明治天皇神話の創成

「明治」という国家創成への幻想

 昨年2018年は、「明治150年」だということで、長州山口県出身総理の音頭よろしく、大河ドラマをはじめとする多様な企画が地域おこしの素材として話題となりました。この潮流は、11月3日の「文化の日」を「明治の日」と改称し、「国民の祝日」として明治天皇の記憶をとどめようとの主張を臆面もなく声高に説く言動にみることができます。ここには国民国家日本を形成する器として造形された明治天皇が負わされた物語があります。この物語こそは近代日本の精神を呪縛することとなる「明治天皇神話」を生み出す原器といえるものです。
 11月3日は、明治天皇在世中の誕生日、「天長節」でした。明治天皇没後は、大正天皇の誕生日8月31日が「天長節」となり、7月30日が先帝祭として「明治天皇祭」となります。この「明治天皇祭」は、昭和になると先帝祭が大正天皇の亡くなった12月25日「大正天皇祭」となり、国家暦から消えていきます。そのため明治天皇にはじまる国家創成の営みを国家の記憶として遺すべく、明治の天長節を「明治節」として国家暦にとりこみました。なお大正期には、天長節が8月の暑中休暇中のため、10月31日が「天長節祝日」とされました。
 この作法は、1945年の敗戦後に国家暦に代えて「国民の祝日」を設定するにあたり継承され、昭和天皇が新日本の方途を「文化国家」と宣言したのをふまえ、旧「明治節」を「文化の日」とすることで受け継がれたのです。その意味では敗戦後も日本という国家の在り方は基本的に変わることがありませんでした。
 このような国家の営みこそは、「経済大国」日本が強き閉塞感に覆われている現在、「栄光の明治」なる幻想に時代を突破する活力を見出し、「文化の日」を「明治の日」として「明治天皇神話」を国民の記憶に蘇生しようとの想いにほかなりません。まさに明治天皇をめぐる物語は、日清戦争・日露戦争に勝利し、欧米列強にならぶアジアの大国となった「栄光の明治」に体現された強き国家ナショナリズムを問い語るものでした。まさに明治天皇に体現された時代は、神話の帷に封じ込められ、「栄光」の記憶としてかたりつがれたのです。この記憶はどのように生み育てられたのでしょうか。

天皇病む―「御不例」をめぐり

 1912(明治45)年7月20日付官報号外は「宮廷録事」として天皇が重態であること告げ、「歌舞音曲御遠慮」を示達しました。翌21日の東京朝日新聞は、大見出しで「聖上陛下御重態▽十四日より御臥床あり▽御睡眠の御状態持続す」と報じ、あわただしく参内する皇族元老大臣の動向、憂愁の涙に沈む各界の状況を紹介しています。ここに準備されていた東京両国の川開きを彩る花火をはじめとし、あらゆる興行催事が「自粛」を名目に中止においこまれたのです。それらの関係者は「悄然として」事後処理に追われていると報じられています。人々は交番に掲示された「聖上陛下御容態書」に一喜一憂した。宮城前の光景は次のように報じられています。ここにみられる情景は、「終戦」の玉音放送に反応した二重橋前の群れ、毎年の新年参賀を想起させるものでもあります。

幼きがささやかなる手を合せてひたすらに拝める、身なり賤しきが地の上に土下座とやらして鼻打すすりたる、親子兄弟一家を挙げて来れるが、声を呑みて只柏手をのみ打合せたる、幾百列を正して小学児童の歩み寄れるが、師なる人の命に従ひて儼かに首を下げたる、凡そ祈りまつる様こそ様々なれ(東京朝日新聞 1912年7月28日)

 かかる平癒祈願は神社寺院のみならずキリスト教会等を問わず各宗派が競って催しました。深川不動では参詣者の焚く大護摩の煙が絶えず、キリスト教界ではメソジスト教会連合御平癒祈祷会が東京の本郷教会でもたれるなど、各教派が日曜礼拝で平癒の祈りをささげたのです。この祈りは、「赤誠」披歴の忠誠競争ともいえる様相をおびており、鎮守の杜のみならず、宮城に向かい祈りを捧げるにふさわしい適地、高台などに造営された遥拝所など全国各地津津浦浦でみられました。

明治天皇御大葬奉送始末 P22(国立国会図書館ウェブサイトより転載)
明治天皇御大葬奉送始末 P30(国立国会図書館ウェブサイトより転載)

「民安かれ」との祈り

 ニシン漁でにぎわう北海道余市町では、モイレ山に設けられた祈願所が崩御後の1913(大正2)年に明治天皇遥拝殿となり、明治神社とされました。政府は各地でみられた明治天皇を祭神とする神社造営の動きを規制します。ここに余市の明治神社は「明治神明社」として余市神社にとりこまれました。
 北海道の北辺、天塩川河口の町天塩は、日露戦後の造材景気にうながされ、多様な移住者でにぎわっていました。このような住民の心はホロシリ山(アイヌ語でポロは大きい、シリは山の意。標高181.8m)に設立された明治天皇御陵の遥拝殿に託されました。この遥拝殿は明治天皇と明治の功臣の霊を祀る明治神社となり、ホロシリ山は「民安山」と命名されました。「民安」なる命名は、明治天皇の御製「とこしえに民安かれといのるなる我が世をまもれ伊勢の大神」からきたものです。かくかたられる明治天皇に寄せる思いは、天皇の治世がもたらした近代日本の「栄光」像への追慕であり、天皇の死がもたらした不安に満ちた日本の前途を打開したいとの心意の表明にほかなりません。
 いわば「民安かれ」との祈りこそは、明治天皇の治世がもたらした「栄光の明治」という物語を国民が共有する社会の記憶となし、国民を結集する磁場として明治天皇神話を創成していく器となります。ここに国家は、明治天皇を「国家神」として祀る明治神宮の創建を国民運動として展開することで、大地に生きる民の祈りが託された明治天皇をめぐる物語を神話として増幅させ、国民精神の砦を構築したのです。

参考文献

  • 村田文江『ふるさと天塩』天塩町 1992年
  • 大濱『歴史の読み方、学び方』北海道教育大学釧路校社会科教育第1研究室 2011年
  • 大濱「文明開化の下で」『改訂版 講談日本通史』同成社 2018年

「西郷どん」とは何者か 7 ―死せる西郷は時代を奔る―

承前

 テレビの「西郷どん」は何とも珍妙なドラマ。配役の問題もあるし、演出の故か、時代考証の軽佻浮薄もあるのでしょうか、西郷隆盛なる人物の存在感がみえてきません。敵役とされている大久保利通や岩倉具視が何とも陳腐なピエロ。作者が語る女の視点なるものも読み取れません。この作品は何を伝えたいのでしょうか。
 ちなみに1939年の東京帝国大学学生は西郷隆盛を「崇拝」「尊敬」する人物の筆頭にあげています。西洋人ではナポレオン。西郷は日本のトップエリートを魅惑した人物。なお西郷はナポレオン帽をかぶる肖像でナポレオンと一体化されてみられたこともあります。
 このような西郷隆盛像を解体するために「西郷どん」を創作したのならまた一興。が、どうもそうでもないようです。この連載では日本人が尊敬する人物の筆頭にあげる人間がもつ磁場を問い質してきました。この問いを終わるにあたり、時代を超えて奔り続けている西郷隆盛の魅力、日本人の記憶に埋め込まれた西郷に託した日本人の幻影を瞥見することとします。

西郷は生きている

 1891年(明治24)3月、新聞各紙は南洲西郷隆盛が生きているという鹿児島の風聞を「鹿児島の訛言」「鹿児島近傍の風聞」等の見出しで掲載、その噂を追っています。新聞「日本」は鹿児島新聞の記事を「露艦の来朝等の時事によりて浮み出でたる想像なるべくも南洲翁が我が儕と快呼したる昔日の思ひ出でて興あることなれば茲に掲ぐ」として、次のように紹介しています。

