対談:生存価としての図画工作・美術

横浜国立大学教授 有元典文先生筆者

 コロナ禍における図画工作・美術の役割についてちゃんと向き合いたくなったので、横浜国立大学有元典文先生(※1)をお招きして考えてみました。

アートには「生存価」がある

筆者:今、コロナ禍のもと、図画工作や美術の意味が今一つはっきりしないという状況にあります。例えば、校長先生から「図画工作の時間を削って算数に」と言われて悔しい思いをしたという先生の声を聞きました。一方で、ドイツの文化大臣の言葉を借りて(※2)、図画工作・美術こそ大事だとか声高に主張する人もいます。ただ、理屈が前に立つというか、その人の価値観にすり替えられているというか、どうにも響いてこないのです。
有元:美術やアートについて考えるとき、よく「飯を食うのに不要」と言われますよね。そこは否定しにくいでしょう。でも、その条件についてじっくり考える必要があると自分自身の体験から思い知らされました。私はバンドをやっているのですけど、3ヶ月くらい、練習も毎月のライブもできませんでした。ライブミュージックは、生きることを前にした剥き出しの状況で真っ先に割りを喰ったのです。先日、久しぶりに仲間と会って、みんなでポロポロと楽器を弾いて、歌い出したら……びっくりするほど、脳からなんか出るほど楽しかったんです。おそらく「飯を食うのに不要」だと思えていたのは「音楽を失うことが決してない」と安心していたからでしょう。「失って気付くことがある」というやつですね。この体験から「飯を食うのに不要なはずのアートに生存価(survival value)があるのが人間かもしれない」と思いました。
筆者:アートは「飯を食うのに不要」、それを了解した上で、でも「生存価」がある……どういうことですか?
有元:「生存価」とは、進化心理学の人たちと話していて知った概念です。その「種」の生き残りやすさに寄与する性質のことです。例えば脂肪には「生存価」があり、脂肪の形でエネルギーを蓄えられた方が飢餓に強いでしょう。言語にも「生存価」がありますね。言葉を交わし合えれば、生きるために必要な共同作業の精度が上がるので、その「種」は生き残れます。この観点から言えば、歌やお絵かきはどうでしょう? 「歌わない種」より「歌う種」の方が、「お絵かきしない種」より「お絵かきする種」の方がより生き残っていたとしたら、興味深いですよね。これは「飯を喰うのに不要」の反証になり得ます。「飯を喰うのには不要」だけど「生きるのには必要」なわけです。
筆者:なるほど、目の前の「飯を喰うのには不要」かもしれないが、それだけでは滅びてしまう。人類は、今、共に歌い、共に描く「文化」の中にありますが、それは「歌うことや描くことに生存価があったからだ」ということができるわけですね。

