〈子ども―作品―題材〉

 作品や題材とは何でしょう。作品が完成すれば題材も終了、学力の発揮と成長はできたわけですから、役目は終了でしょうか? 本稿では、一つの作品が自分の夢と固く結びつき、今も生き続けている事例を通して考えてみたいと思います。

12年後のわたし「溶接女子ゴー」

奥村(以下奥):もし、タイムマシンで、これをつくった頃の自分に出会えたら、なんと言いますか?

 今治工業高校機械造船科3年生の村井珠夏さんは即答しました。

珠夏さん(以下珠):今のまま、溶接女子目指して頑張れって言います。

 そう話す彼女の前には、小学校の頃つくった作品があります。題名は「溶接女子ゴー」。溶接工場で働く未来の自分の姿です。お母さんへのあこがれと、溶接の道に進みたいという思いから製作しました。
 10年前、急逝した珠夏さんの祖父が請け負っていた仕事の納期を守るために、お母さんは図面も読めないゼロの状態から溶接工場を引き継ぎました(※1)。幼い珠夏さんは、工場の事務室で宿題をしたり、近くで遊んだりしながら育ちます。珠夏さんにとって、お母さんの姿は「かっこよくて、楽しそう」でした。小学校4年生のとき珠夏さんは溶接の道に進もうと心に決めます。そして、小学校6年生の時、未来の私を粘土でつくる「12年後のわたし」という題材に出会います(※2)。友達は何をつくろうか迷っていましたが、珠夏さんはすぐにこの作品に取り掛かりました。

作品を訪ねて

 作品は、「第44回えひめこども美術展」に入選し、長く自宅の応接間に飾られていましたが、あるきっかけで今治を紹介するTV番組に用いられました(※3)。私たちは、その番組で珠夏さんの作品に出合い、もっと作品について詳しく知りたい、題材の意味を探りたいと思い、取材に向かったのです。

奥:作業服の膝や腰などに茶色を入れているのは?
珠:座って仕事をするからそこが汚れます。
奥:肩やタンクの白い部分は?
珠:溶接の光が反射しているところです。

 作業着の色やダメージ、床の鉄板など、一つ一つの色には明確な意味がありました。ところどころに塗られた白は光の反射を表しています。溶接の際には、強いアーク光が出ます(※4)。その光は工場全体をまばゆく照らします。この作品には、空間全体が溶接の光で輝いている様子も表されていたのです。本人に尋ねなければ分からないことでした(※5)

奥:握っているのは?
珠:溶接のトーチで、指はスイッチを抑えています。
奥:左手は?
珠:溶接用の手持ち面(※6)を握っています。

 一つ一つの形にもすべて意味があります。右手と左手は道具をしっかりと握り、人物の視線は溶接場所の一点を見つめています。片膝をつく姿勢は、溶接する手元がぶれないように体を安定させるためです。フランジ(※7)や取っ手は正確にタンクに「溶接」されています。足元のハンマーはフランジの角度を修正する大事な道具で、リールには溶接ワイヤーが巻かれています。自宅の近くにある工場を訪ねると、トーチ、フランジ、ハンマーなど全て同じ道具がありました。その工場で、幼い珠夏さんは溶接の光で影絵遊びをしたり、作業用のチョークで床の鉄板に落書きをしたりしていたのです。
 この作品について「今、どう思うか」と尋ねると、珠夏さんは次のように答えました。

珠:本当は(・・・)帽子をかぶらないといけないので、そこを直したいです。

 この作品をつくって4年後、珠夏さんは造船科に進みます。帽子以外は、今、この作品通りの作業服姿で溶接に取り組む毎日を過ごしているのです。7月末には溶接の四国大会が行われます(※8)。2枚の鉄板を制限時間内に溶接するのですが、準備の的確さ、ふるまい、仕上がりの美しさなど細かく採点されます。珠夏さんはそのために毎日学校で練習をしています。その姿について、担当の藤田先生はこう語ってくれました(※9)