 西郷翁以下の通り驍将(ぎょうしょう)が岩崎谷にて戦死(うちじに)のことはかねがね大に疑ひおり候處頃日(このごろ)風説するところに拠れば西郷翁を始め桐野利秋、村田新八、淵辺高照らの諸将は今に存生(そんじょう)なりとのことなり。今茲に聞こみしままを報道せんに西郷翁以下の諸将は城山没落の前々夜重囲を脱して串木野なる島平浦に到り同所より和船にて甑島に渡り同島桑浦にて魯国(ろこく)の軍艦某号に乗りくみ同国ウラジオストック港に上陸し西比利亜(しべりあ)の一兵営に潜み魯兵(ろへい)の訓練に従事(じゅうじ)し居りしに去十七八年頃黒田清隆氏が欧州巡回の際其の事を聞こまれ窃(ひそか)にその兵営を訪ひて面会し大に日本将来の事を謀議し約するに明治24年(初期国会開設の翌年)帰朝の事を以てしたり。是を以て西郷翁以下の諸将はその約を以て履(ふ)みて帰朝せんと欲し魯国政府にその事情を告げしに同国政府も諸将の同国を去るを惜むといへども諸将が故国を懐ふの情を以て察し然らば軍艦を以て護送せんとて其の名を皇太子の漫遊に藉り数艘の軍艦を以て護送し来る筈なりとの事なり云々

 1891年は、89年の大日本帝国憲法発布、皇室典範制定を受け、90年の教育勅語で国家の精神的規範が提示され、帝国議会の開会で立憲君主国日本の門出を謳歌する時代の気分が横溢していました。この新時代到来という空気は、欧米列強に連なる文明謳歌の潮流がある一方、文明化に呑み込まれることへの危機感が醸成され、国粋を説くナショナリズムの風潮が時代を染めていきます。ここには立憲国家として発足したばかりの日本の前途への不安があります。この不安感こそは、西郷が「明治24年帰朝」と約定したとの言説を生み、大国ロシアへの猜疑心にうながしたといえましょう。
 この潮流こそは、文明開化を大義とした明治政府の欧化路線に異議を唱え、廟堂を去り、遂に「政府問責」を掲げて決起した西郷隆盛生存伝説を生み出させて心意でないでしょうか。そこには、シベリア鉄道起工式出席のために漫遊中のロシア皇太子ニコライが来日するというニュースに怯える人心の動揺がありました。日本の人心は、「恐露病」といわれるほどに、大国ロシアの陰に怯えていました。この想いこそは、西郷がロシア皇太子一行と共に来るとの言説を生み、廟堂を牛耳る顕官に鉄槌を下してくれるとの密やかな言動を増幅させたのです。まさに城山で死んだ西郷は、国家の在り方を突破する活力とみなされ、時代の空気を引き裂き奔りぬける存在にほかなりません。

「西郷翁」が生める幻想

 新聞雑誌は「西郷存命説」という言説を多々論じてあきません。何が死せる西郷への幻想を生んだのでしょうか。そこには、先に紹介した「西郷星」によせた人心の帰趨に通じる屈折した心理が読み取れます。「毎日新聞」は「人傑の払底 T、T生」なる論評で西郷幻想を論じています。

 西郷隆盛は十年の役に没せしにはあらで遠く露国に渡り這般露国皇太子の来遊に扈(こ)して帰朝すると、是済東人の野語ならん、先西郷の存否如何は別として兎に角我が国民が久しく英傑の士に渇したることは是等無稽の伝説を家毎に唱し人毎に和するを見ても知らるべし、余輩は今の世に一人の政治家なしとは謂はず、先朝に在りては井上(馨)伯の如き後藤(象二郎)伯の如き青木(周蔵)子の如き皆国家棟梁の材ならん、立憲政治を運施するに有用の人ならん、然るを我が国民は是等の諸君を度外視して捲々南洲翁の再来を喃々するものは何の故ぞ、蓋翁のごときは詐する立憲的政治家を以てす可からざるも、共に度量濶大にして能く衆を容れ、廉潔高風指を財利に染めざること「不為児孫買美田」の詩句其の一端を見るに足れり、当世の立憲的政治家と称する人誰か此の意気を負ふ者ありや、夫渇者を思ひ、飢者食を思ふ、此の人傑払底の時、特に廉潔の風、地を払ふの今日、我が国民が今更の様に翁を慕ふ至情の深きも「時艱憶偉人」の古言に違はずとや云はんが、されど翁の存否奈何は余輩の問ふ所にあらざるなり

 ここには、立憲政治なるものも民の声に耳かたむけず財利と名誉欲にとらわれた政治でしかないのだとの思いみなし、その対極に「子孫のために美田を買わず」との言にみられる西郷像、名利を求めない南洲翁へ熱い思いがうかがえます。この南洲像は、「宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華」に身を託す「文明の徒」に対する根源的な批判者、野にある暮らしの営みへの愛着を表明したものにほかなりません。まさに西郷隆盛は、大地にたたずみ、民の目線を代弁し、己の一身を顧みることなく、国家に異議申し立てをしてくれる土の香りを帯びた永久革命家とみられたのではないでしょうか。その相貌には、どこか中国革命の雄毛沢東と共有しうる臭気が漂い、死してなお生者を奔らせる磁場が漂っていると想うのですがいかがでしょうか。

※「斉東人」は愚か者のこと

参考文献

  • 仙橋散史『贈正三位陸軍大将西郷隆盛君生存記』 井ノ口松之助 1891年
  • 大濱『天皇と日本の近代』2010年 同成社

「西郷どん」とは何者か 6 ―「文明政府」に向ける眼差し―

「開化本」にみる世代間の確執

 御一新で誕生した新政府は、「開国和親」を掲げ、欧米諸国の統治制度に似せて国家の枠組みを創設していきます。その営みは、「文明開化」と喧伝されましたが、欧米列強が歴史を重ねて構築してきた諸制度を分節化し、機能合理主義的価値観判断で取捨選択して導入し、日本という鋳型に相応しい国家制度に改変していくことでした。この方策はあらゆる制度文物にわたる西洋文明の受容として展開されていきます。
 このような開化の風は社会全体に混乱困惑をもたらしました。その様相は、文明開化を体現する文明派の青年「開化文明」「西海英吉」「開次郎」らが、反開化派を旧弊固陋なる老人にみたてて命名された「遅川愚太夫」「旧平」などとの対論で「文明」の理を弁証し、「愚太夫」らの守旧派を嘲笑罵倒する、開化派の声が高らかに谺する「開化本」に読み取ることが出来ます。そこで神代種亮が田舎向きに新文明の理を戯作風に説いた『開化の入り口』(明治6、7年)のヒトコマを紹介し、民衆の開化に向ける眼差しにふれることとします。
 「母じゅん」は、息子文太郎が「開化文明」と改名して帰郷したことを、「イヨー是れは何ンじやまあアタ形(なり)の悪い、丸で西洋人の様な形をして、村の衆が見ても恥かし。あつたら髪をきりすてて其まあ情ない頭は何事ぞいノウ」「古郷へ錦をかざらいで、多くの人が畜生同様じやと下(さげ)しんで居る西洋人の真似は何事ぞ」と、泣きます。戸長となった父「愚太郎」は、西洋かぶれを戒めていたにもかかわらず、「畜生の様な形態(なり)をして実に外分かたがた世間へ顔もだされぬわい」と、涙ハラハラという始末。
 ここで横浜の町人を名乗る「文明」の友人「英吉」が文明政府の理を多弁に説き聞かせます。王政復古の政治とは、「王政復古の御政治とたち直つたから、久しぶりで一天万乗の天子様は民の父母と言ふことが行なはれた。さすれば上は御一人、下万民は皆其御子と同様で、穢多じやと言て尻尾が生てもなし、御年貢を上納すりや矢張天子の民で、御子も同様」なのだと、一君万民という「赤子平等」が説かれ、談は洋服の便、断髪の利、肉食の益、「血税」という徴兵の意味、さらに女子教育の必要なことなど、政府の開化政策を平易に語りかけたのです。
 まさに開化本は、政府の意を代弁し、文明に嫌悪反撥する「幼童愚昧」な民衆の啓蒙を課題としたものです。神官僧侶から戯作者・講釈師の類までを教導職に任命、「天皇の道」の実現をめざす「大教」を宣布する新政府の運動をささえるネタ本にほかなりません。