「生存価」を自覚するインプロゲーム

HANDSON:http://www.hxon.net/pepakura/
Johan Scherft:https://jscherft.wixsite.com/website-johan-3/papercraft
筆者:私も、自粛期間中なぜか紙工作に没頭していました。その理由がその時は分からなかったのですが、今考えると誰にも会えない苦しい状況の中で、生存するためだったのかもしれません。「生存価」は実践を通してこそ感じられるものなのでしょうね。図画工作や美術などは、まさにそういう教科で、学習活動では、その都度の瞬間に、材料や私や友達などが成立すること、言い換えれば生きていること、「生存価」がここにあることなどが実感できます。ただ、その「生存価」の必要性を言葉で理解してもらうのは、とても難しいです。私自身、原稿や講演などで、「こういう考え方がある」「こんな実践がある」と講釈を「垂れる」んですけど、それよりも、小さなワークショップで何かつくったり描いたりした方がよほど楽しくて、伝えたいことも伝わるような気がします。大事なことは「実践」を通して理解したほうが早いというか……有元先生も「インプロ」(※3)を通して、学習や発達について考察されていますよね。
有元:横浜国立大学でも対面の市民講座が始まって、担当する私は、奥村先生から伝授された「ラウンドスケッチ」(※4)を使いましたよ(笑)。あれは楽しいし、「他の人間のいる意味」が直感できて素晴らしいです。「主体」を個人ではなく「個人間のアンサンブル(協働作用)そのもの」だと考えることに役立ちます。そういうことって、頭でわかる人もいるんでしょうが、身体でわかって心で理解できるのがいいと思うんですよね。このことは、「インプロゲーム」でずいぶん経験しました。「インプロ」というのは「どうやればいいか前もって分からない」(ロブマン、2016)ような、共同的で創造的な即興演劇のことです。例えば、二人の人間が一人の人間として息を合わせて発話する「ワンボイス」というゲームでは、「主体性のアンサンブル性」が体感できます。ぜひ試してほしいのですが、二人でペアになって、何かに近付いて、それを指さして、その名前を言うだけなんです。ただ、相談なしにぴったりと声をそろえて行うのは難しくて、腹を抱えるほどおかしい。同時に、アンサンブルの一員として意思決定し行動すること、さらにその喜びを味わうことが分かります。このゲームを通して、「私」という主体が共同的に達成されることが意識化され、可視的になれば、その人は共同性に貢献することを積極的に目指せるようになるでしょう。日々が発達環境になるし、人が共同し合う社会そのものが学校になるし、また教科書にもなります。「インプロゲーム」を始めて、いろんなワークショップに参加して、そのころ感じたセンセーションについては、短い文章にまとめています。ヴィゴツキーを引き合いに出して「学習は共同だ」と書きましたので、詳しくはそれを読んでください(※5)
筆者:なるほど、「ラウンドスケッチ」や「インプロゲーム」のような活動を実践すると、人間は共同的に成立することは、すぐに実感できますね。一方、言葉だけで理解することの困難さはどうでしょうか。

図画工作・美術は修行?

有元:私や奥村さんは長く状況論的に世界や実践や教育・学習を眺めてきたので、この世を主客不分離にみる練習を積んできたのだと思います。主客不分離というのは、主体と客体、見るものと見られるもの、働きかけるものと働きかけられるものの関係が、主→客のような要素にはバラせない、ということです。しかし現代人の理解の根底にある素朴な主客分離可能主義、要素還元主義、物心二元論は非常に強力ですね。教育学部の学生にしても、校内研でお話しする先生方でも、世界・子ども・教育・能力等を主客不分離にとらえるのは難しいです。
筆者:大学で図画工作科の学習指導案の書き方について教えますが、学習指導案自体が、要素に還元して説明するメディアですよね。材料、用具、児童の実態、学習指導要領など、その題材が成立する要素を細かく分解して、その上でそのつながりを考える。教師の手立てが子どもにどのような効果があるかを考える。そんな練習を積めば積むほど、要素の関係は明確になって「分かったような気」になるのですけど、一番大事なことが忘れ去られていくように感じます。
有元:デカルトのせいなのか(笑)、言語の文法の影響なのか、そもそも人間の脳がそうなのか、人は世界を因果律(コーザリティ)でとらえます。要素が意味をつくる、と。少なくとも子どもの学びを説明したり、指導案を作ったりするときはそうなりますね。一方、ホルツマン(※6)先生は、tool-for-result(原因があるから結果がある説)ではなく、tool-and-result(原因と結果の弁証法)でとらえることを人間理解の基底に置こうとしています。「因→果」というのは自然科学ではそういう事象が多いかも知れないけど、人間の場合はそんな単純ではないですよね。「因←→果」のように、因果は弁証法的一体だと思います。例えば、結果が原因を作ることもよくあることです。
 A:「こんにちは」
 B:「ふんっ」
Aさんの発話の意味はBさんの発話によって遡って規定されます。事件を知った後に、あの時の行動の意味を理解した、みたいなバックワードの理解はいくらでもあります。
筆者:Bさんは何かAさんに怒っているのですね。Aさんはそのことに、今、気付いたのかもしれないし、そもそも何かの問題を解消しようとして「こんにちは」と働きかけているのかもしれない。少なくともBさんの発話の後は「こんにちは」が「普段の挨拶」のままではいられないですね。
有元:教育は特に因果を個体内に設定しがちですよね。○○だから△△できる/できない、とか。以前、質的心理学辞典(※7)の「個体主義パラダイム」の項目に以下のような例を書きました。

認識や行為の参照枠を個人に設定した場合に「花子が自転車に乗れた」と記述され得る事態は、参照枠を広げ、事態が埋め込まれた状況が見渡せるようにカメラをズームアウトした場合、「花子が自転車に乗れた、という事態が観察可能(可視)になるような、補助者、仲間、人工物、課題の構造を含む状況がそこに成立している」と表現される。