珠夏さんは本当に頑張り屋さんです。部活と学業の両立も頑張りました。今、溶接を頑張っていますが、頑張り過ぎないように配慮するのが私の仕事ですね。周りの友達からも頑張りは認められていて、部活を引退した男子が応援団といって、勝手に片付けや準備を手伝ってくれるほどです。

 珠夏さんは、造船科初めての女子生徒、友達や先生たちに支えられながら、楽しく学校生活を送っているようです。

作品は、かけがえのない縁起

 本作品には、祖父の病気とお母さんの頑張り、工場や溶接の道具、幼いころ珠夏さんが過ごした時間など様々な資源がつまっています。明るく笑うお母さん、珠夏さんを見守る先生や友達など多くの人々が作品を支えています。「えひめこども美術展」や地域の図画工作教育(※10)、「造船の町」今治市(※11)などともつながっています。それらすべての資源が織りなす縁によって「溶接女子ゴー」は生まれ、そして今も、珠夏さんの夢と結びつきながら、生き続けているのです。
 それは、この作品だけのことではありません。同じことが、全ての子どもたちの作品に言えるのだろうと思います。子どもたちが思いを込めて「未来のわたし」を表す。それは、子どもたちがそれまで生きてきた経験や家族、学校や地域など様々資源をもとに豊かな縁を紡いだ結果です。決して作ったら終わりではなく、様々な縁とつながりながら、今も意味を持ち続けているはずです。それが6年生の終わりを飾る「12年後のわたし」という題材なのでしょう。

 子どもの作品や題材には、「この作品をつくったら、このような学力がつく」という因果だけでなく、多くの縁起が含まれています(※12)。その子の思いや願い、経験や友達との交流、人々の支えや地域などの縁によって作品は生まれ、題材は成立します。
 そうであれば、目の前で行われている学習を作品づくりや学力育成だけでとらえるのは、あまりにもったいないでしょう。想像を膨らませながら子どもたちの世界をとらえ、作品の生まれる様々な縁を感じる必要があるのだろうと思います。そうすることで、先生と子どもたちは、一緒になって、もっと図画工作や美術の豊かさを楽しめるのではないか、そんなことを感じる取材でした。

 「学び!と美術」も、福島大学の天形先生から引き継いで、ちょうど10年となりました。これまでのように筆者が様々なテーマをエッセイ的に書くというスタイルは今回で終了します。今後は、より読者のニーズにあった企画を実施し、新しい著者も加わって連載していきます。

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編著:奥村高明、有元典文、阿部慶賀
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<学び!と美術 関連リンク>
■有元典文先生との対談
Vol.98 対談:生存価としての図画工作・美術
Vol.99 対談:ともにかなでる教育実践
■阿部慶賀先生の書籍を紹介
Vol.103 「ひらめき」が生まれる授業

※1:それから10年、お母さんは評判のよい職人さんとして活躍しています。
※2:「12年後のわたし」『図画工作5・6下 見つめて 広げて』日本文教出版 pp.46-47(2015)
※3:NHK総合、小さな旅「船が生まれて~愛媛県今治市~」2022年5月29日放送
※4:服や首元が開いていると日焼けするほど紫外線や赤外線を含む強い光がでます。
※5:子どもの作品を見るときには、絵から分かることは「ほんの一部」に過ぎないことを踏まえておく必要があります。奥村高明「子どもの絵の見方―子どもの世界を鑑賞するまなざし」東洋館 p.77(2010)
※6:紫外線や赤外線を含む強い光から目や顔を守る面。
※7:フランジ(flange)とは、タンクと他の配管などをつなぐツバのこと、円形が多く、接合するための出っ張り部分全体をフランジと呼ぶことが多い。
※8:取材後、第11回四国地区高校生溶接技術競技大会で今治工業高校は団体優勝、珠夏さんは個人第3位入賞(全国大会出場)、さらに全国選抜高校生溶接技術競技会(第6回溶接甲子園)では優秀賞(2位)に輝き、大会史上初めて女子で上位3位に入りました。
https://www.ehime-np.co.jp/article/news202208070008
※9:愛媛県立今治工業高等学校 機械造船科 科長 藤田誠人先生
※10:愛媛県は図画工作教育に熱心な県として有名です。
※11:今治市は愛媛県北部、高縄半島の先端にある人口約15万人の都市、タオルの生産量は全国生産高の60%、湾の両岸には14の造船所が並び、200件の造船業、一万人以上が船をつくっている「タオルと造船の町」です。
※12:作品を「○○さんがつくった見事な作品」というような「個体主義」でとらえることには慎重であるべきでしょう。