政府の「文明」とは

 かく説かれた「文明」の相貌は、強権的な政府の手で、外形的な構造物として、目に見える容で展開していきます。その負担は、民の怒りを呼び、反開化・反文明との気分を醸成していきました。かつ政府大官は、最先端の「文明」を体現する存在であり、その家屋敷から日常生活にいたるまで西洋文明の直輸入ともいえる生活スタイルでした。なかでも国家の顕官をはじめ貴顕紳士といわれた社会上流階級は、「西洋風」がそのステータスシンボルであり、日常の暮らしまで規定されていました。その一端は、東京都が管理する三菱財閥の岩崎邸の(岩崎邸庭園)、朝香宮邸(庭園美術館)等々に現在もみることができます。

「文明」の質―近代化の在り方をめぐり

 ここに西郷隆盛は、かかる文明開化の風潮にある種の嫌悪感をもち、政府の在り方に距離をとり、明治の「御一新」に裏切られたとの思いをつのらせる薩摩の士族団に擁立されて決起することとなります。こうした西郷の軌跡に想いを馳せる度に、わたしは幼年の日、講談社の絵本「西郷隆盛」に出会ったときのことが心にうかびます。幼き心に遺った場面は、弟従道が朝食の味噌汁が辛いと飯炊きの老婆に小言を言ったとき、老婆が「お兄さんが何もいわずに食して行かれたもので」とわびると、従道は兄隆盛の大きさにあらためて気づき、味噌汁のごときに不平をもらした己の未熟さを識り、その不明を恥じるという何の変哲もない一場。想うに私にとり西郷隆盛という人の原像はこの一事に発したものです。
 この一事は、人にとり何でもない、つまらないことでしょうが、幼い私の心に突き刺さった棘のようなものです。この幻影は西郷隆盛という人間の名前に出会う度に甦ります。ここには、人間西郷の性ともいえるもの、自己一身にまつわる小事に克つことが大事に向き合えるとの念ではないでしょうか。まさに決起は、中央政府の硬軟おりまぜた西郷懐柔を目の当たりにし、薩摩軍団の意に想いを馳せず、「巨魁西郷」を中央に引き出せば国家安泰とする思惑に対する強烈なしっぺ返しにほかなりません。そこには、政府が強力に進める国家文明化の諸策をみるにつけ、「文明」と囃される世界に眼が及んでいないことへの焦慮にも似た怒りがあったのではないでしょうか。その怒りは西郷の文明批判に読み解くことが出来ます。

文明とは道の普く行はるゝを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと争ふ。否な野蛮ぢやと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開矇昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れに利するは野蛮ぢやと申せしかば、其人口を莟めて言無かりきとて笑はれける。(『西郷南洲遺訓』)

 この文明論は、アジア・アフリカを植民地とすることが文明への道と説く近代化の論理への批判にほかなりません。想うに日本の近代化は、西郷が論難した「文明の道」を突き進み、アジアの孤児となる歩みでした。その意味では、アジア近隣諸国が日本に突き付ける苦い記憶を我身にのみ込み、近隣を友とする大事に向き合いたいものです。

日本の政府は占領にどのように向き合ったのであろうか

承前

 高見順の『敗戦日記』からは、米軍の日本占領に日本の政府、さらに国民がどのように向き合ったかを読み解くことが出来ます。政府は、米軍を主体とした連合国軍が占領軍であるにもかかわらず、「進駐軍」と呼称することで日本の敗北と占領という実態に眼をそむけました。このような認識こそは、8月15日の天皇の声によるボツダム宣言受託と戦争終結が日本の降伏宣言、敗戦であるにもかかわらず、この日を「終戦記念日」として新生日本の門出とみなす戦後史の構造を生みおとしたといえましょう。ちなみに「戦争終結」ではなく「敗戦」の文字が新聞にあらわれるのは8月19日になってからです。
 しかし「敗戦」ではなく「終戦」が日本国民の意識の底にはうめこまれていきます。そのため9月2日の米艦ミズーリ号における降伏文書調印の日は、戦後史を語るうえで、きわめて希薄です。敗北に対峙し、その場から占領された日本と日本人の在り方を問い質すことが歴史を現在生きるうえで求められているのではないでしょうか。まさに日本国民は、敗戦、民族の敗北に向き合い、己の場を確かめてこなかったがために、占領統治者であるアメリカの意向に右往左往する浮き草のごとき存在とみなされ、時代に状況に流され行く民族になり果てたのでないでしょうか。そこで政府は占領された日本で生きる国民をどのように見なしていたかの一断面をみることとします。

勝者合衆国大統領の雄叫び

 米大統領トルーマンは、降伏文書調印式直後の演説で「圧政に対する自由の勝利」を宣言し、「原子爆弾を発明し得る自由な民衆は今後に横はる一切の困難を征服出来る一切の精力と決意を使用することができよう」と、唯一の原爆保有国アメリカが戦後世界をとりしきる覇者であるとして、「自由な民衆」たる誇りをもって、世界秩序の主であることを述べたものです。
 この「圧政に対する自由」なるイデオロギーは、「民主主義と自由」を錦の御旗に非欧米的イデオロギーを支配の論理とした国家を否定し、国際政治における優位性をささえることとなります。いわば原子爆弾―核兵器による世界秩序の構築こそは、トルーマンが宣言してより、アメリカの世界を実現したものに外なりません。日本は、いかに「被爆国民」を言挙げし、「平和国家」を自負しようとも、核の軛に強く囚われた国でしかないのです。日本の政府は、この軛から自由になるのではなく、そこに安住することで戦後の国家形成をしてきたのではないでしょうか。現在想起すべきは、敗北を直視し、その敗北から己の場を確かめ、自由なる国民として新しい国家形成に向き合うことなく、占領という状況を甘受し、占領軍の意向を先取りすることで己の場を確保しようとしてきた国家指導者とは何なのかということです。

「進駐軍の不法行為」に日本政府はどのように対処したのか

 高見の9月6日の日記は「大東亜戦争の陸海軍の人員損耗」として発表された数が「戦死および戦病死―約50万7千余。本土空襲被害。死傷者・55万余。罹災者・804万5千余。」と記しています。ついで「神奈川県の女学校、国民学校高等科女子生徒の授業を所にとっては停止することになった。進駐軍の横行に対する処置」を記載し、立川に進駐した米軍が警察を通して出した「注意」を全文認めています。その注意には、「△市民はアメリカ人を尊敬すべし△市民の乗車せるあらゆる車馬はアメリカ人の自動車を追越すべからず違反者は射殺することあるべし△爾後治安維持警察行政につき必要ある場合は警察署長を通じて命令す」と。まさに日本はアメリカの軍政下におかれたのです。
 「女子生徒の授業」停止は、9月1日に横浜野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦された事件が「横浜に米兵の強姦事件があったという噂」(9月2日)となり、5日から神奈川県の女子高校は休校となりました。一方で強姦事件への日本人の反応は、「負けたんだ。殺されないだけましだ」「日本兵が支那でやったことを考えれば…」と、いうようなものでした。高見は「こういう日本人の考え方は、ここに書き記しておく「価値」がある」と。まさに国内には、戦場における日本兵の所業に重ね、「玉音放送」直後から「米軍が上陸すると女は凌辱される」との風聞がひろまっていきます。
 このような占領軍将兵による婦女子への猥褻・凌辱行為をはじめとする金品の強奪等々の実態は、内務省警保局が「進駐軍の不法行為」として8月末から週ごとに報告を大臣にあげています。一方で占領軍は、新聞検閲官を任命、「不法行為」等々の占領統治を妨げるような記事を取締る占領下の報道統制を強化した。その検閲は、きわめて隠微に、かつ巧妙でした。高見は「アメリカが我々に与えてくれた言論の「自由」は、アメリカにたいしては通用しないこともわかった」と、「占領下の自由」に気づかされます。しかし日本国民の多くは、「占領下の自由」に気づくことすらなく、アメリカ占領軍からの贈り物として与えられた「自由」に酔い痴れていきます。「不法行為」は、世間の噂になりはしても、闇に閉ざされたのです。その闇の底には日本政府の隠微な施策がありました。