筆者:教育の成果や発達は、つい、子どもがどうした、どうなったと個人に閉じ込めて語りがちですけど、ちょっと引いてみれば、それを成立させる多層で多様な資源のリゾームがありますよね。でも、なぜか、その資源は不問にする傾向があります。子ども中心主義というか、何でも子どものすばらしさで済ませようとする。でも、それでは本当のところ指導もできないし、指導案も書けない。
有元:私がヴィゴツキーに帰依したのは、できるできないが「個人内」ではなく「個人間」の問題だからです。これは特別支援教育では基本的なことですよね。個人の出来なさにスポットライトを当てるというのは、今や相当筋の悪い昭和の教育手法だし、それでは教育実践を前に進めることはできないと思います。学びや発達の因果律的理解には期待はできません。ヴィゴツキーのたとえを借りれば、水は「酸素」と「水素」という構成要素に分解できるけれども、「火を消す」という性質は、この要素還元では説明できません(※8)。水の性質は、水そのものとして見るしかないのです。人間の発達を理解するためにも、その場で起きていることを丸ごととらえる視点が大切です。「物事は同時に起きる」というか、「私が世界に働きかけるという見方はしない」というか、「私と世界は同時に成り立っていく」というか……大学の講義で共同作業を主に行う理由を、学生には「人生はグループワーク(Life is group work.)だから」だと説明していますが、その「ライフ・イズ・グループワーク」という見方が、鮮烈に、身体と心で理解できるのが「ラウンドスケッチ」であり、即興で共同のいろんな「インプロゲーム」なのだと思います。
筆者:なるほど。コロナ禍で自分自身の成立自体が怪しくなって痛感しましたが、人が成立することは「あらかじめ分かり切った因果律」に従うことではないですね。少なくとも図画工作や美術が担っている役割は、そこではない。実践を通してこそ「生きる力」を身に付けるというか、学校でイヤというほど行う「因→果」のような指導ではなく、多様な資源とのアンサンブル、ジャズやロックのインプロビゼーションのような即興性を通して「因←→果」を実感する、それこそが「生存価」なのかもしれませんね。
有元:悟りのための修行ってあるじゃないですか。頭でいくら考えてもわからないので、修行という手法をとるわけです。すると、図画工作や美術は悟りのための修行といえるかもしれませんね!!(笑)
筆者:いいですね、それ! 今まで誰も「美術は修行だ!」とかいいませんでしたよ(笑)。頭で分からない、言葉で伝わりにくい、でも美術実践という修行で、人の共同的な成立や、社会を生きる力をつくる……まだまだ、深く考えてみたいテーマですね。

※1:有元先生との出会いは、ある雑誌の論文でした。明快な論理に目が覚めるような思いをしたことがきっかけです。それ以来『初等教育資料』に原稿をいただいたり、美術科教育学会で講演していただいたり、いろいろな場で一緒にお仕事をさせていただいています。コロナ禍のもと、図画工作や美術は何を求められているのか、対談を通して、何かヒントを得たいと思い、登壇いただきました。有元典文「教育のチューリング・テスト」『現代思想6月号 特集 教育に何ができるか 状況論的アプローチ』青土社、1991、pp.157-165
※2https://note.com/hasebehiroshi/n/naa206880e815
※3:インプロは、インプロビゼーション(Improvisation)の略。以下に詳しい。香川秀太・有元典文・茂呂雄二編「パフォーマンス心理学入門—共生と発達のアート」新曜社、2019
※4:学び!と美術<Vol.78>「ラウンド・スケッチ~人気の鑑賞アクティビティ」2019
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art078/
※5:有元典文「論説 教育において殻を破り自分を広げるべきは誰か?―いっしょに生きる技術としての発達の最近接領域―」『女子体育vol.59-6/7』日本女子体育連盟、2017、pp.12-15
https://ci.nii.ac.jp/naid/120006344914
※6:ロイス・ホルツマンはアメリカの発達心理学者。インプロの実践と分析を通して、インプロの集団のアンサンブル性にもとづいた、個体主義的能力観や二元論の批判などをおこなっている。
※7:能智正博・香川秀太・川島大輔・サトウタツヤ・その他編『質的心理学辞典』新曜社、2018
※8:水素はそれ自体が燃えるし、酸素はものの燃焼を助け、そのどちらにも消火能力は備わっていない。