ファシリテーション

(※2022年6月執筆)

 過去に大流行したスペイン風邪などは3年経つと公衆衛生の徹底や集団免疫ができ収まったようですが、新型コロナの感染もようやくピークを越えてきたようです。マスクの着用や海外への渡航制限なども緩和され通常の生活が戻りつつあります。
 そのような中、ロシアが突如としてウクライナに侵攻し、住宅・学校・病院などをことごとく破壊し、多くの罪のない一般市民を虐殺するという国際法にも抵触する前時代的な蛮行を行っています。このような行為に対して世界中から非難の声が沸き上がり、ウクライナへの支援が起きていますが、ロシア国内では多くの国民がプーチン大統領を支持し、さらに世界にはロシアの侵攻を認める国もあります。
エミール・デュルケム 
写真提供 ユニフォトプレス
 フランスの社会学者で教育学の分野においても多大な功績を残したエミール・デュルケムは著書『道徳教育論』の中で「過去や現在を問わず、われわれの教育理想は、その細目にいたるまで、じつは社会のなせる業なのである。われわれが則るべき人間像を画いて見せるのは社会であって、社会組織のあらゆる特性は、この人間像のうちにいきいきと反映されているのである。」と述べています。
 ロシアの侵攻は国際社会のなせる業であります。我々は、世界平和を具現化するには、人間はどうあるべきか社会を通して考えていかなければならないと思います。
 参考までにデュルケムは著書の中で、道徳的な生活の根底をなす基本的なものとして3つの道徳性を上げています。

①規律の精神…………道徳的行為には規則性が認められる。規則には従わなければならない権威があり、人間は自己抑制の義務が必要である。
②社会集団への愛着…道徳的行為は個人を超越した集団目標である。すなわち社会的存在としての活動である。
③自律の精神…………道徳規則には命令性とともに自発性がある。自由意思によって受け容れられることが必要である。

 ロシアの侵攻が早く終了して、ウクライナが平和な生活を取り戻すことを、切に願っています!!

 さて、今回は前回の中で出てきた教師のファシリテーションの在り方について、実践事例をもとに進めていきたいと思います。

1 ファシリテーション

「今回は宿題となっていた道徳の授業におけるファシリテーションについて考えていきましょう。」
道子「ロンドン大学の教育研究所に留学した先輩が、これからの先生は教えることよりも生徒の学びを支える良いファシリテーターにならなければいけないと話していました。」
「皆さんはどう思いますか。」
真理「学習指導要領が求める『主体的・対話的な深い学び』を進めていくには、ファシリテーションは必要なスキルだと思います。」
「ファシリテーターは会議や議論がうまく進むように、議事の進行を管理する人のことだから、生徒が『対話的な学び』を行うためにはファシリテーションは必要な授業技術だが、道徳の授業にいつも必要とするかな……?」
「響君が言うように、ファシリテーションは会議を効果的に行うための働きかけのような支援をする技術のことですが、現在では幅広い分野で応用されています。教育の分野では、学習において生徒が持つ考えや能力をうまく引き出したり、こんなことをやってみたらどうですかと投げかけたりして学習の進行を促進する技術として使われています。」
道子「進行を促進する技術以外にどのようなものがありますか?」
「以前学んだ話し合いのルールや進め方(Vol.16を参照)を設定することもそうではないかな。」
「そうですね。ほかにありますか。」
「コミュニケーションスキル!」
真理「コミュニケーションは、先生にとって当然必要なスキルでしょ。」
「……。」
「確かに生徒に問題を投げかけ対話したり、生徒の活動や発言を称賛したりする声かけは大切ですね。」
道子「コミュニケーションスキル以外にはどのようなものがありますか?」
アーヴィン・D・ヤーロム 
写真提供 ユニフォトプレス
「生徒が学習しやすい活動形態、班活動のメンバーや人数、活動時間などの設定をすること。そして、生徒の学習活動を支援し促進していくために、構造化された学びのプログラムの作成などがあります。スタンフォード大学の精神医学者であるアーヴィン・D・ヤーロムはファシリテーターの役割として、次の4点を挙げています。
1.配慮(支援、受容、関心、賞賛)
2.意味づけ(説明、解釈、枠組みの提示)
3.情緒的刺激(自己開示を迫る、挑発)
4.実行機能(目標設定、時間管理)
この4点で、1と2は徹底するが、3と4は無理強いをしないと述べています。」