「愛国」という罠

 日本政府は、まさに「日本兵が支那でやったことを考えれば」なる思いを共有していたがため、敗戦直後から占領軍将兵による婦女子への凌辱行為で「日本の娘」が汚されるのをおそれ、「婦女子への貞操の防波堤」なる名目で国家の主導で連合国将兵のための慰安施設の設置を検討していました。東久邇内閣の国務大臣近衛文麿は「日本の娘の純潔を守ってくれ」と警視総監坂信弥に要請、ここに連合軍将兵専用の慰安所が設営されることとなりました。
 警視庁は、花柳界に協力をもとめ、8月26日に特殊慰安施設協会(Recreation & Amusement Association RAA)を設立、9月4日に「キャバレー・カフェー・バー ダンサーを求む 経験の有無を問はず国家的事業に挺身せんとする大和撫子の奮起を確む最高収入 特殊慰安施設キャバーレー部」等々の新聞広告、「新日本女性を求む」云々なる街頭広告で広く女性を募集しました。「大和撫子」なる呼びかけは、占領軍将兵への売春行為を国家の使命とみなし、戦時中の工場への勤労動員を「女子挺身隊」と位置付けたのに通じるものです。ここには国家管理売春を国是としてきて構築された日本という国の変わらざる体質が読み取れましょう。ちなみに協会設立の資本金1億円のうち5500万円は大蔵省の保証で日本勧業銀行が融資。資金調達に尽力したのは後に総理大臣となる池田勇人です。

 高見は、このような施設に関わった経営者が終戦前は「尊皇攘夷」を唱えていたことを指摘、次のように慨嘆しております。

 世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が――。支那ではなかった。南方でもなかった。懐柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。
 日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと「慰安所」の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行なわれていた。
 戦争は終った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐軍御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。(昭和20年11月14日)

 日本国家の指導者は、いかに「日本人だけがなし得ることではないか」といわれようとも、「愛国」の名の下に平然と国民を人身御供にすることで、己の存在を確保してきたのだといえましょう。昨今耳にする「美しい日本」なる掛け声をはじめ、女子スポーツ界にみられる「撫子」なる言説がいかに世間の気分を高揚させようとも、その言説に何が託されてきたかを凝視し、歴史の闇を読み解くべきではないでしょうか。ここに展開してきた虚妄なる世界こそは、日本という国の根底に国民を平然と売り飛ばす、高見流にいえばある種の「淫売帝国」ともいえる体質が未だに根深く息づいている証左ではないでしょうか。それだけに現在こそ、国家が説き聞かせる言説に向き合い、私の場を確かめたいものです。

 

参考文献

  • 水野浩編『日本の貞操 外国兵に犯された女性たちの手記』 蒼樹社 1953年
  • 五島勉編『日本の貞操』 蒼樹社 1953年
  • なお、乃南アサ『水曜日の凱歌』(新潮文庫 2018年)はこのRAAを素材とした作品

「敗戦」に日本・日本人はどのように向き合ったのだろうか

「戦争の惨禍」に向き合うために

 先の8月15日に催された「平成最後」の慰霊祭「全国戦没者追悼式」において、退位を表明した天皇は、「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」と、その想いを吐露した。そこで「西郷どん」の話題をひとまず休み、平成「最後」と喧伝されている現在、「大東亜戦争」と呼称した日本の戦争が終結した8月15日と降伏文書に調印した9月2日に思い致し、「臣民」であった日本人がどのように敗戦という現実に向き合ったかを想起し、その相貌を私の眼で確かめることとします。
 「鎌倉文士」高見 順は、「ひまさえあれば机の前に座り込んで、ノートに何やらちくちく書き」(高見秋子)、敗戦の年1945年(昭和20年)を中心に新聞記事を書き込み、時代人心の動向を克明に記録した日記を遺しています。この『敗戦日記』に描き出されている8月15日前後を紹介し、戦争の時代を生き延びた日本人の一面を読み取ることとします。

原爆投下をめぐる風聞

 広島に原爆が投下された翌8月7日の記事は、東京で原子爆弾投下の話を聞いた時、「原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾が遂に出現したというのだ。-衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった」と。その投下が、「日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという」、「一国の首相ともあろうものが何も黙殺というようなことをわざわざいう必要はない。それこそほんとうに黙っていればいいのだ。まるで子供が政治をしているみたいだ。実際、子供の喧嘩だな」と、慨嘆。作家仲間の今東光とは、「変な爆弾」「新型爆弾」「もしほんとに原子爆弾だったら、もう戦争は終結だがね」云々と、あたりに人がいないにもかかわらず、「声を低く」して話しをした由。
 この日の大本営発表は、「少数の新型爆弾」で「一瞬にして無辜の民多数に残虐なる殺傷」「相当数の家屋を倒壊」等々を「天人共に許さざる暴挙を敢てなした」、「この暴挙に至っては最早や世界の何人も許さざる鬼畜の手段」「日本民族抹殺目指す暴虐なる敵新企画の一切に対しては敢然今ぞ反撥する」と、宣うのみです。そして「由来新兵器には対策なきのためしがないのであり、徒らなる焦燥感にかられることなく、文句なし全力をあげて戦争一本に突進すべきの臍の緒をしむべき」で、謀略にまどわされるなと、「われら一丸」「報復一途」に邁進せよと。
 「天人共に許さざる暴挙」への「報復一途」と声高に叫ばれますが、原子爆弾ということは何も知らされません。この新型爆弾、「仁丹みたいな粒で東京がすっ飛ぶという話から」、「仁丹」といわれた。情報は知らされることなく、高見は文士仲間の談笑で耳にした「敗戦」が近いとの風聞を書き留めています。

「何をか言わんや」

 しかし8月11日の新聞各紙は、毎日新聞の「国体を護持、民族の名誉保持へ 最後の一線守る為 政府最善の努力 国民も困難を克服せよ」との情報局総裁談話に見られる類でしかありません。かつソ連の参戦に陸軍大臣が「事ここに至る又何をか言はん、断乎神洲護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ」「全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀(ばく)直進前すべし」と檄を飛ばしたことにふれ、高見は政府の無為無策を論難します。

「-何をか言はん」とは、全く何をか言わんやだ。国民の方で指導者に言いたい言葉であって、指導者側でいうべき言葉ではないだろう。かかる状態に至ったのは、何も敵のせいのみではない。指導者の無策無能からもきているのだ。しかるにその自らの無策無能を棚に挙げて「何をか言はん」とは。嗚呼かかる軍部が国をこの破滅に陥れたのである。

 陸軍大臣の檄文は、国民を鼓舞するに、湊川で憤死した楠木正成、蒙古襲来に断乎対峙した北条時宗の故事にたくした精神の在り方をみるにつけ、高見のみならず、「何をか言はんや」というほかありません。ここには、「国体」なる言説に民族の存在を託すしかない国家の営みがあり、精神の荒廃が読み取れます。