異端の鳥

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 2019年の東京国際映画祭のワールド・フォーカス部門で、「ペインテッド・バード」というタイトルで上映された「異端の鳥」(トランスフォーマー配給)は、やっとこのほど、一般公開を迎える。
 宣伝のチラシにはこうある。「戦火を逃れ、少年はたった一人で、人間の悪意に対峙する――。モノクロームの圧倒的な映像美で描かれる、3時間の驚異の映画体験!」とある。まさにその通り。
 原作がある。ポーランドの作家、イェジー・コシンスキが、1965年に発表した「ペインティッド・バード」である。世界じゅうで翻訳され有名になった小説だが、ポーランドでは発禁、コジンスキ自身は後に自殺している。映画にしたのは、チェコののヴァーツラフ・マルホウルで、たぶん日本で一般公開されるのは、これが初めてではなかろうか。
 一言で言うと、美しいけれど、凄まじい映画だ。眼を覆いたくなるような凄惨な場面もいくつか示されるが、それほど、人間の抱える心の闇や、人種差別、性をも含めた暴力などが、存在するからだろう。逆に、舞台となった東ヨーロッパの自然や風景が、ゆったりと美しく描かれていく。
 全体は9つの章からなる。場所は特定されてはいないが、東ヨーロッパのどこか。時代は第二次世界大戦のさなかである。ドイツ兵やソ連兵が出てくるが、あくまでも、場所の設定は「ある場所」だ。
 ひとりの少年(ペトル・コトラール)が追っ手から逃れているのか、森のなかを走っている。少年は、同じ年代の少年たちから、ひどい仕打ちを受ける。
 「マルタの章」が始まる。黒い瞳で、黒い髪、色黒の少年は、叔母に預けられている。まわりの人たちは、金髪で白い肌だ。少年は、村人や子どもたちから、ひどいいじめにあう。ある朝、叔母が亡くなる。おどろいた少年は、持っていたランプを落としてしまい、火事になる。粗末な家は燃え尽きてしまう。
COPYRIGHT @2019 ALL RIGHTS RESERVED SILVER SCREEN ČESKÁ TELEVIZE EDUARD & MILADA KUCERA DIRECTORY FILMS ROZHLAS A TELEVÍZIA SLOVENSKA CERTICON GROUP INNOGY PUBRES RICHARD KAUCKÝ 「オルガの章」。村人たちから少年への、ひどい仕打が続く。病気や怪我をおまじないで治療するオルガが、少年を救い、引き取ることになる。オルガの助手となった少年は、高熱にうなされる。オルガは、少年の熱を下げようと、少年の顔だけを残して、土の中に埋めてしまう。カラスが少年を襲う。顔が血にまみれる。最悪の事態の寸前、オルガは少年を救う。この治療が効いたのか、少年の熱が下がる。ある日、少年は、また村人に脅され、激流の川に落ちてしまう。
 「ミレルの章」。なんとか命をとりとめた少年は、粉屋のミレル(ウド・キアー)の元で働く作男に救われる。少年は、ミレルの妻から、亡くなったという子どもの服を譲り受ける。ミレルは、妻を見る作男の視線に嫉妬し、作男にひどい暴力をふるう。雨の中、驚いた少年は、ミレルの家を飛び出す。
 「レッフとルドミラの章」。少年はレッフ(レフ・ディブリク)という鳥売りと知り合う。レッフは、一羽の鳥に白いペンキを塗り、空に放つ。ペンキを塗られた鳥は、ほかの鳥たちから攻撃され、少年の目の前に落ちてくる。差別は人間だけでなく、鳥の世界でも存在する。レッフの妻のルドミラ(イトカ・チュヴァンチャロヴァー)は、近くに住む少年たちを誘惑する。少年の母親たちは、ルドミラにリンチを加え、殺してしまう。悲しんだレッフは、自殺する。