2 事例研究

「それでは実際に授業でどのようにファシリテーションすればよいか考えてみましょう。皆さんは『夜のくだもの屋』という教材を知っていますか?」
「合唱コンクールの練習で遅くなり、暗い夜道を一人、合唱曲を歌いながら下校する女子中学生に対して、店を開けて道を明るく照らしているくだもの屋さんのおばさんの心温まる話ですね。」
真理「思いやりへの感謝を主題にした教材です。」
「一般的に道徳科の授業は、まず教材を読み、教材の内容について考え、話し合い、主題とする価値に気づき、納得し、自己を振り返り、自覚を深めますが、この流れの中でどのようにファシリテートするか考えてみましょう。」
道子「教材を読むときは先生が範読して、生徒は黙読しますが、何かすることがあるのかな……。小学校では場面絵を黒板に貼ったりしますが。」
「それは教材への関心を高める配慮ですね。範読する前に中学生の少女とくだもの屋のおばさんの絵を貼り、二人に注目して読むように指示すると二人の関係について理解が深まりますね。」
真理「なるほど、主題について考えるヒントになる!」
「発問についてグループで話し合うときのルールを決めておくこと以外にどのような支援があるかな?」
真理「班の人数を4人にすると活動に参加しない生徒がいなくなると実習で学びました!」
「生活班からメンバーの構成を考えて新たに道徳の学習班をつくることもあります。」
道子「主題とする道徳的価値に気づかせ、納得させるにはどうすればよいですか?」
「中心発問としてくだもの屋のあかりの本当の理由を知ったときの少女の気持ちを考えたり、話し合ったりすることでねらいに迫りますが、生徒の理解力や発達の段階などにより難しいことがあります。そのために、補助発問として夜道を一人歩く時の気持ちやくだもの屋のあかりを見た時の少女の気持ち、そして見舞い物を買いに行ったとき少女が思わず息をのんだ理由などを用意します。また、ワークシートに友だちの意見の欄を作り、話し合いで良いと思った友だちの意見を書かせることにより、自分とは違う考えがあることや自分の考えの問題点に気づかせたり、道徳的価値とそれにもとづく道徳的行為に納得させたりすることもできます。」
道子「自覚を促すために、展開の終盤で自分自身の考えや行為を内省させることがありますが、授業が白けてしまいます。どうすればよいでしょうか?」
F・コルトハーヘン 
写真提供 ユニフォトプレス
「反抗期の中学生に『あなたはどうですか』と自己開示を迫る取組はヤーロムが述べる情緒的刺激であり、無理強いする必要はないでしょう。それよりも、『人の思いやりに気づくには何が大切か』と中心発問とは別視点から考えさせるような工夫をするとよいでしょう。最近、ユトレヒト大学のF・コルトハーヘンが述べるリフレクション理論の『Do』『Think』『Feel』『Want』の視点で授業を振り返らせ、自分に求めること(Want)を『今日学んだこと生活の中でどう生かしたいと思いますか』と考えさせる方法も使われています。」