天皇の声

 重大発表と通知された8月15日正午を前に、高見は「『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね』と妻が言った。私もその気持ちだった」と述べています。この思いは、高見のみならず、当時多くの国民が「臣民」としていだいていたものです。言論界の長老徳富蘇峰は、この「重大発表」を天皇が一死決戦を促すものと思い、赤飯で祝うべく準備させますが、様子がおかしいと中止、放送を聞いて愕然とします。かかる思いこそは、「何かある、きっと何かある」「休戦のような声をして、敵を水際までひきつけておいて、そうしてガンと叩くのかもしれない。きっとそうだ」、と話す姿にもみることができます。かく日本を覆う空気は、「敗戦」という現実を直ちに受けとめられないがため、二重橋前に額ずき涙する民の姿をうみだしたのです。その反対に政府は、「醜敵」「鬼畜」と罵倒した敵の占領下におかれると、一転して占領軍に媚態を示し、「敗戦」の責めを国民に負わせます。
 このような国家の在り方こそは、「何をか言はんや」にほかならず、「唯一の被爆国」を免罪符のごとく強調しながらも、核兵器の廃絶に向き合うこともない現在の日本政府にも流れている世界ではないでしょうか。その営みは、昨今の天変地異、天の怒りに思いを馳せることもない国家の営みにもみることができましょう。それだけに天皇が問い語る祈りは、小さな声ですが、戦後日本の歩みに、ある不安な思いを秘めた問いかけといえましょう。

 

参考文献

  • 高見 順『敗戦日記』 中公文庫 2005年

「西郷どん」とは何者か 5 ―戊辰で流した血は何だったのか―

承前

 徳川王国を軍事力で制圧した新政府は、「開国和親」をかかげ、欧米列強に対峙しうる国家の創成をめざします。その方途は、「万国公法」が支配する世界秩序の中に新興の日本国が一個固有の場をしめるべく、列国につらなるにふさわしい「文明国」にならねばなりません。ここに国家をあげての「文明開化」が至上命令とみなされたのです。
 西郷は、このような明治国家の在り方をめぐり、政府内で孤立感をふかめていきます。西郷の思いは、庄内藩士らが薩摩に赴き、西郷に教えを乞い、その聞くところを「南洲翁遺訓」として明治23年に荘内で刊行、さらに29年に佐賀に人片淵琢がが『西郷南洲先生遺訓』として東京で刊行されたものに読み取れます。この「遺訓」は、有志によって写し継がれ、そこに記されている言を人びとが口ずさみ、大切に伝えられました。
 荘内藩は、戊辰の際に佐幕藩であった藩の苦境を西郷に救われた恩義に感じ、その徳を慕います。そのため西郷の死を悼み、西郷を祀る西郷神社を建立しています。ここには、「鎮西狂賊兵強大権衰之馬鹿」と「揶揄罵倒」された存在とは全く異質な、西郷隆盛という人物が発した磁力の大きさを見ることが出来ます。この磁場は西郷が問い語る為政者たる者に問われる識見にみることができます。

「政治」を担う者には何が問われるか

 西郷が治者に求めたのは、天道を行う、徳ある者です。「遺訓」第1は政治に関わるものの責任を問うています。いかにも国家に功労あろうとも、適切なる人材の登用が大事なことだと。

廟堂に立ちて大政をなすは天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆゑ真に賢人と認る以上は、直に我が職を譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勳労有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其人を選びて之を授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるる

ここには見果てぬ統治の夢が語られています。西郷はこの夢を体現した者として被治者の心に刻印されていきます。

戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿

 かつ万民の上に立つ者には、人民の模範となり、勤労する民の心に寄りそうことが肝要であるとなし、新政府の創業者の実態を論難、「戊辰の義戦」も私的利益の追及になり、「天下に対し戦死者」に顔向けできないと涙して悲憤慨嘆しています。

 己を慎み、品行を正しく、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きとて、頻りに涙を催されける。

 まさに西郷は、新国家創業をめざす政府の実態に深く絶望し、文明政府の在り方を論難してやみません。その想いは、各国の制度を学び、「開明」に進むにしても、みだりに外国の制度文物を受け入れることではない。まず、日本の「本体」、あるべき姿をみきわめ、徳を以て人を教え導く基本を確立したうえで他国の長所を斟酌すればよいのだと、「文明開化」に狂奔する潮流に釘を刺します。

広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我国の本体を居(す)ゑ風教を張り、然して後徐(しず)かに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼れに倣ひなば、国体は衰頽し、風教は萎靡して匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。

 ここには、他国の文明に向き合ううえでの、基本的な視座が提示されています。西郷には、戊辰の勝利に酔い痴れる「維新の功臣」の姿を目にするにつけ、圧倒的な物量で迫ってくる欧米の奔流に流されていく日本の現状への深い憂国の情がほとばしりでたのです。この思いこそは、戊辰で血を流した同輩の苦境をみるにつけ、国家を壟断する「功臣」の輩への悲憤となり、「問罪」を掲げての決起に奔らせたのです。いわば西郷隆盛の政治哲学は、徳のある政治を実現すべく、天の声に耳傾けねばならないとの想いにこめられているように、統治される被治者の場に寄り添うことを第一義としたものです。その想いこそは、戦乱で苦境にさらされた民にしても、一方で西郷の秘めたる志にある共感をいだき、時と共に苛政からの解放幻想をいだかせることになったのだといえましょう。民衆は、西郷隆盛のなかに、あるべき政治の在り方をみいだし、西郷をかたることで見果てぬ政治への思いを託そうとしたのです。有為なる政治家は、西郷を見つめることで、己の在り方を問い質してきたのですが、昨今はかかる政治家を見出すこともない時勢ではないでしょうか。それほどに政治が劣化しているのが現在なのではないでしょうか。

 

参考文献

  • 山田済斎編『西郷南洲遺訓 附 手抄言志録及遺文』岩波文庫 1939年

「西郷どん」とは何者か 4 ―西郷隆盛に向ける明治天皇の眼―

承前

 西郷軍団を率いた西郷隆盛の決起は、戦火に逃げ惑う民に怨嗟の声があがる一方で、「政府問責」の声に国家覚醒の夢を託し、西郷の一挙手一投足に明日の日本への想いを馳せた人々もいました。西郷隆盛という存在は、時代の闇に谺する声に呼応することで、世に潜む怨恨を問い質す器ともなりえた。明治天皇にとり西郷隆盛とは何であったのでしょうか。

反乱の秋

肥後熊本暴徒記<国立国会図書館ウェブサイトから転載>

 薩長を主体とした新政府は、旧武士の諸特権を否定することで、文明国家の体面をととのえていきます。征韓論で分裂した政府は、大久保利通・木戸孝允が中心となり、1874年(明治7年)2月に征韓論に敗れて下野した江藤新平らの佐賀の乱を制圧、首謀者を斬首し、叛乱勢力へのみせしめとしました。一方で政府は、国内に充満している反政府の気分に対処すべく、4月の台湾出兵で不平士族のガス抜きを図るとともに、土佐で立志社を創立した板垣退助らの政府批判の言論には75年に讒謗律・新聞紙条例を制定して取締りを強化します。
 このような強権的な政府への叛乱は1876年10月24日神風連の乱(熊本)、27日秋月の乱(福岡)、28日萩の乱(山口)、29日には萩の乱に東京で呼応しようとした永岡久茂らの旧会津藩士による思案橋(※1)事件等々が相次ぎますが、分散挙兵に終わり、個別に制圧されました。政府は、不穏な鹿児島の西郷隆盛の動向を見守るなかで、77年1月に地租改正に反発する伊勢暴動などの農民一揆に対処すべく地租軽減・歳出節減の詔を出して農民を慰撫しております。
 西郷隆盛は、このような状況下、77年1月30日に挙兵。福岡県士族越智彦四郎 武部小四郎らは西郷挙兵に呼応すべく準備をします。福岡挙兵の檄文は、西郷の声に応じたもので、己の場を宣言しています。