 「ハンスの章」。少年は、森の中で、脚を怪我した馬と出会う。少年は、馬を村まで連れていく。ちょうど、村ではコサックの男たちが宴会を開いている。少年は、呑めない酒を無理矢理に呑まされ、倒れてしまう。少年は、村人たちから馬車に乗せられ、ドイツ軍の駐屯地に送られる。「ユダヤ人を届けにきた」と。少年の始末を付ける兵士が募られ、ハンス(ステラン・スカルスガルド)がその任務にあたる。ハンスは、顎をしゃくって少年を逃がし、空に銃を放つ。少年の生き残りをかけた旅は続く。少年は、射殺された人のカバンの中から、パンを見つけ、生き延びる。
 「司祭とガルボスの章」、「ラビーナの章」、「ミートカの章」、「ニコデムとヨスカの章」と、少年の悲壮な旅は続く。敬虔な司祭(ハーヴェイ・カイテル)に救われたかと思うと、信者のガルボス(ジュリアン・サンズ)から虐待される。ラビーナからは性的虐待を受ける。戦争孤児として、やっと少年は、ソ連軍の駐屯地で保護される。親切な狙撃兵のミートカ(バリー・ペッパー)は、少年に銃をプレゼントする。
COPYRIGHT @2019 ALL RIGHTS RESERVED SILVER SCREEN ČESKÁ TELEVIZE EDUARD & MILADA KUCERA DIRECTORY FILMS ROZHLAS A TELEVÍZIA SLOVENSKA CERTICON GROUP INNOGY PUBRES RICHARD KAUCKÝ 戦争が終わる。たくましく生き抜いた少年は、もはや、以前の少年とは、まったく別の人間に成長を遂げている。
 もちろん、寓話である。人間の持つ残虐さが、さまざまな形で表現される。虐待、差別、暴力、殺戮などなど。そんな状況でもなお、生き延びる少年の逞しさと、いろんな意味での成長が、説得力たっぷりに描かれていく。
 世の中の差別、暴力に対する深い憤りが読みとれる。人間の持つマイナスの部分が、見事にあぶりだされる。思えば、ユダヤ人だけでなく、いろんな人種差別が歴史として存在する。いまのアメリカも、ひどい人種差別がまかり通っている。日本の国会議員ですら、明らかな差別発言を平気でしている。
 戦争の悲惨さ、残酷さは、歴史をひもとくまでもない。世界のあちこちに難民がいる。異端の鳥は、どの時代、どの場所にも存在するし、ペンキを塗られた異端の鳥は、ひどい迫害を受ける。人間もまた同様で、これが、世界の現実なのだろう。
 映画の成功は、少年を演じたペトル・コトラールを見出したことだろう。ほとんど喋ることのない、極端に少ないセリフである。ペトル・コトラールは、さまざまな表情と、身体全体での仕草で、見事に演じ切ってしまう。少年の出会う人物に扮した俳優は、映画界の大物揃い。ドイツ生まれのウド・キアー、ポーランド生まれのレフ・ディブリク、スウェーデン生まれのステラン・スカルスガルド、アメリカ生まれのハーヴェイ・カイテル、イギリス生まれのジュリアン・サンズ、カナダ生まれのバリー・ペッパーと、文字通り、国際的だ。よくぞのキャスティングに、モノクロ映像の鮮やかさ。脚本、監督のヴァーツラフ・マルホウル、会心の一作だ。
 およそ、人間とはいったいどういう存在なのか。2時間49分の長い映画だが、学ぶこと、多々。

2020年10月9日(金)より、TOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー

『異端の鳥』公式Webサイト

監督・脚本:ヴァーツラフ・マルホウル 『戦場の黙示録』
原作:イェジー・コシンスキ「ペインティッド・バード」

キャスト:ペトル・コラール、ステラン・スカルスガルド、ハーヴェイ・カイテル、ジュリアン・サンズ、バリー・ペッパー『プライベート・ライアン』、ウド・キアー
2018年/チェコ・スロヴァキア・ウクライナ合作/スラヴィック・エスペラント語、ドイツ語ほか/169分/シネスコ/DCP/モノクロ/5.1ch/R15
原題:The Painted Bird
字幕翻訳:岩辺いずみ
配給:トランスフォーマー
原作:「ペインティッド・バード」(松籟社・刊)
後援:チェコ共和国大使館
日本・チェコ交流100周年記念作品