ったら、おそらく「ほおっておいてくれ」と言うのではないでしょうか。
 ジェンダーとはこのように、性別についての決めつけであり、言われている側にとっては自由を束縛するものです。
 この意味から派生して、もしくはそれと並行して、人間の男性や女性についても「あなたは男なのだから○○しなければならない」などと決めつけていくことをジェンダーと呼ぶようになりました。たとえば「男は外で働き、女は家で家事育児をする」「男はたくましく指導力があり、女はやさしく人をケアする」「男らしい色は黒、女らしい色は赤」などということです。こうしてジェンダーのふたつめの意味が出てきます。それは、社会文化的な性のあり方をさすのです。
 1975年に国連により国際女性年が設定され、そのさいに「性別役割分業こそが女性差別の土台なのだ」という主張が広く発信されました。社会文化的な性の在り方という意味でのジェンダーという概念とその問題性は、この取り組みをきっかけに世界に広く受け入れられるようになったといえます。

②性的指向(sexual orientation)とは何か?

 性的指向とは、性的欲求を抱く相手が異性なのか同性なのか、などを指す言葉です。自分の性自認が女性で、同じ女性に性的欲求を抱く人をレズビアン(Lesbian)と呼びます。自分の性自認が男性であり、同じ男性に性的欲求を抱く人をゲイ(Gay)と言います。また、男性と女性両方に性的欲求を抱くという人は両性愛者(Bisexual)と呼ばれます。LGBTQなどというときの最初のLGBはこの三つを指しています。GLの順ではなく、LGの順になっていることについては、社会的な男性優位を問うという問題意識があるのだと聞いたことがあります。なお、異性に対して性的欲求を抱く人は異性愛者(heterosexual)です。
 このほかにも、相手の性別にかかわらず性的欲求を抱く可能性のある人をパンセクシュアル、誰に対しても性的欲求をほとんど(あるいはまったく)抱かない人をアセクシュアルと呼んでいます。同様に、誰に対しても恋愛感情をほとんど(あるいはまったく)抱かない人をアロマンティックと呼びます。
 性的指向という問題一つを取ってみても、このようにさまざまな人たちがいます。

③性自認/性同一性(gender identity)とは何か?

 生まれたときに社会的に割り当てられ登録された性別と、自分自身の性別についての主観的捉え方とのあいだにはズレが発生する場合があります。社会的に割り当てられた性別とは、日本に即して端的に言えば戸籍上の性別です。戸籍には女性と登録されていても、自分自身は男性だと感じているような場合があるということです。
 社会的に登録された性別と、自分の性別についての感じ方、という二つの間にずれが発生していることを性別違和(gender dysphoria)とよびます。性別違和は、生まれたときに割り当てられ社会的に登録された性別(assigned gender)と性自認(gender identity)の不一致を指します。アメリカ精神医学会のDSM-5-TR(精神障害の診断・統計マニュアル第5版のテキスト改訂版)によると、性別違和とは、「経験/表現された性別と割り当てられた性別との間の顕著な不一致として定義し、少なくとも6か月続」く場合を指します。「表現された性別」ということばについては、次の項目で説明します。
 割り当てられた性別と性自認とのずれはさまざまなかたちで発生します。そのうち、割り当てられた性別が男性で、性自認が女性であるという人をMale to Female(MTF)、逆に指定された性別が女性で性自認が男性という人をFemale to Male(FTM)と呼んでいます。また、指定された性別に違和感があってなおかつ男性と女性のいずれか一つの性自認に収まらない人をXジェンダー(ノンバイナリー)と呼んでいます。出生時に割り当てられた性別と異なる性別の性自認をもって生きている人々の総称がトランスジェンダー(transgender)です。なお、トランスジェンダーに焦点を合わせて日本学術会議が2020年にふたつめの提言を発表 しています。この提言は、2017年に出された「ジョグジャカルタ原則プラス10 」という文書を下敷きにしています。

④ジェンダー表現(gender expression)とは何か?

 「ジェンダー表現」もしくは「表現された性別」とは、服装・髪型・装飾品・化粧などの外観をどのように表現するか、動作・話し方・振る舞い方・名前・身分証明で自己のジェンダーをいかに表現するかをさしています。たとえば、社会的に割り当てられた性別や性自認がともに男性であっても、ジェンダー表現は女性であるという人もいます。このように、ジェンダー表現は個人の性自認と一致する場合もあれば一致しない場合もあります。

⑤セックス(sex)とは何か?