 今回の「ファシリテーション」はいかがでしたでしょうか。多くの先生方は意識せずに行っていることもあると思いますので、一度あらためて授業を振り返ってみてはいかがでしょうか。なお、最後に取り上げたコルトハーヘンの「リフレクション(振り返り)理論」は、教育(評価、教員の授業力の向上など)、看護、保育、スポーツ、企業の人材育成など様々な場面で、より深い、より主体的な学びを引き出す方法として近年活用されています。

【参考文献】

  • 「道徳教育論」著:エミール・デュルケム/訳:麻生 誠、山村 健/講談社学術文庫/2010年5月13日
  • 「図解 組織開発入門 組織づくりの基礎をイチから学びたい人のための「理論と実践」100のツボ」著:坪谷邦生/ディスカヴァー・トゥエンティワン/2022年2月18日
  • 「リフレクション入門」編:一般社団法人 学び続ける教育者のための協会(REFLECT)/著:坂田哲人、中田正弘、村井尚子、矢野博之、山辺恵理子/学文社/2019年1月30日

障害者の人権と教育(その3) 「個人モデル」と「社会モデル」を考える

①障害者問題に関わる「個人モデル」と「社会モデル」

 障害者の権利条約で提起されている重要な捉え方の一つが「個人モデル」と「社会モデル」です。大学の授業などでこの二つの違いを説明すると、ときとして「理解しにくい」という声が出てきます。そこで、どう説明すればわかりやすいだろうかと考えてきました。
 「障害の個人モデル」とは、「障害は個人にあるのであって、その個人側のくふうや努力、治療などによって解決するべきものである」という考え方のことです。それに対して「障害の社会モデル」とは、「障害は社会の側にあるのであって、社会の側のくふうや努力、改革などによって解決するべきものである」ということになります。
 多くの場合、わたしたちが暗黙のうちにイメージしているのが「個人モデル」で、結果として、わたしたちは障害者に対して「あの人には障害がある」と「上から目線」で見てしまいやすいのではないでしょうか。問題の根っこはこれです。わたしは、障害の「個人モデル」と「社会モデル」を説明するときに、次のような例を出すことがあります。

②駅のホームまで上がる思考実験

 Aの図を見てください。車椅子を使っている人が駅の改札を入り、階段の下にいたとします。周りにエレベーターなどはありません。このような場面を見ると、わたしたちは「ああ、この人は車いすユーザーだからホームに上がれないんだ」と思う場合が多いのではないでしょうか。この場合、わたしたちは「この人には障害があるから……」と思ってしまいやすいのではないかということです。
 では、次のBの図のような場合はどうでしょう。
 ある駅では、改札口とホームの間に階段がなく、5メートルほどの絶壁だったとします。こういう場面に出くわしたら、わたしたちは多くの場合、「なんという駅だ」と、駅の方に問題があると思うのではないでしょうか。ここでは、「わたし」の側に問題や障害があるとは、ほとんどの場合、思いません。
 けれども、もしもわたしたちのほとんどには翼があって、必要ならばパタパタとホームまで軽々と飛べるとしたら、この絶壁はその人たちにとって問題ではないことでしょう。その場合、問題は、二足歩行しかできず、羽ばたいて飛べない「わたし」の方にあることになります。これがC図です。
 これは思考実験でしかありませんが、このことからわかるのは、階段というのは、二足歩行する人への配慮から生まれたものだということです。階段付きの駅では、二足歩行の人には配慮があるのに、車いすユーザーには配慮がないということになります。
 石川准(静岡県立大学国際関係学部教授)さんのように、こういう状況を「配慮の不平等」 と呼ぶ人がいます。「配慮の不平等」とは、こんなふうに、いわゆる健常者にはたくさんの配慮がある一方で、障害者にはほとんど配慮のない状態をさしています。階段の他にエレベーターがあれば、二足歩行する人には物理的に言って選択肢が二つということになります。それに対して車いすユーザーには選択肢が物理的には一つしかないことになります。