夫れ政府の責任たるや、国民の幸福を保全するに在り。然り而して我日本政府は、二、三の権臣要路に当り、上 天皇陛下の聰明を欺罔し、下人民の疾苦を顧みず、言路を壅蔽し、愛憎を以て黜陟し、苛税重斂、至らざる所なく、唯、一朝の利害に眩惑し、万世不抜の大道を忘却し、天理に逆ひ、人道に戻る。実に売国の賊と云はずして何ぞや。我等拙愚を顧みず、大に信義を天下に明にし、国家之蠧害を除却し、同胞三千余万之康寧を祈らんとす。故に此の檄文を有志之各位に伝ふ。冀くは人民之義務、国家之衰頽を座視するに忍びざる微衷の在る所を了察あらんこと

 その軍律は、「猥に人を殺害するもの」「民家に放火するもの」「人民の婦女を姦淫するもの」「窃盗するもの」「私に逃走するもの」と厳禁し、民衆に寄り添うものでした。しかし福岡党は、西郷軍団と連携もできずに、政府軍に察知され、挙兵虚しく敗走。

明治天皇の動き

 26歳の天皇は、1月24日に大和・京都行幸に出発、西郷の挙兵を聞くなか、2月11日に神武天皇陵を参拝。政府は、すでに1月19日に西南の異変に対し、「暴徒征討の令」で西郷隆盛を「賊徒の首魁」となし、征討総督に有栖川熾仁親王を任じ、叛乱に対処していました。この間、明治天皇は、西郷の想いに心致しているかのごとく、心を閉ざしていたようです。『明治天皇紀』は、城山が落ち、西郷の死で叛乱が終結した日、天皇の脳裏に去来した悲愁を次のように描いています。

官軍城山を攻めて遂に之れを抜く、是に於て兵乱始めて鎮定す、(略)征討総督熾仁親王鹿児島賊徒の平定を電送す、乃ち翌二十五日之れを天下に布告せしめ、出征旅団をして、各々其の守備を要地に置き、順次凱旋せしむべき旨を征討総督に命じたまふ、(略)
戦死者及び負傷後死せる者合はせて六千九百四十余人に及び、征討費の総額四千百五十六萬七千七百二十六円余に達す、乱平ぐの後一日、天皇、「西郷隆盛」と云ふ勅題を皇后に賜ひ、隆盛今次の過罪を論じて既往の勲功を棄つることなかれと仰せらる、皇后乃ち、
  薩摩潟しつみし波の浅からぬはしめの違ひ末のあはれさ
と詠じて上りたまふ、皇后又嘗て侍講元田永孚に語りたまはく、近時聖上侍臣を親愛したまひ、毎夜召して御談話あり、大臣・将校を接遇したまふこと亦厚し、隆盛以下の徒をして早く此の状を知らしめば、叛乱或は起らざるしならんと(明治10年9月24日)

西郷に寄せる想い

 天皇は、「西郷隆盛」との勅題にみられるように、西郷隆盛への強い共鳴盤がありました。この思いこそは、「政府問責」を掲げる士族の叛乱、その首魁となった西郷隆盛の動向、その心の動きに寄り添わせたのです。しかし「賊徒」とされた者を「許す」わけにもいかず、皇后に勅題を出すことで、己の心を詠ませたのではないでしょうか。それほどに西郷追悼への想いは強かったのです。皇后美子(はるこ)の歌「薩摩潟しつみし波の浅からぬはしめの違ひ末のあはれさ」は天皇の心を詠んだものといえましょう。
 乱後の天皇は、皇后が元田永孚に「侍臣を親愛したまひ、毎夜召して御談話あり、大臣・将校を接遇したまふこと亦厚し」と語っているように、臣下の者を側近くに召して談笑の時をもったそうです。天皇は、西郷ともこのような場を設け、心を開いて語っていれば、あのような乱にならなかったのではないかとの悔みがあったのだといえましょう。それほどに明治天皇と西郷隆盛の間には計り知れない心の絆があったのではないでしょうか。なお、西南戦争後に天皇が第二の西郷にしてはいけないと気にしていたのは谷干城です。

 

※1:思案橋は中央区日本橋小網町、現在橋はない。

 

参考文献

  • 石瀧豊美「百四十周年・西南戦争と福岡の変」熊本地震被災神社復興支援講演会レジュメ

「西郷どん」とは何者か 3 ―西郷隆盛の決起は「いろは歌」がどのように問いかけていたか―

承前

 2回にわたり『団々珍聞』が報じた西郷隆盛を首領とした西南戦争についての世間の風聞を紹介しました。その風聞は、西郷隆盛を「西郷酒盛」「西郷戦生」「窮醜殺魔人」と、戦いに生きた、醜を極めた「窮醜」―九州、殺しの魔人「殺魔人」薩摩人だとこき下ろし、明治10年戦乱をして「迷痴10年」と道に迷うと戯けた痴者の仕業と揶揄嘲笑まじりに弾劾したものです。この声は戦火に逃げ惑う民の声、怒りを代弁したものです。
 しかし一方には、新政府に期待を裏切られた者にとり、西郷が掲げた「政府問責」の声に応じることで馳せ参じた群れもありました。その想いは西郷軍団の「出陣いろは歌」が「もはやこのうえ 忍ばれず 責めてはつくすもののふの 数万の民を救わんと 今日を限りの死出の旅」にこめられています。この歌は亡びの凱歌にほかなりません。

決起する理はどのように伝えられたか

 西郷軍団は、政府問責の兵を何故あげねばならないかにつき、「いろは歌」に託して各集落の民に伝え、支持を求めようとしました。この「いろは歌」は、「西郷方宣伝の歌」として、「唱歌は兼ねて賊将の何某が作りて昨今より各郷に伝播せしめ女童部までも謡ひはやす様に仕掛けたるものなりと或る人の寄せられたり」と、東京日日新聞が明治10年8月に報じられたものです。西郷軍は民の支持をもとめていたのです。決起はどのように知らされたのでしょうか。

い)まもむかしも神国なるに
ろ)しやあめりかよふろつぱ
ば)かな夷風に目はくらみ
に)ほんのみだれは顧みず
ほ)うを異国に立てかへて
へ)たの将棊の手前見ず
と)られそうだと金銀を
ち)ゑあり顔に無分別
り)よく我儘仕ほうだい
ぬ)すみは官員とがは民
る)ろうの士族おびたゞし
を)ほくの租税罰金を
わ)たくしからの政治故
か)はる布告は朝夕に
よ)の行末はいかならん
た)かきいやしきわかちなく
れ)いも作法もなくなりて
そ)んな我国益は破れ
つ)まり夷国の計略に
ね)い奸もののうち合ふて
な)には兎もあれ角もあれ
ら)い名つふした其時に
む)かしに復るといふたのも
う)そと今こそしられけり
ゐ)のちを捨てゝ国の為
の)がさず討てよ佞奸を
お)ほ久保三条ちぎり會ひ
く)らす此世は面白や
や)められうかや花の夢
ま)よう心の末ついに
け)たうじんらに國をうり
ぶ)具も刀も捨てよとは
こ)こんきかざる布告なり
え)ぞ地ももはやおひとられ
て)ん下の治亂は只今よ
あ)すはかゝらん暗殺に
さ)らば逢はんと想へども
き)よき心は神ぞ知る
ゆ)う士はあまた隠れゐて
め)いを奉ずるものもなく
み)すみす二人が居る故に
じ)職の人は勤王家
ゑ)い名あへて好まねど
ひ)道を責る天の道
も)はや此上忍ばれず
せ)めてはつくす武士の
す)まんの民を救はんと
京)をかぎりの死出の旅