 では、セックスとは何を指すのでしょうか。ジェンダーが社会文化的性別であるとすれば、セックスというのは生物学的な意味での性別を指すといわれます。生物学的性別と言えば、男女という二分法の固定的イメージにとらわれるかもしれませんが、実際には男女それぞれに多様です。染色体レベルで、「xxの組み合わせが女性で、xyの組み合わせが男性」とされてきましたが、これ自体が間違いであるとわかってきました。実際にはxyの女性もいますし、xxの男性もいます。x染色体とy染色体だけによって性別が決められるわけではなく、さまざまな染色体と遺伝子によって性別が定まっていくのです。外性器についても、胎児として母体内で生きている間のどの段階でどのようなホルモンの照射を受けるかなどによって、さまざまな事柄が違ってきます。女性にも男性にも、さまざまな生物学的な特徴をもった人がいるということです。
 生物学的に身体面でさまざまな性的特徴(Sexual Characteristics)をもった女性や男性がいることを、英語ではDSDs(Differences of Sex Development:身体的性のさまざまな発達)と呼んでいます。
 DSDsと性自認は別物です。DSDsの人のほとんどは「自分は男である」とか「自分は女である」などの明確な性自認をもっているのであり、「性のグラデーション」や「第3の性」などという捉え方とは異なることに注意が必要です。DSDsの人たちについて「性のグラデーション」や「第3の性」といった説明を加えること自体に批判があります。同様に、以前は、「インターセックス」や「両性具有」などの概念が使われていましたが、これらはいずれも、誤解にもとづいており、偏見や差別を広げる恐れが大きいため、当事者団体はDSDsという概念を使うよう求めています

⑥SOGIESCとは何か?

 性的マイノリティを指す言葉としてLGBTQなどが使われてきましたが、この概念はそれぞれの当事者が自分たちのことを主張するうえで重要な役割を果たしてきました。一方で、それ以外の人たちにとっても、当事者としての意識を持ちやすくするために、SOGIという概念が提唱されるようになりました。SOGIとはSexual Orientation and Gender Identityの頭文字を並べたことばです。つまり、「性的指向と性自認」という意味となり、これであればすべての人がジェンダーに関わる自分の特徴を述べることができます。性的指向で言えば、自分の性自認とは異なる性別の人に性的欲求を抱く人は異性愛者ということになります。性自認で言えば、割り当てられた性別と性自認が一致している人のことをシスジェンダーという概念で呼びます。異性愛者でシスジェンダーの人は、自分のことを「ふつう」だと思ってきたかもしれません。自分たちを指す概念を自覚することによって、自分にも関わる課題として捉えやすくなる面があります。
 たとえば、同性愛者だという人に対して「いったいいつごろあなたは自分が同性愛者だと気づいたの?」などと質問を出す異性愛者がいたりしますが、そもそもそう質問している人自身は、いつごろ自分は異性愛者だと気づいたのでしょう。自分が異性愛者だと気づいた時期やきっかけを自覚せず、あるいは言わないまま相手に質問するのは、対等性を欠きますよね。同様に、性別違和のない人は、いつごろ自分には性別違和がないと気づいたのでしょう。異性愛者でシスジェンダーの人にとっては、現在の社会制度や文化の下ではそのようなことに気づかずとも過ごしていけることが多いのではないでしょうか。なぜなら、現在の社会制度や文化が異性愛者やシスジェンダーの人だけが存在するという前提に立って組まれていることが多いためです。日本でも同性同士の結婚はまだ裁判所によって認められていません。結果として、異性愛者やシスジェンダーの人は、恋愛や結婚に関わって、「自分にはできないのではないか」と悩まずにすみやすくなっています。このように、考えずにすむ状態にあることそのものが、支配的集団に属しているということによってもたらされています。
 SOGIという概念を前に出すことによって、すべての人が当事者としてLGBTQや性的マイノリティに関わる問題を議論しやすくなるでしょう。
 SOGIと言う概念から発展して、SOGIESCという言葉が使われるようになりました。すでに述べたとおり、このなかの性的特徴(Sexual Characteristics)という概念は、DSDsに重なるものであり、LGBTQとは独自に論じられていることをご承知おきください。

 以上のように、さまざまな観点から性について語られるようになってきました。このような視点を持って現代の日本社会を捉えた調査によると、1割近い人たちがLGBT だということになります。1クラスに40人いたとすれば、そのうち3-4人はLGBTだったとしても不思議ではないということです。
 性的マイノリティにとっていまの社会はどういう点で生きづらいものとなっているでしょう。学校ではどのような課題があるのでしょうか。

※本稿は、12月5日に公開した原稿を一部修正したものです。

【参考・引用文献】

  • ジョグジャカルタ原則、ジョグジャカルタ原則プラス10文書
  • 日本学術会議「提言 性的マイノリティの権利保障をめざしてー婚姻・教育・労働を中心にー」(2017.9.29)、「提言 性的マイノリティの権利保障をめざして(Ⅱ)―トランスジェンダーの尊厳を保障するための法整備に向けてー」(2020.9.23)
  • ドイツ語チャンネル: Galaxie AZ「【ドイツ語の定冠詞】der, des, dem, denの歌!男性、女性、中性、複数名詞の1格~4格までを完全暗記!歌で覚える!」(youtube)
  • 日本性分化疾患患者家族会連絡会 ネクスDSDジャパンウェブサイト
  • We Think (Shibuya).ウェブサイト「自分らしく生きる」「LGBTの割合は?日本と世界でグラフ化。[2020年最新の調査結果]」(2020.5.18)