③「個人モデル」と「社会モデル」

 Aのような状態で「車いすユーザーに障害がある」と考えるのが「障害の個人モデル」の発想です。Bのような状態で「駅が絶壁構造になっているのが問題だ」と考えるのが「障害の社会モデル」の発想だということになります。
 要するに、現在の「個人モデル」に立った社会は「健常者」中心にできていて、配慮が不平等になっている。「社会モデル」に変えていってすべての人が利用できるようにすることによって、ようやく社会が公平な場になるという考え方です。
 このモデルが前提としているのは、すべての人には、電車などを利用して自由に移動する権利があるということです。それにもかかわらず対応していないというのは、社会の側に問題(障害)があるということです。「障害の社会モデル」や「配慮の不平等」という概念を参考にすると、「移動の自由」という人権を前提とすれば、二足歩行する人たちに対しては階段という配慮があるのに、車いすユーザーにはその配慮がないということがハッキリしやすく、これが二足歩行する人間にとって特権となっているということが、わかりやすいのではないかと思います。

④女性差別と重ね合わせて

 安心して電車に乗れるということで言えば、女性専用車両が話題になることがあります。女性のなかに痴漢被害に遭うなどして電車に乗るのが不安だという人がいます。電車に乗って安心して移動することがわたしたちみんなの権利としてあるなら、痴漢の根絶は社会的課題と言えるはずです。わたしたちの社会は、痴漢根絶に向けて動いています。その途上に出てきているのが、女性専用車両です。これは、痴漢根絶という問題意識で言えば、根絶にはほど遠く、ほんの入り口にでしかない施策です。痴漢する人がいることによって、冤罪をかけられるのではないかと、男性も安心して電車に乗れなくなっています。痴漢と誤解されないようにあれこれと配慮しながら乗っているのです。今求められているのは、女性専用車両の是非を問うよりも、痴漢根絶には何が必要かを考えることではないでしょうか。わたしたちに共通の敵は、痴漢をする人であり、それを助長している社会です。女性対男性という枠組みで考えると問題がずれ、課題解決から遠ざかるように思えます。
 女性差別との関連をさらに広げて考えてみましょう。妊娠や出産をどう捉えるかという問題です。
 たとえばある企業では、「女性は妊娠・出産すると能率が下がるから退職してもらおう」というルールを明文化していたとします(現在の社会で、このようなルールを明文化している企業はごく限られていると思います。現在では、「明らかに差別」とみなされるからです)。このような会社では、生理もなく、妊娠も出産もしない男性だけを社員と想定してルールを作っていることになります。他にも、「家事や育児は女性の仕事で男性はする必要がない」といった考え方の問題もあります。
 もしも、「毎日20時間を労働時間とする」というルールの企業があったとしましょう。余暇や休息の時間はありません。睡眠時間は1日あたり2時間程度にならざるを得ません(このような企業は限られているでしょう。労働基準法に明らかに反するからです)。そのような会社があったとしたら、仮に労働基準法を知らなかったとしても、男性社員も怒るでしょう。そんな労働条件で働ける人はほぼいないからです。けれども、もしもわたしたちのほとんどが1日2時間睡眠で疲労がとれ、全く問題がなかったなら、この労働条件は問題にならないかもしれません。
 さきの「個人モデル」と「社会モデル」でいえば、女性を排除するような労働条件を当然視しているような企業は、いわば出産について「個人モデル」で制度が作られていることになります。そのような企業にとって、出産は個人の事情であり、出産する女性の側に問題があるのです。それに対して、生理があり、妊娠・出産しても何ら不利になることがないようなルールを持っている企業があるとすれば、それは出産について「社会モデル」に即してつくられている企業だということになります。そのような企業は、「出産というのは、わたしたちの社会が存続する上で不可欠である。だから、妊娠や出産は本人たちが安心して決められるようにする必要がある。しかも男女を問わず働く権利がある」という考え方に立って経営されていることになります。
 女性が出産しなくなったら、社会は存続しなくなりますから、この想定はさほど極端ではありません。日本では女性が生涯にわたって出産する子どもの数(合計特殊出生率)が2019年に1.36人となっています。これは、もしもこの数字が続いたら、500年後には日本には、和人系日本人が100万人しかいなくなるぐらいの数字なのだそうです。その後、合計特殊出生率は2019年よりも下がって、1.30ぐらいになっていますから、この減り方はもっと大きいことになります。「これは女性のストライキだ」とみることもできるかもしれません。