「死出」の旅へ馳せ行く想い

鹿児島戦闘記<国立国会図書館ウェブサイトから転載>

 「いろは歌」には「政府問責」の兵を挙げた西郷軍団の想いが平易簡明に説かれたものです。それは新政府の文明開化路線への異議申し立てを歌ったものにほかなりません。その想いは、「神国」日本がロシア、アメリカ、ヨーロッパの「夷風」、文明の波濤にさらされ、「復古」というスローガンが無にされたことへの怒りです。政府は官員の跋扈、士族の窮迫云々と問責され、大久保、三条の専断が糾弾されています。ここに「じしょく(辞職)の人」西郷隆盛は、「勤王家」として、政府の「非道」を責めるのが「天の道」だとみなし、この状況から「数万の民」を救わんと「死出の旅」たる決意で兵を挙げたのだと。
 このような「いろは歌」が民衆の心にどのように受け止められたかは不明ですが、はやり歌の様式によせて民意を取り込むことで優位性を保とうとした戦略は、戦争が民意の帰趨によることを理解していたことにほかなりません。この作法は、鳥羽伏見にはじまる戊申の内乱で薩長勢力が「宮さん宮さん」の歌で錦旗を掲げ、「官軍」たる優位性を確立して幕府軍を制圧したことを西郷軍団も理解していたことをうかがわせます。
 まさに西南戦争は民衆の帰趨が戦局を左右する近代の戦争形態が意識された内乱でした。この思いが軍団の将兵にどれだけ共有されていたかは問わねばなりませんが。かつ戦争は、歌の末尾が「死出の旅」であることが物語るように、「天皇の政府」に向き合った叛乱だと自覚されていました。このような亡びの凱歌には、「戦生」として戦乱の巷に生きることで己を輝かせ、亡びに奔走した大いなるロマンチストともいえる西郷隆盛の生き方が封じこまれているのではないでしょうか。

「西郷どん」とは何者か 2 ―西郷隆盛の死をめぐる流言飛語は何を問うていたのか―

承前

 西郷隆盛一党の決起は、「政府問責」をかかげた「義挙」として迎えた旧士族がいましたものの、戦火の渦にのみ込まれた民衆にとり許されぬ暴挙でした。しかし西郷隆盛という存在は、新政府の開化政策に翻弄される民衆にとり、民の心を代弁してくれるものともみなされてもいたのです。『團々珍聞』は、このような屈折した民衆の西郷によせる想いをして、「茶説(ちゃせつ)」で世間に流布した訛伝を「西郷星之説(さいごうぼしのせつ)」で紹介しております。

人皆云ふ近日東南に出(いづ)る赤星を以て西郷星と称する者は俗人のみ愚者のみ。其説を以て妄とする者は才子のみ智者のみ。且其言(こと)に曰く、星は自ら赤星のみ尋常の行星のみ固より怪むに足らず。其西郷の変身せし者となし桐野(利秋)の化精せし者となすに至ては誣誕虚妄(ふたんきょぼう)笑ふに堪たり。豈人の星と為る理有んや、之を聞さへ汚はしとして耳を洗はんとする許由(きよゆう)先生何ぞ其聞見の浅き胸次(けふじ)の狭きや、余を以て之を観るに其始めて西郷星の説を唱へ出せし人は識者なり通人なり、之に雷同訛伝(らいどうくわでん)するものは愚夫なり児童なり之を駁攻排撃(はっこうはいげき)するものは浅陋(せんろう)なり凡庸なり。夫名士高人の星辰となり列宿に応ずる者(26号 明治10年9月15日)

として、李白が「太白星」にジュリアスシーザーの「怨魂」が天にあらわれており、「紀元緒の年に赫々として日光を奪ふが如き彗星出で教祖生ると云う」とイエスの誕生等々にふれ、偉人英傑が星となってあらわれたという古今東西の話を紹介し、西郷星に託された世界を論じています。

「西郷星」に託して西郷の事蹟を告発す

 「星」となった西郷隆盛は、戦乱が巷に飛び散ったがために、「狂乱」した姿が辛辣な筆致で描かれています。西郷星は、「干戈」武器をつかって多くの血が流されたから、赤いのだとの言を聞いてみましょう。

今西郷暴士は私学星(私学校の生徒)を鎔冶(ようや)して不軌を図り、近国の蜂起星(ほうきぼし)を糾合して新星(しんせい 新政)攻毒(こうどく)の正札を附け西南より東北の方に出現し、大星府(だいせいふ 大政府)に向て闇殺(あんさつ)の廉を尋問し、其邪星(じやせい 邪政)を分ち星体(せいたい 政体)の非を矯さんなどと斗方(とほう)も無き虚星(きょせい 虚勢)を売だしたるに因て、星討(せいとう 征討)の大師を発し百戦の後竟に鎮星(ちんせい 鎮静)の際に及び、賊星(ぞくせい 賊生)大半降伏離叛したるより、巨魁(きょかい)の破軍星(はぐんせい 破軍勢)四海の内身を容るる所なく、魂魄已に天外に飛び世間に対して白昼横行し難き故、夜々暗(あん)に紛れて顔を出すこと疑ふ可らず、其東より南に運(めぐる)るは、初め東京に在て庿堂(びょうどう)の高坐を占め、後本国に帰て躬(みづから)耕し糞桶を担いだる故なり。其色赤きは干戈を動かして、滾(こん)々の血を流せし故なり。其謂れあること亦斯の如し。之を是れ信ぜずして俗説となし、傳会(ふくわい こじつけ)となす者は識無く学無く凡庸の徒たること明矣(あきらけん)。夫れ訛言の興る古より之れ有り詩に曰く民の訛言曾て之を懲すこと莫し。妖言童謡は意無くして言に失ふ其事後に験(しるし)多

 赤く輝く「西郷星」一件は、維新革命を主導し、新政府の実力者となるものの、政策が入れられずに故山にもどり、西郷の下に集う青年に擁立されて叛乱に奔る血塗られた物語として、諧謔を交えた文体でかたられたものです。ここには、「偉人」西郷が負わねばならない宿業をみつめ、その戦乱への怒りがあります。この怒りは何故に西郷は戦争を起こしたのだという問いとなっています。

鹿児島県の人の話

鹿児嶋暴徒追討記〔田原坂の戦〕<国立国会図書館ウェブサイトから転載>

 西郷は、「身を殺しても世の中のためを思ふ」て戦争したのだと、鹿児島県人が話していると『團々珍聞』が紹介しています。この話は、巷の風聞を「鹿児島県人」のうわさ話として創作した類のものでしょうが、不景気な日本を救うための口減らしと、「西郷札」一件にも言及し、「世直し」ともいえる世の不景気救済策であったと指摘することで、政府の無策に一矢報いております。

口を減すは人を殺すより外なく、人を殺すは戦争をするに限る、軍(いくさ)は勝ても負ても世の中の人は減る、せめて十万人を減すと一箇月一人の掛りを三円と見込でも月に三十万円年には三百六十万円は違ふからとて、大食な銭遣ひの荒い若者を扇動(おだてて)戦ひを始めた所が、見込違ひ、官軍と賊で死傷三万人前後だから一割程の人も死なぬ故、是ではならぬと印度の地方え伝染病をかけ亜細亜虎列刺(あじあころり)を呼よせ、先鹿児島で病ひを試し、些(ちと)ばかりでも死だのを見届け、是なら宜と安心し、城山で自分も往生、其処で虎列刺は九月から十月の二十日までに全国の死人が三千七百人、是も思ふ様に往なかつたが、しかし軍のために世間へ落とした金の高は政府(おかみ)斗(ばか)りも四千四百六十三万八千零九十八円九十二銭六厘だといふから、西郷の拵らへた札高24万円引ても四千四百三十九万八千円故それに夫にかかり合て銭を取た者は大助かり、さすが豪傑だけあつて妙な処え気の附く人だと西郷を誉ちぎつて居ました(34号 明治10年11月10日)

 ちなみに西南戦争は、軍艦10余隻2100人、陸軍5万2200人、屯田兵600人、巡査隊1000人など計6万6000人、その他予備軍6万3000人、東京巡査破件700人、戦費4156万円だと、『明治・大正家庭紙年表』(河出書房新社 2000年)が紹介しております。かつ、9月にはコレラの流行で「妙薬」として評判が高かった石灰酸(カルボニックアシッド)が売り切れた由。12月28日には内務省がこれら予防のため、便所・下水などの清掃法を示達しております。

時代の気分

 西南戦争は、「百姓軍隊」と揶揄嘲笑されていた徴兵軍隊が戦力として活用できることを証したものの、民衆に戦闘が死を、戦死というものを強く実体験させ、死の恐怖にさらしたのです。そのため戦争終結後には、徴兵忌避の機運がたかまったがため、分家・分籍・嗣子変更等を出願しての徴兵忌避をしないようにとの布達が出され、徴兵忌避者のための診断書をみだりに発行しないようにと医師の取締が強化されたのです。
「西郷どん」西郷隆盛は、日本人好みの「英雄」と喧伝されてきましたが、同時代人の眼には「無益」な戦乱で民衆を塗炭の苦しみに追いやった張本人だと映っていたともいえましょう。時代の空気に寄り添い、時代を追体験して歴史を読むには、『團々珍聞』が描き出した世界を場に、歴史の闇を問い質す作法も必要ではないでしょうか。

 

●西郷札とは、西郷軍が軍資金の不足を補うために発行した不換紙幣。実効支配地で軍事力で強要していくらか流通したが、西郷軍の崩壊で無用の紙切れとなった。後に西郷隆盛の人気で「お守り」として大切にした者もいた。なお松本清張が作家としての登場は西郷札を素材にした『西郷札』。

「西郷どん」とは何者か 1 ―西郷隆盛は最後酒宴(さいごうさかもり)?―

西郷隆盛<国立国会図書館ウェブサイトから転載>

 NHKの大河ドラマ「西郷どん」は、明治150年のイベントにあわせ、西郷隆盛を女の目線で描いた作品のようです。このドラマは、時代を奔り行く西郷隆盛とその周りに群がり集う人々を通し、明治150年とは何かを問いかけようとしているのでしょうか。ドラマの西郷とそこに集う若き群れは何とも軽薄で、時代の空気がドラマから漂ってこないのはいかがなものかとの感のみ募りますが。
 それは、何も「西郷どん」のみではなく、近年のTVの歴史ものに広くみられることですが。それはさておき、主人公の西郷隆盛とは何者なのでしょうか。西郷は、歴史上の人物として、日本国民にとり最も人気の高い尊敬さるべき人物です。そこで、ドラマが描こうとする「西郷どん」につきあうためにも、西郷隆盛とは何者であったかを時代人心に位置付けて読み解き、明治150年という言説に託された世界とは何かを考えることとします。

西郷の死はどのように受け止められたのか

 1877年(明治10)2月に創刊された「団団珍聞(まるまるちんぶん)」は、社説を「茶説」と洒落のめして天下国家の相貌を論じているように、強権的秩序が貫徹していく時代社会の闇をユーモア、ブラックユーモアで撃ち続けたジャーナリズムです。西郷隆盛が1月30日に政府問責の旗を掲げて鹿児島で挙兵、その翌2月に創刊された「団団珍聞」は、西南戦争をみつめており、9月24日に「新政厚徳」をかかげた西郷が城山で自刃した一件を「雑報」(明治10年9月15日)で辛辣な筆致で描き出しています。

○新政厚徳の大将はおひおひ軍(いくさ)の勝利なきによつてくそやけとなり常に大酒宴(おおさかもり)を催しこんな替歌を作てうたひます

わーが身でさァ変たものは。むかし忠臣今逆臣よ。軍むづかし。いや気の士族。きまらなへぞへ。むやみに死ぬ気。

ある人が何ぼ何でも大勢の味方が討死の中で酒宴とは其意を得ずとまじめで諫めたらおれはモオ遠からず死ぬ気だから酒をのむといひますから夫(それ)はどういふわけだと聞ましたら最後酒宴(さいごうさかもり)だからといひましたとさ

 西郷隆盛は、城山自刃をやけくそになっての「大酒宴」、「最後酒宴」の結末だと。西郷隆盛を「最後酒宴さいごうさかもり」にかさねて表記した思いには西郷の挙兵に対する民の怨嗟が投影されています。

西郷碑文にこめられる西郷「戦生」像

 西郷の死を「顕彰」した碑文は、「鎮西狂賊兵強大権衰之馬鹿(ちんぜいきょうぞくへいごうだいけんすいのばか)」だとなし、その生涯を漢文で認めています。西郷軍は鎮西の「狂賊」であり、「兵強」を指揮する大元帥は「大権衰(だいげんすい)」だと、大権の衰退に気づかぬ「馬鹿」だとなじっています。この揶揄には兵火に巻き込まれた民の怒りが読み込まれています。
 その生涯は、漢文で認められておりますが、読み下して紹介します。

戦生(せんせい)は「窮醜殺魔人(きゅうしゅうさつま)」の人なり。壮にして王家の衰退を慨し。僧某<月照>とことを謀りてならず。ついに相たずさえて身を魚腹に投じ。魚者のためにすくわるところ。僧某すでに死して戦生独蘇せり、しかして初心たゆまず。ますます王事に心を焦がし。しばしば鋒鏑の間に出入りし天日を既傾に回し。

と、「西郷先生」は、戦いに生きた「戦生(せんせい)」だとなし、九州薩摩人を「醜」窮める「殺魔(さつま)」人の生涯だとして、月照との投身自殺、王事への奔走と維新功業なって「功勲卓絶。位正三位に居り。官大将大元帥を辱なう」した後、「冠をかけて故里に帰り。南陽に躬耕し梁父を吟す。気宇恢弘。志操清廉。天下皆な其賢を称す」。故地薩摩に暮らす西郷の心事は、諸葛孔明が泰山の麓にある丘「梁父(りょうぼ)」にまつわる故事、「梁父吟」に託して描かれています。
 その西郷が「今茲(ことし)迷痴(めいじ明治)10年2月大に兇徒を駆卒して。以て士民を殺し、自ら僭して鎮西狂賊兵強大権衰と号す、其の非業の国の沈滞を攻め」、日夜の戦闘となったが「衆寡敵せず、兵士死に尽し、兵糧食い竭し」て敗走、「無念の魂魄すでに星となる。似寄の胴殻有といえども。肝心の雁首紛失せり、戦生昔勤王をもって始まり。今叛逆をもって終る。能く首を匿して郤を見はすとは(あたまかくしてしりかくさず)、おちこちこれを言うか哀しいかな。銘に曰く」

賊名籍世。臭気掩鼻。晦迹尻山。最後如屁(賊名世にしき、臭気鼻をおおう。迹を尻の山にくらまし。最後屁のごとし)

 明治10年は「迷痴10年」だと、西郷軍団は迷い集うた痴者の群れ、「兇徒」にほかならず、「狂賊」だとみなし、西郷の「迷痴」がもたらしたものとみなされたのです。この記事には、薩摩人の決起をして、あの陸軍大将西郷隆盛の迷走とみなすことでしか理解できなかった思いがあり、サビのきいた戯文にこめることでしか吐露できない時代人心の屈折した声がたくされているのではないでしょうか。
 かくまで呪詛された西郷とは何者なのでしょうか。ここに紹介した「団団珍聞」が報じた西郷と西南戦争の記事は、「西郷伝説」として語られてきた西郷隆盛をして、戦火に翻弄された同時代人の目にどのようにみられていたかをかいまみせてくれましょう。国民的な人気の高い西郷隆盛とは、「戦生」なる称号で祀られていますように、時代の幻想を託されて生きたわけで、日本国民の心に何を埋め込んできたのでしょうか。大河ドラマの展開はどうであれ、西郷隆盛にいましばらく付き合っていくこととします。