⑤「医療モデル」「福祉モデル」「人権モデル」

 このように見てくると、「社会モデル」の考え方は障害者以外にも当てはめることが可能であり、その前提には人権という考え方があると改めてわかります。ここで取り上げた例で言えば、移動の自由、就労の権利、出産や育児の権利(性と生殖の権利)などです。そこで、「社会モデル」を「人権モデル」と呼ぶ方が的確ではないのかという意見 が出てきます。
 また、さきに上げた駅の階段などについては、直接的には身の回りの事柄だけを指しており、これは社会全体を変えようというよりも、すぐ身の回りにある環境だけを変えればよいという発想にもつながりかねません。人と人との関係で言えば、周りの人が障害のある人に配慮して行動できるようになればよいという発想に止まりかねないということです。「社会モデル」というのは、もともと社会全体を人権という考え方に立って作り替えようとするものだったはずです。そうだとすれば、身の回りにある施設・設備や、周りにいる人という資源だけに依存する考え方とは一線を画すと言ってよいでしょう。そこで、周りの人との人間関係も含めて、身の回りをおもに問題にする考え方のことを「福祉モデル」と呼ぶことがあります。
 「個人モデル」については、もともと提案されたときから「医療モデル」という言い方と並べられていました。
 実は、この「医療モデル」「福祉モデル」「人権モデル」という言い方に、わたしは障害者問題以外の場面で出合ってきました。それは、「子どもの商業的性的搾取 」という文脈です。1990年代、「フィリピンやタイなどの国に日本などいわゆる先進国の男性が出向き、現地で子どもの性を買っている。これを根絶させよう」という運動が始まりました。その取り組みの一環として、わたしはフィリピンに向かい、現地でフィールドワークをしたのですが、そのなかでフィリピン大学の取り組みに出合いました。ここでは、そのフィリピン大学の取り組みの中から、ここに関連するところだけを取り上げます。
 子どもへの性的虐待や性的搾取の被害から回復をめざす取り組みでは、「医療モデル」から活動が始まりました。心や体の傷をケアするという取り組みです。それに対して、回復にはまわりの資源を活用することが大切だという立場が表れました。これが「福祉モデル」です。この二つは、被害に遭った子どもたちに着目し、その子どもたちを何とか支援しようとする考え方でした。それに対して、フィリピン大学の人たちは、さらに一歩進めて、子どもたちの権利保障を前提として社会全体を変えようとする立場に立とうとしていました。彼らはこれを「人権モデル」と呼んでいました。
 わたしには、子ども虐待という問題に関わるこの進展と、障害者問題に関わる進展とが重なり合って感じられます。そして、この枠組みは、他の様々な問題に広がっていくといえます。

【参考・引用文献】
・星加良司(東京大学大学院教育学研究科付属バリアフリー教育開発研究センター准教授)「障害者における『移動の平等』」(logmi Biz)
・大阪府ウェブサイト
・森実「CSEC(シーセック)を知っていますか」(ヒューライツ大阪ウェブサイト『国際人権ひろば』 No.41 2002年1月発行号)

Webマガジンまなびと:「学び!と人権」Vol.15

Webマガジン:「学び!と人権」Vol.15 “障害者の人権と教育(その3) 「個人モデル」と「社会モデル」を考える” を追加しました。